放埒ノ仁



()ク能ク思案ヲ廻ラスニ、今度ノ乱ハ(シカ)シナガラ仏法・王法・公家ノ滅亡ノ基ナリ。形ノ如ク本復ノ儀、コレ有ルベカラザルナリ。時剋到来、(ナゲ)クベシ歎クベシ。竹薗・摂籙・清花・名家・諸大夫・両局・医陰両道・神道・儒門・諸流顕密聖教・祖師先徳之筆跡等、人道・仏道・神道、併シナガラ悉ク滅亡シ残ス所無キモノナリ。


よくよく思案を廻らしてみると、今度の戦乱は、要するに仏法・王法・朝廷の滅亡のもといなのだ。元のように戻ることは、もはやないだろう。時が来たのだ。なんと嘆かわしいことか。天皇家も摂関家も清華家も名家も諸大夫も外記局も医道も陰陽道も神道も儒学も顕密仏教も古筆も何もかも、人の道・仏の道・神の道、すべてが滅び去って何も残らなくなってしまうのである。


  ――尋尊『大乗院寺社雑事記』文明二年六月十八日条






   ――苦諦(くたい)――

 後土御門(ごつちみかど)帝の文明七年冬二月、正二位前権大納言洞院公数(しょうにいさきのごんのだいなごんとういんきんかず)は洛外の寂れた堂宇にあった。時はすでに丑三つ。眠れぬ公数は、雪打ち降る庭を眺めつ、戯れに(こと)を弾じていた。
 一人の童女がある。髪は白髪の尼削ぎ、瞳は緑、着物は近江刈安(おうみかりやす)の小袖一枚。いつ現れたのか、庭よりじっとこちらを見つめている。公数が()るに、童女はいくぶん驚いたようだった。あら、気づいたの? すごいわね。その言に、公数はやや首を傾げた。三間も離れぬ場にあって、気づかぬことがあろうか。問い返す。(われ)を食うのか? それとも誘うのか? 問いつつ冷静に、公数は佩刀(はいとう)を引き寄せた。
 変なことを聞くのね? 翡翠の如き瞳を(まる)くして、童女は問う。私を何だと思ってるの?
 鯉口を切りつつ、公数は童女へ言葉を返す。この大雪に童女が一人現れることはありえまい。しかも、雪中に小袖、姿は白髪緑眼とあって、異形を疑わぬ方がおかしいもの。公数がそう答えると、童女は何やらおかしそうに無邪気な笑みを浮かべた。
 その通りだね。さすがに油断しすぎたみたい。でもさ、もし私がそんなものだったとして、おじさん戦うわけ? 童女の笑みは、子供そのもの。言葉との差異の大きさに、公数は眉をひそめる。
 異形と戦って勝てるとは思うておらぬ。されど、人の身なれば逃げること能わず、さりとて人を呼ぶこともままならぬ。なれば最期まで戦うしかあるまい? 廷臣(ていしん)たる予が、公卿たる予が異形の手にかかるわけにはゆかぬ。
 公卿! と少女は目を見開いた。おじさん、そんな偉い人なの? 疑問に持たれるのも不思議ではない。傾く堂宇に一人の従者とておらぬ姿は、公卿にあるまじきもの。この童女が人の世を知るや否やはわからぬが、違和感を持っても不思議ではない。
 でも、そう言われれば少し納得できるかも。続く童女の言葉は、公数には存外の言葉であった。私ね、おじさんの筝を聴きに来ただけなの。こんなよい筝の演奏を聴くのは久しぶりだったから、どんな人だろうって。でも、偉い人なら納得だよね。童女はちらちらと縁側まで寄ってくる。
 そなたにも筝の音がわかるのか。公数は童女に問う。代々帝の御前にて筝を奏でるのも、我が洞院家の役割の一つ。予もまた、先帝・今帝の御前にて筝を奏でたことがある。そなたが聴いた筝の音は、そういう筝の音ぞ。滅多に聞けるものではない。筝に関して、公数は絶対的な自信を持っている。筝のわかるものならば、誰もが公数の筝に嘆息した。帝の前にて筝を弾いたのも一度や二度ではない。この国に(なら)ぶ無し、と帝も公家も激賞せぬものはなかった。
 やっぱり! それはいいもの聴いちゃった。童女はそのまま縁側に座り、足をぶらぶら振りながら、筝を眺めている。あまりに子供らしいその仕草は、公数の警戒心を少し和らげた。公数は納刀すると、刀を脇に追いやる。いくら異形とはいえ、このような子供に敵意を向けるのは、あまりに大人気ないように思えた。なにより、筝の音を解するものと話すのは、いつ以来かも知れぬほどに久しい。いったい彼女がどこまで知るのか、公数は少し試したくもあった。おおよそ異形と思われる彼女が、童女の姿を取る彼女が、人の芸をいかに思うのか。だが、続いた言葉は、公数の意を超えて突き刺さる。
 でもさ、それにしては筝の音が悲しげだったよね。寂しそう、というか。うん? いや、ちょっと違うかな。まるで、目の前が真っ暗で、そのまま下に落っこちていっちゃってるような。そんな感じの演奏だった気がするの。なんか胸が痛くなるような、切々としたかんじ。思わず泣きそうになっちゃうような、そんな筝の音だったよ。私、よくわかんないけど、そんな暗い曲を、帝の前で演奏するものなのかしら?
 ああ! 公数は呻いた。その曲は、本来明るい曲調である。それを公数は、曲としてあるべきように演奏していた。ゆえに、その音は明るかったはず。
 だがその童女は、暗い、と言ってのけた。それも、真っ暗だ、と。その言葉を、公数は斬り捨てられない。ほんの少し、自らの暗澹(あんたん)たる心境が漏れ出ていた。そのことは、公数が一番よくわかっている。わかっているからこそ、公数はその技量をもって、ひた隠しに隠していた。それなのにこの童女は、ほんの少しの暗さを、的確に言い当てて見せた。それを聞き分ける人間なぞ、この国にもほとんどいないはずなのに。
 この童女は、ひょっとすると異形ではないのではないか。公数は、そんな感想さえ抱く。この世は地獄であり、人は獣の如くなり果てている。筝の音を解するものなど、人間の内にもほとんどおらぬ。そこまで的確に公数の演奏を言い当てたこの童女は、仮にそれが異形だったとて、人よりも人らしいのではないか。
 そなた、名は何という? 公数は少しこのに興味を持った。この世にあって、と話す機会は、そう得られるものではない。この暗さをも聞き取るならば、公数の憂鬱もわかってくれるかもしれない。そんなことを、公数は思わずにはいられぬ。
 私? 私はね、古明地こいしっていうの。おじさんは? 古明地、という姓は聞いたことがないし、こいし、という名も聞きなれぬ名である。されど、異形なればそのような名もありえよう。

 今を去ること九年前の文正(ぶんしょう)二年正月、管領・細川武蔵守(ほそかわむさしのかみ)山名右衛門督入道(やまなうえもんのかみにゅうどう)とが合戦に及んだ。双方の求めに応じて、諸国の守護も軍勢を率いて上洛すると、たちまち天下を揺るがす大乱へと発展した。各大名の連れ来たる足軽は、公家武家の屋敷を見つけては家主を追い出し、思うがままに財物を取る。寺堂社殿に入れば、床板引戸も(こぼ)ち取り、経典仏像を火にくべた。禁裏もまた焼き払われ、帝も御自ら室町第(むろまちてい)に寄寓する有様。公数もまた、自らの洞院亭を細川勢に接収され、この堂宇に(のが)れ来っている。
 かかる世にあって、公家たちはなお世を安寧ならしめんことを目指した。「応仁」「文明」と二度の改元によってを変え、もって乱の収まらんことを願ったのである。だが、一向に収まる様子はない。帝は失意のうちに退位出家を仰せられ、公家たちが慌てて諫止する有様。しかし、世の話題にさえならぬ。世の人は、公家も神仏も、何一つとして敬わなくなっていた。彼らは思うがまま、己の欲するところに向かうのみ。帝さえも蔑んで憚らぬ彼らは、人ではなく、獣である。
 左近衛大将(さこのえのだいしょう)権大納言(ごんのだいなごん)を拝命していた公数は、本来なれば公卿議定(くぎょうぎじょう)に参加し、この日の本を導く立場。いくぶん形骸化は逃れ得ぬとはいえ、帝を(たす)け、その威を高からしめ、もって世を安んずることこそ、自らの役目だと思ってきた。されど、現実には何一つなしえない。
 それどころか、公数は乱の始まりより四年を経た文明二年、左近衛大将・権大納言をともに辞すことになった。貧窮のゆえである。
 洞院家は、清華(せいが)家の家格にある。摂関に次ぐその家格は、大臣まで上り、帝・摂関とともに合議を行い、意思を決定し、内裏を動かす。同じ公卿とは申せ、帝の側に近侍し、側近として実務に携わる羽林(うりん)家以下「番々(ばんばん)(ともがら)」とは格が違う。ゆえに参内(さんだい)ひとつとっても軽々(けいけい)に済ますことはできない。自らの格を汚すことは、自らの仕える帝の格をも穢すことになる。ゆえに、多くの従者、格式ある衣装、威儀を整える従者の公卿。公数は、これらすべてを揃え、しかるべき手順をもって、帝の前に上らねばならなかった。しかし、大乱を前にして、洞院家の収入は途絶えている。尾張国瀬部御厨(おわりのくにせべのみくりや)は、細川方・山名方にわかれた同国守護・斯波氏の分裂抗争の中で、ことごとく押領された。丹後国衙領(たんごのこくがりょう)も、山名方の同国守護一色左京大夫(いっしきさきょうのだいぶ)と、細川方の若狭守護武田治部少輔(たけだじぶのしょうゆう)との激しい戦闘の中で荒廃した。洛中に持つ芝・柳原の屋地さえも、細川・山名両軍の度重なる戦闘に跡形も無い。すべてが、大乱の内に消え失せていた。

 うーん、よくわからないかな。暗さの根源を語る公数に、こいしはきょとんとした様子で告げる。世の中が大変なのはわかったよ。でも、それが何なの? 何か、おじさんができるって話? でも、帝のところに行ったって、何にもならないと思うんだけど。そもそもさ、おじさん、何する人なの? 先ほどまで雪の中にあって何一つ寒い素振りを見せなかったくせ、縁に上がるや気持ちよさそうに火鉢に当たっている。なおのこと彼女が人間なのではないか、と公数には思われる。
 公家とは、と公数はなおも話し始める。異形に語ってなんとなる、と思わぬでもない。だが、公数は話さずにいられない。
 公家とは帝の権威を支えるもの。数え切れぬ儀式を遂行し、玉体を護持し、暦を定め、吉事あれば言祝(ことほ)ぎ、凶事あれば忌み、豊作を祈り、平穏を願い、もって帝を帝たらしめるものが公家である。この国は、帝を頂点に秩序がある。武家の主たる大樹(たいじゅ)も、寺家の主たる門跡(もんぜき)も、すべてが帝あってはじめて威を保つ。もし帝が威を失えば、彼らも威を失う。さすれば、大樹に従う武士なく、門跡を拝する僧侶なく、すべてが混沌と化し、国は平穏を失うだろう。ゆえ、公家たちは毎年、神武の御代(みよ)より連綿と儀式を行い、帝を荘厳(しょうごん)してきた。公家があるのは帝のため。帝を帝たらしめ、もって天下を安寧ならしめることこそ、公家の高位高官たる所以(ゆえん)である。
 されど、もうそれが叶わない。すべては、この大乱のなすところである。内裏をさえ灰燼に帰し、ほとんどの公家が住処を逐われたとあっては、朝儀遂行なぞおぼつかぬ。儀式は絶えて行われず、帝はただあるのみで、荘厳されることもない。さらに、場が失われたに留まらぬ破壊を、炎はもたらしている。
 細川勢に自宅を接収された公数であるが、それでも公数はまだ幸運な方である。公数は、洞院家の誇る文庫をすべて持ち出している。しかし多くの公家が、自らの文庫を疎開させて保持を図り、失敗していた。当代きっての碩学・一条禅閤兼良(いちじょうぜんこうかねよし)卿は、摂関家累代の桃華堂(とうかどう)文庫を屋敷とともにすべて失った。ここに貞信(ていしん)公以来、代々の摂関が書き残し集めてきた典籍も灰燼となりはてた。それのみではない。明経(みょうぎょう)道に携わる清原家の儒学経典、禁裏にて書記を務める大宮家の朝廷文書、改元除目(じもく)の草案を作成する東坊城家の先例記録、代々日記執筆を職務とした甘露寺家の古日記、いずれも烏有に帰した。
 公家たちにとって、文庫が命にも代えがたい宝であることは、言を俟たない。各家の文庫は先祖伝来の大切な文書記録だが、その意味はただ正当性を示すに留まらぬ。公家の文庫とは、その家の歴代当主がこれまで朝廷で行ってきた職務の記録。朝廷を支え、帝を荘厳してきた方法そのものである。ゆえに自らの文庫を失えば、その家は帝を荘厳することも叶わない。清原家は儒学を教授しえず、大宮家は朝廷文書を作成しえず、東坊城家は改元に携わりえず、甘露寺家は先例の検索を行いえない。文庫を失えば、その家は役割を果たしえず、すなわち帝を帝ならしむる手段を失って、公家としての存在意義を失う。
 世の人が知らぬはずもない。だが彼らは公家の家だろうと容赦はしなかった。彼らは、公家なぞ、帝なぞいらぬ、と思っているのだろう。山名右衛門督入道がある公卿に向かって「君の仰せ事、いちおうは聞こえ(はべ)れど、あながちそれに乗じて例を引かせらること、然るべからず。およそという文字をば、向後(きょうこう)という字に代えて御心得あるべし」「一概に例になずみて、時を知らざるゆえに、(つい)に武家に恥ずかしめられて天下奪わるる」と言ってのけた話は、公家たちを驚かせ、落胆させた。大名(たいめい)として政を動かすものさえ、これまで帝を支えた公家のあり方を否定する。山名入道さえそうならば、世の人々はいかに考えるか。あえて述べるまでもない。だからこそ、かくなる所業があるのだろう。
 まるで泣き言のような話を、しかしこいしという少女はのんびりと聞き続けてくれる。それだけでも、公数にとってはありがたい。公数は、たしかに多くのものを失っている。だが同様に、ほとんどの公家が多くのものを失っている。共に権大納言を務めていた一条政房(いちじょうまさふさ)卿のように命さえ失ったものもある。権大納言政房卿は、一条禅閤の孫にして、じきに摂籙(せつろく)にも上ろうという青年。そんな若年の俊英も、尼崎にて名も無き凡下(ぼんげ)の足軽に殺された。そのような世の中にあって、収入と屋敷しか失っていない公数は、幸運である。それを思えば、自分の絶望を吐き出す先はない。自分よりも悲惨な目にある相手に向かって不幸を吟ずるほど、公数は落ちぶれてはいない。
 そもそも、ほとんどの公家がこのような様であることが、公数にとって憂鬱の種である。これまでも荘園の押領の話には事欠かず、洞院家も綱渡りの運営であった。しかし、それでも自分たちは帝を支え、内裏を運営し、もってこの国と民とを支えている、と。そう自負していた。だからこそ、高位高官を受ければ食事を削ってでも儀式に参列し、寝る間も惜しんで作法の研究に勤しんだ。しかし、この様はなんだろうか。その守るべき民たちが、公家を虐げ、打ちのめし、すべてを打ち壊している。

 ふーん。聞き終えたこいしは、しかし面白くなさそうであった。先ほどまでと異なって、半眼でつまらなさそうに、足を伸ばしている。公数は少し落胆した。筝の音もわかるものならば、世の傾く様を共に嘆きえようとも思った。だが現実には、彼女は何も気にしてはいない。こいしは、何の感慨も持たねば、共感もしない。公数の話を細かく聞きはしたが、聞いたのみなのだろう。同情が欲しくて話したわけではない。だが、全く何も感じるところがない、とあれば、公数も引っ掛かりを感じるもの。
 そんな公数の思いをよそに、こいしはゆっくり言葉を紡ぐ。やっぱりさ、私、よくわかんない。どうしておじさん、そんなことにこだわってるの? できないものはできないんだから、仕方ないんじゃない?
 そんなこと? 公数はむっとした。帝を輔け奉ることを、そんなことなどと抜かすのか? 何度でもいうが、この洞院家は帝を輔け奉ることこそに意味がある。帝の威儀を整えればこそ、この世の秩序も整序されるものだ。
 こいしの表情は、しかし少しも変わらない。雪を眺めながら、彼女は言う。でもさ、世の中壊れてるんでしょ? それは、おじさんが自分で言ってたじゃない。もう誰も、帝を敬うことがないって。そんな世の中になってさ、帝のために働いたからって、世の中が治まるものなの? そうじゃないから、おじさんはそんなに苦労しているんじゃない?
 公数はとっさに言葉を紡げない。こいしの言葉は、とてもやわらかい口調であったが、その狙ったところは的確であった。公数だって、知らなかったわけではない。だが公数は無視してきた。それをこいしは、言い当てたのだ。
 しかし、と公数はそれでも反論を続ける。続けざるをえない。これまでだって、わかっていて公数は突き進んできた。だからこそ、権大納言を辞したときには絶望もしたのだ。この洞院の家は、代々帝を支え奉ることを職務とし、それを誇りとして二百年以上続いてきたのだ。その営みを予の独断をもって変えるわけにはゆかぬ。だからこそ、予は洞院の当主として、恥じぬ行いを続けてきたのだ。自分の声が、しかしすこし震えていることに公数自身も気づいている。本当にそう思っているのか。公数は、そこまでの自信がない。
 そうは言うけど。公数の戦々兢々も全くお構いなしに、こいしは言葉を連ねる。洞院家がうまく行ってない、って自分で言ってたじゃん。すべて領地も取られてさ、それで何も出来なかったんでしょ? 実際に何もできないのに、そこに囚われている意味って、あるの?
 有職(ゆうそく)編纂をもって、朝儀を整え、帝に仕えることこそ、わが洞院家の誇り。中園相国(なかぞのしょうこく)以来、わが家はそうやって名を残してきた。それを、いまさら穢すことはまかりならぬ。公数は半ば反射的に言い返す。その返答が、先とほとんど変わらないことくらい、公数自身がよく理解している。だが、そうそう譲るわけにはいかない。
 やっぱり、私不思議なの。こいしはこいしで、納得することも、退くこともないようだった。だってさ、賢いおじさんだったらわかってると思うの。この世の中はさ、もうどうにもならないって。偉い人は偉くなくなって、大切なものは大切でなくなって、そうやって世の中が全部ひっくり返ってしまったの。それなのに、どうしてそんなものを守る守らない、なんてことに執着するのかな。
 執着(しゅうじゃく)。そう言われても仕方がないか、と公数は噛み締める。そうはゆかぬ。本当に無駄だ、と決まったわけでなかろう? なにより、二百数十年の重みを、一言で捨ててしまうわけにはゆかぬ。そなたとて、譲れぬものは持っておるだろう? 執着というものは、あるだろう? 公数は、こいしの素性をいまだに少し量りかねている。だが、もし彼女が異形ならば、否、異形であればこそ、執着があるに違いない。顕密の高僧が、その執着故に往生すること能わず、輪廻を外れて堕ちたものを天狗という。物事に執着するあまり、人道を外れて鬼に堕ちる話も事欠かぬ。異形とは、かくも執着の強きもの。人よりも、むしろわかってくれるはず。
 公数の異形理解は、おおよそ正しく、しかし全く正しいわけではなかった。こいしは、一言、そんなものないよ、とそれだけ答えた。公数の理解からは、大きく外れた一言である。そのようなはずがあるまい。何か、我執というものがあるだろう? 何かしたい、という欲求があるだろう?
 衆生とは、何か決して手放せぬもの、守らねばならぬもの、そんな煩悩を抱えて生きている。そこから解脱せざるがゆえに、人は濁世にて苦しみに苛まれなければならぬのだ。いわんや異形とは、強き我執あればこそ寿命さえ定まらず、長く濁世を流浪する。公数は、異形をそういうものだと思っている。
 だからこそ、こいしの答えは公数にとって理解しがたい。そんなもの持ってないよ。我執とか執着とか、そんなものもともと持ちあわせてなんていないもん。そんなものに、囚われているから大変なんだよ。
 公数は愕然とする。俄には、こいしの言い分が理解できない。執着を持たない? 何一つ? 何にも囚われずに生きているというのか。いったい何故、何をして生きているというのか。
 そんなもの、なんにもないよ。私は気の赴くまま、あるがままに生きているだけ。欲も感情も、とっくに私は捨てたんだ。私にはなんてものはないの。その時々に、気の向いたように暮らすだけ。そうやって生きれば、ずっと幸せに暮らせるよ。
 欲を捨てる。こいしはたしかにそう言った。今の言い分は、とんでもないことではないか。公数の中で、何かが(はま)る。執着の全く持たぬ異形がありえようか。そのような衆生がありえようか。否、たとい天上の天人とて、かかる境地にはあるまい。
 公数は頭を抱えた。こいしという童女の言い分は、全く正しい。公数だってわかっているのだ。この世はいかんともならず、洞院家を立て直すこと能わぬと。もし洞院家を立て直しえたとて、この世を救いえぬと。それでも公数は洞院家を守り、帝を支え奉り、生きてきた。代々そうしてきたからだ。そうせねばならぬ、と公数は無理に思い込んできた。執着、といわれれば違いない。そんなこと、公数は昔から知っている。これまで、それをあえて見ずに来た。それだけだ。
 そなたは。公数はそれでも問いを続ける。そなたは、本当に何も執着しないのか? 自分の生にすら? 何か、守りたいと思うことは、したいと思うことは、本当にないのか?
 ないよ。こいしの返答は早い。そんなのに囚われているから、おじさんみたいにさ、暗い筝の音しか奏でられなくなっちゃうんだよ。そんなのじゃ、ろくな死に方できないよ。折角おじさん賢いんだから、もっとうまく生きられるよ。すべて、捨てちゃえばいいんだ。
 自らの煩悩を捨て、己を捨てれば、悟りを開き、苦に満つる穢土(えど)より厭離(おんり)しえる。衆生はこれを成仏と呼ぶが、達するものは多くない。悉皆衆生(しっかいしゅじょう)は、欲を捨て、煩悩を排すること能わざるがゆえに、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上の五悪趣(ごあくしゅ)に輪廻し、濁世の(ごう)に苦しむのである。されど、この童女はなんと言った? すべて捨てれば良い、とそう言ったのだ。すべてを捨てた彼女は、煩悩を捨て、輪廻を解脱しているのではないか? こいしは、五悪趣を超え、すでに仏の域にいるのではないか?
 こいしの言が、仏のものか異形のものか。公数は判断しかねる。こいしの言がほんとうならば、紛うこと無く仏だろう。だが、異形が仏を騙り、公数を破滅に導いていることも否定しえない。そのようにして人の外道に堕ちる話も事欠かぬ。どちらか、公数にはわからない。
 しかし公数には、残念なことに、こいしの生き様が、羨ましく思えてしまった。きっと彼女みたいな生き方をしていれば、何があっても気楽に生きることができるはず。少なくとも、この鬱屈した心は、解放されるに違いない。

 往古、宝誌和尚(ほうしわじょう)は『野馬台詩』に「百王の流れ、(おわ)()くれば、猿・犬、英雄を称す」と詠じ、聖徳王は「本朝の代は終わり、百王にして威は尽く。二臣は世を論じ、兵乱は窮まらず」と予言した。釈迦寂滅より二千余年。帝も百代をとうに超え、いよいよ末法甚だしく、世は滅び行く。あえて直視して来なかったが、それが現実なのだ。この世は滅ぶ。このままゆけば、公数も諸共滅ぶのみ。それがわかっているからこそ、公数は暗さに包まれていた。だが、もしこいしみたいに生きられれば。すぐさま楽に生きられるとは思わない。それでも、きっとずっと明るい世界が、そして明るい来世が、広がっている。そう、思ってしまった。
 そう考えてみれば、こいしが仏か異形か、などはどうでもよかった。このまま生きていても、行く先は破滅しかない。ならば、仮に彼女が公数を破滅に誘うとしても、結果は何もせぬのと変わらない。一歩踏み出すことに賭ける方が、よいのではないか。
 こいしは、黙り込んだ公数に不思議そうな表情を浮かべている。その姿は、ただの童女であるが、しかし今の公数には、あるいは仏の眷属のようにしか思われない。よく眺めてみれば、容姿の端麗なる様は、群を抜いている。いかなる公達(きんだち)の娘にも、これほど気品あふれる童女はおらぬだろう。白髪緑眼は人ならざる有様を公数の目に焼き付けるが、その様ゆえに、この世ならざる美しさを内包しているようにも、公数は思えた。
 私にも、捨てられるだろうか。公数は思わず、そう小さく口にする。こいしは少し驚いたように目線を公数へ向け、それからころころと笑った。人間の童女のような、無邪気で純粋な笑い声。当然よ。だって、おじさん頭いいもの。おじさんなら、もっとずっと賢く楽しい生き方ができると思うよ。
 公数は、微笑んだ。道は決まった。もし異形にたぶらかされたのだとしても、それはそれで構うまい。生きたいように生きる。そう決めたのだ。

 夜が明けると、洞院公数は突如出家し、「歓喜院」を号した。
 悟りを得た「歓喜」である。





   ――集諦(じったい)――

「洞院前亜相(あしょう)出家ス」の一報は、まもなく洛中洛外の公家へ広まった。もっとも、公家の出家は話に事欠かぬ。本来広まるような話でもなく、驚かれる話でもなかった。去る文明二年、万里小路春房(までのこうじはるふさ)が「公家に未来はない」とばかり、突如近江に出奔し、出家して江南院龍霄(こうなんいんりゅうしょう)と号した。しかし、春房は誰に咎められるでもない。公家たちも、自分たちの未来くらいわかっている。春房の心持ちも、よくわかるのだ。
 されど、公数の出家はたちまち噂となり、口を極めて非難された。いわく、「洞院前亜相、狂疾(きょうしつ)()リテ、(いたずら)ニ家ヲ捨ツ」。
 公数が、出家と同時に洞院家の蔵書を売り払いはじめたからである。

 洞院家は、誰もが有職故実の家と知る。南北朝の動乱の中、当主になった中園相国(なかぞのしょうこく)こと洞院公賢(きんかた)卿は、その碩学ぶりを南北両統より称賛され、有職故実の第一人者として名を馳せた。爾来(じらい)実夏(さねなつ)卿・公定(きんさだ)卿・満季(みつすえ)卿・実熙(さねひろ)卿と歴代一流の学者を輩出し、故実の家として脈々と続いてきた。
 だが、洞院家の真髄はそれではない。故実の学者は数多いが、洞院の歴代当主は、自らの研究した成果を日記に記し、故実書を編纂して明らかになった故実作法の定着につとめた。これが、洞院家の故実の家たる所以である。歴代当主の日記や、収集した記録書物はもちろんのこと、公賢卿の編纂した『皇代暦(こうだいれき)』『拾芥抄(しゅうがいしょう)』『魚魯愚鈔(ぎょろぐしょう)』、公定卿の編纂した『尊卑分脉(そんぴぶんみゃく)』、満季卿の編纂した『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんしょううんろく)』、実熙卿の編纂した『名目鈔(みょうもくしょう)』、いずれも知らぬものなき故実書であり、朝儀にあって欠かせない書物である。
 中でも、諸人の耳目を集めるのが『園太暦(えんたいりゃく)』である。洞院公賢卿の日記であるが、それはただ日々の記録に留まらない。儀式のたび、公賢が調査収集した古記録・儀式書がまとめられ、参照の用となるよう、実際に用いた文書まで貼り継がれている。故実を知るにあたって、『園太暦』に当たりさえすれば、わからぬものなぞ何もない。帝を支え奉る朝儀のすべてが、そこにある。洞院家が存在する理由は、つまるところ『園太暦』を保持し、公賢卿の研究成果を伝承しているから、とさえいえる。
 かくのごとく貴重な洞院家の蔵書を、公数は売り払い始めた。応仁・文明の大乱中にあって多くの文庫が焼失した後のこと。天下の孤本となりはてた典籍も少なくない。なにより、それらの書物は、公賢卿以来、洞院家歴代当主がいかに帝を支え、国を守ってきたのか、その象徴である。それを売り払うということは、公家たちにとって理解しがたい行動である。先祖の名を穢し、帝を(べっ)し奉る愚行に他ならない。
 ゆえに、公数は「狂った」としか思われない。

 されど、公数は気にしない。公家たちが非難したところで、現実にその蔵書を用いる機会はない。洞院家の家領は、大乱以来、一度も年貢をよこさない。昨今では、禁裏御料(きんりごりょう)とて年貢米を京上せず、禁裏も貧窮していると聞く。いくら朝儀のため帝のためと叫んでみても、朝儀が復旧されることもない。されば、朝儀の故実もまた、用いられることがない。
 それに、現実としてその蔵書が売れる。散々と公数を非難する連中も、洞院家の蔵書が欲しいのだ。禁裏も摂関も清華も羽林も、誰も彼もが公数の元に書を見に、求めに来る。しかも彼らは値切る。公家の誰もが、貧窮に呻吟(しんぎん)していた。にもかかわらず、公数のところへやって来ては書を渉猟(しょうりょう)する彼らは滑稽だったし、その彼らがその日の食事にも困っているとあっては、喜劇でさえある。片や書を売り払う洞院家を非難しながら、片やその洞院家より書を買い付ける。その矛盾に気づかぬものばかりとあれば、その愚かさに公数は笑えてくる。自分の身を削って書を買ったとて、この末世にあって何の益をなそうというのか。

 大乱は、首魁である山名右衛門督入道が死に、細川右京兆が死んでも続いた。当主を失った山名・細川両家が講和してもなお終わらず、文明九年十一月、大内左京大夫(おおうちさきょうのだいぶ)の帰順・帰国によってようやく「天下静謐(てんかせいひつ)」が宣言された。あしかけ十一年に及んだ大乱に勝者なく、灰燼に帰した京と砕け散ったこの国のみが残った。
 講和のなるや、大樹を中心とした「天下静謐」の宴が行われた。そう聞いた公数は、笑い転げそうになった。どこが「静謐」なのか。尾州家・総州家の二家に分裂した畠山は、いまだ山城各地で戦闘を繰り返している。越前では、守護代朝倉弾正左衛門尉(あさくらだんじょうさえもんのじょう)が領国を実力で奪い取り、守護斯波左兵衛督(しばさひょうえのじょう)と交戦を続けていた。諸国諸荘園よりの年貢が京上されたという話もなければ、再び大名の合議が再開されたという話もない。いわんや、内裏の復興なぞ夢のまた夢。朝儀の一つとて復興しようもない有様である。
 大乱は、ただの戦乱ではなかった。終わりの始まりでしかなかったのだ。

 文明十一年春三月、公数の居所を訪れたものがいる。従一位内大臣転法輪三条公敦(じゅいちいないだいじんてぼりさんじょうきんあつ)である。普段は来者を嘲笑うばかりの公数も、久しぶりに居住まいを正した。転法輪三条家といえば、洞院家にならぶ清華の家格にあり、かつ同じ藤原北家閑院(かんいん)流に属す。洞院家との付き合いも深かった。当主である公敦も、年齢が公数のちょうど二つ上にあたり、昇進もほぼ同時。あるいは境遇の近い親友ともいえ、あるいは官位昇叙を争う宿敵ともいえる。そういう、複雑な相手である。
 その公敦が訪れると聞けば、いくら解脱を目指す公数とはいっても、少し話したくなるものである。煩悩を脱しきれてないといえば、そうかもしれなかったが。
 久しぶりに見る公敦は、いささかやつれたようであった。険のある頑固そうな表情も、いっそう際立って見える。その公敦は、開口一番、洞院どのが狂ったのは真か、と率直に斬りこんだ。大乱以前、ともに帝の御前で論を交わした時と、何も変わっていない。公数は、少しうれしくなりつつ、答えを返す。仏を、見たのだ。
 公敦の呆れたような、落胆したような、そのような表情は公数も予測している。唐突にそのようなことを言われても、なんと答えて良いのかわからない、といった表情である。公敦が言葉を紡ぐ前に、公数は言葉を続けた。ある夜、一人の童女が現れてな、我を捨てよと、そう述べたのだ。予も最初から信じたわけではない。だが、異形とはとても思われぬ。何より、この世は地獄になる、とその童女は仰せた。事実、そうではないか。なれば、やはり仏に違いあるまい。その仏が、すべてを捨てよ、とそう仰せなのだ。それに従う以外に、道はあるまい?
 公敦は呆然としたまま、それを聞き、それから心底心配そうな顔をして、問い返す。洞院どの、気は確かか? 仏が、そうそう現れることはあるまい? そのようなものに囚われず、禁裏に戻って来られよ。洞院どのの才は、誰もが認めるところ。なにより、帝も洞院どののことはたいそう頼りにしておられる。洞院どののお力は、今こそ何よりも大切だ。どうだ、戻っては来ぬか?
 三条どの、何を仰せか。今の京の姿を見れば、もはや末世であることは明らかであろう? 彼の『野馬台詩』を知らぬ三条どのではあるまい。中園相国の世には既に百代を経ておる。それより何代を経た? 百代を経てよりさらに百年、ここにあってなお世が収まるはずもなかろう。それを知り、なおこの濁世にこだわる必要はない。それより、この濁世を離れんがため、己を捨て、煩悩を棄て、悟りを目指すことこそ良いとは思わぬか? 何、予とてその童女がほんとうに仏かどうかなど知らぬ。されど、そこに気づかせてくれたのは、童女に違わぬ。なれば、予にとって、その童女が仏も同然だ。
 洞院どの、それは違う。はっきり言うが、本当に神仏がこの世にあるならば、このような地獄はそもそも現れぬ。そうは思わぬか? 顕密禅の高僧に護持され、陰陽師に結界される内裏でさえ灰燼に帰すとあっては、もはや神仏の加護はあるとは思われぬ。もし神仏この世にいませば、かような大乱が起こるはずもない。公数、目を覚ませ。今からは、人の力がものをいう。朝儀もまた、人の手で復興させねばならぬ。もう一度言う。力を貸せ。中園相国の再来とも言われた汝は、今の内裏にこそ必要な人材ぞ。
 馬鹿げた話である。公敦は、全く現実が見えていない。もはや何も戻ることはないのだ。全ては崩れ去った。一度崩れたものを復元させるなぞ、無謀である。
 公数は中座すると、一部の書帙(しょちつ)を持ちだした。題簽(だいせん)には『諸家系図』とある。後中園相国(のちのなかぞのしょうこく)こと、洞院公定卿の自筆になる、諸家の系図集である。家の尊卑を分かつ系図ゆえ、ひとはみな、これを『尊卑分脉(そんぴぶんみゃく)』と呼ぶ。日の本にあって、もっとも詳しく正確な系図として、誰もが追い求める系図であった。
 三条どの、これは予には必要ない。必要ならば、持ってゆかれよ。投げ捨てるように、公敦の前に置く。今度こそ唖然として固まる公敦に、公数は続ける。世を見ればわかるだろう。家の尊卑も、覆るのだ。かような世にあって、尊卑を分かつ系図など、使い所もないではないか。古筆の類は多くが失われた。なれば、古人の姓家を調べる要が、いずこにある? 予には、その要が感じられぬ。このような紙屑、置いておいても仕方ない。いずれ焚付(たきつけ)にでも用いようかと思っていたが、もし必要だ、というならば差し上げよう。
 公数が言葉を紡ぐにつれ、公敦の顔には(あか)を増す。握りしめた拳は小さく震え、立ち上がらんばかりの怒気を発していた。公数、言うに事欠いてこの書を捨てるなどと。後中園相国公定卿の記し置かれた重宝を捨てると。その言、聞き捨てならぬ。その書こそ、否、貴殿がこれまで捨ててきた書もすべて、洞院家がいかに帝を支え、功をなしてきたか、その証拠、表象ではないか。それを、そのように侮辱するなぞ、歴代の御当主を何だと思っているのだ。そも、この世は末世だと一言で片付けることも納得がゆかぬ。帝は、この大乱を御自らの不徳の致す所と、酷く心を痛めておられる。ゆえ、少しでも早く朝儀を復興し、この世を平穏ならしめ、もって帝の御気色(みけしき)を安んずることこそ、廷臣たる我々のなすべきこと。現に、甘露寺按察使中納言(かんろじあぜちちゅうなごん)どのは、各家をめぐり、主要な書物の書写をすすめているし、かくなる予も、周防山口に下向し、山口にて諸本を捜すことに相成った。かような時に、ことさら末世を嘆き、現実を見ぬ様は、無様に他ならぬぞ。
 公数はなおもひそかに嘲笑う。もはや如何様にもならぬものを、いくら引き戻そうとしたとて、如何様にもならぬは変わらぬ。なにより、公数は知っている。公敦の周防下向は決して典籍捜索が理由ではない、と。周防守護大内左京大夫は、下向してきた公家を大いにもてなし、山口に住まわせて養っている。公家を集め、山口を京にかわるみやこに仕立てようとしていると評判だった。要するに公敦も、大内の扶持を受け、貧窮を逃れんがために山口へ下るのだ。鄙人(ひなびと)の誇大な絵空事に乗せられるだけでも下らぬ話だが、かてて加えて、公家の矜持を保つため、わざわざ典籍のためを称して、貧窮を糊塗しようとする。いったいどちらが無様というのだろうか。
 時に公数。『園太暦』はいかがした? まさか、売り払ったりはしておらぬだろうな? 公数の思いもよそに、公敦は話を進める。公敦の視線は、それだけで公数を刺し殺せるように思えるほど厳しい。全く構わず、公数は少し口角を上げた。
 予も出家と称しこそすれ、姿も在家と変わらず、心構えもまだ在家に異ならぬ。ゆえ、まずは仏道修行のため、経典書写を行っておる。その結願(けちがん)の暁、我が執着煩悩とともに、『園太暦』を焼き清めようと思っておる。そのため、まだとってあるのだ。
 それまで(あか)かった公敦の顔色は、焼く、の言葉とともに蒼く変わる。言葉の終わるを待たず、公敦は立ち上がった。その拳からは血が滴っている。
 痴れ者が! そこまでの烏滸(おこ)とは思わなかったぞ! 我が閑院流より、かようなうつけが現れるとは、我が祖公季(きんすえ)公になんと詫びればよいかもわからぬ!
 この末世にあって、詫びる祖がいつまでいるかもわからぬぞ。その言葉に、公敦の手が出た。とっさに頭を下げた公数の折烏帽子(おりえぼし)を、公敦の右手が弾き飛ばす。(まげ)が顕わになる。最大の侮辱を受けた公数は、しかし気にもせず、にやりと笑ったまま、怒りに肩を震わす公敦を眺めている。
 本当に狂うておるとは思わなんだ! そう叫ぶや、公敦は懐紙を手に当て、血のつかぬよう、投げ置かれた『尊卑分脉』を持ち上げた。持ち帰るのではないか。笑いを抑えて投げかけると、公敦はただ侮蔑と憎悪の入り交じる視線で公数を睨みつけ、そのまま立ち去っていった。

 板敷にぽつぽつ落ちる血の跡を眺めていると、そこに少女が現れる。幾日ぶりのこいしである。あの夜以来、しばしば公数の前に現れる。道標として現れているのだろう、と公数はそう思っている。
 ねえ、良かったの? 友達だったんでしょう? しかしこの日のこいしは、珍しく否定的な言葉で始まった。なあに、公敦卿は賢いお方だ。今は一時の感情に支配されておるのみ。彼もじき、予の、こいしどのの正しいことを知りえよう。この世は末世。立て直そうなど、人の(わざ)ではない。そのことを、こいしどのは教えてくれたではないか。
 かく述べると、こいしは少し困ったように微笑んで、そのまま姿を消す。その意味を公数はやや捉えかねるが、しかしこいしの言葉に従えば、何も間違ってはいないはずだ。
 公敦は、こいしに出会わなかった公数である。こいしに出会うまで、公数もまた、旧来のものを守らねばならぬ、先祖のしてきたことをせねばならぬ。そんなことを思っていた。しかし、公数はこいしに教えられた。この世はいかんともしがたいもので、そのような現世の我執に囚われるよりも、来世の極楽を願い、己を捨て、あるがままに生きるのがよい。
 改めて、公数はこいしへの感謝の念を深める。もし彼女に出会っていなければ、公数自身もまた、あのような虚しい姿と成り果てていたに違いない。





   ――滅諦(めったい)――

 文明十四年も暮れに差し掛かったある日、公数は珍しく憤怒のさなかにあった。脇息(きょうそく)を投げ捨て、扇子を叩き折る公数は、しかしはたと、横でこいしが驚いているのに気がついた。他の目があると、いくらか冷静になるというもの。少し落ち着いた公数に、こいしは問いかける。どうしたの、と。
 きっかけは、洞院家が再興した、という一報であった。新たに洞院当主となったのは、従一位右大臣西園寺実遠(じゅいちいうだいじんさいおんじさねとお)の次男。彼は公連(きんつら)と名乗ると、帝との謁見も果たし、洞院家の相続も認められたという。
 公数は、どうしても許せなかった。煩悩の象徴たる洞院家をわざわざ復興しようとする話自体、公数には許しがたかったし、それ以上に、西園寺家によってなされていることが、公数の逆鱗に触れている。
 西園寺家と洞院家とは、同じ閑院流で、後嵯峨帝の御代にわかれた近い間柄である。家格も同じ清華家。ゆえに上下定まらず、閑院流嫡流の座を巡り、ずっと争い続けてきた。事ある毎、西園寺家は洞院家を自らの風下に置こうとし、洞院家はそれに反発して西園寺家を見下してきた。公賢卿以来の熱心な故実収集・研究も、西園寺家の風下に立たされたくない、という矜持が手伝っていたことは否定できない。その西園寺家の実遠が、次男を洞院当主に押し込んだのである。実遠の意図は明白だ。彼は、公数の出家を好機に、洞院家を「西園寺分家」に繰り込んでしまおうというのである。
 その旨を答えた公数だが、どうにもこいしは面白くなさそうである。というより、興味がないようであった。どうしてそんなことにこだわるの? だって、洞院家はいらないんでしょう。それなら、どうでもいいじゃない。
 どうでもよい、とは公数は思わない。洞院家は、自分の煩悩である。それを捨ててこそ、自分は仏となりえる。こいしに近づきえるのだ。それなのに、その洞院家を再興されてはたまらない。まるで、お前は煩悩なぞ捨てられぬのだ、と脅されているように思えてならない。そのような脅しを平然と繰り出す西園寺実遠が、今回ばかりは憎く感じられる。何としてでも、彼の策謀を留めねばならぬ。
 こいしはなおも、理解できぬようであった。そんなことを気にするから、疲れるんだよ、と。彼女はそう述べる。だが、公数は譲れない。自分の煩悩を払うのに、洞院家は害なのである。洞院家は潰さねばならぬ。

 実遠から正式に挨拶があったのは、それから三ヶ月余りを経た、文明十五年三月のことである。大勢の従者を従え、糊の効いた真新しい狩衣(かりぎぬ)を着たその姿は、大乱を経てなお衰えぬ西園寺家の威を窺わせる。財にあっては支流をもって伊予国宇和郡を抑え、官にあっては正月に左大臣へ昇任し、西園寺家は絶頂を謳歌していた。その左大臣実遠は、しかし慇懃無礼に、滔々と洞院家を復活させなければならなかった、やむを得ない事情について公数へ述べ立てた。いまだ天下が収まらぬこと。このような時こそ閑院流の結束が重要であること。帝の求めに応じ、やむなく自分の息子に洞院家を継がせたこと。洞院家を西園寺家の風下に置くつもりはないこと。これからも公連を補佐してほしいこと。聞くだけで吐き気がする。実遠の意図がそこにないことくらい、見通している。
 公数の予想どおり、本題はそこではなかった。実遠は、公数に『園太暦』の購入を申し出たのである。帝の仰せにより愚息・公連が洞院家を継いだが、このままでは実がない。されば、『園太暦』を形だけでも、公連にお譲りいただけないだろうか。もちろん、名目のみで構わぬ。聞けば、そちらもたいそう貧窮していると聞く。その支援と思っていただければよい。そちらの仰せのまま、いくらでもお支払いいたしますぞ。どうです、悪い話ではないでしょう。
 見え透いた嘘である。故実研究に名を馳せてきた洞院家の者が、このような下らぬ欺瞞に引っかかる、と思われていることが心外であったし、いたく公数の矜持を傷つけた。『園太暦』は、天下の重宝。公賢卿の書いた『園太暦』がなければ、洞院家に存在意義はないし、『園太暦』さえあれば、後のすべてを失おうと、洞院家は存続しえる。そういう日記である。要するに、実遠はこれを得られさえすれば、洞院家を乗っ取ることができる。
 お帰りいただきたい。公数の発した言葉は少ない。帝の命なれば、所領目録はお譲りいたす。されど、それ以外のものは、たとえどれだけ出されたとても、一切お譲りできぬ。西園寺どのにお渡しできるようなものは、この洞院家にはござらぬゆえ。
 門前払いにも等しいその扱いに、実遠は憤然として帰っていった。

 『園太暦』は、今も一巻も欠けることなく、すべてがいくつもの唐櫃(からびつ)に収まっている。一巻で半年。延慶(えんぎょう)より延文(えんぶん)に至るまで、五十数年分に及ぶ。具注暦(ぐちゅうれき)の余白に書き込まれた公賢の字は細々と紙の上に走っている。さらに、しばしば具注暦を切って実際に用いられた文書が挿入され、後代参照する際の便宜をはかる。鎌倉の滅亡・後醍醐帝の親政・朝廷の分裂・建武の内乱・観応の擾乱と、世の混乱に巻き込まれてきた公賢卿であるが、だからこそ朝儀の作法を細大漏らさず残そう、という執念と気概とが、そこには染み通っている。
 かの大乱以前、これを見た時には背筋を興奮が走ったものだ。洞院家を支える大黒柱。叡智の結晶を前にするだけで、謹厳なる公賢卿と相対しているようにさえ思ったも。
 されど、今となっては価値がない。公賢卿の見た乱世は、禁裏さえ二つに分かたれ、公家もまた分かれて相争う地獄ではあった。されど、禁裏が焼き払われ、朝儀が途絶えるようなことはなかった。争うものたちも、帝を尊し奉ったのである。ゆえに、公賢卿が朝儀の作法を記し、有職の知識をまとめた『園太暦』は、大きな価値を持った。翻って今の世を見ればどうか。帝さえ困窮に喘ぎ、廷臣も多くが貧窮して地方に下った。禁裏も帝も、末期であることは明らか。百余代続いたこの国も、終わる。ここに至って『園太暦』に、何の価値があろう。
 公数は、唐櫃から巻子を取り出すと、次々と庭に投げた。洞院家の象徴なれば、我が執着の象徴。この度、思わず不瞋恚(ふしんに)戒に触れたのも、この『園太暦』があればこそ。なれば、今こそこれを焼き清め、もって仏道に近づこうではないか。
 あれ、それどうするの? そんな声が響いたのは、唐櫃二つほど開けたころ。それ、大切なものなんでしょう? そんな風に庭に出したら傷んじゃうよ?
 以前は大切であったかもしれぬ。しかし今となっては、全く不要なものだ。そう公数は短く答える。気づけばこいしが、木陰に座って木の葉を弄んでいる。
 不要なら、売ってしまえばよかったのに。だって、さっきのおじさん、お金持ちだったんでしょ? 私にこんなものくれちゃったよ。こいしが掲げたのは、唐物の小さな人形。日の本では作れぬような精巧なそれは、西園寺家の財力を示している。
 いくら出されても、売れぬものは売れぬのだ。予は予が我執に離れたことを示すため、この『園太暦』を焼かねばならぬ。焼いて予は、予が悟りに近づいたことを示すのだ。
 公数の答えも、こいしには響かなかったよう。こいしはただ首を傾げるのみである。もしかしたら少し道が違うかもしれない。違和感を持ちつつ、しかし公数はもう戻らない。仏を目指す、と公数は決めたのだ。
 すでに日は落ち、師走の寒風が身を晒す。それにも構わず、公数は巻子を投げていく。すべての唐櫃を開けると、大きな巻子の山が築かれた。その山を眺めつ、公数は灯明(とうみょう)を持ち出した。
 これを倒せば、『園太暦』はすべて灰となる。洞院家は炎の中に滅び、公数の煩悩も清められるのだ。あとは灯明の火を投げ込むだけ。だが、最後の手が出ない。本当に燃やしてよいのか。それで、公数は救われるというのか? 公賢卿が、今と同じような地獄の中で作り上げたものを、簡単に壊していいのか。
 これこそ煩悩。仏と成るには、己をこそ捨つるべし。かくなる思いこそ、すべて我執なり。公数はつぶやく。何の躊躇(ためら)うことやあらん。この末世に必要なきもの。何の故に臆するか。
 公数は、灯明をその山に向けて倒す。小さな灯は、たちまち巻子の一本を犯し、また一本、また一本と朱に染めていく。たちまち、炎が立ち上がった。

 刹那、公数の脳裏には、大乱前の禁裏がよぎる。先帝や今上帝に呼ばれ、御前で公数が筝を奏でたのは一度や二度ではない。そのたび、帝をはじめ多くの公家に激賞された。朝議あるたび、公数は多くの先例を示し、意見を論じて、朝議の過ちを正した。公数卿こそ中園相国公賢卿の再来ぞ。この傾く内裏も、公数卿なれば支えてくれよう。面と向かってそう言われることさえ、少なくなかった。
 公数は首を振る。まだ巻子の一本も燃え尽きてはいない。何を戸惑う。禁裏は、大乱で滅んだのだ。
 だが、公数はその炎の中に祖父・満季(みつすえ)卿を見て、恐懼した。公数よ、この洞院家は、多くの苦難にも耐え、ようやく続いている家じゃ。決してその努力、無にしてはならぬ。幼い頃、満季卿が慈悲の笑顔とともに絞り出したその言葉は、公数を酷く揺さぶる。満季卿は、「万人恐怖」普広院殿(ふこういんでん)様の世にあって、多くの艱難辛苦に見舞われながら、必死の思いで洞院家を守ったひとである。あの頃は意味のわからなかったこの言葉も、満季卿のことを知るにつけ、心に突き刺さった。
 それでも。公数は振り払う。すべては、悪魔の囁きだ。
 そう思う公数の面前には、父が現れた。公数は、立ち尽くす。いつも難しい表情を浮かべた父・実熙(さねひろ)卿。公賢卿の名を穢すことだけは(まか)りならぬ、という口癖は、死より二十年余りを経た今も、頭のなかにこびりついて離れない。我が洞院の家は、有職をもって帝に仕え奉る家なれば、学問だけは疎かにしてはならぬ。よいか、我らは公賢卿の名を背負うのだ。我らが学を疎かにすれば、かの公賢卿も後代には学識を伝えられなんだか、と公賢卿が(そし)られよう。ゆめゆめ、学問を怠ることなかれ。その言に合わせるように、実熙の教育は厳しかった。幼い頃より、公数には遊びの記憶はない。書を読み、経を唱し、字を書き、文を(えら)び、礼を修め、歌を詠み、筝を奏で、あらゆる学を叩きこまれた。されど、同時に公数の才を最も愛したのも父であった。公数が内裏で活躍をした、と話を聞くたび、小躍りせんばかりに喜んだ。はじめて帝の御前で筝を奏でたときなど、洞院の家も安泰だと、泣いて歓喜したほどである。その父の姿が、公数の面前にあった。
 公数は駆け出す。井戸より水を汲み、立ち上がる炎に投げかける。いくつもの巻子が燃え上がるが、所詮は紙。幾度か往復するのみで、炎は消え失せた。それを確認して、公数はへたり込む。
 へたり込んでから、呆然とした。自分は、何をしたのか。火を消した? なぜ? 祖父や父を見たから? 内裏を見たから? なぜ、そんなものを見た?
 狼狽する公数に、木陰のこいしが問う。ねえ、なんで消しちゃったの? 燃やそうって決めたんじゃないの? 公数は、その問いに答えを持たない。こいしはなおも続ける。それならさ、売ってしまえばよかったじゃん。それ、売ったらすごいお金になったんでしょ? もったいないね。
 公数はようやくひとつ気付く。なるほど、売ればよかったのだ、と。売らなかったのはなぜか。洞院家が存続することを嫌ったからである。なぜ洞院家が存続することを嫌ったのか。洞院家が西園寺家の風下に立つことを嫌ったからである。何のことはない、結局公数は、どこまでいっても洞院家から離れることなんてできていなかった。
 文書を売り払ったのも、つまるところ洞院家を潰すため。洞院家こそ我が煩悩、この世すでに滅べば、我も煩悩を滅し、もって成仏を望まん、などという血迷い事も、すべて屁理屈。洞院家を潰すという目的を、正当化したに過ぎなかったのだ。
 公数は、悄然(しょうぜん)として、巻子を拾い集めはじめた。まだ幾分、そこには巻子が残っている。乾かせば支障はない。湿ってくろぐろと光る灰が、公数の心に刺さる。





   ――不至道諦(どうていにいたらず)――

 文明十五年春三月、公数は『園太暦』を従一位前権大納言中院通秀(じゅいちいさきのごんのだいなごんなかのいんみちひで)に売ることを決めた。中院家は村上源氏久我(こが)流の大臣家。閑院流どころか藤姓でもなく、決して洞院家を復興できない家である。価は十貫文。通秀の言い値のまま。
 減った唐櫃を前に、公数は毎日鬱々と日を過ごす。出家よりこの方、自分は何をしてきたのだろうか。己を捨てたかった。それは違いないと思いたい。されど、あの様を思い起こしては、自分さえ信用するには及ばない。ほんとうに、自分は己を捨てたかったのだろうか、それさえわからなかった。
 あれ以来、こいしは一度も現れない。きっと公数の姿に失望したのだろう。何一つとして捨てられていなかった、あの様を見て、失望せぬはずもない。こやつは見込みもない。仏さえそう思ってもおかしくない。それほどの失態であったと、公数は理解している。濁世を離れんと欲し、己を捨てたと喧伝(けんでん)しながら、何一つ煩悩を離れることができていなかった。公数は、ついに悟ることができなかったのだ。どこまでも煩悩に引きずられ、それに引き回され、しかもそれを悟りと勘違いしていた。これを滑稽と言わずに、なんというだろうか。これぞ道化に違いない。そのような公数の無様に、こいしもまた呆れ、見離したのだろう。
 あるいはつまらなくなっただけなのかもしれない。公数は考える。我を捨てる我を捨てる、と叫びながら、どこまでも洞院家に固執する公数は、見ていてさぞ滑稽だったろう。だが、その公数が自分の欺瞞に気づけば、もう楽しみはない。次の楽しみを求めて消えるのも納得できる。なるほどそう考えれば、異形だったのかもしれない。最初から、公数を誘っていたのではないか。そのような愚を犯すことをわかっていて、だからこそ出家を勧めたのではないか。
 どちらかなぞわからない。どこまでいっても、こいし、という童女の正体は謎だった。
 されど、公数は非難するつもりにもならなかった。その陥穽(かんせい)に落ちたのは、ひとえに公数自身の不徳による。気づかぬ方が悪いのだ。
 それに、どうにも公数は、こいしが見せた己無き姿が、羨ましかったし、憧れているようなのだ。本当に自分が己を捨てたかったのかはわからないが、己を捨てたいのは、きっと間違いではない。この世に疲れ果てていたのも本当だ。己を捨てて、気ままに生きる、ということをどこかで望んでいる。そんな自分が、いる。
 だからやはり、公数はこいしを、仏だと思うことにしている。きっと、こいしは公数に、人のあるべき姿を示してくれたのだろう、と。そこにたどり着かぬとわかったから、離れていったのだ、と。

 同月二十四日、公数は通秀に『園太暦』を引き渡すと、そのまま旅に出た。
 もはや、京に残る必要はない。蔵書もことごとく売り払った公数は、自由だった。
 それに、もう一度こいしを見たい、と。そう思った。己を捨てた気ままなあの姿を、もう一度見たい。先ほどは失敗した。公数の不徳ゆえに、悟ることはかなわなかった。しかし、次に会ったときには、きっともっと先に進めるだろう。あるいは、悟りを開き、この濁世を離れることだってできるかもしれない。

 以後、公数の行方を知るものはいない。
 文亀元年、洞院公連は嗣子なくして出家し、洞院家は絶えた。






  了

()ノ系図、洞院累代ノ本ナリ。(シカ)ルニ左大将入道(俗名公数、法名ヲ知ラズ)放埒ノ仁ナリ。一流、既ニ断絶分ト云々(ウンヌン)。記録・抄物等、悉ク沽却(コキャク)ス。耳ヲ洗フベキモノナリ。()ッテ此本同前。予、之ヲ感得ス。

この系図は、もともと洞院家が累代伝えた本である。ところが、洞院左大将入道(俗名を公数という。法名は知らない)は、「放埒の仁」であった。洞院家はすでに断絶したといって、記録や書物をすべて売り払ってしまった。聞いたら耳が汚れるようなひどい話だ。そういうことで、この系図も同じようになり、予が手に入れたところである。


  ――転法輪三条公敦『尊卑分脉』識語 文明十一年四月下旬
 初出『ぼくがこいしたおんなのこ』。
 H29.5.9公開。前後のエピグラフを書き下した以外は、ほとんど手を入れておりません。

 合同誌掲載の際には、コオロギさまに挿絵を書いていただいておりました。
 改めまして、御礼申し上げます。

 あとがきのあとがきも書きました。解説という名前の知識ひけらかしですがよければどうぞ。
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