『放埒ノ仁』
  あとがきのあとがき

かんたんな注意

 余計な注意かもしれませんが、ネタバレ満載です。
 というよりは、ssを読んだという前提のもとでいろいろ妄言が書いてあります。
 「小説はあとがきから読む!」もよいですが、できればssから読んでいただけるとありがたいです。

 それでもよいという方は以下にどうぞ。


謝辞

 この度は、拙作「放埒ノ仁」をお読み頂きまして、まことにありがとうございました。
 ドマイナーな歴史物でありまして、なかなか状況等掴みづらかったと思います。にも関わらずこうして御読了いただき、あまつさえ、このような辺境のサイトまで訪れてくださったこと、本当に光栄です。
 改めまして御礼申し上げます。

 また、本作品は多くの方々のご助力によってできた作品です。とりわけ本当に素晴らしい扉絵・挿絵を頂きました上、作品内容についてもご助言を下さったコオロギさんには、多くの力添えを頂きました。また、本合同にお誘い頂いた主催のお二方、とりわけ組版や事務等において多大な労を取ってくださった灰寝さまにも、お世話頂いたところが多くあります。皆様のお陰で、個人的には非常によい作品になったと自負しております。
 改めまして、この場において謹んで御礼申し上げます。

参考文献と時代背景的なアレ

 本作について述べる上では、まずは参考文献として、以下のものを挙げなければなりません。

・末柄豊「洞院公数の出家」『禁裏・公家文庫研究』第一輯(思文閣出版、2003年)

 本作の史実に関わる部分は、ほとんどがこの論文に拠っております。いうなれば、この論文に「こいしちゃん」成分を足してちょっと物語として膨らませたのが、本作です。公数の所領や官途をはじめ、最後に引用した『尊卑分脈』識語など、ほとんどがこの末柄氏の論文に紹介されています。とりわけ、「公家の家の存在意義は、その家の持っている文書にある」という、本作の根幹をなしている認識自体、この末柄氏の論文によって指摘されるところです。その点で、この論文がなければ本作はありえませんでした。
 もし、元の論文がどのように述べているのか、など興味がありましたら、この論文を読んで頂ければと思います。論文ではありますが、ことさら難しい文章ではありませんので。というか、この論文が面白い論文ですから、読むと楽しめると思います。
 その他の参考文献は、実はほとんどありません。一応、全体的に参考にした文献としては、以下のものがあげられると思います。

・桜井英治『室町人の精神』(講談社学術文庫、2009年、初出2001年)
・林屋辰三郎『内乱の中の貴族』(角川書店、1975年/吉川弘文館、2015年として復刊)
・角田文衛「恨めしい応仁の乱」『平安の春』(講談社学術文庫、1999年)

 ひとつめ『室町人の精神』は室町時代の通史で、おおよそ15世紀を扱っています。応仁の乱を画期に、公家たちの意識が昇進に向かなくなっていく、という点の指摘などはこの作品にも間接的に生きています。この指摘に限らず、この本は、15世紀の日本を描く通史としては、出色のものではないでしょうか。
 ふたつめ『内乱の中の貴族』は、本作に関わる『園太暦』の記主・洞院公賢の目から、南北朝時代を描いたものです。主に、『園太暦』の書誌情報などを巡る部分で参考にしました。
 みっつめ「恨めしい応仁の乱」は、簡潔に応仁の乱によって焼失した典籍について述べているもので、応仁の乱が日本の文化に与えた影響の大きさを窺い知ることができます。
 辞書類は、とりあえず『国史大辞典』を利用しています。若干古いことは否めませんが、日本史関係ならば、参考にするにはちょうどよい辞典です。また、各人物の時々の官位を確認するのには、『公卿補任』(国史大系本)を利用しています。また、Wikipediaも適宜用いていることも告白しておきます。

 正直なところ、本作の解説というのは、「あとは末柄氏の論文をお読みください」で話が済みそうなのですが、それも味気ないというか、私がもう少し語りたい気分なので、思いついた所を適当に述べていきたいと思います。
 ちなみに以下、リンクのあるところには、マウスオーバーこんなかんじ。で注釈が読めるようになっております。適宜ご参照ください。ただ、スマホではたぶん非対応ですので、注釈も見たい方はPCからでお願い致します。ご容赦いただければ幸いです。
 また、引用史料については、漢文の訓読・漢字への変換などを適宜行っています。それが間違っている可能性も大いにあるので、それを念頭にお読みください。

細かい妄言の類

「戦国」という時代

 というわけで、まずは作品に入る前の段階から。当合同の特設サイトの、作品説明の所に引用したものの紹介から。
 これも実は出典があります。これは、戦国初期に摂関を務めた近衛尚通(ひさみち)の日記『後法成寺関白記』永正五(1508)年四月十六日条になります。この日、前将軍で追放されていた足利義稙応仁の乱当事者である足利義視の子。将軍となった直後から管領・細川政元と対立しており、明応三(1494)年の明応の政変で、政元に追放された。が、大内義興に推戴されて上洛を果たし、現将軍である足利義澄が都落ちをしています。それを受けて、前関白の近衛尚通は次のように嘆くわけです。
大樹、御落有り。御供衆四・五人と云々。川原において奉公衆参会し、三百人ばかりにて坂本へ御出と云々。坂本において盗人支え申す間、志賀辺にて御出家と云々。言語道断の次第なり。そもそも世上の儀、しかしながら戦国の時の如し。何れの日にか安堵の思いをなさんや。近所の武家奉公の輩、闕所に及ぶの間、色々と調法致し、先ず以て無為、祝着に候。
 将軍が都落ちをし、奉公衆三百人ばかりとともに坂本へ向かったが、坂本で盗人が抵抗したため、志賀(現滋賀県大津市)のあたりで出家したという。なんという恐ろしい話だろうか。そもそも、世の中はまるで「戦国の時」のようだ。いつになったら、安堵することができようか。近所で幕府に奉公していた者達の家が、すべて空き家となったが、いろいろと物事を整え、とりあえずは落ち着いた。
 ざっくりとまとめると以上のようになります。ポイントは「戦国の時のようだ」という点。ここでいう戦国、とは、中国の戦国時代(紀元前5世紀頃~紀元前3世紀頃その始期については、紀元前453年の晋の分裂とする議論と、紀元前403年の魏・韓・趙の諸侯冊封とする説の二説がある。昨今、長江中流域で出土したと思われる大量の竹簡から、紀元前5世紀ごろの政治状況を記したものも見つかっているため、時代認識が大きく変化する可能性が高い。)のことを表します。中国の「戦国時代」は、その時代の様々な逸話を集積した『戦国策』という本から名が取られており、当時の公家たちにとっても比較的名の知られる話です。将軍が前将軍の手によって京都から追い出されてしまう、という異常事態を見た近衛尚通は、思わずその様に、中国の戦国時代を思い浮かべたのでしょう。
 現在では、おおよそ応仁の乱から織豊政権の成立頃までただしこれも諸説ある。始期については、早いものだと嘉吉の変(1444年)とし、遅いものは明応の政変(1494年)とする。終期についても、早いものは信長入京(1568年)とし、遅いものでは小田原征伐(1590年)とする。なお、織豊政権は少なくとも「中近世移行期」として戦国期と段階差を設けるため、世の中一般に「戦国」といわれるもののほとんどは、「戦国」ではなく「織豊」に区分される。を日本の「戦国時代」と称します。
 公家の日記である『後法成寺関白記』は、直接人口に膾炙したわけではなく、よってこの近衛尚通の認識がそのまま「戦国時代」という現代の呼称に影響したとはいえません。しかし、この時代に生きた人々が、常に自らの時代を中国の「戦国時代」にひきつけて考えるようになっていた、というのは重要な指摘であろうとおもいます。

 戦国時代がどういう時代だったか、というのはあまり簡単に説明できることではありません。しかし、人々の認識が大きく変化した時代だった、ということはできるでしょう。明治時代の大東洋史学者である内藤湖南先生はすでに、『応仁の乱に就て』という講演のなかで「応仁の乱以後百年ばかりの間といふものは、日本全体の身代の入れ替りであります。」と述べています。江戸時代の身分秩序は、おおよそ戦国時代末ごろに形成されたものですし、その身分秩序が明治以降の近代日本にも大きく影響江戸時代に武士や庄屋等、上流階級に属していた階層は、近代以降も案外エライままなのです。エライひとのWikipediaで先祖をみてみると、「生まれ」のよしあしがよくわかります。していることを考えれば、それほど的外れな認識とも思えないわけです。
 逆に言えば、応仁の乱からの百年、というのは、前代の秩序が完全に打ち壊されて、再構築されるまでの大混乱の時代である、ということができます。
 ここでは、その片鱗を本作に関連する形で、公家の目から述べておきます。ちょうど応仁の乱直前に元服した三条西実隆や、中御門宣胤(なかみかどのぶたね)といった「応仁の乱以前」を知る公家たち(洞院公数と同年代)は、その日記の中に「言語道断」「不可説々々々」といった文言や朝廷儀式の衰亡を嘆く言葉をたびたび記しています。彼らにとっては、朝廷の儀礼や儀式は行われて当然のものであって、それが行われないことは、嘆くべき言葉だったということです。その意味で、彼らは「前時代」の価値観の持ち主であり、価値観が時代にそぐわなかった、ということになります。
 面白いのは、もう少し時代が下り、「応仁の乱を知らない」世代になると、そういう言葉が減ってくることです。例えば、山科言継(やましなときつぐ)の日記などからは、朝廷儀式の衰亡を嘆く言葉はあまり見られないようになっています。その意味で、応仁の乱を知らない公家たちにとっては、朝廷の衰微は当然のもので、それをあるがままに受け入れながら生きていた、といえるでしょう。
 応仁の乱前後、というのはそういう価値観の変貌の時期だった、ということです。そういう時代背景を踏まえると、この作品で私がやりたかったことが、見えてくると思いますが、いかがでしょうか。
 なおこの辺りは、上述の桜井氏著書のほか、原勝朗『東山時代における一縉紳の生活』(初出1917年)、芳賀幸四郎『三条西実隆』(吉川弘文館、1960年)、今谷明『戦国時代の貴族』(講談社学術文庫、2002年)などを踏まえて書いております。興味がある方はこれらの本をご参照ください。

『大乗院寺社雑事記』

 冒頭に引用されている『大乗院寺社雑事記』は、奈良・興福寺の子院・大乗院の院主(いんず)が書き記した日記群のことを指します。実際には、尋尊(じんそん)政覚(せいがく)経尋(きょうじん)と三代の院主の日記をまとめて『大乗院寺社雑事記』と称しており、それぞれバラバラの日記です。このなかでも、特に尋尊の日記(『尋尊大僧上記』とも呼ぶ)は、康正二(1456)年より永正五(1508)年の49年間書き継がれており、その記述の詳細さから、15世紀中葉の情勢を知る一級史料として知られています。
 本作で引用した文明二(1470)年六月十八日条も尋尊の手になるところ。応仁の乱自体は、作品中でも書いたように文正二(1467)年一月十八日この年の三月五日に改元が行われて「応仁元年」となるが、一月段階ではまだ文正。戦乱が始まったために「応仁」へ改元している。、上京の上御霊神社における軍事衝突によって始まり、同年中に各守護大名が軍勢を上洛させて戦闘が激化。翌年である応仁二(1468)年には、だいたい京都が焼け野原になっています。
 詳しい経緯を書き始めるととんでもないことになるので、そのあたりは、石田晴男『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』(吉川弘文館、2008年)を読むか、Wikipediaを参照するかしていただければと思います。ここでのポイントは、文明二(1470)年の段階ですでに京都が灰燼と帰しており、尋尊もその状況を嘆くしか無い、という状況だったということです。
 もう一つ重要なのが、尋尊が一条兼良の息子にあたる、ということです。作中にも「一条禅閤」として兼良は出て来ます。兼良は当時「日本無双の才人」『十輪院入道内府記』文明十三(1481)年四月二日条に「禅閤、この日薨逝す。満八十。老年の御事といえども、日本無双の才人なり。已に日月の明を失うか」とある。『十輪院入道内府記』は『園太暦』売却先として本作にも登場した、中院通秀の日記。「本朝五百年以来、この殿ほどの才人、御座有るべからず」『長興宿禰記』文明十三年四月二日条には「本朝五百年以来、此の殿程の才人御座あるべからずの由、有識の人々沙汰せしむ」とある。と称されるほど、一流の知識人・文化人として知られる人物おそらく本作で唯一、高校教科書にも記載がある人物だと思いますですが、応仁の乱に際しては自らの所蔵する桃華堂文庫近衛家の「陽明文庫」とならぶ、摂関家嫡流の文庫。源平争乱期に摂関家が近衛家と九条家に分かれた時に、摂関家の持つ文書記録も二分された。片方はそのまま近衛家に伝わり、応仁の乱を乗り越えて現代に伝わる。もう片方は九条家からわかれた一条家に伝わり、兼良の代にいたって「桃華堂文庫」と称された。中には、九条兼実の日記『玉葉』など、摂関家累代の典籍が多く伝わったと考えられるが、応仁の乱でほとんどが失われた。を焼かれ、兼良自身も戦乱を避けて興福寺の尋尊の元へ疎開しています。尋尊の兄である教房(のりふさ)ははるばる土佐国幡多荘まで疎開しており、のちに土佐一条氏の祖となります。また、教房の息子である政房は、文明元(1469)年に疎開先の摂津福原(現在の神戸)で東軍の足軽に殺されています。
 尋尊が、これほどまでに絶望を表明するには、自分の実家である一条家の、上に記したような惨状が背景にある、というわけです。

 ちなみに、『大乗院寺社雑事記』はもう一箇所引用しておりまして、それが聖徳太子の予言のところになります。聖徳太子が「未来記」と呼ばれる、未来の予言を残した、というのは広く中世の人の信仰するところで、実際にあちこちにそういった「聖徳太子が書いたとされる」著作が残されていました。『大乗院寺社雑事記』応仁元年五月十七日条には、そのうち、四天王寺にあったとされる「天王寺馬脳記牌文」が引かれています。以下に一応引用しておきます。
一、京都事の外に物騒。……仏法・王法・公臣の道、此の時、断ずべきか。嘆くべし嘆くべし。所詮、聖徳太子未来記にいわく

   天王寺馬脳記牌文
本朝、代終わり 百王、威尽きて 二臣、世を論じ 兵乱、窮まらず。 王政、収まらず 王命、用いられず 悪政、宗となす。 神祇の威、尽きて 祭礼の法無し。 王法、臣の為に 破れて用いず。 正法、禅の為に 毀ちて崇めず。 仏法滅ぶが故に 王法即ち尽きる。 上は下の為に 謀られ怨みを加ふ。 臣は民の為に (そむ)いて随わず。 王法亡ぶが故に 両法を失う為 異国の君主 欣び祈りて生を変え 日域の夷に生まる。 正法を侵さんが為に 勅許を軽んじ賤しめ 謀りて王位を侵し 王膳を堪落して 武勇の物となす。 正法を失う為に 達磨の教に帰り 正法の家を出でて 魔法に好み興ず。 正法の物を没して 禅家に加え与え 弓箭の賞を倒して 禅の行類となし 弓箭の器、尽きて 蒙古の国に奪われん。
 書かれたのがおそらく四天王寺(天台系顕密仏教)で、引いているのが尋尊(法相宗僧)なので、途中から「禅のせいで国が滅ぶ」になっているのは、ご愛嬌です。また、「蒙古が攻めてくる!」になっているのも、室町・戦国期のすっごい曖昧な対外認識実際には、元が滅んで百年ほどたっています。しかし、室町時代を通じて「蒙古が攻めてくるかもしれない」という妙な危機意識は健在であり、しばしば九州方面から流れてくる「蒙古が攻めてきた」という噂話で、京都が混乱したりしています。を反映しているのもご愛嬌です。
 ただ、「百王」を経て国が滅ぶ、という観念は中世を通じて大きな影響を持っていました。これは上のような聖徳太子未来記のみならず、本作にも引用した宝誌5世紀ごろに活動した中国の僧。実在の人物であるが、特に隋代以降多くの伝説が付与された。著名なのは、宝誌が顔の皮を割くと、内側から仏の顔が姿を表したというもの。その時の姿を表した宝誌和尚像(西住寺蔵、京都国立博物館寄託)はロラン・バルト『表象の帝国』のカバー写真などで著名。和尚『野馬台詩』平安時代から室町時代に流行った予言詩だが、実際には日本で作られたとされる。少なくとも、宝誌和尚の作ではない。にもあります。これらは後の時代、応仁の乱について述べる『応仁記』でも引用され、応仁の乱=国のおわり、という認識を示すのに用いられています。

「清華家」と「番々の輩」

 洞院家の家格として、また転法輪三条家や西園寺家の家格として出てくる「清華家」ですが、これは公家の家格です。
 厳密にいつから、というと難しいのですが、おおよそ南北朝ごろには、公家の家ごとに、いったいどこまで出世できるのか、というのが決まってきます。それをおおざっぱにランク分け厳密には、家ごとに昇進ルートや極官が決まっているので、同じ「家格」であってもA家とB家とで、昇進ルートや極官が違う、ということはありえます。「家格」はある程度のグループ分けでしかない、ということです。したのが「家格」です。
 江戸時代以降、公家の家格には上から「摂関家」「清華家」「大臣家」「羽林家」「名家」「半家」というふうに分けられました。それぞれの家格ごとに極官(ごっかん)その家の人物が、最大昇進して到達できる官職のこと。基本的には、先祖がどこまで昇進したか、という過去の最高官位がそのまま極官になる。つまり、普通は先祖より出世することはできない。ただし、特に際立った業績を残した場合は、その極官を越えることがあり、そうするとその家自体の極官が上昇し、家格が上がることになる。が定められ、また家格によって昇進ルートやスピードも異なりました。

 ・「摂関家」:極官は摂政・関白/五家あるため、五摂家とも称される。
 ・「清華家」:極官は太政大臣で、近衛大将を兼ねることができる。/七家
 ・「大臣家」:極官は清華家と同じく太政大臣だが、近衛大将を兼ねることができない/三家
 ・「羽林家」:「名家」と同格で極官は大納言/武官系の官職を歴任/数十家
 ・「名家」:「羽林家」と同格で極官は大納言/文官系の官職を歴任/数十家
 ・「半家」:一応極官は大納言/何らかの専門技能を持つ家が入る/数十家

 以上が、江戸時代以降の家格分けになります。が、戦国期以前だとここまで安定していません。本作に関係するところに即すならば、15世紀半ばの段階では「清華家」と「大臣家」という明確な区別は存在しておらず、「おおよそ大臣になれる家格」というのをまとめて「清華家」と呼称していたようです。
 大きく見ると、おおよそ「大臣家」と「羽林家」との間に境界があることになります。つまり、「大臣家」以上は実際に公卿の会議に参加し、朝廷政治の方針を決定する上級の家格であり、「羽林家」以下はその決定に従って実務をとりおこなう家格、ということになります。

 本作で引用した「番々の輩」という表現は、公数の父・洞院実熙の書いた『洞院家今出川家相論之事』洞院実熙が、後花園天皇にあてたもので、洞院家の窮状を訴えるもの。末柄豊「洞院公数の出家」に全文翻刻あり。という史料にある表現で、そういう家格認識をよくあらわす表現です。「番」とは、禁裏に交代で詰める「禁裏小番」を意味し、そういった実務に携わるような連中とは、洞院家は違うのだ、という実熙の認識を示しています。以下に、もう少し長めに引用しておきます。
大臣の大将経歴の家に、誰々にても候へ、この得分なる仁はいまだ承り及び候はず候。……今の分にて候はば、番々の輩の如く成り下り候て、先途昇進の望もかなゐ候ぬ身にまかりなり候ては、朝家のためも、一流のためも、中々返りてみつれなきの嘲弄まてにてこそ候はんすれ。
 長い上に解釈しづらいのですが、おそらく以下の様な意味になるでしょう。
 「大臣大将の経歴の家(=清華家)」であれば、誰であっても、この程度の収入である人は、いまだに聞いたことがございません。……今のままであれば、(「清華家」である洞院家も)「番々の輩」のように成り下がってしまいます。(私こと洞院実熙が)先の昇進の望みも叶わぬような身になってしまえば、朝廷のためにも、閑院流のためにも、かえって下品で卑しい嘲弄を受けることになりましょう。
 この史料自体は、公数の父のものではありますが、公数もおそらく同じような認識だっただろう、ということで、「羽林家以下の実務を行う連中とは違う」という意味合いで用いました。

閑院流と「公連」

 一応説明しておいたほうがいいかな、という言葉シリーズ。
 藤原北家閑院流とは、藤原道長のおじ・公季道長の父・師輔の十一男で、道長よりは十歳ほど年上。道長政権のもとで活躍し、太政大臣まで上って「閑院太政大臣」と呼ばれた。「閑院流」の名はここから取られている。にはじまる一族です。院政期終わり頃より天皇と姻戚関係を重ね、公家の中でも一大門派となりました。江戸時代の段階では、「清華家」七家のうち、転法輪三条家・徳大寺家・西園寺家・今出川家の四家が閑院流に属しており、摂関家(御堂流)についで藤原家の中でも最も栄えた一族といえるでしょう。洞院家は、戦国期に絶えてしまったためこの七家には含まれませんが、同じ清華家の家格にありました。
 本作では簡単に「西園寺家と洞院家とが、閑院流の嫡流家を争っている」と述べましたが、実情はもっと複雑です。というのも、転法輪三条家・徳大寺家もそれぞれに自らを閑院流嫡流と位置づけていたからです。つまり、そもそも転法輪三条家を筆頭とする三条流と、西園寺家を筆頭とする西園寺流、徳大寺家の三者が、閑院流のトップの座を巡って争っていたのです。
 西園寺家と洞院家との争いというのは、実は「西園寺流」の中でのトップ争いです。なので、西園寺と洞院とが仲が悪いという次元と、閑院流の嫡流争いの次元とは、ちょっと違う文脈になってきます。が、作品中でこんなことを語りだすと大変なので、この辺りは敢えてカットしました。
 本作最後で引用した、転法輪三条公敦の『尊卑分脈』識語も、実はこの閑院流嫡流争いに関連した史料です。書き下して引用しておきましょう。
()の系図、洞院累代の本なり。而るに左大将入道(俗名、公数。法名を知らず)、放埒の仁なり。一流、既に断絶の分と云々。記録・抄物など、ことごとく沽却す。耳を洗うべきものなり。よってこの本、同前に予、之を感得す。そもそも、西園寺、閑院家嫡となすの由、之を注す。言語道断の事なり。
 というわけで、公敦が公数に怒っている理由というのが二つありまして、一つには「記録などを売り払った」というのがありますが、同じくらい「西園寺流が閑院流の嫡流だと注を入れた」ことに怒っているのです。

 さて、閑院流の話になったのでもう一つ余談。閑院流の公家は、代々「実」と「公」とを通字とし、一代ごとに交互につけるのを規則としています。たとえば洞院家であれば、公賢―実夏―公定―実信―満季―実熙―公数となり、足利義満から「満」の字をもらったために「公」の字をつける余地のなかった満季以外、「公」「実」「公」「実」の順番になっていることがわかります。この規則は結構重要であって、規則を守るために改名することもありました。15世紀半ばの例でいえば、転法輪三条家の庶流である三条西家の三条西実隆は、最初「公世」「公延」を名乗っていますが、兄の「実連」が亡くなり、父「公保」の跡を継ぐことになると「実隆」へと改名しています。
 これがどう関わるか、という話ですが、ここで公数の跡を勝手に継いだ西園寺実遠の次男が「公連」という名前であることに関係してきます。彼は、洞院家のあとを継いで「公連」を名乗ったわけですが、仮に「公数」の跡を継いだ、ということになれば「公」が二代連続で続いてしまうことになります。が、閑院流としてそれはありえないわけです。
 つまり、洞院「公連」は、「公数」の跡は継いでいないのです。実際、「公連」が洞院家を継ぐときの手続きは、突如出家した公数の養子ではなく、亡くなってすでに二十年以上経っている公数の父・実熙の養子となっています。要するに「公数」は洞院家の当主として「いなかった」という扱いとなり、存在を抹消されたのです。
 公数が、西園寺家に『園太暦』を売らなかった背景には、こういうこともあったのかもしれません。

『塵塚物語』

 本作で引用したものとして、『塵塚物語』もあります。これは作中で「山名右衛門督入道」と登場する山名宗全のセリフの部分です。
 山名宗全が「これからは「例」という字を「時」に変えろ」と言った逸話は、比較的有名なもので、高校の教科書などでも引かれるものです。以下に、もう少し長めに引用しておきます。
山名金吾入道宗全、いにし大乱の比ほひ、或大臣家にまいりて、当代乱世にて、諸人これに苦しむなど、さまざまの物語りして侍りける折ふし、亭の大臣ふるき例をひき給ひて、さまざまかしこく申されけるに、宗全たけくいさめる者なれば、臆したる気色もなく申侍るは、「君のおほせ事、一往はきこえ侍れど、あながちそれに乗じて例をひかせらるる事しかるべからず。凡そ例という文字をば、向後は時といふ文字にかへて御心えあるべし。(略)凡そ例といふは其時が例也。大法不易、政道は例を引てよろしかるべし。其外の事、いささかにも例をひかる事心得えず。一概に例になづみて、時を知らざるゆえに、或ひは衰微して門家とぼしく、或ひは官位のみ競望して其知節をいはず、かくの如くして終に武家に恥ずかしめられて、天下うばはれ媚をなす。若ししいて古来の例の文字を今沙汰せば、宗全ごとき匹夫、君に対してかくの如く同輩の談をのべ侍らんや。是はそも古来いづれの代の例ぞや、是則時なるべし(略)」と苦々しく申ければ、彼大臣も閉口ありて、はじめ興ありつる物がたりも、皆いたづらに成けるとぞ、つたえきゝ侍し、是か非か。
 ざっと訳すならば以下のようになります。
 山名宗全がある大臣の家に行って話をしていると、その家の主である大臣は、いろいろ先例を引いて物事を申し上げました。すると宗全は「あなたの仰ることは、ひととおりは聞きましたが、そうやって先例を引くことはよくありません。今後は「例」という字を「時」と変えて心得るべきでしょう。そもそも、例というのは、その時々で変わるものです。重要で変わらぬ政道なら先例を引くのもよいですが、それ以外では先例を引くのはよくありません。一概に先例ばかり引いて、時流を知らないがために、あなたがた公家は天下を奪われたのです。もし仮に、昔の先例のあり方を今行うならば、私山名宗全のような匹夫は、どうしてあなたのような大臣と同輩でいられましょう。こうして私とあなたが同輩で話しているのは、いつの先例でしょうか。それこそ、今の時流ではありませんか」と苦々しく述べたので、主の大臣も閉口して場が冷めてしまった、と伝え聞きました。
 簡単にいえば、山名宗全が「先例を大切にするのではなく、時流に適した判断をせよ」と述べた、という話になります。現代人の感覚からすれば、「当然だろう」という話に見えます。
 『塵塚物語』という本は、1550年代ごろに成立したものと考えられる本であり、宗全の生きていた時代から100年ほど下る本です。逸話集であるということも考え合わせると、おそらく本当の話とはいえないものと思います。しかしながら、宗全という人物や、「先例」というものに対する考え方など、戦国期の認識をよく表しているものであるともいえます。
 前近代の日本において「先例」というのは、そのままそれが「道理」になるものであり、政治を行う上では欠かすことのできないものです。「先例」のあるものが正しい政治であり、「先例」のない「新儀」というものは、基本的に「非法」なものであり、非難されるべきものでした。後醍醐天皇は「朕が新儀は未来の先例たるべし」と述べて建武の新政を遂行したことで知られていますが、これはかなり異質なことで、当時の人間からすれば「何を言っているんだ」という類のものです。実際、後醍醐天皇の建武の新政がうまく行かなかったことは、知られるところでしょう。
 だからこそ、山名宗全が「先例」というものを「時流」と変えて心得よ、と述べたという事実は、非常に興味深いものになります。「先例」が順守されるべき、というこれまでの価値観が破壊され、「時流」に取って代わったということを意味しているのです。
 最初に少し述べたように、本作では、そういう大きな時代の流れに沿ったつもりです。少しは作品に反映されていたでしょうか。

洞院公賢と『園太暦』

 本作でしばしば登場した洞院公賢は、正応4(1291)年に生まれ、延文5(1360)年に亡くなった人物です。作中からは、ちょうど100年ほど前の人物になります。以後の洞院家のあり方を決めたという点において、洞院家中興の祖といえる人物です。公賢の生きた時代は鎌倉時代末から南北朝時代という動乱の時代でした。その中で、公賢は、有職故実に詳しく、学識の深い公家として南朝・北朝双方、また足利将軍家からも篤い信任を得た人物です。
 公賢については前述した林屋辰三郎『内乱のなかの貴族』に詳しいので、詳しくはそちらをご参照ください。また、南北朝時代の流れを知りたい方は、佐藤進一『南北朝の動乱』(中公文庫、2005年、初出1965年)を読んでください。これだけ読めば良い、名著中の名著です。

 ここでは、『園太暦』についてもうすこし取り上げておこうと思います。これは、作中で述べたように公賢の日記であり、公賢が「中園太政大臣」と呼ばれたこと、その日記が具注暦季節や日の吉凶などを注した暦のこと。普通は巻子本(巻物)で、枠線が入れられ、一日ごとに数行の空間がある。というカレンダーの余白に書かれたものであることから、『園太暦』と呼ばれました。
 とりあえずは、現物を見たほうがわかりやすいとおもいますので、リンクを貼っておきます。

  →公賢自筆本の『園太暦』

 これを見ればわかるように、元々枠線と日付の入っている具注暦の余白に公賢が日記本文を書き込み、余白が足りない場合は具注暦を切って白紙を貼りつないで、そこに本文を書きつないでいます。また、ところどころではその時実際に用いた文書を貼りつないでいるため、墨の色や紙の幅が微妙に異なる、ということも起きています。
 こうした丁寧な著述によって、公賢の『園太暦』は、それ自体が先例の集積として極めて重要な日記となりました。こうした経緯で、本作でも言うように、洞院家にとっての最大の宝物が『園太暦』ということになりました。

 さて、『園太暦』のその後の経緯についても簡単に述べておきます。
 本作で取り上げたように、文明十四(1482)年正月に、洞院公数は『園太暦』を十貫文という値段で中院通秀に売り渡しました。この時の記録が、中院通秀の日記『十輪院入道内府記』文明十四年正月三十日条に残されており、そこからこの時売り渡された『園太暦』の全容が明らかになります。
 それによれば、この時点ですでに延慶四(1308)年から延文五(1359)年までの日記のうち、実に三十年分あまりがすでに失われていることがわかります。本作では、これは公数が燃やしてしまったからだ、ということになっているのですが、林家辰三郎氏は、公賢死後の洞院家家督相続争い詳細は複雑なので簡単に述べておくと、公賢の末弟・実守(南朝方)と公賢の実子・実夏(北朝方)の間で争いが発生。最終的には実夏が後継者となるが、公賢遺産の文書群も一度は実守の元へいくなど、混乱の中に置かれている。の中で抜き取られてしまったのだろうと述べています。おそらく、林家氏の意見が正しいと考えられます。つまり、公数の時点ではすでに『園太暦』は半分になっていたと考えられるのです。ここは、公数が燃やした方が劇的であるという創作上の理由から、史実を曲げています。
 さて、こうして中院家の蔵書となった『園太暦』でしたが、通秀の死後、中院家もまた財政難に苦しむことになり、文亀三(1502)年、禁裏に八貫文で売却することとなりました。これによって、禁裏の文庫に収められたのは確実なのですが、現在の皇室御物等の中に、『園太暦』原本は存在しません。つまり、『園太暦』原本の行方は杳として知れず、亡失してしまいました。

 現在では、『園太暦』は、中院通秀が購入した後、甘露寺親長名家である藤原北家勧修寺流の甘露寺家当主。応仁の乱によって失われた朝廷の儀式などを復興するため、多くの先例書・日記等を書写したことで著名な人物。本作では「甘露寺按察使中納言」として登場。によって抄写されたものを見ることができます。これは、甘露寺親長が必要なところだけを適宜要約して写したもので、かなり多くの部分が省略されてはいますが、それでもこれのお陰で多くの情報が現在に伝わりました。他に、三条西実隆による抄出本も現存しており、『園太暦』の半分ほどが、要約の形で現在見ることができます。
 また、上にリンクを貼ったように、公賢の自筆になる『園太暦』が一巻だけ現存しています。これは、延慶四年二月・三月の分で、中院通秀が購入した段階で残っていた『園太暦』の中で最も古いものです。中院家から禁裏へと『園太暦』が売却された時に、この巻は行方不明になっていたようで、禁裏に引き渡された一覧のなかにこの巻はありません。要するに中院家の文庫の中に一巻だけ紛れ込んでしまっていたようです。そうしてこの巻だけそのまま中院家に残され、現在まで伝わることになりました。

その他洞院家の蔵書類

 洞院家の持つその他の蔵書類がどこにいったのか、というのを詳細に明らかにすることはできません。しかしながら、例えば『尊卑分脈』が転法輪三条公敦のもとに売られていたことは、本作でも引用した『尊卑分脈』の識語からも明らかです。また、西園寺家にも全く洞院家の蔵書が流れなかった、というわけではなく、一部の記録が西園寺家の文庫に流れていることもすでに指摘されています。特に、洞院家領に関わる記録・文書類はすべて西園寺家に譲られており、ssでも述べたように、一応公数も、公連が家督を相続したという「みため」だけは整えてやったといえるのかもしれません。
 多くの洞院家蔵書が流れていることで知られるのは、『園太暦』の売却先でもあった中院家になります。現存する中院家の文庫からは、洞院家の文書・記録類がかなりあったようです。とはいえ、現在ではその多くが散逸してしまっています。
 また、洞院家旧蔵文書が流れて摂津の酒蔵家の収集文書中に含まれている事も知られています。このことは、公数の時代以降、洞院家の文書が多く世間に流れ、流通していたことを示しているでしょう。
 そもそも、いったい公数がどれほどの文書・記録を持っており、売り飛ばしたのか、ということを明らかにする史料はとくにありません。ひとつ言えるのは、公数の試みは見事に成功して、洞院家というまとまりは、文書もろとも消滅した、ということです。
 他方で、本作中であげたような、洞院家各代の著作が、現在まで多く現存しているということにも気をつけなくてはいけません。公数が洞院家の書物をバラバラに売り飛ばしたのは、洞院家文庫というまとまりを消滅させた一方で、洞院家の書物を広くいろんな人が見る、という結果にもつながっています。その結果、多くの書物が書き写され、現在にまで写本という形で残ることになりました。『園太暦』も、抄写とはいいながら現在にまで内容が伝わったのは、公数が中院通秀に売り渡したからこそ、ともいえるのです。

洞院満季と実熙

 公数の祖父・満季と父・実熙についても、末柄氏の所論にもとづいて簡単に書き連ねておきます。
 そもそも、洞院家の財政が傾いたのは、公数の時代に始まったことではありませんでした。古いところでいえば、洞院公賢の孫であり、公数の曽祖父にあたる洞院公定のころ、洞院家領の中心的役割を果たした左馬寮領もともとは左馬寮の所領であり、左馬頭という官職につくと付与される所領であった。しかし、この時代にはそういった官職に付与される所領は形骸化し、各公家の家領として伝来した。左馬寮領は、公賢が康永二(1343)年に拝領してより洞院家が伝領していた。が没収されます。これは、公定が将軍・足利義満の前で暴言を吐いたためであるが、これによって洞院家は一気に財政難に瀕することとなりました。
 その後、公定の子・洞院満季の時代になると、左馬寮領を還付してもらい(応永二十八年・1421年)、一時洞院家は持ち直しました。この背景には、満季が後小松上皇に気に入られていた、ということがあったようですが、このことがかえって満季の立場を不安定にします。
 その背景にあるのが、作中で「普広院殿様」と出てくる、六代将軍・足利義教です。義教はその治世の後半、独裁的な恐怖政治を行って「薄氷を踏むの時節」伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』永享三年三月二十四日条には「薄氷を踏むの時節、恐るべし恐るべし」とある。なおこの記事は、義教が上皇出家に怒りを発し、洞院満季ら公家を恫喝したことに対する貞成の感想。「万人恐怖」同じく『看聞日記』永享七年二月八日条には「万人恐怖、言う(なか)れ言う莫れ」とある。これは、義教の政治について道端で意見していた商人を義教が捉え、首をはねてしまったことに対する貞成の感想である。と恐れられることになります。洞院満季も、こうした義教の恐怖政治に振り回された一人でした。
 永享三(1431)年、満季は後小松上皇の出家にともなって、ともに出家することになりました。が、足利義教は上皇の出家に不満であり、ともに出家した公家たちに対して怒りをあらわにしました。これを恐れた満季は、娘(公数にとっておば)を義教の側室として差し出し、洞院家の存続をはかります。
 ところがこれが裏目に出てしまいました。永享六(1434)年、義教の側室となっていた満季の娘が、同じ義教の側室である正親町三条継子を呪詛したのだ、という疑いが賭けられ、満季の娘は室町殿から放逐されてしまいます。同時に、怒った義教は満季から左馬寮領を没収してしまいました。
 作中で多くの艱難辛苦、と述べたのは、これらの状況を踏まえています。

 公数の父・実熙も、沈没寸前の洞院家を引き継ぎ、必死の思いで洞院家の存続を図った人物です。その象徴となるのが、先に「番々の輩」に絡んで少し引用した『洞院家今出川家相論之事』という史料になります。この史料は、実熙が壮年の時代に、洞院家の窮状を後花園天皇に訴えたものになります。その内容は煩雑である(のと、私には読めない)ので置いておくとしても、結果として洞院家領の一部還付が実現(左馬寮領はならず)しており、実熙は洞院家の復興にある程度成功しています。
 実熙が、洞院家の家風であり家学である有職故実に詳しく、また筝にも非常に卓越していた人物だったことは、いろいろな史料からも垣間見ることができます。洞院家の家領還付が実現したのも、こうした実熙の功績があってのものだった、と考えることができるでしょう。
 公数が生まれたのは、ちょうど足利義教が殺された嘉吉元(1441)年であり、洞院家がどん底にある年のことです。つまり公数は、実熙が有職故実の学者として名を馳せ、家領還付を受け、洞院家を復興させていく姿を見ながら育った人物だった、というわけです。

四諦

 えー、なんだか長くなりすぎてきたので、最後に一つだけ。章立てのお話。
 といっても、ここでは解説しません。いんどてつがくはむずかしすぎます。
 なので、一応触れるだけ。章立ては「四諦(したい)」という、4つの真理の名を借りました。すなわち「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」の4つです。
 ただし、4つ目には至っていない、という解釈です。
 詳細については、適宜みなさまで、辞書を引いたり、本を読んだりして探してみてくださいませ。

おわりに

 ここまで読んだ方、本当にお疲れ様でした。
 自分の知識を開陳しつつ、自分のssの書き方を開陳するというのが、いかに楽しいかというのが、こういうことをするとよくわかります。よくお付き合い頂きました。
 こんなかんじで、すふぇという鳥が創作をしている、というのが窺えたことかと思います。史実と創作との兼ね合いの取り方などは、自分の思考回路自体を開陳しているような気がしてきます。もっとも、ss自体が面白くなければ、こんなのも何の意味もなさないのですけれども。

 さて、ここまでお読みいただけるほどハマったということでしたら、ぜひとも感想を賜りたく存じます。「面白かった」の一言でも構いませんし、「こうしたほうが面白かった」といったようなものでも構いません。どうぞご遠慮なく、思った所をお伝え頂ければ、これにまさる幸いはございません。
 よろしくお願い申し上げます。

 それでは、お読みいただいてありがとうございました。
 読んだ方の、何がしか益となれば、これ幸甚というものです。

  おしまい。
余談。GWの一日を使って、一体何をやってるんでしょうね、本当に。

H29.5.9付記

 H29.5.9をもって作品をWeb公開したのにともなって、解説もPassward外しました。本当ならば、きちんと手を入れないといけないところなのですが、サボっておりまして、とりあえずそのまま公開します。

 関連文献だけふたつほど足しておきたいと思います。それが以下の二点です。

・呉座勇一『応仁の乱』(中公新書、2017年)
・『新説 応仁の乱』(別冊宝島2570、2017年)

 ご存じの方がいるかもしれませんが、今年に入ってから応仁の乱が突如として流行りはじめています。そのきっかけになったのが、上にあげた中公新書の『応仁の乱』です。噂によると、この本は三十万部売れてるとかそういう話を聞いたりするほどの、昨今の歴史書ではありえないほどの売れ行きなのだそうです。正直な話、決して簡単な本だとは思わないので、なぜ売れているのかはよくわからないところではあります……。ただ、本作に関連したところでは、本作冒頭に掲げた『大乗院寺社雑事記』を用い、奈良にいる尋尊らの興福寺僧の視点から応仁の乱を描く、という点が興味深いです。彼がいかにして「この世の終わり」と思うようになったか、は追いかけやすいと思います。
 後者の本ですが、こちらは本気の本です。なんかでかでかとI沢M彦の名前が出ていたりして怪しげな本なのですが、実際に書いているメンツはそれぞれの分野の第一人者で、内容もかなりしっかりしています。ここだけの話、中公新書よりも内容的にはよいのかも? とちょっと思ったりするくらいです。

 以上、応仁の乱のブームによって本がいろいろ出ていたので、ちょっとコメントを追加しておきます。なんというか、いろいろな意味でこの作品の時事ネタ度が上がっていて、驚いている部分は少なくありません。
 ではでは、蛇足駄文失礼しました。
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