二ノ一

 許すまじ。
 利根は、そう思った。

 利根がその噂を耳にしたのは、日課の釣りを終え、談話室に帰ろうと扉を開いた、その瞬間であった。そこそこの釣果を持ち帰ったその時に、談話室での話し声が聞こえてきた。ただそれだけ。

 曰く、幌筵島の柏原警備府を閉じ、択捉島の天寧鎮守府に北方防衛の拠点を移す、と。

 自分でも半ば信じられないほどの衝撃を、利根は受けた。それが誰の声か、部屋にいたのが数人だったにも関わらず、わからないほどだ。なぜそのような衝撃を受けたのか、自分でもわからない。しかし、それだけは受け入れることができない。なんとしてでも、これは阻止しなければならない。利根は、そう直感した。
 利根は、直感を大切にする人間である。言い換えれば、じっくり考える、ということが苦手であった。艦娘になって以来、ずっとそうだ。今回だって変わらない。柏原警備府を閉じる、というそのことを受け入れられない、と感じられたならば、それに抗議をする。それは、ごく自然な反応だと、利根は考える。
 ゆえに利根は、一目散に駆け出した。
 一言でも、何か言ってやらねば気が済まぬ。


「一体どういうことか、説明をお願いしたい!」
 打ち壊さんばかりに扉を蹴り飛ばす。利根の面前では、榛名がキョトンとした表情で机から顔を上げている。部屋の脇で書類整理をしていたとおぼしき叢雲も、すっかり固まっている。
「利根、どうしたのですか?」
「この警備府が廃止になるという話は、本当なのか?! お伺いしたい!」
 遅れて、皆が階段を駆け上がる足音がけたたましく響き渡る。利根はしかし、意に介さない。
「何のことですか? 利根、落ち着いてください」
「これが落ち着いていられるか! 吾輩たちの住処が奪われるかもしれ……」
 がしり、と利根の肩が強く掴まれ、引き戻される。利根はたたらを踏んだ。
「何をする! 吾輩が話しておるのじゃ!」
「何をする! ではありませんわ! あなた、何をしているのかわかっていまして?!」
 キッと振り向くと、熊野である。らしくない、焦ったような怒ったような表情でそこにいる。
「吾輩等には、この話を聞く権利があるじゃろう?!」
「だからといって、提督執務室に怒鳴り込んで良い道理はありませんわ!」
 わいわい、と後ろに人が集い始める。一体何事かと興味津々な伊勢に、喧嘩はまだかと楽しそうな磯風、不安そうな表情なのは龍鳳くらいだろう。
「ちょっと、一体なんの話ですか? 全く、話がつかめないのですが」
 そして、話が解せないという表情なのが榛名。本当に、何が何だか、まるで事情が知らされていないようだった。
「きちんと説明して頂けますか?」

「話を総合すると、この警備府が廃止になるという噂が、かなり広まっているということですね」
 もともとそれほど広くないこの警備府のこと。すわ何事だ、とばかり、気づけば殆どの艦娘が提督執務室に集まり、廊下にまで溢れている。来ていないのは、翔鶴くらいだろうか。
「それだけ広まっておるならば、海軍省(赤レンガ)はそう考えているに違いあるまい……」
「私は、所詮、流言蜚語の類と考えますわ」
 すぐに熊野が言葉を被せてくる。
「これまで、軍の人事や政策に関わることが、噂として流れてきたことはあるまい? それが流れてきたということは、やはり何かの事実を指し示していると思うが」
「それが逆におかしいですわ。軍の情報がそう簡単に漏れるわけありませんもの。そう考えれば、こんな噂、信用に値しないことはいうまでもありませんわ」
「しかし、じゃ。このような噂が回っておるのは紛れもない事実じゃろう? なれば、その真偽を確かめるべきでないか?」
 先から何かと噛み付いてくる熊野を、利根は睨みつけた。しかし、熊野は全く動じない。
「わざわざ確かめることもありませんわ。そもそも……」
「ほら、そこまでだ」
 熊野を遮るように割って入ったのは、日向である。
「ここで争っても仕方ない。そもそも、榛名さんも忙しいのだろう?」
 な? と日向が視線を榛名に向ける。何やら思案顔だった榛名も、その声に小さく肩を驚かせた。それから正面で睨み合う二人を交互に見る。
「……とりあえず、私が幾つか当たって、何が事実かは確認しておきます。今日のところは、それで収められますか?」
 利根はひとまず頷く。さらにいえば、そのようなことは認められないと、一言付け加えて欲しかった。しかし、それを煩く訴える場でないくらいは、わかる。
「了解しましたわ」
 同じように悔しさを滲ませつつ、熊野も頷いた。
「では、ひとまず解散だ。ほら、見世物は終わったぞ。さっさと行け!」
 続いた日向の言葉で、場はひとまず収まった。

「利根!」
 と、そう簡単に問屋は卸さない。
「先程のは何ですの? 少し自分勝手に過ぎますわ」
 談話室に入るや、熊野が言葉を投げつけてくる。
「そなたこそ何じゃ! 先から、いちいち水を差しおって!」
 散りかけていた艦娘たちが、その目線を二人に合わせる。
「今の行動が、いかに常識外れなのか、わかりませんの? ろくにノックもせずに上官に怒鳴りつけるなんて、普通なら軍法会議ものですわ」
「緊急事態じゃったのじゃ。それは仕方ないというもの」
「緊急事態? どこが緊急事態ですの?」
「この幌筵から警備府がなくなるのじゃ。これを緊急事態とせず、何を緊急事態と言う?」
 熊野の言葉は、あまりに楽観的に過ぎる。どうして、ここまでこの噂に鈍感でいられるのか。
「警備府がなくなるから、何だと言うのです?」
「……は?」
 利根は耳を疑った。
「警備府がなくなれば、私たちは新たな赴任先に行くだけではなくて? そこに、何の問題がありますの?」
「な……!」
 利根は絶句した。熊野の言葉は、利根には全くの想定外だったのだ。
「熊野さんは、この幌筵なぞどうでもよいと、そう仰られるのですか?」
 絶句した利根に代わって、ひときわ低い声で述べたのは不知火だ。す、と利根の隣に現れる。
「ここに警備府があるかどうかは、海軍省のお偉方が決めること。私達には関係のないことですわ」
「関係がない?」
「ええ。私達は艦娘。兵士ですわ。上の命令を聞きこそすれ、歯向かう道理はないとおもいますが」
「ではお主は、死ねと言われれば死ぬのか?」
 利根は、睨みつけたまま問い返した。
「お主は、いかに理不尽な命令を受けても、それを遂行すると、そう申すのじゃな?」
「ちょっとお待ちなさい。それとこれとは……」
「どこが、話が違うというのです?」
 熊野の言葉に被せて、不知火が続けた。
「"我々の"幌筵を、"我々の"警備府を、手放せと、そう海軍省(赤レンガ)は言っているのですよ? それを理不尽と言わずして、何だというのです?」
「貴女たちこそ、何を言っているか、わかっているのですか? 我々の幌筵? 一体いつから、ここがあなたたちのものになったというのでしょう?」
「命を懸けてこの島を守ってきたのは、我々に他なりません。そして、多くの艦娘が、我々の戦友が、この島のために命を落としました。違いますか?」
 不知火の言葉は、いつも以上に淡々としている。
「だからなんだと仰るのですか? 先ほども言いましたけれど、私達は兵士ですわ。皇国を守る兵士なのですから、その皇国の一部である幌筵を守るのは当然のこと。ですから、島にこだわる理由にはならないのでなくて?」
「じゃが……」
 論理的には、その熊野の言が正しいのだろう。しかし、利根には、その言は受け入れられない。何故か。何故だろうか。
「じゃが……! この島からは、離れられぬ!」
 筑摩の顔が浮かぶ。機関を損傷し、艦隊より脱落する利根に向けた、筑摩の優しい笑顔が、脳裏をよぎる。筑摩は、死地に向かうとわかっていて、なお最後まで笑顔だった。
「いい加減になさいまし! それではまるで、子供の我侭と変わりませんわ」
 半分呆れたような熊野の言葉。しかし、熊野は言い募る。そう、筑摩は――。
「筑摩は……、あの第五艦隊の皆は、この島を守って戦ったのじゃ!」
「ですから、それは」
「そして、温禰古丹に沈んだ! あの冷たい海に沈み、今もそこに眠っておる!」
 ざわり。利根の言葉に、口論を見守る艦娘達も互いに顔を見合わせる。
「吾輩は、その皆を置いて、この島を離れることはできぬ!」
 そう。利根は確信した。筑摩は、"そこ"にいる。ずっといるのだ。それには、自分が寄り添ってなければならない。あの日、損傷して一人置いていかれた自分は、温禰古丹に眠る皆とともに、あらねばならない。
「それは……」
 熊野は、あっけに取られたようにややのけぞって見せて、しかし強く拳を握りしめた。
「それは、私事に過ぎませんわ! いえ、利根、あなたの願望、我侭に過ぎませんのよ!」
「なん、じゃと……?!」
「確かに、温禰古丹海峡には、多くの英霊が眠っていますわ。ですが、彼女たちは、あくまでこの御国(みくに)のために戦ったのでしてよ。国命に背いて英霊とともにいる、なぞ、英霊の冒涜に過ぎません」
 熊野の語調は、ひときわ辛辣だった。語尾に似合わぬほど、苛烈な言霊となって、利根を突き刺す。
「そうでしょう? そもそも、英霊は靖国にあるもので、沈んだ場にあるものでもありません。沈んだ場所に、何の意味があるというのです?」
「それは、聞き捨てなりません」
 不知火が、一歩前に出る。
「陽炎は、皆は、神になぞなってはいません。あの場に、今も眠っているのです。国のため? そんな笑わせることを言わないでください。皆は、皆の為に戦ったのです!」
「それこそ聞き捨てならない言葉ですね、不知火。艦娘は国のために戦うもの。私なぞというものは、捨てねばならぬものですわ」
 さらり。熊野の言葉は、苛烈だが落ち着いている。不知火は、やや黙る。
「……温禰古丹も知らぬ癖に」
 次にでた言葉は、もはや反論ではなかった。ひときわ低い声で、不知火が言を放つ。まるで、唸るような声に、辺りが凍りつく。
「なっ……!」
「大した戦場も見たことがないから、そんな綺麗事が言えるのです」
 熊野は、一瞬その言葉に固まって、それからぱっと顔を()く染めた。
「あ、あなた方こそ、艦娘としてあるまじき危険思想の持ち主ですわ! 軍令に背くは、帝の勅令に背くも同じこと。それこそ非国民としか言えませんわ!」
「なんじゃと! 吾輩らを、言うに事欠いて非国民と……!」
 利根は、一歩踏み出した。熊野もまた、一歩も引かずに、その透き通った水色の瞳で、利根を突き刺すように睨みつけてくる。
「そうでありませんこと? 軍の統帥は帝の大権、それに服さぬとあらば、不敬としかいえませんことよ!」
「許しません……!
 ぐっ、と不知火が拳を握り締める。
「不知火、それはいけません!」
 横の秋月が、慌てたようにその腕を取る。
「離せ!」
「不知火、あなたは上官を殴りますの? 本当に、あなたは軍の秩序を何だと」
「熊野さんも、いい加減に」
 龍鳳も、熊野の腕を引っ張っている。
「……文字通り、命をかけて戦って来た我々に、非国民と侮蔑を投げておいて、軍の秩序などと抜かしおって……!」
 利根には、その侮蔑が許せない。これまで、どれだけの地獄を見せられただろう。どれだけのものを失って来ただろう。もはや、利根には数えることができない。数えてはならないものさえ、失ったのだ。
 しかれば、非国民の謗りを受ける道理なぞ、いずこにもないはずだ。利根の働きは、褒められこそすれ、貶されるものではない。しかし、熊野は、違わず利根を指し、非国民と言い放ったのだ。
「三人とも落ち着きなさい! ここで殴り合っても、解決しません!」
「どけ、大淀! 吾輩は、その世間知らずの姫様気取りだけは許せぬのじゃ!」
 正面に仁王立ちする大淀に手を掛け、強く大淀を押しのける。大淀は動かない。
「どかぬと怪我をするぞ!」
 さらに強く、押しのける。
「どけぇ!」
 利根の叫び。空気がひときわ張り詰めた。

「通してあげればいいんじゃないかしら?」

 利根がいよいよ踏み込み、喧嘩が始まる直前の一瞬。その刹那に、声が割り込んだ。
「決着するまで、外ででも殴り合ってくればいいんじゃない?」
 翔鶴である。安楽椅子に座ったまま、暖炉をぼんやり眺めている。
「ですが」
「互いにそれだけの暴言を吐いていて、今更でしょう」
 大淀が困惑したように、翔鶴と利根との顔を見比べている。
「それに、発言の責任は取るものよ。自分の行動の責任は、最後まで自分で担うべきね。熊野も利根も不知火も、殴られるだけのことを言ったのだから、仕方ないわよ」
 しれっ、と翔鶴の言葉は冷たい。
「三人とも覚悟してるんでしょう? 仮にも、軍人の誇りを汚すようなことを言ったんだから、殺されても文句言えないわ」
「殺されても、って……」
「だってそうでしょう? "命な惜しみそ、名をこそ惜しめ"って言うじゃない」
 淡々と話す翔鶴は、視線を宙にやって、まるで興味でもないかのよう。
「だから、やるなら最後までやればいいと思うわ」
 しかし、それにしては物騒過ぎる言葉だ。いくら怒ったとはいえ、同じ鎮守府の艦娘を殺そうと思うほど、利根はぶっ飛んではいない。不知火もまた、そう言われてしまっては拳を振るうに振るえない。ただ、そこに立ち尽くし、熊野を睨んでいるのみだ。
「……申し訳ありませんわ。そこまで言うつもりはありませんでしたの」
 すっと大淀の脇に現れて、熊野が頭を下げた。深々と下げるその姿は、彼女らしく綺麗な挙措だ。
「えっと、そうじゃな……」
 謝る相手をさらに殴るようなことは、利根にはできない。不知火にもできないようで、思わず顔を見合わせた。
「こちらも、色々と言い過ぎたのじゃ。本当にすまぬ」
「上官に向かっての暴言の数々、誠に失礼いたしました」
 二人揃って、また頭を下げる。ようやく張り詰めていた空気が、ゆるやかな安堵感に包まれた。
「では、これで手打ちということで、よいですか?」
 大淀の合図に、三人起き上がると、軽く頷く。
 勿論、思うところは山のようにある。だが、ああ言われて、本当に命のやり取りをするわけにもいかない。それに、翔鶴の驚くような過激な言葉が、かえって利根の頭をやや冷やしたところがある。確かに、自分の言葉は、熊野に対して失礼だっただろう。
「一度解散しましょう。三人とも、自室で頭を冷やしてくるのがいいわ」
 大淀の言葉に、利根はまた頷く。とりあえず、自分の部屋に戻って、しばし落ち着かねばなるまい。

 曰く、その噂は所詮噂に過ぎず、海軍省(赤レンガ)にもそのような動きは見られない、と。それが翌日、食堂にて榛名の宣言した内容だった。
 榛名はわざわざ海軍省に確認を取った上で、択捉島・天寧鎮守府の赤城にも連絡し、いずれからもそのような事実はない、という返答を受け取ったらしかった。もし、そのような計画が存在するならば、天寧へ連絡が行っていないはずがない。ゆえに、その天寧の赤城が知らないというならば、そのような計画は存在しない。そういうことらしかった。
 しかし利根は、その言葉そのものよりも、それに続いた榛名自身の言葉が、心強かった。

「この警備府は、私達第五艦隊にとっての家です。私達にとって、何に代えても守るべきものです。それは、常に変わりません」

 その宣言は、榛名もまた移転閉鎖を拒否する、という決意表明にほかならない。
 それは、何よりの味方である。提督である榛名が移転を拒否してくれるならば、仮に計画が存在しようが、立ちゆかなくなることは必定である。
 利根一人で反対しているのとは、わけがちがうだろう。

 その宣言を聞きながら、利根は思うのだ。
 これで少しは、妹に報いることができただろうか、と。



二ノ二

 六月の北千島には霧が出る。これから夏中悩まされる、千島の海霧である。
 国境警備に出た磯風たちもまた、千島名物の濃霧に包まれて、すっかり気が滅入っていた。
「こちら叢雲。現在位置、北緯51度06分57秒、東経155度41分7秒。天候濃霧、異常なし。これより叢雲・磯風の両艦は、西北西に針路を取り、所定地点に向かいます」
《こちら神通。了解しました。気をつけて航海してください》
 叢雲の通信する声が聞こえてくる。相手は神通である。本来は、ともに海上にあるべきところ、巡洋艦を出撃させるだけの燃料を欠きはじめたため、神通が柏原で指揮を執っている。なお、榛名は今日非番で、柏原市街地の方の公宅にて休息しているはずだ。提督だけは、公宅がある。
「ということだから。目標点までは、あともう少しね」
「了解」
 磯風は、軽く応じる。残念ながら、ソ連領海を見通すことはできない。それどころか、3m程離れただけで、叢雲の姿はぼんやり。
「しかし、この天気は本当に気が滅入るな」
 磯風は溜息ひとつつく。
「北千島はそういうところよ。第一、こうして海に浮かべているだけマシじゃない」
「それはそうだがな。最近は、駆逐艦であったことに感謝しているくらいだ」
 軽巡さえこの様である。燃料を食う戦艦や空母は、もうほとんど動くことがない。この間は、あまりの暇さに伊勢が暴れていた。
「あんたは動いてないと死んじゃいそうだもんね」
「何を失礼な。人をワーカホリックみたいに」
「ワーカホリックじゃないけど、戦ってないと死んじゃうじゃない。ウォーモンガーさん」
 けらけら、と叢雲が笑う。それについては、磯風も否定できなかった。
「しかし、今日はひときわ濃いな。こうも霧がひどいと、電探も哨戒機もロクに役立たん」
 艦娘にしても深海棲艦にしても、所詮2m程度の大きさしかない。これを拾う電探は、対一般艦船のものとはまったく別物だ。霧の中では、水滴に邪魔されて機能しなくなる。
「水路部からは、この霧は西に進んでるみたいだと来てるわ」
「西、か」
 霧中の航行にはとにかく気を使う。現在位置を常に意識しつつ、電探の結果や地図情報、航行速度や舵の向き、さらに視覚や聴覚を駆使して、ようやく前に進める。通常航海から比べれば、情報処理の量ははるかに多い。
「我々が西に進路を取っているわけだから、要するに霧を追いかけてるということだな。残念だが、今日は一日霧中航行演習ということのようだ」
「帰りは晴れると思うわよ。東から晴れて来てるから。東に向かった響と不知火の二人は、もう抜けてそう」
「羨ましいこと極まりない」
 一面の白い世界に二人の艤装に付属する霧笛の甲高い音だけが響く。
「かといって、サボるわけにはいかないでしょう。こういう時こそ、不意に敵が現れるものよ」
「やめてくれ、縁起でもない」
 と口でこそ述べた磯風だが、どこかでそれも面白いのでないか、とも思っている。もし、敵が現れれば、こんな暇な日も終わる。ああ、確かに自分は、紛うことなき戦闘狂(ウォーモンガー)だ。
《……ちら、第い……い駆逐艦ひび……》
 そんなことを思った直後の入電に、思わず磯風は叢雲と顔を見合わせた。霧で電波の入りが悪い。慌てて、いろいろ調整する。
《……ら第一ぶ……く艦響。現……標、北緯51度1分43秒、東経156度18分21秒。天候曇り、異常なし》
 比較的のんびりした響の声。定時連絡のようだ。
「ぷっ」
 叢雲が噴き出す。なんだか、緊張したのが馬鹿らしい。大声をあげて、二人で笑った。


 霧は相変わらずオホーツクの海を覆い尽くし、磯風たちはただその霧の世界を進んでいた。叢雲と二人、まるで世界から切り離されてしまったような。
「そういえば、この間のアレなんだけど」
「アレ?」
 叢雲の問いが何を指すのか、磯風にはすぐにはわからなかった。
「ほら、警備府が閉鎖になるとかなんとか言ってたアレよ」
「ああ、アレか。それがどうしたんだ?」
 もう二週間近く前の話である。決着した話にも思うので、今更と言う感じもあるが。
「いや、磯風はどう思ってるのかな、と思って」
「どうもなにも、警備府閉鎖はない、って話ではなかったか?」
「そうだけどね。でも、あれ以来、"そういう空気"じゃない?」
「そうか?」
 磯風には、警備府や艦隊の空気が変わったようには思えない。
「そうよ。何か、浮ついてる気がするわ。皆、自分がどうなるのか、何処と無く不安なのよ」
「うーん?」
 磯風にはわからない。
「あんたに聞いた私が悪かったわ」
 叢雲の呆れ顔。よく見る表情である。
「ま、いいわ。それで、どうなのよ?」
「どうなのよ、と言われてもだな……」
「ほら、なんか思ったことくらいあるでしょ? あんだけの大騒ぎだったんだから」
 叢雲がしきりに急かしてくる。何か、少しらしくないような気もする。
「そうだな……。折角なら、もっと派手な喧嘩を見たかった、というくらいか」
「あのねぇ」
 叢雲の呆れの色が濃くなった。もちろん、叢雲の聞きたいことがそこにはないことくらい、磯風もわかっている。
「そうは言ってもだな、政治の難しい話は磯風にはわからん」
「わからん、って、そういうわけにはいかないでしょ。というか、何か聞いてないの?」
「何か、なぁ……。大和さんも、その噂を海軍省から聞いたらしい、というくらいか?」
「え、大和さん? 何それ、初耳なんだけど」
「私も一昨日聞いたばかりだ。だが、大和さんも確証高い情報だと思っていたようだったな」
 そう言うと、叢雲はやや黙り込んだ。話が違う、とでも思ったのだろう。
「しかし、それも所詮噂だ。結局、今と状況は大して変わらんさ」
 いくら大和が中枢に近かろうが、辞令がなければ噂でしかない。騒いでも、仕方がないのだ。
「……それも、そうね」
 叢雲も観念したようで、小さく首を振った。
「それで、磯風、あなた自身はどうなのよ? 賛成とか反対とか、それくらい、あるでしょう?」
「特にないな」
 政治のドロドロした話は、磯風のもっとも嫌うところ。それに、人の機敏にも不得手だから、とにかく関わらないに越したことはない。磯風はそう考えている。
「いやいや、なんかないの?」
「ないものはない。さっきも言ったが、そういう難しいことは、磯風にはわからんからな」
 言い切った。そういう、政治的な判断は、得意な人がすればいいのだ。
「それより、叢雲はどうなんだ? この磯風なんかより、ずっと思うところが多かろう?」
「いや、そうなんだけど」
 何か叢雲は少し言いよどんだ。
「正直、私もわからないのよ」
 その言葉は、叢雲らしくない、歯切れの悪さである。
「幌筵から離れろ、という言葉には、強烈な拒否感を覚えるわ。やはり、あの地獄が頭をよぎるのよ。そこまでして守ったものを手放せるかと言われると、ね」
「温禰古丹、か」
「ええ。結局、全てそこなのよ。今でも、時折夢を見るの。空を埋め尽くす、敵艦載機をね」
 ああ、と磯風は頷くだけ。磯風は、それを見ていない。それに共感するのは、無理だろう。
「でも、だからと言って、"反対!"と声高に叫べるわけでもないわ。だって、ただの私的感情じゃない」
「それも、そうだな」
 呟くように話す叢雲は、心底悩んでいるようだった。
「だから、磯風の意見を聞きたかったのだけれど」
「叢雲がわからぬと言うのに、磯風が答えを出せるはずもないな」
 と、言うしかないのだ。
「そう」
 叢雲は、やや落胆気味に声を落とす。
「だが、一つだけ言えることがあるように思えるな」
 だからか、磯風は思わず言葉を継いでいた。
「我々はまだ先が永い。それこそ、気も遠くなる程にな。その間、ずっと同じ場所に居続けることは、不可能だろう」
 我々は兵器だから。艦娘である限り、寿命は優に常人を数倍する。
「それは」
 叢雲は、その先に言葉を続けなかった。
「とはいえ、そのうち気分が変わるかもしれぬし、そんなに悩むことではあるまい」
「それもそうね」
 叢雲へ、言葉は届いただろうか。

 白い世界を、たった二人で進んでいく。切り裂く波も、ついてくる航跡も全てが白く、ただ自分と叢雲と、その二つだけが落とした絵の具のようにぼんやりと色がある。
「あら、羨ましいわね。どこか行く予定はあるの?」
 先の続きで、二人は他愛もない会話を続ける。何となし、沈黙は、磯風には重すぎる気がした。
「菊水会で、次は鹿児島に行こう、って言ってるんだ。指宿の砂風呂とか、坊津とか」
 菊水会とは、戦艦大和を中核に、艦種を超えて集まる勉強会である。大規模演習でたまたま班として編成され、かつその演習で大敗したのをきっかけにして、主に艦娘による海戦戦術論、とりわけ対空母戦を学ぶ勉強会を開くようになった、という次第。
「へぇー。あんたら、仲良いわね」
「矢矧さんや霞が仕切り役やってるからな。お陰で、いろんな企画が次から次へと立つんだ。あと、大和さんがわりと楽しみにしてるらしい」
 そういう勉強会は、だいたい誰かが音頭を取らねばなくなるもの。だが、大和の人望と、矢矧や霞の面倒見の良さも手伝って、その会が長続きしている。戦局好転後は、合宿と称して全国各地に行くようにもなっている。そんな許可をどうやって取っているのか、磯風は知らない。
「羨ましいわねぇ」
「叢雲も来るか? ご自由にお誘いください、ということなんだが」
「やめとく。私も一応秘書艦だから、幌筵をそうそう離れるわけにはいかないわ」
「榛名さんなら、許可してくれるんじゃないか?」
「それはそうだけど……」
 叢雲は、なんとなしに言いよどんだ。
「なにより、菊水会という集まりに、入っていけそうにないし。あなた達、仲いいじゃない」
「そうか?」

《……ちら、響! 領海内を航行する不審物体発見! 距離……3200、全長0.5、人型の模様!》

 唐突の通信が、会話を遮る。咄嗟に通信機を手に取る。
《こちら神通。響は警告を、不知火は再度不審物の確認を行ってください》
 全く焦りを感じさせない、いつも通りの神通の声。磯風は、叢雲とアイコンタクトを取る。いつでも、反転できるように。
《こちら不知火です。……不審物体、速さ13.8kn(ノット)にて南西へ航行中。電探の反応は……》
 ややの沈黙。叢雲の表情が強張っている。
《反応は、艦娘を示しています。ソ連のウルガン級警備艦です》
 ソ連艦。想定内ともいえるし、想定外ともいえる。
《神通了解しました。響は停船を命じてください。操艦は、不知火に任せます》
 神通はあくまで冷静だ。ここに至って全く動じていないのは、流石である。
《念のため、叢雲・磯風も、該当海域に向かってください。ただし、ソ連領海への警戒は怠らぬように》
「叢雲、了解しました」
「磯風了解。なお、現状維持ならば60分で不審物体と会合予定」
 咄嗟に地図を見やって、述べながら、舵を左に切る。
「何が、どうなってるのかしら」
 叢雲が首を傾げているが、考えても仕方がないだろう。わかるのは、ソ連艦が日本領海に入り込んで来ている。それだけなのだ。

《こちら榛名。こちら榛名》
 一向に晴れぬ霧の中を進んでいた磯風の通信機が、やや意外な声を響かせた。
《九水戦の指揮権は、1623(ヒトロクフタサン)を以て、神通よりこの榛名へ移譲されました。以後は、この榛名の指示に従ってください》
「磯風、了解しました」
「叢雲了解です」
 ことここに至って、大事と成り果てた。非番だったはずの榛名へと指揮が変わったこと。それが、何よりの証拠であろう。
《それでは、早速ですが、響・不知火とも、艤装を戦闘態勢に移行してください》
 続いた言葉は、いつになくはっきり告げられた言葉であった。
《ちょっと、ちょっと待ってください!》
《どうしたのです? 響》
《それは、彼女たちを撃てと、そういう》
《そうです。相手の意図によっては、我々はそれを挫かねばなりません。響の言いたいこともわかりますが、最悪の事態には備える必要がありますから》
 榛名の言葉は、有無を言わさぬような低めの口調だった。普段の甘い声からは大違いの、人を寄せ付けない声である。
 要するに、ソ連艦を榛名は敵だと考えているようだった。相手が何の意図を持っているかはわからない。しかし、明確に日本に敵対する行動を取っている。故に、敵だ。
 そういうことなのだろう。
《……You are intruding into Japanese territorial sea.》
 続いた響の警告放送は、明らかに声が沈んでいた。

「……気が進まないわね」
 こちらも、早晩武装をする旨の命令が出るだろう。
 そう思って魚雷の設定を弄っていると、叢雲がそんなことを言った。
「そうか?」
「誰も言わないけれど、ソ連艦なら、マガダンから来たことになるわよね?」
「まあ、そうなるな」
「ということは、やはり」
「グロームかザルニーツァだろう」
 ソ連海軍の配置が変わっていなければそういうことになる。マガダンで、演習した相手だ。
 そう告げると、叢雲は明らかに落胆したように、肩を落とした。
「やはりそうよね。気が重いわ」
「?」
 今回は近接戦闘で波は低め、と魚雷の感度を設定する。敵を確実に沈めるには、こういう条件に合わせた設定が大切なのだ。あたっても起爆しなかったり、航跡で敏感に炸裂してしまったりしては、意味が無い。
「だって、マガダンで散々世話になったじゃない。その相手に、最悪銃口を向けるのよ?」
「それはそれ、これはこれ、だろう?」
「そんなに簡単に割り切れないわよ。この間、あんなに仲良く話をしたわけじゃない」
「そんなものか?」
 磯風には、むしろ叢雲の感覚の方がわかりにくい。
「平和な時には、笑って手を携えればよいし、やむなき事情で戦闘に至れば、力を尽くして戦う。そういうものだと磯風は思うが」
 正々堂々、力を尽くすことこそ、恩義に報いるもっともよい手段だ、と磯風は考えている。知り合いだから、良くしてもらったから、と手を抜くのは、相手への礼儀を欠いている。
「……つくづく思うけど、あんた生まれる時代間違えてるわよね」
 その発想はほとんど古代人よね、と。感心してるのだか馬鹿にしているのだか、わからない言葉。
「でも、そう割り切れるのはあんたくらいよ。少なくとも、響はそんな風には割り切れるわけないわ」
 そんなものか、と磯風は思う。
 まだ、霧は深い。


《こちら不知火。敵が変針しました。現在位置、北緯50度52分19秒、東経156度17分12秒。針路を北西へ変更。敵との距離3400。どうやら、逃げ切る算段のようです》
 事態がやや展開を見せたのは、45分ほど後であった。バックでは、響の流暢なロシア語が聞こえてくる。しかし、マガダンで聞いた時と比べると、何か急かされるよう。
《了解です。響、不知火両艦は、距離2500まで接近し、警告射撃に移ってください》
《不知火、了解しました》
 不知火の声は、いつも以上に感情を感じさせない。それが、戦闘前の不知火である。不知火はもはや戦う気だ、と磯風は直感する。
《……響?》
 ちょうど、ロシア語の定型句が一周した所。響は、しかししばし黙ったままであった。
《……Да.》
 間のあいた響の返答がロシア語なのは、ロシア語での警告を行っていたからだろうか。
《叢雲、磯風。両名は、艤装を戦闘態勢へ移行の上、相手の頭を抑えてください。細かい操艦は、磯風に一任します》
「磯風了解しました」
 狩れ、と。榛名はそういった。敵を捕らえよ、と。ならば、全力を尽くすだけだ。早速、敵との会合地点を再計算し、舵を切る。
《北緯51度を越えるようならば、撃沈も許可します。くれぐれも、逃さぬように》
 撃沈。叢雲がギョッとして、通信機を取り落としかけている。
《そこまでする必要があるのですか!》
 珍しく響の怒った声。
《彼女たちは、領海に侵入したとはいえ、それ以上の何かをしたわけではありません。いくら警告を無視しているとはいっても、撃沈までは》
《領海内に侵入している時点で、同情の余地はありません》
 榛名も、いつになく冷たい。磯風は、やや意外である。磯風は、榛名を優しい人だと思っていた。積極的に狩りに行こうとする自分が言うのも難ではあるが、榛名が響の心情を全く考慮しないのは、驚きでさえある。
《……いくら日本領海とはいえ、他国の軍籍にある艦娘を撃沈してよい、とする法はありません》
《同様に、領海内に侵入した他国の艦娘を保護せよ、という法もありませんよ。響、これは軍令です。従わないならば、反逆とみなします》
 今度こそ、磯風は本気で驚いた。反逆? そこまでの言葉が、榛名の口から出ようとは。
《ですが!》
 と、そこで響の通信が唐突に途絶えた。
 やや沈黙。霧の中、波を切る音だけが、耳を打つ。
《失礼しました。不知火です》
 まもなく、打って変わって冷静沈着な声が流れてくる。
《響もわかってくれたようですので。撃沈の件、了解しました》
 それだけ言って、通信は切れた。

「ねえ、磯風」
 なんとも、不穏な空気を感じさせる通信が切れると、叢雲が寄ってくる。磯風にはいつも通りに見える。
「ん? なんだ?」
 一方の磯風は、艤装の切り替えに忙しい。主砲実弾の信管設定もあるし、切り替えはパッとできるものではないのだ。
「やはり、あれって」
「実弾を撃つ機会が回って来そうだな」
 警告射撃を始めたはずだが、止まったという話はない。ということは、はなから止まる気がない、ということだ。
「……」
 叢雲は黙り込んだまま、磯風の顔を眺めている。構わず給弾機の微調整をする磯風に、叢雲はやや離れかけて、しかし驚いた様子で磯風にまた近寄った。
「ねえ。ねえ、磯風」
「なんだ?」
 磯風ははじめて顔を上げた。
「磯風、そんなに楽しいの?」
「ん? 楽しい?」
「だって、磯風、笑ってるじゃない?」
 え、と磯風が思う間もなく、叢雲はポケットから手鏡を取り出す。
 そこに映る磯風は、間違いなく哂っていた。紅い瞳はなお炯々然と輝き、口角は自然に上がって犬歯が覗いている。
「……ああ、そうだな。楽しそうだな!」
 まるで、狩りに喜ぶ猟犬である。なるほど、やはり自分はこの世界が向いている。磯風は、今度は意識して、哂った。ああ、戦いほど楽しいことは、ないではないか。

「そろそろだな」
 計算通りなら、ちょうど真正面に現れるはずだ。狩りとしては、完璧な位置取り。
「……霧が、晴れなければいいわ」
 あいにくの霧。そろそろ霧は晴れるはずなのだが。霧が晴れねば、目視はもちろんのこと、電探でさえ反応しない。
「この期に及んで、逃すのか?」
「何か、話ができないかしら? だって」
「相手が停船しない以上、それは無理だろう」
 艤装を撫でつつ、磯風はひとこと。
「明確に、相手は敵対する気で動いている。足を止めるか沈めるまでは終われんな」
「でも」
「この国に仇なす者を排除するのが我々の仕事だ」
 相変わらず戸惑った調子の叢雲に、磯風は一言だけ告げた。

《Если вы не повиноваться, я будет открыть огонь на вас!》
 放送は、相変わらず敵艦娘が止まらないことを告げている。響の悲壮な声だけが、辺りに響く。
「そろそろ霧が晴れるな」
 ようやく、霧が薄く、明るくなりはじめた。霧の端に近づいているようだ。
 叢雲は何も言わない。眉間に皺を寄せたまま、ただ先を眺めているだけ。
 磯風もまた、目を凝らす。場所が間違っていなければ、正面に影が見えてくるはずである。
「いたぞ!」
 次第に晴れゆく霧の向こう。まだ米粒ほどにしか見えないが、艦娘と思しき頭が見える。
「ついに見えてしまったわね」
 叢雲は複雑な表情を浮かべ、ただぼんやりと遠くに視線をやっている。
「こちら磯風。敵艦視認。これより、響・不知火両艦の援護に入ります」
 一向に通信機を取ろうとしない叢雲の代わりに連絡を入れる。心ここに在らずで、大丈夫だろうかと磯風はやや心配になった。
《こちら榛名。了解しました。まずは、頭を押さえるように動いてください》
 榛名の返答は早い。まるで迷いも見えないのは、頼もしい。
「磯風了解しました。それでは、作戦行動に入ります」
 不知火のあとに、磯風は手早く答える。舵を切りつつ、叢雲の肩を軽く叩いた。
「叢雲、行くぞ」

 磯風が見れば見るほど、響と不知火との追跡は見事だった。相手が14knと比較的遅いのもあるが、付かず離れず、かつ巧みに相手の動きを制限しながら、追いかけている。いつもながら、磯風はやや感嘆する。見る限り、響も不知火に従っているようだ。、
 ゆえに、磯風もその意図を汲んで動いて行く。後ろは不知火に任せられる。ならば、あとは前に進めないよう仕向ければよいのだ。
《Это Хибики, эсминец Императорского Флота Японии.》
 もう、響はロシア語による放送しか行っていない。血を吐くような、そんな叫びである。向こうは距離も1000m前後。姿こそ視認はできないだろうが、もはや完全に指呼の間といえる。息もつかぬほどに繰り返し続けているが、相手の動きは全く変わらない。
「相手との話はできないのかしらね」
 ちらり、と叢雲が零す。先もそれは言っていたが。
「威嚇射撃を浴びせてなお、全く動じた様子を見せないからな」
 言葉こそ叢雲に向けつつ、視線は敵に据える。双眼鏡越しならば、もはや姿がちゃんと捉えられる距離である。身体をすっぽりと覆うような白の長マントに、重心高めの機関部。間違いなく、この間のマガダンで見慣れたウルガン級の艤装。
「む、増速したな。磯風たちも、28knまで増速しよう。進路も、10時方向に振るぞ」
「え?」
 磯風は、一瞬の白波の変化を見逃さない。
《こちら不知火。敵艦、およそ22knに増速。針路は北北西に変針》
「磯風了解した」
 簡潔に答えて、舵を切る。一瞬遅れて、叢雲がついてきた。
「相変わらず、こういう時だけ冴えるわね」
「我ながら不思議だな」
 もはや、磯風は話半分しか聞いていない。地図を眺めながら、動きを考えている。
「しかし、この変針ということは……?」
 磯風の思考は常にフル回転している。なにより、敵の微細な動きに反応できるように。

 その構えが役に立つまで、そう時間はかからなかった。10分足らずで、片方だけが、若干速度を落としはじめたからである。
「あれは……何か意図がありそうだ」
「止まるつもりかしら?」
「いや、違うな……」
 止まるつもりなら、信号旗なり通信なりで意思を示すはずである。
「すまないが、確認してくれるか?」
 微妙に距離を調整して、また機銃を起動する。山なりに弾道を描き、前方の艦娘の脇に着弾する。向こうの方から、かろうじて響の放送が聞こえてくる。
「わかったわ」
 あまり顔色のよくない叢雲だが、行動は早い。双眼鏡を手にして、後方の艦娘を眺めている。
「あれは……ザルニーツァね。銀髪がよく映えているわ」
 そんな呟き。
「何か、手元は?」
「えっと……あの長マント、うまく艤装を隠してるわね……」
 叢雲はそのまましばらく眺める、どうやら、大したこともないようだ、と。そんなことを思った刹那であった。
「磯風! 最大戦速!」
 そんなことを、叢雲は叫んだ。
「何? 魚雷か?!」
「魚雷発射準備をしてるわ! 彼女、やる気よ」
 取舵一杯にいれ、叢雲は一気に加速する。磯風も一瞬遅れてそれに従う。艤装のエンジンの立ち上がりは決して早くない。これでもギリギリだろうか。
「こちら叢雲! 敵後方の警備艦ザルニーツァ、魚雷発射準備体勢!」
 磯風たちも不知火たちも、ソ連艦との距離はすでに1500未満まで詰まってきている。魚雷は少なく見積もっても40kn、1500mなら1分強で駆けてくる。艤装の重さに由来する慣性を考慮すれば、発射されてから、確実に回避するのは難しい距離だ。
《叢雲、それは確実ですか?》
 すぐさま、榛名から確認が入る。
《こちら不知火。こちらからも魚雷発射体勢にあることを確認しました。迎撃の許可を請います》
 焦った雰囲気もまるでない不知火の声が、磯風の答えるより前に耳に入る。
《魚雷発射管の方向は?》
《こちら側、右舷側です》
 不知火は即答した。
《……了解しました。それでは、四隻に新たな指令です。後方のザルニーツァへの直接攻撃を許可します。魚雷の使用、撃沈も許可します》
 あっさりとした言葉だった。いつものような甘い声で、しかし感情の読めない声。
「磯風了解した」
《不知火了解しました》
 すぐさま返答し、さらに舵を操作しながら、魚雷発射管を用意する。気づけば、ザルニーツァの前を走る一人、おそらくグロームだろうが、彼女との距離はだいぶ開いてきている。
「……仕方ない、わよね」
 通信機を切った直後、叢雲が蒼白な表情で聞いてきた。既に双眼鏡はしまっている。
「相手がその気なら、実行する前に倒さねば、自分の命を失うことになる」
 魚雷発射管、四連装二基八門。悉く、ザルニーツァの方へ向ける。距離1500から離れる方向とはいえ、インファイトには変わらない。
「そうね……」
 ザルニーツァの動きは鈍い。この間の演習から、ウルガン級警備艦が決して速い艦ではないことは、把握済みである。
「先に撃つぞ」
 狙いを定める。あの艦ならば、当てるのは難しくない。そして、当たれば沈む。
「磯風、魚雷発射します」
《不知火、発射します》
 不知火と、殆ど同時だった。圧搾空気の駆動音とともに魚雷が射出され、ややあって着水する。しばらく泡で軌跡を描いて邁進し、次第にその泡を減少させて、まもなく視界から消えていく。
《了解しました。もし沈まない場合は、再度停戦命令を続けてください》
 動じない榛名の声。なんとなし、榛名らしくないような、そんなことを磯風は思う。榛名は、優しい人だ。虫を殺すのも厭うような、そういう人だと思っていたが。
「磯風了解しました」
 そんな違和感を押し込みつつ、磯風は簡潔に返す。
 そして、しばしの沈黙。
 魚雷の着弾までは一分足らず。ほんのわずかな時間が、いやに長く感じる。水雷戦とは、そういうものだ。見えぬ魚雷の行く末に思いを馳せながら、ただ天命を待つ。磯風は、その感覚が嫌いではない。張り詰めた緊張感と、そこに伏在する期待感と、足元に対する少しの不安と。そんなものが入り混じったこの場こそ、駆逐艦の戦場である。
 ふと思い至って、顔を触る。やはり、笑っていた。

 遠く、大きな水柱が立ち上がるのを望むまで、そう時間はかからない。

「魚雷命中!」
 通信機に叫び、双眼鏡を覗く。十メートルはある水柱に包まれ、様子を窺うことはできない。覗いている間に、再び水柱が上がった。
「二発命中かしら」
「磯風と不知火と、一発ずつだろうな」
 と言っている間に、水柱の合間から、爆炎が湧き上がる。懐かしく忌まわしい、艤装爆裂の炎である。
 帝国の誇る酸素魚雷(ロングランス)が二発も命中すれば、帝国駆逐艦より小型である警備艦なぞ、ひとたまりもないはず。艤装の爆裂こそが、それの表象。
《魚雷二発命中。敵艦轟沈の模様。続いて、二隻目の追跡に移ります》
 淡々とした不知火の声。その声に、慌てて二隻目――グロームを探す。さらに幾分小さく、もはや米粒どころか毛先のようだが、まだそこにいる。おおよそ距離3500ほど。魚雷で狙うことも容易い距離である。
「沈んだわね」
 ぼそり、と。小さな声が叢雲から漏れる。水柱の立った方に、再び双眼鏡を向ける。
「沈んだ、というよりは、消えたな」
 すでに、あったはずの場所には、何一つとして見当たるものがない。そこには、ただ海がある。幾分うねる海面が、そこにある。ただ、それだけだ。
「艦娘を、沈めたのね」
 あまりに消沈した叢雲の声。
「沈めたのはこの磯風と、不知火姉さんだ。叢雲が気にすることはない」
 そう告げつつ、舵を戻して、予備の魚雷を再装填する。今度は、ミドルレンジに設定する。
「まだ沈めるの?」
「沈めるかどうかはわからんが。追え、との命令は継続されている」
 叢雲が明らかに動揺していることくらい、磯風にもわかる。
「そうね」
 しかし、その動揺を隠そうとするのが叢雲である。磯風にさえわかるくらい、声が震えているにも関わらず、だ。
「では……。こちら磯風、只今より二隻目の追跡に移ります」
 通信機にそう告げる。
 しかし、返答がない。先まで、すぐに答えを返していたはずの榛名だったが……?
 首を傾げつつ、ひとまず追うことに決め、前を向く。
《第九水雷戦隊の四人、ただいま1736(ヒトナナサンロク)を以て速やかに反転し、各自柏原警備府に帰還してください》
 てっきり追うものと思っていたから、次に来た通信は、磯風にとって思いもしないものであった。
「帰還、ですか?」
 思わず問い返す。
《帰還です。速やかに、柏原に帰還してください》
 榛名の声は固い。先ほどまでも、決して緩かったわけではない。しかし、今の榛名の声は、背筋を伸ばしたくなるような、そんな声である。こういう時、彼女もまた戦艦の艦娘であり、殊勲艦であったのだ、ということを思い出す。
《榛名さん、それは、敵艦を見逃せ、と、そういうことですか?》
《そうです》
 無機質な口調で、榛名はそう告げた。先ほどまでとの、方針の違いが著しい。
《それは一体、どういう?》
《軍令部より、撤退するよう命令が出ています。それだけです》
 軍令部。どうやら、雲の上から何か来たようだ。あるいは、政治的な動きもあるのかもしれない。しかし、磯風は、なぜそう判断がくだされているのか、わからない。というよりは、考えるつもりもない。
《繰り返します。現在地より速やかに、柏原警備府へ帰還してください》
 早速了解、と答えようと、磯風は通信機を取る。磯風としては、軍令に沿って戦っていたにすぎない。戦いをやめろ、と言うことであればやめる。殊更、軍令に背く理由は、磯風にはない。
 そう思った磯風だが、ふと、叢雲の方を向いた。叢雲もすぐ気づいたようで、軽く頷いた。安堵したような表情が、磯風の目には焼き付く。そうか、安堵するのか、と磯風は思う。
「磯風了解しました」
 その安堵の表情を背にして、さらりと、磯風は告げた。
《……不知火、了解しました》
 対する不知火の言葉は、不知火らしくない粘着性を持つ。
 しかし、榛名の返答はない。通信を聞いているのかどうかさえ、磯風にはわからなかった。
 遠く地平線に見える米粒のようなグロームの姿を、磯風はぼんやりと見つめる。

 まもなくグロームが見えなくなって、ザルニーツァがいた方へと磯風は向き直った。肉眼で見る限り、もはやそこはただうねる海面だけがそこにある。そこで魚雷が二発も炸裂したとは、とても思い難い静けさである。
 ちらりと見れば、叢雲も、なにやら難しい表情でそちらを眺めている。なにも言わずに。いや、何も言えない、という雰囲気である。

 沈黙の中で、磯風は静かに手を合わせる。
 世が世なら、彼女と戦うことにはならなかったはず。彼女に恨みがあったわけではないのだ。




二ノ三

 冷静でいるには優しすぎるし、憤怒するには賢すぎる。それが、叢雲という艦娘なのだろう。帰り道、磯風はそんなことを思っていた。
 柏原に帰り着くまで、叢雲は何も言わなかった。いろいろな感情を全て押し込めて、つとめて平静を装うような、そんな無理がありありとみえるようだった。
 磯風は、古風な武人である。発想が古代人、という叢雲の指摘も余り外れていないように思われた。良くも悪くも、平時と戦時とがきっぱり二つにわかれている。それが磯風の認識である。だから、平時にはともに楽しみ、戦時には死力を尽くして戦い、また平時には殺した敵を弔う。その敵が誰であろうとも、磯風には構わない。そういう両極端が、磯風には両立しえる。
 だが、叢雲は違う。
 叢雲は、きっと彼女たちソ連の艦娘も、共に深海棲艦と戦った仲間だと考えていたはずだ。仲間だからこそ親しく付き合い、顔の見える付き合いの中で親交も深めた。だからこそ、彼女たちを沈めたことを、きっと彼女たちの感情に思いを馳せながら、叢雲は強烈に意識する。そして、叢雲は傷つくのだ。自分の仲間であり、親しかった相手の未来を、自分が奪いとってしまったことに。姉妹を奪われる絶望を仲間に与えてしまったことに。本当ならば、彼女たちにも明るい未来が待っていただろう、ということに。
 磯風には、その感覚がわかるようでわからない。つまるところ、死ぬということに対する感覚の差なのかもしれない、と磯風は思ってみる。戦いの中で死ぬならば、艦娘として本望だ。磯風は、どこかでそう思っている。それが、叢雲との差異なのかもしれない。
 だから、磯風は叢雲にかける言葉を知らない。そもそも、ザルニーツァを沈めたのは磯風自身だ。叢雲から恨まれてさえいるだろうと思う。だから、叢雲をただ眺めているだけだ。
 一方の叢雲も、何も言わない。感情を出すには、賢すぎた。叢雲は、この戦闘において他の選択肢がなかったことを知っている。少なくとも、軍令は沈めよ、ということであったし、あの状況で先に魚雷を撃たれていれば、こちらの身が危うかった。
 その板挟みになっていることが、ありありとわかる。彼女は、隠そうとするくせに、この磯風にさえ隠そうとしていることがわかるほど、隠し方が下手だ。
 相変わらず、苦労するひとだ。そんなことを、磯風は漠然と考えながら、夕焼けに染まる海上を駆けていく。

 磯風たちは、警備府につくやいなや、問答無用で九水戦の部屋に放り込まれた。とにかく一命あるまで待機せよ、ということで、神通も交えて軟禁、といったところである。
 しかも、雰囲気は最悪だ。鈍感な磯風でさえ、居たたまれなくなるほど、空気が悪い。
 無理もない。叢雲が仮面をかぶるのに精一杯であるというのもあるが、それ以上に響と不知火とが、もはや救いようがないほどの断絶を持って、その空気を冷やしこんでいた。
 響にばかりは、磯風もかける言葉がない。かつて、暁が温禰古丹海峡にて消息を絶った時。あるいはあの時さえ越える程に、憔悴しきっている。いつも以上に帽子を深くかぶり、黙りこくって縮こまる姿は、かろうじてそこに浮いている小船のようで、少しでもバランスを崩せば、そのまま転覆してしまう。磯風には、そんな風に見える。
 対する不知火は、端的に言って機嫌が最悪だった。無愛想なのはいつものことだが、今は近づきがたい、そんな雰囲気を醸し出している。磯風にとって姉だから、というわけではないが、そこから読み取れる感情は、おおよそ怒り、といった類のもの。空色の瞳だけが炯々と光り輝いて、部屋を威圧している。おおよそ、響の"不甲斐なさ"にでも怒っているのだろうか。
 神通は、部屋の中央で、静かに本をめくっている。水雷戦について書いた教本である。ごく平然と頁をめくる神通の感情を、磯風は読み取ることができない。いつもおとなしく、戦闘のときだけ嫌に厳しい神通であるが、その私情を見せることはほとんど無い。人の心を読むのが上手い人ならばわかるのかもしれないが、艦娘一の不器用を自認する磯風には、とてもわかるはずがない。
 かかる状況にあって、半ば第三者的な気分の磯風も、口を出すのは流石に憚られた。
 だから磯風は、今日の行動を思い返すことにした。戦闘というのは、ただ戦闘したのみで終わらせるべきものではない。強くなるため、死なないためには、帰ってきてから、自分の動作を思い返し、改善点をきちんと整理するのが重要。だから、磯風は今日の自分の動作を一つ一つ思い返す。本当に、その手順が最適で、最適化されていたのか。こうした少しの積み重ねが若干の動作の改善を生み、その若干の改善が生死を分かつのである。


「ねえ、磯風」
 沈黙を砕いたのは叢雲だった。らしい、と思う。
「なんだ?」
 四対の瞳が、磯風に集まる。
「ザルニーツァは、本当に魚雷を構えていたのかしら?」
 突拍子もない問い。そしてそれは、磯風の答えられる問いでもない。
「そう言われてもな……。あの時磯風は見ていないんだ。それがわかるのは、叢雲と不知火姉さんじゃないか?」
「私は見たわ。彼女が魚雷発射管に触れているのを」
 磯風が言い終わるかどうかのところで、不知火が口を挟んだ。
「でも、あの魚雷発射管に、魚雷は入っていたのかしら? そもそも、本当にそれは、魚雷発射の準備だったの……?」
「……叢雲は、何が言いたいのよ?」
 寒気を催すほどに低い声で、不知火は問う。小柄な彼女に似合わぬ厳しい視線が、叢雲を貫く。
「私たちは、ちょっとしたすれ違いで、沈めてしまったのではないか、って」
「すれ違い? 笑わせないでください。あの連中は、神知ろし召す海原を踏みにじったのですよ。どこに配慮が必要だというのです?」
 話が飛んだ。そういう話を、少なくとも叢雲はしていない。
「ちょっと待ちなさい、不知火。あなたは、本当に魚雷発射の兆候を確認したのよね?」
 そこに躓いたのだろう。叢雲の声音も、随分と苛立っている。
「確認しましたよ? 彼女たちは、この神国を穢さんとしていました」
 一言ずつ確かめるように、不知火は言う。その裏を読み取るのは、それ程難しくはない。なるほど、不知火は、ソ連側が侵犯してきたこと自体に怒っていたのだ。だから、鉄槌を下した。不知火は、そう考えているらしい。
 だが、叢雲はその答えを待たずに、立ち上がった。
「あんた……!」
 不知火は、まるで敵に対するかのように、叢雲を睨みつけて動かない。
「逆に、叢雲に問いますが。叢雲は――この柏原警備府において秘書艦を拝命し、第五艦隊を全体を左右しえる大日本帝国海軍(・・・・・・・)駆逐艦の叢雲は、第九水雷戦隊を害さんとする敵を、黙って見過ごすというのですか?」
 大仰に、不知火は言い放つ。
「そういう話ではないでしょう? 第一、彼女たちにそのようなつもりがあったかは、わからないわ!」
「可能性がなかった、と。そう言えるのですか?」
 敬語口調の不知火。本気で怒っている証拠である。磯風は、少し離れてぼんやりと眺めている。
「だから、魚雷発射管を触れているかどうかって」
「領海に侵入した時点で、可能性は十分にあるでしょう? そんな分かり切った可能性を、再確認する必要はありません」
「それはあまりに」
 叢雲が一歩踏み込もうとして、しかしそのまま固まった。
 ゆらり、と響が立ち上がったからである。
「ねぇ、不知火」
 俄然、空気が不穏になってきた。響は、まるで怨霊のようにゆらゆらと、不知火に近づく。表情が帽子に隠れたままであるのが、怖ろしさを際立たせる。
「不知火は、そんなに適当な理由で、彼女を沈めたのかい?」
 響の声は、掠れてかろうじて聞こえるのみだった。警告の放送で、喉を潰したのだろうことは、磯風にも容易に推測しえた。
「適当? 何を言うのです? どこが適当なものですか。あの露助は、この国の境を犯したのです」
「その程度じゃないか。境を超えたからって、どこに問題があるというんだい?」
「境目を越えてきた"だけ"? それのどこが"だけ"なのですか? 私達が必死に守ってきた、この国に土足で踏み込んだのですよ」
 不知火が、信じられないといった顔で、響を睨みつけている。
「所詮、同じ人間じゃないか? そもそも、我が国と彼の国との間の、どこに懸隔があるんだい? これまで、助け合ってきたじゃないか。戦争中は、我々も彼の国にたいそう救われたじゃないか。それなのに、どうしてそこまで過激な手段に出る必要があるのか、私にはわからないよ」
 かすれた声も手伝って、幽鬼のような響の声は、呪いの言葉にさえ聞こえる。
「無断で境を超えるようなことができるならば、不知火たちを害することだって厭わないことくらい、誰にでもわかる話です。違いますか?」
「私はそうは思わない。確かに、境を超えるのはいけないことだ。けれども、相手は対話可能な相手じゃないか。深海棲艦みたいな、問答無用の連中とは違う。もともと、敵対しているわけでも、危険を及ぼしているわけでもないんだ。そういうことを一切考えなくていいとは、私は思わない」
「響がどれだけ警告を放送しても聞かなかったのは、向こうですよ。それはなにより、響がよくわかっているのではないですか」
「だからといって、沈めるほどのことかい? 彼女たちの命を奪うほどのことかい?」
「我々が害される危険が残っている以上、それを排除するのが我々の仕事です」
 不知火は言い切る。
「理由があったかもしれないのに? 何か故あってのことだったかもしれないのに?」
「ならば通信しない方が悪いのです。不知火たちには、仲間と土地を守る義務があります。それを害する可能性があるならば、排除するのは当然でしょう」
「繰り返すけれども、本当にその可能性はあったのかい?」
 不知火が、少し押されている。鬼気迫る響に、さしもの不知火も動揺を隠せない。
「国の境を超えたのです。少なくとも、不知火たちを害するかもしれなかった。そうは言えます」
「……つまりきみは、かもしれない、なんて不確かなことで、しかも、たかが境界を越えた程度の些細なことで、人を殺したんだね」
 響はゆっくりと、一言一言噛み締めながら、じわりと言った。まるで、呪詛のようなそれは、磯風にもぶつけられる言葉に他ならない。
「響は本当に物をわかっていませんね。国の境は絶対です。それを無断で越えるならば、もはやどのような可能性も考慮すべきです」
「つまり不知火は、国のためならば人を殺していい、と。そういうのかい? その程度のもののために、人命を犠牲にするのかい? 国は人のためにあるのだろう? 国のために人があるわけではないだろう?」
「ですが」
「国は、人が生きていくためにあると便利だからあるんだ。それなのに、同じ人間の国同士で争うなんて愚の骨頂だし、ましてそのために人を殺すなんて、本末転倒だ」
 なるほど、だから響にとっては、国なんて瑣末に見えるのか、と磯風はようやく響の意図を理解する。
「……それでは、響はこの皇国をなんだと」
 不知火は、完全に詰まっている。それも当たり前の話。響の話は正論だ。非難するのは難しい。人の命の重さ、みたいな話が出てくれば、それだけでもう反論は難しいものだ。
「私たちが生きるためにあるんじゃないか」
「……不敬な!」
 だが、この国ではいささか危険思想の類に属するものともいえる。
「不敬? 人のために国がある、なんてそんな単純なことが、不敬になるのかい?」
「軍人の職務とは、国体の護持にあります。それを平然と、無視することが許されるはずがありますか?」
「そんなもの、所詮は建前だろう? 私は知ってるよ、不知火だって、国のためには戦ってない」
 響はあくまで淡々としている。
「何を……」
「不知火は、この島のために戦ってる。この国なんて、そのためならば、どうでもいいんだろう?」
「……響」
 不知火の声のトーンが、また下がる。ぐっと握りしめた拳が、磯風の目に止まった。
「その言葉、不知火に対する侮辱ですね。許しません」
「だったらどうすると言うんだい、不知火。Зарница(ザルニーツァ)を殺したみたいに、私を殺すのかい? 国のためだ、と嘯いて」
 嘯いて、と。言葉の端々に、響の感情が滲み出している。
 ふむ、このままどこまで行くのだろうか、と。磯風は半ば暢気でさえある。不知火は気が短い。次に手が出るだろうが、どこまでいくだろうか、と。そんなことを思いながら、磯風は眺めている。止めるつもりは、端から無い。
「その辺りにしておいた方がいいですよ」
 しかし、さすがにそれ以上の発展はまずい、ということなのだろう。これまで見向きもしていなかった神通が、間に入った。
「何を言ったところで、起こったことはもう変わりませんからね」
「ですが……」
「ここで、下手な文句が飛び出せば、私は処罰しなければなりませんから。上官として、これ以上やることはオススメしません」
 そう言われて、なお話を続けるわけにもいかない。二人とも、ようやく黙り込んだ。
「それと、響」
「はい」
「我々は、屍山を築き血河をなして、この国土を守ってきたのです。そのことを軽々に扱うことは、感心しません」
「……」
 それっきり、神通はまた黙る。
 一体何を意図する言葉なのか、磯風には図りかねる。釘を刺した、ということなのだろうか。
 それにしては、言い回しが感傷的に過ぎる気もする。
 とまれ、それを最後に、部屋は再び不気味な静けさに覆われるのである。


 軟禁が解除されたのは、翌日朝になってのこと。どちらかといえば、中央に対する義理のための処置であるらしかった。
 しかし、そのお陰で磯風らが幾分救われたのも事実であろう。良くも悪くも、駆逐隊の四人は、時の人である。なんとも、微妙な空気の中に、置かれることになる。例えば伊勢や利根のように、詳しい状況を聞いてくるものもいれば、龍鳳のようにいろいろ変に気を使ってくれるものもいる。
 一日経ってからでさえそうだというのに、もし帰った直後からそういう状況に置かれていたら、どうなったものかはわかったものではない。何より、駆逐の四人が頭を冷やす時間を設けずして、多くのことを語らされていたならば、間違いなく鎮守府を二分するような大騒ぎになっただろう。
 しかし、どちらにせよ、いつも通りというわけには、なかなかいかないものだ。
「の割に、お前は本当に変わらんな」
 ぴしり、と将棋の駒がいい音を立てる。日向らしい、落ち着いた指し筋である。
「磯風は磯風ですので」
 磯風としては、聞かれれば見たままのものを話して、それで終わり。聞いた側がなにを考えているか、などというものは、磯風には関係ない。
「それで割り切れるなら、やはり大物さ」
 割り切れる艦娘は、おそらく磯風だけだろう、ということは、磯風もわかっている。割り切れないから、叢雲も響も自室に籠ったきり全く出てくる気配がないし、不知火は、まるでハリネズミのように突き刺す雰囲気を纏っているのだろう。神通でさえ、いつも以上に静かで、あまり近づきたくはない。
「何も考えていないだけです」
 磯風の一手。獅子を一気に動かす。艦娘は、普通の将棋より、専ら中将棋を好む。中将棋は、持ち駒の制度がないから、である。味方が敵に裏返る、ということがない。敵は敵で、味方は味方。それが中将棋である。
「考えても無駄なことというのも、世の中多くてな。それくらいが良いのかもしれんな」
「さて、磯風には図りかねますが」
「まあ、そういうことにしておいてやろう」
 じっくりと、日向は盤面を見下ろしている。既に中盤。取られた駒は復活しない中将棋だから、次第に駒も減ってきている。しかし、榧の脚付柾目盤に島黄楊の銘駒などという高級品、どこから調達したのだか。そういえば、"将棋盤は、日向の榧が最高級品でな"と日向が、少し楽しそうに語っていたのを、磯風は思い出す。
 しばし黙していると、日向が一手指す。甲高く重い音が響く。音が良い。
「それで、結局こちらでは、何があったのですか?」
「ん?」
 駒を持ち上げながら、磯風は聞いてみることにした。こちらの話は何かと聞かれたが、こちらで何が起きたかは、知らないのだ。
「あれは、榛名さんの判断だったのか、と」
「ああ、そうだな」
 もしかしたら違うのだろうか、という疑いは、日向によっていともたやすく翻った。
「ギリギリのところまで、榛名さんは独自に判断されていたよ。こちらはこちらで、いろいろ議論があったがな」
「議論?」
「只事ではないからな。伊勢と私、それから大淀も呼ばれていた。特に大淀は、上の意見を仰ぐべきだと、強く主張していたが」
 話しながらも、日向は腕を組み、難しそうな表情を浮かべている。どちらを考えているのだろうか。
「それでは、あの停止は大淀さんが?」
「あの大淀が、そんな越権行為はしないだろう。上は、何故かこの事件を知って、直接榛名さんに連絡してきた、というわけさ」
「何故か……?」
「と言っても、それ程驚くことではないな。無線と艦娘測地の数値くらい見ている、という程度の話だ」
 なるほど。磯風は軽く頷いた。
「それで、最初の命令があれですか?」
「外交に直撃する重大案件だからな。赤レンガと外務は、大層怒っているそうだ。一言入れろ、と」
 事は、磯風の思うところを越えて、面倒なことになっているらしい。
「それでは、榛名さんは……?」
「今は謹慎処分ということになっている。そのうち、舞鶴に召喚されるのではないかな」
「懲罰対象になる、と?」
「名目的には、今の謹慎も処分決定までの仮処分だ」
 仮処分、ということは、本来の処分は、また改めて決まるということ。それは、謹慎より重いだろうことくらい、磯風にもわかる。
「ですが、今回は、領海侵犯を受けての事態とも思われますが」
「だが、沈めたのはまずかろう。警備艦とはいえ、立派なソ連海軍所属の軍艦だ。一歩間違えれば、そのまま戦争になってもおかしくない」
 喋りながら、日向は盤上の飛車を取り上げて、先手陣に進める。器用に片手で返し、龍王として綺麗に指し込む。
「そこまでですか?」
 その龍王を取り上げながら、磯風は返した。
「今の状況で、戦争になるなどとは思ってはないがな。しかし、そうなるかもしれないことを、提督である榛名がやった、ということ自体に問題がある」
 だから私も止めたのだが、と言いつつ、日向の手は早い。すかさず、麒麟を手にとる。思わず磯風は眉をしかめる。
「こちらが傷つく可能性があったとしても?」
「それは難しい問題だな。もしこちらを傷付ける可能性がある、というのは、向こうが戦争する気だということだ。同じように、こちらが向こうを傷付けるというならば、逆にこちらが戦争する気だということ。結局は、相手の感情の読み合いだ」
 相手に戦争する気があるのかどうかを察するするのが重要だ、と。今回はどうだったのだろう。磯風には、さっぱりわからない。
「少なくとも、榛名さんは、どういう意図で行ったのか、というのを海軍省や外務省相手に説明する必要があるだろうな」
「その内容によっては、と?」
「話はもっと面倒だろう。これは大淀の受け売りだが、海軍省の中も、有象無象の蠢く魔界のようだからな」
 海軍の中にも、政治が好きな人はたくさんいる。おそらく、そういう人々が動いているのだろう。
「恐ろしい話です」
 磯風は興味もない。"世論に惑わず政治に拘らず"という、軍人勅諭の教えを守っている、といえば聞こえはいいが、要するによくわからないのだ。
「恐ろしい、で済む話ではなくなってくるかもしれんぞ」
「磯風は駆逐艦ですから」
 将棋盤をいくら睨んだところで、妙案が思いつくわけではない。諦めて、磯風は獅子で麒麟を取る。
「そうでもないぞ。何せ、今回は当事者の一人だからな。同じように呼び出される可能性は低くない」
 ひょい、っと日向は獅子を取り上げる。大駒一枚を失うのは、痛い。
「それは困ったな……」
「投了か? 早いな」
「それはありえない。途中で戦を諦めるなぞ、言語道断だ」
 思わず敬語が飛んだ。あ、と思ったが、日向は薄く笑いを浮かべている。半眼で。
「相変わらずだな」
「磯風は磯風以外の何でもありませんので」
「君は、本当にブレないな。それは、間違いなく美徳だろう」
「変われる程器用でもないですから」
 次の手を指しつつ、磯風は返した。場面や相手に応じて対応や反応を変えるなんて、磯風には無理だ。だから、変わるのは敬語の有無くらい。いつだって磯風は表裏なく磯風である。
「少なくとも、ころころと軸のブレる人間よりは、ずっと好感を持つ。それなら、どこに行っても大丈夫だろう」
「どこに行っても?」
 磯風は思わず聞き返してしまう。
「ん? 特になにかを意図したわけではないが……」
「あ、いえ。処罰とか政治とか絡む話でしたので、てっきりこの磯風もどこかに配置転換になるのか、と」
 少し早とちりだったようだ。先日話題になった柏原警備府閉鎖の話が磯風の脳裏をよぎったことは、伏せておく。
「まあ、それもそうか」
 しかし、日向はきっと、磯風の考えなぞすべてお見通しだろう。そういう人だと、磯風は思っている。
「しかし、そういう言葉が出るということは、やはり磯風もここがいいのか?」
 も、という助詞を用いたことが、それを象徴しているように、磯風には思われる。この柏原に居着いている艦娘が多いのは、この間の一騒動で大きく揉めた点だ。
「ん? ああ、いや、そうではありませんよ。磯風は、どこでも一向に構わない」
 しかし、わざわざ言葉に出すものでもない。磯風は、ただ自分の考えを述べる。
「磯風は、言われた場所に行くし、言われたことをこなします。それが、軍人としての勤めでしょうから」
「そうか」
 と短く日向は答える。
「君は、軍令がいずこから出ているかには、興味がないのか」
「考えてもわからないことは考えないので。それよりは、明日をどう生き延びるかを、考えたい、と」
「本当に君らしいな」
 日向の言葉は、感心なのか呆れなのか。
「それを貫いているなら、どこに飛ばされても大丈夫だろうな」
「磯風は、どこでも一向に構いませんよ」
 日向の指した手を眺めつつ、磯風は答える。
「そもそも、ここより環境の悪いところ、というのも珍しいでしょう」
 戦争が終わった今、前線も激戦地もない。北の果て、夏は霧に、冬は雪に覆われる白き島に勝る赴任地があるか。
「それも、そうか」
 にやり、と薄く日向は笑った。
「ここでやっていけている君なら、どこでもやっていけるさ」


 将棋は、酷く負けた。
 もとより、駒を落としている。獅子二、といわれる、棋力差が大きく離れている時に用いる駒組みでの対局だ。要するに、大幅にハンデをつけてもらっている。
 日向は、桁違いに将棋が強い。艦娘の中でも、一段飛び抜けて圧倒的な棋力を誇っている。磯風は、そもそも平手で日向と指し合っている人を、見たことが無い。
 しかし、たった一度だけ、磯風は日向に平手で勝ったことがあった。
 始めて日向と将棋を指した時。たまたまだったのかもしれないし、日向が手加減してくれたのかもしれない。その真相は磯風の知る所ではないが、妙なところから、磯風が勝った。
 それ以来、ついに一度も平手では勝てていない。それどころか、獅子二の駒落ちでさえ、勝率が一割に届くかどうか。ゆえに、いつもまず磯風は日向に駒落ちで挑む。そして、駒落ちで勝った時に、平手で改めて挑むのだ。それを、もう数年繰り返す。しかし、いまだに平手での勝利はあの一度だけ。それ以来、ただひたすら、黒星は積み上がっていく。
 それでも、磯風は挑み続けている。
 もう一度の勝利を、ただ目指す。



二ノ四


「もしもし、こちら榛名です」
 榛名の端末が声を上げたのは、それからさらに数日後のことである。
《お、出た出た。お久しぶり》
「あら、比叡お姉さま。こちらこそお久しぶりです。随分と珍しいですね」
《まあ、ちょっとね》
 久しぶりの比叡の声は、少し力がないように思われた。金剛以上の明るさで姉妹をひっかき回す比叡にしては、らしくないと榛名はおもう。
「金剛お姉さまの話ですか?」
《流石は榛名。随分と察しがいいね》
「お姉さま、それ以外では榛名に電話してこないでしょう?」
《あ、それもそうかも》
 実際、それ以外の電話があった試しはなかったと思う。
「それで、金剛お姉さまがどうしたのです?」
《いやね。さっきお姉さまに電話してみたんだけれど。どうやら体調を崩しているらしくて。熱を出して咳が出てる、って。あまり数値も良くないらしくて、連絡しておいた方がいいかな、と思ってさ》
「それは大変です。いつからですか?」
《昨日からだって。電話口で話している分には元気そうなんだけど。でも、浜風は、かなり体調悪そうに見えるって言ってた。ほとんど起き上がれないみたい。たまたま、呉から舞鶴に出てきてるみたいで、お見舞いしてくれたみたいなんだけど》
 比叡の心底心配そうな顔が、その声だけで浮かんでくる。
「それは……。先生からお話は?」
《通信は頂いてる。ただ、免疫が落ちてるから、どうしても体調は崩しやすくなる、とだけ。先生もいろいろ考えて処置してくださってはいるみたいなんだけど》
 金剛の身体の方が、そもそもいろいろ無理をしている。そのことは、あまり考えたくないことだが。
「大事ないといいのですが……」
 ふと脳裏をよぎる金剛は、少し青白い顔で笑う姿。手足の肉もごっそり落ちて骨ばっている姿である。その金剛が倒れている、と聞くと、榛名もいてもたってもいられない。
《たぶん大丈夫だとは思うんだけど……》
 比叡は、榛名以上に心配しているだろう。榛名以上に、比叡は金剛を追いかけ続けているのだから。
「お見舞いには、行かれないのですか?」
《うーん。暇があればすぐにでも舞鶴に飛びたいんだけどね……》
 比叡の答えは、榛名の想像しているものとは少し違う。歯切れが悪かった。
《ちょっと今は難しいかなぁ。私ね、実は今、大湊にいてね》
「え?」
 比叡は、横須賀鎮守府の主力艦であり、秘書艦も務めていた。横須賀にとって、引き抜かれては困る要人のはずである。
「横須賀は?」
《まだ正式に辞令は出てないんだけど、大湊に転属になっちゃって。それで、慌てて今、引越し作業中、ってとこ》
「そりゃまぁ、本当に突然ですね」
《私も寝耳に水。ありがたいことに、大和さんがいろいろ手伝ってくれて、楽させてもらってはいるんだけどね》
「大和さん、お姉さまに懐いていますものね」
 前からそうなのだ。大和は大湊の所属なのに、しばしば横須賀に行っては、比叡に会っているとも聞く。大和にとって、比叡は頼れる姉のようなものなのだろう。
《あれ、私に懐いているというより、元々人懐っこいんだと思うよ》
 と言いつつ、比叡は少し照れているようで、声が上ずる。
《ま、大和さんは置いておいても。動いたのは私だけじゃないから、大湊鎮守府の再編とか、横須賀の引き継ぎとかもあって、ちょっと舞鶴に行くわけにはいかなくて。もう、嫌になるね》
「でもそれは、比叡お姉さまでないとできないことじゃないですか。仕方ないと思います」
《そうかなぁ》
 はあ、というため息。比叡には珍しい。
「比叡お姉さまは、どこでも引っ張りだこだと思いますよ。本当に、よく横鎮の葉室提督がお姉さまの転属を認めましたね」
 もし榛名が横須賀鎮守府の提督ならば、絶対に手放さなかったはずだ。
《ああ、それなんだけどさ。葉室提督、飛ばされちゃったんだよね》
「……へ?」
 今度こそ耳を疑うような話が、比叡から漏れた。
《なんでも、戦争中にだいぶ不正蓄財をしていたという話で、留萌の五辻提督と共に、降格処分だって》
「いや、そんな?!」
 葉室も五辻も、海兵(江田島)出のエリートであり、順調な出世コースを歩んでいた人物だったはず。榛名は必ずしも親しいわけではないが、面識はある。ふたりとも、とても「不正」という言葉とは無縁な、良くも悪くも実直四角四面な人だったと思うのだが。
《私も、何がどうなってるのかはさっぱりなんだけど。ある日突然、特警がやってきて連れて行っちゃってさ。それであとから、物資の不正流用をしてたんだ、って》
 榛名にはにわかに信じがたい話だが、比叡が大湊に移ったというなら、話は本当なのだろう。
「お姉さまは、何か抗議とかは?」
《うちの提督、あれで相応に人望もあったからね。皆でいろいろやってみはしたけど、梨の礫だったかな。海軍省(赤レンガ)の中で話が付いているみたいだったし》
「理不尽な話ですね」
《お姉さまに言わせれば、"組織なんてそんなものデース"ってことらしいけど》
 金剛の真似は、真に迫っていて榛名でさえ本物かと思うくらいに似ている。
「そうはいっても、限度があると思いますが」
《私もそう思うけど、かといって何ができるわけでもないし。下手に煽れば、反乱だ、って話になっちゃう》
 ちら、と榛名は横須賀にいる艦娘の顔を思い浮かべた。確かに、一歩間違えれば反乱になりそうである。
《これはお姉さまに強く言われたんだけど、やっぱり私達はsailorだし、だからmust obey all ordersだって》
「金剛お姉さまは相変わらずですね」
《お姉さまだもの。お姉さまはいつだってブレないよ》
 比叡の信頼感ももっともである。
《それでさ、そっちはどうなの?》
 何気なく、比叡は話題を切り替える。榛名は、少し身をこわばらせた。比叡が何を問いたいのか、まだ読み切れない。
「こちらですか?」
《うん。榛名はお姉さまのお見舞いいかないのかな、って》
 もちろん忙しいことはわかってるけどね、と。比叡の問いは率直に気になっているだけにも聞こえる。
「できれば、榛名もお見舞いに行きたいところですが」
《榛名が会いに行ったらお姉さまはとても喜ぶと思うよ》
「どうにも、この体ですから。幌筵から舞鶴は遠いですし、行きたいのはやまやまなんですけどね」
《そう? お姉さまも、榛名に会ってないことを随分心配してたよ?》
 たしかに金剛と長いこと会っていない。榛名としても会いに行きたいとも思っている。しかし、金剛は舞鶴なのだ。
「榛名も都合がよければ……」
 沈黙。何か、比叡は言葉を選んでいる様子であった。榛名は、やはり、と覚悟を決める。
《あー、もう!》
 が、それも比叡の叫びに崩された。
「はい?」
《なんで姉妹で腹の探り合いなんてしなきゃいけないわけ? そもそもこういうの私は嫌いなんだってば!》
「えっと」
 話題は決まった。比叡は要するに、その糸口を探していただけのようだ。
《もういいや! 言っちゃうけど、榛名はさ、一度舞鶴に行ったほうがいいんじゃないかな?!》
 比叡らしい、開き直り方である。
「……それは、なぜです?」
《それくらい、榛名もわかってるよね?》
「……」
 比叡の腹を、榛名は探りかねている。間違いなく、件のソ連海軍侵入に関わることだろうが、比叡は何を言いたいのだろうか。
《うう、榛名って頑固だよね》
「そうでしょうか?」
《そうだよ。絶対に自分から折れないもん。いつだって、最後まで頑張るのは榛名だし》
「折れる必要のないときには折れないだけですよ、榛名は」
《そういうのを頑固っていうんだよ》
 半ば呆れたような比叡の言葉。ややあって、比叡は諦めたように口を開く。
《榛名は、今回のソ連艦撃沈について、どう思ってるわけ?》
「やっぱり、比叡お姉さまもそれを聞くんですね」
《やっぱり、ってわかってたんじゃない……。まあいいや、それで、榛名はどうなの?》
 比叡にしては珍しく、抑えめの声。感情を読み取らせまいという比叡の意図は感じられるし、ある程度成功しているようにもおもう。
「ことさら、いうこともありませんよ。榛名は、何一つ間違ったことはしていません。榛名は榛名のすべきことをしただけです。これを非難されるいわれは、どこにもありませんよ」
 ゆえに、榛名は率直に答えを返す。
《うーん》
 比叡は唸る。
《榛名さ、榛名の言い分はわかるんだけどね。でも、やっぱり今回のことは、そうやって言い返せるものじゃないと思うよ》
「どうしてです?」
 この話題になった時点で、比叡が榛名に対してなにか苦言を呈することは、わかっていた。しかし、どうして比叡がそういう事を言うのか。それがわからない。
《ひとつは、外交という話かな。そりゃ、国防に関わる話は、軍の専権事項ではあるけどさ。それでも実際には、国家間でおきることは外交判断も必要でしょ?》
「そうでしょうか? 無断で土足のまま玄関先に上がってきた相手に対して、榛名たちがお茶を用意してやる必要はないと思うのですが」
《ほら、土足で上がってきたといっても、いろいろあるじゃん。もしかしたらお腹が空いて仕方なかったのかもしれないし、怪我をして困ってるのかもしれない。そういうのも、榛名は追い出すの? 優しい榛名はそういうことしないよね?》
「それとこれとは、別の話ですよ。第一、相手はナイフをかざして入り込んだんです。そこにかける情けがあるのですか?」
《本当にナイフを持っていたの? そこが問題なんじゃない?》
「相手は警備艦とはいえ、軍艦です。しかも、榛名たちはさんざんに停止を求め、警告を発しました。でも、止まらなかったわけですよね? そこまでされれば、もうかける情けはありません」
《でもね》
 比叡の諭すような言葉は、少し困ったような比叡の表情を思い起こさせる。らしくない顔を、しているはずだ。
《今回の行動は、それでもやっぱりまずいんだって。海軍上層部に報告もなく勝手に動いてるし、その挙句に相手を沈めてしまってる。これはよくないよ》
「ですが榛名は」
《榛名が、国のためを思ったってのは知ってるよ。私は所詮、艦娘でしかないし、榛名は提督としていろいろ判断したんだと思うけどさ。でもまずいって。戦争になりかねないよ?》
「そういう心意気を見せるのが重要だと、榛名はそう考えます。そもそも、軍艦を不法に領海へ侵入させている時点で、相手は戦争するつもりだったと考えるのが普通ではないですか? それなのに、日本が軟弱な態度を取れば、日本も恐るるに足らず、とそう思われるのではないですか?」
《それじゃ、榛名は戦争したいわけ?》
 要するに、比叡は戦争になることを警戒している、ということだろうか。しかし、もしそうだとするなら、それほど無駄なことはない、と榛名は思う。
「それは、榛名の意思ではなく、向こうの意思で決まっていると考えます」
《そうは言ってもね、榛名。すべてをそんな風に、日本に敵意を持つものととってしまえば、相手だって態度が硬化せざるをえないよ。何より、今回のことは突発的な事態なわけで、相手が何を考えてるかなんて、わからないと思うし》
 何を考えているか? そんなものは、わからない。わからないからこそ、相手が突然戦争を仕掛けてくることを、想定するのではないだろうか。
「お姉さまは、喧嘩をするときに、喧嘩をすると宣言してから殴るのと、言わずに殴るのと、どちらの方が勝てると思いますか?」
《そういう問題じゃないって。もう戦争は終わったんだよ? これだけの被害を出して、さんざんに苦しんで、それでもまだ人間とも戦うの? そんな馬鹿げた話、あるわけないよ》
「ですが、ソ連は間違いなく、榛名たちの土地を狙ってる。違いますか? 間違いなく、ソ連は樺太と千島を狙っています。それくらい、地図眺めたってわかりますよね?」
《それは》
 比叡は一瞬戸惑った様子だった。そこには、反論しようがないのだ。千島列島、間宮海峡、宗谷海峡、津軽海峡、対馬海峡。すべてを抑えられたロシアは、オホーツク海や日本海から、太平洋に出られないのだから。
「榛名たちの使命は、そのソ連の侵略から、北千島を守ることに他なりません」
《えっと、さ》
 と比叡は割り込んでくる。
《どうして榛名は、そこまでソ連を敵視してるの? 私にはそれが不思議で仕方ないかな。同じ人間同士なのに、まるで深海棲艦と同じみたい》
「同じなんですよ」
 榛名の即答は、比叡をたいそう驚かせたようだった。
「深海棲艦もソ連も似たようなものです。同じように、この北千島を侵略しようとしているのですから」
《それはいくらなんでも納得できないよ》
 比叡の声色はいつになく硬い。
《深海棲艦は、私たちには全く理解できないし、会話の余地もない敵だったけど、ソ連はそうではないよね。相手は人間で、話し合いができて、平和な解決ができる。そうじゃない?》
「それは、比叡お姉さまの考えが甘いだけです。そんな風に考えていては、守れるものも守れなくなります」
 とことん、比叡とは感覚がズレているようだった。どうして比叡がわかってくれないのか、そこまで楽天的にいられるのか、榛名は理解し難い。北にいるかどうかの差なのかもしれないが、それにしても比叡は安穏としすぎているのではないか。
《あのね、榛名、だから》
「この北千島を守ることが、榛名の使命なんです。榛名たちが、どれだけの犠牲を払って、北千島を守ってきたと思ってるんですか? お姉さまも、それを考えれば、とても侵略者を許そうとは思わないはずです」
《それは、そうだけど、でも……》
 千島を守って、多くの艦娘が沈んだことくらい、比叡だって知っている。それなのに、まだわかってくれない。少し、まずいと思いつつ、でも榛名は、言わずにはいられなかった。
「お姉さまにこう言っていいのかわかりませんが……。榛名は、温禰古丹を忘れられないのですよ」
 温禰古丹。その言葉に、比叡は黙り込んだ。
「温禰古丹では、多くの仲間を失いました。霧島さえ、向こうに行ってしまったんです。それなのに、榛名は、生き残ってしまいました。なぜだと思います?」
 なおも比叡は無言。比叡は反論できないのだ。それを、榛名も知っている。知っていて、出したのだ。
「それが、榛名にはわかりません。でも、ひとつ言えることがあるんです。榛名は、生かされたんだ、って。本当は、榛名がいくべきだったのに、霧島が代わってくれてしまったんです。本当は、ここに霧島がいるべきだったと、そう思うのです」
《榛名、それは違う。違うよ。だって……》
「いいえ、何も違いません。違わないんですよ」
 榛名は比叡の言葉を遮って続ける。
「正直、今でも、霧島のことはよくわかりません。一番近い妹なのに、最後まで何もわかりませんでした。でも、一つだけ知ってるんです。榛名より、霧島の方が、ずっと優秀な艦娘だったって。いえ、優秀な"人間"だったんですよ」
 榛名にとって一つ下の妹は、もっとも榛名の苦手とする存在だった。霧島は、常に榛名の上にいた。個人として挙げた武勲にしても、艦隊指揮における功績にしても。だからだろうか、霧島はきっと榛名を姉だとは思っていなかったに違いない。ずっと榛名のことを呼び捨てにしていたのは、そういうことだろう。
 だから、榛名は霧島のことが、疎ましかった。姉として認められないのは悔しかったし、自分との才能の差が妬ましくもあった。自分が上であると見せることもできず、霧島に対してはずっと鬱屈した感情を持っていた。それは、否定できない。榛名にとって、霧島は邪魔な妹だった。
「姉としては、認めたくないことです。でも、やっぱり榛名よりは霧島の方がずっと優秀だったんです。だから、霧島が残るべきだった。温禰古丹のときから、私はずっとそう思っています。でも、その霧島も沈んだんです。あの、寒くて暗い温禰古丹の海に。榛名に代わって」
 だが、霧島は沈んだ。しかも、榛名から無理やり死に場所を奪い取って。最も激戦になる、温禰古丹海峡中央部を受け持って、最後まで守りきって、沈んだ。ずっと、榛名は霧島のことをぞんざいに扱ってきたのに、最期の最期になって、霧島は榛名を立ててくれた。否、きっと、霧島はずっと榛名のことを、きちんと姉として認めてくれていた。それを、榛名が受け取らなかっただけなのだ。
 だから、榛名は、それを償わなければいけない。榛名よりずっと優秀だった霧島が、その身を挺して守ったものなのだから、榛名は引き継がなければいけない。
「なので、榛名はこの北千島を守らなければならないんです。榛名のできることは、逝った霧島や仲間たちの守ったこの北千島を、守っていくことなんです。榛名が生き残った意味は、きっとそういうことなんです」
《榛名、でも》
 きっと比叡は、苦々しく眉をひそめているだろう。その表情は容易に思い浮かぶ。だが、榛名は言葉を留めない。留めるつもりはない。
「こればかりは、比叡お姉さまに何を言われようと譲れないんです。それだけは、譲れません」
 言い切る。霧島が沈んだのに、榛名が生き残った理由など、それくらいしか榛名には思いつかない。そうでなければ、あの霧島が死んだ理由なんて、説明がつかない。霧島があんなところで死ぬなんて、そんなふざけた話はない。
「ですから、比叡お姉さま。榛名は何も間違ったことをしたつもりはありません。榛名は榛名の意志で、この島を守るだけですから」
《……そっか》
 比叡の声は、らしくなく沈んでいる。
《そこまで言われたら、私にはもうなにも言えないや》
「そうですか」
 榛名は、ほんのすこし、申し訳なくなる。比叡は、温禰古丹に参加していない。姉妹で唯一、比叡だけが参加しなかった。だから、温禰古丹の話をすれば、比叡は何も言わなくなる。そのことを、榛名は知っていた。知っていて、話を出したのだ。
 それでも、榛名は譲れなかったから。
《でもさ、榛名。きっとその考え方は間違ってるよ。生き残ったことに意味なんてないんだよ、きっと。生き残るかどうかなんてきっとクジみたいなもので、その意味は自分で作っていくものなんだよ》
「榛名は、そうは思いませんよ。そんな理不尽、榛名は認めたくありませんから」
《そっか》
 比叡はもう何も言わなかった。
《今日はいろいろ余計なこと言ってゴメン。でも、これからどうするのか、もう一度じっくり考えてね。もし、舞鶴行くというなら、私もいろいろ協力するし》
「いえ、こちらこそ言い過ぎたかもしれません」
《いいよ、榛名は大切な妹だもん。それじゃ、忙しい時に失礼しました》
「こちらこそ、連絡ありがとうございました」
 榛名の言葉を最後に、音声は途切れる。
 しかししばらく、榛名はそのまま端末を手放さない。
 少し言い過ぎただろうか、という後味の悪さが、榛名の周りを渦巻いていた。比叡が、好意で忠告してくれたことはわかっている。なれば、もう少し穏便に済ませるべきではなかったか。
 一方で、もっと強攻すべきではなかったか、という意識が存在しているのもまた事実。比叡は、温禰古丹を知らない。だからこそ、あのようなぬるいことが言えるのだ。あの地獄を一度見れば、その地獄を超えてまで守った北千島を、そうそう危険に晒せないはず。比叡には、それがわかっていない。だから、わからせるべきではなかったか。
 榛名は、ゆっくり首をふる。比叡は大切な姉である。その姉と喧嘩するのは、榛名だって望んではいないのだ。
 もう、姉妹を失いたくなんて、ない。



《Hi! お久しぶり、元気ですカ?》
「お姉さま! お姉さまこそ大丈夫なのですか?」
 最初、液晶画面の名前表示には、驚きのあまり固まってしまった。
《so-soというところネー。ま、いつものことヨ》
 金剛の声は、いつも以上に細いように思われる。
《Because, あまり心配しなくても大丈夫ネー》
「そう言われても、ですよ。だって、体調崩された、と」
《比叡に聞いたのですカ? マッタク、比叡もtalkativeネー》
「比叡お姉さまも、お姉さまが心配なのです。それで、お加減、いかがですか?」
《だから心配ないネ……。少し熱を出しただけデース。いつものことですヨ。比叡が大げさなだけヨ》
 全く、と。いつもの金剛といえば、いつもの金剛のようだった。
「そう言われましても、心配なものは心配なんです。お姉さまが体調を崩されたと聞いて、心配しない妹はいません」
《本当、姉思いの妹を持って、私はhappyネー。私には、出来すぎた妹達デース》
 突然何を言い出すのか。少し榛名は不安になる。金剛のストレートな賛辞自体は、いつものこと。だが、電話かけてきて早々というのは、少し何か急いているのではないか?
「お姉さま、唐突にいかがされたのですか?」
《? 素直に妹を褒めてるだけデース》
「いえ、あまりに突然ではないか、と。」
 電話の用件もよくわからない。金剛は話したがりなので、しばしば何もなくても電話をしてくるが、しかしここまで何の話かわからない、ということはそうそうない。
《そうでもナイヨ。榛名とお話したいからtellしてるだけデース》
「そうですか、それならよいのですが」
《本当は、舞鶴に会いに来て欲しいトコロですガ。どうやら、榛名は来てくれないようですからネー》
「お姉さま?」
《比叡に聞きましたヨ。舞鶴には来れないト》
 なるほど。榛名は身構える。その話か。
《私も、是非榛名には会いたいネー。舞鶴に、来ませんカ?》
「お姉さま、それは……」
《For a long time, 榛名とは会っていませんネ。ゆっくり、顔を合わせて話をしたいものデース》
 金剛の意図を読みかねて、榛名は答えに窮した。
《榛名は、そうは思いませんカ?》
「えっと……」
《まさか、榛名は私と会いたくない、ということデスカ? うう、ついに榛名も反抗期とは、お姉さん悲しいデース》
 金剛のあまりにわざとらしい泣き真似に、榛名はどう答えたらよいかわからない。
《榛名に嫌われてはオシマイデース。もう生きていく気力も無くなりマシタ》
「ちょっと、お姉さま!」
 冗談とも本気ともつかない金剛の軽口に、思わず榛名は叫んだ。
《おや、反応してくれたのデース》
「お姉さま、そういうこと言うのはやめてください!」
《榛名がどちらともつかぬからネ。それで、舞鶴には来ないのですカ?》
「お姉さま……。お姉さま、聞きたいことがおありなのでしょう? 比叡お姉さまから、何を聞いたのかは、わかりませんが」
 諦めて、榛名は切り出す。要するに、金剛もその話がしたいようなのだ。
《その感じ、やはり比叡とはそうとうやりあったのネ》
「意見が相違しただけですよ。それほど大変な話ではありません」
《そう。それなら良いケド。姉妹は仲良くないといけませんヨ。結局、自分のことを理解してくれるのはどこまでいっても、姉妹ですカラ》
「それは、そうですが」
 それでも、譲れないことはある。
《比叡もあれで、榛名のことをいろいろ考えているのです。比叡の言うことをすべて聞け、とはとても言うつもりありませんが、少しは比叡の聞いてあげてもバチは当たりませんヨー?》
「それはわかっています。比叡お姉さまは、きちんとものを見ていますから」
 あるいは、モノの本質を見抜く素質については、比叡がもっとも優れているかもしれない。金剛がそう言っていたことを、榛名は思い出した。
「ですが、譲れないこともあるのです」
《昔から、本当に榛名は変わらないですネ。相変わらずの頑固さデース》
「私は、ただ」
《わかってますヨ。温禰古丹、デショウ?》
 金剛から出してくる、とは思わなかった。温禰古丹、という言葉は、いつ聞いてもあまり気分の良いものではない。
《あの光景は、忘れようとして忘れられるものではアリマセン。デスから、榛名の気持ちはよくわかるのデース》
「でしたら」
《今回の対応はerrorではない、と?》
「そうではありませんか? 榛名達が守った北千島を、みすみす奪われるわけにはいかないのです」
《Umm...》
 金剛の反応は、期待していたものとは少し違う。榛名は、少し首を傾げる。
《榛名、榛名は少しearnestに過ぎると思うのデス。物事を何もかも真正面から受け止めることはないと、私は思いマス》
「それは、どういう、ことですか?」
《確かに、北千島は多大な犠牲を払いながら、なんとか守ってきたものです。流した血の量は何にも変えがたいものです》
 いつもの訛りが、消えた。たったそれだけなのに、金剛の言葉は、榛名にはずしりと重く響く。
《ですけどね、榛名。戦争は終わったのですよ。全てが終わったんです。だから、私達も、戦争を終わらせなければなりません》
「それは、どういう」
《私達も、温禰古丹から離れて、前を向くべきだと、そう思うのです。私は先も長くはありませんが、榛名や他のみなは、これからどれだけの生を歩むかわかりません。その全てを、あの温禰古丹の海に囚われてしまっては、勿体無いと、そう思いませんか?》
 にわかに信じがたい言葉が、榛名の耳をうつ。
「金剛お姉さま……」
 榛名は次の言葉を紡ぐこのさえままならない。金剛は、今、何と?
《榛名が、北千島に抱く思いはわかります。私だって、もともと幌筵にいたのですから。ですが、いつまでもそこに固執しても、何も生まれません》
「金剛、お姉さまは」
 榛名は、一言ずつじっくりと、言葉をなす。
「お姉さまは、霧島を、皆を、忘れろと、そういうのですか?」
《榛名……》
「お姉さままで、そういうことを言うのですか? 北千島には、皆がいます。霧島がいます。温禰古丹に、今も沈んでいるんです。それを、忘れろというのですか?」
《榛名、そんなに強弁しなくても、言いたいことはわかりますよ》
 思わず、語気が強まっていた。
《でも、死んだことにばかり囚われていても仕方ない。そうは思いませんか? 温禰古丹だけが全てではないでしょう? 彼女たちは、ただ温禰古丹で死んだだけではないのですよ。幌筵に来る前のこともあります。幌筵に来てからだって、いろいろなことをしました。皆それぞれ、楽しいことも悲しいことも苦しいことも嬉しいことも、たくさんあったでしょう? 温禰古丹島の黒石山にも登りました。宇志知島の暮田湾の絶景を眺めもしました。榛名だって、覚えているでしょう? それをただ、温禰古丹海峡の悲劇にだけ矮小化するのは、もったいないですよ》
 榛名は、金剛の言葉に返すわざを知らない。
《榛名の言い分もよくわかりますが、少し頭が冷めたら、もう一度考えてほしいです》
「それは……」
 しかし、榛名の脳裏によぎるのは、やはり温禰古丹の惨劇。空を埋め尽くす艦載機。全身血染めの艦娘たち。砕け散った仲間たちの残骸。別れ際の、霧島の笑顔。日本酒を飲もう、と、そう言った、笑顔。
「いえ、榛名には、できません」
《榛名……》
 金剛の心配そうな声に、榛名の方が申し訳なくなる。
「お姉さまの言いたいことはよくわかります。榛名も、そうだと思っています。でも、そうは、思えないんです。いつも思い浮かぶのは、やっぱり温禰古丹なんです」
《……そう》
 金剛は、消沈したまま答える。
《わかっているなら、よいけれど。私たちはね、榛名。越えたのですよ。あの地獄を。せっかく越えたのだから、囚われることはないのです。きっと、あの海に消えた皆も、温禰古丹にばかり囚われていては欲しくないと、そう思いますよ》
「榛名も、そうは思います」
 静かにそう答える以外の術を、榛名は持たなかった。
《なら、いいけどね》
 それ以上、金剛は踏み込んでこない。それっきり、金剛はいつものように、他愛もない艦娘の噂について話し出す。例えば大湊の矢矧が寝込んだ、とか、呉の長波が謹慎になった、とかそんな類の。もう、北千島の話は、出なかった。

 果たして、金剛は榛名の言い分を納得してくれたのか、それとも呆れられたのか。
 それでも、榛名は止まれない。止まるのは、霧島に申し訳なかったし、榛名の矜持が許さないのだ。






二ノ五

「翔鶴さん、翔鶴さん! 大変です!」
 件のソ連海軍艦娘侵入事件より、すでに十日が過ぎている。相変わらず、幌筵警備府庁内も、どことなく緊張した空気が流れていた。艦娘が艦娘を沈めた、という話自体、めったに無いような話。それをどう受け取って良いのやら、皆が皆混乱しているようだった。加えて、榛名が海軍省に歯向かったという話もあって、それぞれ思う所があるようでもある。
「あら、秋月? どうしたの、そんな顔色を変えて」
 とはいっても、翔鶴はいつもどおりの生活をしているだけ。今日も暢気に、千島硫黄山麓の温泉に入ってきたところだ。千島は火山列島で、温泉も数多い。連日、働きもせずに湯治しているのだから、我ながら贅沢な生活をしている、と思う。しかし、正規空母が出撃する機会などないのだから、仕方ない。それに、おかげさまで体調も上がり調子なのだ。
「大変なんです! とにかく、みんな大騒ぎで!」
「秋月、一度落ち着きなさい。何の話か、全くわからないわよ」
 にしても、秋月の話がまったく要領を得ない。普段は真面目な秋月のこと、たいてい情報を持ってくる時にはまとめてくれるのだが、今回ばかりはそうではないらしい。
「北千島が、ソ連が!」
 駄目だ。秋月がここまで焦っているのは、尋常ではない。しかも、漏れた言葉は、翔鶴に不吉な予感を覚えさせる。ここの所、立て続けに揉め事が起きている。基本的に、人のことはどうでもよい翔鶴にしても、こう続くのは勘弁してほしい。
「いいからこっちに!」
 秋月に手を取られ、そのまま談話室へと引っ張られていく。海霧にぐっしょり濡れたコートを脱ぐ暇さえない。秋月は、本当に焦っているようだ。
 談話室に入ると、暖炉の火さえ落とされて、じんわりと冷気が溜まりこんでいる。まだまだ明るい午後六時過ぎ、談話室に誰もいない、というのは珍しい。食事だってこれからのはずだ。ただ、テレビからキャスターの声が、虚しく響いている。
 そのテレビに映るものを見て、翔鶴は思わず顔を顰めた。ある意味で、翔鶴の予測は当たっていたし、しかし少し外れていた。最も、翔鶴が"そうでなければよい"ということを、そして"そうなってもおかしくないだろう"ということを、テレビは映し出している。
 いわく、昨日深夜に日ソ首脳会談が緊急で持たれた、と。結果、去る戦争に関する負債を十五分の一に圧縮し、かつレンドリース法の十年延長を決定、また多額のルーブル建て無利子融資の引き出しに成功した、と。
 その代償はただひとつ。

 北千島である。

 得撫(うるっぷ)以北の中千島・北千島をソ連へと割譲する。現在その地域に住む一万余のひとびとは、日ソどちらの国籍も選択可能とする。そのように、キャスターが告げていた。
 ああなるほど、そういうことだったのか。この頃の騒動の要因が、ひとつにつながったように、翔鶴は感じる。なるほど、これなら納得がいくが、しかしこの警備府は荒れるはず。さしもの翔鶴も、少しいろいろなものが心配になる。
「これ、いつ決まったの?」
「えっと、今日の昼前には発表が。翔鶴さんが出てからまもなくでしたよ」
 いなくてよかったような、いた方がよかったような。さぞ揉めるに違いない話。きっと、ろくな事にならない。
「それで、皆は?」
 というわけで、問うてみる。
「おおかた、榛名さんのところに行ったまま、帰ってこないですね」
 哨戒に出ている駆逐艦娘を除けば、と付け足す。案の定、といったところ。
「それは、揉めそうね」
「とりあえず海軍省の方に真意を問い合わせてみる、ということにはなったみたいですけど」
「あら、榛名さんの謹慎は解けたの?」
「いえ。むしろ、舞鶴から召還されているそうですが」
 無視しているらしい、と。それでも海軍省に問い合わせる、という榛名の妙な度胸に、翔鶴は感心さえする。
「すごいわね」
 翔鶴はようやくコートを脱いでハンガーに干すと、指定席の安楽椅子に座りつつ、気のない返事を返した。きっと、二階はまだ大騒ぎだろう。
「翔鶴さんは、行かないのですか?」
「行っても、ね」
 翔鶴がまとめられる状況ではないだろうし、そもそも翔鶴がまとめてやる義理もない。
 翔鶴は新聞を取り出す。数日前のものだから、当然その話は載っていない。一枚めくったところの社説には、今こそ国威高揚を、とある。
「でも!」
 しかし、秋月は、その翔鶴の反応では満足できなかったようだ。
「ん?」
「だって、無くなってしまうんですよね。翔鶴さんは、それにはどう思うんですか?」
「仕方ないんじゃない?」
 翔鶴は即答した。
「個人的には、名残惜しいわ。幌筵に来てから、なんだかんだ結構時間も経ってるから。でも、ここを手放すのは仕方ないもの」
「仕方ない……?」
「前にも話したけど、この国にはもう北千島を支えられないわ。これからの本土復興のことを考えても、妥当な決定とは思うわよ」
「そうですか……。少し寂しいですけれど」
 当の秋月本人は、翔鶴のわりと杜撰な説明で納得してしまったようだが。
「個人的には、ずっとここにいられればいいのだけど。でも、世の中そういうわけにもいかないから。国は国益を考えるもので、個人の益を考えるものではないの」
 北千島の割譲の対価は、聞く限りかなり有利である。日本の現状に鑑みるならば、よくそこまでの条件を引き出したものだ。翔鶴はその点に、帝国外務官僚の手腕を見直している。
「そんなものですか?」
「集団の利害と個人の利害は一致しないものよ。そこに答えがないから、人間社会というのは難しいものなのだけれど」
「はー。でも、それなら今回の話は国益には合うのですか?」
 秋月が、疑問符を頭に浮かべている。
「考えてもみなさい。日本は、この北千島から何か生産しているかしら?」
「えっと……」
 秋月はやや上を向いてじっと考え、それからややあって答えた。
「すみません、ちょっと、分かりません……」
 申し訳なさそうに笑う秋月。
「まあ、そうよね。だって、もともとないんだもの」
 そんな秋月へ、にべもなく翔鶴は答える。
「……え?」
「その秋月の直感が正しいのよ。もともと、北千島に生産物なんてほとんどないの」
 北千島の過酷な環境は、生産活動そのものを阻む。人口1万というのも、実質は夏季人口である。往時は北洋漁業の拠点となったが、それも深海棲艦の活動の広がりもあって、すべて途絶えた。
「一つだけ、北千島でもやってることがあるわ。それが、テルル鉱石の採掘ね」
「テルル?」
「金属の一種ね。艦娘の艤装システムには必須の希少金属よ。私達を海に浮かべるために、温禰古丹島や新知島のプラントで、テルル鉱石の採掘・精錬をしているわ。それくらいね」
 他の駆逐娘だったら、きっと覚えていただろう。戦争中、テルル採掘は盛んに行われ、対岸の樺太・縫鵜(ぬう)港に運ばれた。この際、九水戦はしばしば護衛任務についていたからだ。秋月は、あくまで翔鶴と龍鳳との六航戦にいるから、その任務はなかったが。
「でもね、これ、日本では他のところでも取れるの。それになにより、もう艦娘の新造はないし、破損する機会もめっきり減ったわ。テルルの使い道、他に全くないわけじゃないけど、決して多くはないから、需要が激減してるの」
「そうなると、つまり北千島って、さっぱり何にもない、ってことですか?」
「そういうことよ。少なくとも、日本にとってはね」
「日本にとっては?」
「ソ連は欲しいのよ。ソ連は極東に高品位のテルル鉱山を持ってない。だから、北千島が欲しいのよ」
「あれ、でも」
 と秋月は不思議そうな顔をする。
「何に使うんですか? テルルって、艦娘の艤装に使うんですよね」
「そうね。ま、そういうことよ」
 言ったまま、翔鶴はゆるく微笑んだ。要するに、ソ連は艦娘をまだ作るつもりである。それを何に使うのか。言うまでもない話だが、露骨に言うことでもない。翔鶴はそう思う。
 秋月は、またちょっと難しそうな顔をしている。わかったかどうかは、知らない。
「ほら、こう考えたら、この交渉が必ず不利には思えないでしょう?」
「つまり、日本にとっては価値の無いところを、売り渡したということになるんですかね?」
「そういうこと」
 厳密に言えば、北洋漁業の将来性などに鑑みて、決して価値がなかったわけではない。戦争を通じて、海洋資源は著しく回復した。戦争のおかげで生態系が復活したとさえ言われる。北千島のラッコ猟など、きっと大儲けできるだろう。しかし、北千島で猟をできる体制を作る体力が、この国にはもうなかった。
「そういう意味では、アリなのよ」
「そう言われると、そうかな、という気もしますけど……」
 秋月の表情は、まるで狐に摘まれたような、そんな様子である。そのまま心底納得できるわけではないのも、当然だろう。
「でもやっぱり、納得いかない気もします。まるで、戦争に負けたみたいな」
「ほとんど負けたようなものなのよ。戦争」
「……え?」
 翔鶴の言葉に、秋月が焦ったような表情を示す。
「国土を蹂躙され、国民を殺戮されてね。戦争は終わったけど、何も得るものはない。置かれた状況は敗戦国と何も変わらないわ」
「えっと、でも」
 秋月はきょろきょろと周囲を見回している。
「例えるなら元寇みたいなものなのよ」
「元寇?」
「あら、それくらいは基礎教育で」
 と叱りかけたところで、翔鶴は言葉を止める。
「そういえばあなた達は速成だったわね」
 秋月たちが艦娘になったのは、東京が陥落・消滅し、いよいよ苦境に陥った時期のこと。その時期の艦娘たちは、速成として最低限の訓練で投入されている。
「元寇って、日本は勝ったけど、何にもならなかったでしょう? 日本は何かを得たわけではないから、戦った御家人に恩賞を払うこともできなかったの。それで、鎌倉幕府は後醍醐帝によって滅ぼされちゃった」
「私たちも、何か得たわけではないから、同じ、ということですか?」
「そういうこと。残ったのは焼けた国土と、勝ったという誇りを持つ国民だけ」
 あるいは、日露戦争にだって例えられるかもしれない。翔鶴はそう認識している。
「そう考えれば、北千島を売り払おうというこの動きは、ごく自然よね」
「そう言われると、普通な気がしますけれど……」
 なんとなく、納得できなさそうな秋月の口調である。それが、普通の反応だ。
「問題は、そう言われないと納得できないところかもしれないけどね」
「?」
「国民は納得しない、って話。しかも、日露戦争以来、私たちはソ連よりも日本が上だと、そう思ってるでしょ?」
「もちろんですよ。私たちは日露戦争で勝っていますから」
 無邪気な瞳で秋月は応える。翔鶴は軽くため息をつく。
「それ、現実的ではないって、わかってる?」
「そりゃ、今は逆転してますけど」
 チョコ美味しかったし。秋月は、あのマガダン土産を思い出しているらしい。
「って、みんな思うのよ。だから、そんなソ連に領土を引き渡すことは、認められない」
「認めないと言っても、そう決めたんですよね?」
「だから、暴動よ。これから、たぶん松代や旭川は大変だと思うわよ」
 松代は政権中枢の所在地、旭川は帝の行在(あんざい)所である。戦争初期、いよいよ東京が陥落の危機に瀕したときに上川離宮へ帝と高御座(たかみくら)とが移り給うてより、旭川が帝のお膝元となっている。
「そんなことになりますかね……?」
「なるわ。下手をすればクーデターにすらなりかねないんじゃないかしら」
「そこまでですか?!」
「軍にとっても認めにくい話よ。私たちほどではなくたって、懸命に千島を守ってきたのは変わらないのだもの」
 秋月が、また焦ったように周囲を見回している。先からどうしたんだろうか、と翔鶴は思う。気にせず、話を進めるわけだが。
「軍にとって、というか特に私達にとっては、タイミングが本当に悪く見えるものね」
「それは、この間の?」
「そうよ」
 この間、といえばソ連艦娘の領海侵犯事件しかない。この警備府は、その事件の衝撃からまだ冷めていないのだ。
「あれは、酷い事件でした……。こんなことになるなら、なぜソ連はついこの間、領海に侵入してきたのでしょう?」
「逆よ。こんな状況だから、侵入してきたの」
 翔鶴の言葉は、秋月にとって意外だったようで、目を丸くしている。
「試されたのよ。日本が」
「試す?」
「日本の海軍力がどの程度残っているか。日本がどの程度譲歩する予定があるか。すでに交渉中だったのは間違いないわけだから、日本の力を測ろうとしたんじゃないかしら。もしあそこで、日本の海軍力がズタズタだったり、妙に腰砕けな対応を取るようだったら、難題をふっかけるつもりだったんでしょうね」
「え、でもそんなことしたら、交渉は……」
「決裂しようがないのよ。だって、交渉を打ち切った時にキツイのは日本だ、ってソ連はわかってるから」
 すらすらと翔鶴が答えると、秋月は唖然としたまま固まっている。
「その意味では榛名さんの判断は、そう間違ったものではなかったのかもしれないわね」
「え?」
「だって、あっという間に沈めてしまったでしょう。それできっと、ソ連は日本側のやる気を知ったに違いないわ。今回の、あの破格な条件の一因に、あの榛名さんの対応があった可能性は、十分にあると思うわよ。交渉する余地さえ与えなかったわけだから。それに、あの動きだものね」
「あの動き?」
「あら、秋月、戦闘詳報見てないの?」
「えっと、見てません……」
「ダメよ、見ないと。特に、不知火も磯風も、駆逐艦の中でも指折りの戦上手。だから、とても勉強になるわよ。私だって、彼女たちのは欠かさず読むのだから」
 翔鶴は正規空母で、不知火も磯風も駆逐艦。すべてが参考になるわけではないが、しかしとっさの操艦や指示伝達など、役に立つところは少なくない。
「今回のは、本当に鮮やかよ。不知火も磯風も、非常に効率的に敵を追い込んでいる。もちろん、ソ連側は旧式艦だったのもあるけど、これじゃ為す術なかったでしょうね」
 まるで手本のような操艦なのだ。
「すみません。でも、ちょっと読む気にならなくて」
「あら、どうして?」
「だって、敵も艦娘ですよね。相手も、同じ立場なのに……、と思ってしまって」
 秋月の少し申し訳なさそうな顔。翔鶴は、言葉に困った。言われてみれば、その通り。はじめて艦娘が艦娘を沈めた戦い、ということにおそらくなる。
「それはごめんなさいね。きちんと考えるべきだったわ」
 としか、翔鶴は言えない。そういうところの気の利かなさは、いつも瑞鶴に怒られるところなのだ。
「いえ、大丈夫です。ただ、響や叢雲のあの苦しみってなんだったんだろう、って思ってしまいまして」
「艦娘ってのは、道具なのよ」
 さらり、と翔鶴は言った。
「違うわね。軍隊というものが、というべきだわ。私達が艤装を背負っているかに関わらず、私達は道具なのよ。さっき、個人の利害と集団の利害との対立という話をしたけれど、私達軍人には、個人の利害なんてないの。国のために働くのだから」
「それは、そうかもしれませんけれど……」
 秋月の寂しそうな声。しかし、構わず翔鶴は言葉を続ける。
「そうでしかないの。残念だけど。だから、私達は、ここを離れろという命令を受けたら、離れるしか無いのよ」




 事態は悪化しているようだった。
 悪化しないはずもない。かろうじて映る国営放送は、連日のように各地の大規模なデモを映している。中には、完成間近の間宮海峡トンネル爆破計画が摘発される有様。国内すべてが、領土の割譲という屈辱を許した政府に対して反旗を翻しているようだ。もっとも、政府の側は、戦争以来の戒厳令を発令し、軍を用いて鎮圧しているようだが。下手をすれば、そのうち艦娘だって動員されるかもしれない。
 とはいえ、この警備府が動員されることは、まずありえない。幌筵警備府の態度もますます硬化していた。利根と不知火にいたっては完全にボイコット活動に入っているし、榛名も海軍省との交渉さえほとんど絶っているらしかった。率直にいって、反乱寸前である。不知火など、近づく船はことごとく沈めて構わない、と強弁する。市民とともに政府打倒に動くことはあっても、政府の命令を聞くことはあるまい。
 一方で、熊野や大淀は、毎日榛名を諌めに行っているらしい。ただし、彼女たちが冷静であるか、というとそれも違うように思われる。上部の教令権に従うことを金科玉条としているから、従わぬ人々が許せぬらしい。というわけで、その対立は日に日に激化しているようで、警備府全体が分裂しつつある。伊勢や叢雲は、なんとかその間に立って仲裁を図っているようだが、うまくいっていない。
 そんな情勢だろうが、構わず日々を過ごす翔鶴である。どちらにせよ、物事はなるようにしかならない。それに背くのは愚か。翔鶴は、そう考える人間である。ある意味で、翔鶴はとことん運命論者だ。
「金剛さんが危ない?」
 その翔鶴でさえ、龍鳳の持ってきた話には、耳を疑った。
「だそうです。榛名さんから聞いたのですが……」
「それ、ほんと?」
 と、問わざるを得ない。タイミングが良すぎるように、翔鶴は思えた。
「こんな不謹慎な冗談は言いませんよ!」
 だが、龍鳳はその言葉の意味を違うように捉えたらしい。少し怒ったような龍鳳に、翔鶴は言葉をかぶせた。
「誰も、龍鳳がそんなことするとは思ってないわ。そうではなくて、榛名さんを引き出すための嘘ではない?」
「え?」
 考えもしなかった、という龍鳳の反応。
「それは、どうでしょう?」
「……そうね」
 翔鶴としても、真偽を確認する必要がある。真偽不定の情報に踊らされるのは、勘弁願いたかったのだ。
「ちょっと、立ち話も何だし、部屋に行きましょうか。ついでに、確認するわ」
 龍鳳の手を引き、翔鶴は自分の部屋へと向かう。いくばくなく閑散とした部屋に入ると、翔鶴は携帯端末を取り出し、電話をかける。間違いなく、海軍省には盗聴されているだろうが、翔鶴には関係のないこと。ほとんど呼出音が鳴るか鳴らないか、相手が出た。
《あ、翔鶴姉。珍しいね》

 佐世保の瑞鶴に聞いた限り、話は本当のようだった。いわゆる日和見感染症というもので、免疫の衰えた金剛の肺に雑菌が取り付いたらしい。つい先日、佐世鎮の秘書艦である山城が舞鶴にゆき、実際に金剛に会ったというのだから、本当だろう。
 そんな話をすると龍鳳は、ほらやっぱり、という表情を浮かべる。疑うなんて、というばかりの表情に、翔鶴は少しの不安感さえ抱いた。
「間違いないみたいね」
 翔鶴は溜息をひとつ。
「どうしてこうも、物事が重なるのかしら」
「榛名さんも、天を仰いでいました」
「まあ、そうよね」
 これからどうしたものか。残念ながら、どうあってもさらなる混乱は免れようがなさそうなのである。
「金剛さん、大丈夫でしょうか?」
 龍鳳は、心配そうな表情。優しい彼女は、心底心配しているようだ。
「難しいわね。こう言ってはなんだけど、なんとか生き長らえている、というところでしょう。少しでもバランスが崩れれば」
 翔鶴の推論は、龍鳳の表情を曇らせるだけに終わる。しかし、事実は事実だ。
「なんとか、堪えてほしいものだけれど。ここで、金剛さんを失うのは、厳しすぎるわ」
「榛名さんが、あまりにかわいそうです」
 龍鳳は、すでに少し泣きそうである。どうやら、榛名に感情移入しているらしい。そこまでのことだろうか、と。翔鶴はよくわからない。
「かわいそう、ね。確かに、榛名さんは大変だとは思うけれど」
「だって、榛名さんはこのままだと、すべてを失うことになってしまいます。この島も、金剛さんも、何もかも」
「それは、少し違うのではないかしら?」
 と、龍鳳の言葉を遮るように、翔鶴は言う。
「榛名さんは、確かにたくさんのものを失うことになるかもしれない。金剛さんのことを、榛名さんがどれほど大切にしているかは、私も知ってるわ。でもね、全て、ではないわ。榛名さんは命を失うわけでもないし、比叡さんまでいなくなるわけじゃないもの。榛名さんを慕う艦娘たちだっているし、海軍から放り出されるわけでもない。そこを間違えてはいけないの」
「そんなの、似たようなものじゃないですか。金剛さんは、榛名さんにとって」
「龍鳳。それは違うわ」
 まるで榛名にでもなったかのような龍鳳。感情移入の激しさは知っていたが、ことさら榛名には、思うところも大きいのか、ずいぶんと引きずられている。
「どんなに大きくてもね、全てとは違うのよ。そこは勘違いしてはだめ。人間、生きている限り、全てなんて失いっこないわ。だって、生きているのだもの」
「何が違うんですか?」
 龍鳳は、しかし折れなかった。
「だって、命だけあったって、仕方ないじゃないですか。人は、社会的な生き物だって、榛名さんも言ってました」
「社会的な生き物であることと、社会との繋がりが全てであることは、論理的につながらないわ」
「それじゃ、翔鶴さんは、瑞鶴さんが」
 と龍鳳は、その途中で口を噤んだ。彼女には言えなかったのだろう。龍鳳が、そういう優しい娘であることは、翔鶴だって知っている。
「そうね。もし瑞鶴が死んだなら、それ以上に悲しいことはないでしょうね。瑞鶴は、私にとってかけがえの無い妹。私にとって半身みたいなものだから。それをもぎ取られることなんて、想像したくもない」
 その意味で、翔鶴は決して榛名の抱える悲しみを理解しないわけではないし、理解できないことを知っている。
「でもね、それで"全て"を失うのか、と言われれば、私は否と答えるわ。瑞鶴は半身だけど、全身ではないの。私には、私がいるのよ」
「私?」
「人間が人のつながりだけでできてるだなんて、それじゃ、自分がいないじゃない。そうは思わない?」
「うーん?」
 どうやら、龍鳳は翔鶴と意見が違うらしい。確たる個あってこその社会性。翔鶴はそう考えるのだが。
「考え方は、人それぞれだから、違うと思うならそれでいいんじゃないかしら」
 自分は自分。他人は他人。翔鶴は、そう思う。
「でもそれなら」
 龍鳳の目は赤い。
「翔鶴さんは、どうして、厳しい、なんて言ったんですか? 榛名さんが大丈夫だというなら」
「榛名さんが大丈夫とは言ってないわよ。全てではなくたって、失えば痛いものは痛いもの。もし金剛さんがダメだ、なんてことになってしまったら、榛名さんのショックは大きいと思うわ」
 すぐには立ち上がれないだろう。それくらい、翔鶴にもわかっている。だが、龍鳳の言い分は、まるでそのまま榛名が二度と立ち上がらないとでも言いたいように、翔鶴には感じられたのだ。
「そうそう、榛名さんは、他に何か言ってたかしら?」
「舞鶴に行く、と。そう仰ってました」
 またなんとも、物がこじれそうな話である。金剛は舞鶴だから、仕方ないのではあるが。
「それで、利根さんや不知火さんと揉めてるようですけど」
「……」
 翔鶴は何も言えない。榛名の一貫しない行動は、ますます警備府を分裂に導くだけ。ここまで抵抗しておいて、今更舞鶴に行く、など下策中の下策である。しかし、金剛の危篤となると話は違う。いくら人間関係に興味のない翔鶴でも、金剛姉妹の関係性くらいは知っている。だから、榛名がここにきて舞鶴に行くのは仕方ないこと。ただこれで、警備府の行先はまるで読めなくなる。
「また、喧嘩でしょうか?」
 龍鳳の不安そうな表情。
「あれから何一つ解決していないわ。それどころか、ますます状況は緊迫化してるから、早晩分裂するでしょうね」
 この間の衝突を見る限り、利根も不知火も決して引かぬだろうし、同様に熊野や響も引かないだろう。榛名という漬物石がなくなれば、どっちに転ぶかまるでわからない。
「そうしたら、やっぱり翔鶴さんの言うみたいに、殺し合いになっちゃうんでしょうか?」
「え、私?」
 翔鶴にとっては唐突で、思わず聞き返してしまう。そんなことを、いつ言っただろうか?
「だって、こないだ、翔鶴さん言ってたじゃないですか。殺し合えばいいじゃない、って」
「……そんなこと、言ったかしら?」
 全く記憶に残っていない。
「え、覚えてないんですか?」
 龍鳳の信じがたい、といった表情。そんな表情をされる覚えもないが。ただ、何について言われているのかもわからないのだから、反論しようもない。
「ほら、利根さんと熊野さんが睨み合いになったときに仰ってたじゃないですか」
「えっと……?」
「ここが閉鎖になるのではないか、という噂が流れた時です。ソ連艦娘侵入の直前くらい」
「……あ」
 ようやく翔鶴は思い出す。そういえば熊野と利根とが殴り合いをしそうだったので、仲裁に入った記憶がある。
「ようやく思い出しました?」
「あの時のことね。確かに、なにか過激なことを言った気がするわね」
「言った気が、じゃないですよ。殺し合い、って言ってましたよ」
 龍鳳の機嫌が悪くなる。そこまでのことか、と翔鶴は不思議にさえ思った。
「あのねぇ、私が本当に殺しあえばいい、とそう思ったと思うわけ?」
「だって、実際にそう言ったじゃないですか」
 なんだか、龍鳳の中では翔鶴の評価が低いらしい。そういうことを言うと思われているようだ。
「本当にそう思うわけないでしょう? 熊野だって利根だって、大切な戦友よ?」
「それじゃ、なんであんなこと言ったんですか?」
「仲裁よ。あのまま放っておいたら、本当に殴り合いになったでしょう?」
「仲裁? あれで、喧嘩止めるんですか?」
「そうよ」
 まだ龍鳳は不審そうな目をやめない。仕方なし。翔鶴は説明することにした。
「龍鳳、仮に私があそこで、やめなさい、と口を挟んだとして、止まったと思う?」
「それは、止まらないと思いますけど」
「それじゃ、私がああやって、殺し合えばいいじゃない、って言って、どうなったの?」
「喧嘩、収まりました……」
「でしょう?」
 結果から見れば、翔鶴の狙いが正しかったことは明らかである。が、龍鳳はそれでも不満な様子。相当に、信頼されていないらしい。
「そうねぇ……」
 どこから話を始めたものか。翔鶴はややあって、口を開く。
「喧嘩ってのは、競売みたいなものなのよ」
「競売ですか?」
「そうよ。勝利が商品、払うものは暴力よ。勝利のために、自分がどこまで暴力的になれるか、というのが喧嘩だもの。それで、相手より大きな暴力を持つものが、勝利を手にするのよ」
「より強い暴力を振るえば、勝てるってことですよね」
「それだけじゃないわ。振るえる、って思わせれば勝ちよ。実際に振るわなくてもね」
 うーん、と龍鳳はしばらく考えている様子。ああ、としばらくして、納得したようだった。
「大差があれば、実際に殴り合いにならなくても、差がわかるから諦める、ってことですか?」
「そういうこと。だから、競売なのよ」
「それはわかりましたけど……、それが、あの発言とどう関係するんですか?」
「調停ってのもね、その競売に参加するようなものなの。当事者たちから勝利を奪うのだから」
「勝利を奪う、ですか?」
 うむ? と龍鳳は首を傾げている。
「だって、両方とも勝利していない状況を作るのでしょう? 両方と競り勝って、勝利を奪い取らないといけないのよ」
「あ、なるほど」
「だから仲裁って難しいのよ。両方に勝たないといけないから」
「……あぁ。そういうことだったんですね」
「そ」
「でも、だから、あんなことを?」
「そうよ」
「?」
 さすがにそれだけでは、説明が足りないらしい。
「競売って、仮に予算を決めておいても、エスカレー卜するものでしょ?」
「そう言われると、そうですね」
 前にやった競売大会では大変なことになりました、と。一体いつどこでやっていたのだか。
「予算を10000円と決めておいても、11000円ならなんとかなるかな、とか、そう思っちゃうんです。で、気づいたら25000円くらいに」
 龍鳳の苦笑。どうやら、実体験らしい。
「それくらいならまだ出せるし、超えられる、って思うのよね」
「そうなんです……」
「喧嘩も同じなのよ、それは。相手を少し上回る暴力を提示する限り、エスカレートするのよ」
「?」
「例えば、そろそろやめよう、って言ったりするでしょ。でもそれは、例えるなら、今10000円の値がついてるところに、11000円をつけちゃうようなもの。この辺りでやめよう、って言われても、当事者だってまだ上げられるんだから、上げるわよね」
「そうですけど」
「だから、こういう仲裁はうまくないわけ。それくらいなら、いっそ『これの価値は300万円くらいよね』って言っちゃった方がいいのよ。そうしたら、それはちょっと、ってなるでしょ?」
「なりますね……」
「殺し合えばいいじゃない、って発言はそれと一緒よ。端から、あの二人はそこまでやるつもりはなかったわけだけど、互いに引く場所が見当たらないから、ああなってたわけでしょ。でも、殺し合えばいい、なんて言われてしまったら、そこまではちょっと……、ってなる。そこまで相手は引かないのかな、ってね。それはいやだから、それなら、さっさと降りたほうが賢明よね。そういうこと」
「ん、えっと……あ、ああ」
 しばし考えて、龍鳳は理解したらしい。
「結果的に、それで両者とも引いたわけだし。円満解決よね」
 龍鳳は、軽く頷く。でも、少し不満そうなのは変わらない。
「だから、私も殺し合いを望んでるわけではないのよ。わかったかしら?」
「ええ、はい」
 それでも、龍鳳の怪訝そうな顔は、完全には解消されない。
「それ、翔鶴さんは自分で思い付かれたのですか?」
「いえ、長波の受け売りよ。以前、佐世保で一緒だったときに、水雷戦隊をまとめるコツを聞いたことがあってね」
「長波さんですか」
「彼女、そういうのには長けてるから」
 彼女に関しては、駆逐艦として平々凡々であることも合わせて、人材配置を間違えていると専ら評される。組織の構築・運営については、翔鶴もかなりの信頼を置いている。なるほど、と。龍鳳の表情も幾分和らぐ。龍鳳としても、長波ならありらしい。
「それじゃ、それで今回の喧嘩も収まったりは」
「しないわ。所詮対症療法でしかないもの。心の中にあるわだかまりは解消されてないし、むしろ決着しなかった分酷いことになってるはずよ」
「……」
 嫌なことを聞いたような、そんな難しそうな龍鳳の表情。しかし、事実は事実なのだから、仕方ない。対立要因は、この警備府をどうすべきか、という話なのである。ここにきて割譲する、などという話が出てきてしまったのだから、もうどうしようもない。
「それじゃ、これからどうなるんでしょう……?」
「なるようにしか、ならないわ」
 翔鶴だって、そんなことはわからない。丸く収まるかもしれないし、どうにもならなくなるかもしれない。いろいろな可能性は考えられるが、そのどれになるか、なんて知ったことではない。ただ、翔鶴は知っている。こういうのは、なるようにしかならないし、大抵の場合は、今考えている可能性よりも、ずっと悪い方向に進むのだ、と。
「だから、龍鳳も腹をくくっておきなさい。何が起きても、大丈夫なように」
「何が起きても、ですか?」
「ええ、そうよ。何が起こるかなんてわからないんだから、どんな時にでも、対処できるように、ね」
 もっとも、戦争は終わった。命をかけるような話ではないのだから、そこまで気を引き締めることもないのかもしれない。
「そうは言われても……」
 龍鳳の困った様子。どうしたらいいだろう、そう言いたげだ。
「それは、自分で考えるしかないわ」
 これまた翔鶴はしれっと言う。
「何が起きるかわからないのに、何をすべきかなんて教えられる人はいないわよ。だから、自分で考えないといけない。自分には、自分で責任持たなきゃ」
「そうですか……」
 龍鳳は、なんとなしに、困ったような表情を浮かべている。たしかに、何をして良いのか、難しい局面ではあるが。
「もう少し、様子を見ているといいわ。冷静にね」
 翔鶴ができるアドバイスは、それくらいしかない。あとは龍鳳次第。
 なにせ、本当に翔鶴自身も、何が起こるかわからないのだから。ただひとつ言えるのは、これまで常に想定する最悪以下の出来事が起きてきた。そして実際に、ここまで常にそのように展開してきている。北千島の割譲も想定済みだったし、金剛の危篤が近いことも想定済みだった。しかし、同時だとは思わなかった。
 そのように考えれば、きっとこれからも、最悪を下回るものが起こるのだろう。
 どうにも、翔鶴が軍を辞めるのも、一筋縄ではいかなさそうである。


続く
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ソ連との対立が深まり、海軍との対立が深まる話。
警備府の分裂へ。
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