ああ、聳ゆる温禰古丹。
  神の坐ます母なる島よ。
ああ、彷徨いし宇志知。
  雷神創りし聖なる島よ。
我、ここにかく希わん。
  見よ、かれらの勲しを!
その威、赫然たるかな。
  その功、瞭然たるかな。

  無題詩 よみひとしらず


―― 天下已定 天下已に定まりて ――






  前序


《敵艦載機の第二次発艦を確認! 数およそ350!》
 ようやく一息ついた榛名の耳に入るのは、敵の攻撃が続く、という通信であった。
「わかってたとはいえ、加減して欲しいネー。次から次へと湧いてきたら、どうしようもないヨ」
 金剛は、東の空を見上げる。空は分厚い雲に覆われて、ただ白いのみである。
「見事なまでの波状攻撃。敵は本格的に、我々の覆滅を狙っていますね」
 霧島がメガネを直しつつ、やはり空を見上げている。これでは、敵艦載機の接近は近くに来るまでわからないだろう。
《そちらの現状を報告して下さい》
 入電した提督の声は硬い。普段のかわいらしさはどこへやら。そのギャップが、艦娘たちにズシリとのしかかる。
「西磐城水道の鳥島南西沖5km地点を25knで南東に向かっているネ。作戦海域到着予定は0730(マルナナサンマル)ヨー」
 対する金剛の甘ったるい声は、平生と変わらない。あまりよろしい状況ではないだろうに、さすがだと榛名は感嘆を禁じ得ない。
「先ほどの対空戦闘の結果は、重巡利根大破、軽巡長良中破・阿武隈小破、駆逐艦不知火中破・磯波小破・夕立小破。利根は足をやられたため、艦隊を離脱させ、阿頼度(あらいど)島へ回航させました」
 そのあとは霧島が続けた。航空機の数からすれば、圧倒的に被害は少ないといえる。
《待ってください、利根は大破ですか?》
「筑摩を庇って、釜をやられたそうデース。それでも離脱させない方がよかったですカー?」
《いえ……、問題ありません》
 ややあって提督の声が入る。彼女の決断が、珍しく少し遅かった。
《敵別働艦隊を捕捉! 戦艦3、正規空母3を含む模様! 温禰古丹島東北東沖220kmを、22knで西進中の模様!》
 割り込みで入った情報は、置かれた情勢がさらに絶望的であることを知らしめた。榛名は、愕然とするしかない。
「Bloody hell! 相手も本気ネー。テートクぅ、正規空母合計8は、空母のいない第五艦隊には手のつけられない相手だケド、どうするネ?」
《作戦は変わりません。温禰古丹海峡を突入せんとする敵を阻止・撃滅してください》
 しかし、答えは榛名の予想とは大きく異なる。
「やはりそうなるネ。とにかく、何とかしてみるしかないですカ」
 金剛の答えもまた、それをとうぜんとするような答えだった。
「ちょっと待って下さい。榛名は、ここは一度引くべきと具申します」
 それが、榛名には理解できない。提督も金剛も、勝てない戦をしようとしているようにしか思えなかった。
《榛名、それは撤退を、ということでしょうか?》
「先の対空戦闘で少なからず我々は損害を受けています。制空権を敵に奪取されている以上、我々は撤退し、来援の第二艦隊の到着の後、一斉に攻撃に出たほうが」
「榛名、私達は、もう一歩も引けないのよ」
 提督より早く、答えたのは霧島だった。
「ここが落ちれば、オホーツク海が聖域ではなくなるわ。そうすれば道東や樺太に残された日本最後の工業地帯も全て灰になるし、ソ連からの援助も受けられなくなる。それが、何を意味するかは榛名にもわかるでしょう」
 そのことは、日本が継戦能力を失うということ。つまり、大日本帝国の滅亡である。
「ですが、」
《榛名、ここは霧島の言うとおりですよ。我らが北千島を放棄すれば、皇国は滅びます。たといここを生き延びても、あとは我が国が滅んでいくのを眺めるだけになるのです。それならば、死して護国の鬼となり、以てこの国を救った方がはるかにマシでしょう》
 榛名には、もう返す言葉はない。艦娘たちにも沈黙が広がり、通信もまた静かになる。
《よって、第五艦隊の諸君に敢えて命じます。敵を1隻たりともオホーツク海に入れてはなりません。たとえ全艦藻屑と化すとも、北上中の第二艦隊、とりわけ第一航空戦隊の到着まで温禰古丹海峡を死守せよ。必ずや、最後まで戦い続け、敵の進出を挫くことを命じます》
 非常に硬い、感情を消していることがわかるような、そんな提督の声が響く。そのことが、逆に彼女の思い入れを感じさせるようで、少し榛名は胸が痛む。

《皇国の興廃、此の一戦に在り。各員一層奮励努力せよ》



 三度目の航空攻撃を受けたのは、ちょうど倶楽部崎の灯台を望む辺り、まもなく温禰古丹海峡に入ろうというポイントであった。
「各自、とにかく回避を優先せよ! 目標は敵艦載機にあらず、敵艦隊にあり!」
 霧島の号令が飛ぶ。艦娘達が一斉にジグザグに進路を切り替え、同時に対空砲の発砲音が、あちこちから次々と響き始めた。
 榛名もまた、空を見上げる。白い空を背景に、多数の飛翔体――深海棲艦の"艦載機"と呼ばれるそれが浮かんでいる。次々と突入してくるそれは、艦娘達の対空砲火でいくつかが黒煙を吹き上げるが、次々とそれをかいくぐり、魚雷を投下してゆく。
《こちら筑摩。やはり敵艦隊は合流する動きがありません。南北に三手にわかれ、別々に温禰古丹海峡突破を図る模様!》
 筑摩の電信は雑音混じり。金剛率いる先行艦隊もまた、艦載機の襲来を受けているようだ。
《南側は私達が引き受けるネー》
 続く金剛の言葉は、ややもすると聞き逃しそうになる。海面を見ては魚雷をかわし、空を眺めては急降下爆撃をさける。隙を見て弾幕を張り、敵機を1機でも落とし、かつ前進して敵艦隊に迫る。それをすべて同時にこなすだけでも、精一杯。
《長良、機関被弾! 速力低下のため、離脱します!》
 そんな通信が入っても、振り返る余裕すらない。幸い、榛名は未だ一発の直撃弾も受けていないが、至近弾だけで幾分か傷ついている。副砲が一門、既に動かない。なにより、周囲に立ち上がる水柱によって、視界さえ曖昧だ。
「榛名」
 そんな中、近くにいる霧島が声をかけてくる。霧島もまた、測距儀を片方へし折られていた。
「ここで二手にわかれましょう。私が海峡の中央部を引き受けるわ。榛名が、北部の指揮お願い」
「いけません、それは榛名が担当します」
 すぐに言い返した。敵の戦力が最も厚いのは中央部を突入してくる艦隊であることを、榛名は忘れてなぞいない。
「いいえ、私の方がこの海峡には慣れているから」
 霧島も榛名も、互いに相手を見る余裕はない。ただ空を睨み、海を見下ろし、声だけを相手に飛ばしている。そういう間にも、次々と艦爆が急降下してくる。ともすれば、声がかき消されそうである。
「そうはいきません。霧島はこの艦隊に、いえ、この帝国海軍に欠かせません。榛名が、中央を」
 冷静な判断ができて、艦隊指揮にも定評がある。そして戦艦としても軍功厚い霧島を、こんなところで失うわけにはいかない。
「榛名は私が負ける、と言いたいの?」
 だが、霧島は納得しないよう。榛名は、思わず唸った。負ける、と言葉にすれば、きっとこの艦隊の心は折れてしまう。でも、はっきり言って勝てるように思えないのも事実だった。
「そ、それに榛名は姉です。姉は、妹を守るものですから」
「双子なのに、肝心なときだけ姉風吹かせるのは良くないわよ。それに、妹もまた姉の無事を祈るのは変わらないでしょう」
 あくまで霧島の声は落ち着いている。詰まり、上ずる榛名とは大違いだ。
「それでは、10時間後に。とっておきの日本酒、こないだ豊原から買ってきたのよ。帰ったら開けましょう」
「ちょっと、きりし……」
《霧島指揮下の艦娘に告ぐ! これより我々は海峡中央部の敵艦隊へ突入する! さあ、この霧島に続け!》
 榛名の言葉へ覆いかぶさるように、霧島の伝令がイヤホンから響いて、それから何人かが南へと逸れていく。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、翻る霧島の右袖だけが、視界に入る。しかし、意識はすぐに対空戦闘へと戻る。
 何か、何かもう少し言いたかった。自分が、中央を担当すべきだと、榛名はもう少し言い募りたかった。
「榛名さん! 指示を!」
 しかしその思いさえ、陽炎の急かす声にかき消された。ここに至って、榛名も腰を据えるしかなかった。
「はい……では、榛名は温禰古丹海峡北部を西進中の敵艦隊へ突進します! 目標、後方に構える敵機動部隊!」
 倶楽部崎を見据えながら、面舵に入れる。
 温禰古丹海峡は、ただ灰色に鈍く光っていた。



 海底をひっかく音とともに、榛名の速度は急減する。魚雷がすぐ前を通りぬけ、海底にあたって炸裂した。水柱が立ち上がって、潮が降り注ぐ。
 座礁、という。艦娘は、艤装を中心に広がる力場によって浮かんでおり、その力場は足元数m下までを覆っている。ここが海底に引っかかると、まさに船が座礁したように、引っかかって動かなくなる。榛名は知っていて、敢えて幌筵島南端の浅瀬に踏み込んだ。
 榛名はすでに満身創痍。艤装は、主砲三門が沈黙し、浮揚機能さえも失いつつある。それならば、いっそ座礁して艤装を陸に置いてしまえばいいのだ。そうすれば、たとえ榛名が浮かべなくなっても、砲がひとつでも生きていれば、砲台としてくらいなら役に立つ。
「榛名、樺里崎にて座礁! なお交戦中!」
 マイクに向かっておもいっきり叫ぶ。しかし、返答はない。通信機が壊れたのか、それとも応答する人が誰もいなくなったのか。数時間ほど前だっただろうか、警備府もまた艦載機の爆撃を受けたようで、その時から警備府の通信も途絶えたっきりである。ましてや、もはやバラバラの戦闘を強いられている艦娘達がどうなったのか、知るすべはない。
 どれだけが生き残っているのか。あとどれくらいで来援があるのか。それもまるでわからない。ひたすらに艦載機の攻撃を受け続け、それでもなお敵の艦隊に肉薄し、ようやく空母1を沈めたところまでは覚えている。しかし、それが限界だった。あとは、無我夢中で戦いながら、気づいたら幌筵島南端まで来ていた。時計もとうの昔に壊され、空は相変わらずの曇りだから、時間も知れなかった。
「まだ、まだ!」
 榛名はもはや全身血塗れ、海水で濡れているのか血で濡れているのかさえわからない。体の痛みも、感じなくなって久しい。爆音に晒され、ひどい耳鳴りが頭を叩く。視野さえ霞みそうで、少しでも気を抜けば倒れそうだ。
「榛名は、大丈夫、です!」
 それでも、榛名は倒れるわけにはいかない。皇国の興廃は、この一戦にかかっているのだ。温禰古丹海峡は、なんとしてでも死守しなければならないのだ。そのためには、一分でも、一秒でも、榛名が抵抗しなければいけない。
 遠くに見える駆逐棲姫に向かって、主砲を発射しながら、榛名はただ浅瀬に突き進む。黒煙を噴き上げる艤装が、なお悲鳴を上げるが、榛名はお構いなしだ。とうとう、足のつく場所までやってきた。
 敵の艦載機が、直上から一気に降下してくる。まるで、獲物を見つけた隼のように、榛名を食らわんと迫ってくる。わずかに残った対空砲が、これを迎え撃つ。いくつかの艦爆が、火を噴きながら逸れていく。だが、それを数倍する艦爆は、次々榛名に何かを放り、離れていく。
 しばしして、榛名の周囲に次々大きな水柱が立ちあがった。力場を維持できなくなった艤装は、もはや榛名の体を守ってはくれない。爆発の衝撃は榛名を打ちのめし、飛び散る鉄の破片は艤装も肉体もお構いなく削りとっていった。
 ついに榛名は膝を折る。すでに水位は脛ほどしかない。艤装が叩きつけられる派手な音が響き、榛名は尻をついた。艤装にもたれかかり、かろうじて姿勢だけは維持する。白い空には黒い点が無数に並んでいる。
 それでも。それでも、榛名は諦めない。諦められない。
「榛名は、ここですよ!」
 その黒い点のいくつかが、次第に大きくなってくる。迫ってくる艦爆。対空砲は、もう機能しない。艤装を打ち付けた衝撃で、完全にお釈迦になったよう。
 榛名は、それでも空を睨み続ける。彼らが爆弾を放り出すのを、じっと、眺める。主砲で狙いを定め、三式弾を放つ。いくつかの艦爆が、その炸裂に落ちていく。
 しかし、榛名はそれに目に追う暇もない。それを掻い潜った一つの爆弾が、榛名の目にひときわ大きく映る。
 それはごくゆっくりと、しかし確実に榛名へと近づいてくる。当たる、と榛名は確信する。もはや榛名は、そこから少しも動けない。
 空は、相変わらずどんよりと濁った白。青ければ良かったのに、と榛名はそれだけ思った。













  一ノ一


 時計は3:20を指している。
 まるで先まで違う世界にいたのではないか。そう思えるほどに、臨場感のある、夢。
 無理もない。あれは、全てが実体験だ。四年前の温禰古丹海峡海戦。榛名はあのとき、艦娘として間違いなくあの場にいた。そして、体験した。
 榛名は、ゆっくりと手を伸ばし、胸を抑える。酷い動悸で、しかしそのおかげで、榛名は自分がそこにいることを確認できる。この榛名は、艦娘として温禰古丹の地獄にいるのではない。この幌筵島・柏原警備府の提督としてここにいるのだ、と。そう再認識できる。
 榛名は、ベッドの手摺に手をついて、上半身を起こす。軽く頭を振った。
 いつもの夢なのだ。しばしば見る夢。見る場面は様々だが、一番酷い時は今のように通しで最初から最後まで。もはや宿痾というべき夢。最初は魘されたし、起きてから錯乱さえした。夢を見なくてすむように、あらゆることを試してみた。だが、無駄だった。あの光景はいつだって目前にあるかのように思い浮かぶし、眠ればすぐに榛名を誘う。どうにもならないとわかって、榛名はとうに諦め、ひたすらに自らが艦娘ではなく提督であることを、言い聞かせるのみである。
 全身、汗でじっとり湿っている。口は乾いて、舌が口蓋に貼りつくよう。とにかく水を欲して、ベッド際にある冠水瓶へ手を伸ばす。被さるコップを手に取った。だが、伸ばしたのが、先ほど手摺を掴んでいた右手であったのがいけなかったよう。手摺を失った榛名の体は、微妙に均衡を崩し、コップを手に取った拍子に、瓶を倒してしまった。
 あ、と言う暇もない。瓶は机の上に倒れ、小さな音を立てた。床に水を零していく。榛名の視界にはなくとも、床が水に浸って行くことは、容易に推察しえる。
 榛名はひとつ溜息をつく。自分の体では、下半身の動かぬこの体では、せいぜい机の瓶を立てることくらいしかできない。床の片付けは、夢のまた夢。
 榛名は枕元の呼び鈴を鳴らそうとして手を伸ばし、しかしやめた。何かあったら鳴らすように、と秘書艦の、そして温禰古丹の戦友の叢雲は言ってくれている。鳴らせばすぐに起きてきてくれることもわかっている。だが、自分の落ち度で叢雲を起こすことは気が引けた。それに、なんとなく今は独りでいたい。
 かろうじて瓶だけ立てる。水はもはや三割ほど。それを眺めていると、榛名はなんだか虚しい気分になる。あの温禰古丹の海戦の前であれば、そんなことはなかったというのに。榛名は、怒りとも悲しみとも取れない感情に、胸が痛くなった。


「本当、久し振りによく晴れましたね」
 翌日の昼になって、榛名は幌筵島南端の倶楽部崎にあった。
「狙ったように今日だけ晴れたんですから、天の神様も何か考えてくれたんでしょうか」
 助手席に車椅子を持って来てくれたのは叢雲。秘書艦として、第五艦隊司令たる榛名の世話をしてくれている。
「そうだと嬉しいですね」
 叢雲に手伝ってもらい、車椅子に乗り換える。二月の千島は芯から凍えるようで、雪の輝きに目も痛くなりそうだ。
「では、まずそちらに参りましょうか?」
「お願いします。お花は榛名が持ちますよ」
 叢雲から花束を受け取って、それを胸に抱えた。叢雲に少し押してもらい、大きな石碑の前までやってくる。「留取丹心照汗青」の七文字が、ずっしりした隷書で刻まれている。温禰古丹海峡海戦の英霊を弔い祀る、慰霊碑である。
「ご無沙汰しました」
 花束を叢雲に備えてもらい、代わりに線香へ火を灯す。風が強い。ライターも煽られてなかなか火がつかない。
 ようやく火の灯った線香も叢雲に手渡して、それから二人で手を合わせた。
「今日はとりわけ大きなニュースがあるんです。それで、是非第五艦隊の皆にも聞いて欲しいと思ったんです」
 ハンドバッグの中から、榛名は携帯端末を取り出した。
「榛名さんはお早いですね」
 低めの女声が届いたのは、その携帯端末をいじり始めたちょうどその時だった。
「あら、不知火も来たのね?」
 叢雲が振り向く。
「利根さんが運転できないというから。そういう榛名さんも、やはりここで?」
 すたすた、と高い足音とともに、不知火が榛名の横に並んだ。
「ここ以外で聞くような気分には、あまりならなかったのです」
 敬礼する不知火に答礼しつつ、榛名は微笑んだ。
「やはり聞くなら、"あの"第五艦隊の皆とかな、と。不知火も、そう思うから来たんでしょう?」
「……」
 その榛名の問いに不知火は答えない。その背格好に似合わぬ、渋い表情で石碑に手を合わせている。だが、その先に何を見るのか、榛名は知っている。榛名が霧島を見るように、不知火は陽炎を見ている。そうに違いない。
「不知火、置いて行くとは酷いのう!」
 その後ろから、また声が響いている。特徴的な口調は、それだけで彼女が誰であるのか、強く主張していた。
「全く、せっかくポータプルテレビを持ってきたというに」
「まずは挨拶と思いまして」
 しれっ、とそう答えながら、不知火は踵を返す。まもなく、利根とともに榛名の隣へ並んで、ポータブルテレビのスイッチを入れると、チューニングをはじめた。榛名はこっそり、携帯端末をしまう。利用目的は同じなのだ。
「利根もおはようございます。こんなもの持っていたんですね」
「熊野が持っておっての。せっかくじゃし、借りてきたのじゃ。熊野も、殆ど使っておらんということじゃったしの」
「相変わらず、物持ちのよいひとですね」
 叢雲の言葉は、なかば呆れを伴っている。
「入渠の時に使おうと思ったそうじゃ。結局、すぐ使えぬとわかったそうじゃが」
「それはなぜ……?」
「ここでは国営放送の一枠しか映りませんからね。しかも、夜早々に停波します」
 不知火の言葉もまた、呆れを含む。わりとよくある話なのだ、熊野に関していえば。
「今回はそれで役に立っておるのじゃから、それでよかろう。ほら、始まるぞ」
 アナウンサーが、帝自ら大詔を宣らせ給うと述べ、続いて君が代が流れてくる。それが終わるや、帝の玉体が映しだされた。四人深々と礼を捧げる。

《朕、深く今次大戦の大勢に鑑み、茲に敵の覆滅せらるに依りて、戦時の非常を改めんことを欲し、忠良なる爾臣民に告ぐ……》

 やや高めの、聞き取りやすい男の声。変哲もない声であるが、榛名たちにとっては、それが何にも勝るべき声である。金科玉条、彼の言葉こそが絶対である。
 その声が、「戦時の非常を改めんことを」と述べている。それが何を意味するのか。榛名が考えるまでもないこと。

《……茲に帝国の威再び天を驚かし、戦気此に一掃、扶桑の辺海悉く其の波を鎮めしむ……》

 勝ったのだ。
 戦争は終わった。苦節二十四年、地獄の山河を埋め尽くして余りある犠牲を払ったこの戦争も、とうとう帝国の、人類の勝利に終わったのである。
 帝国は勝った。もはや、敵が現れることはない。艦娘が艤装を背負い、その命を懸けて戦う必要は、なくなった。もはや、いかなる戦いも起こらず、悲劇は起きえない。そんな時代が、ついに訪れた。
 しかし榛名は、考えるまでもないことであるはずなのに、その詔勅の意味を捉えるまで少し時間がかかった。昨今の情勢に鑑みれば、戦争の終結宣言がいつ出たとしてもおかしくなかったのは知っている。アメリカでは、とうに平時体制へ移行したのも知っている。ゆえに、重要放送と聞けば戦争終結しかありえないと思ったし、だからこの倶楽部崎までやってきた。
 しかし、それでも、榛名には実感できない。艦娘として、そして艦娘を率いる提督として、榛名はこれまで戦い続けてきた。もうそのようなことをしなくてもよい世界になった。そのことが、榛名にはピンと来なかったのだ。

《……来る帝国復興に当りて、益々その志を篤くして、将来の建設に邁進せられることを請う。爾臣民其れ克く朕が旨を体せよ》

 その詔勅は、あっという間だった。十分もしないうちに詔勅は終わり、また君が代が流れ始める。その短さは、榛名に突き刺さる。降ってきた"勝利"という事象をどうやって受け取ればいいのかわからなかったし、その短い詔勅を聞く間に受け入れろ、というのも無理があった。そしてそれは榛名に限らない。四人が四人、ポータブルテレビを前にして、茫然と固まっている。感情をどのように表出してよいのかわからない。
 戦争初期からの艦娘である榛名は、戦争以前の時代を、それなりに平和だった時代を知っている。しかし、そんな記憶は艦娘になって、戦っているうちに擦り切れ果てた。なにより、艤装を背負った時から、それまでの自分とは別人と成り果てている。人格さえ艤装のために入れ替わったとあって、平和をどう享受すべきか、榛名は知るはずもない。
「勝った、のじゃな」
 ぽつり、と。とても喜んだようには思えぬ利根のことば。感情入り混じって、それしか絞り出せなかったという、そんな詰まった一言は、四人の心境をよく表している。
「勝ちましたよ」
 続く不知火の言葉は、皆に向けられた言葉ではない。不知火は、碑に相対して、立ち尽くしている。厳しげな表情にあって、しかし一筋頬に伝うものがある。
 榛名もまた、目頭が熱くなる。だが、それは喜びによるものでも、感動によるものでもない。そのようなことばには、えもいわれぬ、不思議な違和感があった。なぜかはわからない。しかし、とにかく榛名は、ただただ静かに涙を流す。
 君が代を流し終わったポータブルテレビは、戦勝に沸き返る各地の喧噪を映しはじめる。その騒がしさが、榛名にはやけに不自然に聞こえる気がしてならない。テレビの中の世界と自分たちのいる世界とが、別の世界であるのではないか。
 不意に、榛名は霧島のことを思った。霧島は、この戦勝のことをどう思っているのだろうか、と。四年前、温禰古丹海峡で別れたっきり、ついに帰って来なかった双子の妹。とうに割り切ったつもりだったのに、ここにきて、榛名には霧島のことが気になって仕方なかった。
 世は本当に何も変わらない。天清く、冬の千島と思えぬほどに高く青かった。潮騒も、いつにもまして大人しい。四人の前に立ちはだかる碑もまた、ただそこに立ち尽くすのみである。花崗岩の真新しいそれは、日に当てられて、きらきら水面のように輝いている。
 榛名は、碑を眺め続けた。何やら、頭はぐちゃぐちゃで、どうしてよいかもわからない。ただ、この碑から離れたくない。そう感じられる気がした。





  一ノ二

 放送が終わるや、翔鶴の携帯端末はけたたましくベル音を響かせた。画面を覗いてみると、想定通り「瑞鶴」と表示されている。談話室中が煩いのは、こんな調子で姉妹から電話が鳴るからなのだろう。
 通話、というボタンを押すと、途端に声が響いた。翔鶴はやや端末を耳から離す。
「翔鶴姉! 終わった! 終わったんだよ! 戦争が、終わったんだ!」
 凄まじい上げ調子なのは、瑞鶴らしい。何かことばを挟む余裕もないから、翔鶴は黙ってそれに頷いている。
「これで、平和になるわ。戦わなくて済むなんて、夢みたいだと思わない? もう、誰も死ななくても済む。翔鶴姉も、千島から戻って来れる! 私、ちょっと信じられない」
 大声なのは、電話の向こうも騒がしいかららしい。瑞鶴のいる佐世保は、すでに宴会モードのようだ。翔鶴があたりを見渡すと、こちらでも大淀が食料貯蔵庫の鍵を持ち出している。
「そうね。でも、本当のことだわ。私たちは、戦争に勝ったの。私たちは、すべきことをきちんと成し遂げて、そしてここに立っているわ」
「うん。本当によかったよ」
 ずびー、と間抜けな音が割り込む。涙やら何やらで酷いことになっている瑞鶴の顔が、翔鶴の目の前に浮かぶ。
「私も、瑞鶴と一緒にこの時間が迎えられて、本当によかったと思うわ。これでようやく、瑞鶴とゆっくりとお話することもできそうね」
「うん、うん」
 瑞鶴の鼻声はいよいよ酷くなって、話に割り込みすらしなくなっている。おそらく、他人には見せられないような顔になっているんだろう。
「瑞鶴、話は後でまたゆっくりしましょう? こちらも、これから祝勝の宴会みたいだから」
 翔鶴が部屋を見渡すと、伊勢が樽を持ち出していた。鏡開きする気のようで、槌を探してきて、なんて騒いでいる。
「うん、みなざんにもよろじく」
「はいはい。こちらからも、大鳳さんや、そちらの皆さんによろしくね」
「うん、うん」
 電話を切って、窓の外を見る。冬だというのに、珍しく晴れ渡り、雪がきらきら輝いている。
 瑞鶴の電話で、翔鶴もじんわりと、戦争が終わったことが自覚できてきたように思えてくる。もはや、戦わなくてもいい。つまり、そういうこと。もはや、命の危険を晒す必要はない。そんな世の中になったのだ、と。
 理想的な世界が来たわけではないことも、翔鶴はわかっている。詔の中で「来る帝国復興に当りて、益々その志を篤くして、将来の建設に邁進せられることを請う」とあったように、これからの帝国復興は、難儀極まるものだろう。本土は悉く焦土と化し、わずかに道東・樺太のみを生命線とするこの国が、深海棲艦出現以前の社会を取り戻すまでどれほどの時間がかかるのか。翔鶴には想像だにできない。それでも、少なくとも戦争中よりはマシだ。翔鶴はそう考える。戦勝という大事を成し遂げたには違いない。それは喜ばしいことなのだ。
 ふと端末を覗くと、メッセージの通知が凄まじいことになっている。これはとても見きれない、と諦めて翔鶴は端末をしまう。
「あ、翔鶴! 翔鶴もやらない? 鏡開き」
 伊勢がずいーっと近づいてきて、翔鶴の腕を取った。
「あら、槌は見つかったんですか?」
「磯風が、工廠行って借りてきてくれたわ。はい」
 手渡されたのは金槌。一応洗ってはあるようだ、が。翔鶴は苦笑するしかない。
「あ、響ちゃーん、電話終わった? なら響ちゃんもどう?!」
 金槌一つ残して、嵐のような伊勢は去って行く。お祭り好きの伊勢らしい、とその背中をやや微笑ましく、翔鶴は見送る。
「翔鶴さん」
 仕方ないから樽の前に立つと、横から龍鳳が近づいてくる。
「戦争、終わったんですね」
「そうね。ようやく終わったわ。龍鳳もお疲れ様。お蔭で、こうして馬鹿騒ぎに参加できるわ」
 手元で金槌をくるくる回す。やや油臭い。
「そんな、私こそ翔鶴さんにはいろいろお世話になって。本当にありがとうございます」
「あら、そんなお辞儀するものじゃないわ。だって、お互い様じゃない」
 頭を下げようとした龍鳳のおでこを、人差し指で抑える。
「ですけど」
「もっと自信持ちなさい。勝ったんだから。今日くらいは、自分を誇りなさいな。ほら」
 手元の金槌を手渡す。龍鳳は戸惑ったまま、金槌と翔鶴とを見比べている。
「私は以前やったことがあるし、せっかくの体験なんだから、龍鳳がやるといいわ。そう機会もないでしょ」
「いや、でも」
「金槌で鏡割りなんて経験、そうできないんだから」
 胸元に金槌を押し付けてやる。困った顔の龍鳳だったが、やがて金槌をしっかり受け取って、ちょっとだけ頷いた。
「でもこれ、少し油臭いような」
「磯風が洗ってくれたそうよ」
「……」
 龍鳳のとても微妙な、笑うに笑えないといった顔。武勲他に双ぶ無しとさえ称される磯風だが、生活能力についても、"他に双ぶものはない"。
「まあ、洗うくらいはさすがにできると思うわよ」
「そうだといいです」
 なんとも不器用な笑顔のまま、龍鳳は告げた。

「それは、そうと。榛名さんはおられないのですね」
「榛名さん達は、朝から出かけてるわ」
「達?」
「利根と叢雲、それから不知火」
「……あっ」
 とそれっきり、龍鳳は黙った。榛名も含めたその四人は、温禰古丹海峡海戦に参加した旧第五艦隊のわずかな生き残り。そのことに龍鳳はすぐ気づいたのだろう。
「やはり、倶楽部崎に?」
「さあ、どうでしょう。行き先を聞いたわけではないですからね」
 正直、翔鶴にはそこまで興味のない話である。彼女達の思いはわかるが、かといって同情したり感情移入するものではない。
「そうですか……」
 しかし目の前にいる龍鳳は違うようだった。悲しそうに目を伏せ、金槌を胸元で握りしめている。翔鶴は、とりあえず右手で龍鳳の頭を撫でてやる。それで龍鳳の気が楽になればよいと、その程度のことを思って。
 殊更、榛名たちに何か思うわけではない。人の想いは人のもの。とやかく言うべきものではないし、どうあるべきというものでもない。そう考える。いわんや、死者への想いなぞ、多様であるべきなのだ。
 そうやって目を移すと、伊勢がちょうど暖炉の隣で姿勢を直しているところ。手を叩く音が響いて、ざわついていた談話室が静かになる。
「皆様、お待たせいたしました! ようやく準備が整いました!」
 おお、と拍手。
「ありがとうございます。こうして、皆さんとこの日が迎えられましたこと、とても喜ばしく思います。これも、皆様の献身的なご助力あってのことです。これまで、長きに渡って、お疲れ様でした!」
 伊勢の深いお辞儀。皆一斉にお辞儀を返す。
「さて、堅苦しいことはこの辺りにして、さっさと祝勝会をしましょう! 今日は、明日のことを何も考えなくていい記念すべき日です! さあ、金槌持った人は前に出てー!」
 龍鳳が困ったような表情をして翔鶴の方を見る。翔鶴は、笑って肩から押し出してあげる。向こうでは、自信満々な磯風と、疑わしげな表情で金槌を見つめる大淀。
「では、準備はいいですね。皆さんも掛け声一緒に。せーの!」
 伊勢の掛け声。金槌が、振り上げられる。
「よいしょーっ!」
 談話室に全員の声が響き渡り、派手な音を立てて酒樽の蓋が割れる。続いて、大きな大きな拍手が、その場を包み込んだ。

「この程度も飲めないなんて、艦娘として弛んでるとは思いませんの?」
「いや、ちょっと落ち着いて……。神通さんも何か、って神通さんいないっ?!」
「さっきから見てればウォッカばかりなんて、大和撫子としてなってませんわ」
 宴も酣、というのがふさわしいだろう。熊野が枡を響に押し付けている。あれは、アルコール・ハラスメントというやつになるが大丈夫なのだろうか、と翔鶴はぼんやり思いつつ。
「いやいや、対空というのはこうガーッっと言って、バンバングワーって行けば」
「でもそうすると、グィーっとなって、ザーっとなるじゃないですか、そこでこっちにクィっといって」
 すぐ向こうの伊勢と秋月とは、何か日本語ではない言葉で、対空戦闘の技術について議論している。戦争が終わったというのに、一体その技術をどこで使うつもりなのだろうか。
「陣形はもちろん単縦陣……なに、輪形陣だと?」
「敵がその陣営なら、輪形陣以外に選択肢はないだろう?」
「わかってないな。わかってないぞ!」
「わかってないのはお前だ、磯風」
 そっちでは、三人で机上演習の駒を持ち出している。磯風・日向vs大淀のようだが、戦争が終わったという事実はどこに消えたのか。
 艦娘というものは嫌な業を抱えるものだ、と思いつつ、ワインを傾ける。やや甘めで飲みやすいが、厚みのある香りは決して飽きさせない。これは上物だ。
「あ、追加いかがですか?」
 む、と振り向くと龍鳳がワインボトルを手にして立っている。
「そうね、そろそろやめておこうかしら。美味しいワインだから、ついつい進んでしまうのだけれど。むしろ、龍鳳はどう?」
「あ、それではもう少し頂きます」
 座るように促し、それからワインボトルを受け取る。注ぐとちょうどグラス一杯分だった。
「本当、飲みやすい赤ワインですね」
「元々熊野の秘蔵らしいわ。産地は……グルジアワインね」
「それじゃ、ソ連から仕入れたことになりますね。でも、高級嗜好品は間宮海峡を渡れなかった気もしますが」
「熊野の買い物って、時々謎があるわね」
「……ですね」
 あまり深く詮索しない方がいい話なのだろう、という気がしたので、翔鶴は打ち切ることにした。
「それで、龍鳳はあぶれてるの?」
「あ、まあ、そうなりますかね? 翔鶴さんと一緒です」
 これはひどい、という様相の場に、龍鳳も微妙な表情を浮かべている。榛名がいればまた違ったのだろうが、この艦隊の戦艦連中はストッパーにならないので仕方ない。
「あら、性格悪いわね」
「えっ?」
 戸惑う龍鳳に笑いかける。
「対岸から火事を眺めて楽しむのは、いい性格とはいえないわよ。そうでしょう?」
「えっと、その」
 困る様子をちょっと楽しみつつ、またワインを傾ける。なんだか自分も酔っているらしい、と翔鶴は自覚している。
「ま、巻き込まれるよりはいいかもしれないけど」
 磯風は、顔を赤くして日向と口論している。いくら酒が入っているとはいえ、戦艦に食ってかかるとは、相変わらず蛮勇な駆逐艦である。
「……はい」
 龍鳳も小さく頷く。彼女もどうしようもない、とでも思っているようだ。
「戦争、本当に終わったのですよね?」
「それはどういうことかしら?」
「いえ、あれを……」
 龍鳳も同じことを思っていたらしい。浴びるように日本酒を押し付け合う響と熊野は置いておいても、対空戦の話をする伊勢・秋月といい、兵棋演習で盛り上がる日向・大淀・磯風といい、戦争の色は強い。
「そんな簡単に意識は切り替わらない、ということよね」
 無理もない。敵が同じ人間の国であれば、敵の国を占領するなど、明確な形で勝利が具現化された。しかし、今回は違う。今回の戦は、正体不明の敵から国を守る防衛戦。明確な勝利の表象は何もない。あるのは、敵が攻めてくる可能性が限りなく低くなったという状況のみである。
「でも、終わりは終わりよ。戦争に囚われていてもロクなことはないわ。さっさと切り替えるのがお勧めね」
「でしょうか」
 龍鳳はイマイチ飲み込み難い、といった表情を浮かべている。
「戦争終わったし、龍鳳はやりたいことないのかしら?」
 問うてみる。おそらく、ここにいる艦娘たち全員に問うても、帰ってくる答えは少ないだろう問い。
「やりたいこと……」
 案の定、龍鳳も考え込んで、そのまま答えを返さない。
「以前、伊勢さんと世界一周しないか、と誘われたことはあるのですけれど……」
 結局出てきたのは、他人の名前。
「どこか行きたいところはあるの?」
「いえ、そういうわけでは」
 自分の意思は定まらないようである。
「そう」
 龍鳳が何を思っていようが、何を思っていなかろうが、翔鶴にはさして関係ない話。危ういとも思うのは事実だが、かといって諭すつもりもない。人は人、自分は自分。
「榛名さんは、どう考えておられるのでしょう?」
「榛名さん?」
 その名前がやや唐突に思えた。
「榛名さんは、戦後どうされるのかな、と。ふと思っただけなのですけれど」
 龍鳳は、純粋に榛名を案じているつもりのようだった。しかし、どの思考回路で榛名の名が出たのか。
「それは、榛名さん本人に聞くしかないと思うけれど、今日は帰って来ても夜遅くでしょうね」
「やはりそうですか」
 最近、龍鳳は榛名に懐いている。自分に懐くよりもよほどいい、と翔鶴は思う。榛名も決して精神的に安定している人間ではないと考えるが、人の面倒見がいいし、いつでも真面目に対応してくれる。人のことに関心のない翔鶴とともにいるよりはよいだろう。そもそも人に倚るのではなく、自らの足で立つべきではある、ということを置いておけば。
「たぶん退役することにはなるんじゃないかしら。あくまで予測だけど、海軍士官がこんなに要らないことは明白だし」
 それだけの海軍士官を食わせる金も物資も、この国には残っていないだろう。艦娘として、護国の切り札として、これまで相当の優遇をされてきたから忘れそうになるが、本土は悉く焦土と成り果て、国民揃って飢凍せんとしているのだ。
「榛名さんですよ? 知らぬもののない武勲艦の」
「でも、これ以上の出世ということもないでしょ? 艦娘出身の艦隊司令さえ榛名さん他数人もいないわけよね」
 例えば軍令部入りしたとか、そういう話はない。つまり、そういうことだ。
「艦隊はこれから減るわ。榛名さんは艦上勤務も厳しいから、そうなると行き先も限られる。それくらいなら、退役させた方がいい、と思うのではないかしら?」
「そんな! 榛名さん、追い出されてしまうんですか?」
 なぜ榛名の退役に龍鳳がそこまで反発するのか、翔鶴にはやや理解しかねるところがある。
「追い出される、とは違うと思うわよ。退役したって相応の年金が出るし、榛名さんなら幾らでも仕事は舞い込んでくるわよ」
 榛名は事務処理の仕事に長けているし、人への気遣いができる。海軍軍令部こそ割り込み辛いとしても、例えば民間の会社などでも必要とされる人材だろう。
「ですが……」
「とはいえ」
 どうにも龍鳳は納得できないらしい。おおよそ、龍鳳が何を考えているのか、わかる気がする。彼女は、榛名と離れたくないのだろう。上下厳しい空母のうちにある龍鳳が、上下分け隔てなく付き合ってくれる榛名に懐くのは、翔鶴にもわかるのだ。ゆえに翔鶴は言葉を続ける。
「榛名さんがどう考えているのかわからないから、所詮いらぬ妄想ね。少ない情報であれこれ悩んでも仕方ないわ」
「それも、そうですね」
 やや気を落としたまま、龍鳳は答える。彼女の手元のワイングラスは、高貴な紫をまだなみなみと湛えていた。
 そんな様子を見ながら、ぼんやり翔鶴は考える。彼女たちは、これからどこへ進んでいこうというのか、と。兵棋演習を引っ張りだしたり、対空戦について議論したり。きっとそれは、もう必要なくなる。宴会が妙に明るいのは、決して勝利の美酒に酔いたいから、というそんな単純な話ではないのだろう。
 龍鳳も、そんな時代になることに、漠然とした不安を抱いているのだろう。だから彼女は、榛名の動向を問うた。榛名の行き先こそ自分の行き先だ、とでも龍鳳は考えるのだろう。
 自分についてくる、と言わないだけ良かった、と翔鶴は思うことにした。他人の身の振り方云々にとやかく言うつもりはないが、自分が他人の行く末を左右するとなると、さすがに翔鶴も寝覚めが悪い気がしたのだ。


  一ノ三

 利根が帰り着いた幌筵の警備府庁舎は、お祭り騒ぎのようであった。外まで喧騒が響いてくる。帰る道の途上も、あちこちで大騒ぎであったから、十分に予測できることであったが。
「大騒ぎですね」
 運転してくれた不知火が、駐車場の方から戻ってくる。
「そりゃ、久方ぶりの好天じゃしな」
 高緯度帯の幌筵。もう日は沈んでいるが、冬にしては珍しく空には星が輝いている。
「……ええ」
 ボケたつもりが、不知火はつっこんでくれない。
「そうですね、久しぶりの陽光でした。そんな日くらい、騒ぎたくなるものですよね」
 思わず横顔を見ると、不知火が不敵な笑みを浮かべている。なんだ、遊ばれていたのか、と利根はがっくりして、しかし少し安堵したような気分だった。
「お、いい香りがしますね。これは、神通さんのカレーでしょうか」
「よくわかるのう」
「その日の当番が誰か、嗅ぎ分けられないと陽炎型の中では生き残れなかったのですよ」
 主に磯風とか、という言葉は聞かなかったことにした。
「駆逐艦は随分と殺伐としておるのう」
 呆れつつ、しかし空気はややほぐれたような気がして、ありがたく思う。談話室の向こうからは快活な笑い声が聞こえてくる。
「んじゃ、入るぞ」
「どうぞ」
 なんとなく不知火に一声掛けてから、利根は扉を開けた。
「ただいま帰ったのじゃ」
 惨状がそこには広がっている。なぜか龍鳳を羽交い締めにする大淀。歌っている秋月の隣では、響がウォッカを舐めながら不思議な笑いを浮かべている。熊野に至っては、ちょっと異性には見せられないような姿で突っ伏している。
「これは、また」
 そんな喧騒を余所に、中将棋の盤を覗き込んで唸っている日向と磯風とが、またシュールである。
「……盛大に羽目を外した、のう」
「あーっ、利根ちゃんに不知火ちゃん、お帰りーっ!」
「利根ちゃん、じゃと……?!」
 突然横から現れた伊勢に、がっし、と腕を掴まれる。すごく酒臭い。相当飲んでいるらしい。そのまま不知火と引きずられていくと、正面には樽。
「鏡開きしたのよ。折角だから一杯どうぞ」
 何か言う暇もなく枡を手渡され、柄杓でいっぱいに満たされる。その柄杓は、利根はどこかで見た記憶。おそらく、艤装の燃料補給用ではなかったか……。
「んじゃ、かんぱーい!」
 直接枡で掬った伊勢と、三人で枡をぶつけ合う。とりあえず口にすると、鉄と油の匂いが鼻をつく。
「ほら、じゃんじゃんいっちゃえー!」
 たしかに艦娘らしい酒ではあるが。美味しいかというと微妙である。勿体無い、が正しいかもしれない。
「お、そうじゃ。神通は厨房かのう?」
「そうじゃないかしら」
「それじゃ、ちょっと手伝ってくる。吾輩もツマミが欲しいからの」
 というわけで、利根は脱走することにした。
「それじゃ、よろしくー!」
 二杯目を注がれる不知火が、物凄く怖い笑顔を浮かべているが、利根は見なかったことにした。

「うむ、ここにおったか」
 なかなかな惨状であった談話室とは打って変わって、厨房は閑散としている。神通はその中にあって一人酒杯を傾けていた。
「おや、利根さん。お帰りになられたのですね」
「おう」
 とだけ利根は告げて、神通の隣に並ぶ。
 冷蔵庫の唸る重音だけが、その場を染める。遠く聞こえる楽しげな声は、何か違う世界のように思える。
 ようやく、利根は一息つけた気がする。お祭り騒ぎが嫌いなわけではない。むしろ、普段だったら利根は先頭に立って賑やかす。だが、今日ばかりは、あまり騒ぐ気分ではない。
 手元の枡酒は、相変わらず鉄と油とが混じって、なんとも美味しいとはいえない。しかし、その苦さが、なんとなし心地いいような気もして、利根は舐めるように口にしていた。
「榛名さんと叢雲は?」
「柏原の町長に呼ばれて向こうにいったようじゃ。提督ともなれば、お仕事も多いようじゃからな」
「そうですか」
 それっきり、また会話は途絶える。
 利根は、神通の戦歴を詳しく知るわけではない。だから、この戦勝に何を思うのかも知らない。だが、巡洋艦はこの戦争の中、最も多くの損害を出してきた艦種にあたることを、利根は知っている。戦争序盤の撤退戦の中で多く運用されたからだが、おおよそ巡洋艦に属する艦娘の戦歴なぞ、碌なものではない。
 きっと自分と似たような、手放しで祝う気分にもなれないらしいことは、こんなところにいるのを見れば明らか、といったところか。
 二人で黙然と酒枡を傾ける。それが、利根にはいやに心地よかった。そんな自分に、どうやら自分が不安定だったようだ、と感じざるをえない。倶楽部崎に行ったからだろう。四年もたって、自分はあの温禰古丹を克服できていないのだ。
「利根さん」
「なんじゃ?」
「戦争、終わったのですよね」
 枡が空になったころになって、神通がぽつりと呟いた。
「私たち、生き残ったのですね」
 その言葉の重みに、利根は軽く頷くことしかできない。喜びは、湧いてこなかった。
 ただ、その言葉は神通もまた、利根の同類であることを示しているようであった。戦争が終わり、危険を失ったことに戸惑いを隠せないのだ。
「もう、誰も死なないのですね」
 少し残念そうに、神通は言う。
「……そうじゃな。もう誰も、死なずともよい」
 それがどのような意味なのか。神通の言わんとしていることがわかるような気がして、利根はやや背筋が冷える。普段から寡黙でおとなしいだけに、神通の抱えているものの重さを、利根は知らない。
 しかし、かといって何か言い返すわけでもない。自分もまた、結局似たような位置に立っていると、利根は知っている。
 それっきり、また二人して黙りこんだ。

 利根は、携帯端末を覗き込む。待受に映るのは、満面の笑顔の筑摩。そのまま端末を操作して、筑摩の連絡先を表示する。呼出のボタンを押そうとして、しばしその画面を見つめ、しかしそのまま端末の画面を切った。
 筑摩は、四年前に温禰古丹海峡へ向かったっきり、帰ってこなかった。どうせ呼び出したところで、掛かるはずはない。
 一つ利根はため息をつく。泣きはしない。もう涙はとうに枯れた。それでも、心の傷は全く癒えていない気がする。そもそも、癒えるような類のものではないのかもしれない。
 戦争が終わったと筑摩が聞いたら、きっと筑摩は喜ぶだろう。自分が平和の礎になりえた、と泣いて感激するだろう。
 だからこそ、自分がその上にいることが、利根にはどうにも耐えられない。そんな気がした。
 利根は軽く頭を振る。そんな悲観的なことを考えていても仕方ないのだ。戦争が終わったのは喜ばしいことだ。自分は生き残ったのだから、筑摩の分までりっぱに生きなければいけないんだ。平和に対する嫌な感傷も、一時的な動揺に決まってる。数日すれば、平和の有り難さに小躍りしたくなるはずだ。
 そう思い込むことにして、枡の隅に残るわずかな酒を口に流し込む。苦い。
 渋い顔のまま神通を見ると、神通もまた虚ろな目で酒を啜っていた。


 利根が目を覚ましたのは、翌朝既に日が上ってからであった。二月の幌筵では、日の出は7:30を過ぎる。おおよそ8時は過ぎているだろう、と外の様子から推測する。頭がやや重い。結局、夜遅くまで神通と二人、何を言うこともなくただ枡を傾けていた。酒量は過ぎていたし、二日酔いというやつである。
 そうは言っても、そのまま寝ているわけにもいかない。身繕いもそこそこ、談話室へと向かう。
 てっきり惨状が展開されているかと思いきや、そこは既にいつも通りの談話室であった。正面の暖炉は大きな炎をあげて部屋を暖めている。それでも部屋の温度が低いのは、酒気を飛ばすために換気していたからだろうか。
「これはまた早いのう」
「おや、利根。おはようございます」
 今日も今日とて、翔鶴は暖炉近くの安楽椅子に揺られている。ただ、いつもと違って新聞を読んでいるようだが。
「早いといっても、私はいつもどおりよ。皆が遅いだけでしょう?」
「それはそうじゃが……。昨日のあの様で、今朝からいつもどおりというわけにもいかぬ」
「遅くまでやってたのね。どうだった?」
「それは酷かったのう。乱痴気騒ぎもここに極まれりといったところじゃな」
 利根は昨日の様子を思い浮かべて苦笑い。
「それは楽しそうね。私も起きていればよかったかしら」
「無理はせんことじゃ。なに、これからいつでも見れるじゃろうて」
 翔鶴の体が弱いことを、利根は知っている。昨日、利根が帰ってきた時にはすでに寝ていたが、それも体調管理のためのはずだ。
「そうね。やっぱり、無理は禁物よね」
 翔鶴もまた、やや困ったような笑みを浮かべた。利根は返す言葉が思い浮かばず、部屋を見渡す。改めて、この部屋がすっきり綺麗になっていることを再認識。
「ところで、この部屋は……?」
「熊野よ。私が来た時には、既に綺麗になっていたわ」
「おや、そうじゃったか」
 熊野といえば、それはそれは酷い姿で酔いつぶれていたように記憶しているが……。
「それで、その熊野は?」
「朝食の準備に行ったわよ。本来の当番は日向さんらしいけれど、珍しく起きてこないから、代わりに作るって」
「日向さんが起きて来んとは、珍しいこともあるもんじゃ」
「昨日、相当飲んだのでしょうね」
「昨日は本当に酷かったからのう……。と、そうじゃ、吾輩も熊野を手伝ってこよう」
「それじゃ、よろしくお願いしますね」
「ちなみに、その新聞、面白いもの書いてあったか?」
「一週間前の新聞だもの、さしたることは書いてないわね」
 そう言って、翔鶴は苦笑した。離島たる幌筵には、一週間に一度しか新聞は届かないのだ。

「おや、利根ですか。おはようございます」
「おはようじゃ。手伝うことはあるかのう?」
「それでは、蕪の漬物を出してくださりませんこと?」
「あいわかった」
 厨房の冷蔵庫からぬか床を取り出す。蕪は自家製。寒冷地幌筵では貴重な野菜である。
「しかし、熊野も早いのう」
「いつも通りのことですわ」
「その割には、昨日ハメを外していたようじゃが」
 やや笑いを含みつつ述べると、じろり、と熊野が厳しい目線をこちらに返してくる。どうやら、覚えているようだ。
「戦争が終わったんじゃ。それくらいやっても、問題なかろう」
(わたくし)には大いに問題がありますの。利根にからかわれるとは不覚ですわ」
 もし玉子焼鍋を持っていなければ、頭を抱えそうな勢いだ。
「あの程度で熊野のイメージは壊れたりせんよ。安心せい」
 もとから、そんなもんだと思われている。
「そういう問題ではありませんわ」
「あんまり気にしておるとハゲるぞ。ほら、そこの鍋吹きそうじゃ」
「あっ、と危ない」
 間一髪、鍋の泡は引いていく。
「それは、味噌汁でよいのか?」
「そうですわ。蕪が終わりましたら、味噌を溶いてくださります?」
「そっちは?」
「塩鮭が焼けるにはもう少し時間がかかりますの」
 鮭の香ばしい香りが流れてくる。
「了解じゃ」
 さっさと味噌を取り出して、溶いていく。

「しかし、信じられぬのう」
 あまりにいつもどおりの光景。そこでは、熊野が麦飯をよそっている。
「戦勝ですか?」
「そうじゃよ。結局、何も変わっておらぬ」
 並べられた食膳は、昨日までと何一つ変わらない。どこも、生活は変わっていないのだ。
「そんなにすぐ変わるようなものではないですわ」
「それはわかっておる。わかっておるのじゃが」
 熊野から受け取った茶碗を、一つ一つ御膳に置いていく。
「それでも、どうにも吾輩にはわからんのじゃ」
「利根は考えすぎですわ」
「そうかのう」
「そもそも、戦争が終わって、何が変わるというものでもないのではなくて?」
 釜の蓋を閉じつつ、熊野ははっきりと言った。
「そんなことはなかろう。もう、命を懸けて戦争をせずともよい、ということじゃろう?」
「それは思い違いだと思いますの」
 即答だった。
「私達艦娘とは、軍人ですわ。軍人とは、御国に尽くし、いついかなる時とも御国に命を懸けるもの。"軍人は忠節を尽すを本分とすべし"と軍人勅諭にもありますの。戦争が終わったからと、私達の役割は何一つ変わってはおりませんわ」
 相変わらずのおっとりとしたお嬢様口調だが、それとその言葉の過激さは、少々そぐわないようにさえ思える。
「熊野、それはそうじゃが、だが机上の空論でもあろう?」
「それはどういうことでして?」
「吾輩等が軍人で、その職務は命を懸けることであることくらい、吾輩にもわかっておるつもりじゃ。それでも、命を懸けるべき場がなくなったことは、否定出来ない事実じゃろ? もはや、敵はおらんのじゃ」
「だからと気を抜くとおっしゃいますの? 何も、軍人の命を懸けるべきは、戦ばかりではありませんのよ」
「そういうわけではないが……」
 そんなつもりはない。利根だって頭ではわかっているつもりだ。頭ではわかっているのだが、どうにも疑問が拭えない。
「ひとつ疑問がありますの」
「なんじゃ?」
「利根は、命を懸けなくてもよくなったことに違和感がある、とおっしゃいましたね。ですが、もし本当にそう思っているのなら、安堵こそしても、違和感を覚えるのはおかしいのでなくて?」
「そうじゃろうか? 軍人たるもの、戦場(いくさば)を欲するものではないか?」
「それが足柄の言葉だったら納得しますわ。でも、利根はそういう戦闘狂ではありませんでしょう」
 その通りだ。利根は口をつぐむ。
「結局のところ」
 ややあって、熊野は続けた。
「利根は、戦争終結を受け入れられないのではなく、受け入れたくないのではなくて?」
 大きな衝撃だった。まるで直撃弾をもらったような、そんな衝撃が全身を駆け巡る。
「受け入れ、たく、ない?」
 そんなこと、利根は全く考えていない。戦争が終わったことは喜ばしいことだ。そんなこと、わかっているのだと思っていた。
「利根自身がいつまでも戦争の中にあると思い込んでいるから、今の戦争が終わった状況を不思議に感じるのですわ。命を懸けたくても懸けられない状況が、利根には居づらくてしょうがないのでしょう」
 澄んだ水色の瞳が、利根をしっかと捉えている。心配しているのだと、述べていた。
「……そう、じゃな。言うとおりじゃ」
 そう絞りだすのが、精一杯。
「熊野、かたじけないのう。余計なことを言うた」
「同じ重巡のよしみですわ。それに、あまりの変化のなさに戸惑ってるのは、この熊野も同じでしてよ」
 はい、と熊野から麦飯を手渡される。最後の膳に、それを置く。
「ですが、鈴谷に電話で笑われてしまいましたわ。そうそう変化するものじゃないんだし、変化がないからって悩むことない、と」
「……鈴谷らしいのう」
 快活な鈴谷の印象が、利根にはすぐに思い浮かぶ。いかにも楽観主義な鈴谷が言いそうな言葉である。
「利根、やはり戦争は終わりましたのよ。軍人は命を懸けるべき、とは言いましたが、普段からそんなに気を張り続けるようなものでもありませんわ。もう少し、気を抜いたらいかがです?」
「気を張っておるのかのう? そんなつもりは毛頭ないのじゃが」
「朝食前から命を懸ける懸けないなんて重い話を持ち出すのは、気の張ってる証拠ですわ。鈴谷が聞いたら、私みたく笑われますわよ」
 そうじゃな、と利根は小さく笑う。真面目な熊野と楽観的な鈴谷、という上手い組み合わせで彼女たちが回っているのは、とてもよくわかる。そしてそれが、自分たちの過去に、やや重なる。
 小さく小さく、利根は首をふる。
「何か気分転換することをお勧めしますわ。そうだ、エステなんてどうでしょう? よろしければ、今度豊原のいいお店など紹介しますわ。前から懇意にしている場所がありますの」
「えすて……、いえ、それは遠慮しておこうかのう」
 なんとも自分には合わない世界だ、と利根は思う。なんというか、こう、むず痒い。
「そうですか、それは残念」
「いや、心遣いはありがたいがの。それより、せっかく朝食も準備できたし、皆を集めるかのう」
「ああ、そうですわね。それじゃ、利根、お願いしますわ」
 はいはい、と利根は食堂の方へと向かう。
 いろいろな思いを、一度押し込めて。



  一ノ四

「護衛に気を使わなくていい、ってのは気楽なものよね」
 ようやく北辺にも春の訪れた五月半ば。第九水雷戦隊の駆逐艦四人は、オホーツク海を北へ快走していた。
「叢雲、あんまりぼーっとしてるとぶつかるよ」
「そこまで間抜けじゃないわ。失礼ね」
 叢雲は手に持つ艤装で、響を軽く叩いている。
「Ой! 痛いよ!」
 響がふわふわ逃げ回り、叢雲もふわふわ追いかける。傍目には、年相応の女の子のじゃれ合いにしか見えない。
「全く、気が抜けてるわ。任務中なんだから、緊張感持たないと」
「不知火姉さん、顔が緩んでるぞ」
「……不知火に何か落ち度でも?」
「磯風を睨みつけても無駄だからな」
「チッ、不逞な妹ね」
 要するに、不知火もまた随分と浮かれているらしい。無理もない話だ。
 終戦から既に三ヶ月。最初は喜びに包まれていた艦娘たちも、次第に平常運行に戻りつつある。それとともに、新たな敵に悩まされるようになってきた。
 暇と空腹である。
 戦争が終われば、艦娘の仕事はガクッと減る。磯風たちは国境警備に回るからまだマシ、戦艦や空母は時たまの演習以外はまるで任務が無い。もはや戦わなくてよくなったから、といえば聞こえがいいが、もはや艦娘に回す燃料がない、ということでもある。
 同じように上から配給される食料も半減した。戦終わりて残ったのは、焦土の国土と飢えた七千万の国民。不急のものに回す食料はない、ということである。それ以来、駆逐艦である磯風たちは、国境警備を兼ねて海産物を漁るのが任務になっている。
「でも、叢雲も響も元気よね。不知火はとても走り回る気力ないもの」
「何よ、私だってお腹すいたわ」
 響を追う足を止めて、叢雲が不知火の方へ寄って行く。
「でも、今回はソ連の招待でしょ? なら、きっとご馳走でるじゃない? それが楽しみで」
「まあ、そうなるな」
 言ってから、磯風はそれが日向の口癖だと気づく。毎日のように将棋を指していたから、伝染ったらしい。
「そう、それ。そもそも、今の時期になって、なぜ駆逐四もつけて輸送なのよ?」
 不知火の疑問ももっともだ。燃料の無駄遣いも甚だしい。
「そりゃ、マガダン市の英雄都市指定記念の式典に出るため、って榛名さんも言ってたじゃない」
「どうしてソ連の一都市の式典に、日本の駆逐が四杯も必要なのかって話」
 不知火の強い言葉に、叢雲が少しムッとした。不知火にとっては、普通の言い回しのつもりなのだろうが、低めの声でそう言われると責められてるように聞こえるのだ。
「ソ連側が、呼んでくれたんだよ」
 不知火の質問に答えたのは、響である。
「駆逐を四隻も?」
 磯風も問い返す。
「うん。どうやら最初は戦艦を呼びたかったそうだけど、それは諸般の事情で難しいとわかったから、代わりに駆逐隊まるごと、って」
「響は、それどこから聞いたのよ」
Зарница(ザルニーツァ)にメールで聞いたんだ」
「ざるにーつぁ?」
「ソ連の警備艦」
「え、何、ソ連の警備艦とメル友なの?」
 叢雲が驚いている。磯風も初耳だ。
「随分前からだよ。ちゃんと榛名さんには了解取ってるから大丈夫。それに、検閲されてるだろうしね」
「いつの間に……」
 ロシア語が堪能な響らしい。語学に長けているのは羨ましい。
「そうだ、そのついでに一つ質問いいかな?」
「なんだい、磯風」
「その"英雄都市"って何だ?」
 なんだか偉い都市であることはわかる。だが、駆逐隊を呼ぶほどであるのかは、わからない。
「ああ、戦争で奮闘した都市に与えられる称号だよ。今回の深海棲艦との戦争では、マガダンが最初に英雄都市の称号を与えられることになってる」
「最初?」
「戦争を通じて陥落しなかった港湾都市、Магадан(マガダン)Севастополь(セヴァストーポリ)くらいだからね」
 あとはМурманск(ムルマンスク)Владивосток(ウラジヴォストーク)Рига(リガ)ダメだったからね、と。磯風はそれが何処かわからないから、どう凄いのかはわからないが。
「でもそれ、日本が頑張ってオホーツク海に深海棲艦を入れなかったからよね」
 と述べたのは不知火。
「マガダンからソ連の援助がなかったら、日本は干上がってたのよ。絶え間無く日本を支え続けた拠点としての評価じゃないかしら?」
 それには叢雲が答える。右手人差し指を上に向けて、彼女お得意の説明スタイルである。
「そうみたいだよ。Магадан市側もわかってるから、わざわざ日本海軍を招待したんだって」
「それで駆逐四杯、か。数だけは揃えた、みたいになるな」
 本来なら戦艦か空母だろう、と磯風は思う。駆逐艦とは所詮一兵卒である。外交の場にはふさわしくないと思うが。
「日本側の事情だ、と向こうからは言われたよ。何か、海軍省(赤レンガ)あたりがいろいろ考えてるんじゃないかな」
「どちらにせよ、おかげで私たちがご馳走食べれるわけだから、文句ないけどね」
 にこにこ。叢雲が珍しい笑みを浮かべている。磯風には、そちらの方が少しおかしかった。
「あとは、輸送船が一緒じゃなきゃ、完璧だったのに」
 不知火は磯風の背後にある貨物船を指差す。コンテナを満載したその船は、船足も鈍重。
「北千島が物資不足なのは、不知火も知ってるでしょう?」
「そうだけど……」
 叢雲の説明は続く。
「まだ少し氷が残ってそうだけど、それでも私たちが監視すればなんとかなるから。少しでも早く物資を確保したいのよ」
 毎日の食事がひもじいのは北千島に限らぬが、北千島がひときわ厳しいのも事実である。冬になると樺太・道東の諸港が流氷に封鎖され、物資輸送路が寸断される。
 深海棲艦との戦争中には、その特性故に樺太・道東が聖域となったが、戦争が終わると欠点に様変わりである。
「それはわかる。だが、なぜ行きなのにコンテナ満載なんだ?」
 今の話なら、輸送船の荷は空のはず。
「鉱石を積んでるんだよ。北千島特産のね」
 答えるのは、響。
「鉱石?」
「テルルっていう金属の鉱石らしいよ。艦娘の艤装やその他対深海棲艦兵器の駆動システムに必須なんだけど、ソ連じゃ自給が難しいんだって」
 響がスラスラと説明する。相変わらず、響は変なことに詳しい。
「へー」
「日本には他にもあちこち産地があるんだけど、本土は輸送路が壊滅してるから。それで北千島を開発して、ここから送ってるみたい。温禰古丹(おんねこたん)新知(しむしる)のプラントは、テルル精製プラントなんだって」
「つまるところ、これがソ連海軍の生命線、ってわけね」
 不知火に釣られて、磯風も輸送船を見上げる。風にはためく旭日旗が、偉そうに見える。
「援助物資に少しは対価を払おう、ということかしらね、これ」
「全然釣り合いはしないだろうがな」
 戦争中のソ連の援助がどれほどか、磯風は知らない。しかし、日本の生産が崩壊していることを考えれば、あまりに莫大なことは、推測できるものだ。
「でも、これ、今更何に使うのかしら? 戦争、終わったのよね?」
 叢雲が船体を軽く叩いて呟いた。
「そういえば、そうだな」
「艦娘を増やすんじゃないの?」
 響の答えは、しかし簡単に納得できるものではない。
「戦争が終わって、艦娘が必要なくなったのに?」
「言われてみれば、そうだけど……」
 不知火の言葉はもっとも。ソ連の行動は、わからない。
 四人で首を傾げても、答えは出そうになかった。


 マガダンに着いたのは、翌日昼のことである。すでに街はお祭り騒ぎ。磯風たちも、入港するや市民の大歓迎を受けた。港入口にはグローム・ザルニーツァのウルガン級警備艦二人が出迎えに訪れており、港には日本語やロシア語の横断幕を掲げた人々が押しかけていた。
 何より、磯風はその豊かさに目を見張る。マガダンの港町は1950年代に建てられたレンガ造りの町並み。手入れの行き届く町にはチリひとつなく、数少なくなったモダンな港町の美しさを体現している。その旧市街から内陸側に入ると、シベリア鉄道より連なるアムール・ヤクーツク鉄道のマガダン駅がある。内陸からの接続点である駅周辺は開発が進み、現代的な高層ビルが立ち並んでいる。居並ぶ市民の着ている服も、色とりどりで綺麗なものばかり。古着ばかりの日本とは、大きな差である。
 待遇も想像以上。到着早々、昼食として出されたのは美味しいロシア料理の数々。どれも上品な味わいで、磯風たちはこれまで食べたことのないようなものだった。腹を空かせていたのを見ぬかれていたのか、量も十分で、四人は久々に満腹感に苦しめられることになった。
 昼食後はそのままグローム・ザルニーツァ姉妹に連れられ、半日をマガダン市の観光をして回る。深海棲艦との戦争で陥落したウラジオストクやペトロパブロフスク・カムチャツキーに代わり、ソ連極東の中核を占めたマガダン市は、いまや人口40万。何から何まで揃っていて、四人は目が回りそうなほどだった。
「Верный, пожалуйста, сообщите им мои слова. Понравилось ли вам в Магадан?」
 夕食が終わって、六人はホテルの一室に戻ってきていた。無論、ホテルも最高級。壮麗な装飾の数々は、四人を絶句させて余りあるものだったし、部屋の広さといい調度の美しさといい、こちらが気後れしてしまうほどのものである。
「Ладно. ねえ、グロームが、マガダンはどうだった? って」
 響の通訳にあわせて金髪蒼瞳の小柄な少女、グロームがニッコリと笑いかけてくれる。ショートの髪型に似合う快活な笑みで、磯風はなんとなく響の妹・雷を思い出す。
「素晴らしかったわ! まるで夢みたい。こんな楽しいのは久しぶりよ」
 すぐに叢雲が言葉を返す。その言葉はいつになく弾んでいて、ソ連の二人も意味こそわからなくても感じるところがあったのだろう。表情を和らげた。
「Ну..., она сказала: это фантастически как мечта. Я не чувствовал такой красивой в течение длительного времени.」
「Я так рад слышать это.」
「そう言ってくれると嬉しい、ってさ」
 響が通訳してくれるのは、本当にありがたい。通訳を下手につけるのも面倒だし、互いに気心が知れているというのは大きい。
「こちらこそ、ありがとう」
「ドウイタシマシテ」
 片言の日本語を返してくれた銀髪の少女がザルニーツァ。やや上背がありメガネを掛けたその姿からは、グロームの姉のように見えるが、妹だそうだ。
「何と言っても、食事がとんでもないご馳走なのは素晴らしいわよね」
 さらに、叢雲が続ける。
「ああ。あんなとろけるようなビフテキ、はじめて食べたな」
「戦争中だったら、"すわ、最後の晩餐か"と疑るところだったわね」
 不知火もまた、先ほどの夕食を反芻しているらしい。どこか上の空である。
「違いないわ。これからどれだけ厳しい作戦に投入されるんだ、って憂鬱になるやつよね」
 と叢雲。本当に、それほどまでに美味しい夕食だったのだ。そんな会話も全部響が訳しているようで、ソ連の二人も穏やかな笑みを浮かべている。
「まさか、ソ連海軍は毎日あんなに豪華な食事なのか?」
 磯風のふとした言葉で、三人の視線がソ連の二人に向く。キョトンとした二人だが、響から話を聞くと、二人して笑い出した。
「Конечно нет!」
 声をあげて大笑するグロームと、口を抑えて微笑するザルニーツァと、笑い方も対照的。
「もちろん違うよ、って」
「そりゃそうよね」
 もしその通りならこのままソ連に亡命したのに、と不知火が冗談ともつかないことを呟いている。不知火はいつも真顔でそんなことを言うから、冗談なのか本気なのかわからない。とりあえず、磯風は聞かなかったことにした。
 一方の響は、グロームやザルニーツァと何か言葉をかわしている。響も緩く笑っていて、楽しい会話であろうことはうかがえるのだが、いかんせんロシア語である。
「響、訳してくれないとわからないわよ?」
 割り込んだのは叢雲が早かった。
「ああ、ごめんごめん。えっと、普段は二人も黒パンとкаша……、雑穀粥だって」
「どこも似たようなものなんだな」
「でも、量は私たちよりかなりマシみたいだけどね」
 もし日本海軍より少なければ、艦娘として用をなさなくなるだろう。
「それは羨ましいわね」
 三人で嘆息。三人とも大日本帝国の艦娘で、そのことに誇りを持っているのは違いないが、食事情の急激な悪化は、身に堪えてきているのも事実なのだ。
「Любое количество я буду пировать.」
 そんな三人の様子を見てか、はたまた響の愚痴でも聞いたのか、グロームがいたずらっぽく笑って、何か響に話す。
「いくらでもごちそうしてくれる、って」
 響が通訳したのを見計らって、ますますその笑みの色を濃く、グロームが言葉を続けた。
「Мы не хотим слышать, что Вы говорите, что теряете игру только потому, что Вы голодны.」
 彼女の小悪魔じみた所作は、何を言ったのかとても気になる所である。三人の目が響に集まる。珍しく響がやや逡巡して、三人とグロームと、双方を見比べる。グロームが顎で軽く訳すように促して、おずおずと響は口を開いた。
「えっと、ね。お腹が空いて負けた、なんて言われたくないから、って」
「ほう、言ったな!」
 面白い。磯風は笑う。ソ連海軍との公開演習が予定されているのは前から知っているが、なかなかに面白いことになりそうだ。
「何、その気ならそちらは実弾でも構わないぞ。どうせ一発も当たらないだろうからな」
 にこにこ。磯風の不敵な笑顔に、響は黙って溜息をつく。向こうの二人は、わからないなりに磯風の言葉の不穏当さを感じ取ったようだ。
「不知火も同感ね。日本海軍の力を舐めないで欲し、わぷっ」
 不知火は叢雲に口を塞がれている。
「響、訳さなくていいわよ。大体伝わってるだろうし。全く、戦闘狂が二人もいるなんて困ったことね」
「私たち特型とは、なんか住んでる世界が違う感じがするよ」
 響もまた、薄くではあるが、やや呆れた表情を浮かべる。それから、状況をソ連の二人に説明している。
「ザルニーツァがさ、互いに頑張りましょう、ってさ」
 ややあって、響が一言。グロームもいろいろ話していたのだが、それは訳さない方がいい、と響が思ったようだ。
「そもそも磯風ったら、さっきまで"この恩はいつか返さねば"とか言ってたじゃない。それはどこに行ったのよ」
「それはそれ。おいしいものを食べさせてもらった恩は恩としてきちんと覚えておくが、勝負ごとは別の話だ」
「ややこしい話ねぇ」
 叢雲が心底呆れ返っていた。ソ連の二人もまた苦笑。
「夕食お気に召してくれたんですね、とザルニーツァが」
「そりゃ当たり前よ。あんな美味しいビフテキ食べて、お気に召さないはずがないわ。本当に久々だったし。しかも、あんなに大きいの」
 不知火が力説する。単純な連中だ、と叢雲が溜息混じりに"不知火型"二人を眺めている。
「腹が膨れて動けなくなるかと思った」
「あら、磯風らしくないわね。バルジがどうとか言ってたのに」
「あんな霜降りの厚切りステーキ、一生に何度も食べられるものじゃないんだ。残せるわけないだろう? 第一、最近の食事は最強のダイエット食じゃないか」
 干し鱈の煮付け一切れ、蕪の古漬三切れ、薄い味噌汁、薄い芋粥、場合によってはその日の釣果。それが四月以降の夕食。すっかりバルジも落ちてきた気がする磯風である。筋肉もろとも。
「これからの食事も期待しているわ」
 不知火が言う。響が通訳すると、ザルニーツァがグロームの口を塞ぎつつ、おだやかに告げた。
「心ゆくまでロシア料理をお楽しみください、だってさ」
「ありがたいわ」
 響も含め、日本側の四人で頭を下げる。本当に、この数日の食事状況は素晴らしいのだ。
 向こうもそれをわかってくれたようで、にこやかに笑い返してくれた。
 それっきり、会話はしばし絶える。
「ところで、一つ話変わるんだけどいい?」
 叢雲が話を続けたのは、気まずくならないくらいの静かな時間ののち。
「なんだ?」
「ちょっと気になったんだけど、響さ、そっちの二人から何て呼ばれてるのかしら?」
「えっ?」
「グロームもザルニーツァも、響のことを"ヒビキ"とは呼んでないわよね? なんか違う呼び方をしてるように思うのだけど」
「よく気づくわね」
 不知火が感嘆の声をあげる。磯風も全く気づいていなかった。
「呼びかけるときに、響とはどうにも聞こえなかったから。"びゃるぬい"とか、そんな感じ?」
 叢雲の質問に、響はやや戸惑っている。訳してないので、ソ連の二人は曖昧な笑みを浮かべて響を眺めているのみ。
「Верный」
「えっ?」
 突然、響が小さく呟いた。小さい声に、聞き逃してしまう。
「Верныйって呼ばれてるんだ。あだ名みたいなものだよ」
 照れ気味に告げる響の顔が、珍しく赤い。
「О чем ты говоришь?」
 どうやらグロームは、磯風が何を話していたのか、と聞いたらしい。問われた響は、ますます縮こまりながら、ぼそぼそと説明する。もともと籠って聞こえるロシア語であるが、ますます言葉が口の中から出てこない。
 一方の二人は、話を聞くや、みるみるその表情が咲いたような笑顔に。やや響を和やかに見ながら、ザルニーツァが身振り手振り、何かを響に力説している。
「ねえ、響。それどういう意味なの?」
 しかし訳そうとしない響に、叢雲が直接響をつつく。彼女、身体コミュニケーションが多い。
「え、っと」
 白い肌を真っ赤に染めて口を閉ざす響に、十の瞳が向けられる。
「……あえて訳すなら、誠実な、ということになるのかな」
「あら、普通にいい話じゃない」
 叢雲は、やや拍子抜けしたような表情を浮かべて言った。何かもっと面白いこと出てこないの、と、そんな感じである。
「Думаю, что Верный заслуживает того, чтобы быть в е р н ы й друг.」
 そんな叢雲の言葉に畳み掛けるよう、ザルニーツァが説明をする。ヴェールヌイ、というところだけ丁寧に発音して。
「……ソ連の駆逐艦トビリシが最初に私のことを、"верный друг"にふさわしいから、って"Верный"と呼び始めたんだ」
 その説明を聞くに、ザルニーツァもまた"響はверный другとするに値する"というような意味のことを言ったと、磯風にも予測できる。
「その"верный друг"とは?」
「直訳すれば"誠実な友人"みたくなると思うけど、たぶん"真の友人"の訳が近いんじゃないかな」
「真の友人、か」
 よくわかる。響は寡黙だし感情も表に出にくいが、言うべきことは言い、すべきことをきちんとやる。数いた駆逐艦の中でも、響は特に信頼できる人柄だ。そう磯風も思っている。
「欧米圏では、艦の名前に形容詞を使うから。それで、いつの間にかВерныйが定着してしまったんだ」
「いい話じゃない。別に恥ずかしがることないわ」
「私には大仰すぎるよ」
 相変わらず恥ずかしそうに縮こまる響に、ザルニーツァが立ち上がって近づいていくと、頭にポンと手をのせた。
「ТЫ наша верный друг, Хибики.」
「Правильно.」
 二人が何と言ったかは、磯風にはわからない。しかし、響こそが友人だと、そんなことを言ったのだろう。
 響がとても恥ずかしそうに頬を染め、でもとても嬉しそうに笑っているのは、きっとその証拠だ。

 翌日行われた、マガダン市英雄都市称号授与の記念式典は、大盛況のうちに幕を閉じた。
 とりわけ、ロシア海軍との演習では、帝国海軍の練度の高さを見せつけた。ロシア海軍に勝利したのはもちろん、その過程に見せた神業の数々に、ロシアの人々はすっかり魅了された。同時に、演習直後の日露艦娘達入り乱れた楽しげな様子は、平和というものの意味を、人々に見せつけるものでもあった。



一ノ五

「翔鶴さん、マガダンからのお土産、余っていますが如何ですか?」
 いつものように安楽椅子に揺られて暖炉に当たっていると、秋月が手になにやら持って近づいてくる。
「私はすでに頂いたけれど」
「いわゆる遠慮の塊と言う奴だと思います」
 それはチョコレートである。何の変哲もない普通の板チョコなのだが、甘味はこの島では貴重である。
「それなら、秋月が食べれば?」
「いえ、私はそこまでお腹空いているわけではありませんし」
 そんなわけはない。艤装に反比例して小食な翔鶴だが、それでも食事は毎度物足りない。まして、駆逐艦としては体格の良い秋月に、足りようはずもない。
「いいから食べなさい。見つけたもの勝ちよ」
 秋月はしばしチョコと翔鶴とを見比べて、それから小さく、いただきます、とチョコを口に放り込んだ。隠しているつもりのようだが、顔が少し緩む。
「少しはお腹膨れた?」
「はい、お蔭様で」
「やはり、お腹空いてたんじゃない」
「ん、あ、ええ!?」
 しまった、という表情を浮かべ、秋月は手で口を押さえる。
「まあ、無理もないわよね。特に、今日は釣果もなかったし」
「翔鶴さん、ひどいです!」
「あら、引っかかる方が悪いのよ? それに、お腹が空いたことを隠す必要なんて、どこにも無いわ」
「ですが、皆さんも同量で我慢しておられるわけですし……。まして、軍上層部の批判にもつながります……」
「食欲は本能だから仕方ないじゃない。それに、この帝国は嘉徳の変法以来、民本主義を国是とするわ。ものを言う権利は承認されてるから大丈夫よ」
 昭和初期、恐慌への対応に失敗した大日本帝国は、経済的に破滅し、いわゆる昭和維新を認めた。それは、以後三十年にわたる国政の著しい混乱を招き、全植民地の喪失やWWIIの不参戦を結果した。嘉徳の変法とは、こうした混乱を収拾し、高度経済成長を招来しえた一連の改革を指す。民"主"主義ならぬ民"本"主義も、この変法以来の国是だ。
「……翔鶴さんは、相変わらずですね」
 秋月が苦笑する。翔鶴からすれば、言いたいことを言っているだけにすぎないのだが。
「でも、もう少し気を付けて頂ければ。いらぬ誤解を招きますし」
「だから、普段は静かにしてるでしょう?」
「いや、そうかもしれませんが」
 秋月のやや呆れた表情を浮かべた。
「帝国臣民が粗食に耐える中、その模範たるべき艦娘が粗食に不平を言うのか、って考える者もいますよ、きっと」
「みんな厳しいから君も耐えろ、は欺瞞よ」
 秋月が、もう少し呆れの顔を強くした。翔鶴は全く気にしないが。
「差の問題というところでもあるわ。これまで、帝国のために命を削っていたから、とたらふく食わせて、いざ戦争が終わるや"不要不急"と粗食に切り替える。やり方が良くないわ」
「でも、食料が足りないのは事実ですし、どうすれば?」
「さっさとクビにすればいいのよ、艦娘」
 秋月の顔色が青ざめた。
「クビ……?」
「どうせこの国にはモノがないのよ。たかが全国200だか300だかの艦娘さえロクに食わせられないほどにね。でも、待遇を下げれば艦娘の不満が溜まって、ロクなことにならない。それならいっそ、武装も剥がして叩き出した方がいいわ」
「いや、ちょっと」
「実際に、睦月型や特型の古い方は廃艦にしようという話があるみたいね。それから、戦艦も削減したいと」
「翔鶴さん、それ以上はマズイです!」
 秋月があたふたと口止めしてくる。周囲を丹念に見回している。
「そんなものかしら? どうせ軍にいても後は飼い殺し。その点退役してしまえば、退役軍人として年金ももらえるし、何より"普通の女の子"に戻れるのだから、そちらの方が平和じゃない? 艦娘だってだけでステータスになるから、華族へ玉の輿だって狙えるらしいわよ?」
「だから!」
 唇に人差し指を当てられる。
「私は翔鶴さんを舌禍で失いたくはありません。まだ軍におられるんでしょう?」
 その秋月の言葉に、翔鶴は首を傾げた。
「え? おられますよね?」
 その仕草は、秋月の想定外だったらしい。人差し指を離す。
「もう退役願、出したわよ」
「え……、ええっ!?」
「だって、私の体調のこと考えたら、これ以上軍にいても仕方がないでしょう?」
 翔鶴はしばしば体調を崩す。四年ほど前に海戦にて重傷を負ってから、しばしば熱を出すようになり、無理が効かなくなった。
「いや、その……」
「本来あの時に辞めるべきだったのよ。、他に"翔鶴"の適合者がいなかったから私がやってるだけ。体調が悪くて遠出ができず、北方の島の防衛任務しかこなせないような"正規空母"なんて、無駄もいいところよ」
 その結果が、幌筵への赴任である。第一線で活躍すべき正規空母翔鶴が、こんな僻地にいるのは、療養も兼ねているのだ。幸い、幌筵の温泉が効いたのか、翔鶴の体調はここのところ安定してはいる。
「戦争中はオホーツク海防衛のために仕方なかったけれども、終わったとなっては海軍もそんなムダ使いできないはず」
「いや、あの、初耳なんです、けど……、いつそれを?」
「そりゃ、はじめて言ったもの。2月12日、終戦の翌日ね」
 秋月が言葉を失って立ち尽くしている。
「でも、榛名さんに突き返されちゃったのよね。もうじきあるだろう改組までは待ってくれ、って」
「翔鶴さん!」
 両肩を掴まれる。
「どうして私に言ってくれなかったんですか! 何か、私に不足が」
「何を言っているの? 秋月に不足なんてないわよ。これはあくまで私の個人的な事由によるもので、あなたとは関係ないわ」
「でも、相談くらいしてくれても」
 秋月の瞳が幾分うるんでいる。翔鶴は、どうやら秋月が気にしてくれていることに気づく。
「あら、私のこと気遣ってくれるの?」
「当たり前です。私は、翔鶴さんの護衛ですよ」
「艦娘としての役割と、個人関係とは別問題でしょう?」
「それでも、です! 勝手に護衛対象がいなくなったら、私はどうしていいか……」
 ついに、幾つかの水玉が頬を伝いはじめた。翔鶴は、懐からハンカチを取り出して、秋月に手渡す。
「わかったわよ。次に退役願出す時は、ちゃんと秋月にも言うから」
「必ずですよ? 勝手にいなくならないでください」
「わかったから。約束するわ」
 立ち上がって、秋月を軽く抱きしめてやる。秋月の方が頭一つ近く高いので、翔鶴が抱きついているような構図になるが。

 懐かれている、ということなのだろうか。肩口に生暖かな感触を覚えつつ、翔鶴は考える。そういえば聞こえはいいが、要するに依存されているということな気もする。
 それは、秋月にとってきっと良くない状況だ。翔鶴は、自分が自己本位な人間であると知っている。それは、今更変えようもないだろう。そんな人間に依存するなんて、その先にあるのは破滅のみだろう。
 されど、突き放して良くなるとも思えない。どうしたらよいか、翔鶴にはとんと検討がつかない。

「落ち着いた?」
 結局何をなすでもなく、翔鶴はただ秋月を抱きしめて、背中を撫でていただけである。
「はい、妙なところをお見せしました」
 まだ秋月は、目頭をハンカチで抑えている。そんな、泣かれるほどのことだろうか、翔鶴は不思議にさえ思う。秋月に守ってもらったことは少なくないし、翔鶴がこうして終戦を迎えられたのは、秋月のお蔭だと思っている。その意味で翔鶴は感謝しているけれども、秋月に感謝されたり懐かれたりする理由はないように思えるのだ。
「翔鶴さん、でも、本当に辞めるつもりなんですか?」
「軍に居たって、何か役に立てることはなさそうだもの。私を養うお金なんてないはずだし」
「そんなことは無いとおもいます! 第一、辞めてどうするんですか?」
「行くあてがあるわけではないけれど、ある程度の軍人恩給はもらえるから、それでしばらくは凌げるでしょう。あとは、体次第かな、って」
 しばしば熱を出す、この気まぐれな体調とどう付き合うか。大きな問題である。
「それなら退役なんて」
「国の脛をかじれるのも、時間の問題に思うのよ。この国自体の未来も怪しげだし」
 やや話を変える。きっと、個人的な話をしても、秋月は決して納得しないだろうから。
「だから翔鶴さん、少しは言葉に……」
「はいはい。でも、秋月はそう思わないかしら?」
 返事をしたのに、秋月に睨みつけられる。気のないのがバレたか。
「……といいますと?」
「秋月、こないだ来た新聞読んだかしら?」
「新聞、ですか? 読んでいませんけれど……」
「あら、軍人たるもの、新聞くらいは一読しておきなさい」
 と言いつつ、翔鶴は部屋の端においてある新聞を一つとって、秋月に渡す。
「それの一面見出しよ」
「蘇連邦にレンドリース法継続を嘆願……?」
「そうよ、それ」
「どういうことです?」
 秋月はどうやらレンドリースという言葉を知らないらしかった。翔鶴は、ため息一つ。
「それじゃ、秋月に聞くわね。太平洋・日本海・東シナ海を封鎖された日本は、この二十年どうやって戦って来たと思う?」
「それは、ソ連からの支援を受けて、ですが」
「そうよね。ソ連からいろんなものを借りたり貰ったりして、それでなんとか戦えてたわけよね。それがレンドリース。陸上戦用の兵器から毎日食べる麦にいたるまで、物凄くたくさんを日本は借りているわ」
「それが終わると、どうなるのですか?」
「その新聞の下の方に書いてあるわよ」
 秋月は視線をずらして、しばし文字と格闘する。
「……で、どういうことです?」
 しかし幾許もなく諦めたようだ。人に聞いたほうが早いと思ったらしい。
「ざっとGDPの10倍くらいの借金大国になった、ってことよ」
「……?」
 またひとつ翔鶴は溜息。一応、艦娘の訓練過程でこういうことも勉強させられるはずなのだが。艦娘とは、一応将校なのだ。
「帝国の全臣民が、何も飲み食いせず何も買わず、せっせと働いて、できた生産物を全部ソ連に返したとする。それを10年続けてようやく完済できる、といえばわかるかしら?」
「……それ、無理じゃないですか?」
「当たり前じゃない。でも、借金の額の大きさは、だいたいわかったんじゃない?」
「たくさん、ということなのですね……」
 わかっているのだか、いないのだか。
「とにかく、それだけたくさんの借金を抱えてもなんとかなってるのは、レンドリース法という法律のおかげ、ってわけ。その法律は、無利子無期限での物資貸与を行う法律だから」
「なくなると、もう借りられないってことですよね」
「そういうこと。でも、日本の生産は全く復興してないでしょ? だから、この法律がなくなってしまうと、この国は破綻するしかないの」
「私たちが頑張っても?」
「今日食べる食糧さえ事欠くのに、どうやって頑張るのよ。しかも、借金を返さないといけないというのに」
 頑張れば何とかなる、という発想が、翔鶴は好きではない。可能なるや否やは、客観的な状況に規定されるもので、精神論で何とかなるものではない。
「それなのに、ソ連はもう貸さないって、そう言うのですか?」
「戦争が終わった今、ソ連が日本を支援する積極的な理由がないもの」
「それでも、戦ったのは私たちですよね? 私たちが一生懸命戦って、それで漸く平和になったのに。それなのに、必要がなくなればポイ、ということですか?」
 秋月が、悔しそうな表情を見せる。
「日本が頑張って戦ったから、ソ連極東は落ちなかった。そうですよね。もし宗谷海峡や千島列島の何処かが破綻してれば、ソ連極東に都市は残らなかったはずです」
「それも一つの見方。でも、ソ連が莫大な物資を送り続けてくれたから、私たちが戦い続けられ、曲がりなりにも日本という国が存続できたともいえるわ」
 もしソ連の物資がなければ、この国は十五年前には崩壊して、文字通り一億総玉砕という結果になっていただろう。かつて世界に多く存在した他の島国のように。
「ですが、命を削って戦ったのはやっぱり私たちなんですよ?」
「それもそうね。だから、ソ連は無尽蔵に支援をくれたわ。これまでね。でも、ソ連の国力は本来、無尽蔵ではないわ。ソ連だって、今回の戦争で、多くの沿岸都市を失ったし、ヨーロッパからの難民も大量に受け入れている。国力としては、大きなダメージを受けているのよ」
 それなのに他国にばかり投資するわけにもいかないものだ。
「ソ連はソ連国民のために動くのよ。日本国民のためではなくてね」
「それはそうですが……」
 秋月の顔は納得していない。
「もっとも、日本が少しでも借金を返せばいいわけだけどね」
「……どうやってですか? 返すのは殆ど無理だと」
「どこか領……、いや、なんでもないわ」
 答えそうになったが、流石の翔鶴も思い直して口を噤む。先ほど、歯に衣着せぬ物言いを秋月にも怒られたところだし、うっかりこの話が出回ってしまえば、大騒ぎになることは必定である。
「ん、今?」
「ごめんなさい。勘違いで変なことを口走りそうになっただけよ。気にしないで」
 そう翔鶴は曖昧に笑う。
「そんなわけで、この国にしがみついていても仕方ない、ってわけ。軍の中ではもう役立たずの私も、他のところに行けば、何かできるんじゃないか、ってね」
 あんまり思ってないようなことを、翔鶴はさらりと口にした。
「そうでしたか。でも、私は翔鶴さんが役立たずだとは思いません。翔鶴さんがいなくなったら、皆困りますよ」
「そう言ってくれると、私も嬉しいわ」
秋月の真剣な表情は、ありがたいもの。だからといって翔鶴が心変わりすることは、ないのだが。
「もう少し考えてみるわ」
 ゆえに、翔鶴はただ曖昧な笑顔を返した。


「おや、赤城さん。お久しぶりです。赤城さんから掛けて下さるとは珍しいですね」
 翔鶴の携帯端末が、控えめに音を鳴らしたのは、夕食後のひととき。滅多に使わない携帯端末が鳴ったのには驚いたし、それ以上に相手が赤城であることに驚いた。
《久しぶりね。体調はどう?》
「はい、お蔭様でなんとか」
《そう。それはよかったわ。食べるものが減ってるから、どうしてるかな、と思って》
「大丈夫ですよ。そもそも、赤城さんほど食べませんから」
《あら、人を大食いみたいに言わないで欲しいわ。私はあくまで、おいしいものを食べるのが好きなだけよ》
 むー、っと音の聞こえてきそうな調子の赤城さん。相変わらず、可愛い人である。
「で、どうされました? また瑞鶴が何かしでかしましたか?」
《そんな瑞鶴がいつも何かする、みたいな……。瑞鶴も優秀な子なんだから、もう少し優しく、ね》
 赤城さんの少し呆れたような声。
「では、別の話題でしたか」
《……いや、だいたいあってるわ》
 しかし、赤城が電話をわざわざ翔鶴に掛けてくる理由なぞ、おおよそ瑞鶴絡みしかありえない。赤城という人は、自分で何でも解決できる人だ。
「やっぱり。今度は何やったんです?」
《今度は、って、だからね……。まあいいわ。でも、今回は半分翔鶴も関係するのよ》
「なんです?」
《あなたが退役する、とか言ってた話が拗れたのよ、いろいろ》
 何処かに拗れる要因があっただろうか? 翔鶴は首を傾げる。
《話すと長くなるんだけど、簡単に言うと、加賀さんがあなたを辞めさせたんだろう、って話に》
「何でそんなことに」
《売り言葉に買い言葉なのよ。キッカケは、ソ連から瑞鶴と大鳳の二人に、戦勝記念観艦式の招待があったことなんだけれどね》
「おや、またソ連側に誘われたのですか」
《この間のはマガダン市政府からだったけれど、今度はクレムリンだから規模が違うわ。セヴァストーポリでかなり大々的にやるみたいよ》
「はぁ。ソ連も、やりますね」
 随分と贅沢だなぁ、などとは翔鶴は思わない。もっと明確に、ソ連には目的があるはずだ。
《そうね。いろいろあるんでしょうね。そんなわけで、今回も断ることになったのよ》
「そうなるでしょうね。たとえ燃料その他をソ連が出すとはいっても、正規空母二隻を出すのは少し……」
 と、赤レンガなら判断するだろう。そう翔鶴は考える。戦争は終わったが、世界はひとつになったわけではないのだ。
《そ。そういうわけで、赤レンガが断ったんだけどね。それで、大鳳がショックを受けたみたいで》
「なぜに?」
《なんでも、自分が至らないからだ、と思ったらしいわ。それで、気にした瑞鶴がこっちに電話してきたのよ》
「大鳳らしい生真面目さですね……。それで、瑞鶴の掛けた相手が加賀さんだった、と」
《そういうこと。そこでどういう話になったのか、詳しくは知らないんだけど、どうやらスレ違いがあったみたいね》
 おおよそ、加賀の説明不足が原因だろう。ヘタすれば、「この決定は上からの命令よ。あなたたちとは関係ないわ」くらい言ったのかもしれない。
「瑞鶴は、加賀さんが上申して辞めさせた、とかそう勘ぐったんでしょうか」
《その通りよ。加賀さんも表立って反論しなかったから、そこからプライドの張り合いになっちゃったみたい》
 とことんいつもの通りである。瑞鶴は、いつも周囲に気を配るタイプの娘である。翔鶴とは真逆で、だからうまくいっているところがあるのだが、いらぬ誤解を招きやすい加賀とは、とことん相性が悪い。説明しない加賀から、ありもしない悪意を勝手に読み取って、突っかかるのだ。
《何が足りないというのよ、あなたたちに自覚のないところが悪いのよ、みたいな話から、最後は翔鶴の話になった、ってわけ。翔鶴を辞めさせたのも、加賀が上申したからだ、って》
 本当に、まるで国民学校生みたいな喧嘩である。翔鶴は頭を抱えたくなった。
「それ、もうちょっと何とかならなかったんですか」
《私は、気にした大鳳が飛龍に電話してきて、その飛龍から聞いたの。あんまりの剣幕だったから、って》
「大鳳は、とことんババ引いてますね。今度、お礼を言っておきます……」
《そうしてあげてね。加賀さんの方は、私がなんとかしておくから》
 あれで加賀も気が短いから、今頃一人煮えくり返っているのだろう。
「瑞鶴には、"私が"退役を決めたんだ、ってちゃんと言っておいたのですけれどね」
《心の底から瑞鶴が、加賀のせいであなたが退役したと思っていたわけではないと思うわ。でも、心の何処かで、あなたの退役に納得できてなかったのでしょう》
「もう一度説得しておきます」
《ええ……》
 赤城の、ややためらった声。やや間をおいて、言葉が続いた。
《あなた、本当に退役するつもり?》
「はい。その心は、変わりません」
《そう……。あなたは、まだ帝国海軍には必要な人材だと思うけれど》
「体が言うことを聞くならば考えましたが、無理のできない現状では、お役に立てませんよ」
 まさか赤城が引き止めてくるとは、翔鶴は少し意外に感じた。
《いえ、あなたなら……いえ、やめておきましょう》
 唐突に、赤城は言葉を切った。
《このご時世では、海軍にいない方がよいかもしれないものね》
「……戦争が終わりました、からね」
 赤城も、翔鶴と似たようなことを考えているようだった。
《そういえば、九水戦のみなはどんな感じだったのかしら?》
「凄い歓待ぶりだったようですよ。毎日美味しいものを食べたんだ、とホクホクしてましたね。それに高級な嗜好品をいろいろお土産として渡されていましたし」
 土産はチョコに限らなかった。最高級グルジアワインやらキャビアの塩漬けやら。各種のウォッカの飲み比べもそれぞれに美味しかった。
《あら、それはまた》
 羨ましい、とは続かない。赤城の口調は、珍しくあまり軽くない。
「その一方で、引き渡された生活必需品は最低限でした。なんでも、オビ川の増水でシベリア鉄道の運行が滞ったから、ということでしたが」
《そうではない、と翔鶴は見ているのね》
「聞いたマガダンの様子はとても物資不足という感じではありませんでしたし。やはり、ソ連側の政治的判断でしょう」
《……やっぱりね》
 ソ連の駆逐艦や空母の招待と歓待。レンドリース法の廃止。補給物資の削減。全ては、おそらく共通する話題だ。
《やはり、ソ連は南下を狙うのかしら》
「日本が疲弊している今はチャンスだ、と考えてもおかしくはないでしょう」
 人類の敵との戦争が終わった今、次に目指すのは自らの国の繁栄。それが、国際社会というもの。翔鶴はそう理解しているし、おそらく赤城もそう考えていたのだろう。そして、ソ連は現実にそれを実行しようとしている。
「九水戦の四人は、ソ連でたいそう歓待されて、演習でも活躍したそうですから、だいたいのスペックは把握されているでしょう」
《最初は戦艦の招待だったのだから、それに比べればマシじゃないかしら》
 結局そういうことなのだ。ソ連は、間違いなく日本海軍の実力を知りたがっている。だからこそ、マガダンには戦艦を招待し、ダメだとわかれば駆逐隊まるごとを招待した。今回の祝勝会では、精鋭空母二隻を招待した。戦勝だ万歳、とただ喜ぶのでは済まない国際情勢が、そこにはある。
《でも、しばらくは有形無形のソ連の圧力がありそうね》
「ソ連としては、太平洋への出口が欲しいのでしょう。間宮海峡・千島列島の双方を日本に握られている現状は、ソ連にとって面白く無いはずですから」
《そうね》
 はぁ、という赤城の溜息。
《同じ艦娘と撃ち合いは、勘弁してほしいものだけれど》
「戦争になれば、そうも行かないでしょう」
《当然ね。勝敗を分かつ決定的な"兵器"だもの、艦娘は》
「……はい」
 そういうことだ。これからも、やはり艦娘とは国防の要であり続ける。特に空母は、ますますその重要度を増していくだろう。
《……と、いろいろ辛気臭い話をごめんなさいね。とにかく、そっちもしばらく情勢が不穏になるかもしれないから、気をつけて》
「ご注意ありがとうございます。そちらもお気をつけて」
《わかったわ。あと、瑞鶴のことよろしく。あの娘も、意地っ張りになってるだけだと思うし、ちょっと翔鶴から言ってやれば大丈夫だとおもうわ》
「はい。加賀さんに謝るように、伝えておきますね」
《よろしく。こっちでは、加賀さんにちゃんと話をしておくから》
 赤城と翔鶴とは、いつもこんな役回り。おそらく、これからもそうだろう。
「それでは、失礼します」
《はい。それじゃ、また。お体に気をつけて》
「さようなら」
 ぴ、という音と共に音声は途切れる。
 翔鶴は端末を置くと、軽く背伸びをした。どうにも、これからの情勢は、きな臭くなりそうだ。
 さっさと辞めよう。翔鶴は、その思いを強めるのだった。



幕間ノ一

「お久しぶりです、お姉さま」
 比叡が病室の扉を開けると、半身を起こしている金剛の姿が目に入る。眼鏡を掛けているから、おそらく本でも読んでいるのだろう。
「これは比叡じゃないですか。お久しぶりネー」
 声を掛けるや、金剛は眼鏡を外して振り向いた。相変わらず顔色はあまり良くないが、その笑顔の明るさが、陰鬱さを感じさせない。
「いつ舞鶴に来たのデスカ?」
「ついさっき着いたところですよ。まずお姉さまのところに飛んできましたから」
「それは、姉思いの妹を持てて、とても嬉しいデスね」
 満面の笑み。つられて、比叡も顔を綻ばせた。
「終戦してから一度もこちらに来れてませんでしたしね」
 花瓶に水を入れ、持ってきた花を生ける。金剛の病室は広く、洗面台まで完備しているのだ。
「Don't mindネ。戦艦がそうホイホイ動けた方が困るのデース」
「それもそうですね」
 花瓶を窓際に置いて、それから比叡は金剛の枕元に座った。窓の向こうには、舞鶴の海がキラキラと輝いている。
「それで、お姉さまの体の調子はいかがですか?」
「so goodネー。特に故障もないし、日本の技術も侮れないデスネ」
 困ったように快活に笑う金剛。ベッド脇には多くの機械があり、低い駆動音を唸らせている。これらの機械からはチューブが伸びて金剛に接続され、いろいろな液体が行き交うのを眺められる。
「それはよかったです。ここのところ気圧も不安定でしたから、どんなものかと」
 そんな金剛の皮肉を、比叡は受け流す。いつものことだ。
「ここのところはシンドかったネー。今日晴れて良かったデスヨ」
 金剛は窓の外へ視線をやった。
「逝くにはfinest dayデース」
「お姉さま、そういう冗談はよして下さい。置いて行かれたら、私たち戦艦、皆路頭に迷ってしまいます」
 比叡は軽く溜息をつきつつ、軽口に応じる。
 確かに、金剛が生きているのは半ば奇跡的とさえいえる。温禰古丹海峡海戦で最後まで戦い抜いた金剛は、再起不能な重傷を負ってここにいる。足りない臓器を機械で補い、ようやく命だけは長らえているのだ。右下腹部から右足にかけての右下半身全てが、金剛にはない。
「そんなことはナイでしょう? 長門や大和がまとめてくれますヨ」
「長門や大和じゃ無理ですよ。あれはマトモ過ぎますから」
「それ、どういうことネ?」
「変人集団をまとめるには変人が必要、ということですよ」
 にっこり。比叡はありったけの笑顔を向けた。
「まったく、あの程度もまとめられないとは、情けない後輩達ネー。仕方ないから、独り立ちできるまでは生きてるつもりヨ」
 しれっと、金剛は"変人"を受け流して、そんな答えを返す。
「ええ、お姉さまあっての、私たちですから」
 比叡は、その答えに少しホッとした。
「手のかかる妹たちデース」
 うーん、と金剛は背伸び。白い浴衣の袖がずり落ちて、細い腕が露わになる。比叡は目を逸らした。
「ところで、比叡は何の用事でこの舞鶴に来たのデスカ?」
「横須賀鎮守府の縮小計画について、一応艦娘代表として参加せよ、と。提督に付いてヘリで飛んできたわけです。この後、京都に飛んで一泊です」
「秘書艦は大変デスネ」
「お蔭でお姉さまに会いに来れたので、文句なんてありませんよ」
 比叡は心の底からその言葉を口にする。もし都合が合うなら、毎日だって金剛の見舞いに来たい。それが叶わぬ艦娘の、秘書艦の体が恨めしいほどだ。
「ですが、戦争が終わればもっと暇になると思ったのですけれど。それどころか、何ヶ月もお姉さまのお見舞いに来れないとは」
「横須賀も忙しいのデスカ?」
海軍省(赤レンガ)の方で本格化してきた人員縮小の流れをなんとしてでも阻止せよ、と。なので、こうして舞鶴・京都詣でというわけです」
「南関東は一面の焼け野原。松代に首都も移転した今、横須賀に大きな兵力を固めておく必要はnothingデース」
「そうではあるんですが、提督は納得できないそうです」
 比叡は首を竦めた。
「艦娘としても、簡単にacceptできる問題ではアリマセン。difficult problemネー」
「戦友と離れ離れになってしまいますから。その土地への愛着というものもありますし」
「我々はsailorデス。obey all ordersであるべきデスガ」
「そうも簡単にはいきませんよ。命懸けで守ってきたその土地と、命を賭けあった戦友と離れるのには、良くも悪くも抵抗があるもので」
 す、という言葉は、金剛の指に遮られた。細い腕が、比叡の口元に伸びている。
「比叡、艦娘とはsailorデスガ、同時にofficerでもアリマス。特に秘書艦ともなれば、軍の運営の一翼を担っていると自覚すべきデース。口には気をつけないと、いけませんヨ」
 金剛の表情は、少しも厳しさを帯びていない。しかし、諭すような言葉は、比叡の心にジリジリ響く。
「……はい」
「軍人が、人や土地の縁に結びつくのは、決してあってはならないのデスよ。それくらい、比叡もわかっているでショウ?」
 金剛の指が離れていく。
「……軍閥化、ですか?」
「その通りデース。軍閥になってしまえば、どうあっても国を乱すだけになりマス」
 軍閥。艦娘とは、戦略兵器として非常に優秀である。かつ、それぞれの個人に大きく依存している。軍閥化しやすいことは、しばしば議論されるものだ。
「確かに、心情的に離れたくないのは、私もわかるネ。それでも、We must obey all orders。それが、大原則デース」
 金剛の言葉に、比叡はゆっくりと頷いた。
「わかってくれれば良いのデース。比叡には、これからもドンドン活躍してもらわないと、困りますからネ」
「もう勘弁して欲しいですよ」
 比叡はまた溜息。秘書艦なんていう、政治力とコネとを駆使した繊細な駆け引きの世界は、自分には似合わない。
「そうも言ってられないのデース。比叡は、しばらく引っ張り凧になりますヨ」
 金剛の言葉は、比叡にはとても受け入れたくない言葉。だが、そうも行かないのは、比叡自身が一番良くわかっている。
「これから国防問題も大きくなりますしネ」
「国防、ですか。お姉さまも、今朝の新聞読んだのですか?」
「伊達にヒマして無いのデース。Timesも大騒ぎネー」
 端末で海外の新聞が読めるのは救いネー。そんな金剛の呟き。さりげなく話題を変えたのには、付き合ってくれるらしい。
「ポーランドに続きフィンランドまで、ソ連に土地を譲り渡すとは思いませんでした」
 今日の新聞は、どれもフィンランドが北部ラップランドの一部をソ連に割譲する、というニュースが一面であった。どこも大騒ぎである。
「どこも借款に首が回らないのデショウ。独立が保証されただけでもマシかもシレマセン」
「……そうですね」
「日本もsame conditionネ。きっと近々、そういう話が出ますヨ」
「嫌な話を聞かせないで下さいよ、お姉さま」
 立場柄、比叡だってそういう話を耳にする機会は多い。日本もまた、逼迫した状況に置かれていることは知っている。だが、それを真正面から受け止めたくは、ないのだ。
「比叡も、苦労してるのデスネー。さすが古参の秘書艦デース」
「私には向いてない仕事ですよ」
 戦争していた時期よりも、かえって大変になったような気がする。そんなことを、比叡は思っている。
「山城もボヤいていたヨ。殴り合いしていた時の方がよかった、とネー」
「おや、山城もこちらに?」
「昨日ネ。比叡と同じように佐世保から日帰りだと言ってたヨ。艦娘の利益代表をやるのは、戦艦空母の仕事だから仕方ないことデース」
 比叡は、山城の心底嫌そうな顔を思い浮かべた。腹の探り合いのような人間関係、山城は嫌いだろうから。
「いやはや、こうなるとは思いませんでしたよ」
 艤装を付けるより、礼服を着ることが増えてしまった今日この頃。数ヶ月に及び、いよいよ飽き飽きし始めているのも事実である。
「frustrationが溜まってますネー。息抜きしてますカ?」
「こうやって、お姉さまとお話しするのが、貴重な息抜きですよ」
 力無く比叡は笑うしかない。
「そうですカ」
 金剛もまた、曖昧に笑うのみである。こうやって、金剛が話に付き合ってくれるだけで、比叡は何よりありがたいのだけれど。
「それより、他の皆がどうしているかとか、知ってますか? 今回も、お姉さまに会うくらいしかできなさそうで」
「動けないワタシに聞いてどうするネ」
「お姉さまのところには情報が集まりますからね。艦娘の話なら、お姉さまに聞くのがいちばんです!」
 金剛が、端末を駆使して多くの艦娘とやり取りしているのを、比叡は知っている。多くの艦娘が、金剛を頼っているのだ。あの付き合いの悪い山城でさえ、金剛の見舞いにはちゃんと来る。いわんや他の艦娘をや、といったところだ。部屋の様子を見る限り、毎日誰かが来ているようである。
「私がいなくなったらドウスルネ」
 ため息ひとつ。
「その時はもう誰も戦艦を纏められなくなるだけですよ。それに、お姉さまはどこにも行かないですよね?」
 比叡がそう告げると、金剛はもう一つ溜息をついた。
「マッタク……。それで、他の艦娘の様子ネ」
「はい」
「ソウネ、とりあえず、山城も、随分とfrastrationを溜めていたようデスヨ。やはり、佐世保もhave many troublesみたいネー。特に、駆逐艦はいつ鎮守府がなくなるか、疑心暗鬼で大騒ぎだそうデース」
「横須賀も似たようなものですからね。今時、どこもそうですよ」
 比叡の苦笑いに、金剛も合わせてくれる。
「この間見舞いに来た、呉の浜風も色々ボヤいてましたネ。駆逐艦をまとめるだけで一苦労だ、ト」
「無理もありませんよ」
 結局、現状のしんどい話に戻ってしまう。艦娘同士の話といったら、その話題しかないのだろう。仕様もないところか。
「By the way、比叡はSevastopolの話を聞いていますカ?」
「えっと……。セヴァストポリというと、ソ連の戦勝記念式典の話でしょうか?」
「Exactly! あの話、瑞鶴と大鳳とがdecline the invitationしたデショウ。あの話、結局山城と駆逐二杯、ということで決着したそうヨ」
「それは初耳ですね!」
「公式発表はまだデスから。私は、山城から直接聞いたのデース」
 これだから、金剛には情報が集まるのだ。
「でも、山城は嫌がりそうですね」
「愚痴の半分は、宮仕えの悲しさだったケド、もう半分はSevastopol行への愚痴でしたネ。私に代わって欲しいだの、伊勢か日向かを行かせればいいだの、言いたい放題デシタ」
「山城の、心底嫌そうな顔が思い浮かびます」
 スッと鼻筋の通った切れ長の美人の山城は、ただでさえやや近寄りがたい雰囲気を持っている。機嫌が悪くなると、ますます目線に力が籠って、怖い。
「But, that is better ideaネ。山城なら無難デスヨ」
「それはそうですが」
「それに、we don't have a choiceデスヨ。相手の格式とこちらの手の内を隠すことと、両方考えれば、旧式の戦艦しかありえないのデース」
 金剛の言葉に、比叡は静かに頷いた。空母は虎の子。そう簡単に、他国へ行ってその力を見せるわけにもいかぬのだ。
「Therefore、行くなら比叡か山城が妥当デース。実際、一時は比叡という話もあったのですヨ。最古参ですし、Diplomatic Countesyもわきまえてますしネ」
「それも初耳なんですけれど……」
「内々の話デシタからネ」
 というか、海軍省内の決定事項についてどこで聞いてきたのだか。比叡には、こうした金剛の人脈が、恐ろしくさえある。
「デスガ、横須賀の提督が頑として譲らなかったのですヨ。おそらく、比叡を盾に鎮守府縮小を断行されることを嫌ったんでショウネ」
「ひぇぇ……」
 比叡の想像する以上に、海軍内の闘争は複雑化しているようだ。
「Unfortunateでしたネ。もう少しで、海外出張できたんデスヨ」
「いえ、いいです。なんか、行ったら行ったで、きっと胃が痛くなったでしょうし……」
「この間Magadanに呼ばれた駆逐四杯は、もうそれはそれは楽しい時間を過ごせたそうデスヨ?」
「駆逐と戦艦とでは、責任の重さが違いますからね……」
 別に駆逐艦のことを下に見ているつもりはない。しかし、その厳然たる戦力差は、責任の差につながると、比叡は思っている。第一、本当に気軽に過ごせると思ってるなら、どうして外交儀礼(Diplomatic Countesy)の話が出るのか。
「比叡が、ちゃんと責任感というものを持っていてくれて安心シマシタ」
 大げさにほっとして見せる金剛に、比叡はまた苦笑い。
「それから、Magadanで思い出しマシタが、幌筵については最近大きな話題になっているそうデース」
「幌筵が?」
 幌筵には、榛名が提督として赴任している。金剛や比叡にとっても、関係の深いところだ。
「空母か戦艦でも下げる、とかそういう話ですか?」
「閉鎖する、という話ネ」
「……え?」
 金剛の言葉は、いつもの調子で、だからこそ比叡はやや意味を取れなかった。
「幌筵警備府は解体し、天寧に千島全体を任せよう、という動きがあるのだそうデース。これは、この間長門から聞きましたし、大和もチラリと仄めかしていたので、あながち嘘とは言えませんネ」
 長門も大和も、日本の誇る戦艦として、海軍中枢との繋がりのある二人だ。その二人の情報ということは、金剛の言うとおり、嘘ではないはずだ。
「北辺にアレだけの兵力を貼り付ける必要はvanishしてる、という海軍中枢の判断でしょうネ。戦争も終わったのデスカラ」
「ソ連への牽制は……?」
 と問うた比叡だが、金剛は曖昧に笑うだけ。比叡は悟った。先に、金剛は領土を割譲した話について、"日本と同じ"と述べた。つまり、そういうことなのだろう。
「ですが……」
 幌筵はまずい。比叡はそう思う。あの温禰古丹海峡海戦で活躍したのは幌筵の第五艦隊だった。幌筵は、艦娘にとって、ちょっとした聖地でさえある。
「私も抵抗はありますガ、私的感情でどうこう言うものではないのデス」
 抵抗ないはずはないのだ。金剛は幌筵の旗艦だったのだから。
「……榛名は、聞かないでしょうね」
 今は提督として幌筵を裁量する妹のことを、比叡は思い浮かべた。普段おっとりしている癖に、いざとなるとテコでも動かない頑固な彼女のこと。そんな話を聞いたら、どうすることやら。
「デショウネ」
 金剛もそう考えたようだ。
「But、それではいけないのデス。さっきも言いマシタが、軍人が土地に根付いて国の命令を無視すれば、それは軍閥デス。榛名をそんなモノにしてはナリマセン」
 なりません。私たちが榛名を導かねばならない、と。金剛はそう言いたげである。
「比叡、榛名のことをお願いしますネ。あの娘、ああ見えて無鉄砲デスから」
「それは、お姉さまでなければ、できませんよ」
 自分には、できない。比叡はそう思っている。金剛だけが頼りなのだ。
「私がずっと見ていられるワケではないネ。比叡も姉なのだから、妹の面倒は見るものデース」
 だが、金剛は笑ってそれを否定する。金剛が、自分や榛名のことをどう思っているのか。比叡には、わかりかねた。
「それから、大湊の大和ですガ……」
 それっきり、金剛は話題を変えた。比叡も、少し後ろ髪を引かれながらも、次の話題に乗っていく。


 相変わらず、金剛には敵う気がしない。そうしようという気さえ起こらない、というのが比叡の感想である。
 生命維持装置により辛うじて永らえるだけの境遇にあって、文句ひとつ言わず、それどころか他人に気を回す余裕がある。驚嘆すべき強靭さだ。
 比叡は誇りを新たにする。金剛が姉であって、本当によかった、と。こんな傑出した姉を持てた自分は、本当に幸せだ、と。

 それだけに、悲しくなるのだ。もし、金剛が元気であれば、と。
 金剛型の四姉妹を纏められるのは、金剛をおいて他にはいない。それは自明である。榛名のことを任されても、比叡にはどうしようもない。そんなように、思えてならない。

 温禰古丹海峡海戦の時、比叡はひとり横須賀でその報を聞いた。自分の手の届かぬところで、金剛と榛名とは二度と海に浮かべぬ体となり、霧島は海の底へと消えて行った。
 それ以来、ずっと思うのだ。なぜ自分がその場にいなかったのか、と。そこにいても何かできたわけではないのは、比叡自身がよくわかっている。敵は圧倒的な航空戦力だった。きっと、沈む戦艦が1隻増えて終わりだっただろう。
 それでも、それがわかっていてなお、比叡は思うのだ。なぜ自分が、そこにいなかったのか、と。
 あれ以来、何かが比叡の中で噛み合わない。何か致命的な齟齬が、特に榛名との間にある気がしてならない。何かは、わからない。金剛や榛名が温禰古丹海峡で見た"それ"を、自分は見ることができなかった。そういうことなのだろうと、比叡は思っている。
 きっと、話し合ってもわかりあえないだろう。そんな確信が、比叡にはある。少なくとも、自分では榛名を説得できない。そんな風にしか、思えない。
 せめて霧島が生きていれば。金剛が元気なら。

 比叡は自分の両頬を手で叩く。そんな弱気ではいけない。自分の取り柄はこの陽気さ。それを失ったら、おしまいだ。
 だからなんだ。自分ならできる。そう思わなければ、いけない。
「気合、入れて、いきます」
 小さく小さく、比叡は呟いた。





続く

次話→

 長編を書き始めたのが、一段落ついたので。
 ここまでが前座。そして物語は、いよいよ展開していくのです。
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