滇王与漢使者言曰、
「漢孰与我大?」
及夜郎侯亦然。以道不通故各自以為一州主、不知漢広大。
滇王が漢の使者へ言った。
「我が国と漢は、どちらが大きいのだ?」
夜郎侯も同じことを聞く。道も通じていないので、彼らが一州の主だと自惚れている。漢の広大なことを知らないのだ。
――『史記』「西南夷列伝」
―― 夜郎の童 ――
壹
穢れ無く寿命も非ざる月に、カグヤは生まれた。ツクヨミが一族の生まれにて、即ちカグヤは違うこと無き月の姫。その身たるや、如何なる者とて等閑に扱うべからず。生を受けてより、月人も玉兎も、唯彼女に従い、以てカグヤの望みを叶える他は無し。故に、カグヤの望みの叶わぬ事は一つだに在らず。カグヤの侍者は、望みを叶えるべく可能な限り立ち働き、そして必ずや叶えて見せた。
かかる状況に、カグヤは為すこと能わざるもの無しを知る。自らの命には皆が従い、自らの希みには皆が叶えんと努力する。そこに従者が心は介在しない。従者にとって月の姫とはまさに神に他ならなければ、カグヤの命は神勅に等しきもの。神勅下ることあればその意志の介在する所なく、故にカグヤの命とは何にも優先せねばならぬ。
物心ついてよりも、カグヤは頻繁に従者を用いた。その命の殆どは、孰れの場所へか行幸せんとするか、或いは月内外の珍品を持って来させんとするものである。また命ならずとも、下問を加えることも多い。己の知らぬ物を見ればすなわち、侍者にそれ如何なるものなりやを問う。それはごく些細な物にも――例えば、箸といったような、普段然したる疑問を持つ事もなく使う物であっても――鋭い問いをしばしば向ける。カグヤは好奇心に富む少女であった。目につくものというものには片端から問いを向け、答えを求めた。ある時には、外にて遊ぶ途中に玉兎の耳を見、何故玉兎には長い耳がありながらカグヤには無いのかと問い、答えられぬ従者たちに憤って癇癪を起した。また別の時には、空に地球の浮かぶ理由を尋ね、納得できる答えの得られぬを知るや、従者の一人の脛を蹴り飛ばした。
そも、従者とてこの世全てを知ること無し。答えるべからざる問いもまた多い。然るに、従者が答えの返らぬは、カグヤにとって許せぬ事。幼きより自らに従わざる者の無き場に過ごせば、縦え従者の知とても、自らの支配する場にあらねばならぬ。にも関わらず、自らの意に反して従者は問いに答えない。それは輝夜にとって許さざるべき所業に他ならず、即ち輝夜は従者を逐うよう、命を下すのである。その命に謂われ非ずとも、それがカグヤの命であったならば、従者はただ受ける他の術はない。心憤然たりとも、如何ともすることならぬのである。
かような生活はカグヤにとって全く満足のみの生活ではない。しかし不満があるかと問われれば、ないというが正しいのではないかとカグヤは考えていた。自らの命を聞かぬ者は、ただの一人もいない。全てを知りはせぬ従者とはいえ、カグヤの持った疑問の多くに答えてくれることもまた間違いない。つまりそれは、殆ど自分の望みが叶わぬ事がない、ということである。自分はなんて素晴らしき所に生まれたのだろう、とカグヤは思えた。まだ小さいカグヤにとって、世界は自分のほんの周りにしかなく、そしてその中で満たされぬ部分はごく一部。
畢竟カグヤは、月の生活を満喫していると言えた。
貮
それから少し経った頃、家庭教師がつく、とカグヤは聞いた。その誉れを得るのは八意永琳。"月の賢者"とさえ称えらるる者なれば、幼いカグヤとて勿論知っている。ツクヨミよりも生永く、其の該博な知識と聡明な頭脳を以て月の都の成立に大きな役割を果たしたとか。月の中で知らぬ者はおらぬだろう。
月の賢者が自らの家庭教師となる、という報にカグヤは歓喜の声をあげた。月の賢者なればカグヤの問いとて一つ残らず能く答えるはず。それは本当の意味で"己の為すこと能わざるもの"は此の世から消え失せるに等しきことである。なにより彼女は、カグヤが心の内に秘める、燃えたぎった好奇心の塊を収めることができるだろう。
されど、即ちカグヤは一つの事に思い至る。月の賢者という程の者。その頭脳知識たるや、カグヤの遥か識り得ぬところならん。およそ人の良きも悪きも全て能く洞察致さん。また知識あり頭脳あることは、他の援けを要さぬということでもある。となれば、他と交わろうとはせず、ひいては交わりを嫌う者も少なくない。此くの如き、独特の狷介さを永琳も持つのではないかと、カグヤは内心で思い始めたのである。もしこのような者であったとしたら、姫たるカグヤとは決して気が合わぬに違いない。カグヤはそんな者を受け入れるつもりは毛頭なかった。
故に、八意永琳を一見するや、カグヤは喜びに跳び上がった。その灰色に透き通った瞳はカグヤを柔らかく包み込むように輝き、優しげに微笑む永琳の表情はカグヤの心を掴んでいた。その声は正に琳然たりて、聞いているだけで心を安堵ならしめる。カグヤの憂いは、杞人の天落つるを憂うに他ならなかったわけだ。カグヤは初見から、既に永琳の虜となっていた。
思わずカグヤは涙を流していた。まさに自らの求めていた存在が目の前に立っていることが、嬉しくて仕方なかったのである。そしてまもなく、同じように永琳もまたその瞳から一筋の涙を流していることに、カグヤは気付く。永琳もカグヤとの出会いに喜びを感じているらしいことが、カグヤにはより嬉しかった。
まだ初対面というに、カグヤは自分の聞きたくて仕方なかったことを片端から永琳へと問う。月の周りを地球が回るのはなぜ? どうして縦と横を掛けると面積が出るの? 永琳がツクヨミさまに従うのはなぜ? 地球が一晩の間に徐々に満ち、欠けるのはなぜ? 玉兎たちはどうやって交信しているの?
子供らしい脈絡のない、思うままの問いである。得てしてカグヤの問いはその時限りのものばかりであるが、これらの問いは其れと一線を画すものばかり。何度も何度も、様々な者に問いを出し、然れども一度とて納得のゆく答えを得べからざるものばかりである。されどそれも"月の賢者"の頭脳をカグヤへと見せつけるものに過ぎぬ。永琳は幼きカグヤの頭でも簡単に理解でき、然れど省く所の一つとて無き、完全なる解答を提示してみせた。それにはカグヤも唯々驚かされ、頷く他無い。そして永琳との出会いの有難さを、より一層感じるのである。
永琳はカグヤの問いに全て答えきったところで、カグヤに一つの贈り物をした。字である。地上で用いられる字を、カグヤにくれたのだ。号して輝夜。意味を問うカグヤに永琳は言った。夜とて輝かす姫におなり下さいませ。
それはカグヤにとっての宝物。他の月人が誰も持ち得ぬ、永琳からの贈り物。自らの尊敬する――一目会っただけだが、輝夜にはそう断言できた――永琳の頂き物なれば、カグヤにとって命よりも大切とさえいえた。
參
永琳へ師事を重ねる程、その智の偉大なるを識る。カグヤ――輝夜は斯く思っていた。永琳に教わることは非常に多岐に渡る。凡そ彼女に教えられぬこと無し。虚学実学を問わず幅広い分野全てを、永琳は一人で教えている。彼女の謂うには専門は薬学というが、輝夜はそれに少々疑いさえ持っている。彼女が薬学を修めていないというわけではない。薬学以外を知りすぎると思えるのだ。故に全てが彼女にとっては専門だと、輝夜は考えていた。
その思考と知識とに触れられて、輝夜は光栄であった。自らの知識欲は永琳によって満たされてゆく。永琳と会う時、いつも輝夜は最初に問いを幾つかぶつける。珍しい物を持ちこみ、それについて色々問うてみることもままあった。輝夜の好奇心もまた広く、たった一日の間だけでも幾つもの問いを様々な所から見得するのだ。
これまた永琳が上手いと思うのは、輝夜が思考する場面を持ってくることであった。永琳は常に輝夜の問いを問いで返す。答えれば則ち何故、と問う。思考を嫌えば答は返って来ないのである。最初は煩わしいと思うばかり。しかし今では感謝している。その御蔭で、輝夜は様々な物に対して確と思考することができるようになった。それは偏に永琳の薫陶のおかげであろう。
永琳は、あくまで輝夜を姫として優しく扱い続けてくれていた。問いを持ちこんだ時こそ、すぐに問いに答えてはくれぬが、終に答えぬこともない。輝夜が何か失敗をしても、怒りはしない。輝夜が何かを欲せば、大概実現してくれた。無理を言おうが、輝夜の為たれば、永琳は何とて為したのである。永琳が為そうとさえすれば、凡そ為し得ぬことはない。如何なる難事とて、永琳は然も容易そうに為し遂げ、輝夜の前に示してくれるのである。一度、永琳を困らせようと次の地球食の開始時刻は何時ぞや、と問うたことがある。極限にまで正確に、と。されば翌日には、太陽系内にある天体の活動と相互作用とを尽く計算し、再現しながら輝夜に説明してくれたのであった。その時の永琳は、その計算に力を使ったようで目に隈を宿らせていた。輝夜は少し申し訳なくなると同時に、改めて永琳の凄まじさに驚かされたものだった。
一つだけ、永琳が輝夜に厳しく言いつけることがある。自律と礼儀であった。月人が月人たる為には、姫が姫たる為には、何より自分を律し礼儀を保たねばならぬ、と。永琳は事ある毎に、輝夜へと言いつけていた。
しかしある日、輝夜は永琳の前で、礼儀を怠けたことがある。めいいっぱい遊んだ後で少々疲れてもいたし、礼を少々疎かにしても永琳は優しいから何も言わないだろう、と輝夜は高を括ったのだ。ところが、そんな輝夜に対して永琳は初めて怒鳴りつけた。怒声に固まった輝夜の襟を掴むと、そのまま部屋の外に向かって投げだされたのだった。何が起きたかわからぬ輝夜に、永琳は告げたのである。自らを律すことも出来ない者は月人ではない。まして姫なぞとは言えぬ。
永琳の怒りは、しかし輝夜によく理解できた。自らの立場を考えれば、礼儀を失すなど以ての外であった。あくまで論理的な永琳の言葉を聞けば聞くほど、輝夜は自分のした事の大きさを理解する。自分がこうして我儘に生活できているのは月人であり、姫であるから。しかし姫として、月人として誰かの上に立つからには、自らを律して行動出来ねばならぬ。永琳の説教に、嫌と言うほど輝夜は理解した。なるほど自分は姫である。だからこそ自律せねばならない。他を蔑ろにしてはならない。
輝夜は部屋の外で涕泣した。永琳が怖かったからではない。自分がしでかしたことの大きさに、申し訳無くなったからだ。そんな輝夜を永琳は、先まで怒っていたというのに、優しく抱きかかえてくれる。そんな永琳の優しさが、申し訳なくて嬉しくて、輝夜はますます泣いた。永琳の懐が、輝夜には暖かく思えた。
やはり輝夜にとって、永琳はかけがえのない素晴らしい教師であった。
肆
輝夜が地上の事を聞いたのは、初めて永琳の怒りを受けてより間もなくのことであった。側仕えの玉兎が、永琳は地上出身であるらしいと教えてくれたのである。地上は穢れたところである、と輝夜はこれまで教わり続けてきた。永琳もそのように言っていて、それ以上詳しく教えてくれることはなかったのである。輝夜もまた永琳の言葉を真に受けて、地上を穢れたところだと全く思考の外に置いていた。
しかし、永琳が地上の出と言われると、どうにも地上がただ穢れた地獄とは思えなくなった。月の頭脳であり、月人中の月人である永琳が生まれた処の唯穢れし忌地たることがありえようか。月から見る地上は地の碧に純白を散らして輝いており、どのような珠よりも美しく思える。斯く考えてみれば、地上というのは永琳や他の月人が言う程酷い場所では、ないのではないか。思い始めれば、輝夜はもう止まらない。輝夜の好奇心は、一度捉えた物を決して放さないのである。暇さえあれば空に浮かぶ碧玉を眺め、思いを馳せた。あのように美しいのだから、きっと地上だって美しいに違いない。永琳の生まれた場所というならば、月以上の楽園なのではないだろうか。
いよいよ輝夜は抑えられなくなり、ある日、ついに永琳へ言い出した。一度でいいから、地上に降りてみたい、と。道を外れてさえいなければ、如何なる事とて実現してくれる永琳のこと。地上に行く事など造作もなさそうに思えたのである。
だが、その予想は大きく外れた。地上を見てみたい、と輝夜は永琳に跳びついたが、永琳は珍しく少し渋い表情を浮かべただけだったのである。更に行きたい、と言い募った輝夜に対して、永琳は一言告げる。地上は穢れておりますので、行くことはなりません、と。これまでならば、その言い分にも納得出来ようが、今はそうにも行かない。輝夜は知っている。永琳がその穢れているはずの地上で生まれたということを。穢れた地上で生まれたはずの永琳が、全く穢れてなぞいないことを。故に輝夜は、永琳を見上げて、さらに喰ってかかった。穢れていない永琳は、地上から来たのだから、私が行っても穢れないでいられるはずだ。
しかし何を言っても、永琳は地上行きに頷いてはくれなかった。如何なる論を用いて永琳を責めても、永琳は、地上は穢れているから姫の行く場所ではない、という一点張りで、頑然と輝夜の言い分を聞き入れようとはしなかったのである。途中から輝夜が泣き喚こうが、永琳の懐で暴れようが、永琳は首を縦に振らない。
輝夜とて、ただ永琳を困らせるために騒ぐのではない。輝夜だって聡明な少女だ。もし永琳が無理であることの正当な理由を提示すれば、則ちその要求を取り下げる。先に、玉兎の通信に介入してみたいと言った時は、永琳が輝夜にはその為すべからざる所以をきちんと説明してくれ、それで輝夜は納得できた。そしてその要求はきちんと取り下げた。しかし今回、永琳は納得ゆく説明をしてくれない。ただ"穢れている"というばかりなのである。更に言えば、"穢れているところは姫には似合わない"というばかりなのだ。たったそれだけの説明で、輝夜が納得できるはずもない。永琳の生まれた処が地上であるというのに、どうしてその地上が輝夜に似合わぬ等と言う事があるのだろうか。漆黒に浮かんで夜を輝かせる碧玉が、どうして輝夜に似合わぬのだろうか。
輝夜の思いつく限り、様々な事を問うても問うても、永琳は地上に行くことを認めてはくれなかった。そこまで永琳が、頭ごなしに何かを言いつけることは、これまで無かった。それだけにこの永琳の態度は予想外だったし、輝夜には腹立たしかった。理由も無く自分の行動を制限されることが、輝夜には許せなかったのである。途中から輝夜は、とにかく目的も忘れて泣き叫び、暴れ回った。永琳は何とか宥めようとしていたけれども、しかし輝夜の言い分はそれでも聞かない。輝夜が泣き疲れて眠ってしまうまで、ついに永琳は地上に行くことに承諾しなかった。
結局、輝夜は折れた。唯地上の事のみで永琳との仲を壊したくはなかったのである。
しかし同時に、地上のことは輝夜の心奥深くに凝って残った。
伍
輝夜は姫である。月の誰もが認める、月の姫。月の誰もが輝夜を姫と呼び、姫と扱う。生まれてよりずっとそのような扱いであり、それが当然であった。そして姫であるから、自分の言う事を聞かぬ者は殆どおらぬ。自分より偉いのは月都の長であるツクヨミただ一人である。
どうして自分が姫なのか。いつしか輝夜はそのことに疑問を持ち始めていた。最初にそれを思ったのは、自分の名前が名前として機能していないことに気付いた時であった。月人は皆、輝夜を姫と呼ぶ。或いは姫さまと呼ばれることもある。しかし、輝夜、と名を呼ばれることはない。自分は誰にとっても姫であって、輝夜ではないのだ。そのことに気付いた時、輝夜は自分の名で呼ばれたい、と思った。そういう願いは、やがて自分が輝夜と呼ばれぬ理由、即ち輝夜が姫である理由について考えることへと繋がっていった。
自分が姫である理由が、輝夜にはよくわからない。他者、誰に聞いてみても輝夜は姫だ、という以上の事を言わない。永琳でさえそれである。輝夜はもう何となくわかっていた、輝夜が姫であるというのは、何かから導き出された定理ではなく、所与の公理であるのだ、と。つまり、輝夜が姫であるのは、輝夜が姫であるから。そういうことのようだ。
それはそれでよいかな、と思った事もある。自分が姫であるということは、自分のやりたい事は殆ど成し遂げられる、ということに他ならぬ。永琳が、輝夜の言った事を概して叶え、答えるのも、凡そ輝夜が姫であるからだろう。抑々この月に双び無き永琳が家庭教師となった事もまた、輝夜が姫であったからなのだろう。もし輝夜が姫ではなく、凡たる月人であったとしたなら、自分の好奇心を満たす存在に出会うことも無く燻っていたに違いない。
それでもやはり、自分が姫であることが、輝夜にとっては違和感となり始めていた。誰とて輝夜の事を輝夜とは呼ばぬ。輝夜は輝夜としてではなく、姫としてしか認識されていないのではないだろうか。月に君臨する姫であれば、その中身はどうでもよいのではないだろうか。そう思えたのである。事実、輝夜の言う事は殆ど聞き入れてもらえてしまう。ある日、物は試しとばかり理不尽な理由をつけ、御側付の玉兎の追放を命じた事がある。すると翌日には、その玉兎は姿を見せなくなった。聞けば、言う通りに追放されたと言う。考えてみれば、小さいころからそれが普通の事だと思って来た。しかしそれは違う。自分の意にならぬ者を全て逐うことが出来るというのは、異常だ。恐ろしいことだ。哀れ輝夜の実験として追放されてしまった玉兎を、慌てて輝夜はその日の内に召し返し、心から詫びを入れた。ところが、その玉兎ときたら、"姫さまの恩情"への感謝ばかりを述べ、遂には顔に涙まで流して帰っていったのである。
輝夜は自らの力に震え上がった。もし玉兎を誅せと命じれば忽ちその玉兎の首は刎ねられよう。それは輝夜が姫だからに他ならぬ。ただ姫であるというその一事を以て、輝夜は生殺すら容易に能く左右するのである。自らの為したことはまさしく神勅であり、その状況如何に関わらず憎むこと能わず当に喜ぶべきものであるのだ。
これは拙い、と輝夜は次に思った。月人たちが輝夜を姫であると思い込むように、輝夜の持つこの力を所与たりと思った時、自分は駄目になるように思えたのだ。永琳が自分に対して、自律せよと言い続けたのもわかる。もし自分も律せずしてこの力を用いれば、其れは祟神と言う他有るまい。斯くあらぬよう、永琳は輝夜を導いてくれたのである。それでも、と輝夜は唇を噛んだ。むしろ此くの如き権力が一月人たる輝夜の手にあってよいのか。それも、殊更理由も無く無防備に渡されていてよいのか。
一つ、思う事がある。それは嫦娥なる下らぬ者のこと。嫦娥の夫・后羿は地上一の弓の達人、十の太陽が出た折りに忽ち九つを落とした英雄である。英雄の妻とて嫦娥もまた尊崇され、力を持った。而るに嫦娥はその力に驕り、竟には夫を毒殺し、剰え月へと乗り込んで王者ならんとした。輝夜が持つ力と同じ物を手にし、それに狂った所業である。その者の末路は言うまでも無い。月都の外れに幽閉され、永久の時をただ一室で過ごすのみ。
その嫦娥が、どうにも輝夜には他人事には思えぬ。如何に自ら律すれど、この力を持ち続けていれば、いつかは狂ってしまうのではないか。自分が姫であるということを所与として受け入れてしまうのではないか。
輝夜は、どうにかして輝夜になりたかった。姫ではなく、輝夜になりたかった。
陸
蓬莱の薬なるものがある。飲めば不老不死となり、能く未来永劫生き続けるという。永琳の弟子たる玉兎との、何気ない話の中で輝夜はふと聞き及んだのみである。されど、然して興味を引かれるような代物とは言えない。月人なる者は、穢れ無き月に住む者なれば、死は遥かに遠い。永琳に言わせれば生きておりかつ死んでいるという。輝夜にはそこまで複雑な概念的理解は不可能であるが、月人に死は無かれば、殆ど不老不死に変わらぬということは理解し得る。なれば、蓬莱の薬は月人にとって何ら意味を為さぬ。
しかし後の話に、輝夜は思わず息を呑む。玉兎曰く、彼の薬を飲めば即ち罰せらるという。不老不死を欲するという行為そのものが穢れにして、蓬莱の薬を服せばもはや月にはおられぬ、というのである。その代表が嫦娥。嫦娥は夫に与えられたはずの蓬莱の薬を自ら飲み干し、大きな穢れを背負った。彼女の幽閉せらる所以は、夫を殺し王者たらんとしたからではない。蓬莱の薬故の穢れである、という。縦い輝夜であろうとも、この薬を飲めば必ずや罰せられる。或いは地上への流刑さえありえるだろう。
その玉兎の言は、然も恐ろしきことがあるまい、という調子。しかし輝夜にとって、その言はむしろ魅力的である。蓬莱の薬とは、不老不死たる以外に、何の効用とて持たぬ薬。なればそれは輝夜に地上へ下る道を開く夢のような薬である。飲むだけで、地上に下ることが出来るのだ。それまで全く興味のなかった蓬莱の薬は、一躍輝夜の知的好奇心の対象と化した。
地上に下ること能わぬ所以が、未だに輝夜には理解できない。永琳にしても他の玉兎にしても、地上は穢れておるが故に下ることならぬ、としか言わないのである。永琳やツクヨミがその地上出身であり、つまるところ月に住む者全てがその地上に由来を持っていることを輝夜は知っている。また永琳が時折話す地上のことは、一聞するに非難しているが如く聞こえると雖も、そこにはいくらかの懐郷が見える。永琳の語る地上は、決して穢れた暗い処ではなさそうなのである。しかしそのことをいくら訴うとて、皆は少々複雑な顔をして、やはり地上の穢れを述べるのみ。輝夜にとっては却って地上への憧憬深まるばかりである。
もし地上に下ること叶えば、輝夜は姫ではなくなる。地上で如何なる扱いを受けるとも知らぬ。然れども、よもや姫たるままではあるまい。もっと気楽な生活を行うことができるだろう。なれば、自分は姫ではなく輝夜となれるのではないだろうか。斯く考える時、輝夜は蓬莱の薬を欲してやまなくなる。一刻も早く、この息苦しき月を離れたい。
かくて、輝夜はそれとなく永琳に蓬莱の薬について問う。現在どこに存在するのか、如何にして作られるのか、作用は如何なるものなのか、原理は何処にあるのか。平時より、興味の持ったこと纏めて永琳に問う輝夜のこと。輝夜が偶々蓬莱の薬に興味を持ったとて、永琳は然して違和感を持つこともあるまい。
しかし永琳の返答にて知るは、それが極めて手に入れにくい代物、ということのみ。蓬莱の薬を作るのには膨大な時間と労力を要すという。即ち、五十以上の誘導体を経て、しかも反応自体も収率も五割を切るものが殆ど。その反応も難条件ばかりという。故に他の薬と比較にならぬ程の高価な品であり、普段は在庫も全く存在しないという。必要になって初めて薬を作るのだそうである。永琳の薫陶篤ければ、その製法は輝夜とて決して理解できぬものではないが、だからこそ製薬が難事たることもわかる。凡そ輝夜が永琳の助け無しに製薬へ着手したところで、如何程の年月がかかるかはまるでわからぬ。終ぞ製薬をし得ぬという可能性すら――殆ど月人の寿命は永遠に等しいが――考えられる。独力を以て蓬莱の薬を手に入れる選択肢は、輝夜には存在していないようであった。そしていくら永琳であろうとも、確たる理由もなく蓬莱の薬を与えてくれる可能性は、殆ど存在していない。つまり現状では、蓬莱の薬を手に入れる方法は一つも存在していない、ということになる。
輝夜は悔しくて仕方ない。目の前に、地上に行く為の手段が提示されている。そしてそれは、自分にとって偉大な師であり、誰よりも親しい従者である永琳が鍵を握っている。しかしながら、その手段を手に入れることは不可能である。輝夜からすれば、目の前に餌が置かれながらそこに届かぬという状況に等しい。生殺しの状態とさえ言えた。
漆
蓬莱の薬を手に入れることは殆ど不可能であった。姫たる輝夜とて、如何様ともならぬ。かかる状況に於いて、拘泥の愚たるは輝夜にも理解できる。少ないとはいえ、他に地上に行く方法を考え直せばならぬ、と輝夜は理性的に思っていた。
一方で、やはり蓬莱の薬に希望を持ってしまうこともまた事実である。それが手に入らぬとはいえ、目の前に手に入れるべき者がおり、決して不可能ではないことを示している。すでに解決法が前に存在しながら、敢えてそれを避けるのもまた、愚たるのではないかと思えてしまうのである。あくまで蓬莱の薬を手に入れるのは非現実的であると理解している。理解してなお、抑えきれぬ思いがある。
永琳より蓬莱の薬について聞きてより数日。輝夜は様々に考える中で、自らの能力のことに思い至った。
月人とは、神である。既に信仰を失って厳密には神ならぬも、しかしその所以を地上の神に求むれば、月人もまた神たる側面を多く持つ。輝夜も又例外でなく、一つの能力を持っている。それが須臾と永遠とを操る能力、刹那に関わる能力である。
時の流れとは連続ではない。ごくごく微小な時――それを刹那という――の積み重ねが、一見連続するが如きのみである。走馬燈が静止齣の積み重ねながら、連続するものとして認識されると、等しき話。走馬燈に於いて一齣以下の時の流れを捉えられぬが如く、現実世界に於いて刹那以下の時間は測ること能わず、零に等しい。走馬燈での一齣の長さに当たるその刹那の長さを、輝夜は操ることができる。刹那を極限に延長すれば永遠とて刹那以下となり、以て感覚せざる須臾となる。或いは、刹那を極限に短縮すれば須臾とて刹那以上の時間の集まりとなり、以て限りなき永遠となる。刹那を弄ることはまさに時そのものを操る能力。これについては、永琳が一際詳しく理論を説明してくれた。
蓬莱の薬とは則ち、魂の時を止めてしまうに等しいものである。時を止めれば変化することもない。変化せねば老いず死なず、となる。実際に永琳の語った蓬莱の薬の理論は、魂の固有時を完全停止することによって変化を拒否し、以て不老不死と為すものであった。
さて、この能力を魂に適用できはしまいか。魂の固有時を刹那以下の時間の集まりと為せば、その固有時の進みは零に等しく、時間を止めたにも等しくなる。魂の時止まれば、不老不死となるのは既に永琳が示してくれている。
輝夜はここに、初めて自らの能力に感謝した。刹那を操る能力は、その実それほど役に立ったことはない。元々月とはほぼ時の止まったが如き場所。輝夜の能力とて昼行燈に過ぎなかったのである。
自らの能力の用うべきことに気付くや、輝夜は永琳の部屋に駆けこんだ。時は深夜たれば、甚だ無礼は承知である。普段ならば、礼儀の煩い永琳に此くの如き無礼を働くことはない。しかしこの発見を前に、輝夜は止まることができない。それにその無礼を冒す価値を、この発見は持っていると考えたのである。永琳にとって蓬莱の薬が容易に作れることは利益であるだろうから。そして、地上への道が開くかもしれないのだから。
永琳は最初こそ機嫌を損ねたが、輝夜の話を聞くや態度を一変させた。自分の才能を使えば、蓬莱の薬はもっと簡単に作れるのではないか、と輝夜が問うやいなや、永琳ははっと瞳を丸く開き、それから輝夜を放置して計算を始めたのである。そして輝夜が何かをする間もなく、端にあった一枚の紙に製法を書きあげていた。余りの速さに、輝夜は改めて永琳の恐ろしさを認識することになる。やはり月の賢者は、この世に双び無き天賦の才の持ち主であった。
それから数日の後。永琳はあっさりと蓬莱の薬を作り上げた。能力を用いるために輝夜が手伝いを行ったとはいえ、殆どの工程を永琳が一人で仕上げてしまった。その手際には輝夜は目を丸くする他ない。永琳より工程を聞いた際には難事極まり無しとの印象を持っていたにも関わらず、それを永琳は流れるように進めていった。自分でもできる気がしてくる程の。しかし冷静に考えてみて気づく。輝夜では手も足も出ぬ工程ばかりである、と。
そうして、輝夜の前には蓬莱の薬が現れる。十日ほど前には高望みの品に他ならなかった蓬莱の薬が、目の前に存在している。それは輝夜にとって半ば理解に苦しむ現象。目の前にあるこの薬が本当に蓬莱の薬である、ということが信じがたい。何より欲しながら手に入れること能わざるを突き付けられた薬が、自分の目の前の薬である。そのことが輝夜には殆ど夢の如しであったのだ。
その薬は、目の前で虹色に輝いている。眺めれば眺めるほど蛋白石の如く複雑で深い色を見せる。見ているだけで自然と飲んでしまいそうな、不思議な力を持っているように輝夜には感じられた。それがはたして不老不死の魅力であるのか、それともその薬自身が持つ魔力であるのか。輝夜にはわからない。
ともあれ、目の前にある薬が地上へ行くための秘薬たるには違いないのである。輝夜はとりあえず、手にとってみた。
捌
薬を飲んだ実感を、輝夜は持てない。月人には寿命なるものが存在しない。なれば不老不死の薬を飲もうが飲むまいが輝夜にとっては何も変わることないのである。本当にこれで地上に行けるのだろうか、という疑問さえ輝夜は覚えた。ひょっとしたら気付かれすらしないのではないか、と思えるのである。
改めて実感を与えてくれたのは、永琳の部下の玉兎である。彼女は輝夜を見るや、顔を真っ青にして部屋から駆け出して行ったのである。その顔色の変わり様たるや、まるで月食でも起きたかの若き血の退き様である。いっそ輝夜の方が彼女の心配をしたくなるような有様。しかしそのような玉兎の反応を見てはじめて、輝夜は自分が大罪を犯したという実感を得ることができていた。自分はもはや月にはいられないのだ、と。
間もなく部屋には軍所属の玉兎が押し寄せ、輝夜は永琳を一目垣間見る暇もなく捕えられ、牢へと押し込まれた。永琳に一言伝えることができなかったことだけが、輝夜にとっては心残りである。
蓬莱の薬を飲むことは、何よりもの大悪であるらしかった。牢に入れられて間もなく、輝夜の刑は決まる。曰く、処刑である、と。穢れを嫌う月都に於いて、死は大穢たるとて何よりも忌避される。されば処刑とてよほどの悪人でもなければ執行されること無し。輝夜の知る限りは無かった。それを不死の人間に執行せんとは笑止としか言えぬ。蓬莱の薬を飲むことを斯くも忌避するのは、月人共が羨ましいからではないか、とさえ思った。
処刑は月都結界の外にて行われるとて、輝夜は後ろ手に縛られたまま引き出された。処刑場の周りは、見学の月人や玉兎によって既に混雑を来す。その様に、輝夜は思わず嗤った。穢れが嫌いと嘯きながら処刑となればいち早く集う。変化を嫌って月に住みながら一事起きれば見学を決め込む。なんと欺瞞的な者共であろうか。或いは憐みを、或いは軽蔑を、それぞれの顔に滲ませる。どれも表面的でなんと醜いことか。輝夜は漆塗りの如き黒い瞳で以て、月人共を一瞥した。死を嫌う者共が殺すというなら、殺されてやろうではないか。こんな場所にいるのは、月人としてこちらから願い下げだ。
ふと永琳と目が合う。少し透き通ったように見える、灰色の瞳。その目だけは、有象無象共と異なる、もっと真摯な思いを浮かべていた。ただ只管に、自分のことを心配してくれている、そういう目である。永琳は自分のせいでこんなことになった、とでも言いたげだった。しかしそれは違う。断じて違う。輝夜は、自分の意志で蓬莱の薬を飲んだに過ぎない。さらに言えば、永琳を嵌めて蓬莱の薬を作らせたのだ。だから永琳に謝るのはこちらの方であって、永琳が謝ろうとするのは筋が違うのだ。
せめて、とばかり輝夜は永琳に微笑んだ。これまで様々に世話になりました。永琳のおかげで自分は立派な輝夜になれたと思います。騙してごめんなさい。本当にありがとう。さようなら。
ふと、永琳の瞳から一筋の光が流れたような気がした。しかし、それが何かを考える前に、輝夜の首と胴は離れた。
玖
次に気付いた時、輝夜は地上であった。とは言ってもそれに気付いたのは、だいぶ時が経って後。然したる意味があるようにも思えぬが、輝夜を態々子供にして地上に送ったらしかった。故に、自分が地上にいることや月人であるということを知ったのは、讃岐造夫婦に育てられてしばらく後のことであったわけである。
地上の文物も景色も、全てが輝夜にとって新鮮であった。近くの竹林周りにあるもの全てを輝夜は知りたがる。その点で輝夜は、子供には違いなかった。長く子の無かった翁媼とも、輝夜に対してはとても優しく、輝夜がさまざまな問いを発するたびに丁寧に答えてくれた。そればかりか自らの非学たるを憂え、近隣に居を構うる三室戸斎部秋田なる学識者にも話を付けてくれた。秋田は大層の識者であり、地上のことを少しでも学ばんとする輝夜にはまさにうってつけの人材であったといえる。
輝夜は月の姫である。その姿は夜に輝く珠の如し。穢れを纏わぬその姿には華とて羞らう。然れど、美貌のみが姫たる所以に非ず。蓋し、姫なるものは上に立つ者にて、むしろ美貌よりも賢知を要す。たとえ美しと雖も、愚なれば美とて匿るるもの。その点、輝夜はやはり姫であった。その思考は並ならず、対話すれば当意即妙。風流を解し、詩文に難は無し。和歌とて習えばみるみる上達した。ゆえに秋田の知識思考に至るのも、そう時間はかからぬ。ものの数か月で、地域有数の識者であった秋田は、教えるものを失った。
かかる状況に陥って、秋田は素直に諦めた。秋田は都の貴族識者へ、積極的に輝夜を紹介せんとしたのである。その秋田の行動は、輝夜にとって有難いものであった。自らをたやすく追い抜かれた秋田は決して良い思いを持たぬだろうことは、輝夜にも容易に想像できる。それでいながら、秋田が自らを独占しようとせず、また僻んで貶めようともせぬのは、偏に秋田の人徳といえるのだろう。地上の人は穢れを持つが故に醜いと言われたが、斯様な様を見ればむしろ月人の方がよほど醜い、と輝夜は月への軽蔑を一層強める。
とはいえ、秋田の紹介のみを以て都の諸卿が輝夜を受け入れはせぬ。輝夜とて一人の翁媼の元の娘に過ぎざれば、所詮は卑人とて見向きとてされぬ。そのようなある日、戯れにある貴族がひとつの歌をよこした。彼からすれば鄙娘を哂わんとしたのであろう。かかる歌はそれ程良い出来とも思えぬ凡作なれど、なんとなしに輝夜は、賦を選文して返した。その賦こそ、とても卑人とて貶めること能わざる傑作であった。貴族共は屈原宋玉も如かざるとて彼の賦を噂し、その名を知られた輝夜には、忽ち多くの詩歌文が押し寄せるに至った。
それから幾許ならず、輝夜は上流の貴族に混じって詩歌文の交換を積極的に行うようになる。輝夜の作は典拠こそ少なかれど、描く情景といい読み上げた音といい、孰れも素晴らしきもの。その才は上流の貴族たちの間に入り得るものであった。むしろ無学な下級官人の手に及ぶところに非ず、自ずと相手は貴族でも最上級の者――五人の大臣、そして帝と限られた。斯様な状況におればこそ、輝夜とて自由に書物を手に入れることができる。詩歌文のやり取りに交えて輝夜は盛んに書を借り、読み漁った。地上の者が如何なる考えを持つのか、少しでも知りたかった。
輝夜は、ここに改めて永琳へ感謝を送った。永琳が様々な知識――それは地上のものさえ含んでいた――を教授してくれたからこそ自分は貴族に認められた。自律せよ、礼を行え、と叩き込んでくれたからこそ、現在貴族とのやり取りも臆面なく行える。則ち、自らが能く此くの如き身分に居るは、ただ永琳の教育の賜物に他ならぬのである。もし永琳の教育無くんば、好奇心を埋めること能わず卑賤の身に卑屈と化して潰れていたかもしれぬ。
彼らの送るは、決まって恋の歌であり、恋の詩であり、恋の文である。輝夜は輝夜で気の有るが若き艶文を返す。しかし輝夜はちゃんと知っている。歌を送ってくる貴族たちが、一人とて本気ではないということを。やり取りをする大臣は孰れも老人ばかり、新たに妻を迎える歳でもあらぬ。唯一、藤原史なる男のみが若いとはいえ、彼とて疎かにし得ぬ高貴な女性を妻に迎えれば、仮に本気ならばこんなやり取りはできぬはずなのだ。まして帝たる者が、表だって斯様な卑賤相手を口説くこと能わず。畢竟、これは才気煥発で当意即妙、かつ風流な答えを互いに交し合う、高度な遊びでしかない。それを理解していなければ、彼らとのやり取りをすることはできぬのだ。
超一流の貴族的交流を難なく行えてしまう点で、やはり輝夜は姫である。しかしその一方で毎日讃岐造の家で、翁媼を手伝いながら気ままに普通の生活を送る。そこではあくまで輝夜は輝夜である。これほど素晴らしい生活はないかもしれない、と思えた。
拾
ある満月の夜である。平素の如く、書簡への返書を考える輝夜の元へ一枚の紙が舞い降りた。受け取ったそれは輝夜を戦慄させるに足るものである。曰く、期日を以て月へと召喚す。逃げれば則ち厳罰に処す故、覚悟いたすべし、と。最初は悪戯に過ぎぬ、と思った。しかし輝夜の月人なるを知る人在らねば、悪戯すること能うまい。次に脅しと思った。いくら月都とて精鋭たる地上交渉担当以て、ただ輝夜一人を回収するほどの手を煩わしはせぬだろう、と。しかし輝夜は他に例無き重罪人なれば、ありえぬとは言えぬ。現に先例たる嫦娥は、捉えられ月に幽閉される。となれば輝夜はこの内容を事実と断じる他なかった。
だが輝夜は月に帰りたくはない。輝夜として暮らしつつも自らの好奇心・学究心を満たすに足る現状を壊したくはない。再び不変にして不毛、ただ姫たらねばならぬ月には二度と戻りたくはなかった。
故に輝夜は、帝や大臣に嘆願することを考えた。彼らを以てすれば国兵とて出だしてくれるのではないかと。しかし、永琳麾下の使者に地上が相手し得るとも思えない。次に、逃げることを考えた。しかし、わざわざ逃げれば厳罰と書いてある以上、探索するに違いない。輝夜は月から逃れる手段を只管に考えた。もはや先まで考えていた書簡への返歌なぞ、頭の隅にすら存在しない。月より逃れねば自らは立ち行かぬと、輝夜はそう思えたからである。
気付けば、月は遥か西へと消え、代わって東より日が昇る段となる。しかし輝夜は終ぞその法を見つけることはできぬ。早朝より縁に座る輝夜へ、怪訝そうに媼が話しかけるに至り、輝夜はもはや手の無き事を自覚せねばならなかった。自らはもはや如何ともし得ぬ、と。
輝夜は処刑を以て、月の呪縛より逃れたと思った。もはや月に囚われること無く永遠に地上に暮らせばよいのだ、と。されど現実は異なるということを、飲み込まねばならなかった。輝夜は未だ月の縛のうちに居る。蒼天の下と喜ぶ其処は、未だ籠の内に過ぎなかったのだ。
輝夜はこれ以上足掻こうとは思わぬ。輝夜は永琳の才を知り、彼女の育てた虎の子の月の使者部隊を知る。永琳の伯楽たるを示す月一の精鋭たれば、月の内にても勝つ者無く、まして地上であれを抑えられるはずはなく、それどころか逃れることさえ覚束ぬ。既に輝夜には諦める以外の選択肢なぞ残されていないのだ。ここに輝夜は、絶望の淵に沈む。半ば永琳を騙してまで目論んだ月からの逃亡は、完全なる失敗に終わった。永遠の命とて、地上に流さるは永遠ではなかったのだ。束の間の楽園を見せて後、不毛の永遠の中に叩き込まれるのである。不変の中で、徐々に永遠に腐り続けるのみ。如何なる抵抗をなしたところで、この待遇はおよそ変わらなかったのだろう。たとえ蓬莱の薬を飲んだとて、輝夜は輝夜たること能わなかったのである。
是に於いて、輝夜は部屋へと引き籠った。それまでは盛んに外出もすれば、翁媼を手伝い様々な作業もした輝夜であったが、すべてやめた。ただ一室に籠ると一日の大半をそこで過ごしたのである。勿論翁媼への後ろめたき気持ちもあれど、月に帰らねばならぬ状況にあっては却って関わりを深める方が危険に過ぎる。しかし、翁も媼も心配こそすれ、輝夜を疎むことなく相変わらず優しく扱ってくれた。それがまた、輝夜には嬉しくもあり悲しくもあった。自らの所業の惨さを知ればこそである。
貴族共へは、突如として難題を発した。自らの知る限り、決して解くこと能わぬ難題である。微妙で風雅な駆け引きを以てよしとする文のやり取りの中で、突如としてあり得ぬ難題を出すは唯の無粋。それを知ればこその行いであった。さすれば彼らとて、見切りをつけるに違いない、とそう考えたのである。
そうして、地上との未練を絶とうとした。何を為しても無駄なら、もはや何を為すこともしない。その方がずっとよい。
されば、五人の貴族が難題を解き始めたという報には、輝夜は仰天した。難題の提出によって、輝夜は全ての通信を断ち切り得た、そう思っていたからであった。されど現実には、より泥沼へと縺れさせただけであった。輝夜は理解できぬ。彼らは国の根幹であり、一族の総帥でもある。たかが卑賤の女一人のために動くなぞ軽挙妄動にすぎぬのだ。まして老人である彼らが、何ぞ敢えて女一人を娶らん。輝夜には自らの才の自信こそある。然れど後ろ盾も無く孤独なる女が貴族の妻に値するとは思えぬ。
とはいえ、解き始めたとあれば致し方なし。輝夜は心を鬼にするしかなかった。未練を残したくはなかったし、彼らが月との関わりを持たぬ方が良いと思ったからである。輝夜はありとあらゆる手段を使って、難題を解いたと持ち込んだ彼らを打ち払った。難題捜索の挙句に人死にが出たと聞いても、無視した。これに心を痛めて彼らを受け入れることは、彼らを危機に晒すことだと思ったからだ。ところが斯様な仕打ちにも、地上の者は引き下がらぬ。近衛府や衛門府の軍兵が防衛に来るに至り、輝夜はもはや茫然と立ち尽くすしかない。ここに大臣達の思惑も理解する。後ろには帝がいるに違いない。
輝夜は、半ば嬉しかった。輝夜が地上最高位の現人神よりも認められ得ることがわかったからだ。しかし、それ以上に絶望した。そんな地上に、自分はもう、いられない。
拾壹
軍兵の来たりてより数日。使いは来た。地上の精鋭とて、月の精鋭には歯が立たぬ。自然と戸が開き、悠々と月の使いが入ってくる。紛うこと無き、永琳麾下の最精鋭。孰れも見慣れた顔ばかりであった。しかし、その中の人影に、輝夜は心揺さぶられる。曇りなき銀の髪、特徴的な灰白の瞳。
自らの師たる八意永琳がいた。
ふと、その瞬間に、輝夜は希望の生まれたことを知る。使いが永琳の部下のみであれば――たとえ筆頭の綿月姉妹であろうと――交渉の余地は持たなかっただろう。しかし永琳であれば話は別。月の賢者であり月の精鋭の長である永琳ならば、あらゆる決定権限を持つ。或いは、輝夜を地上に留め置く決定も下り得ると、そう思ったからだ。
永琳は、決して手に入らぬ蓬莱の薬を作りて地上へ下りる機会を作ってくれたのだ。籠から解き放ってくれるのも、永琳を於いて他にあるまい。
永琳は一人輝夜の部屋に入る。その優しげな顔は少しも輝夜を責めてはおらぬ。ただ月へと帰ろう、と告げた。月での地位は身を賭して回復する。だから心配はするな、と。永琳は、まるでわかっていない。地位――姫に戻ったところで、なんとなる。自分は姫として腐るだけではないか。故に告げる。最早月には何の未練もない。変化無き月に居るよりも、地上で様々なことを体験しながら生きる方が、よほどいい。
永琳は、そして部屋の外に立つ永琳の部下たちは、一様に絶句していた。永琳とて驚くのだな、と輝夜は冷静な顔で見つめる。永琳ならとうに気付いていると思ったが。不変ほどの悲劇はどこにもない、ということを。しかし、わからないならそれはそれでよかった。輝夜は、固まったままの彼女たちに笑う。見えてきた希望には、自然に笑いを零すしかなかったのである。これまでの絶望が、嘘のようであった。
輝夜の笑顔に、永琳は難しい顔のまま告げる。姫はもとより地上へ下りるつもりだったのですか、と。それに輝夜はもちろんと答えた。永琳を騙したことは申し訳なかったが、下りるにはそうするしかなかったのだ、とも。永琳は再び言葉を失った。
その永琳に、輝夜はさらに告げた。この地位に居るのも難しくなってきたから、讃岐造の家からは抜け出そうと思う、と。斯くも帝より御恩を蒙りながらも悉く無視している現状で、そのまま暮らせると思う程輝夜は楽観してはおらぬが、暫く身を隠せば、再び此の地位を得ることはたやすかろうとも思っている。しかし輝夜にとってこれが主題ではない。続けて輝夜は言い放った。一緒に地上で隠れて住まない?
永琳は月の賢者である。何よりも月を思い、月のためなら何をも躊躇わぬ者ならば、決して月を捨てない。その計算の上での、一言である。自分は決して月へは帰らない。そういう決意を、輝夜は永琳へとぶつけた。
その一言に、永琳は黙り込んだ。その瞳は相変わらず輝夜を捉えているが、先ほどとは色が違うのではないか、とさえ輝夜に思えた。灰白の瞳は透き通ったようで、切れ味鋭い黒曜石の剥片を思わせる。背に何か、おぞましきものを背負っているようにも思える。どちらにしろ、月の追跡から逃れるためにここを離れなければなりません。そう言った永琳の声もまた、冷え切っている。
あまりの永琳の変わり様に、輝夜は不安を覚えた。本当にそこに居るのは、八意永琳なのだろうか。
拾貮
目の前に広がる光景が、輝夜には理解できない。ただ殺戮の場が、そこには広がっていた。
永琳に懇願して蓬莱の薬を二つ、こっそり讃岐造家に置いてきた。これまでの感謝をこめて、一つを翁と媼に、一つを帝に。不老不死こそが最大の贈り物になると、輝夜は考えたのだ。その間の変化である。何が起きたのか、輝夜にはわからない。一つ言えるのは、そのわずかな間に永琳が使者を殺し始めたこと。それだけだ。
永琳の力はあまりに圧倒的。弓を持つ永琳を前に、彼ら彼女ら、孰れも反撃一つすること能わず斃される。永琳の得意な結界術か、使者達は身動き一つ取ることなく血肉の塊と化していく。かくて永琳は傷どころか返り血一つ浴びず、僅かな間を以て使者を鏖殺した。輝夜の、目の前で。
何故殺さねばならなかったのか。輝夜はやはりわからぬ。確かに輝夜の話を聞いていたには違いない。しかし態々誅戮する必要があったかどうか。これから月へ帰るなら、使者がおらぬは不利ではないか。そこまで考えて、輝夜は恐ろしいことに気付く。もしやと蒼褪める輝夜に永琳は近づくと、手を頭の上に乗せた。そして、言う。もはや心配はない。隠れ家もすでに用意できている、と。その言葉は、輝夜の不安を増大させるに十分である。あまりにもあまりな想像に、輝夜は一言も発することができない。
その沈黙を、この殺戮の衝撃故とでも取ったのか、永琳はその腕で以て輝夜を抱きしめてくれる。ただされるがままに、輝夜は永琳へ縋り付く。その思考はしかし、錯綜して他のところにある。
そのまま暫くして、ようやく輝夜は一言、永琳へと問うた。永琳は大丈夫? と。それは、永琳を気遣う言葉であるが、それ以上に自らの想像の是なるや非なるやを問う、問いである。すぐに永琳は、返した。
「私は大丈夫です。ひめを、やっと拾えましたから」
ああ、と輝夜はここに自らの敗れたるを知った。永琳のおかげで、月からは逃れられた。それは間違いあるまい。永琳に能く対する者を、月に於いても輝夜は知らぬ。
しかし、しかし、だ。永琳のいる限り、輝夜は姫である。輝夜とはなりえない。斯くなれば、月から逃れても何の意味があろうか。
輝夜は悟る。自分は永久に姫であって、輝夜とはなれないことを。自分はずっと、姫でしかないのだ、ということを。
輝夜は、永琳に縋ってただ泣くことしかできなかった。自分の目論見を完膚なきまでに叩き潰されたことに。そして目の前に続く道の不毛なることに。自分が姫より逃れ得ると思っていた、無知で童な、自分に。
誰能昭闇、啓我童昧?
誰が私の闇を照らし得るだろうか。童のような蒙昧を、啓き得るだろうか?
――傳毅『迪志詩』