色不異空。空不異色。
  色、空に異ならず。空、色に異ならず。

 色即是空。空即是色。
  色、即ちこれ空なり。空、即ちこれ色なり。

『般若心経』










―― 黒き海に紅く ――










     ――赤錆色――

人の血、鉄を含むと曰う。錆の赤、則ち是、血の赤なり。


「む、そこにいるのはたれか?」
 一人の足軽が茂みを覗きこんだ。その向こうに何らかの人影を見たからである。
「返事を致せ、ぬし」
 被る陣笠は無数の傷があり、左側に大きな亀裂が走る。背にある旗差物も半ばで折れ掛かり、十二日足紋を染め抜いた旗も血飛沫に染まっている。胴丸もところどころ裂け、その間から傷口が垣間見えた。槍の刃はささくれ立っていて、脚絆は血と泥で固まっている。
「……」
 敗残兵の彼は茂みの無言に恐怖した。付近の住民は金目の物を狙って敗残兵を一人でも多く狩らんとする。自力救済原理の完徹する中世、軍勢に参加して少しでも生活を良くしようと奮闘する民あれば、近くの戦闘に敗れた兵を殺して生活を良くしようとする民もあり。自らもそういう風に生きてきただけに、彼にとって付近の人間は何よりも恐ろしかった。
「こ、答えろ!」
 彼はとうとう槍で茂みを突いた。戦に負けたとて彼は生きたいと思っている。何とか追撃を躱してこの島原から逃げ、肥前は佐嘉郡にある自らの村へと帰りたいという気持ちが全てであった。
 だが、そう思ったのが最期であった。槍を突いた刹那彼の首は何かに吹き飛ばされ、砕けたからである。最後に目に入ったのは、碧く光る島原の海であった。


 胴だけ残った兵の残骸をみて、永江衣玖は吐き気を催した。つい先まで物を考え動き意思を持っていたモノが既にただの有機物となり果てている。そして自分はこれを今から食糧にしようとしている。それが衣玖にとっては耐えがたき苦痛であった。
 衣玖とて龍宮の使いというれっきとした妖怪である。人を食べることは妖怪の義務であり常識であるから、衣玖もまた人を食べる。だが、衣玖は人を食べることを嫌悪していた。自らが妖怪であって人を食べるものであると理解してはいるが、それでも思考を持ち理性を持ち意思疎通すら可能である人を食べることが、衣玖にはどうしても受け付けない。空気を読むという能力が食べられる人の思考やらを衣玖に教えてしまい、それに同情しようものなら自らが野蛮に思えて仕方がない。そして自己嫌悪に陥るのだ。
 しかし衣玖は人を食べる。それはただ自らが凶兆であることを自己認識するためであった。
 龍宮の使いとは、起こるであろう災いを人妖へ教えることを職掌とする。ただ伝えるだけであり、その災いを軽減することも消滅させることもない。故に人妖は龍宮の使いが現れればそれを凶兆として嫌悪する。彼らからしてみれば龍宮の使いは凶事を運ぶ悪魔の使者に過ぎぬ。そして衣玖もまた、凶事を知りながらそれが起こり人妖が苦しむのをただ見ることしかできない。衣玖が伝えるような凶事は、当事者が努力したところでどうとなるようなことではないことがほとんどなのだ。凶事に遭う当事者は、或いは懸命に禍を躱すべく努力し、或いは衣玖の忠告を信じず、しかし共通して禍を前に悲劇に巻き込まれる。まして、そこへ衣玖が介入できるはずもない。
 だから衣玖は自らを凶兆であると認識するために、自らが何も変えられぬことを認識するために、人を喰らう。嘔吐し苦しみながら人を喰らい、自らが人を喰らうような野蛮で下種な存在で、人妖には凶兆にしかならぬような存在であると自覚するのだ。

 猛烈な吐き気と頭痛に襲われながら、衣玖は目の前の遺体から右腕をもいで齧りついた。すぐ目の前の島原湾は西日を受けて輝き、その向こうにある阿蘇の山は西日に赤っぽく鎮座している。その美しき風景と、野蛮で下種な自らとに、衣玖は涙を流した。龍宮の使いの身を恨んで。






 時は天正十二年。室町幕府の消滅に始まった天正も既に十二年を数え、既に織田信長は本能寺で横死し、その後を受けた羽柴秀吉は中国・四国・畿内・北陸を押さえて天下統一へと邁進しようとしていた。愚管抄をして「武者(ムサ)の世」と言わしめた長い中世は漸く終わりを迎えようとし、代わって近世への扉が開かれようとする転換期。天正十二年という年は、そのような時代の境界に挟まれた年であった。
 そして弥生二十四日、雲仙の見下ろす肥前島原の狭い湿地帯で大きな戦があった。後に沖田畷合戦と呼ばれるこの戦は多くの屍を撒き散らし、九州という島にもさらなる激動を齎す。








     ――鉛色――

  雲とて質量こそ有れ。重き雲、輒ち鉛の色をば帯びん。鉛、最も重き(かね)と曰う。


 水無月になると、衣玖は再び九州へと向かった。阿蘇山が噴火することを知らせるためである。今回もまた、ただ災害の発生を伝える"凶兆"。とはいえ、もはや衣玖にとっては何でもないことといえば何でもないことであった。衣玖はまだ龍宮の使いの中ではかなり若い方ではあるが、凶兆とて恐れられたのは一度や二度ではない。龍宮の使いとはそのようなものだという諦観だけが、衣玖の心にはあった。
 しかも、性質の悪いことに、衣玖は災害を起こす張本人も理由も知ってしまっていた。龍神から災害の発生を知らされ九州へと向かう途中に、阿蘇の神たる健磐龍命(たけいわたつのみこと)に呼び止められたからだ。
 彼が言うには、最近自らを祀る阿蘇神社の大宮司が自らの祭も碌にせず、俗の権力に捉われてばかりいる。神威を知らぬ者共が許せぬ、と。衣玖にとっては神の我儘としか言えぬような理由である。だが相手は阿蘇の主神、とても衣玖が口出しできぬような神であれば、衣玖はわかりましたとただ答え、人々に災いを知らせることしかできない。

 衣玖は阿蘇中岳の南、南郷谷にある高森へと降りる。三か月前に島原へ降りた時から比べれば随分と日差しが強くなったものだと思う。未だ梅雨は抜けきらない時期であり雨は降らないといえ、空は白く濁っていた。白く霞む向こうから阿蘇五岳が見下ろしている。
 高森に並ぶ集落と田畑。ふと衣玖が見下ろすと、緑に染まる田に囲まれる畔道で一人の老人が水の取り入れ口を弄っている。稲作が如何に大変であるかということを、稲作経験がないとはいえ、「空気を読む程度の能力」を持つ衣玖が察するのは難しいことではない。だが自らが伝える阿蘇噴火という災害は彼らのこれまでの努力を全て踏みにじるもの。そう考えた時、自らはやはり彼らの努力をたった一言で無に帰す凶兆でしかないのだな、と自覚させられてしまう。
 衣玖は鬱々として浮いていた。もし災いが起こることがなければ、伝えることで災いを防ぐことができるならば何であろうと投げだすのに、と呟く。だが呟いたとて何を変えられるというわけではない。衣玖の心が益々空しくなるだけであった。

 衣玖はひとまず一つの集落へと降りて行くことにした。伝えなければならぬのはいくら時間が経とうが変わらぬのだ。ならばさっさと伝えて戻るしかない。衣玖は人々が懸命に築きあげてきた南郷谷の田畑住居を見るのが嫌で仕方がなかった。あと幾許もせぬうちに壊れるのであるから。

 衣玖が集落の真ん中に降り立つと辺りで農具の手入れをしていた農家の女たちは手を止め、或いは衣玖をまじまじと見つめ或いは夫を呼びに田へと走った。だが、その誰もが衣玖を蔑むような恐れるような目線で遠巻きに見つめていた。人間(じんかん)に衣玖ら龍宮の使いが出ていくことは珍しいことであるのだが、阿蘇についてはその限りではない。阿蘇の山は余りにも度々噴火するが故に、しばしば龍宮の使いを見る機会があるのだ。そしてそれが凶兆たることも当然のごとく知る。
「一体何の用だ? また災いとか言うのか?」
 正面の建物から男の渋い声だけが聞こえた。戸をほんの僅かに開けてこちらを覗いているが、衣玖には目しか見えていない。
「ええ」
 衣玖は簡潔に答えた。
「まもなく阿蘇の山は火を噴くでしょう」
 感情を何も入れずに、至って事務的に衣玖は伝えた。
「それでは、以上です」
「ちょっと待て!」
 槍を持ちだした別の若い男が衣玖の後で叫んだ。
「また火を噴くのか? 去年の師走にも噴いたのにか?」
「ええ。噴きます」
 衣玖は一言告げた。それがここの住人にとって死刑宣告となりうることはわかっている。だが衣玖にはそれを伝える以外の手段は何一つとして残されていなかった。
「くそ、本当に凶事を運んで来やがった」
 若い男が一言吐き捨てた。それは心に刺さる一言であるが、傷だらけの心に一言刺さった程度ではもはや衣玖は動じない。無言で衣玖は浮きあがった。
「阿蘇の神に、あの凶兆を生贄とするのはどうだろうか?」
 誰が言ったのだろうか、衣玖が浮き上がったところでその声が響いた。
「そうすれば、神も鎮まるだろう」
 またか、と衣玖は思う。これも既に慣れたこと。これまで幾度人妖と争うことになったかも最早わからない。争い事は嫌いであるが、凶兆とて恨まれることを考えれば致し方ないと観念するしかなかった。
「無駄ですよ」
「どこがだ」
 住人達はそれぞれ武器を持ちだして衣玖を取り囲む。それでも所詮は人間、衣玖の相手となる所ではない。1人2人を倒せばよいだろう、と衣玖は勝手に思った。思って、自分が人間の集団との争いに慣れてしまっていることに気付く。そして自らを再び嫌悪した。
「観念して死ね!」
 一人の男が槍を突きだしてくるのを羽衣を使って受け流し、さらに羽衣で顔を打って失神させる。
「私と争っても無駄ですよ。私を倒しても災いは収まらぬのですから」
 失神した男を筆頭に、男らが次々と衣玖を仕留めようと武器を繰り出す。しかしそれはすべて、衣玖の羽衣に弾かれ絡め取られ、衣玖に僅かな傷すら与えることはできなかった。
「くそ!」
「それでは、さようなら」
 衣玖は再び浮き上がった。悲劇を伝えるのが仕事、衣玖はもう人間と関わる必要がない。
「逃がすか!」

 刹那、轟音が響き渡った。
 続いて、煙が僅か二間ほど先から朦々と立ち上る。

「……え」
 羽衣が本来の薄い桃色から濃い深紅へと色を変えていく。鋭い痛みが脇腹へと噛みつき、浮き上がった筈の衣玖の体は再び地に落ちた。
「やれ!」
 衣玖が体勢を立て直す暇もなく、次々と槍や刀が繰り出される。何が起きたか未だに把握しきれていない衣玖は只それに刺し貫かれるしかなかった。


 衣玖が次に目を覚ました時には、木で作られた護送用の籠の中であった。
 ひとまず、朧気な意識を懸命に動かして衣玖は自らの状態を確かめる。脇腹に鉛の弾で作られた創があり、あとは全身に七か所の槍創がある。他に小さい傷が全身くまなくあった。そしてその孰れの傷からも紅い血が流れ出している。その出血によって籠の中はまるで赤に染めたようになっていた。
 どうやら油断しすぎたらしい、と衣玖はぼんやり思う。
 一応、火縄銃とかいう新兵器が存在することは知っていた。そしてそれが、高速で鉛の弾を飛ばす兵器であることも知っている。しかし衣玖にとってそれは特に興味のある話でもなければ関係もない話だと思っていた。あの時点で火縄銃という武器の存在は全く頭の外にあった。そういう油断がおそらく、最大の敗因だろう。
「漸く目覚めたみたいよ」
 外から女の声が聞こえて、衣玖は重い頭を懸命に動かした。まるで割れんばかりの痛みが頭に響く。
「藤原さま、有難うございます。貴女がいて本当に助かりました」
「これだけ封印をちゃんとしておけば、いくら妖怪とて出てこないよ」
 座った姿勢を維持できない衣玖からは、長く白い髪とそれを束ねる赤縁の札しか目に入らない。
「そうですか。わかりました」
「それで」
 目の前の白髪が僅かに揺れる。
「これはどうするんだい?」
「阿蘇の大宮司さまの元へ引っ立て、阿蘇大明神さまへ生贄として捧げて頂くつもりです」
「そう」
 朦朧とした意識にある衣玖は、女の声から感情を読み取ることはできない。
「それじゃ、私はこれで失礼するよ」
「本当にありがとうございました」
 男の声が聞こえて、白い髪は視界の外へと消えていった。
「よし、大宮司さまのところへ行くぞ!」
 続いた男の掛け声に幾人かが答え、衣玖の入った籠は持ちあがった。その揺れが衣玖にはいたく気持ち悪い。だがそれに気を使ってくれることもなく、男二人が前後で籠を担ぎあげる。そして至って乱暴に、籠は宮司館へ向かって動き始めた。


 阿蘇の中心は、言うまでもなく健磐龍命を祀った阿蘇神社である。この阿蘇神社を取り仕切るのが筆頭神官にあたる阿蘇大宮司・阿蘇氏である。健磐龍命の子孫である阿蘇氏は代々神職として阿蘇の祭礼を司ると共に、俗世においても阿蘇地方の有力領主として大きな所領を持っていた。
 衣玖はひとまず、その阿蘇氏の館へと引きたてられた。

「龍宮の使いとは、また随分と厄介な物を手に入れてしまったのう」
 籠へ入ったまま白洲に引き立てられた衣玖を縁側から男らが見下ろしている。
「ははうえ、あれはなんじゃ?」
「あれは龍宮の使いという妖怪じゃ。あれは辺りに災いを振り撒く悪い妖怪故、惟光(これみつ)は触ってはならぬぞ」
 まだ年端もいかぬ子供が一人と、その母親らしき女性が一人、最も上座に着座している。惟光と呼ばれた子供は興味津津な様子で衣玖を見つめており、母親は軽蔑するような視線で衣玖を見つめていた。
「して、宗立(そうりつ)。これを高森の連中はどうして持ってきたと?」
 縁側に座る家臣団の中で筆頭の座に座っている男へ、母親が問うた。
「は、何でもこれを阿蘇の山へ捧げ災いを防いでいただきたいと」
 どうせ無駄なのに、とぼんやり衣玖は思った。だからといって逃げ出すことも出来ぬのがどうしようもないところであった。よほど強い封印らしく、未だに傷から血が止まらない。血が減り過ぎて衣玖はぐったりしている他なかった。
「そうか」
 どうやら実際にこの家を仕切っているのは母親と宗立という家臣らしい。
「宗立、捧げる意味はあると思うか?」
 彼女の声はどこか冷たさを感じさせるもののように、衣玖には思える。少なくとも彼女は衣玖のことを何とも思っていない様子があった。
「それは……」
 その問いに対して、宗立は言葉を濁した。
「遠慮せずともよい。答えよ」
「それでは、恐れながら申し上げます」
 宗立は入道頭を一度撫でると、決心した表情で口を開く。
「龍宮の使いなどという下賤を阿蘇の山に捧げて災いが収まることはなかろうと存じます。むしろ、それは阿蘇大明神さまを怒らせる結果になるのみにございましょう」
「そちもそう思うか」
 上座に座る彼女は扇子を開いた。
「して、どうすればよかろうかのう?」
「なれば、阿蘇を収めるに使うと信じておる高森の住人には申し訳ないことですが、大友に献上致しましょう」
 宗立はここぞとばかりに身を乗り出した。
「大友に?」
 彼女は聞き返した。
 大友というのは九州の中で随一の勢力を誇る大大名である。所詮阿蘇一円しか保持せぬ阿蘇氏は阿蘇の山の向こう側、豊後の大友氏の庇護下に入ることで勢力を維持していた。故に、大友氏との関係は良好に保たねばならない。
「左様にございます。龍宮の使いは非常に珍しきもの。大友に貢物として献上するには良きものでございましょう」
「なるほど。よかろう」
 宗立へ彼女は笑いかける。
「それでは、至急豊後へ……」
「いや、これは筑前に送ろう」
 彼女は宗立を遮った。
「豊後の大友本家に送るよりも、筑前におる戸次(べっき)どのの方が信用できよう。ならば、そちらに送るが良い」
 彼女の言葉に宗立は平服すると、急いで退出してゆく。
「はよ致せよ。このような穢れたものは一刻も早く神領から出さねばならぬ」



 再び衣玖は延々揺られて今度は北行することになった。先ほどの話によれば、今度は筑前博多へ送られるらしい。
 もはや衣玖にとってそれはどうでもよいことであった。血は今でも流れ出し、衣玖の生命力を奪い取り続ける。回復しようとする端から衣玖の生命力は流れてゆくのだ。そのため頭にはずっと靄が掛かっていて碌な思考も働かない。だが、籠が乱暴に揺れるたびに全身の傷、とりわけ未だ弾が入ったままの脇腹の傷が衣玖の神経へと襲いかかり、気を失うこともできない。衣玖はただ常時痛みに襲われながら、籠の中でぐったりとしていることしかできないのだ。日付の感覚もとうに失い、朦朧としていつ失ってもおかしくない意識を痛みによって無理矢理呼び覚まされながら、衣玖は籠の中で存在する。人間ならばもうとうに死んでいる程の所業であるが、妖怪、そして妖怪の中でも特に有力なものに位置する龍宮の使いなればこそ、まだ当分死ぬこともできぬ。
 衣玖の望みはとにかく現在の苦行から解放されることであった。そのためなら死んでも構わぬ。

 半分朦朧としていた意識が覚醒させられたのはどれほどの時を経たのちだったろうか。籠が突然地に打ち付けられたからであった。
「賊だ!」
 駕籠舁きの前を先導していた人間が叫ぶ。衣玖が見ると、籠の前を担いでいた人間の首元に矢が突き立っていた。
「これは阿蘇の連中! 皆殺しに致せ!」
「ここを抜ければ大友領ぞ!」
 衣玖の籠は打ちつけられて横向きのまま放置され、その周りでは甲冑武者たちが剣戟の音を響かせている。街道の半ばにも関わらず、辺りはすぐに戦場へと変わった。衣玖はそれを、霞む視界でぼんやりと見つめる。状況の把握が上手くできていなかった。
「ぐぁ」
 ガツ、と籠が激しく揺れる。見れば一人の武者が籠へと叩きつけられていた。後姿故にわからぬが、籠の格子への血の付き具合から見るにどこかしらに傷を負っているらしかった。
「死ね!」
 その向こうから別の声が響き、ずぶ、という音が響いた。同時に衣玖の顔へ血飛沫が掛かる。正面の後姿は断末魔を上げてそのまま動かなくなった。
「ふん!」
 直後、籠が蹴飛ばされた。おそらく死体の向うにいた武者が槍を引き抜くために死体を蹴り飛ばしたのだろう。その反動で籠は一挙に転がってゆく。衣玖はその衝撃に漸く意識を失った。


「……あ」
 目覚めて一番声を上げてみて、自分の声と思えぬほどにか細く小さい声しか出ないことに、改めて衣玖は驚く。
 辺りは下草の生えそろった森。斜面になっているが上も下も木々に遮られて見通すことができない。少し上に、壊れた護送籠があることから判断して、どうやら衣玖は籠が木にぶつかって壊れた拍子に外へ投げ出されたらしい。上の方がどうなったかはもう全くわからない。そもそもどれくらい転がり下ったかも知らなかった。
 どうしようか、と衣玖は少し思った。自分の体力と状況からして、上の街道まで登りきれるかどうかは甚だ怪しい。そもそも上に登ったところで再び護送され、ゆくゆく見世物にされるなり薬として砕かれるなりされるだけなのだろうから、上に行っても仕方はない。
 あの封印の札は、衣玖を生かさぬよう殺さぬように上手く作られていたらしい。その札の効果が切れた今、籠の中に居た時よりもずっと激しく生命力を消耗していると、衣玖は感じている。
 衣玖は自嘲に笑みを浮かべた。阿蘇神の頼みで人間の集落へ災いを伝えに行って自らの失態で捕えられ、阿蘇神の生贄にされるかと思えば人間の贈り物に使われ、かと思えば斯様な森の中で命を落とそうとしている。ある意味でとても龍宮の使いらしい死に方だな、とも思った。災いを世に振り撒き振り撒き、故に人に嫌われて野垂れ死に。災いを与えることしかできない龍宮の使いの死に様には野垂れ死にが丁度よいだろう。
 しとしと、と雨が降り始めていた。木々の緑が雨にけぶって薄く滲んでいる。その様子がいたく幻想的であった。死の間際にこの光景を見ることができるとは、少しは救いになったかな、と衣玖は笑った。
 衣玖の頭の中もぼんやりと全てが滲んでいる。体中が眠れという信号を衣玖へと送っていた。
 最期の光景を目に焼きつけながら、衣玖は眠気に身を委ねることにした。二度とこの世で龍宮の使いとして目覚めることがないと信じながら。






「故に、阿蘇大宮司さまの書簡のみを何とか届けた次第。誠に申し訳ございませぬ」
 筑前立花山。日本一の国際港・博多を見下ろすこの山の麓の屋敷で、一人の男が平服している。
「ふむ、龍宮の使いとな」
 そして上座に一人の老人が座っている。年はすでに60を越え、或いは70代かもしれぬ。足が悪いのか、胡坐を組むことができず前方に右足を投げだしている。入道姿であるがその顔は厳しさに満ち、ギョロリと大きな目は炯々然として凄みを感じさせた。
「本来ならばその龍宮の使いを戸次さまにご披露するつもりでありましたが、道中筑後で大友家に仇為す賊に襲われ……」
「なに、阿蘇という遠路から来れば斯様なこともあろう。致し方なきことよ」
「申し訳ございませぬ」
 男は一度も顔を上げることができない。だが老人は大して機嫌を崩した風もなく、むしろ上機嫌な雰囲気で隣に座る壮年の男の方を向いた。
「のう、縁起が良いと思わぬか、紹運(じょううん)?」
「は」
 唐突な問いに、紹運と呼ばれた男は上品な顔立ちを顰めた。自らの上司に当たる老人が何を言っているのか、意図を掴み損ねた、という表情である。
「龍宮の使いは凶兆。運ばれてきた凶兆が敵の手に渡ったとは。これほど縁起の良いことはない」
 老人は呵々大笑した。最初は恐縮していた使者も紹運も、その派手な笑いに釣られて思わず笑いをこぼす。立花の城の座敷は、一時の笑いに包まれた。

 この老人、氏を戸次、通称を孫次郎、名を鑑連(あきつら)という。出家して号を麟伯軒道雪(りんぱくけんどうせつ)。後世、「立花道雪」と呼ばれ称賛されることになる彼は、衰退する大友家にあって一人輝く戦国きっての猛将である。








     ――藍媚茶――

  雲の合間より日の少し差すは、鉛の薄まる色ならん。


 衣玖の正面にあったのは板であった。木目の通った杉の板。一体それが何かということが衣玖にはわからなかった。もし死んだのであれば前にあるのは水面であるはずで、鎌を持った死神が隣で船頭をしてくれているはずなのだ。
「あ、気付いた」
 幼い女声と共に、衣玖の視界は少女の顔に占拠された。その顔はまだあどけないが、意思の強さが垣間見える。
「?」
 一体どういうことなのか、衣玖は軽く考える。これまでと違って割合衣玖の頭脳は働いている。少なくとも、状況整理するのはそれほど難しくなかった。
 まず、自らの身を確認してみる。傷はまだ残っているが全て丁寧に手当てが施されており、ボロボロになっていた羽衣に代わって奇麗な白木綿の半襦袢を着ている。きちんと綿の入った布団の上に寝かされ、その枕元に少女が座って衣玖を眺めている。
「私……?」
 衣玖は起きあがろうと腹筋へ力を入れた。しかし、起きあがることはできない。相当に体力が落ちてしまっているようだった。
「そんな、無理しないで。貴女、酷い怪我だったんだから」
 少女の手が、枕から僅かに浮いた衣玖の頭を撫でる。
「えっと、一体?」
 衣玖の声はまるで蜻蛉の羽音のようにか細い。それが衣玖の精いっぱいであった。
「ここは筑後は黒木(くろぎ)の猫尾城、私が運び込んだのよ」
 彼女は衣玖の額に乗っている布をつまみ取ると桶に入れて絞り、再び衣玖の額へ乗せた。
「私が野駆けしてたら、貴女が倒れてたの。もしもう少し発見が遅れていたら、死んでしまっているところだったのよ」
 妙なところに運び込まれてしまったらしい、と衣玖は思う。城と言った辺り彼女はおそらく姫様かなにかだろう。
「あ、私の名前はハクっていうの。木の"かしわ"って書いて(はく)
 柏と名乗った少女は満面の笑顔で衣玖を見ていた。その黒曜石の如き瞳はきらきらと輝き、好奇心で衣玖を見つめていた。
「私は……」
 衣玖は躊躇った。もしここで親しくなったところで、所詮衣玖は凶兆であることから逃れられていない。中途半端に助けられてしまったが故、自分は龍宮の使いのままなのである。今、彼女は衣玖が妖怪、しかも龍宮の使いであるということを知らないのかもしれないが、知るのは時間の問題である。そして知られた時の反応が如何なるものか、わからぬ衣玖ではない。
「?」
 だが柏の瞳は衣玖のことを知りたがって煌々と見える。その純粋な瞳をないがしろにすることは、衣玖にはできなかった。
「私は、永江衣玖。助けて頂き、ありがとうございます」
「永江衣玖っていうんだね」
 柏は衣玖に対して純真な笑みを浮かべた。衣玖の心が、チクリと痛む。
「じゃあ衣玖って呼んでいい?」
「いいですよ」
 仕方なく衣玖も軽く笑って応える。彼女の気持ちを踏みにじる行為だけは絶対に避けたかった。
「やった」
「それじゃ、私のことも柏って……」
 嬉々とした柏の声は、廊下に響く派手な足音で掻き消された。
「柏!」
 野太い男の声が部屋に響く。その声を聞くや、柏の表情は不機嫌その物に変わる。
 その声からまもなく、一人の男が部屋の入り口に仁王立ちとなる。年齢はおそらく40代後半といったところではないだろうか。
「何?!」
 柏は男を強く睨みつけた。衣玖から見えるのは後姿だからその表情は見えないが、声音から判断するに相当神経を尖らせているようである。
「退け」
 だが、その程度で男が怯むはずもない。恐ろしき形相を顔に浮かばせながら、彼は抜刀した。
「父上、一体」
「柏、退け。そこに居る女を処分する」
 柏の父らしき男は右手に持った刀の切っ先を衣玖へと向ける。その切っ先と衣玖との間に、柏は割り込んだ。
「突然なにを言いだすの?」
「最初は黒木(くろぎ)に住む女かと思うてみれば、その女は碧髪緋眼というではないか。何のことはない、そ奴は龍宮の使いよ。そのようなもの、この黒木にとても置いてはおけぬ」
 やはりそうか、と衣玖は思った。ここできっと自分は人間の怨嗟を浴びながらこの男に殺される。そうしてやっとこの身を終えることができる。
 随分と天に遊ばれるものなのだ、と衣玖は自嘲を禁じえない。阿蘇で死ぬかと思えば博多で死ぬこととなり、博多で死ぬことになるかと思えば、どうやらこの黒木とかいう場所で死ぬことになる。一体どこまで引き伸ばされればよいのか、と思う。人間に捕まった龍宮の使いなんて殺される以外にないのだから、さっさと殺してくれればよいのに。
「龍宮の使いが何だっていうの?」
 でも、天はまだ殺してくれないらしかった。事実を聞いて猶、衣玖の前から柏は動かなかったからだ。
「龍宮の使いだって生きているわ。違う?」
「だがそれが一匹生きているだけで何人が死ぬかわからぬ。奴は厄災を振り撒く妖怪ぞ」
 切っ先が突きだされ、もう柏の胸元から一寸ほどしか間がない。
「さあ退け。(それがし)はこの黒木を守らねばならぬのだ」
「嫌よ」
 それでも柏は退かなかった。
「獣だろうと人だろうと妖怪だろうと、手負いの者を殺すなんて人のやることじゃない」
「馬鹿め」
 男は吐き捨てた。
「手負いだろうが瀕死だろうが、我々に仇為す者は確実に仕留めねばならぬ。そこで逃してしまうような甘さを持ったまま生き延びれるほど、世は甘くないぞ」
「そう」
 柏も冷たく言い放った。
「そうやって父上は兄上を売ったのね。叔父上を捨てたのね」
 その言葉に柏の父の持つ刀の切っ先が僅かに動いた。
「この世を生きるためとかいって、父上はすべてを斬り裂いた。その果てが兄上と叔父上じゃない」
 む、と柏の父は呻く。どうやら、呻くことしかできないようであった。
「衣玖を殺させはしない。もし殺すというなら、私はあんたを(なます)にしてやるわ」
 柏の父は苦渋の表情を浮かべて刀を鞘へと納めた。そしてひときわ足音高らかに、部屋から引き上げていく。振り向いた後姿はどこか寂しげであった。
「ごめん」
 一方父を追い返したことに満足したのか、柔らかい笑顔を柏は衣玖へ向けた。
「絶対守るから。あの暴君から」
 衣玖は嘆息した。また先延ばしになるのか、いったいいつになったら決着が付くのか、と。
 一方で、衣玖の心のどこかが安堵しているようであった。やはり死にたくないと思っている部分があるらしい、と衣玖は改めて自覚した。そしてそれを圧し潰す。龍宮の使いのまま生きていて、何がよかろう。






 夜ともなれば、ただ明かりは荏胡麻油の燈明のみ。部屋の中ともあれば闇の中に燈明のみが浮かび上がり、柔らかな光が暗く板敷の床や壁を映している。
 その陰と陽との境界に、一人の老人が座って盃を傾ける。戸次道雪である。右足を投げ出して座る様が、却って彼の威圧感を大きなものにする。
 既に他の人間たちは寝静まったのか、物音は全くしない。左隣には愛刀・千鳥が置かれ、その拵えは燈明に妖しく浮かぶ。道雪は酒をとっくりより盃へ注いでは、独り燈明を肴に傾ける。燈明に当てられて顔には深く陰翳が映しだされている。
「そこ、何用だ?」
 道雪は盃を右手にしたまま闇へと問うた。部屋の戸は全て閉じられたままであり、いくら燈明から離れたところが闇となっているにしろ、誰かが入れる場ではない。
「流石だねぇ」
 だが、その闇から答えが返る。
鬼道雪(きどうせつ)と呼ばれるだけのことはあるよ。同じ鬼として嬉しいねぇ」
 闇から出でたのは、額の中央に屹立する角を持った異形。右手に直径一尺はあろう巨大な盃を持ち、その中には並々と酒が満たされている。
「鬼か」
 それにも関わらず、道雪は刀に手を伸ばすどころか、鬼の方へ振り向くこともせず盃を平然と煽った。
「鬼がわざわざこんな老体に何の用だ? 喰うても不味いぞ」
「人を喰らうなら戦場(いくさば)に行くね。態々あんたを襲ったりしないよ」
「そうか」
 道雪はあくまで冷静そのもの。相変わらず独りで酒を注いでは盃を傾ける。その姿に、鬼は笑ってその場に座り込んだ。
「では、何用か?」
「特に用はないよ。ただ、楽しそうだったからね」
 鬼は笑う。対する道雪は初めて鬼の方へと顔を向けた。同時にとっくりを右に持ち、それを鬼へと差し出す。
「ならば、酒でも如何か? 生憎それほどの酒はもう此処にはあらぬが」
「いらないね」
 鬼は笑いながら冷たく告げた。そうして大盃を傾けて酒を飲むと、道雪の方へと向き直る。
「人間から盃は受けないからね。人間というのは信用ならない」
「ふむ」
 道雪もその態度に怒ること無く、自らの盃を傾ける。
「ならばここに来ても仕方なかろうて」
「いや」
 鬼は道雪を見据える。だが道雪はもう先ほどの姿勢に戻っており、鬼を見ていない。
「ちょっと試しに来たのさ。戯れに老人一人殺すのも良いと思ってね」
「そんなものだろうな」
 コト、ととっくりを置く音が響く。
「で、どうするのだ?」
「その態度、気にいったねぇ」
 鬼は立ち上がった。
「あんたは殺さない。殺すより楽しいことがあるような気がするからね」
「鬼の楽しめることか、それは碌な事がないらしい」
 あくまで淡々とした言葉に鬼は笑う。
「私の名は星熊勇儀。それじゃ、また来るよ」
 一言名乗ると、そのまま鬼は風の如く消えていった。
「……鬼、か」
 道雪はふととっくりを傾ける手を止めた。もう中身がない。
 道雪は顔を上げて燈明を見つめた。既に鬼のいたことなどすっかり忘れてしまったかのように、部屋は沈黙に支配されていた。



 幾度にも渡った筑後川の氾濫によって筑後には原野が広がっている。その原野の中央を喰い破るように、山々が一列に並ぶ。耳納(みのう)と呼ばれるその山々の北のはずれに、鬼の住むと言われる山があった。その山の名を高良山という。
「面白いねぇ」
 高良山中腹にある神籠石(こうごいし)の一つに座って、勇儀は筑前を見ていた。
「この情勢といいあの道雪という男といい、面白い」
 勇儀は自慢の盃を傾ける。そして左手でこぼれた酒を乱雑にぬぐう。
「もうじき死ぬというに、なかなかどうして凄い男だよ」
 辺りには木が鬱蒼と茂り、人も妖怪も全く見当たらぬ。鬼がいるとなれば何も近づかぬも当然である。
「さて」
 勇儀は飛び降りた。既に盃の中に酒は入っていない。
「筑後には龍宮の使いが居るという話もあるし、一体どうなるのだか」
 勇儀の下駄が、カツ、とひときわ大きな音を立てる。
「人間共の醜い殺し合いの見物と行こうか」






「しばらく此処に居れ!」
 薄暗い地下牢の中に、妹紅は突き飛ばされた。
「痛、もう少し優しく扱ってよね」
 牢番に叫び返してから、妹紅は仕方なく牢に座り込んだ。

 こんなことになったのは不運と言う他ないかな、と妹紅は牢の窓へ慨嘆した。
 この九州が争乱のさなかにあることくらい、妹紅にもわかっていた。しかし、妹紅は決して死なぬのであるから、争乱だろうが何であろうが妹紅には関係がない。特に行く宛もなかったので適当に歩いていた。そうすると時々封魔の依頼が来るので対応する。ついこの間には龍宮の使いを護送籠に封じるよう頼まれ、その代金として高森では御馳走を食べさせてもらった。
 その高森から阿蘇中岳を越えて阿蘇谷に入り、そこから阿蘇外輪山を越えて豊後に入ったまでは良かった。どうせならば南蛮船がたくさん来ており、南蛮寺とかいう妙な建築があるという豊後府内に行ってみようとしたのが運の尽きだったのかもしれない。途中の関所で薩摩の間者と間違われ、弁解する暇も与えられぬまま牢へと閉じ込められてしまったのである。
 これは厄介だな、と妹紅は思った。妹紅は死なない。則ち、処刑できない。
 若し間者でないことを証明できなければ処刑されることになる。そしてその場で、自分の身が人ではあらざることに気付かれてしまう。そうすれば下手すれば見世物にされてしまう可能性すらある。これまで送ってきたような気ままな生活がこれからも送れるかどうか、怪しくなってくる。
 破牢してしまえばよいかな、と妹紅は思索を巡らせて行く。牢を破って豊後を抜け、大友家の所領から逃げてしまえばきっと捕まらないだろう。幸い、見張りは少ない。
 しかし、妹紅には其処までの気力がなかった。気力というよりは、生きることへの欲と言えるかもしれない。別に捕まったまま居ても死なぬのだから、世の中どうにかなる。わざわざ外に出ようとしたところで何をするというのか。この退屈な人生、ひょっとするとここにいた方が退屈しないで済むかもしれない、と妹紅は一考する。そもそも妹紅には目指す場所が全くない。ただ漫然と生き続けるだけ。
 とりあえず妹紅は眠ることにした。考えていてもどんどん底なし沼に引き込まれるだけ、ならば寝た方がマシなのだ。


「起きよ」
 気付いたら外が暗くなっている。思ったより疲れていたのだろうか、と妹紅は思う。
「起きよ、殿が参るのだ」
 余計厄介だ、と妹紅は呟いた。人に頭を下げることは、妹紅自身が貴族出身だからか、妹紅の肌に合わない。
「はよ、頭を下げよ」
 だが肌に合わぬとか言っていられない。仕方なく牢の外へと向かって伏礼した。処刑されるような事態はできるだけ避けねばならぬのだ。
「これ? 間者だとかいうの?」
「左様にございます。関において役人が捕えたとの由にございます」
「そう」
 あれ、と妹紅は少し違和感を感じた。渋い声で説明する役人に相槌を打つ男の声は、とても幼い。少なくとも成人はしておるまい。そして、ゆったりした口調だった。少なくとも余り威厳があるとは思えない。
「表を上げい」
 役人の方が厳かに言った。その声に合わせて妹紅は頭を上げる。とはいっても相手の胸元までしか目を上げてはならぬが故に、顔はわからぬが。
「殿と対面すること、直に会話することを許す」
 だが、予想外に顔を知る機会はすぐにやってきた。予め示し合わせていたのかどうかは知らないが、相手と直に会話していいと言われた。これはだいぶ楽だ、と妹紅は思った。
「貴女の名前は何?」
 す、と妹紅は頭を上げる。そして視界に入ってきたのは40代程の役人と、10代後半の殿であった。丸い顔とおっとりした所作が、殿と呼ばれる青年の性格と能力を思わせる。どうやらそれほど出来る人間ではないらしい。
「藤原妹紅」
「妹紅ね。私は大友家家臣、田北(たきた)弥十郎(やじゅうろう)統員(むねかず)。この通り若い身だけれどだけれど、ここ田北村の領主をやってる」
 話し方も余り身分を感じさせぬ話し方だ。それが彼の威厳と言うものを全く失わせている。
「妹紅さん、間者だって言うけれどほんと?」
「私は間者じゃない。そんな面倒くさいこと、私がするわけないよ」
 妹紅は普通の口調で返した。それは完全に妹紅が弥十郎へ応えてやっているという態度である。妹紅は出自がら中々高貴な印象を持たせる人間であるから、ともすればどちらが偉いのかわからなくなるような場であった。
「そう。ところで、いくつか質問していい?」
「ああ、構わない」
 弥十郎の隣では、役人が冷や汗をだらだら流している。罪人と殿が対等みたいな口調で話しているのだから、無理もなかろう。むしろそれを平然と受け入れる弥十郎という男が、妹紅には少し面白かった。
「ではまず一問。松牟礼城って知ってる?」
「なんだそれ。知らない」
「じゃ、次。鹿児島に行ったことは?」
「ああ、あるよ。なかなかいい町だったね」
「んじゃ、最後に。日本書紀の撰者は?」
舎人親王(とねりのみこ)か」
「ありがと」
 全く脈絡のない質問であったとしか言いようがないと思う。おそらく妹紅が間者かどうか彼は知りたかったのだろうが、今の質問でわかるかどうかは知らない。
「よし、牢を開けろ。これは間者ではないぞ」
「は?」
 役人と妹紅と、同時に声を上げた。弥十郎という青年は少しおかしいのではないか、と妹紅は本気で思った。
「牢を開けろって。牢は、罪人でない者を閉じ込めておく場所ではないよ」
 役人もまた、首を傾げながら牢の鍵を開ける。
「それじゃ、ついてきて」
 弥十郎は平然と妹紅を背にして歩き始めた。まだ罪人の筈の妹紅に後を取らせて平気な彼は、ああ見えて中々度胸のある男なのかもしれない、と妹紅は思った。もしくは、よほど気が回らないのか。
「早く」
 前から弥十郎の催促する声が聞こえた。








     ――消炭色――

  炎消ゆる後、残るは灰のみ。而れど、僅かに埋火とて残ること多し。


 水無月も終盤ともなると、日差しは烈火の如く身を焦がそうとし湿気た暑い空気が身に纏わり付く。濃い緑に染まった木々も微動だにせず、ただ鬱陶しさのみを周りに振り撒いている。
「衣玖、具合はどう?」
 あの日以来、まず毎日柏は衣玖の部屋を訪れる。傷が治ったとはいえ、落ちた体力を完全に回復するに至っていない衣玖は未だ部屋を出るには能わず、結果として柏の来訪が唯一の外との交渉であった。
 そうしてわかったことがいくつかあった。
 まず、柏という女の子がこの黒木の姫だったということ。彼女が父と呼んでいた男は、この黒木の領主であるということ。そしてその彼は、衣玖が龍宮の使いであるということを知っていること。にもかかわらず何故か、最初の一回以来殺しに来ないと言うこと。
 衣玖には彼がどうして来なくなったかわからなかったが、どうやら衣玖はまだ長生きしてしまうということは何となくわかってきていた。
「御蔭さまでだいぶ良くなりました」
「それは良かったわ」
 衣玖は白い襦袢の上に縹色の打掛を肩に掛けた状態で布団から半身起こしている。半身起こせるようになったのはつい五日ほど前である。
「それでね、今日は瓜持ってきたの。衣玖も食べるよね?」
 柏は右手の真桑瓜を掲げた。丸々と大きなそれは九州の強い日差しを浴びて深緑に染まり、瑞々しさを主張している。
「いいですよ」
 衣玖も笑って答える。その答えに合わせて柏は瓜を手ずから割り始める。瓜は忽ち半分四分され皮を剥かれて、つまむには丁度良い間食となって皿に並んだ。
「これは美味しい瓜ですね」
 衣玖は一つつまんで口に入れる。口に瓜特有の香りが広がり、続いて甘みが来た。味が濃く上出来の瓜だろう。
「そ、美味しいでしょ」
 柏も一つ口へ入れてから衣玖の言葉に柏は自慢げに胸を張る。
「これこの黒木の里で作った瓜だもん。不味いわけないからね」
「本当に美味しい瓜ですよ。このような瓜を食べる機会はそう多くないでしょうね」
 実際に美味しい瓜であるのだから、衣玖は文句もない。
「うふふ」
 衣玖の絶賛に、柏は満更でもないようだ。特に空気を読むまでもなく柏が、自分の生まれた黒木という場所を気に入っていることは簡単にわかる。
「そうそう、今日はさ、」
 いつも通り話が始まったようだ、と衣玖は思った。柏は毎日のようにここを訪れては様々な話をしてゆく。この黒木と言う町の様子について話してくれることもあれば、柏の兄や母についての話をしてくれることもある。また外で雷が鳴っただとか、大きな蟻の巣を見つけただとか、そういう本当に他愛のない話をすることもある。
 衣玖には、彼女がどうしてそのような話を衣玖へしてくれるのかがいまいちわからない。衣玖が龍宮の使いであることは早々にバレているはず。柏からしたら衣玖は完全に化生、本来なら排斥すべきものであるはずなのだ。なのに、まるで家族と対するように柏は接してくれる。衣玖はそのように接してくれればくれるほど、胸が締め付けられるのだ。
 自分はあくまで人間に災いしか持ち運ぶことができない。柏がどんなに親身に接してくれたとしてもこちらから渡すことができるのは災いだけ。彼女を壊すことしかできないのだ。それが龍宮の使いの運命であることはというにわかっている。わかっているからこそ、一刻も早く柏の元から離れたかった。
 だが、それもならない。まず衣玖の体力がまだ外に出るには足りなかった。いくら龍宮の使いである衣玖でもあれだけの負傷を治すには時間がかかる。少なくともあと10日ほどは必要そうである。
 そして何よりの問題が羽衣だった。衣玖は今羽衣を纏っていない。黒木に連れてこられ手当された時にどこかへやってしまったらしい。柏に聞いてみると手当の時に捨ててしまったかもしれない、と言う。だがあの羽衣は龍宮の使いが龍宮の使いである証のようなもの。あれがなければ上手く雷雲の中を泳ぐこともできないし天界へ行くこともできない。羽衣を無くすというのは龍宮の使いにとって最もやってはならぬことなのだ。ひとまず羽衣の行方だけでも知らねば、とてもここから帰ることなどできない。
「今日はさ、衣玖が自分の話をしてくれない? いつも私ばかりが話してるし、たまには衣玖が話してよ」
 しかし衣玖の予想に反して、今日は衣玖にとって"いつも通り"ではないことを柏は言った。
「いや、私の話なんて面白くないですよ」
「そんなことないよ。私からしたら面白いわ」
 柏は興味津々に衣玖へと詰め寄ってくる。衣玖は困った。
 龍宮の使いの昔話なんて碌な物ではない。ただひたすら人々を震撼させ恐怖させ、無辜の民を薙ぎ倒す話なのだ。そんな話、全く面白くも何ともないと思うし、なにより衣玖が思い返したくもない話ばかりだった。
「いいんです。私の話なんて」
「そんなことないって、いいからさ」
「いえ、面白くありません」
 衣玖の言葉は強い拒絶となって表に出た。
「そう……」
 その拒絶を敏感に柏は感じ取ったようであった。
「わかったわ」
 さっきとは打って変わった落ち込み様で、寂しげな表情を浮かべた。その姿が、また衣玖の心を傷つける。
「今日は帰る」
 柏はさっと立ち上がった。
「……あ」
「また明日ね」
 柏はこちらを見ることもなく、肩を落としたまま部屋を出て行ってしまう。彼女が出て行ってしまうと一挙に部屋が閑散とした雰囲気に包まれた。
 きちんと空気を読むべきだったか、と衣玖は反省した。あそこであの強い拒絶を吐いてはならなかった、ということは痛いほどにわかっている。だが自分でも意図していないのに、衣玖の言葉は強い拒絶となってしまっていた。本当はもしかすると、自分の過去に対する拒絶だったのかもしれない、と衣玖は思いなおす。ならばなおさら彼女には悪いことをしたな、と衣玖は自省の念に駆られる。自分の八つ当たりで彼女を傷つけてしまうなんて、最もやってはならないことのひとつではないか。
 しかし、どうして彼女が此処に来るのか、なんとなくわかったような気もした。良く考えてみれば、彼女の話に出て来るのは既に亡くなった彼女の母親の話と、人質に出てしまった兄の話ばかり。そしてそのどちらも既にここにはいないのだ。
 もしかすると、この衣玖という龍宮の使いを柏は家族に見立てているのではないか。柏がここに来て衣玖へする話のほとんどは他愛もないような、家族へするような話。彼女の周りにはそのような話をする相手が居ないのかもしれない。
 そしてもう一つ思い当たることがある。彼女にとって唯一の家族であろう父親の話は、ただの一度も柏の口から出たことがない。母や兄の話はたくさんするのに父親の話だけは全くしないのだ。それが不思議と言えば不思議であるし、不自然と言えば不自然である。
 もし柏が衣玖を家族にしようとしているならば、先の衣玖の拒絶は柏にとって残酷なものであった、と衣玖は思う。同時に、柏はなんと残酷なのかとも。災いしか運べぬ龍宮の使いが親しき人間を作れば、その人間は運ばれる災いによって殺されるしかないだろう。則ち龍宮の使いは親しき者を殺して生きていくしかない。その苦行を柏は衣玖に見せようとしているのかもしれない。
 衣玖はただ、運命を呪うしかなかった。






 妹紅が連れて行かれた先は、松牟礼城下にある居館の座敷。そこには既に独り40代半ばごろの男が座っていた。
「話を聞いたぞ、弥十郎」
 彼は妹紅と弥十郎とを見比べながら、にやにやと笑っている。
「どうやら名裁判だったとかいうではないか。たった三度の問いで間者でないと判断したとか」
「いえ、名裁判って……」
 小突かれて、弥十郎はこめかみを掻いた。どうやら照れているらしい。
「それで、これが(くだん)の女か?」
 しどろもどろになってしまっている弥十郎を楽しげに眺めながら、その男は扇子を妹紅へと向けた。
「そう。関の役人が間者だと判断したらしい」
「ふむ」
 彼は妹紅を上から下までしげしげと眺める。人間の値踏みをしているのか、女としての値踏みをしているのか、どちらにしろ妹紅は不機嫌になった。
「まあ叔父上、とりあえず座ろう」
「それもそうだな」
 その妹紅のようすを見たのか見ぬのか、弥十郎がその男を遮る。男もそれに従って、上座に座った弥十郎の左隣へと座った。もちろん、妹紅は弥十郎の正面、下座である。
「さて、まずは紹介かな。この年寄りは田北刑部大輔(ぎょうぶだゆう)鎮生(しげなり)入道宗哲(そうてつ)。これでも私の義理の従兄にあたる、のかな?」
 先から弥十郎が叔父上、と呼んでいる男は本当は叔父ではないらしい。なかなかややこしい、と妹紅は思う。
「年寄りとは何だ年寄りとは、まだそのような年ではないぞ」
 弥十郎はからかい返したことに満足げな表情を浮かべている。対する宗哲は些か不服そうだ。
「それで、そちは?」
 宗哲は再び妹紅を見る。どうやら人間としての値踏みをしたいらしい。とすれば、先の視線もさして下品な物ではなかったのだろう。
「私は藤原妹紅。適当にふらふらしてたら捕まったんだよ」
 さらりと妹紅が答える。妹紅の全く敬語を使わぬ様子に宗哲はびっくりして妹紅を睨み、弥十郎は相変わらずだと苦笑した。しかし妹紅は敬語を使わずにいて当然なのかもしれない、と思わされる何かがある。
「ふらふらして、か。この乱世にか?」
「ああ。そうだよ」
 宗哲の妹紅を見る目線がが若干不審へと変わる。まあ無理もないだろう、と妹紅は思う。
「妹紅さんは腕が立つの?」
「まあそれなりに、かな。別に名人というわけじゃ全くないね」
「ふむ」
 妹紅の答えに二人は少し沈黙した。例えば伊勢参拝だとか、何らかの目的があれば旅人とて不思議ではない時代である。だが、ただふらふらしていた、というのはこの時代にはあまりそぐわぬ言葉なのだ。
「もしかしてさ」
 弥十郎が声を上げた。
「術を使えたりするんじゃない?」
 その言葉に、あ、と呟いて宗哲も妹紅を見る。
「……ああ、使えるよ」
 ここで下手に嘘をつくと、再び牢の中に押し込まれることにもなりかねない、と思った妹紅はいやいや答えた。本当は術が使えることも隠しておきたかった。術を使える人は決して多くないから、便利使いされかねないと思ったからだ。それに、妹紅は自分の術がそれほど好きではなかった。とはいっても、紅眼白髪なんていう容姿で術を使えぬとシラを切るほうが難しいだろうが。
「やはりそうか」
 しかしそのような気持ちにお構いなく、弥十郎は納得したようにう頷いた。
「そうだと思った。そう言えばこの間、龍宮の使いを封印した術師の話を聞いていたから、ひょっとしたらその術師は妹紅さんではないかと思って。それに、その容姿だし」
 存外に世界は狭い。気まぐれで使った術がここまで響いているとは。
「しかし、それがほんとうかどうかは、調べてみねばわからぬだろう」
 嫌な空気になってきた、と妹紅は汗を一滴零した。
「そうだね」
 上座に座る丸顔の青年が笑っているのも、また嫌な予感を助長させる。
「妹紅さん、簡単でいいので術を見せて下さい」
 妹紅は大きく嘆息した。術をこのような場所で見せれば暫く自由を失うことは間違いない。おそらくこのまま城から出してもらえなくなるだろう。術師はなかなか珍しいものなのだ。
「見せなきゃ駄目?」
「もし見せねば、そちは完全な不審者ぞ。となれば我々として生きて帰すわけにはまいらぬ」
 私は死なないから、どう頑張っても生きて帰るんだけどね、と妹紅は言い返したかった。だが、そういうわけにもいかない。ただの術者ならまだどうにかなるところも、もし不死者とバレてしまえばどうにかならなくなるかもしれないからだ。
「ああ、わかったよ」
 諦めて妹紅は右手を前に出した。掌を上に向けると、其処に突然火球が現れる。あまりに唐突な出来事に、そして理から外れた所業に弥十郎は目を丸くした。宗哲はというと、ふむ、と頷いている。
「まあ、こんなもんかな」
 弥十郎の目を丸くしたところで妹紅はそれを収めて元へと居直った。まあ城から出るな、というところが妥当な線かな、と考えている。
「……なるほど」
 弥十郎は言葉がなかなか出ないようであった。見慣れぬものであろうから仕様もないことか、と妹紅は思う。しかし、あまり驚かぬ宗哲の方はなんだったのだろう。まあ人生経験の差というものかな、と妹紅は独り納得する。そういえば、敬語を使わぬことに宗哲は反応を示さなくなった。どうやら諦めたらしい。
「それでは、暫くここに居て貰ってもいいかな?」
 処分は妹紅の予想通りだった。
「術者が珍しいというのがひとつ。間者の疑いが完全に晴れたわけではないと言うのがひとつ。あとあの役人の面目も立たせなきゃいけないと言うのが一つ。別に牢に入れたりするわけじゃない、ちゃんと部屋を一つ宛がうから、それでどう?」
「私としてはすぐにでも出たいんだけれどね」
「もうしわけない。でも、最も穏便に済ます方法はそれだと思うんだ。鑑みてくれると有難いのだけれど」
「ああ、わかったよ」
 妹紅は予想通りだったのですんなり諦めることにした。どうせ生きても生きても生き切れぬ長い人生。目的も何もないのだから、暫く城にいるのも問題なかろう。

「ところでさ、一つ聞きたいんだけど」
 ふと、妹紅は気になったことがあった。いや、前から気になっていたのだがなかなか聞く暇がなかったというべきか。というよりは聞く機会を見つけられなかったというか。
「なに?」
「この間、私を間者じゃないって妙な三問で看破したよね。それってどういうことだ?」
「そういえば、それは儂も気になっていた。いったいどうやって看破した?」
 つい先まで自分の身の上話をしていたはずだったのに、唐突に話が飛んだので弥十郎はまだ話の中身を掴みきっていないようであった。二人に覗きこまれて困惑した後、漸く理解したのか口を開いた。
「ああ、あれねぇ……」
「あのあとネタ明かしがなかったからね。こっちとしてはかなり気になるのさ」
 ええと、と弥十郎は思い返す仕草を取る。それがまた幼く見えて、やはりいっぱしの侍には少し見えない。月代がなければ子供そのものだ。
「一問目が確か、松牟礼城って知ってる、って問いだったはず」
「そうね。それで知らないって答えたよ」
「松牟礼城って、今妹紅が暮らす羽目になってる城の名前。田北の本城のこと」
「へぇ。それが間者とどう?」
 松牟礼という名前を妹紅は初めて聞いた。最も、重臣とはいえ大友家の一家臣の居城の名前なんて俗世間との関係の少ない妹紅が知っているはずはないのだが。
「間者だったら田北の民に偽装する。で、もし田北の民に成りきるならば自分の里の城の名前を知らないなんてことは絶対にあり得ないからね。普通なら知ってると答えるべきだよ」
「それで、二問目は?」
「確か、鹿児島に行ったことあるかどうかを聞いたんだっけ?」
「そうね。それで私はある、と答えた」
 妹紅はこの数百年、あちこちを適当に歩き回っている。人にも妖怪にも関わるのに飽き、ただふらふらと浮かんでいたかったからである。時たま人と関わったりするが、基本的には独り旅。そうして世の中が変わっていくことを見つめながら自らの身の不変を嘆くのだ。
「田北の民に偽装しようとするなら、ない、と答えなきゃならない。そうでなくても鹿児島に行った事ある人間なんてこの北九州にそう多くないから、目立たないためにはない、と答えるべきなんだよ」
 ふむ、と妹紅は頷いた。先ほどの予想通りというか、なかなか賢い男じゃないか。
「それで三問目、弥十郎は日本書紀の撰者について聞いた。当然私は舎人親王(とねりのみこ)って答えた」
「そ。なんとなく聞いてみたんだけれどこれが一番決定的だったね」
 柔らかい笑顔ですこし自慢げに弥十郎は言う。
「おおよそほとんどの人間は日本書紀なんて本の存在を知らない。ましてその撰者を言える人なんて京に何人いるか。私も答えは知らなかったし。それをスラリと言い当てて見せてしまうのはとても間者とかそういうものじゃないよ」
 それほど難しい問いであったか、と思ってみるが良く考えてみれば、その当時生きているでもない限りそんなこと普通は知らないだろう。まして舎人親王の顔を見たことある、なんて人間はどこにもいない。
「なるほど。御見事だね。あんた賢いねぇ」
「まったくだ。弥十郎、いつからお前はそんなに頭が良くなった」
 二人の称賛を浴びて、弥十郎は少しやりにくそうな表情をする。そのあと少しだけ笑って、
「まあ、友達の受け売りだし」と言った。
「おい、騙したな!」
「なんだいそれ!」
 二人の悲鳴が、弥十郎の鼓膜を叩いた。






「また来たよ。久しぶりだねぇ」
「全くだ。もう来なくても良かったのだがな」
 漆黒の空に黄色い月が一つだけぽっかりと浮かんでいる。完全には僅かに足りぬ十六夜の月が、部屋を中の方まで照らす。そしてその月を眺めながら盃を傾ける老年の男が一人。
「寂しいことを言うね。鬼なんて望んだって会えるものじゃないのにねぇ」
「鬼に会いたいと望む者が何処に居るというのだ。戯言はそれだけにしておけ」
 道雪は月を眺めたまま相変わらず視線すら勇儀には向けない。勇儀もそれを知るかのように、勝手に道雪の隣へ座った。
「それが存外、鬼に会いたがる者というのも多くてな」
 勇儀はクスリと笑って、紅色の瞳で道雪を見る。
「中には神便鬼毒酒なんてものを持ってくる奴もいるんだよ」
「それは会いたがるとは異なるだろうて」
 道雪も少し表情を崩した。そして左においてある盃を取って、道雪と勇儀の間におく。
「ほれ、肴よ。残念ながら味噌しかないがな」
 その素焼きの盃には、僅かに味噌が盛られている。勇儀はそこから少し指で掬い、そのまま口へと運んだ。
「旨い味噌だね。こんなものがあれば肴には十分だよ」
「さてな。鬼というからには人を肴に酒を喰らうのではないのか」
「それもいいけれどね。ま、毎回人というわけにもいかないからねぇ」
 二人して盃を煽る。大きさも酒量も違うが、ほぼ同時に二人は飲み干して姿勢を元に戻す。
「あんたも度胸があるねぇ」
「普段、鬼より恐ろしき者と戦っておるからのう」
「なんだい、それ」
「人、だな」
 自分で盃に酒を注いで、道雪はそれを煽る。その所作は老人ながら非常にメリハリが付いている。
「鬼より人が怖いと言うか?」
「言うな。同族を平然と騙し殺す者を怖いと言わず、何を怖いというのだ?」
「なるほどな」
 勇儀も納得したように頷いて、瓢箪から盃へと酒を注ぐ。大盃になみなみと注いでから、勇儀は片手でそれを持ちあげて傾ける。
「それでは、何故あんたはまだ戦おうとするんだ?」
 左腕で口を豪快にぬぐいながら、勇儀は問いを発した。
「逃げようとすれば逃げられる。にもかかわらずなぜ逃げない?」
「逃げる、か」
「そうだ」
 勇儀は道雪を睨んだ。振り向く首の動きに合わせて鮮やかな金髪が月に光った。
「あんたの仕える大友家はもうボロボロだというじゃないか。もう一度この家が隆盛を誇ることはとても望めそうにない。それでもあんたは大友家の為に戦う。一体それは何故だ?」
「言いたい放題だな」
 大して道雪も勇儀を睨み返した。その目は凄みを帯びており、ともすれば勇儀すら一歩引かせてしまうほどの威力を持っていた。
「大友家がボロボロとは、随分と言いたい放題言ってくれる。わが大友家は儂が立て直す」
「それがあんたに出来ると? 碌に足も動かぬのに?」
「ふ」
 道雪は笑った。それは、勇儀を嘲るような笑いであり、その目は勇儀を捉えて離さない。
「馬鹿め。足の動く動かぬなど関係あるまい。確かに儂は老いた。もう70にもなるし、足も動かなくなってしもうた。だがそのようなことが大友家の立て直しの何に関わるというのだ」
「けれどさ」
 勇儀もまた、威圧されずに余裕の笑みを浮かべる。
「もし降伏してしまえば、あんたの言う"最も恐ろしい"人と戦う必要もなくなる」
「だからどうした」
 勇儀の言葉を彼は一蹴する。
「儂が戦う理由が知りたいと言ったな。教えてやろう。儂が戦うのは、儂を頼る者がおるからだ」
「頼る、ねぇ」
「そうよ。そして頼る者を守ろうとするのは上に立つ者として当然のこと。大友家全てが儂に頼っておる今、儂は大友家を見捨てることなどできぬ」
「ふーん」
 勇儀はその言葉に途端興味を無くしたようだった。勇儀はその道雪の言葉を欺瞞としか受け取らない。
「頼るから守る、ね。そりゃ御苦労さま」
「何が言いたい」
「いや、人間って愚かだねぇ、と思っただけさ」
「愚かで何が悪い」
 道雪は初めて刀に手をやった。足が不自由というが、なかなかどうして機敏な動きを見せる。
「愚かだろうがなんであろうが、儂の前に立ちはだかるものは容赦せぬ。例え鬼だろうが神だろうがな」
「そ、頑張ってね」
 道雪の威に恐れることもなく、勇儀は立ち上がった。
「それじゃ、また。今日は私は帰ることにするよ。興醒めさせて悪かったね」
 道雪が言葉を帰すまでもなく、勇儀は虚空へと消えてゆく。道雪はそれを見送ると刀を置き、不機嫌そうに盃を煽った。








     ――常盤緑――

  常盤なる、とは常に緑なることなり。人の世に依らず緑なるを常盤と言ふ。


 柏と言う少女はそれほど感情を引きずらないさっぱりした性格であったらしい。あんなに酷い扱いをした翌日には全て忘れてしまったかのように、またまた上機嫌に衣玖のもとへと現れた。そうして衣玖に話すようせがむこともなく、自分の話をサラサラと連ね、しばらくすると話すことに満足したのか、また明日と言って帰って行く。あの日だけが特別だったようで、あとは殊更言い立てるような日もなく、柏は同じように現れて話をして帰って行く。
 そうこうするうちに10日はすぐに過ぎ、衣玖の予想通り、あれから11日目には床を上げられるまでに回復した。人間からすれば脅威的な回復力と言えるのかもしれないが、妖怪である龍宮の使いであるならば通常の回復速度と言えるかもしれない。
 そうすると今度は、柏は衣玖を外へ連れ出そうとするようになった。柏という少女は性格通り、外を駆け回るのが好きな少女であるらしい。衣玖の体力に合わせて、最初は屋敷の中のみであったが、衣玖が回復するにつれて屋敷の外回り、黒木の町、ついには黒木の里全てが行動範囲となる。こうなると柏は本当に様々なところへと衣玖を連れて歩いた。柏にとって黒木の里は庭のようなものであるようだ。
 そして柏という少女と黒木を歩き回ることで、柏という少女の内面を幾分か知ることができた。彼女が独りで馬も乗りこなし薙刀を振り回して父や臣を困らせるような少女であるのを知ったこともその成果なのかもしれないが、なにより大きかったのは、柏が衣玖に対して何の偏見も持っていないということを知ったことだと思う。衣玖が何であるかわかった上で、柏は何の隔たりもなく衣玖に接してくれる。故に、衣玖は柏と接していると龍宮の使いであることを刹那的ではあれ忘れることができた。それは衣玖にとって至福の一時と言えた。


「ほら、ここから見るとあっちに黒木の里が一望できるんだよ」
 今日衣玖が連れてこられたのは、近くの砦であった。そんなところに果たして来てしまってよいのだろうか、と衣玖は思わないでもないのだが、連れてこられてしまったならば仕方がないのである。
 衣玖はそのことについて触れないことにして、柏の指さす方を眺めた。
「あら」
 目の前には本当に黒木の里が広がっていた。二本の川が左から流れてきて丁度正面で合流し、一本となって左へ流れてゆく。その三角となった場所に小さく家々の固まった黒木の町とその周りに田畑が広がっている。その田畑までを含めて黒木の里だ。そしてそれらを見下ろすようにあるのが猫尾城、衣玖の匿われた柏の父の城だ。
「ね、奇麗でしょう。ここ、私のお気に入りの場所なんだ」
 柏の言葉に衣玖は頷いた。ここがお気に入りというのは一目で納得できるような素晴らしい眺めの場所だ。
「ええ、素晴らしいですね、ここは。黒木の様子が一目でわかります」
「そうでしょ」
 衣玖が褒めると柏は誇ったような嬉しいような態度で笑う。
「ほら、衣玖も座って」
 見ると、既に柏は斜面に座っている。衣玖もそれに合わせるように斜面へと腰掛けた。
「ここから見ると、私たちがどういう場所に住んでいるのか全部わかるんだ」
「確かに、黒木の里が一体どういう様子なのかが一目でわかりますね」
 只眺めているには少し暑い日ではあるが、風景としてはこれくらいの方が丁度良かったかもしれない。水の張った田は空の青に当てられて益々青く、また時折風にそよいで一斉に波を打つ。田畑の間に時々ある雑木林も風吹けばぞうぞうと音を立ててざわめく。その様子が纏わり付く湿気た暑さを吹き飛ばすように思えた。その田畑では人間たちが汗を拭きながらめいめい仕事をこなしている。畑で収穫に勤しむ女もいれば、田で水の調節の為に堰を弄っている男もいる。様々な人間が居るがその誰もが、秋の収穫を目指して懸命に仕事をしているように見えた。
 その向うにある耳納の山々はくっきりとした深緑に染まって縹色の空に喰らいついており、耳納の山々のすぐ上では巨大な入道雲が空を白く切り抜いている。
 その風景に衣玖は暫く時を忘れた。衣玖にとっては久方ぶりの、何も考えなくてよい時間であった。

「だいぶ日が傾いてきたね」
 どれくらいの時間見ていたのか、気付けば既に日は傾き、色は朱を帯びてきていた。
「そうですね」
 珍しく衣玖は柏に顔を合せなかった。風景に見入っていて、視線がそこから離れなかったのである。
「黒木っていいところでしょ」
「ええ」
 近頃傷付くばかりであった衣玖からすれば、このような光景は有難かった。自分が龍宮の使いであることからも、近々死ぬであろうことからも逃れることはできないだろうが、それでもこの風景を見ていれば何となく心が安らぐのだ。
「ねぇ」
 風景へと向いていた衣玖の意識を、柏は真剣な声で呼び寄せた。
「何ですか?」
 衣玖もそれに呼応して、僅かに名残惜しくありながらも視線を柏の方へと向けた。
「ここを守ることと家族を守ることと、どっちが大切だと思う?」
 別に衣玖を試しているという雰囲気ではない。おそらく柏本人が抱えている問いなのだろう、と衣玖は推測する。
「どうして?」
 その上で質問で返した。こういう質問へ安易に答えを出してはならぬということを、衣玖はわかっている。しかしこれは柏の悩みを聞こうという意思の表示になる。衣玖としては、あの風景で一時でも衣玖の心を癒してくれたお礼のつもりであった。
「だってさ……」
 そしてある意味では予想通り、柏は答えに詰まった。もし話してくれなければそれで終わり。まあ所詮自分は龍宮の使いであるのだから、それが普通なのだ。だが衣玖は、何となく柏が話してくれるような気がしていた。
「だってさ、父上はここを守るために弟と息子を捨てたんだもん」
 どうやら相当にキナ臭い話であるらしい。柏の表情が硬くなる。
「衣玖は龍造寺家って知ってる?」
「知らないです」
「えっとね」
 衣玖が全くこの九州の情勢に詳しくないとわかると、地面に枝で柏は縦に長い長方形を書いた。
「これがこの九州とするね」
 まず左上の辺りを指差す。
「ここにいるのが龍造寺家。佐嘉を本拠地にしているの」
 続いて右上を差した。
「こっちが大友家。本拠地は豊後府内で、博多も持ってる九州最大の大名」
 最後に下半分を示す。
「そして南が島津家。本拠地は鹿児島なんだけど、今最も勢力を拡大してる」
 衣玖はその長方形を見つめる。九州という小さい島でまで、人間は争いを続けるらしい。それは阿蘇神も怒るかもしれない、と思うのだ。だがその一方で関係の無いことだな、と思った。もし死ぬ運命ならばどうでもいいことだし、運悪く龍宮の使いを続ける羽目になっても人間界の争いには介入しないのだ。
「私たちがいるこの筑後は、丁度龍造寺家と大友家の勢力境界なの」
 大きな勢力に挟まれた小さい勢力がどうなるか、それは全く経験がなくとも衣玖には簡単にわかる。おそらくこの黒木は龍造寺が攻めてくれば龍造寺に頭を下げ、大友家が攻めてくれば大友家に臣従したのだろう。
「それで二年前、龍造寺家が黒木に攻めてきた」
 ここからが本題らしかった。益々彼女の声は固くなり、衣玖も何となしに姿勢を正した。
「筑後にたくさんいる国人衆――つまり小領主たちが連合して龍造寺家に反旗を翻したの。余りに龍造寺家のやり方が乱暴だったから。でも龍造寺は強かった」
 小領主の悲劇というものである。常に大勢力は小勢力を良いように扱い、もし歯向かえば叩き潰す。
「その戦で父上は弟を失ったわ」
 柏が父から衣玖をかばってくれた時に叫んだ、叔父上を捨てた、とはこのことらしいと衣玖は思い返す。これでも衣玖は記憶力くらいあるつもりだ。
「その上勝てないと判断した父上は戦を放棄した。大切なはずの嫡男をあっさり人質に出して、龍造寺に降伏したの」
 人質、の一言に柏の万感が籠っている、と衣玖は感じ取った。兄を捨てた、という言葉は此処から出たのだろうし、柏にとって兄を人質に出すということは最も許せないことなのだろう。
「あの父上は、弟を殺した相手に息子を差しだして黒木を守ろうとしたのよ。息子がいつ殺されるかもわからない状態へと追い込んだのよ、許せない!」
 昂ったのか、柏は思い切り衣玖へと叫んだ。衣玖からすればとばっちりと言えるのかもしれないが、その態度に柏がどのような思いでいたのかということを良く知ることができた。少なくとも柏という少女が何に悩み何に怒るのかを知るには十分であった。
「第一、龍造寺の連中は悪逆非道なの。幼い子供の磔も一族の惨殺も平然とするわ。それも両方ただの難癖で。そんなことする家に兄上を差しだすなんて――」
「それでは、柏はどうして欲しかったんですか?」
 衣玖は冷静に問い返した。兄を危険なところに送った父への怒り、というのは理解できるが、おそらく彼女は他にも感情があるに違いない、と衣玖は思うからだ。
「え?」
「どうしたかったのか、ということです。もし兄を送り出さねば黒木が滅ぼされるのではなかったのでしょうか」
「それは……」
 柏は再び答えに詰まった。今度は話すかどうかではなく、答えられないのだろう。
「一番大切なのは、犠牲を全く出さないということではないのですよ」
 その柏に、衣玖は優しく語りかける。
「犠牲を出さないということではなく、犠牲を如何に少なくするかということなのです」
 その言葉は果たして本当に柏のための言葉なのか、衣玖にもわからなかった。そもそも衣玖だってそのことを完全に受け入れているわけではない。
「犠牲を出さないと言うことは不可能であるかもしれない。でも不可能であったとしても、犠牲を少しでも減らすために努力するということが最も大切なのです。そうして皆生きるのです。人も妖も」
 最後の言葉は衣玖自身の心に刻むべき言葉であった。そうやって龍宮の使いも生きているはずだ。いつから忘れていたのか、と思う。だがあれだけの無駄な努力――災いを回避しようとする努力を経て、衣玖は既にそのことを信じてはいない。自分で信じていないことを柏に語るとはほとんど騙っていると変わらぬ、と衣玖は自嘲の念に駆られる。それでも彼女にはそのことをわかって欲しかった。自分のように絶望しないで欲しかった。
 衣玖の言葉に柏は黙りこくってうつむいた。空はすっかり暗くなり、夕日に代わって左半分を缺いた半月が二人を正面から照らしていた。





 お手元に高校生向けの地図帳でもあれば、広げて頂いたほうがわかりやすいかもしれない。
 筑後というのは現在の福岡県南部にあたる。おおよそ福岡県の中ほどを横断する筑後川を境に南側を筑後、北側を筑前と呼ぶ。福岡県の中では久留米や大牟田といった都市が筑後に入る。
 ちょうど横長の長方形の形をしている筑後であるが、さらにその中央を縦に分けるごとができる。西側は筑後川や矢部川によって形成された平野部であり、東側は耳納や筑肥といった山地部である。
 黒木柏が生まれ育った黒木というのは、現在の八女郡黒木町にあたる。矢部川の上流部、山地から平野部に流れ出す出口の部分であり、現在では八女茶の主生産地として知られている。黒木氏は丁度現在の黒木町一帯を治める小さな領主だ。

 目を筑後から離してみると、筑後のすぐ東・現在の大分県にあたる豊後国には、九州の大大名・大友氏が勢力を張る。大友氏は現在の大分市中心部を本拠地とするが、その勢力は福岡県のほぼ全域及び熊本県北部にも広がっている。
 一方で筑後の西には龍造寺氏が勢力を構える。現在の佐賀市に本拠を構える龍造寺氏は長崎県・佐賀県全域を勢力下に置き、さらには福岡県西部や南部、熊本県北部にも触手を伸ばしている。
 さらに、筑後のはるか南、現在の鹿児島県には島津氏が控えている。島津氏は南九州を主勢力圏にしているが、天正十四年ともなるとその勢力範囲は鹿児島県・宮崎県・熊本県南部であり、さらに熊本県北部から筑後へと討って出る様子を見せていた。
 結果として、大勢力の錯綜する筑後は、この天正十二年の時点で日本一複雑な情勢にあるといってよい。ゆえに、筑後にひしめく小領主たちは各々の賭ける勢力へと臣従し、何とか生き残ろうと懸命になる。黒木を治める領主・黒木氏も決して例外ではない。






 妹紅は少々時間を持て余していた。監視と言う名目上、館の外に出ることは罷りならぬらしい。最初は館の中を平然と歩きまわって暇をつぶしたのだが、それもとうに飽きてしまった。仕方ないので弥十郎に頼み、何冊か本を借りて読んでいた。借りると言ったら弥十郎は相当に驚いていたが、おそらく妹紅が漢文を読めないと思ったに違いない。なんて無礼な奴だ、と妹紅は思う。
 まあ、本が読めて三食付いているならばそこまで怒るほどではないかな、と妹紅は思っている。そうでなければ火事でも起こしてさっさと逃げている。
「ちょっと、いい?」
 そんなわけで、今日も荘子を読みながら暇を潰していたのだが、向うから聞きなれた声が自分を呼び寄せた。
「なんだい?」
 どう考えても相手の方が身分が上であるのだが、結局これまで一回も敬語を使っていない。敬語を使う自分は何だか自分でも想定できないし、そこに立っている頼りない青年に敬語を使う気にもならなかった。
「今から外行くんだけど、一緒に行かない?」
「え?」
「だから、田北の里に出るけど行かない? ずっと閉じ込めといて退屈してそうだからさ」
 弥十郎は部屋の外からおいでおいでと手を動かしている。その様子が滑稽で、思わず妹紅は噴き出した。
「何だよ、笑うこたないじゃないか」
「いや、済まなかったね。私も外に出ていいのかい?」
「構わないよ。妹紅は間者ではないらしいからね」
 妹紅が笑った事に機嫌を崩したのか、妹紅の動きも確認せずに廊下を歩いていってしまう。
「いや、悪かったって」
 妹紅は謝りながら、慌てて追い掛けた。やはり弥十郎は子供だ、と思いながら。

「来たか」
 弥十郎に謝りながら付いてゆくと、館を出たところで宗哲が既に待っていた。
「遅いぞ、待ちくたびれたぞ」
「そこまで遅れたつもりないけど」
「叔父を待たせるようなことをして良いと思うのか」
「私はこれでも当主だけどね」
 二人の意気はまさにピッタリであるように妹紅には思える。双方とも、稀にみるほど上下の差に対してゆるい気もするが、このような時代にそれで大丈夫なのだろうか、と妹紅は少し不安に思える。
「さて、行こうか」
 若干呆れた妹紅の感情に気付いたのか気付かぬのかは知らぬが、弥十郎がポンと妹紅の肩を叩いて歩き始めた。妹紅もまたそれに若干首を竦めながら歩き始める。その態度がどうにも、大人ぶる子供に見えて仕方なかったのだ。

 田北の里は豊後国直入郡に位置する。直入郡を"奥豊後"と呼ぶこともあるように、豊後の中でもかなり内陸にあたっていた。田北の里は豊後を貫く大河・大分川の支流である芹川の源流部に広がっており、ほとんどが山である。人々はその山々を縫って流れる芹川に沿って広がる小さな平坦部に田畑を広げ家を建て、田北の里の中にいくつもの集落を形成している。
 もう蝉の季節、川の隣を歩いているとまるで両側の山全体が鳴動しているかのように思えた。妹紅はその暑さに少し辟易している。だが目の前に広がる棚田には青々とした稲がそよいでおり、その合間合間で農民たちが懸命に働いていた。その姿を見ると、自分ばかりがこの暑さに負けていてはならぬ、と思いなおす。
「おう、殿さま。一体今日は何の御用で?」
「大したことないよ。ただの見回りだから」
「そうですか、御気を付けて」
 弥十郎はほぼ全員の領民から声をかけられている。顔が完全に割れているところから推測するに、彼が里へと降りる機会はそれなりにあるのだろう。
「随分と良い殿さまをしているみたいね」
「いいや、そんなことないって」
 妹紅が褒めると、弥十郎は少し顔を背ける。どうやら照れているらしかった。
「弥十郎はこの性格だからな。外に出ねば気が済まぬらしい。まあ、今の田北にはこいつのようなのが丁度良いのだろうがな」
 宗哲がすかさず一言言う。それがからかいなのか真面目なのか妹紅には捉えかねた。
「私が田北の里にできることはこれくらいだから、当然だよ」
 右手でこめかみを掻きながら、ぼそぼそと弥十郎は言った。弥十郎の顔は紅く染まっている。
「私は養子だからね」
 さらり、と弥十郎が重大なことを告げるので、思わず妹紅は聞き逃しそうになった。
「養子であることと、こうやって里を回ることに何の関係が?」
「信頼関係がないからね。私と里には」
「弥十郎……」
 宗哲が心配そうな顔をして弥十郎を窘めた。だが弥十郎もさして気にする風はない。
「いや。それは素直に認めなきゃ。私は田北に送り込まれてきた養子なんだ」
「送り込まれてきた?」
 どうやら弥十郎の根幹に関わるらしいところに触れてしまったらしい。妹紅は後悔した。
 人の深い所に触れてしまったとて、どうせ人は死ぬのだ。どんなに関係が深くなろうと相手は妹紅より先に死ぬ。それをわかっているが故に普段から、妹紅は人の深い部分まで入り込まないようにしていた。その筈であった。
 だが、今回はもう遅かったらしい。それが弥十郎という男の計算であるのかそれとも妹紅が埋火を踏んでしまったのか、どちらかはよくわからないが。
 しかし、踏んでしまったならば仕方ない、と瞬時に妹紅は腹を括る。聞くだけ聞いてさっさと忘れるに限るのだ。
「そ、送り込まれてきた。田北は大友の家に反逆したからね」
「反逆では……」
「いいから叔父上はとりあえず黙ってて」
 反逆の言葉に過敏に反応した宗哲を押さえて、弥十郎は話を続ける。
「つい6年ほど前、田北家は大友家に反旗を翻して討伐された」
 いきなり、随分と物騒な話であった。
「ちょっと長い話になるから座ろうか」
 気付けば、棚田の一番上まで登ってきていた。弥十郎は軽い身のこなしで畔に座る。それに従うように宗哲も妹紅も座った。水を張った田が日の光にあたって輝いており、下の方は山が影を落としている。その明暗の付き方が妙に美しく見える。
「ええと、そう。田北家はあっさり負けてしまって、この田北村が酷い戦場となることはなかったけれど、その後に問題が残った」
 宗哲はとても不服そうであるが、弥十郎は全く気にしない。
「いくら大友本家としても、重臣である田北家をつぶすわけにはいかず、だからといって反乱を起こした危険分子をそのまま相続させるわけにはいかなかった」
 政治判断というやつか、と妹紅はだいたい話の筋を理解した。妹紅とて高貴の生まれ。父が隣でそのような複雑な政治をしていたのを伊達に見てはいない。
「そこで婿養子として選ばれたのが私だったみたい。私の祖父は大友家の重臣中の重臣だったし、他の一族も大友家の重要な位置を占める人が多かったから、監視には丁度良かったんじゃないかな」
 さらり、と言ってのけるがその裏に相当な苦労があったのだろう、と妹紅は思った。いきなりひとり敵地とも言うべき場所に送り込まれて家督を継ぎ当主となる。一度もそのような重要な地位に就いたことのない妹紅には想像できないが、相当な苦労であったことは疑いないだろう。
「まあ、そんだけ。そんな地位だから少しでも田北の里に馴染もうと歩いてるだけだよ」
 彼の軽さというものが彼の取り柄でなかろうか、と少し妹紅は弥十郎への評価を改めた。威厳が欠片にも感じられない穏やかそうな態度と丸い顔が、ひょっとすると独り敵地に放り込まれた彼の生きる術だったのかもしれない。
 そう考えてみると、弥十郎という男は決して無能ではないのかもしれない。妹紅は弥十郎という男に興味を持った。この如何にも頼りなさげな男が一体どちらへ向かって歩んでいくのか、見てみたいと思ったのだ。
 それは極めて久しぶりの感情であるといえた。無限の時の中、妹紅は人との交流を諦めていたはずだった。すぐに死ぬ人間と交流しても仕方がないという諦観だけが妹紅を支配していたはずである。それゆえ、弥十郎という男に興味を持ったことで、妹紅は自分に人間を見ようとする気持ちがあることに驚いた。






「また現れたか。そんなに儂が楽しいか?」
「いや、鬼ともなると他に娯楽もないもんでね」
 勇儀はいつも通りの道雪の横顔に笑いかけた。道雪は別に上機嫌にも不機嫌にもなること無く、ただ酒を飲んでいる。
「なにせ、あんたからは鬼の匂いがするんだよ。我々と同じね」
「ふっ、冗談が過ぎるぞ」
 静かに道雪は笑った。合せて勇儀も静かに笑い、その場に座り込んだ。
「しかし、ここに来るといつも独りで酒を煽っているが、ほかに相手でもいないのか?」
「昔は居ったんだがな」
 道雪は盃を煽った。
「皆死んでしもうた」
「そうか」
「昔は連日同じ四人で座を囲んで飲んでおった。儂は上から二番目に年上のはずだったのに、三人とも儂を置いてさっさと逝ってしまってな。気付いたら儂独りになっておった」
 その寂しさを紛らわすかのように、道雪はとっくりを持って再び盃に酒を注ぎ、一気に煽る。
「まあ、昔の話よ。ぐだぐだ言うても仕方ない」
 からから、と道雪は笑う。だがその道雪が、この男の雰囲気とは似合わず、勇儀には酷く寂しそうに見えた。
「それで鬼よ、今日は何を問いに来た?」
「いいや、何も。そもそも問いに来てるわけじゃないからね」
 寂しげな道雪の姿を吹き飛ばすために、勇儀は盃の酒を一挙に飲み干した。鬼とて涙したくなるときはある。
「では、何故ここにおる?」
「酒の肴だよ。あんたと話すと楽しい」
「そうか」
 道雪は諦めた様子であった。とはいっても初見から相当に冷静な様子であったから、鬼が居るも居ないも道雪という男にとってはどうでもよいらしい。
「では、儂から問うてみようかな」
 盃を右手に、道雪は初めて体ごと勇儀の方を向いた。その鳶色の瞳は勇儀の真紅の瞳を捉えている。その力の強さに勇儀は完全に気押された。
「鬼にはどのようにしてなる?」
「は?」
 道雪が何を言いたいのか、勇儀にはわからない。
「儂が鬼になるにはどうすればよい?」
 二度目にして漸くわかる。この道雪という男は、なんということであろうか、鬼になりたいと言う。
「あんた、鬼になりたいのか?」
「鬼になれるものならな」
「既に"鬼"のようなものではないのか?」
 先ほどの眼力はとても人間から外れた力があるように、勇儀は感じた。この男には何か人ではないようなものを感じるのだ。先ほどの、鬼の匂い、というのも決して冗談ではない。道雪という男はやはりどこかに鬼らしきものを持つのだ。"鬼道雪"( きどうせつ )という異名もさもありなん、と勇儀は思っている。
「いいや、儂は所詮人でしかない。残念ながらな」
 しかしこの道雪という男は、自分を人と言い張り人であることに落胆する。そのこころがよくわからなかった。
「では何故鬼になりたいんだい?」
「鬼であればこの状況を打開できようて」
 道雪の言葉は真面目であった。酔狂でも戯言でもないことは、彼の目を見れば明らかである。
「鬼なぞ碌なことはないよ。嘘は決して吐けぬしただ騙されて殺される」
「嘘を吐けぬのは嘘を吐かずとも生きるだけの力があるが故であろう。人が嘘を吐くのは嘘を吐かねば生きていけぬような弱いもので有る故」
 ふむ、と勇儀も神妙に道雪の言葉を聞いていた。だが少し鬼への希望的観測が含まれすぎている気もした。
「この大友を立て直すには最低でも10年はかかろう。されど、儂があと10年生きることはなかろう」
 人間だからな、と道雪は真剣な口調で言う。
「だが鬼なれば話は変わる。儂が鬼なれば10年生きることも容易い。儂が大友家を立て直すことも簡単にできよう」
 道雪は笑う。その笑いは凄惨なもので、勇儀が思わず盃を取り落しかける程の雰囲気を纏っていた。
「本当に、儂が鬼であれば良かったのだがな」


 鬼がその場から立ち去って間もなく、部屋の戸が開かれた。
「道雪どの」
 入ってきたのは壮年の男。端正な顔立ちであるがその体は無骨な武将の体である。
「紹運か」
 その男は高橋紹運(じょううん)という。道雪の同僚であり優秀な男であると道雪も思っている。その紹運がどこか不安げな顔をして道雪の正面に座った。
「ふむ、何か起きたか?」
「恐れながら、お聞きしたいことがございます」
「儂にか?」
「はい」
 別に大友家がどうしたとかこの立花の城がどうしたとか、そういう話ではなさそうだ、と道雪は判断を下す。しかしならばどうして不安げなのかが道雪にはいまいちわからない。
「儂に何を聞きたいのだ?」
「つい先ほどまで、一体どなたとお話なされていたのです? 本日来客がある予定もありませんし、この時間はいつも道雪どのはお一人で部屋に籠られる時間ではないでしょうか?」
「ああ、そのことか」
 道雪は少し笑って、紹運の前に盃を差し出した。紹運はそれを両手で取る。
「儂は鬼と話しておった。なかなかこれが面白うてな」
「鬼、ですか?」
 道雪はとっくりから紹運の盃へと酒を注いでやる。紹運は不思議そうな、益々不安そうな表情となった。
「おう、鬼よ。およそ高良山か英彦山あたりの鬼であろうな」
「どうしてそのようなものが、こんなところに……」
「なんでも儂が奴には面白いらしい。いったいこんな老人を見てどこが楽しいのだか」
「鬼が楽しい、ですか」
 思いつめたような表情を紹運は浮かべる。それを道雪は軽く笑い飛ばした。
「紹運は真面目よな。そのように思いつめる必要もなかろうて」
「ですが、鬼といえば災いを持ち歩く妖怪。そのうえ我々よりはるかに力のある者。道雪どのはそれが大丈夫なのでしょうか?」
「馬鹿を言え」
 真面目に悩む紹運の頭を、道雪は軽く小突いた。その表情は笑っているが、目が武将の目である。
「鬼は人に狩られるべく存在しておる。そのような者共がどんなに足掻いたとて、決して人の上には立てぬのよ」
 鬼になりたいという欲と鬼は人に勝てぬという認識。一見では相反しているが決して矛盾はしない。道雪の相手は人ではなく、運命であるのだから。








     ――薄桜――

  無 則ち白なり。白の僅かに赤く染まるを薄桜と曰ふ。


 衣玖の目の前には、大きな大きな藤の木が枝を広げていた。生憎、もう夏であるので藤棚は緑の葉が茂るばかりであるが、咲いているときの圧巻を衣玖は容易に想像し得た。
「これは、凄い藤ですね」
「そうそう、この素盞鳴(すさのう)神社の藤が咲いてる時は凄いんだから」
 藤棚の下を歩きながら柏は胸を張っている。この藤の木は何よりの自慢らしく、柏の顔は衣玖の反応を楽しみにしている顔だ。
「それは楽しみです」
 ふふ、と衣玖も笑って見せた。その反応に柏は満足げに振り向いた。
「なんでもこの藤の木は、応永にねんにヨシナリシンノウニヨッテ」
 本当に誇りに思っているのか、柏は衣玖に説明を始めた。しかし、妙にたどたどしい。
「柏、それちゃんと理解してしゃべってますか?」
「ごめん、わかってない」
 ちろり、と舌を出して柏は笑う。衣玖もまた釣られて笑った。
「全く、ちゃんと分かってから話してください」
「だって、昔の話になんて興味ないし」
 興味はなさそうだな、と衣玖も思う。なにせ本を広げている暇があれば外で駆けまわっているような少女だ。無理もあるまい。
「それよりさ、こっちこっち」
 柏は思いっきり衣玖を引っ張る。どうやら連れて行きたい所があるらしい。
「はいはい」
 衣玖はそれに引っ張られて付いて行った。


「……無眼界、乃至、無意識界……」
 本殿からは経の声が響いてくる。どうやら神前読経を行っているようである。
「経ですね。あれは、般若心経かな?」
 衣玖とて全く経を知らないわけではない。妖怪の中には仏法に信心してそのまま仏法の守護者を自称する奴もいるから、そういうのに話を聞いたりするのだ。
「あれなら唱えられるよ」
 また柏が胸を張って見せた。そうしてそれを衣玖へ示すように般若心経を唱え始めた。
「えっと、かんじ~ざいぼ~さつぎょうじんはんにゃ~は~ら~……」
 だがその様子に衣玖は笑って言い返す。
「ちゃんと中身までわかってます?」
「……さあ?」
 とぼけた顔で彼女は答えた。こんな娘に般若心経を延々解説されたらそれはそれで困るから良いのかもしれない、と衣玖は思うが。
「あ、ひとつだけ知ってるよ!」
 苦笑していた衣玖に向かって、今度こそと瞳を輝かせて柏は言った。
「色即是空、空即是色って言葉、意味説明できるよ」
 名誉挽回だ、とばかりに両手を腰に当てて見せる。その姿が衣玖には妙に微笑ましかった。
「どういう意味なんですか、それ?」
 生憎般若心経の意味を知らぬ衣玖は、彼女の説明が合っているかどうかを判断できない。それが残念だと言えば残念である。
「えっとね、世の中の全ての物事は空で、世の中の物事全ては空でできてる、だったよ」
「空?」
 くう、とは空だろうか、と衣玖は考えた。いまいちわかりにくい言葉である。
「空って、なんて言うか、無?」
「無ですか?」
 およそ柏の理解の範疇を越えていたらしい。衣玖にはさっぱりわからなかった。もっとも、もし柏がこの二つの言葉について完璧に説明できたとして、それを衣玖が完全に理解できたかと言われれば、それも怪しいように思う。
「世界はすべて無から成り立っていて、無は世界のすべてである……かな?」
「結局よくわかってないじゃないですか」
 衣玖が柏に優しく言ってやると、柏は頬を膨らませた。どうやら衣玖が子供扱いしているのが気に喰わないらしい。
「だって、話難しかったんだもん」
「なら素直に、よくわかんなかった、と言えばよかったのですよ」
「えー」
 柏は衣玖の提案に非難の声を浴びせて見せる。きっと自分は大人でありたいと、そういうことを思う年ごろなのだな、と衣玖は笑った。
「さて、そろそろ雨が降りそうなので今日はおとなしく館に戻りましょうか?」
「え、雨?」
 柏が不服そうなまま衣玖を見る。空は真っ青でこれでもかというほどの日差しを二人に浴びせている。
「ええ。この空気だともうじき雨が降ります」
「え~」
「賭けてもいいですよ」
 衣玖は二コリと笑った。空気を読む衣玖の天気予報はまず外れない。
「うーん、わかった。これで雨が降らなかったら酷いからね」
 そう言いながら笑って柏は城の方へと足を向ける。衣玖も柏に連れられて館の方へと歩き始めた。


 しかし、と衣玖は頭の中に文言をとどめ置く。色即是空、空即是色とはどういうことなのだろうかと。






「おい、弥十ろ……あれ?」
 妹紅が弥十郎の部屋を覗いてみると、どうやら留守のようである。そもそも当主の部屋を平気で覗きこむことが許されているあたりからも妹紅の城内での待遇がわかる。というよりは、田北の土地での身分の緩さがわかるというべきかもしれない。
 弥十郎は田北村においては村長程度の扱いであり、決して大友家重臣というような扱いではないのだ。
「お、妹紅。弥十郎に用か?」
 妹紅が襖の隙間から顔を出すと、少し向うで宗哲が伸びをしていた。
「弥十郎なら仏間へ行ってるが、用があるならそちらに行きな」
「仏間?」
「そうだ」
 宗哲は丁寧に場所を教えてくれる。最初は妹紅が敬語を使わないことに難色を示していた気もするが、とっくにそんな様子はない。ああいう当主がいれば輔佐もこうなるらしい。
「ああ、だいたい場所はわかったよ。有難う」
「いや、こちらこそ妹紅の自由を奪ったままで悪い。一応、大友本家への義理があるもんでな」
 妹紅が一礼すると宗哲もまた一礼する。そういうところはきちりとした武士であった。

「弥十郎、いるか?」
 妹紅が襖を少し開けると、弥十郎は仏間で仏像に手を合わせながら何かを唱えている。仏像は釈迦如来のようであり、その穏やかな表情はあまり時代と合っているようには思えない。
「……即説呪日(そくせつしゅわつ)羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)……」
 どうやら般若心経らしい、と妹紅は幾つかの単語からそれを聞きとる。父の影響で妹紅は般若心経を暗誦できる。ついでながら、四書五経もほとんどできる。父は漢籍バカの教育バカだった、と今では思っている。"(ふひと)"なんて名前だったのだから仕方ないと言えば仕方ない気もするが。
 弥十郎の澄んだ読経の声が響く。蝋燭の灯りのみである仏間の雰囲気も相まってそれは妹紅にとって心地よかった。
「あ、妹紅。来てたなら止めてくれればいいのに」
 弥十郎は経が読み終わって振り向き、初めて妹紅の存在に気付いたようである。
「気付いてなかったの?」
「気付かなかった」
 それはそれで問題な気もする、と妹紅は苦笑して言った。
「もし私でなくて間者だったりしたらどうするつもりだったんだ?」
「来ないと信じたいね」
 弥十郎も苦笑しながら体ごと向きを妹紅の方へ変える。どうやら勤行は終わったらしい。
「それで妹紅、何か用があったの?」
「まあね」
 妹紅は頭を掻く。その実、大した用ではない。
「実は本を読み終わったから、別の本でも貸してもらおうかと」
「もう読み終わったの?!」
 弥十郎は唖然としている。弥十郎には最初、妹紅が漢文が読めるのかどうか真剣に心配されたし、無理もない。
「そりゃ、暇だったからな」
「暇だからって……まあ、いいや」
 弥十郎はす、と立ち上がった。この男、鈍重そうなくせにこういう一所作一所作にはどことなく気品がある。それが何故か妹紅にはいまいちわからない。
「それじゃ、こっち」
 弥十郎が板戸を引くと、外の明るさが妹紅の目を打った。昼の光はこの暗がりにいた身からすると少し眩しすぎる。

「ところで、今のはいつも唱えているのかい?」
 歩きながら妹紅は聞いてみる。こう言うと悪いが、弥十郎という男が妹紅には其処まで信心深い人間には見えなかった。
「ん、ああ」
 弥十郎は頷く。
「いつもだよ。座禅組んで、般若心経を唱えるんだよ」
「やはり般若心経か」
「あ、知ってたんだ」
「そりゃ当り前だろ」
 あまり当り前ではないかも、と妹紅はふと思う。妹紅は教育バカの御蔭で知っているが、はたして実際の女性のどれくらいが知っているか。もし唱えられたとしても意味まで捉えている人はそれほど多くないかもしれない。
「当り前ではなかったかな?」
「妹紅の学識の高さは知ってるからもう驚かないよ」
「学識……?」
 妹紅は耳を疑った。自分が持っているのは学識などと言う高尚な物ではなかったはずだ。少なくとも、妹紅はそう思っている。
「学識なんて……」
「ついでだし、妹紅に質問なんだけれどさ」
 しかし妹紅の反論は弥十郎の問いに押し潰される。強引な奴だ、と少し思う。
「なんだい?」
 でもこの問いを無視して反論してもしょうがないので、妹紅は諦める。
「色即是空、ってどういう意味?」
「……般若心経の有名な一節ね」
 弥十郎は妹紅を試すような目つきで眺めていた。妹紅は、珍しく弥十郎という男を少し不快に思った。
「そう。私にはよくわからないから」
 わからない、というのは嘘ではないだろうか、と妹紅は思う。わからないのであればそういう目つきはできないだろう。
 まあいいか、と妹紅は答えることにした。この程度の意味がわからぬ妹紅ではない。
「全ての事象は空虚、空虚から全ての物事は成り立っている」
 さらりと言って見せて、それから逆に試すような目つきで妹紅は弥十郎を見た。
「これでどうだ?」
「なるほど」
 弥十郎は少々大げさに頷いて見せる。
「ありがとう」
 それっきり弥十郎は何か考え込むように黙り込んでしまった。
 妹紅には結局弥十郎が何をしたかったのか、終ぞわからなかった。
「……空虚、か」
 弥十郎の呟きは、妹紅の耳には入らない。






 相変わらず今日も衣玖は外へ引きずり出されていた。本当に柏という少女の行動範囲は広い。ほとんど衣玖は振り回されている有様であるが、それが衣玖は嫌いじゃなかった。活発に動き回る彼女といると、なにか心に活力が与えられる気がしてくるのである。
 それに、相変わらず羽衣は手に戻ってこないのだ。羽衣がない限り帰ることもできないから、衣玖はここに居るしかない。そういう理由でなし崩し的に、衣玖は柏の元に居座っていた。

「随分と登りますね。今日は」
「そうなの。でもとっておきの場所があるからどうしても来たくて」
 もうどれほど登ったろうか。二人で山道に入り込んでからだいぶ経ったように衣玖には思える。周囲は蝉の大合唱で、少々大き目に声を出さなければ会話ができないほどだ。
「体力的には大丈夫? 病み上がりだし」
「それは大丈夫ですよ」
 実際衣玖の足取りは非常にしっかりしたものだ。ともすれば衣玖の方が柏よりも歩くのが早いかもしれない。
「それなら良かった。もうすっかり元気になったね」
 衣玖に元気な笑顔を浮かべて、彼女は楽しげに言う。自分が本復したことをここまで喜んでくれる柏に、衣玖も嬉しくなった。
「さて、もうそろそろだと思うんだけれど」
 先に森の切れ目が見えて来る。ずっと暗い森の中を歩いてきたので、太陽の光が少し目に沁みた。
「ほら」
 森が切れると、眼下に田畑が広がっているのが見えた。川の両側に田畑の広がる光景、黒木と同じと言えば同じだ。
「あの田畑は五条どのの御領地。だからこの山が私たち黒木の最東端ってわけ」
「ここが境界?」
「そういうこと」
 目の前に広がっている風景は黒木とほとんど似たようなもの。全く変わらないようなのに、衣玖が踏みしめている山を境目にして人間たちは区別するという。言葉で聞いて理ではわかったとしても、感覚的に理解するのは衣玖にとって難しいものだった。ある線を境界に色が変わっているわけでもなければ、壁があるわけでもないのだ。ただ人間たちは勝手に境界をつくって区別している。
「それで、降りないのですか?」
「もし見つかったら殺されてしまうから降りない」
 これまた恐ろしい答えが返ってくる。降りたら殺されるとはどういうことか、あの町は人食い妖怪の住む町なのか。
「五条どのは大友家の傘下にあるからね。一方の私たち黒木は龍造寺家の傘下。違う勢力に従っていればそりゃ、対立することになる」
 衣玖は慌てて先に聞いた九州の勢力図を思い返す。確か筑後は西の龍造寺家と東の大友家の係争地になっている、ということだったはずだ。
「つまりこの山の向こう側は完全に敵方ということですね」
「そういうこと。まあ、山の尾根に沿って黒木の砦がいくつかあるから、山の麓から向うが五条どのの領地ということになるかな」
「なるほど」
 黒木の里もそれほど広くないらしい。僅か四里程度歩いただけで隣との境界にぶつかってしまっている。もっとも、黒木が広いようであったら筑後の混乱に揉まれようもないだろうが。
「あそこに山の切れ目があるでしょ、あの向うまで行くと豊後だよ」
 豊後――大友氏の本領に当たる。現在の黒木の宿敵だろう。
「中々大変な位置に位置してるのですね」
「そうでもないはずだったんだよ」
 柏はすこし真剣な声で言った。
「元々、筑後十五城って言い方があるの……」
 柏は黒木という場所についての説明を、懇切丁寧に始めた。




 地図があるならば、再び広げて頂けるとわかりやすいだろう。或いは、インターネットで見られる諸地図でもよいかもしれない。
 この筑後地方を押さえているのは、多数の小さな領主たちである。その中でも代表的な者を筑後十五城といい、現在の柳川市に本拠を置いた蒲池氏や、大牟田市に勢力圏を持つ三池氏、矢部村の五条氏などが上げられる。勿論黒木町の黒木氏も入っている。
 彼らのうち最大勢力であった蒲池氏は既に滅んでいるが、残りの14氏は天正十二年の段階でもまだ筑後に(ひし)めいている。そしてそのほとんどが佐賀の龍造寺氏の傘下であった。ただ矢部村の五条氏とうきは市の問註所氏を除いて。
 そして、矢部村の五条氏が黒木にとっては曲者である。衣玖と柏がたどった通り、黒木から矢部川を遡って行けば矢部村がある。そしてその先は竹原峠に続き、その向こうは豊後日田郡である。則ち、龍造寺氏の宿敵・大友氏の本拠だ。当然大友氏が筑後の攻略を始めようとすればこの道を通ってくる。矢部村の五条氏も大友氏の傘下であるのだから、大友氏に対する筑後の最前線とは言うまでもなく、黒木氏になる。衣玖と柏、二人が立っていた境界線は、ただ筑後を割拠する領主同士の境界なだけでなく龍造寺氏と大友氏という九州の二大勢力の境界線でもあったわけである。

 さて、もう少し状況説明にお付き合い頂きたい。話の本筋には関係ないかもしれないが、柏という少女がどうして真剣になってしまうのかという説明には必要だ。
 天正十一年まで筑後で圧倒的だったのは龍造寺氏である。それは、筑後十五城の領主のほとんどが龍造寺氏に従っていることを見ればわかる。しかし、この物語の舞台となっている天正十二年を境目に変わってしまった。それ以降龍造寺氏は一挙に求心力を失ってしまう。
 それは何故か。理由は簡単である。戦に負けたのだ。
 天正十二年弥生、龍造寺氏は島原半島に侵攻した。当主・龍造寺隆信自らが二万五千の軍勢を率いての大遠征である。本来ならば島原半島を制圧するのは時間の問題のはずであった。
 しかし、現実はそうとならなかった。島原救援に来たわずか三千の島津軍が現在の島原市郊外でこれを迎え撃ち、龍造寺軍はこれに敗れてしまったのである。この戦いで隆信以下重臣の多くが討ち取られ、龍造寺氏は1日にして立ち直れないほどの損害を被ってしまった。これを沖田畷合戦と呼ぶ。
 ここで敏い読者の方はお気づきかもしれない。衣玖が弥生に見た島原の戦とは、この戦である。
 ともあれ、これで龍造寺氏は一挙に勢力を失った。その結果として筑後の支配は再び不安定になってしまったのである。守ってくれるはずの勢力が倒れてしまったのは、筑後の領主たちにとって大きな衝撃になっただろう。
 だから、柏が真剣になるのも無理ないのである。
 閑話休題。




「そんなわけで、今の黒木はそこまで安全じゃない」
 存外に黒木という場所は不安定らしい。いや、正しくいえば不安定になったらしい、と衣玖は思う。それもつい最近のことという。ひょっとしたら自分が災いを持って来てしまったのではないか。
 良く考えてみればこの不安定さの理由も、衣玖が見ていた島原の戦だという。衣玖の関わったことで不安定になった。これは、災いを持ってきたことに他ならぬのではないだろうか。そう衣玖には思えた。
「やはり、私のせいでしょうか」
 一言、衣玖の口を突いて自責の言葉が出る。それは必ずしも衣玖が意図したものではなかったが、衣玖の心を的確に示すものであった。
「どうして?」
 当然、柏は聞き返す。
「いえ……」
 衣玖はうっかり一言零してしまったことを後悔した。好奇心が旺盛でかつ優しい彼女のこと、こんなことを言ってしまえば突っ込んでくることは確実だったのだ。
「今私のせい、って言ったよね? 衣玖のせいってどういうこと?」
 柏はまだ子供だ。子供だからこそ遠慮を知らぬ。柏は容赦なく聞いてくるのだ。
「私は……」
 しかし衣玖は戸惑う。これまでずっと自分の凶兆性については自覚してきたし、自覚するために幾人もの人を殺してきた。それでも自分は凶兆であることをどこかで信じていないらしい。衣玖は自分を凶兆と名乗るのには躊躇いがあった。
「私は?」
 子供とは無慈悲である。空気を読むということを知らない。衣玖は観念するしかなかった。
「私は凶兆なのです。凶事を運ぶような大悪の妖怪です。だから、この黒木にも凶事を運んで来てしまったのでしょう」
「凶兆って」
「柏の父上も申していたでしょう。私は黒木に凶事を齎す凶兆なのです。」
 彼女の父は最初に衣玖を殺しにきた。それを柏がかばってくれて、今の衣玖がある。しかし考えようによっては、あそこで衣玖が殺されていればもう少し黒木はマシであったのかもしれない。そう衣玖には思えて来る。
「どうして? 衣玖が何を持ってきたの?」
「私は凶事を運びます。きっと黒木の状況も、私が凶事を運んできたからなのではないでしょうか」
「どうして?」
 しかし彼女はわかってくれない。衣玖が凶事を運んできた、ということを理解しなかった。
「衣玖は何にも関係ないじゃない。この黒木が前線になっていたのは前からだし、隆信が死んだのも自業自得よ」
「でも」
「衣玖は凶兆なんかじゃない!」
 柏は突然叫んだ。その声の大きさに柏は若干気押される。
「少なくとも私は衣玖が来てよかったと思っているもの。凶兆かどうかなんて考え様だもん」
 いつも子供の癖に、つい先まで子供であった癖に、こういう時に限って柏は妙に大人だった。その言葉は確実に衣玖の心を温める。
「自分が思う方向になれるんだよ。衣玖だって」
 その言葉は、久方ぶりの――本当に久方ぶりの救いの言葉であった。無邪気で純真な柏の言葉であるからこそ、衣玖には深く深く染みる言葉だ。
 ひょっとしたら、自分でも凶事の方向性を変えられるのかもしれない、とこの瞬間に衣玖は思っていた。本当にもしかすると、自分が凶兆で無くなる日というのもいつか来るのかもしれない。人妖に嫌われなくなる日も来るのかもしれない。ほんの少しであったが、そんな希望が衣玖の心に芽生える。
 柏と接する中で、衣玖は人と接することに少し自信を持ち始めていた。少なくともまだ、柏という少女に凶事を齎してはいない。もしかすると、このまま良い関係を築けるのかもしれない。
 もう少しここに居よう、と衣玖は初めて自発的に思った。羽衣の有無は関係ない。この黒木にいれば自分が凶兆ではなくなるかもしれない。柏という少女と一緒にいると自分が洗われるような気が衣玖にはするのだった。






 天正十二年文月。豊後大友家の当主・大友義統は龍造寺の弱体化を見てとった上で、筑後攻略の命を下した。ほぼ龍造寺の手中にある筑後を再び大友家に取り返すのは、当主・龍造寺隆信が死んで龍造寺家が混乱している今の時しかない。それは誰の目にも明らかであった。
 そして、大友家の中でも比較的大きな軍事力を保持し、また豊後の中でも西の方に所領を持つ田北氏も軍勢供出の命を受け、参陣することとなった。

「随分と騒がしいわね。全く、ゆっくりしようもないじゃない」
「ごめん。でも、戦の準備だから仕方ない。あ、荘子読み終わってる」
 妹紅のいる松牟礼城は喧騒のさなかにあった。出陣を目前に控えて城の中も外もてんやわんやの大騒ぎ。兵たちの走る足音やら武具のぶつかる金属音やらが城中に響き渡る。
「それじゃあさ、弥十郎はこんなところでぼぉーっとしてていいわけ?」
 しかし当主であり最も忙しいであろう弥十郎は、妹紅の前で妹紅が読もうと積んでいた本の山を見ている。
「私がいても足手纏いだからねぇ。これは」
「足手纏いって、あんたこれでもここの長じゃないのか?」
「でも戦の経験は叔父上に比べてもだいぶ少ないし」
 こいつはやる気もないのか、とすこし妹紅は呆れた。呆れられた本人は目の前で本を開いている。
「あ、そうそう」
 突然彼は本を下に置き、妹紅の方へと向き直る。ぱた、と音を立てて本が閉じた。
「?」
「もう出陣する先の話は聞いた?」
「聞いているわけないよ。一応間者の疑いが掛かってるんだから」
「そう。なら言っとく」
 は、と妹紅は愕然とした。確かに自分は間者じゃないし、情報が漏れたとて何の影響もないだろう。だが、それでも間者の疑いが掛かった者にあっさり情報を渡してしまうのは如何なものか。
「今回、私たちは筑後へ攻め込む。黒木・星野・草野・西牟田といった諸領主を従えに行く」
 だがそんなこともお構いなしに弥十郎はぺらぺらと話していく。
「それで、重要なのがここからなんだけれど」
 何が重要だ、と妹紅は突っ込みたい。この男の才の有無が本当に妹紅にはわからない。
「どうやら黒木に妖が居るという情報がある。これはあちらに紛れ込ませておいた間者からの情報らしいんだけれど、異形の者がいるのはおそらく間違いあるまい、って」
 妖? と妹紅は少し態度を直した。いい加減彼を馬鹿にするような態度で聞いているわけにもいかないらしい。そういえば、適当に話半分に聞いているような酷い態度を妹紅が取っても全く怒りもしない弥十郎という男は、本当に優しいというか鈍感というか。
「そこでさ、妹紅に付いてきてもらいたいんだよね。私たち田北勢に」
 付いてくる、とは戦争に付いてこい、ということだろう。
「嫌だね」
 すぐに妹紅は拒否した。
「御断りさせてもらうよ」
「随分と速いね、決断が……」
「人の争いは見飽きたんだ。そんなのごめんだね」
 長い間生き続け、妹紅は争いを見続けた。人と妖怪の争い、妖怪同士の争い、人同士の争い。そしてそれのいずれもが酷く醜いもので最後は悲惨な終わりを迎える。いつか争いも平穏に収まる時があるかもしれない、と思っていたのはいつの日か。もはやそんなこと思うこともできなくなり、醜い争いを見てはまたかと嘆息するだけになってしまった。
 そうやって見飽きたものであるから、見飽きたものであるからこそ、わざわざ争いを見に行きたいとは思わない。むしろ決してみたくない、と妹紅は思う。
「そっか」
 少し残念そうに弥十郎は呟いた。
「わかったよ」
「ああ、争いはそっちだけで行ってくれ」
「それで、全く関係ないお願いがあるんだけれど」
 こいつは本当に自分にかまっている暇などあるのか、と思う。が、良く考えてみればこいつはまだ子供なのだ。おそらく初陣を済ませたばかりとか、その程度の年のはず。であるならば確かに戦の用意には邪魔かもしれない。それに当主がそんなに走りまわるものでもないのかもしれない。そのあたりはこの時代の武士の常識を知らぬ妹紅にはわからない。
「ちょっと外に行くから、付き合ってくれないかな?」
「なんだそりゃ」
「いや、ひょっとするとさ、もう妹紅と会うのも最期になるかもしれないし」
 弥十郎は笑顔を向ける。その笑顔が妙に輝いている。
「私が黒木で死ぬかもしれないでしょ」

 妹紅にとって何度目かになる田北の里は、夏の盛りであった。強い日差しは山間であるこの里をも襲い、湿気た暑い空気が山に囲まれたこの里に溜まっている。ちょっと耐えがたい暑さである。
 しかし、妹紅はそんな状況すら全く忘れてしまうような情景に直面していた。
「なんだ、これは……」
 目の前に広がるのは棚田。妹紅と弥十郎が立つ川岸から見ると天に昇る階段のように上の方まで連なっている。だが、水が張られて稲が植えられている田は本当に一つもない。全ての田には妹紅の背丈ほどもある雑草が生い茂り、田にしては異様な濃い緑を振り撒いている。
 その棚田の下の方、川から少し上がったところにここの集落に住む人々の家が固まってある。はずであった。その家々のほとんどは廃屋と化し、あるいは半分潰れ、或いは屋根が落ち、その孰れもがこれまた背の高い草に覆われてとても入れる状態にはない。
 妹紅の正面に広がるのは、正真正銘の廃集落であった。
「ここは田北の集落のひとつだよ。6年前までは平和に存在した」
「6年前……?」
 妹紅がさらに問い詰めようとしたところで、崩壊を免れた数少ない家の一つから女が顔を出した。その女が二人を見ると、驚いたように平伏しようとする。弥十郎は慌てて駆け寄ってそれを制止し、立ち上がらせた。その一連の行動に妹紅の言葉は止められてしまう。
「殿、このようなところに一体なにゆえ?」
 まだ若い女だ。25歳くらいだろうか、と妹紅は見当を付ける。色は日に焼けて黒いが、小顔で目鼻立ちの整った女性である。横におおよそ三尺四方の木の箱を置いている。どうやらこれを担いでどこかへ行く予定だったようだ。
「まだここに住んでいたの?」
 寂しげな顔をして弥十郎は答える。その顔は、普段明るい彼にしては珍しい表情である。
「いいえ。流石にそれでは食べていけませんから」
「そうだよね。それじゃ、どうしてここへ?」
「父や兄、夫が帰ってきたときに家がなければ困るでしょう。だから時々掃除に」
「そっか。頑張ってね」
 弥十郎がねぎらうと、そのねぎらいに答えるように軽く会釈して、彼女は箱を背負って妹紅たちが来た道の方へと歩いて行った。おおよそ田北の中心の方へと帰るのだろう。
「あれは一体?」
「あの人は、6年前に祖父と父、叔父2人、兄3人、そして新婚したばかりの夫を亡くした人。今は別の集落に住んでたと思う」
「何だそれは」
 それだけの人間がまとめて死ぬような話はそうそうない。おおよそそんなものは疫病くらいだ。
「6年前に大きな戦があったんだよ」
 弥十郎は長い話を始める。それは田北の里にとっての大きな大きな出来事であった。




 天正十二年から去ること6年前の天正六年。当時大友氏は繁栄の絶頂にあった。鹿児島県と宮崎県を除く九州全体に勢力を拡大し、かの龍造寺氏すらも従えて九州の覇者となっていた。
 その大友氏は、未だ従わぬ日向国、現在の宮崎県への侵攻を計画した。当時日向は鹿児島の島津氏が統治を始めた直後であり、不安定だったのである。
 大友氏は6万ともいう大軍を編成すると北より日向へ侵攻。一挙に南へ下ると次々と城を陥落させ、高城川北岸に位置する高城を包囲した。ここは島津氏直属の軍が籠っている城であり、島津氏の日向支配の拠点であった。
 この高城を落とされるのは不味いと判断した島津氏は、当主・島津義久自ら4万の軍勢を率いて高城川南岸へ援軍に現れる。そうして大友軍と対峙した。
 大友軍はすぐさま高城川を渡河して島津軍を攻撃した。しかし、的確に伏兵を配置していた島津軍によって大友軍は完全包囲に陥って壊滅。2万人もの兵と非常に多くの重臣が戦死。このわずか一度の戦いで大友氏の支配機構が崩壊するほどの損害を被ったのである。
 あまり男が大量に死んだので豊後国は未亡人で溢れかえり、また「天正六年」記銘の墓石・供養碑が乱立することにもなった。
 この戦を、後世耳川合戦と呼び習わす。

 中でも、田北氏は最も大きな損害を被った。大友軍の先陣であった田北軍は島津軍の伏兵攻撃を前右左の三方からもろに受けたのである。田北村の青壮年の男たちは悉く参陣してその多くが高城川に屍を晒すこととなり、田北へと戻って来たのはごくわずかであった。耳川合戦における田北村の戦死者の数は、後に第二次大戦における田北村での戦死者の数を上回っていたのである。
 念頭に入れねばならぬのは、この時代が未だ中世であるということ。兵も多くなければ大量殺戮兵器の一つも存在していない時代ということである。その時代での戦死者数として異常なほど多い。




「つまり、その戦でこの集落は無くなってしまったってことかい?」
「そうだよ。男が一人もいなくなってしまって稲作が支えられなくなった。だからみな此処を捨てて別の集落へ移住したらしい」
「そうか……」
 妹紅にとってこれは余りにも衝撃的な話であった。戦によって男が死滅し、立ち行かなくなった集落が目の前にある。長く生きてきた妹紅であるが、そこまで悲惨な戦というものを聞いたことがなかった。
「他人事みたいに話したけどさ」
 少し哀しげな声で弥十郎は言う。このような話で哀しくならないほうがおかしい、と妹紅は思う。
「私も父上をその戦で失ったんだ。それも二人とも」
「二人とも?」
「私の実父・吉弘鎮信(よしひろ しげのぶ)も養父・田北鎮周(しげかね)も、高城川で討死したんだ」
 父が二人、という表現が彼の境遇の特殊性を表しているように妹紅には思えるが、また、その二人が同時に死んでいるというのは並大抵のことではない。
「この間、田北が反乱を起こしたという話をしたでしょう」
「そういえばそうだった」
 田北が反乱を起こしたのも6年前だ、と確か弥十郎は言っていた、妹紅は思い起こす。養子云々の話をしていた時だったか、と思う。
「あれは、大損害を被った田北に恩賞がなかったからなんだ。起こしたのは鎮周どのの兄にあたる紹鉄(じょうてつ)どのだけれど、やはり弟の死が無駄死にになることが許せなかったらしい」
「それで……」
「負けたから当然田北はより損害を受けた。しかも恩賞0、どころか大友本家からは今でも睨まれてる。その有様が今。これでもだいぶマシになった方なんだけれどね」
 田北という場所もこれまた随分と難儀なところだ、と妹紅は改めて認識し直す。そしてこの弥十郎という頼り無い青年がどれほどのものを背負っているのか、ということを。
「そこまでして、どうしてあんたはまだ戦に行くんだい?」
 妹紅は呟いた。それは純粋な疑問である。本来ならば軍勢を構成するはずの青壮年をほとんど失った田北がなぜまた外征に出ねばならぬのか。その疑問に廃集落を見つめていた弥十郎が振り向く。
「言ったでしょ。うちは大友本家に睨まれてる」
 ふ、と弥十郎は溜息を一つ付く。
「試されているんだよ、忠誠を。ここでもし参陣を断れば、黒木攻めの名目で集まった軍勢はそのまま田北村へと殺到することになる。そうすれば今度こそ田北村は終わり。おそらく田北村は無人の園になるだろうね」
 恐ろしい話だ。戦に出ねばここが戦になる。政治というものは所詮そんなものだと知っている妹紅であるが、それにしてもここの立たされた位置は難しい位置であると思えた。
「この里の人間を一人でも多く守ろうと思ったら、出陣するしかない。またたくさんの田北村の人々が死ぬだろうけれど、それでもここが戦場になるよりはマシだから」
 弥十郎というこの男は、そんな難しい運命を懸命に泳ぎ切ろうとしていた。丸く温厚な顔でにこにこしながら、その両肩には田北村を守るという非常に大きな荷を背負って、運命を泳ごうとしている。その姿は無謀なようにも見えるし、しかし輝いて見える。
「仕方ないな」
 妹紅は軽く笑って息をついた。それは観念したという意思の表示である。
「弥十郎に付いて行ってやるよ。これを見せられて、放っておくことはできないから」
 これを弥十郎が狙っていたかどうか、妹紅にはわからない。そうでないと説明が付かない気もするが、彼の気質からしてこのような策を巡らさない気がするのだ。
 どちらにしろ、妹紅は彼を放っておくことは少しできそうになかった。この情景を見せられ、この重いものを背負った青年がどのように運命を切り開いていくのかということに興味を持ってしまった今、妹紅はこの弥十郎という男にくっついていく他ない。その果てにあるのは所詮絶望でしかなく、人間など醜く争うだけだと言うことがわかっていても。
「え、ほんと?」
「ああ、仕方ない」
「良かった。ありがたい!」
 飛び跳ねて喜ぶ勢いの弥十郎に少し苦笑しながら、妹紅は思う。そもそもこんな妙な奴と接してしまったのが運の尽きだったのかもしれない、と。しかしもしかしたら、運命を懸命に泳いでいく彼を見ていることで、また生きる目的を見つけられるかもしれない、と少し希望が持てそうだった。








     ――紫――

  紫は貴なる色にて、かつて官服の色たり。尊すべきものこそ、紫をば纏いけれ。


 大友軍出陣の一報はすぐさま黒木にも伝わった。既に予測されていたことであり黒木としても警戒を強めていたのである。
「椿原どのより注進! 大友軍は既に玖珠を出立。津江から竹原峠へと進路を取ったということです」
「椿原に伝えろ! そなたは高牟礼の城を死守せよ、と。高牟礼さえ守れればひとまず落城は逃れられよう」
 柏の父も甲冑姿で陣頭指揮を取っている。館の中はバタバタと人間の行き交う音と声で雑漠としており、それが事の緊急性を示しているようだった。
「河崎には、龍造寺の援軍の要請へ行くよう伝えろ。それから、谷川にはありったけの米を買いあさっておけと……」
「しかと承りました!」
 一つ一つ的確に彼は指示を出していき、それに従ってやはり甲冑を纏った伝令たちが走る。椿原、河崎、谷川というのは孰れも黒木の家臣であり、猫尾近くの支城を守っている。

 そしてその姿を、建物の内側から二人が覗いている。残念ながら今のところは手伝うことのできぬ、柏と衣玖だ。
「あなたの父上は、随分忙しそうですね」
「そりゃ、大友が攻めて来るんだから当然よ。衰退してきたといっても九州随一の領主だもの」
 どこか寂しげに柏は父の後姿を見つめている。とうの父親はその目線に気付くこともなく立ち働いていた。
「とりあえず、中へ戻りましょうか。ここだと邪魔になります」
「そうしよう。私たちの仕事はもう少し後だから」
 二人はそそくさと中へと戻って行った。

 部屋に戻ると開口一番、衣玖は父親を褒めた。
「しかし、あの姿は随分と頼もしいですね」
 柏の父が甲冑を着用して立つその姿は武将の貫禄十分で、本当に頼もしいものだと思えた。少なくとも、衣玖には。
「……」
 その衣玖の一言に柏は何も答えない。固く口を結んだまま、目の前に居る父親を見つめている。
「そう思わないんですか?」
 だから衣玖は敢えて聞いてみる。若干の沈黙が二人の間を包む。
「頼もしくなんて、ないわ」
 わずかな後に柏は答えた。しかしそれは絞り出したような声。"空気を読む程度の能力"を持っている衣玖からしてみたら、彼女が嘘をついていることは明白だった。
「ほんと?」
「……うん」
 それでも彼女は譲らない。気付いていないのか、それとも気付いていて猶拒否しているのか。どちらにしろ彼女は父親を未だに認めたくないようであった。
 本来的に言うのなら、柏が父親と対立していようが仲が良かろうがどうでもよいこと。というより介入してはならぬことである。凶兆であったはずの衣玖がこれに介入して良い結果を生むはずはない。ほんの10日ほど前の衣玖ならばそのように考えただろう。
 しかし、今の衣玖の考え方は少し違った。自らの努力次第ではひょっとしたら凶兆でなくなることができるのではないかと思っている。柏に引きずりまわされおしゃべりさせられ、その果てに自分が凶兆ではなくなれるかもしれないと思えるようになった。絶望の淵にいた衣玖を救ったのは、目の前で父親との関係に悩んでいる一人の少女なのである。
 そうであるならば、もし自分が凶兆でないのなら、この目の前にいる少女の悩みを解決させてあげることもできるだろう、と思っている。だからこそ、衣玖は柏と父親との関係を改善させたいと思っている。もしその結果が柏の父親による衣玖の殺害だったとしても構わない。どうせずっと捨ててきた命なのだから、一度くらい凶兆でないことを証明してみたかった。
「嘘ですよね」
 だから衣玖は柏の答えを否定する。この一言はもちろん柏にとって痛い言葉であるだろうし、また衣玖にとっては自分に対する希望を込めた一言だった。
「あなたはこれまで一度も父親の話をしたことがありません。素盞嗚神社の大藤の話も、津江神社の大樟の話も、矢部川の剣ヶ淵の話もしてくれたのに、そして母と兄の話はあれだけしていたのに、父の話を私は一度も聞いたことがありません」
「嘘じゃないわ! 父親の話をしなかったのだって、当然じゃない」
「いいえ、当然ではありません」
 衣玖は冷静に告げる。
「もし本当に柏が父親をただ恨んでいるならば、私との話に父親の話が出て来るはずなのです」
「どうして、恨んでいるのに」
「恨んでいるならば、父親に対する憎悪が会話となって出て来るはずだからです。でも、貴女はそんなことを一言も言わなかった」
「っ……」
 一言一言着実に積まれていく衣玖の言葉に、柏は言葉に詰まっていた。しかし衣玖は語りを止めない。もし戦が始まってしまったら父娘の関係修復をしている暇なんて無くなるに違いない。だからここで仲直りしてくれなければ困るのだ。
 仲直りに失敗したならば、それは衣玖がやはり凶兆でしかなかったということ。そうなったときに再び生きる気力があるかどうか、衣玖には想像もつかない。だから何としてでも仲直りさせねばならなかった。
 気付けば、黒木父娘の仲直りの成否が、衣玖の運命を握っていた。
「柏はきっと父上が好きなのでしょう。母を亡くして以来貴女の支えは父上だったのでしょう。だから例えぶつかるようになったとしても、貴女は父上を悪く言うことができなかった」
「そんなことないっ!」
 悲痛な叫びを柏は上げた。しかしそれは衣玖の暴言に対する叫びではないように、衣玖には思えた。むしろ柏が心の傷に触れてしまった事の痛みであるよう。
「父上は弟を捨てたっ! 兄上を捨てた! 私はそれが、それが」
「許せないとは思えなかったのではないですか?」
 それでも衣玖は心を鬼にして、柏を責めねばならぬ。そうして彼女が本当の気持ちに気付いてくれなければいけないのだ。
「貴女はそれでも父上が好きだった。だからどうしても恨むことができなかったのでしょう?」
「違うっ!」
「それでは、貴女は父上を恨んでいると?」
「う、うん。あんな極悪非道な父上、私には許せない!」
 その言質を取って、衣玖はにやりとほくそ笑む。その笑みはとても人間離れしたものであり、柏は気押されて後ずさった。
「ならば、今から私が殺してきましょう」
「え?」
「羽衣がないとは言え、私とていっぱしの妖怪。人間一人殺すのは造作もないことです」
 衣玖の声は、衣玖とは思えぬほどに暗い。そしてドスが効いている。
「これまでお世話になったお礼に、貴女が誰よりも恨んでいる父親を殺して来てあげましょう」
「え、え?」
 突然の衣玖の変貌に柏は戸惑っていた。これまで衣玖が見せてこなかった妖怪の一面を見て、柏は動揺し恐れていた。
「今までてっきり、柏は父親を恨んでいないと思っていたから殺さないでいたのですが、本当に恨んでいると言うのでしたら遠慮することはありませんでした。アレは私を殺そうとした仇ですから、丁度よいですね」
「ち、ちょっと」
「ん? 何か問題でも」
 衣玖の目は普段にもまして紅く輝いている。衣玖が人ならざるものであることを柏は自覚させられる。
「貴女の恨む父親を殺すのです。むしろ嬉しいのでしょう?」
 衣玖は立ち上がった。もうそろそろかな、と思いながら。
「それでは行きましょう。安心して下さい。一撃で仕留めてあげます」
 笑いながら衣玖は襖に手を掛ける。
 そうして外に出ようとして、着物の裾を強く掴まれた。
「待って」
「安心して下さい、首はちゃんと貴女にあげますよ」
「だから、待って」
 衣玖の目の前には襖しかないから、後ろの裾を掴んでいる柏の表情は全くわからない。だが、ほとんど涙声であることは聞けば簡単にわかった。
「お願い、父上を殺さないで……」
「どうしてです? 恨んでいたのでは?」
「恨んでなんかない。ただ、喧嘩してただけ。だから……」
 最後の方の声は掠れて聞き取れない。裾を掴む手も非常に弱々しくなっている。どうやら本格的に泣き始めてしまったようだ。その様子に衣玖は柏の方へと振り向いた。
「やはり、恨んでいないのでしょう」
「恨んでない、恨んでないから殺さないで……」
 着物の裾で目を擦り擦り、鼻を啜りながらそれでも柏は衣玖に縋ってくる。
「やっぱり、貴女は父上が好きなのではないですか」
 衣玖は優しく告げた。そこにはもう恐ろしさはない。衣玖の妖怪性はすっかり影をひそめて、再びいつもの優しげな衣玖がそこにいた。
「……うん」
 涙をぼろぼろ流しながら、柏は何度も何度も頷く。ちょっと効きすぎたかな、と衣玖は少し罪悪感に襲われた。
「それならいい加減仲直りしたらどうです。もっと自分に正直になった方がいいと思いますよ」
 けれどこの際一気に仲直りしてもらうに限る、とも衣玖は思う。先ほどの彼女はともかく、今の柏だったら父親に対する感情にも気付いているだろう。
「……うん」
「そう思うのなら自分から父上に謝りに行ったほうがいいですよ。私ができるのはせいぜいここまでです」
「……わかった、衣玖、ありがと」
 衣玖の言葉に悉く頷いた柏は、衣玖の言葉が終わるや衣玖に抱きついた。そうして衣玖の胸に顔をうずめ、大泣きし始める。それは悲しみのものでは決してなく、大きな安堵を得たが故の大泣きであるように衣玖には思えた。きっとこれまでずっと、父親との関係を心の悩みに持ち続けていたのだろう。柏はきっと、漸くそれから解放されたのだろう。
 柏の様子を見ていると、衣玖も次第に泣けてきた。初めて、この長い生の中で初めて、衣玖は人を助けることができた。たった一人しか助けられなかった、と言えるかもしれない。しかし一人であれ、人を助けられるということは衣玖にとっても非常に大きい。少なくとも自分は凶事しか運べない純然たる凶兆ではないと、自覚することができたのだ。龍宮の使いであっても、人を救うことができる。
 衣玖もまた、柏の肩に顔を埋めて泣いた。まだ自分に涙というものが残っていたことを喜びつつ、そして自分が吉兆となることもできることに、龍宮の使いにもこういう救いが残されていたことに安堵して。奥底で固まっていた絶望が溶けていくことを、衣玖は感じながら涙を流した。




「失礼致す」
 大泣きしたその日の夜、衣玖は一人部屋で感慨に浸っていた。自分も他の人妖並の存在であることに安堵しながら、まだ感動が自分の身から抜けなかったのである。
 それ故、安易に外の呼びかけに答えて襖を開いていた。
「……あ」
 正面に立っていたのは昼間館を駆けまわっていた男、柏の父親である。衣玖を殺そうとしていた張本人だ。衣玖は思わず後ずさった。本能がまだ死にたくない、と叫んでいる。
「いや、申し訳ない。永江どのを害するつもりは毛頭ござらん」
 慌てた風に彼は手を前に出し、それから刀を抜いて部屋の外に置いた。その姿に衣玖も姿勢を直す。ちょっと油断しすぎただろうか、と衣玖も反省する。
 衣玖が緊張を解いてくれたことで、彼も安心したのか、ゆったりと衣玖の向かいへと座る。その所作は鷹揚であるが気品があった。
「この猫尾の城主をしておる、黒木(くろぎ)兵庫頭(ひょうごのかみ)家永(いえなが)と申す。どうやら我が娘・柏が世話になったとか。今宵はその感謝に参った次第」
 家永は丁寧に衣玖へと一礼する。人間に嫌われることはあれ、礼をされるなんて初めての経験であったから、衣玖は慌てた。
「いえ、一礼されることなんて、そんな……」
「既に娘より聞いております。なんでも(それがし)ら父娘の関係に心を砕いて下さっていたようで」
 年齢は40代後半くらい、口髭を蓄え髷を結った典型的な武士。そして無骨な顔立ちで、その姿はまさに武将そのものである。
「にもかかわらず先の狼藉、お許し願いたい」
「とにかく、頭を上げて下さい」
 そんな威厳ある武将が龍宮の使い如きに頭を下げているという事実が衣玖には耐えられない。とにかくは、彼に頭を上げてもらう必要があった。
「私は確かに龍宮の使いです。なのに、感謝していただくなんて、そんな」
「いや、龍宮の使いだと申されても、儂からすれば吉兆そのもの」
 漸く頭を上げて、彼は衣玖を褒める。衣玖は何だか照れくさかった。
「ずっと反発していた柏とこうして仲直りできるとは思わなんだ。本当に有難い」
 この男はこの男で、娘との関係には困り果てていたらしい。やはり彼も人の親だったか、と衣玖は安堵した。もし家永が人にあるまじき者であったとしたら、どうしようかと思っていたのも事実である。
「いえ、私はあくまで背中を押しただけです。何も為していません」
「その背中を押す者が欲しかったのです、本当に某からは感謝しようもない」
 彼は衣玖に感謝しきりだ。感謝されたことのない衣玖は反応に困る。衣玖はただ座って照れながら感謝を受けているしかない。
「さて、話題は変わるのですが」
 衣玖にとって幸い、感謝攻撃はこれで終わりのようだった。居場所なく少し竦んでいた衣玖だったが、少しほっとする。家永には悪いが、やっぱり感謝をひたすら受けるのは背中がかゆくなる。
「永江どの、この黒木から出て行ってもらいたい」
 そうして、やはり龍宮の使いの扱いであった。衣玖はほっとすると同時にやはり少し残念であった。やはり排除されるのか、と。
「いや、勘違いしないで頂きたい」
 しかしその衣玖の様子をみて、慌てて家永は口をはさんだ。
「黒木から追い出すつもりはない。だが、永江どのとしても黒木を出た方がよいと思うのだ」
「どういうことですか?」
 衣玖には家永の真意が読めなかった。
「この黒木はもうじき戦場になる。永江どのがその戦に巻き込まれることはない。だから、早く黒木を出た方が良かろうと」
 なるほど、と衣玖は思った。確かに此処にいれば戦場を目の当たりにすることは確実。
 それでも衣玖は此処を出たくないと思っていた。もちろん羽衣が未だに見つかっていないということもある。しかしなにより、柏という少女を放置して自分だけどこかへ消えてしまうのは、恩人に対して失礼に対して過ぎると思うからだ。
「戦を避ける手段は、ないのですか?」
 そして、目の前にいる家永はこの黒木の里の長である。彼ならばきっと、戦を止めることもできるはずだ、と聞いてみた。
「ないわけではない」
 それに対して家永は渋い表情をした。
「勿論、大友に降ればその時点で戦はなくなる。黒木は安泰だ」
 まあ、そりゃそうだろう。そうやって黒木は幾度も後ろ立てを変えてきたということも、衣玖は柏から聞いている。
「しかし、某は嫡男・四郎を龍造寺へ人質に出している。某が大友へ降れば間違いなく四郎は殺されるだろう」
「なるほど」
「……昔、某は弟を捨ててこの黒木を守ったことがある」
 その言葉は苦渋に満ちていた。やはり家永とて、弟を捨てたということには強い後悔をしているのだろう、と衣玖には思えた。
「それすら身を斬る思いであった。まして嫡男を捨てることなぞ、某には出来ぬ」
 彼は両こぶしを強く握って、唇を噛み締めていた。黒木の里を取るか息子を取るか。彼にとって究極の決断だったのだろう。妙なことを聞いてしまった、と衣玖は少し後悔した。
「故に黒木は戦場となる。人ならざる永江どのがわざわざ人の戦に巻き込まれることもありますまい。早う黒木から御逃げくだされ」
「いいえ。私も黒木に残ります」
 家永の頼みを衣玖は一蹴した。すでに衣玖も覚悟を決めている。
「私は着ていた羽衣を見つけられなければ天へ帰ることができません。それに、貴方ならばきっと黒木を守って下さる。だから、私は此処に残ります」
 衣玖の言葉は非常にしっかりしたもの。衣玖の決意が良く窺える一言だった。その言葉には、家永も言い返さなかった。
「左様ですか。了解いたした」
 そうして再び家永は一礼する。
「正直、少し安堵し申した」
「?」
 先までと言っていることが少し違うことに、衣玖は首を傾げた。
「我が娘と懇意にされている永江どのがおれば、娘も安心でしょう。永江どのには申し訳ございませぬが」
 本当に家永は娘の事を思っていると、そう感じさせる一言だ。良く考えてみれば家永がこれまで結局一度も衣玖を殺そうとしなかったのも、娘を思ってのことだったのかもしれない。
「いいえ、私が決めたことですから」
 とするならば、やはりこの男は良い親だ。
「それでは、我が娘のこと、くれぐれもよろしゅうお願い致す」
 最後に家永は娘のことを良く衣玖に頼んで、家永は立ち上がって一礼する。それに衣玖も頭を下げた。






「道雪どの、府内よりの書状が来ております」
 紹運が部屋の戸を引くと、いつものように道雪が一人盃を傾けていた。そこに鬼はいない。少し紹運は安堵した。
「おう紹運か。して、書状はなんと?」
「何でも豊後より筑後攻略の軍を出すとか。親盛さまを総大将に7000の手勢でもって筑後を一挙攻略するようです」
「参加する者は?」
 盃を傾けるのを止め、道雪は紹運の方を見た。その場に座った紹運は書状を差し示しながら言う。
「豊後から行くのはは朽網(くたみ)宗暦(そうれき)どの、志賀(しが)道益(どうえき)どのの名代として志賀湖左衛門尉(こざえもんのじょう)どの、田北弥十郎どのが主要な武将でございましょう」
「ふむ」
 それらの名前を聞いて、道雪は眉を顰める。紹運もまた少し困ったような表情で道雪を見る。
「朽網やら志賀ならまだわかる。だが、どうしてそこに田北が入っている?」
「田北ですか」
「日向に行っておらぬ朽網や志賀と違い、田北は日向での損害もまだ癒えぬだろう。それを参陣させるとはどういう心づもりなのか」
「およそ、反乱を起こした事への懲罰でしょうな。もし付いて来ねば潰す、という脅し付きの」
「下らぬな」
 道雪は吐き捨てた。基本的に武将である彼は小細工を嫌う。
「そのようなつまらぬことで何の役にも立たぬ軍を連れてゆくか」
「大友本家の決定なれば、致し方ございませんでしょうて」
 道雪の怒りも尤もだと、紹運は頷いている。だがそこから上手く方向転換を図っている。道雪を怒らせたくないのだ。
「それより、この組み合わせはどのように思います?」
「宗暦どのは儂よりもさらに13も年上、既に傘寿を迎えた最長老。出陣なされる年齢ではない。一方の親次や統員は未だ20歳にもならぬ弱年。随分と無理のある組み合わせだろうが……」
「他に将がいなかったのでしょうか」
「そうであろう」
 二人とも、渋い顔をしてその書状を見つめる。
「すぐに城が落ちれば良いが……」






 文月も半ばとなり、そろそろ夏も終わろうかという頃合いである。涼しい風が黒木を吹き抜け、夏の終わりを感じさせたその日、大友軍は黒木へと着陣した。大友方に属していた筑後の国人である五条氏・問註所氏を道案内にして総勢は7000、対する黒木は掻き集めて2000である。兵力的にみれば大友軍が圧倒的であり、黒木なぞ赤子の手を捻るように見えた。龍造寺が態勢を立て直して数万の援軍を送ってくるまでに城を攻め落とすなぞ、造作もないと考えている人間がほとんどである。
「あれが猫尾城か。そんなに大きくないねぇ」
「弥十郎、何を言いよる。城はその城のみを見ても堅さはわからぬぞ。ほら、この城は隣山の高牟礼城、平野側にある犬尾・谷川・鷹尾といった支城群との連携が強固であろう。むしろこれは堅城といえるぞ」
 不用意な一言を吐いた弥十郎が宗哲に叱られている。良い様だ、と思いながらその隣で妹紅は馬を牽く。
 なんだかんだ言って弥十郎に乗せられ、黒木くんだりまで連れてこられてしまった妹紅だが、それはそれでまあいいか、とも思い始めている。とりあえず、田北の人たちは皆優しくて、妹紅を拒絶せずに付き合ってくれる。それに弥十郎は、5人の侍女を妹紅へと付けてくれた。その女たちは腕も立つというし、待遇は悪くない。
「さて、陣立ても済んだし、そろそろ軍議かな」
 叱られて少し凹んだまま、弥十郎は宗哲へ言う。黒木に着いた大友軍は空になっていた黒木の町の家々を寝床とし、陣地として利用している。黒木の町の中でも最も大きい家に大友軍は本陣を据えている。およそ軍議もそこで行われるのだろう。
「だろうな。ぼちぼち行くか」
「そうだね、それじゃ、妹紅はそっちの家の中で休んでていいよ」
 近くの大きな家を指差して、二人は歩いて行った。その指の先にある家はおよそ妹紅に宛がわれた家なのだろう。二人に付いていっても仕方ない、と思った妹紅は彼らと背を向けて家に入ろうとした。
「?!」
 すぐ向うを歩いていた一人の足軽が、どこかで顔を見たことあるような人間であって妹紅は少し驚く。とはいっても、どこで会ったか、いまいち思いだせない。
「……途中で話してた兵の一人かな?」
 そう勝手に納得して、妹紅は家へと入る。続いて5人の女が妹紅に従って家に入っていった。


「くつろいでる?」
 もう日が暮れてから、弥十郎が妹紅の元へと現れる。流石に兵を5人従え、自身も甲冑を身に纏っている。しかし弥十郎が甲冑を纏うと、丸く童顔なことも相まって、皐月人形にしか見えない。
「戦場でくつろげたら上々じゃないのか?」
 その少し滑稽な姿に口角を上げながら、妹紅は弥十郎へと振り向いた。つい先まで妹紅と話していた侍女は頭を下げている。これが普通の対応であり、妹紅の態度は曲がりなりにも大友家重臣である田北弥十郎統員に対しての態度ではない。
「まあ、それもそうか」
 くす、と笑って弥十郎は座った。すると甲冑の(さね)の擦れ合う音がひときわ大きく響く。
「それでさ、一つ相談があるんだけれど」
 またか、と思った。この男は本当にどこまで妹紅を巻き込んでいくつもりなのだろうか。
 とはいえ、どこかで巻き込まれるのを楽しんでいる自分が居るのだから、妹紅も文句は言えない。
「妹紅さ、一緒に猫尾の城行かない?」
「はあ?」
 猫尾の城とは目の前にある攻撃予定の城である。正真正銘の敵地だ。
「いや、実はさ、和睦の使者を任されてしまって」
 この男も、随分と厄介事に巻き込まれやすい男だ、と妹紅は思った。もしかするとそういう星に生まれているのかもしれない。
「それで妹紅もついて来ないかなぁ、と」
「どうして私なんだ? 私が居ても目立つだけだぞ」
 そう。彼らは気にしないし、田北の人々も最早気にしなくなったが、妹紅は紅眼白髪という異形のいでだちである。少なくとも普通の人間には見えないだろう。術を使う者の中には異形のいでだちの者も少なくないが、術を仕える者自体が既に少なくなっているのであるから、やはり妹紅は目立つ。
「まあ、そこは目立たないようにすこし工夫して貰うんだけれど」
「まさか、髪を剃れとか言わないでしょうね」
「いやいや、さすがにそれは」
 弥十郎は少し慌てたように手を振る。
「貢物の箱に入って城の中に入ってもらおうかな、と」
 もっと性質が悪かった。
「なんだ、私を売るつもりか?」
「そんなんじゃないって」
 弥十郎は立ち上がりかけた妹紅を押さえるように両手を前に出す。それに妹紅も仕方なく身を押さえる。
「実は、妹紅には間者を頼みたいんだ。猫尾の城内に入って、ね」
 随分と厄介な仕事を持ってきたものだ、と妹紅は嘆く。やはり弥十郎という男は厄介事を持って歩くのが得意らしかった。
「他にも適任はいるだろう。私でなくても」
「そうでもない。ほとんど間違いなく書状が読めて、腕が立つ。それに手は器用でしょ」
「手が器用、が関係あるの?」
 確かに妹紅は手が器用だ。そうでもなければ、5寸×2寸の札を龍宮の使いさえ封じられるほど強力な札にすることはできない。それだけの札を作るには、1寸四方に25文字ほど書き込む必要がある。
「城内の図を書いてほしいからね。その点、術師なら作図にも慣れているだろうし、丁度良いんだよ」
 こじつけだろうか、と妹紅は思う。しかしそうと言い切れない部分もまた存在している。残念だが――といえるかどうかわからないが――妹紅は作図もできた。長い間暮らしてきた中で習得した手慰みの一つだ。
「なるほどねぇ。確かに図を描くくらい造作もないね」
「やっぱり」
「でも嫌だ、と言ったらどうするんだい?」
 どうせ、また彼は昔話でもして落としに掛かるのだろう、と妹紅はわかっている。妹紅だって馬鹿ではない。しかし、どうせまた掛かってしまうことはわかっていた。実際弥十郎という男の立つ位置は同情に値する位置であるし、妹紅自身その場所から彼がどのように泳ぐのか興味がある。そして彼が運命を泳ぐ助けを自分ができるならば、進んで協力しようと思えているのだ。
「そしたら諦める」
 諦めるわけがない。この男こう見えてしたたかであることは既に十分承知の上だ。
「まあ、諦めるわけないでしょう。わかったわかった。協力しよう」
「あ、ありがと。それはとても心強い」
 人懐っこい笑顔を満面に浮かべて彼は嬉しそうに笑った。その顔に妹紅も釣られて思わず笑顔を浮かべた。
 まあ、彼に付いてきたのならばとことん巻き込まれるのも面白いかもしれない、と妹紅は思えていた。






「……あれが使者だよね」
 柏と衣玖は二人で城に入ってくる大友軍の使者を二階から覗いていた。猫尾城の本丸は二階建ての建物があり、それが家永の居所であり要である。ここが陥落した時が城の終わりとなる。
 ちなみに、これまで居たのは平時に使う麓の館であり、今は城の防衛線としての役割を持っている。それゆえに非戦闘員である衣玖と柏は本丸へと移動している。
「そうでしょう」
 衣玖もまた、上から目だけで使者を覗いている。どう見ても二十歳にすらなっていない青年だ。或いは少年とすら言えるかもしれない。そんな人間が武将として脂の乗り切った家永と対峙している。
「私とあんまり年齢が変わらないように思うんだけれど」
「そうですねぇ。柏はいくつでしたっけ?」
「私は13だよ」
 戦の前とは思えぬほどの温和な会話だった。しかし、二階から見渡す黒木の町一面に大友軍の旗印が見えているこの状況では、そうやって気を紛らわすことの方が重要だと衣玖は思っている。あまり柏を緊張させても仕方ない。
「あれはいくつかなぁ?」
「人間の歳は存外見ためではわかりませんが、まあ、13よりは年上でしょう」
「それはそうだけどさ」
 柏は少し頬を膨らまして不満さを衣玖へ見せつける。といっても13では元服していないことになってしまうから、それはあり得ないのだ。
「でも、どうしてあんなに若い人が来てるんでしょうか」
「おおよそ、人がいないんだろうね」
「いない?」
 衣玖は不思議に思った。あれだけの兵を率いてきて人が居ない、というのは矛盾している。
「大友家は6年前に酷い負け戦をして、それで丁度父上くらいの歳の家臣たちがあらかた死んじゃったみたい。だから、あんな若い家臣しかいないんじゃないかな」
 人の争いとはいつも恐ろしいもの、と衣玖は思う。一体何人がその戦で死んだかは知らぬが、あのような若い人間を侵略に駆り出すとは何と残酷なものだろうか。
「まあ、それは父上がやってくれるからいいや」
 父上、という柏の言葉には感情がたっぷり籠っている。そのことを感じるだけで、衣玖もまた嬉しくなる。そして目の前の難事も解決できるような気がしてくる。
「そうですね」
 衣玖も満面の笑みを浮かべて頷いた。






 人の目を盗んで貢物の箱から身を出した妹紅は、とりあえず辺りを確認した。どうやら倉庫らしい。彼らとて馬鹿ではなく一度は中身を確認したが、幸い二重底になっているのは気付かなかったらしい。まあ、如何にも詰まっているようにしか見えないように細工したから、気付くはずもないのだが。そこは勿論、妹紅が自分で細工した。
「全く、人使いの荒い奴だ」
 小さく文句を弥十郎へぶつけてから、妹紅はひとまず床下へと忍ぶことにした。木が一本もなく、裸の山を削平して作られた猫尾の城で下手に歩いていたらすぐさま居場所がばれるのは間違いない。
「とりあえず行くか」
 妹紅は早速腰に付けた矢立から筆をとりだすと、懐紙に細かく城の図を書き始めた。

 普段は農耕をやっているような人間の目を逃れることなぞ、妹紅にとって造作もないことだ。これだけ長く生き、しかもそのうちの300年以上を人やら妖やらから逃れる生活をしていた妹紅であるから、たかが半日程度で見つかることはない。
 良く考えてみれば、あの田北の関所を気まぐれで正面から通ったところが運の尽きだったのかもしれない。あの関所を避けて通り、関破りとして追われるのも面倒くさいと思ったのが原因であるが、油断は禁物なのだなぁ、と妹紅は少し嘆息して前を見た。妹紅の懐に入れた紙は既にだいぶ線で埋まってきている。広げれば相当に大きな紙で、それを小さく畳んで要所要所だけ書きこんでいる。それでも城という場所を知るのに必要な情報量は多く、すでに紙はだいぶ埋まってきている。
 ここは既に城の本丸である。妹紅が隠れている建物は二階建ての瓦葺の建物で、およそ大将が籠る建物であろうと推測できた。
 特に十分睨まなければならないな、と妹紅は思う。なんだか行きずりで間者することになってしまったとはいえ、一度承諾したからには完璧に済まさねば妹紅は気がすまない。なんとしてでも漏れの無いように妹紅は作図したかった。だから、この建物の周りの抜け道も全部調べる必要がある。
 妹紅は丁寧に床下を探査していく。そうして何かを見つければすぐ図面に書き込んでいった。すぐ板を挟んだ上には敵が詰まっているのだから、そう油断はできない。たとえ不死身とはいえ。
 目こそ辺りを伺ってはいるが、聴覚・臭覚・触覚は常に上の状況の把握に集中する。ちょっとした気の動きを感じることもできる妹紅であるからこそ、人間に見つかることはそうそうない。
 故に、上で誰かが会話をしているのを聞きとるのはそう難しいことではなかった。


「父上」
「お、柏か、どうした?」
「さっきの若い人、本当に使者だったの?」
「そうだ。それも大友家の重臣・田北家の当主らしい」
 上で話している人間の内、一人はおそらくまだ若い娘、一人は壮年の男だろう、と妹紅は推定した。およそこんなところで話しているのだから、黒木の中でも地位の高い人物だろう。
「田北といえば、相当の重臣じゃなかったっけ?」
「田北といえば、志賀や田原に並ぶ重臣の一人だろう。大友の中でも大身だ」
 上の二人はどうやら弥十郎を見たらしい。まあ、あれが大友家の重臣の家柄の当主だ、と言われても少し納得しがたい容姿であることは妹紅も認めている。酷い話だが。
「なのに、あんなに若いの?」
「大友の人材枯渇も極まったというところだろうな」
 壮年の男の声からは、彼の自信というものが若干窺える。まあ、あれを見たら無理もなかろう。
「おそらく日向での負け戦の影響が非常に大きいのだろう。総大将こそ大友宗麟の二男・親盛であるが奴に実権はないらしい」
「実権がない、って」
「実質的な総大将はおそらく朽網宗暦どのだろう。とはいえ、宗暦どのも既に80を超えた老人だ」
「80歳って?!」
「80にもなれば引退したかろうに。宗暦どのも御苦労なことだ。他に居らぬのだろうな」
 しかし、きっと上の二人は父娘なのだろうな、と妹紅は思う。先ほどから会話の声は穏やかで楽しそうであり、安心に満ちたものである。微笑ましいほどの会話に妹紅は時を忘れそうになる。
 ふと、脳裏には父の姿が横切っていた。遥か遥か昔には、自分も父に付き纏ってああやって会話していた。確かに妹紅は忌子であったから外には出られないし、どころか、存在すらも否定されるべき存在であった。決して恵まれた状況に会ったとは言えないが、だからというべきか、父には非常に可愛がられた。どうやら父は妹紅の境遇を不憫に思ったらしいのである。その上、漢籍の素養が深くまた政治学にも長けていた父は、妹紅の存在が表に出ないのをいいことに何でもかんでも妹紅に教え込んだ。存在を認知され父の後継者と目された子供達には傅役が付き、その傅役が育てただろうから、本当の意味で父に育てられたのは或いは妹紅だけだったのかもしれない。
 だから妹紅は父が好きだった。他の誰もが"存在しない者"としてしか扱ってくれない中で父だけは、生身の人間に対するように接してくれた。上の二人がいまちょうどしているような会話をすることができた唯一の相手は父だけである。
 言ってみれば不死になった理由も、父を愛していたからだ。唯一の家族が苦しんでいたから妹紅は仇討ちに出た。紆余曲折はあれ、結果として妹紅は不死になり、本当の意味で"存在しない者"として姿を消すこととなる。それでも妹紅は父を恨んでいない。妹紅の中で父は今でも偉大な人物であって、妹紅にとって唯一の心の支えだった。
「宗暦どのとは同陣したことがあるが、あの方も歳とはいえ指揮には長けた男……」
 上では相変わらず父娘の睦まじい時間が流れている。
 そして、自分はそれを壊そうとしている。直接的に妹紅が壊すわけではなくとも、妹紅はいま弥十郎という男に従ってきている。その弥十郎は大友軍の武将の一人であって、黒木を落とすことを目的としているのであるからやはりこの父娘の時間を壊すために来ていると言える。となれば、妹紅は間接的に父娘の関係を破壊しに此処にいることになる。
 それが妹紅には気が引けた。妹紅にはああやって父を慕う娘が自分に見えて仕方がない。そしてもしこの父娘の関係を壊せば、自分のような運命を彼女も背負うことになってしまう。それだけは嫌だった。ただ何の目的もなく漫然と全てに諦めながら生きるような運命は、一人で充分だ。

 妹紅は静かにその場を後にした。相手が人間であること、それも自分のような父娘が居ることを知ってしまった事に後悔しながら。


 翌日の朝方まで掛かって妹紅は作図を終え、田北の陣へと戻ることにした。あれを見てしまった今、作図には少々躊躇いがあったがそれでも作図を成し遂げぬということは妹紅の性格が許さない。根は細かい性質なのだ。
「そこ!」
 その父娘のことで少々気が緩んでいたらしかった。女の声が妹紅を呼びとめる。
「止まりなさい。止まらないと刺しますよ」
 妹紅が振り向くと、まだ15にも満たないだろう女が懐剣を妹紅へ向けて睨みつけていた。
 その様子を見て、ふと思う。もしかすると自分は見つかることを期待していたのではないかと。この声は間違いない。彼女は昨晩に父親と仲睦まじく会話していたあの柏という娘だ。
「貴女は何者です!」
 まあ不審者であるのは間違いないだろうな、と妹紅は既に観念している。
「さあね」
「答えなさい。兵を呼びますよ」
 懐剣の先が僅かに震えている。この娘もおそらく怖さを必死に閉じ込めて相対しているのだろう、と妹紅は思う。まあこの娘に人を殺した経験などないだろうから。
「なら呼べばいいじゃない。むしろ早く呼ぶ必要があると思うよ」
「いいから答えなさい」
 ついでに言えば、人が殺されるのを見たことすらないらしい、と妹紅は推測した。兵を呼べばまず妹紅は殺される、と彼女は容易に想像できるだろう。しかしそれを見たくないから、自分だけでこの場を収めようとしている。
「仕方ないな」
 妹紅は頭を掻いた。妹紅としては、殺気をぶつけられることにも刃物を突き付けられることにも慣れている。妹紅の腕であればこの娘を殺すことなぞ造作もないこと。
「ちょっと甘いよ!」
「え」
 妹紅は素早く娘の右手を打つと懐剣を叩き落とし、それを拾って逆に突き付けた。
「こんなところにいる不審者の腕が立たないわけないよ。ちょっと油断しすぎ」
「くっ」
 このまま殺してしまうのもいいかもしれない、と妹紅は思う。そうすれば後腐れなく陣に戻ることができるだろう。
 だが、妹紅は殺すことができなかった。
「一つ、聞いていいかな」
 懸命に歯を食いしばっている彼女に、妹紅は極力優しく話しかけた。
「貴女、父親が好き?」
「……え?」
 突然何を聞きだすのか、と娘は思っただろう。それでも妹紅にとっては重要な問いである。あの会話の主であろうこの娘が父親をどう思うのか。
「貴女にとって父親とは何?」
「……」
 彼女は黙り込んだ。なんだか答えに困っている表情だ。しかし妹紅は待った。
「……好きだよ、父上。一番尊敬してる」
 待った妹紅に返された答えは、予測通りであり非情なものだった。それは絞り出したように小さい声ではあったが、情愛の籠った一言のように妹紅には思える。
 ああ、と妹紅は呻いた。この娘はやはり妹紅だ。不死になる前の妹紅だ。父親を慕って仕方ない娘なのだ。
 妹紅にはやはり殺せない。彼女を不幸にすることもできない。妹紅はこの世に二人は要らぬ。
「そっか。父親を大切にな」
 だから、妹紅は懐剣を投げ捨て、彼女から間合いを取った。僅か一歩で5間ほども飛ぶ。飛びながら懐の図面を取りだした。
「それじゃ」
 妹紅は右手へ僅かに力を込める。右手にあった図面は勢いよく燃え上がり、瞬く間に灰となって暗がりの間に散っていく。あの娘が呆気に取られる隙を突いて妹紅は駆け、柵を越えて娘の視界の外に出た。

 どうやって弥十郎に言い訳しようか、と妹紅は考える。しかし自分によく似たあの娘を――妹紅がまだ幸せで希望に満ち溢れていたころのままの娘を殺すことは、そして彼女に仇為すようなことをすることは、妹紅にはできなかった。






 和睦が決裂した翌日の朝、日が上ると同時にとうとう火蓋は切って落とされた。大友軍は猫尾の本城やら支城へ一斉に攻撃を開始する。その中でも田北は本城・猫尾城正門攻撃の先鋒を仰せつかり、いの一番に攻撃を始めた。
「塩手四郎兵衛どの、討死!」
「どけ、負傷者が先だ!」
 妹紅が戻ってきたころには既にほとんどの兵が出立していた。黒木の町の一角である田北の陣には後方で雑用を行う非戦闘員としての女子供老人しか残されていない。最も、田北勢のほとんどが子供と老人で構成されているから、余り変わらないといえば変わらない。働き盛りの男なぞ田北勢にはいないのだ。
 しかし後方とはいえ、陣は喧噪のさなかにある。運ばれてくる重傷者の手当に駆け回り、或いは伝令の報告を記録する。矢継ぎ早に伝令が訪れては戦死を伝えていくのを聞いているに、どうやら相当苦戦しているらしい。
 まあ、無理もないだろう、と妹紅は思う。猫尾城正門攻撃の先鋒といえば最も犠牲が多くなるのが確実な場所である。それを働き盛りの男がおらず、将も大して戦慣れしていないような部隊が攻撃しているのだから、犠牲が増えないはずがない。
 貧乏くじもいいところだ。大友家の中でもよほど田北は嫌われているらしい。
「荻迫修理どの、討死!」
「宇曽七左衛門どの、討死!」
 後ろでは伝令の叫び声が続いている。人の死が純粋な情報としてのみ、場に飛び交っている。命とは斯様に軽いものか、と妹紅は戦慄する。

 いつしか妹紅も手当を手伝うようになっていた。妹紅とて他の人間が忙しそうにしているのに一人ぼおっとしているわけにはいかないと思っている。わざわざ5人も侍女を付けてもらっているのだし、田北には何かと世話になっている――世話しているともいえるが――のも事実だから手伝う気になった。それに長い期間居た田北には愛着もある。あれだけ一つの場所に長い期間居たのは、考えてみれば、相当に久方ぶりだったかもしれない。
 しかし、その現状は悲惨そのものだった。矢創やら鉄砲傷ならばいい方であり、熱湯を被った者やら石に押し潰された者、火達磨になった者、様々な負傷者が次々と運ばれてくる。それは猫尾城正門の凄惨さを思わせる状況であった。
「早く水を持ってきて!」
「晒しあるか!」
 つい先まで兵の憩いの場となっていた家々は今や負傷者によってうずまり、其処彼処から聞こえる呻き声と手当てする女性や老人の怒号に満たされていた。妹紅もまたそれに交じって的確に手当てしていく。医術に長けているわけではないが、長年の経験から妹紅は手当もまた上手い。
「新しい負傷者だ、早く!」
 丁度手が空いた妹紅は、すぐそちらに向かう。甲冑を着てはいるが、おそらくそれほど年端のいかぬ少年だろう、と見た。
「……!?」
 しかし手当の為にまず兜を脱がせた妹紅は驚愕する。その下にあったのは知っている顔である。髪こそ短く切ってはいるが、それは女の顔。あの廃集落であった、若い未亡人の顔であった。
「……嘘だろ」
 慌てて胴丸を脱がせる。あちこちが裂けていて血が染み、(さね)を綴じる(おどし)糸が血を吸ってすっかり重くなっている。
 そして、現実は妹紅を打つ。甲冑の下に着る水干の間から、胸に巻いた晒しが覗いている。普通男であれば腰に晒しを幾重にも巻く。しかし胸には巻かない。胸に巻くのは、乳房を固定する必要のある女だけ。つまり、この負傷者は正真正銘の女だと言うことである。
 妹紅を打ちのめした晒しは、すでに白い部分を残していない。右胸に空いた丸い穴から血が噴き出し、それが晒しを紅く紅く染めているのだ。一見して銃創だとわかる傷だ。そして、もう助からない、とも。
 くっ、と妹紅は拳を握り締めた。どうして彼女が男装までして戦に参加し、そしてここで瀕死の重傷者として倒れているのだろうか。一族をあれだけ戦で失ったのに、それでも戦にどうして出てきたのか。
 おそらく、会った時に隣に置いていた箱はこの甲冑の入った具足櫃だったのだろう。あの時、彼女は既にこうして参陣することを決めていたに違いない。あの時止められていれば、と悔いてももう遅い。

「そこまでして死に急いで、どうするんだよ!」

 妹紅の腕の中で、彼女は意識を取り戻すことなく、妹紅の腕の中で息絶えていた。




 田北勢が陣に帰還したのはそれから幾許もしないうちであった。戦果は全くなし。猫尾城の門に触っただけで打ち壊しにかかることすらできず、ただ猫尾城の正門の前で徒に屍をばら撒く結果に終わっていた。
「妹紅も帰ってきてたんだ」
 手当も一段落して妹紅は自分に宛がわれている家へと戻り、さらにそこですこし侍女たちと談笑していると、弥十郎が一人で姿を現した。
「おかえり。大丈夫だった?」
「まあね」
 いつものような袴姿であるが、ところどころから白い晒しが覗いている。全くの無傷というわけには行かなかったのだろう。
「妹紅は?」
「すまない。最後に見つかって、図面を失ってしまった」
「そっか」
 妹紅の失敗に、弥十郎は何も言わなかった。珍しいことに、彼の声は酷く沈んでいる。彼もまた猫尾の城の前で地獄を見たのだろう。
「なんだか、手当を手伝ってくれていたらしいね。ありがと」
「私はほとんど役に立ってないよ。田北の人々に感謝するのがいい」
「いや、私よりよほどね」
 彼は自嘲の笑みを浮かべている。何となく彼の心を感じた妹紅は、周りにいた侍女たちに人払いを促した。それを受け取ってくれたのか、彼女たちは素直に場から下がる。
「そう、あの廃集落の女、いるだろ?」
「ああ、あの人ね。それがどうしたの?」
 悪い事実であることは間違いない。そしてそれが沈んでる弥十郎をさらに打ちのめすということも。それでも隠しておくことは妹紅に出来なかった。
「死んだよ、あの人」
「……え?」
「男装して兵になってた。それで、私の腕の中で……」
 一人で抱え込むには大きすぎる出来事だった。なにより、あれだけ悲劇を体験しながら果てまで悲劇に満ちていた、というのが哀しくてならない。少なくとも妹紅にはそう思えた。いくら長く生きたってそういう許容量は変わらない。やはり妹紅は優しい人間だった。
「そっか」
 弥十郎の声は非常に乾いていた。
「あの人も死んじゃったのか」
「……ああ」
 しみじみと、彼は呟く。
「一体、どうして彼女が参戦していたんだ?」
 妹紅はどうしても聞きたかった。彼女が男装してまで戦に参加していた理由が、そのきっかけだけでも、掴みたかった。
「そんなの簡単だよ」
 しかし弥十郎はそれを完璧に答えられるらしい。
「戦に出なきゃ暮らせなかったのさ」
「は?」
「田北村の収穫は6年前から激減した。当然それだけじゃ喰ってけない。そしたらどうするか」
 空しい目で弥十郎は妹紅を見た。
「戦に行くんだよ。戦に行って行った先からいろんなものを持ってくる。それを換金するなりなんなりして、収入へ変える。それに戦で功績を上げれば恩賞も出るしね」
「でも、あの人は女じゃ」
「他に出る人がいなかったんだよ。きっと食べるにも事欠いてただろうし。今の田北村の男の数では、田北村全員の人間を養えない」
 弥十郎の目には全く感情が籠ってないように、妹紅には感じられる。それが不気味で仕方ない。
「だからって戦に……」
「もちろん、女なら参陣させない。でも気付かないことだってある。みな男装するからね」
「そうか」
 それに妹紅は静かにうなずくしかなかった。彼女も懸命に生きようと足掻いたのだろう。その果てがどんなに暗いものかということを知りながら。
「やはり私では、田北を守るにはとても力不足だ」
 妹紅の問いが終わったと見たのか、ポツリ、と彼は呟いた。空虚な目で、さらりとした言葉だった。
「それは」
「本当ならただの部屋住みで済むはずだったのに」
 すぐさま否定しようとした妹紅を無視して弥十郎は言葉を続ける。否定しようもないし、良く考えてみればこのようなことを言う相手はそうそういないのだろう、と妹紅は素直に聞くことにした。
「私の生まれた吉弘の家も、養子に来た田北の家も、有能な人間が多い家。そんな家に生まれて養子に来て……私はそんな人間じゃないのに」
 妹紅はただ静聴するしかない。ずっと弥十郎という男が抱えてきた矛盾というものが、妹紅には見えそうだった。
「私は無能だ。交渉が上手いわけでもないし戦ができるわけでもない。もし交渉が上手ければ、田北がこんな貧乏くじを引くことはなかったろうし、戦ができればここまで犠牲を出すことはなかったと思う。でも、どちらもできない」
 それは半分事実かもしれない。ただ一方で、田北の処遇という問題が彼にどうにかできる問題かどうかというところも微妙だと妹紅には思う。
「親戚にしたって友にしたって同僚にしたって、私の周りに居るのは有能な奴ばかり。そんな中にどうして私がいるのか、よくわからないんだ」
 妹紅は弥十郎の人間関係を詳しく知るわけではない。だから周りが有能な者ばかりかどうかということも知らない。しかし周りが全て有能なのに一人無能でいることの怖さは痛いほどによくわかる。自分も父と居た頃にはそういう思いに苛まれていた。
「ああ、ごめん。少し愚痴ってしまった」
 しかしそれで終わりだった。もっとずっと愚痴ると思っていたのに、弥十郎は僅かこれだけで言葉を切り上げる。すでに彼の顔には若干の生気が戻ってきている。
「ちょっとすっきりした。ありがと。それじゃ、またね」
 恥ずかしくなったのかどうか知らないが、妹紅への挨拶もそこそこに、さっさと彼は帰って行ってしまった。一体なんだったのだろうか、と妹紅は少し思う。
 しかし、結局のところ弥十郎は前向きなのだろう。全てを吐き出さずとも、少し愚痴ってすっきりしたら、残りは抱えながらまた前へと進む。自分が無能だということを十分頭に入れながら、それでも懸命に運命へと立ち向かい泳ぐ。
 そんな彼の在り方が、妹紅には少し眩しかった。


 ふと、妹紅は廃集落の未亡人の事を思い返した。あんなに若かったのに、女なのに、戦に出てしまった女だ。その女に、妹紅はどんな思いを抱いたか。
 そういえばあの時、死に急ぐなんてバカな、と思ったのではなかったか。あの女が死ぬことにたいして、空しさを覚えたのではなかったか。
 そんな感情を覚えたのは、いつ以来であっただろうか、と妹紅は自分に驚いていた。ああやって生きることを肯定し、死に空しさを覚えることができたのはいつの日以来だったか。もうずっと生きることに飽き、ずっと死にたいと思いながら漫然と生きてきただけだったはずなのに、自分は咄嗟に死ぬことより生きることの方がよい、と判断を下した。
 どうやら、やはり自分はどこかで生きることを肯定していたらしかった。どんなに生きることに飽いたとしても、それでも、生きることにまだ希望を持っていたのだ。
 その事に気付いて、妹紅は溜息をついた。妹紅はまだ、人間であったらしいと改めて思えた。
 ひょっとしたら、弥十郎のおかげかもしれぬ、と少し感謝する。それと同時に、改めてあの不幸な――死んでしまったことが不幸だと思ったのは、一体いつ以来か妹紅にはわからぬが――未亡人に手を合わせた。

 せめて来世では、良い生活をできることを願って。





 大友軍による猫尾城総攻撃は、惨憺たる結果に終わった。猫尾城の大手・搦手、双方から同時に攻撃を掛け、また支城にも攻撃を掛けたものの大友軍は何一つとして戦果を得られなかった。むしろ搦手では黒木の反撃に部隊が崩壊、日田領主・財津龍閑が戦死するという大敗北となり、他の場所でも大友軍の犠牲は小さくない。








     ――天色――

  天の染まる青とて珍重さるる色なり。而れど易の曰うに、天に昇りし龍は悔いあるのみ、と。


 衣玖もまた、この城を守るために懸命に立ち働いていた。決して強要されたのではなく、志願したのである。自分がこうして立ち働けば、努力すれば、猫尾城落城という凶事も回避できるかもしれない、と思うからである。
「弾来るぞ!」
 だから衣玖も、城の女に交じって火を消して回ったり石を拾い集めたり、様々な雑用を行う。人間同士の戦いに参加せずとも、やることはある。
 衣玖の正面に直径が一尺もある鉛の塊が着弾し、地響きと砂煙を巻きあげる。時々撃ち込まれる大砲の弾だ。大砲とはいっても、火縄銃の化物のようなものでしかないが。勿論炸裂などしない。
「永江さま、御苦労です」
 気付けば、衣玖はこの城に籠る黒木の人々に溶け込んでいた。
「ええ。そちらこそ、大丈夫ですか?」
「正門の方は問題ないようです。私は今から裏へ回るつもりですが」
「それじゃ、私もそちらに行きましょう」
 最初は異形として避けられていたが、柏と普通に話す様子を見た住民たちは次第に衣玖を受け入れるようになり、元来の上品さと人当たりの良さも手伝って、今ではもう黒木の住人とさえいえるほどである。
「しかし永江さまがおればなんだか、勝てる気が致します」
「ほんに。きっと津江神社の神さまが遣わしてくれたのでしょう」
 下手をすれば、神扱いである。凶兆としてずっと生きていた衣玖からしてみれば、すこしむず痒いほどに待遇がいい。
「そんなことはありませんよ」
 だから、そういう扱いを受けたら衣玖は照れながら否定する。普通に扱ってくれるだけでも、衣玖は充分だった。
「さて、早く裏へ行きますよ」


 日が暮れて後、大友軍の攻撃をものの見事に跳ね返して、猫尾城は勝利に沸き返っていた。猫尾城正門に大友軍を寄せ付けなかったのをはじめ、猫尾城の裏門や各支城など、大友軍の攻撃を受けた全ての場所でそれらを跳ね返し、それどころか反撃して大きな戦果を挙げた場所すらあるのだ。未だ大友軍は黒木に居座っているといえ、初戦としてはとても縁起が良い。
「大友軍も取るに足らぬ。さっさと尻尾を巻いて帰れ!」
「おうとも。ま、猫尾すら巻けぬ連中に巻く尻尾なぞないけどな」
「な・に・が"大友(おうとも)"だ。つまらんぞ」
「イテッ」
 兵たちも少々の酒が入っててんやわんやの大騒ぎ。とは言っても、既に番の終わった一部の兵である。兵の多くは城のあちこちで警戒に当たっている。まだ大友軍は下で猫尾城の隙を狙っているのだ。
「大騒ぎね」
「こちらの3倍も居るはずの大友軍を難なく追い返したのですから、無理もないでしょう」
 その喧噪を、本丸の二階から衣玖と柏が眺めている。山の下の黒木の町で篝火が揺れ、また幾つかの山でも篝火が焚かれている。篝火のある山が猫尾の支城だろう。
「まあそうよね。まさかここまで簡単に追い返せるとは思わなかったもの」
「そうですか」
 ひとまず二人の間には安堵が満ちていた。二人の両方がさして危ない目に会うこともなく、黒木の人々が――幾人かは犠牲になったが――大量に死んだわけではない。このまま大友軍が諦めて帰ってくれればいいのに、と思うがそういうわけにもいかないだろう。
「衣玖も随分と有名になっちゃったね」
 くす、と笑って突然柏は衣玖をつついた。
「ちょっと、何するんです?!」
 衣玖はびっくりして少し柏から離れる。
「黒木の人達みんな言ってたよ、永江さまは素晴らしい方だ、って」
「そんなことないですよ。私なんて勝手がわからず見よう見まねで動いただけですし」
「いやいや、謙遜してしまって、ねぇ。自分が見えてないんだから」
 ふん、と胸を張って柏は述べた。さも自分が大人であるかのような表情である。
「自分が見えていないって、見えているからこうして否定しているのでしょう」
「いんや。見えていないから否定してるんだよ」
 柏やら黒木の人やらは少し自分を買い被り過ぎだ、と衣玖は思っている。確かに自分は妖怪であるかもしれないが、だからこそ人間(じんかん)に暮らしたことはほとんどない。こうやって人の争いに巻き込まれることも初めてであるし、そもそも人がどのような生活をしているかを知ること自体も初めてだ。空気を読む程度の能力があればこそ、衣玖はこうして普通に生活することができている。
 元来、人と龍宮の使いとの間は掛け離れている。
「そうでしょうか」
 しかし衣玖は言い返すのを諦めた。なんだかよくわからないが、柏の中には"完全無欠な大人の女性"としての衣玖像が作り上げられてしまっているらしい。非常に名誉なことであるとどうじに恥ずかしいことである。
「うん。衣玖だもの」

 二人の和やかな空気が二階の一室を包む。
 そんな余裕があるほどに、猫尾の城は厳然と立っていた。






「あれ、随分と今日は渋い顔だねぇ」
 勇儀が久しぶりに部屋を訪れると、大層渋い顔で道雪は座っていた。珍しく酒はない。
「この状況で渋い顔とならずどのような顔を示せというのだ」
「さて、何がどうなったか知らないけど」
 勇儀は道雪の正面に、いつものように座る。
「どうしたというんだい?」
「鬼に言う筋合いはない」
 勇儀の問いは、道雪に斬りおとされる。今日は機嫌が悪そうだった。
「そうかな。鬼も戦に関しては詳しいかもしれないけど」
「鬼にまで戦を聞く必要はない」
 ぎろり、とギョロ目を剥いて道雪は勇儀を睨みつける。
「そうか」
 勇儀は平静を装って盃を煽った。実際のところ、他の人間なら全く動じないはずなのに、道雪という男の視線だけはどうしても苦手だ。
「ならいいけどね。でも、そんなところで独り暗く座っていたら、鬼の良い餌食だよ」
「餌食? 儂を喰らうのか?」
「私はそんなつもりないけどね」
 これは話ようがない、と勇儀は思う。今日の道雪は、触ればすぐに切れてしまうような鋭さを感じる。いつもの鷹揚としたとはちょっと違いそうだ。
「しかし、随分と機嫌が悪いみたいだねぇ」
 少し勇儀は道雪を見下すような表情で言った。大概、こういう風に機嫌が悪い人間を相手するのは面白い。
「鬼が煩うて堪らぬのでな」
「豊後の軍は随分と苦戦してるそうじゃないか」
「それがどうした」
 道雪の声が一段階低くなる。予想通りである。
「どうしてあんたがまだ豊後に拘るんだか。さっぱり私にはわからんね」
「だから言うたであろう。儂を頼る者がおるから、と」
「そりゃ、嘘だね」
 直径が二尺もある大盃を差し向けながら、さらりと勇儀は否定する。
「部下・同僚を守るためならさっさと龍造寺なり島津なりに降ればいい。そっちの方が早い。そうすりゃ豊後の大友だって降るだろうからね。あんたが居なきゃ豊後は持たないよ」
「儂を否定してどうする」
「私はねぇ」
 勇儀は盃を煽る。ふと道雪を見た目は、鬼とは思えぬほどの情感が籠っている。
「あんたがそうやって戦う理由を知りたいだけさ」
 その言葉に、道雪は勇儀を確と見据えた。その目は真剣そのもの。しかし殺気は微塵も感じられず、ただ勇儀へと感情をぶつける目線であった。勇儀もまた紅い目線を道雪へ返した。それは視線だけでのやり取りであるが、二者の間に広がる空間を築くものである。
「儂を頼る者、というより儂が頼る者、というべきなのかもしれぬな」
 道雪はふと目を反らし、外を見た。夏にしては珍しく雲が細い月を薄く包んでいる。
「儂の生まれた豊後、儂を助けてくれた者、儂と共に戦うた者、儂を慕う者。それらを考えれば、とても裏切ることなど出来ぬ。儂は例えこの命を燃やし尽くそうと、大友に居るつもりぞ」
「なるほどねぇ」
 まだこちらの方が、勇儀としては納得がいく。そして道雪という男を改めて見直した。自分と付き合いのあった人間たちを残らず糧にして、自らの信念を寸分も曲げることなく真っ直ぐ駆け抜けようとしている。とかく、自らの信念なぞ構わずただ生きるために立ち働く下賤な者共の多い人間の中で、このように清々しい生き方をする戸次道雪は、本当に久方ぶりの勇儀が気に入った人間かもしれない。
「そうか。そりゃまた結構なことだね」
「だから鬼、儂を引きずり込もうとしても無駄よ」
「そうだね。それがわかったから、今日はさっさと引き上げることにするよ。それでは、な」
 ふ、と勇儀は立ち消える。それを道雪は睨み続けて、それから不機嫌そうにふ、と息を吐いた。

 豊後を出立した大友軍が黒木に着いたと道雪が聞いてから、すでに半月近くが経過している。しかし初日に手痛い敗北をしたという報告のあと、報告は猫尾城を遠巻きにしているというものばかりで捗々しい戦果は聞かない。7000もの軍を率いて鳴り物入りしながら、猫尾などという小城一つ落とせぬ大友軍が、道雪には不甲斐なくて仕方なかった。






 黒木に着いたのは文月の初め頃だ、と妹紅は記憶している。今日は葉月一日。ついに文月は終わってしまった。しかし目の前には依然として黒木氏の旗が翻る猫尾城が聳えている。一方の大友軍といえば初日以来散発的に攻撃するばかりで、大きな攻勢には一度も出ておらず、ただ日がな猫尾の城を眺めながら黒木の町で時間をつぶしている。
 おまけに、龍造寺の援軍・2000人が到着するや、猫尾城のすぐ西にある支城・高牟礼城に入城してしまった。常に大友軍はこれをも睨みながら戦をせねばならなくなってしまった。
「おーい、もこー、居るかー?」
 そんな中でも弥十郎は時折この妹紅の部屋を訪れる。あれ以来暗い部分は全く見せずいつも陽気に妹紅へ土産話を持ってくるのだから、精神力は相当なものだ、と妹紅は思っている。
「おい弥十郎。相変わらず適当だな」
 しかしこの日は珍しく、後ろから別の人間の声が聞こえた。あれは宗哲の声ではなく、およそ弥十郎と似たような歳の若い男の声だ。
「しょうがないでしょ、こういう性格なんだし」
「あのなぁ……」
 弥十郎の適当さに連れが呆れている様子が良くわかる。周りの侍女たちもまた苦笑していた。戸を開けようと妹紅が立ちあがると、侍女の1人がそそくさと駆け寄って、戸を引いた。
「本当に適当だな、あんた」
 半ば呆れながら入ってきた弥十郎へと妹紅は声を掛ける。当の弥十郎は陽気そうな顔で妹紅を見ている。
「まあね」
 ずかずかと入ってきて、妹紅の正面に陣取って座る。まあこういう軽さが彼の取り柄だということは前に把握した。余りに酷くないか、とは思うが。
「ほら、湖左も」
「いや……」
 湖左と呼ばれた弥十郎の連れは、困惑した表情で妹紅と弥十郎を見比べていた。その顔は細面で如何にも高貴な生まれということを想像させるものであるが、目の鋭さはその深い才を感じさせる。歳は弥十郎とたいして変わらぬのは間違いなかろうが、どう考えてもこちらの男のほうが頼りになる。
「とりあえず、どうぞこちらに」
 その様子があまりに可哀そうであったので、妹紅は弥十郎の隣を指差した。同時に、侍女へ白湯の用意を頼む。茶などという高級品は此処にない。
「それでは、失礼します」
 彼は礼儀正しく一礼すると、弥十郎の隣に座る。妹紅は白湯を差し出すと丁寧に頭を下げてから受け取り、そして口を開いた。緑に縅した甲冑が良く似合っているが、磔にされた人間の像の首飾りを掛けていて、それが妹紅には少し不思議だったし不気味だった。
「私の名は志賀(しが)湖左衛門尉(こざえもんのじょう)親次(ちかつぐ)。この弥十郎(バカ)の友でございます。以後お見知り置きを」
 礼儀正しく上品な所作に、妹紅も丁寧な礼で答える。白湯を置いた右手を前に揃えて、頭を下げた。
「藤原妹紅と言います。成り行き上弥十郎(コレ)についてくることになりました」
「ちょっと」
 弥十郎が頭を掻いている。
「酷くない、扱いが?」
「どこがだ?」
「どこが?」
 妹紅と湖左とは弥十郎へと声を揃えた。

 妹紅は湖左という男に感心しきりだった。この男とて、まだ20歳にもならぬ若者である。しかし天賦の才は既にこの男にそれ以上のものを与えている。先見の明にしても軍才にしても、20歳とは思えぬほど卓越し、またこの日の本という大きな視点を通して見る自らの意見を一つ一つ解説できるだけの男である。また妹紅やら弥十郎の言葉に対しても的確な答えや意見を述べ、自らが間違っていると思うや諭すようにそれについて論じていく。ここまでの器量者はそうそういないだろう、と妹紅は思う。
「それはどうしても納得いかない。どうしてそんなことを断言できるのよ」
 しかし、だからこそ、妹紅としては彼の一面がどうしても納得できないし受け入れられなかった。
「デウスさまは必ず民をお導きになるからです。貴女は信じていないからわからない」
 湖左――志賀湖左衛門尉親次は熱心なキリシタンであるのだった。
「いや、そんなことはないね。人間ってもんはどんなに頑張って生きたってダメなもんはダメなんだよ」
「世の中がそのような存在であるはずがないでしょう。人間であれば、努力は報われます」
「なら、どうして不幸な人間がいる? 努力すれば報われるのだろう?」
「今不幸であったとしても、それはその人がデウスさまの試練を与えられているからです。試練を乗り越えた先には必ず報いがあります」
「ふ、馬鹿げてる」
 妹紅と湖左の論争を弥十郎は独り静かに聞いている。どちらが良いとも悪いとも言わず、神妙な顔をして二人のやり取りに聞き入っている。
「"でうす"とやらがそうやって本当に全ての人間を見ているとでも言うのかい? そんな偉いのがわざわざ人間を見ているのか?」
「人間を見ぬはずがないでしょう。デウスさまは自らの作られた人間をお導きになると決めているのですから」
 妹紅と湖左との間には、大きな断絶がある。少なくとも妹紅にはそう思えた。
 目の前で理路整然と言葉を並べていく端正なこの男は、人間という存在にまだ希望を持っている。人間という存在が救われる存在であり、もし不幸であってもそれは一時的だと信じ込んでいる。
 しかし、妹紅にはとてもそう思えないのだ。あの、戦に出て死んでしまった未亡人にしてもそうだ。人間の力では如何ともしがたいことというのはいくらでもある。救われぬことだっていくらでもある。不幸のまま死ぬことだって、充分あるのだ。
 そもそも、もし救われるのならば、これだけ長く生きてきた妹紅はもうとっくに救われていてもいいはずなのに。
「それじゃ、不幸で死んだ人間ってのはなんだ? 例えば、正門の前で死んだ田北の民たちは一体なんなんだ? あれが救いなのか?」
 妹紅の言葉に、弥十郎の顔色が少し蒼褪める。少しキツイことを言ってしまったかな、と妹紅は少し後悔した。
「いいえ、違います」
 湖左も少し弥十郎の顔を窺いながら答える。弥十郎にこうして気遣いするあたり、二人は仲の良い友なのだろう、と妹紅は思う。
「もし死が不幸でも、善行の努力をしていれば死後の世界で必ず救われます。努力をしていた者であれば、もし門の前で屍を晒していたとしても魂は安楽を得ていると思います」
「そもそも、善行ってなんだい? 悪行と善行と、誰が決めるのさ?」
「それはデウスさまがお決めくださいます」
「そもそも悪と善なんて抽象的なもの、そうすぐ決められるものではないのに?」
「いいえ。明確に善と悪はあるのです」


 どこまで行っても、妹紅と湖左との話は合わなかった。というよりは、妹紅がキリスト教という概念を全く受け入れられなかっただけかもしれない。実際、キリスト教が出てこない部分では妹紅と湖左は充分な会話をすることができたし、互いがその力を認めるところとなった。それだけに、キリスト教という部分で決裂してしまうのは妹紅としても惜しいと思わざるを得ない。しかし合わないものは合わないのだ。ああやって人生には希望と救いがあるなどとは、とても妹紅には思えない。運命というものがあるかどうか知らぬが、不幸も幸福も全て存在し、抗うことができないこともあるのだ、と妹紅は思っている。
 そうとでも思っていなければ、自分の存在が説明できないと思っている。こうして惨めなまま生き続ける自分が救われない理由が説明できない。
 結局、喧嘩別れに近い形で湖左は帰って行った。最後の方は少し昂っていたが、特にそれ以上のこともなく、互いに大人の対応であった。

「なんだか、湖左が申し訳ないことをしたね」
 湖左が帰ったのを見届けてから、弥十郎が妹紅に頭を下げる。
「いやいや、私こそ彼には悪い事をしたよ。今度会ったら謝っておいてくれ」
「わかった」
 妹紅と湖左とを引き合わせたこの弥十郎自身はほとんど論議に参加しなかった。時折白熱しすぎた場を収めるくらいで、あとはずっと静聴していたように思う。
「ところで」
 だから、妹紅は聞いてみたかった。
「弥十郎はどう思うんだい」
「キリシタンかどうか、ってこと?」
「いや」
 確かに気になりはするが、妹紅にとって重要なのはそこではない。
「弥十郎は、救いがあると思う? 別に"でうす"でなくてもいい。仏でも神でもいいけど、救いというものがあるかどうか」
「そうだね……」
 弥十郎は逡巡した。珍しく真剣な顔をして考え込み、少ししてから言う。
「わからない。あるかないかなんて、わからない」
「わからない、か」
「そう」
「所詮私はまだ16歳の若輩に過ぎない。とても救いがあるかなんて知れる歳じゃないよ」
 ふ、と柔らかく弥十郎は息を吐く。その弥十郎の顔はしかし、決して絶望のそれではない。
「どちらか知らないけれど、とにかく私は田北を守ろうと励むよ」
 その言葉には弥十郎の全てが詰まっているように、妹紅には感じられた。

 湖左という男の思想はとても受け入れられなかった。妹紅には刺激がきつすぎた。希望を全面に押し出した湖左という男が、結局妹紅には眩しかったのだ。ああやって生きていける彼が、妹紅にはすこし信じ難かった。
 でも、と妹紅は思う。ああやって希望を抱き運命を泳ごうとする人間というものが少なからずいる。ひょっとしたら、本当にひょっとしたら、自分も運命を変えられるのかもしれない。救いがあるのかもしれない。きっと無いと思うのだけれど、それでももしかしたら――。
 あそこまでとは言わずとも、すこし妹紅の心情は変化していた。もうすこし能動的に生きてみようか。もしかしたら、何らかの救いを得られるかもしれない。もしかしたら生きる目的を見つけられるかもしれない。





 葉月は半ば近くなっても、猫尾の城はビクともしなかった。それどころか、黒木の領地の要所要所に構えられた支城の一つすら奪い取ることはできず、大友軍は黒木の山を眺めるだけである。初日の大損害を恐れてしまって、大友軍はあれから一度も総攻撃を行わず、猫尾城を遠巻きにするばかりだ。
 結局のところ、将が致命的なまでに足りなかった。大きな戦の経験があるのは朽網宗暦と、せいぜい弥十郎の後見である田北宗哲くらい。しかし田北は所詮掻き集めの部隊でしかないから、実質的には朽網隊だけが歴戦の精鋭であるといえる。あとは"湖左"こと志賀湖左衛門尉の才によって指揮統率される志賀隊の働きが目立つくらいなもので、残りの部隊は戦慣れもせず徒に時間をつぶすのみであった。
 本来ならば、衰退する龍造寺に与える乾坤一擲だったはずの大友軍は、黒木に詰まったまま一歩も動けない。






「既に一月ほどが経ちながら、未だ黒木の城を一つとて落とせておらぬことを考えれば、これは由々しき事態と……」
 道雪の目の前に、豊後から来た使者が頭を下げていた。黒木の窮状について先から御託を並べている。道雪の隣では紹運が使者を渋い表情で睨みつけている。
「用件を手短に申せ! そのような御託などいらぬわ!」
 道雪はその使者へと一喝した。道雪はそういった類の御託が嫌いでしかたない。
「ひっ」
 道雪の怒りに圧倒された使者はすっかり縮こまって、それから恐る恐る述べる。
「道雪どのに、筑後へ援軍として出て頂きたく……」
「早くそれを言えばよいものを、いちいち余計なことを」
「申し訳ございませぬ」
 まるで上から押し付けられたかのように真っ平らに平伏して、震えながら使者は答えた。道雪の纏う気というものが、使者には恐ろしくて仕方なかったのである。
「よし、援軍を出すぞ」
 道雪は紹運へと言う。もう使者のことなぞ眼中にもない。
「黒木ですか、敵地の中央を突破せねばなりませぬな」
「そうであろうが、行けぬところではあるまい。紹運、何日で兵は集まる?」
「今すぐ召集を掛ければ、二・三日の内に」
「よし、今すぐかかれ」
「はっ」


 ひとまず伝令など、必要なことを終わらせ漸く道雪は酒を傾けるいつもの一時を迎えていた。月は少し膨らみ半分へと近づいている。
「あんたも戦に行くのか、ついに」
 また鬼だった。しかしこの鬼と話すことをそれほど苦にしていない道雪がそこにいる。
「鬼の好む戦があってよかったのう。大層嬉しかろうて」
「別に鬼は戦が好きなわけじゃないんだけどな」
 ついこの間とは違い、今度は道雪も盃を傾けている。道雪の足元に置かれた土器(かわらけ)には味噌が少し盛られていた。
「ふむ、それは初耳だな」
「人間どもは、とかく鬼を誤解して困る」
 道雪の顔を覗きながら、勇儀は盃を傾ける。その盃にはいつも酒が満ちている。道雪はどこから湧いて出るのか不思議であったが、同時にそもそも妖の持ち物を云々言っても仕方なかろうと思っている。
「別に人の騙し合いなんて見ても面白くないだろう。鬼が好きなのは、騙しも何もない真っ向勝負さ」
「鬼だな」
 ふ、と少し息を吐いてから道雪はさらりと答えた。
「真っ向勝負をするのは強い者だけよ。儂らの如き弱い人間は騙さねば生きてゆけぬ。それを面白くない、と言われても致し方ない」
「そうかな、全員で正面からぶつかれば騙し合わずに済む」
「人は弱いが故に死が怖い。死なぬためには、隣を騙してでも殺す」
 道雪は淡々と述べる。それは戦国という時代の常識であり、勇儀にとっては決して受け入れられない考え方である。
「騙し合いを好いてやっておる人間なぞ、誰も居らぬよ。ただ生きるために、皆騙し合うのみでな」
「ああ、そう」
 もう勇儀は興味なさげだった。道雪もまた、人の騙し合いになぞ興味はない。
「それであんたは、その騙し合いの現場に行くわけだね」
「儂は騙しなぞせんがな。あのような小城に小細工使うような小さい根性はしておらぬ」
「つまり、自分の力はあると」
「さてな、儂がそう信じてるだけかもしれぬ」
 呵々、と道雪は笑う。その笑い姿はしかし自らの力への自信に満ちていて、隙がない。人と言うよりは、鬼と言えるかもしれない、と勇儀は改めて思う。
「これからあんたが行く道は修羅の道。鬼とてゆかぬ修羅の道だが、あんたは行くんだな?」
 鬼は一対一の対等な勝負しかしない。本当の意味で戦っているばかりなのは、修羅だ。鬼とて修羅ではない。
「既に修羅道に浸かる我が身に今更何を言う。この道雪の前に居るならば、修羅も鬼も、如何なる物とて斬って見せよう」
 この言葉が、勇儀の聞きたかったものだった。正面から鬼にも相手をしてくれるような人間というものを、勇儀は欲していた。こういう人間と鬼との関係が、本当の意味での鬼と人との関係であると、今でも勇儀は信じているから。








     ――薄藍――

  未だ日完全に落ちず、空の薄藍に染まるは偏に、闇に飲まるる証なり。


 大友軍が全く動かぬが故に、猫尾の城は存外陽気な空気が支配している。支城の一つも落ちてはおらず、城の中で足りない物資は何もない。しかも大友軍はすっかり黒木の町で萎縮しきってしまっているのだ。やがて龍造寺が数万もの大軍で以て援軍に来るだろうし、勝ちはもう近くに見える様に思われる。
 猫尾の城はそういう明るい雰囲気に包まれ、ともすれば戦はそろそろ終わるのではないかと予測する人間すらいる。しかし、衣玖の隣で窓を眺めている柏の雰囲気がどこか暗いことを、衣玖は敏感に感じていた。そもそも、衣玖は柏に呼ばれてこの部屋にいる。いつもなら柏が衣玖の部屋を訪れるのに、今日だけ少し変だな、と衣玖は感じていた。
「衣玖、話があるんだけど」
 柏はこちらを向くと、すたすたと部屋の中を歩いて、上座の端においてある黒漆塗の箱を手にとった。それは、どうやら桐の衣装箱のようである。
「これの中身を見てくれる?」
 柏は箱を衣玖の前に置き、そして箱を挟んだ衣玖の向かい側に、神妙な顔つきをして座った。
「?」
 衣玖は何も思い当たりはなかった。衣玖の着ているものはすべてこの黒木家のものだから、自分の着物は1着もないはずなのだ。
「……え?!」
 箱を丁寧に開け、さらに袱紗を開いた中に丁寧に収められていたのは、薄桃色を帯びた羅のような布。その縁には緋色の布で装飾が為されている。正真正銘の、衣玖の羽衣だった。
「え、これを、一体、何処で?」
 元はといえば、これを探してずっと黒木に滞在していたのだ。それでも、終ぞ見つからずそろそろ諦めようかと思っていたもの。その羽衣が、突然柏から渡される。それは衣玖にとって予想外にも程がある事態である。
「そのことでね、実は、衣玖に謝らなきゃいけないことがあるの」
 羽衣を出しても暗い顔をしたままであるから、どうやらこれで話が終わり、というわけではないらしいと衣玖は判断した。しかし、それならばこの羽衣は何処から出てきたのだろうか。
「あのね、それ、私が隠していたの」
「はい?」
 本日二度目の吃驚の声を衣玖は発した。衣玖にとって再び想定外なことが言葉にされたからである。
「衣玖がずっと探してたその羽衣、私が隠してたの」
 柏は泣きそうな顔で言った。どうやら自分が悪い事をしていた、ということはわかっていたらしい。
「それでは、羽衣は」
「倒れてた衣玖は羽衣を身に纏ってた。でもボロボロだったから手当の時に脱いでもらって、それでそのまま」
「隠していたんですか?」
「……うん」
 再び衣玖は羽衣に目を遣る。そこに入っているのはどう見ても衣玖の羽衣だが、決してボロボロではない。
「わざわざ、直してくれたんですか?」
「ボロボロのままじゃ可哀そうだと思ったから……」
 良く見れば微妙に血痕が残っていたり、千切れた場所が縫い合わせたりしてある。しかし概して新品同然と言えるだろう。ここまで直すのは骨折りだったに違いない、と衣玖は思う。
「そう。有難うございます」
「感謝されることなんて、何もしてないよ。私は隠してたんだもん」
 柏の目は既に涙に輝いている。
「一体、どうしてこんなことをしたんですか?」
 わざわざここまで手を掛けて羽衣を直したのに、どうしてそれをわざわざ隠していたのか。ずっと衣玖が羽衣を探していたのを知っているのにどうして隠していたのか、それを衣玖は知りたかった。
「だって、」
 柏の声は鼻声だ。
「もし羽衣があったら、衣玖が帰ってしまうと思ったんだもん」
 そして理由は至って単純なものであった。
「羽衣がなかったら、衣玖はずっとここに居てくれると思ったから。だから、隠して……」
 遂に柏の目から本格的に涙が零れ出す。後悔していることは間違いないらしかった。
「そうですか」
 衣玖は少し嬉しかった。確かに柏が羽衣を隠していたという事実には少々怒りもあるし、落胆もある。しかしそれ以上に、柏が衣玖を少しでも長く引き留めておこうと思ってくれたことが衣玖には非常に有難い。これまで少しでも早く追い出そうとばかり思われていただけに、引き留められるという経験が衣玖にはほとんどなかったのだ。
「私、酷いでしょ。私は酷い女なの」
 しかし、柏は自分を否定に走る。
「だから、衣玖は一緒にいない方がいいわ。羽衣があるなら、帰れるんでしょ?」
「いいえ、別に酷くありませんよ」
 だから、衣玖は柏を宥めてやる。ひとまず箱を横へ退かすと、柏の頭に右手をポンと乗せた。
「それを正直に言ってくれたんだから、酷くありません。本当に酷い人であるなら、ここまで丁寧に羽衣を繕ってはくれないでしょうし」
「でも……」
 まだ何か言おうとする彼女を左手で引き寄せて、右手で頭を撫でてやる。
「いいんですよ。私は、貴女の心が嬉しいですから」
 柏は衣玖が全く怒らぬことに驚きながら、衣玖に撫でられるがままになっている。そうして衣玖に撫でられながら、
「ごめんなさい」
と告げた。その声はあくまで小さいものだったが、衣玖はしっかり聞き取り、
「貴女の謝罪はちゃんと受け取りましたよ」
と答えた。

 しかし、どうして柏がここで打ち明ける気になったのか。それが、衣玖にはすこし引っ掛かる。それに柏は妙に緊張していたようにも思う。それはただ、柏が衣玖の羽衣を隠していたからだけではないような気が、衣玖にはするのだ。"空気を読む程度の能力"が衣玖に告げている。
 だから、少し柏が落ち着いたところを見計らって、衣玖は聞いた。
「どうして、貴女は今これを打ち明けようとしたのですか?」
「え?」
「今わざわざ、貴女が羽衣のことを打ち明けた理由はなんですか?」
 その問いを聞いた柏はびっくりして固まって、それから難しい顔をして黙ってしまった。
「柏?」
「……そう」
 衣玖から顔を背けて彼女は言う。
「衣玖を帰すためだよ。やっぱり、衣玖は天に帰るべきだと私思ったから」
「私が天に帰るため、ですか?」
「うん。龍宮の使いはこんな人間の世界に居るべきじゃないと思うから」
 衣玖は柏の目を見ようとする。しかし、柏は顔をそむけたまま衣玖の方を向かない。
「冗談を言わないでください」
「冗談なんかじゃないよ」
「それなら、私の目を見れるでしょう。そうやって顔を背けているのは貴女がまだ何かを隠しているからではないのですか?」
 衣玖はあくまで優しく柏へ告げる。しかしそれは柏にとっては心に刺さるような言葉である。
「え、それは」
 柏は平静を装うべく姿勢を正して衣玖に面と向かった。だが、衣玖にはその心の内の動揺がすぐに読み取れる。
「そんなこと、ないよ」
「私は騙せませんよ」
 衣玖は柏の真っ黒い瞳を覗きこむ。その瞳はまるで磨いた黒曜石、滑らかに光っているが、衣玖はその奥にある物を何か読み取ろうとした。
「衣玖……」
 真剣な衣玖の瞳に、柏はとうとう根を上げた。
「衣玖、ごめんなさい」
 柏は衣玖の瞳から目を反らすと今度は横でなく、下へ目を向ける。
「私、隠してたことがあるの」
 柏は衣玖から少し離れて、それから三つ指を突いて頭を下げる。
「本当にごめんなさい」
「いえ、それで、何を隠していたのです?」
 柏の肩に手を掛けて起きあがらせながら衣玖は聞いた。明らかに動揺しているにも関わらず衣玖に隠そうとしたの、なんだったのだろうか。羽衣を打ち明けた理由と何か関係あるのか。
「実は、大友の援軍が来ることになったの」
 柏の声は暗い。それは衣玖への罪悪感から来ているのであろうが、必ずしもそれに収まらぬ何かがあるように衣玖には感じられた。
「援軍ですか? どれほど?」
「それはまだわからない。おそらく5000も来ないと思う」
 ならば、そこまで驚く話ではない。黒木は僅か2000程の手勢で実に7000もの大友軍の総攻撃を難なく打ち払った。それからすぐ高牟礼城には2000の龍造寺の援軍が入っているし、今更5000増えたところで変わらないような気がする。それに、城の噂によればあと一月もすれば龍造寺の数万の軍勢が筑後へと進出してきて、大友軍は撤退していくだろう、という。それならどこを恐れろというのか。
「龍造寺の援軍は数万と聞きましたが?」
「まだそこまでの出兵は決まってないみたい。それに、問題は相手の武将……」
 柏は声を詰まらせた。まるで言いたくない、という雰囲気である。
「武将がどうかしたのですか?」
「相手は戸次道雪という武将。それが、黒木に来る」
「戸次道雪?」
 衣玖は首を傾げた。衣玖は人の間の噂になぞ詳しくなかった。
「そう、戸次道雪。間違いなく九州一の武将よ。およそ彼に勝てる人間なんてどこにもいないんだから」
 柏は恐ろしさに声を震わせる。よほどの男であるのだろうか、と衣玖は推測する。しかし実感は全くわかない。
「だから、もう一度改めて言うんだけれど」
 柏は身を懸命に整えて、今度は自分から衣玖を見つめて言う。
「衣玖、この羽衣を持って天に帰って。衣玖がここに居る必要なんてないもの」
 今度は嘘も隠し事も何もない、正真正銘の彼女の気持ちであった。柏という少女の心の籠った追い出しである。その心を衣玖は今度こそ丁寧に受け取っていた。
「それは、私に逃げろということですか?」
「そう。相手が道雪では勝てるかどうかわからない。でも衣玖はそんなのに巻きこまれる必要はないもの」
 柏の心遣いの伝わってくる、万感の籠った言葉だった。衣玖にも言葉に籠められた感謝がわかる。
「だから――」
「いいえ。私はここにいますよ」
 しかし衣玖は断った。
「今更、柏を置いて一人逃げることなんてできません。それに、まだ負けると決まったわけではありませんよ」
 衣玖には事の深刻さが理解できていない。とはいえ、柏の姿を見れば柏がどの程度に思っているのかを知ることはできる。そして柏が本当に必要としているものは何なのかも。
「貴女が言ったんでしょう?」
 だから衣玖は柏に微笑んだ。固い表情で口を結んだままの柏を溶かすような、柔らかい微笑である。
「思えば変わると。決して負けるなんて決まっていません。もし今負けそうなのでも、思えば変えられるのです」
 衣玖自身、そう信じられるようになっていた。全ては目の前の彼女のおかげである。思えば変えられる、という柏の言葉に、絶望の淵に在った衣玖は救われた。だから今度は柏を衣玖は救いたかった。
「……うん。有難う。衣玖、本当に衣玖、有難う」
 衣玖が居ることに彼女は安心したのか、幾度も頭を下げて衣玖へ感謝を告げる。衣玖としては少々むず痒いことであるがそれでも嬉しさに思わず顔をほころばせた。その表情は希望に満ち溢れたものであると同時に、希望をこうして持つことができる喜びに包まれていた。


 それから再び他愛もない話やらなにやらと柏は衣玖の部屋に長居し、もうじき日が暮れるとなって漸く引き上げて行った。
「永江どの、おられるか?」
 そろそろ寝ようかなぁ、と思っていたところに部屋の襖の向こうから男の声が衣玖を呼んだ。これはどうやら柏の父・家永らしいと衣玖は咄嗟に思い出した。そうであればやはり粗相は許されない、と慌てて衣玖は姿勢を正して返事を返す。
「どうぞ」
「すまない。永江どの、お邪魔する」
 家永の言葉と共に襖が開けられて、家永が滑り込んできた。衣玖は彼をそのまま部屋の上座へと誘導し、自分は下座へ座る。相手は城主であるのだから、当然と言えば当然の仕草であるが、妖怪には縁のないこと。もう1月も黒木に居座っている衣玖だからこそできる所作である。
「永江どの、我が娘が御迷惑をおかけしていたとか。誠に申し訳ない」
 開口一番、早速彼は頭を下げる。衣玖は何のことだか一瞬わからないでうろたえた。
「ええと、家永どの?」
「既に我が娘より話は聞き申しました。なんでも永江どのが大切になされていた羽衣を勝手に隠していたとの由。親たる(それがし)からも御謝罪申し上げます」
 ああ、そのことか、とやっと衣玖は納得する。それと同時に、彼が頭を下げていることにまた慌てた。この黒木の長をこのまま頭を下げさせるわけにはいかないのだ。衣玖はというと一介の妖怪に過ぎないのだから。
「いえ、それはもう十分に柏から謝ってもらいましたから大丈夫です。だから、頭を上げて下さい」
「本当に申し訳なかったと思っております」
 顔を上げながらも謝罪の言葉を述べる辺り随分と律儀な男なのだな、と衣玖は感心した。これほど律儀で真面目だから、黒木の長としての地位を保っていられるのだろうし柏もあれだけ父の事を尊敬しているのだろう。
「いえ、こちらこそ黒木でくつろがせてもらっておりますので、それはお互い様です」
「このような騒動にも巻きこんでしまいましたが」
 家永は外に目をやる。本丸のすぐ外には松明を持った兵たちがくまなく警護にあたっているし、山の麓では相変わらず大友軍の篝火が揺らめいている。
「しかし、永江どののご協力は非常に有難く思っております。永江どのが居るだけで民たちも士気が上がるようで」
「そのようなことはないでしょう」
 父娘そろって似たようなことを言うな、と衣玖は苦笑する。こういうことを正面向かって言われるとやはり照れくさい。
「いや、龍宮の使いは勝利の女神だ、と崇めてる者すら居りますぞ」
「え!」
 衣玖は唖然とすると同時に、顔を真っ赤に染めた。龍宮の使いなぞ凶兆でしかないはずなのに、それを勝利の女神として崇めるとは一体どういうことか?
「なにせ永江どのが着てから、黒木は負け戦がござらぬ。大友も難なく跳ね返し、この様を見れば女神にほかならぬでしょうて」
 衣玖の姿に、家永は軽く笑っている。どうやら衣玖の様子を微笑ましく思ったらしい。少し衣玖には不満だが、それ以上に神として崇められているという事実が恥かしかった。
「さて、少し真面目な話をさせていただきましょう」
 ははは、と笑っていた家永は笑いを収めると同時に扇子を閉じた。撥と竹を打ち合わせる音が鳴り響き、同時に部屋の空間は一挙に転換する。それまでの和やかな空気は一層され、鋭い雰囲気がその場を支配する。
「永江どの、天にお帰り頂きたい」
「それは、戸次道雪という男がここへ来るからですか?」
 相も変わらず、この父娘は同じことを言う。それが衣玖には面白いし、やはり血のつながりとはそういうものなのだなと実感する。
「既に娘からも聞いておりましたか。ならば話が早い」
「ええ。聞きました。そして、断らせていただきました」
 衣玖は即答する。もう躊躇うことはない。
「まだ居るか」
 家永は苦笑する。しかしその言葉には嫌悪なぞ少しも含まれていない。
「これから此処は危なくなる。それでもよいのか?」
「むしろ、こちらがお尋ねしたいのですが?」
 衣玖は尋ねたかった。戸次道雪という男のことが。こうして父娘双方が衣玖を外に出そうとするからには、何かあるのだろうということは衣玖にだって簡単にわかる。
「何です?」
「戸次道雪とは、一体どういう男なのですか? そうしてそれほど恐れる男なのですか?」
「ああ」
 今度は家永が即答する。
「某はかつて道雪どのと同陣、つまり一緒に戦った事がある」
「一緒に?」
「6年前に大友が日向で大敗するまで、つまり大友が北九州全てを覆っていた時は我らも大友家の傘下にあったた。そこで道雪どのとは共に」
 家永は其の時のことを思い返すように少し上を向いて、それから溜め息を一つ吐いた。
「あの方は恐ろしい方だ。兵の統率には一糸の乱れもなく、指揮には寸分の狂いもない。人選には間違いがなく、布陣には隙がない。一緒に居るだけで道雪どのの才気に圧倒される。それほどの方だ。60を過ぎてからは足を悪くなされて馬に乗れなくなっていたが輿に乗って軍の指揮をしておった」
 その言葉には尊敬と畏怖が少なからず含まれている。
「そもそも、あの方は15歳の時に5000人籠っている堅城・馬ヶ嶽城を僅か3000の手勢であっさり攻略したような方だ。それに永禄年間――永禄というのは丁度今から15年前の話だ、そのころ道雪どのは中国の大大名・毛利元就と対決して一歩も引かず、とうとう退却させている。あの方を名将と言わずして誰を名将と言うのか、というほどのお方。残念ながらこの家永の敵う相手ではござらぬ」
 正直に家永は、勝てぬ、と告白した。しかしそこに悔しさは感じられない。おそらく道雪という男の才を見た家永は、この人間になら負けてもいいとでも思えたのだろう。
 そのことが逆に、衣玖へ道雪という男の才を実感させる。戸次道雪という男が攻めてくるということが、どれほど厳しいことかということが衣玖には少しだけ理解できた。
「それほど、すごい方なのですね」
「少しは実感も湧かれたことと思いまする。分かりましたら、天へとお帰りに」
「帰りませんよ」
 家永の言葉の上から衣玖は否定の言葉を重ねた。
「柏と約束しましたし、今更この黒木を置いて帰ることはできませんから」
 しかし家永も衣玖の言葉を予測していたようだった。溜息を一つ吐くと、家永は姿勢を正した。
「そうですか、わかりました。それでは、娘の事を本当によろしくお願いします」
 両手をついて一礼すると彼は立ち上がり、再び軽く頭を下げてから衣玖の部屋から出て行く。最後の言葉はあくまで淡々としていたが、家永が娘を心配している気持ちというのを衣玖は敏感に感じていた。






 九州ですら暑さはすっかり抜け、爽やかな秋の風が吹き抜ける葉月十八日、戸次道雪は大宰府に集結した兵4500を率いて黒木援軍へと出立した。大宰府から黒木はおよそ15里(60km)、途中には筑後川渡渉と耳納山地越えがあり決して楽な道のりではない。その上、大宰府から少し行けばそこは龍造寺方の国人領主らが支配する地が広がっており、特に筑後川を越えた先にあたる筑後はほとんど龍造寺の領土である。黒木は筑後でも南の方であるから、道雪率いる大友援軍は敵地を中央突破する計算となる。
 しかし、ここでまず道雪はその力を周りへと見せつけることとなる。途中妨害に現れた敵を難なく撃破すると現在の久留米市田主丸町あたりで筑後川を渡渉、さらに耳納山地は鷹取山の高峰を越えて黒木へと着陣した。その移動に掛けた時間は僅か1日余り。出立の翌日にあたる葉月十九日夜半には既に黒木に着陣して陣を整え始めていた。その移動の速さは尋常のものではなく、敵のみならず味方までも驚愕させた。

 かくて、大友家最後の切り札である戸次道雪は黒木に到着し、黒木攻めへと参加していくことになる。





 道雪着陣の報に、当然大友軍は湧きたった。道雪さえいればあとはどうにでもなる、と彼らは思ったのだ。諸将は本陣へと駆け付け、道雪が本陣に訪れるのを待った。
「早いねぇ。これは、流石というしかないよね」
 弥十郎も当然来ている。弥十郎はまだ道雪に会ったことがないから、道雪という男へ非常に興味があった。
「左様。こればかりは道雪どのしかできぬだろう」
 宗哲は弥十郎の言葉に頷いている。これで、と言うには語弊があるが、宗哲は大友家重臣の一人に数えられる男であり、当然道雪とは会った事もあるし道雪と同陣したこともある。
「まあ、バテレンの方々も道雪どのだけは褒めていたよ。本当ならキリシタン以外を決して褒めない人々なのに」
 湖左も目を輝かして待っている。弥十郎に言わせれば湖左も充分才人であるのだが、その彼にとっても道雪は憧れの的らしい。無理もないだろう、と思う。同時に、道雪を憧れの的にし得るだけの才が無い私は見ているだけでもいいや、と弥十郎は思っている。
「向うの人にもわかるものはわかるんだなぁ」
 湖左の言葉へ適当に相槌を打ちながら、弥十郎は入り口を眺める。
「そういえば、宗暦どのがまだいらっしゃらぬな」
 宗哲が陣の中を見渡している。そこに居る武将たちの大概は弥十郎たちと同じような若者か道雪に近いような老人である。中には一万田(いちまだ)宗慶(そうけい)ら大友家の中核を為し得る武将もいるが、おおよそ小領主ばかりである。それが今回の出陣の性格――豊後からの掻き集め――ということを表している。
 だが、その中には確かに実質的な総大将・朽網宗暦が見当たらない。本当の総大将である大友親盛はそこで欠伸をしているのだが。
「……嫌な予感がする」
 軽く湖左が眉を顰める。しかし弥十郎はそれに少し首を傾げた。宗暦もただ遅れているのではないか、と思ったからである。嫌なことが何かよくわからない。
「道雪どの、本陣に参陣いたします!」
 それとほぼ同時に小姓の声が響くや、これまで他愛もない会話を交わしていた武将たちの目が入り口の方を向く。弥十郎たちも話を中断して床几に座りなおし、姿勢を正して道雪の到着を迎えようとした。既に城攻めに疲れ始めていた豊後の諸将からしてみれば道雪はまさに救世主だったのである。

「そなたら、一体ここで一月も何しておった! このような小城ひとつ落としもできぬのか!」

 杖を突いて現れた道雪はしかし、大友陣へ着いて開口一番に言い放った。その怒号の覇気を前に武将たちは一斉に身を竦め、道雪に深々と頭を下げていた。



「湖左の言ってたことはこういうことか……」
「流石は志賀どの。宗暦どのがおらぬことから的確に見抜きましたな」
「これは別に当たらなくてよかったんだけれど」
 そのまま道雪に散々説教されて、どっと疲れ果てながら弥十郎と宗哲の二人はとぼとぼ田北陣へと向かっていた。向うでは出たばかりの朝日が白く光っていて、二人の影を作っている。
 湖左の予言は見事に命中して、あそこに集まっていた武将たちは道雪の説教を見事に夜通し喰らったのであった。宗暦がいなかったのも宗暦が道雪に説教を頼んだからに違いない、と疲れ果てた表情の湖左が推測していた。弥十郎もそうかな、と思っている。ちなみに、湖左とはさっき別れたばかりだ。
「しかし、10日とは道雪どのも仰られることが違う」
「10日で落とす、か。ああ言うことが言えるといいなぁ」
 道雪の叱責がただ猫尾城を落とせぬ不甲斐なさについてであれば、まだこれほど疲れなかったかもしれない。しかし道雪の叱責の矛先はどちらかと言えば家臣としてのありようについてだった。大友家の家臣として模範的な生活を50年近く送ってきた道雪からしてみれば、衰退しつつある大友家の家臣団がおよそ頼りなく、そして道から外れて見えるのだろう。その叱責は道雪の功績も相まって非常に家臣団たちの胸を突く痛い物であった。
「疲れた……」
「お、弥十郎じゃないか!」
 ふらふらと歩いているところで後ろから壮年の男に呼び止められた。
「?」
 弥十郎が振り向くと、そこには中背でしっかりした体つきの、端正な顔をした男が立っている。
「久しいじゃないか。どうだ、田北で上手くやっているか?」
「あ、叔父上!」
 その男は高橋紹運。道雪の副官として彼もこの黒木へと来ていたのである。
「それは儂を呼んでいるのだか、紹運どのを呼んでいるのだかわからんぞ」
 隣で、二人が一礼し合っているのを見て宗哲が笑っている。
「あ、叔父上……」
 宗哲の声に、弥十郎は振り返った。
「だから、わからぬ、と言っておろうが。まあよい。儂は先に田北の陣へ帰っているから、弥十郎は"叔父上"との旧交を温めて来るが好い」
 ははは、と笑いながら宗哲は供を連れて去って行った。
「確かに、私も弥十郎の叔父だが宗哲どのも弥十郎の叔父にあたるのか」
 紹運もまたその様子ににこやかに笑っていた。
「本当は義理の従兄になりますけど、何となく叔父上と呼んでるんです」
「なら、私を"叔父上"と呼び、宗哲どのを"義理の叔父上"と呼べばよい」
「それもありでしょうかね」
 真面目なんだか笑ってるんだか分らない表情の弥十郎の肩を紹運は笑って叩いた。
「冗談だ。お前は兄上と違って冗談への切り返しが面白くないぞ」
「そんな、父上と一緒にされても困ります」
 二人の会話はまさに家族の会話のようで、弥十郎にとっては非常に久しぶりの血のつながった親戚との親しい会話だった。

 高橋紹運――高橋主膳兵衛尉(しゅぜんのひょうえのじょう)鎮種(しげたね)入道紹運は、以前の名を吉弘弥七郎鎮理(しげただ)という。弥十郎の父・吉弘鎮信の弟であるから、弥十郎にとっては実の叔父にあたる。弥十郎が2歳の時に紹運は高橋家の養子となって吉弘家を出てしまい、弥十郎も10歳の時に吉弘家から田北家へ養子へ行ってしまっているので直接一緒に生活したことはないが、関係は深い。弥十郎の父・吉弘鎮信が6年前に日向高城川で戦死した際には、当主を失った吉弘家を紹運が代わりにまとめていたりもする。



「もこー、いるー?」
「弥十郎、随分と適当な扱いだな」
「それ湖左にも言われた」
 妹紅が書を読んでいると、外から弥十郎ともう一人の男の声が聞こえて来る。弥十郎はああ見えて用事のある時にしか来ないから、妹紅にしても前回から少し間が空いている。
「なに、今度は?」
 侍女が戸を開けると、何処となく雰囲気の似た男二人が立っている。片方はどこからどう見ても田北弥十郎にしか見えないが、もう一人を妹紅は知らない。弥十郎の隣に立っている紹運は昨日夜半に此処についたのだから無理もない。ちなみにふたりとも、昨晩夜到着後の道雪の説教のおかげで徹夜だ。
「毎回煩くてごめん。今回は、叔父上が相談だって」
「叔父上って、宗哲が?」
「今回は、私が相談を頼みたいと思う」
 妹紅は声を聞いて目を移す。
「高橋主膳入道紹運と申す。今日はこの弥十郎の紹介を受けて参った次第。以後お見知り置きを」
 メリハリのついた動作で紹運は丁寧に頭を下げる。
「私は藤原妹紅。このような大変な時に居候させてもらっています」
 妹紅も頭を下げ、それから二人を中へと招き入れた。その横で右手を軽く振り、人払いを命じる。
「叔父上は丁度私の実の父の弟にあたるんだ。だから、正真正銘の叔父上」
 座りながら弥十郎が補足を入れてくれたので、漸く妹紅は関係を把握した。確かに言われてみれば、二人の顔つきは似ているかもしれない。特に優しげでありながら筋の通った物のある目は二人そっくりである。但し弥十郎のほうが顔が丸いが。
「さて、早速本題に入ろう」
 妹紅は手ずから白湯を出そうと立ち上がる。侍女を人払いしたし、妹紅自身はそれほど偉くなったつもりはないので自分で動くのは当然であると思っているからどうということはない。しかし白湯を注いでいる間に紹運は話を始めていた。
「藤原どのは退魔の術に長けているというが、本当だろうか」
「ああ」
 答えながら、二人の前に白湯を差し出す。弥十郎はそれを取って一呑みし、紹運は目もくれなかった。
「それは有難い」
 紹運は軽く膝を打って、それから妹紅の方へと頭を下げた。
「鬼を退治してはくれまいか?」
「鬼?」
 鬼はもうだいぶ昔から世の中に姿を現さなくなったと妹紅は聞いている。だから、妹紅は少し驚いた。
「ああ。実は私と同陣してきた道雪どのには鬼が付いているらしい。だから、それを退治してくれないだろうか」
「それは、間違いないのか?」
 思わずそのままの口調で聞き返した。最強の妖怪である鬼が付いているとは普通のことではないし、もし付いているとするならば相当に厄介だと、妹紅は認識しているからだ。
「道雪どの自身が仰っていた。おそらく、鬼と会話しているのだろう」
 鬼と会話? と妹紅は首を傾げる。鬼は人を襲うものであれ会話するものではない。
「いつも道雪どのは夜、独りになる時間を持っておるのだが、その時間に時折会話が聞こえて来る。おそらくその時間に鬼と会っているのだろうと思う」
 しかし、何かの妖がいるのは間違いないのかもしれない。そうとなれば、自分の仕事だな、と妹紅は思った。
「それでは、とにかくその道雪という人の所へ連れて行って下さい」
「了解つかまつった」
 紹運は嬉しそうな表情で、そして弥十郎は少し嫌そうな顔をして立ち上がった。


「道雪どの、御機嫌は?」
「そういうことは戦果の一つでも挙げてから聞け」
 紹運に着き従って妹紅は早速道雪の陣を訪れた。陣からして、これまでの大友軍の陣とは違うように妹紅は思える。ここでも各々の兵隊たちはくつろいだり寝たりしているのは違いないのだが、それでも一朝事あらば忽ち動きだすであろうという雰囲気に満ちている。向うの陣にはない特殊な緊張感が、ここにある。
「それもそうでしたな。しかし、半日ほど休ませると申したのは道雪どのでしょう」
「それもある。だが、やはり戦果無くして機嫌など良くなるはずもなかろう」
 道雪は杖を両手で突き、床几に座って渋い表情を浮かべている。言葉こそ紹運と交わしているが、妹紅を試すような目つきで睨んでいた。
「して、紹運。その隣に居る女は誰ぞ?」
「これは、田北弥十郎が客として連れてきた術師の藤原妹紅どのです」
「藤原妹紅と申します」
「そうか。儂は戸次道雪。この不甲斐ない豊後の連中の為に引きずり出された老人よ」
 表情同様、機嫌が相当に悪そうだな、と妹紅は思った。しかしこの男の正面に立つだけで、得も言われぬ恐ろしさを妹紅は感じる。相手に感じさせる何かを持つ、恐ろしい男であるなと妹紅は思う。
「さて紹運、それで何故術師をわざわざ連れて参った? 別に考えなしに連れてきたわけではなかろう」
「それはですね」
 妹紅からしてみれば、こうして面と向かって平然と道雪に答えている紹運が凄いものだと思う。相当芯のしっかりした人物でなければ、彼と相対しているだけでへし折られそうだ。それほどの覇気がある。
「道雪どのに鬼が付き纏っていると聞き、それを退治した方がよろしいと考えたからでございます」
「鬼、か」
「ええ。彼女ならば鬼を退治できる、と」
 紹運は妹紅の方を示す。妹紅は軽く一礼してから、口を開く。
「鬼とはもう幾度も戦ったことがあります。はぐれ鬼ならばそれほど手こずらずに退治できましょう」
 相も変わらず眉間に皺を寄せ、つるりとした坊主頭を撫でながら聞いていた道雪であるが、妹紅の言葉が終わるや少し身を乗り出した。
「さて、それでは一つ問おうかの」
「?」
 その道雪の様子に二人は顔を見合わせた。
「鬼を退治する必要が、何処にあろうか?」
「それは勿論、害を及ぼす……」
 紹運が言葉を発しようとするが、道雪は杖を突き付けてその言葉を止めた。
「確かに儂のところにこれまで鬼は数回訪れ、問答しておる。しかし、儂はまだピンピンしておるぞ?」
 う、と二人は言葉に詰まる。鬼が人に仇為す者、という認識はあっても、その証拠がない。
「まだ何もしておらぬ鬼を退治するというのか? その感覚が儂にはわからぬ」
 道雪の目は二人の心の内までも見据えたような厳しいものである。思わず二人とも頭を垂れた。
「鬼だろうが人だろうが、儂に仇為せば自分で狩って見せよう。然れど、何も仇為しはせぬ者を(いたずら)に殺そうとする者もまた、儂は許さぬ」
 静かに道雪は言う。しかしその言葉の力強さは、当に歴戦の猛将と言うべきものに他ならなかった。それはもうどれほどの経験を積んだかわからぬ妹紅ですら抗うことはできなかった。


「申し訳ない。私だけならともかく、藤原どのまでも道雪どのに叱られる結果となってしまった」
「いや、あれは二人怒られても仕方ないものでしょう」
「叱られたのか、行かなくてよかった」
 道雪の陣の外で弥十郎が待っていた。供の者たちもそわそわと二人を見ている。弥十郎の供である田北村の兵もどうやら道雪の陣の雰囲気に気押されているらしい。
「弥十郎、そなたは道雪どのに叱られなきゃいいのか?」
「今日の朝までさんざん叱られていたからもうお腹いっぱいです。『豊後に帰るなどと言いだす輩は、儂直々殺してくれるから覚悟しておけ!』なんて二度も言われたくないし」
 ぶる、と弥十郎は体を震えさせた。あの男にそんなことを言われたら暫く夢に出そうだな、と妹紅は先ほどの老人を思い浮かべて再び恐ろしさに身をすくめた。
「それで、どうするの? 断られたんでしょ」
 弥十郎が気を取り直して紹運へと聞いた。
「そうだな」
 紹運は少し考えてから、妹紅の方を向く。
「藤原どの、申し訳ないがやはり鬼退治をやってくれないだろうか。いくらこれまで害を為しておらぬとはいえ、これから害を為さぬという保証はない。それを防ぐためにも、是非とも」
 紹運は素直に頭を下げる。それに応えるように妹紅も言った。
「わかりました。それでは鬼退治を本格的に行うこととしましょう」
「よろしくお願いします」
 顔を上げた紹運は、嬉しそうである。その顔は弥十郎の喜んだ顔に少し似ている。
「あの方は大友家の最後の希望です。あの方を失うわけにはいかないのです」






 猫尾城はこれまでと打って変わって静まり返っていた。まだ敵の動きはないはずなのに、既に城の中はまるで葬式でも行っているような重く苦しい空気に包まれている。その様子に衣玖は道雪という男を感じざるを得ない。
「まさか、1日で大宰府からここまで来るなんて……」
 隣の柏も相当に暗い表情で外を見ていた。大友陣の動きはこれまでと変わらないように見えるが、道雪という男と彼が率いる軍勢はやはり存在感というものが計り知れないらしい。
「大宰府まで、距離はどれくらいなのです?」
「15里。しかも川一本と山一つ越えて来ないといけない。道の途中にいる秋月も筑紫も草野も星野も皆龍造寺に属いているから、妨害されたはずなのだけれど」
「それを1日で突破してきましたか」
 話を聞く限りでもとても人間とは思えないような所業の男である。衣玖は漸く柏や家永が持つ"道雪恐怖症"の理由が分かり始めていた。
「しかも昨日夜半から今日の朝まで動きがないのが逆に怖い。何しでかすかわからないし」
「そこまで恐れても仕方がないでしょう。いくらなんでも考え過ぎですよ」
 衣玖のできることはせいぜい、道雪に対する恐怖を少しでも取り除くこと。まずは気力が相手に勝らねば、敵には勝てないのだ。
「そうかなぁ」
「そうですよ。来るべき時に備えるのは良いですが、怖がりすぎるのは逆効果ですから」
 衣玖も外を眺めながら柏の頭を撫でてやる。
「そっか」
 柏は少し笑って応える。衣玖もまた柔らかく笑ってやった。

 そういう衣玖も、この重い空気には辟易していた。黒木全体が既に"道雪恐怖症"に取り付かれたようであった。城全体が葬式のように静かなのもそのせいだろう、と衣玖は考えている。
 自分の希望の要――僅かに残った希望の最後の柱であるこの黒木を守るために、これまで衣玖は奮闘していた。その柱が、道雪という男の覇気だけで折れそうになっている。それが衣玖には許せないし耐えがたい。なんとしてでもこの道雪という男へ打ち勝って自分でも凶事を変えられるということを見せつけたい。そしてそう信じられるようにしてくれた柏へ恩返しをしたい。衣玖はそう思うだけに、どうしても道雪という男が許せなかった。








     ――二藍色――

  藍の空に、紅ぞ舞う。藍と呉藍(くれない)、合せて二藍と曰う。


「10日で城が落とせると思うのか?」
「落とす。10日で落とせば他の城は靡く」
 いつもの如く勇儀は現れて、道雪はそちらを向きもせず盃を持っている。
「そもそも、豊後よりの7000と我ら4500を合わせれば11500にもなる。わずか4000の城を落とすのにそれだけいれば充分であろうて」
「それはどうかな」
 勇儀は少し笑って見せる。
「あんたは見ただろう。豊後の7000人が実質戦力になりえないことを。連中は戦を知らぬ連中ばかりだ。いくら人数が多かろうと、戦を知らぬ連中は全く使いようもないだろう」
 勇儀から見れば、あの7000人は人ですらない。ちょっとの抵抗に怖気づいて城を遠巻きにしているような"臆病者"は軽蔑の対象でしかないのだ。
「ああ。7000は数だけあればよい。4500もいれば4000の城などわけもない」
「城を落とすには籠城軍の3倍必要だという話を知らないのか」
 勇儀ですら、人の間ではそういう教訓が流れているのを知っている。そして長い間見てきた人の争いのなかで、城を落とすには常に3倍の兵力が必要だという経験則もある。その常識に則って考えれば、道雪の考え方は少しおかしい。
「なに、儂は初陣で3000の手勢で5000の籠る城を攻め落としておる。それからもう58年も経っておるし、4500もおれば造作もないこと」
 だが、道雪からしてみればその常識すら通用しない。初陣以来彼が城を落とし損ねたことなど一度もない。
「本当に、自信があるねぇ」
「むしろ、どうしてあんたが10日以内に落とせないと思っているかわからぬ」
「あんたの考えの方がわからないよ、私にゃ」
 勇儀はしかし、こういう人間が一番面白いと思っている。少なくとも、こういう妖怪じみた人間の方が付き合いが面白い。
「勝手にほざけ。儂は10日で落とすと決めたのだ」
「それじゃ」
 勇儀はより面白いことを思いついて、ニヤリと笑った。道雪は勇儀の顔に不機嫌になったのか何か、乱暴に盃を煽る。
「あんたが10日以内に城を落としたら、鬼にしてやるってどうだ?」
「鬼、か?」
 流石の道雪も目を丸くしている。
「そうさ。もしあんたがこの城を10日以内に落としたらあんたを鬼にする」
「それで、対価はなんだ?」
 道雪はすぐに立ち直って、もう勇儀を不審そうに見ていた。或いは退治してくれようか、と考える目線である。
「対価、思いつかないからいらないよ」
 しかし勇儀は笑う。
「私が面白く見るためだからね。鬼は、嘘付かないよ」
 勇儀の笑いが、響く。

「しかしあんた、良かったのかい? 鬼退治を断ったそうじゃないか」
 珍しく勇儀は長居をしていた。それは久しぶりの戦場という雰囲気故なのかもしれない、と一人自己分析する。しかし真実はわからない。とにかく、勇儀は道雪と飲んでいるのが面白かった。
「構わんな。むしろ、何もしておらぬ鬼を退治せねばならぬ理由を聞きたい」
「鬼とは、得てして人を仇為すものであろう? 違うか?」
「違うな」
 道雪は即答する。その答えに勇儀は少し興味を持ったので、態々道雪の正面まで歩いてきてどっかりと座る。板間であるから、足は冷えるが勇儀にとっては関係の無いことだ。
「では、鬼とはなんだい?」
「さあな。(から)の古典によれば、死人の魂のことを鬼と呼ぶらしいが」
 道雪もさらりと答えた。
「残念ながら、私は幽霊じゃないね。唐の"鬼"ではないもんで」
 勇儀は少し笑って盃を煽った。この男の次の言葉が気になる。
「だろうな」
 対する道雪も盃を煽る。奇しくも二人同時に盃を煽った形となる。
「では、鬼とは何だ?」
「儂の思うに」
 道雪がとっくりを取ろうとする。しかしそれより早く、勇儀がとっくりを取り上げる。
「鬼とは、人の為す能わぬことをする者だ。人では決して敵わぬはずのもの。それを鬼と言う」
 は、と勇儀は笑った。鬼を本当の意味で敵視せぬ男を見たのはいつ以来であったか、と勇儀は思っている。
「ああ、なるほどな。確かに鬼とは人に敵わぬものだな」
 勇儀はとっくりを少し傾けて見せ、道雪が盃を差し出すように催促する。道雪は少し目を見開いて、勇儀を見た。
「注いでくれるか?」
「ああ、注いでやるよ。あんたは久しぶりに仲良くなれそうな人だからね」
 勇儀は目の前に出された盃へと酒を注ぐ。大き目の盃に並々と注ぐと、道雪は盃を少し掲げてから一煽りで飲み干し、盃を置いて何気ない動作で徳利を取る。
「どうだ、人の盃を受けるか?」
「そうだね。一体いつ以来だか」
 勇儀もまた自慢の大盃を道雪の前に差し出した。道雪はとっくりから酒を注ぐ。そのとっくりに入った程度の酒の量は大盃を満たすにはとても足りなかったが、勇儀はそれを一気に煽った。その顔は何処となく満ち足りている。
「ああ、旨い。人と飲む酒は、旨いね」
 道雪の顔がぼやけていたので、勇儀は慌てて袖で目を拭った。拭っても拭っても、霞は取れなかった。








                 

 現実とは非情であり希望に満ち溢れるものである。
 道雪の着いた日の翌日、葉月二十日昼より大友軍の支城攻撃が開始された。これまで猫尾の支城は大友軍の幾度もの攻撃を難なく跳ね返し、黒木の町に大友軍を釘づけにする大きな要因となっていた。また支城が多数残っていることで猫尾城周辺は必ずしも大友軍の独壇場となりえず、猫尾城の兵糧は安全に運び込まれていた。大友軍が兵糧の運び入れを妨害しようとしても、その度に各支城から兵が打って出て大友軍を攪乱し、その隙に兵糧は運びいれられてしまっていたのだ。
 しかし攻撃開始から僅か5日の間に、これまで全く敵を寄せ付けていなかったはずの黒木の支城は一つ残らず落城した。或いは道雪・紹運の率いる筑前兵によって蹂躙され、或いは道雪という男への恐怖を前にして戦わずに降参する。遂には、黒木全兵力の半分を占める龍造寺援軍・2000が籠っていた高牟礼城すらも道雪の的確な指揮と統率された兵を前に落城し、龍造寺援軍は為すすべなく潰走した。

 この事は、猫尾の城内を絶望のどん底へ突き落とすに十分なことである。支城が一つ残らず落城したということは、黒木家の勢力は猫尾本城の内側を除いて全く駆逐され、猫尾の城から一歩でも外に出れば大友領となってしまった、ということを意味する。さらに言えば、外が残らず大友領となってしまったことで黒木は兵糧の調達手段を失ったのだ。
 猫尾の城の希望は、龍造寺の数万人の援軍が一刻も早く到着することのみである。





 衣玖もまた、猫尾の本丸で半ば唖然としながら外を眺めていた。五日の間に、これまで黒木の旗が翻っていた城が一つまた一つと燃え上がり、とうとう二十四日の昼には本丸から見渡しても見えるのは黒焦げと化した城だけになってしまったのである。その余りの侵攻の速さには衣玖も呆気に取られるしかない。
「城が一つ残らず……」
 柏は唖然というより絶望に沈んでいる。兵糧の運び込む道、糧道を断たれてしまったことは城としてはかなり厳しいことである。
「まだ本城には何の攻撃もないのですから、そこまで悲観しても仕方ありませんよ」
 衣玖は何とか慰めようとするのだが、その衣玖の言葉すら薄っぺらいものにしかなりえない。城が忽ち身ぐるみ剥がされてしまったような状況で、説得力を持って慰めることには相当に無理があるように、衣玖にすら思える。
「どうして衣玖は、そうやって冷静でいられるの?」
 柏は涙を目に浮かべて衣玖を見ている。目の下には隈が浮き出ていて、彼女の心労を強く思わせた。
「この状況で、どうしてそうやって絶望せずにいられるの?」
 その声は大きいが震えている。衣玖のことがわからない、と柏は叫んでいるようだった。
「こんなに絶望的な状況なのに」
「だからですよ」
 衣玖は平静を保つように答えた。
「こういう時でも、絶望したら終わりだと、私は思えるようになりました」
 龍造寺隆信が戦死した沖田畷で人を喰らっていた時、そして阿蘇で撃たれた時、衣玖は絶望の淵にあった。すべてにおいて悲観していた。
「少しでも希望さえ持っていれば、ものは変えられるはずなのです」
 衣玖が絶望の淵から抜け出して、そんなことを思えるようになったのは偏に、今絶望に浸る柏の御蔭だ。若し彼女がいなければ、衣玖はずっとああやって絶望に浸ったまま、凶兆であると思い込んだまま哀しく暮らしていただろう。
「だから、私はもう絶望するのを止めにしました。どんなに悲観的な状況でも、希望を少しでも持っていれば物事は変えられる。そう信じることにしたのです」
「そんなこと言われてもっ」
「私は、貴女のおかげで絶望から抜けました。もう一度絶望に浸ってしまって、貴女の恩を無駄にしたくないのです」
 衣玖の真紅の瞳は強い意志を伴って柏の瞳を捉えていた。
「例えこの城全てが絶望しても、私は絶望しません。私は変わると信じていますから」
 柏は少し目を見開いて、驚いたように衣玖を見ていた。相変わらず暗い表情であったが、その瞳には若干の希望の火がともっているように、衣玖には感じられる。
 衣玖はそう信じたかった。

 実際のところ衣玖とて、状況が好転するようにはとても思えない。それでも衣玖は信じ続けると決めたから、他の黒木の人々が絶望に打ちひしがれるなか、一人黙々と城を守るための仕事を行った。こうやって自分が仕事を行えばそれだけ状況が好転しやすくなる。自分が働けば働くほどこの城は守れるようになっていく。衣玖はそう信じて――そう心を叱咤して衣玖は動いていた。




 その衣玖の心を裏切るように、情勢は動いていく。
 二十五日、大友軍は遂に猫尾本城へ総攻撃を敢行した。
 前回は難なく追い払った筈であったのだが、今回はそうもいかなかった。筑前兵と豊後兵が入り乱れてはいるのだが、その部隊の統率には一糸の乱れもない。ほんの僅かな隙があればそこには的確に大部隊が投入されてそこから城の守りは打ち崩される。鉄砲の撃ち合いにしても道雪ら筑前兵は、他の部隊の三倍の速さで鉄砲を連射した。これは早合という道雪考案の秘密兵器と、道雪らの訓練の賜物であろうが、黒木兵はその弾の嵐を前にバタバタと倒れた。
 衣玖もまた、手当てに走りまわる。前回はせいぜい火を消しに回ったり、時折でる負傷者の手当てだけで済んでいたが今度はそうもいかない。次から次へと負傷兵が運び込まれ、まだ安全なはずの城の上の方――本丸や二の丸は地獄のような様相を呈していた。
「もうこれまでか、あんな相手に勝てるはずがない……」
「そんなことはありません。そんなことを言っている暇があったら手を動かしてください!」
 絶望に染まっている黒木の人を叱咤して、衣玖はとにかく動きまわる。絶望するわけにはいかないと思う衣玖は、とにかく体を動かしていた。
「そんなことを言われても」
「そうやって思うから駄目なのです。まずは心の中で勝たずにどうするのです」
 気付けば、衣玖は黒木の人々の最後の支えになっていた。もう絶望的な状況にある中でも一人絶望せずに戦い続ける衣玖は黒木の人々には眩しく映るし、自分を全て賭けて動いている衣玖に励まされると、ほんの少しでも希望を持ってみようかという気分になってくるのだ。



 しかしそれすら跳ねのけるほど、筑前兵の力は絶大だった。昼夜を構わず継続的に行われた攻撃を前に、二十六日午後には猫尾城の麓にある黒木館が陥落して燃え上がり、二十六日日没の攻撃停止までの間で実に猫尾城の半分が大友軍によって占領された。これまで城の水源であった湧水も一つ残らず占領されて水の手すら断たれ、猫尾城はとうとう山の上半分に残る"棺桶"となってしまったのである。






「衣玖……」
 柏は外を眺めていた。城下が燃え上がって真っ赤に染まっている。それはまるで灼熱地獄を思わせる。
「ほら、柏。こっちに来てください。外は煙いでしょう」
 衣玖は柏を窓から引きはがし、窓を閉めた。城下の様子を見たところで、希望が圧し折られるだけなのだから見るだけ無駄だ。
「衣玖、ついに水の手も断たれちゃった。兵糧ももう数日分しかないんだよ」
「そんな悲観的になっても仕方ないですよ。とにかく前を向かないと」
 衣玖はそういうのが精いっぱいであった。衣玖だって、少ない希望を自分の意思で懸命に保っているだけなのだから。
「そうは言われても」
 衣玖はこの数日、毎日のようにとにかく柏を励ましていた。いや、柏だけでない。黒木の希望となった衣玖は黒木の人々をとにかく励まして回っていた。少し前までならば全く考えられなかった光景。衣玖自身が信じられなかった。しかし、それも全て目の前の少女のおかげ。とにかく黒木を救いたかった。
 衣玖は異形である。瑠璃色の奇麗な髪に緋色の瞳を持った妖怪である。それだからこそ、黒木の人々は衣玖の励ましをひときわ大きいものとして取る。人ならざる衣玖の言葉は人間の言葉よりも信用できそうだし、異形であるからこそこの運命も変えられるのではないかと信じられるからだ。
「田尻より援軍が来るとも言っていたでしょう。その援軍はきっと、龍造寺の大軍の露払いなのでしょう。もし田尻の援軍が来れば、猫尾はきっと大丈夫です。もう少しの辛抱です」
 筑後国三池郡の領主・田尻鑑種が援軍として来ると言う情報も少し前に黒木へ伝わっていた。本来ならば猫尾城を奮い立たせるはずの情報であったが、道雪の力を目の当たりにした黒木の人々の前には無力であったようである。全く騒がれることもなかった。
「そうかなぁ」
 現に、柏すらそれほど期待していない。
「そうです。きっと来ます」
 衣玖ですら"きっと"としか言えないのが悲しかった。






「順調のようだねぇ」
「10日で落とすと申したろう。ここに5日も掛けたくなかったのだがな」
 ここは町ではない。大友軍は近くの山に陣を移したからである。道雪は木に凭れかかって一人城の方を眺めている。辺りに兵たちも各々転がって寝ているが、勇儀の出現には気付いていない。
「しかし、町まで燃やしてしまうとは、あんたも残酷なことをするよ」
 大友軍が占領した猫尾城下層ともども、黒木の町も真っ赤な炎を上げて燃え上がっている。その煌々とした光が二人を照らしている。勇儀の金髪がひときわ奇麗に煌めいている。
「儂に立ちはだかったからな。立ちはだかれば(やきつく)されて当然だろうて」
 道雪は表情一つ変えずに言い放つ。
「あんたは恐ろしいことを言うよ。あの中で一体何人が死んだと思っているんだい?」
「いまさら100、200殺したところで、何が変わるというのだ?」
 道雪が妖しく笑う。
「10日で落とすと申しただろう。そのためには1日200人ずつ殺さねばならぬ。さすれば猫尾本城に籠る2000の兵は10日で全滅する。違うか?」
「何とも」
 勇儀は道雪を真紅の瞳で睨む。その瞳の色は鮮血の色。
「人にあらざる物言いだな。10日で全滅させるとは、正気か?」
「そなたが吹っかけたのだろう。儂は賭けに負けるつもりなぞ毛頭ないからな」
 確かに、勇儀にとって面白いことになった。人は益々愚かで醜い部分を曝け出して戦場で死んでいく。しかし、そのために鬼よりも恐ろしい者を叩き起こしてしまったのではないか、と勇儀は少し思う。
「本当に、人とはつまらぬものだ」
「懸命に生きようとする人をつまらぬ、と言うのか?」
 道雪の言葉が棘を持つ。ふ、と道雪から殺気が噴き出す。
「ああ。こうして陰惨に殺し合う人がね。何も考えず正々堂々ぶつかりゃ良いのに」
「だから、お前は鬼なのだ」
 道雪はその言葉を斬って捨てた。
「鬼の力が人にはないということを、いい加減覚えろ」
 道雪の言葉に納得しながら、しかし本能が拒否していた。やはりああやって塊になって争い合う人は、どう見たって醜くしか見えないのだ。




 寝ていた妹紅はむくりと起きあがった。田北で捕まって以来の、久方ぶりの野宿である。山に陣を置くということはそういうこと。すぐそばでは妹紅付きの侍女たちも丸まって寝ているし、少し向うでは不寝番の兵がたき火を眺めている。
 妹紅は寝起きから立ち上がり荷物からいくつもの札を取りだした。それは鬼封じの札である。妹紅の見る場所は一点、そこから何かの気を感じている。
 しかし、妹紅が向かう前にその気は消えた。それを追おうと辺りを見回したが、すでにその妖しい気は消え失せていた。
 おそらく、鬼だと妹紅は思う。これまで一度も見つけられなかった鬼が近くに居ることを認識する。そして、道雪には本物の"鬼"が付いているということも。それも力の強い鬼が。
 妹紅は厄介だな、と思った。力の強い鬼であったなら退治も一筋縄ではいかないだろう。覚悟を決めねばならないな、と妹紅は思い、諦めて札を荷物へと仕舞うと寝転がる。
 まだ夜も深い。野宿の時にはしっかり寝ねば体が持たないことを妹紅は知っている。






                 

 二十八日朝。衣玖と柏は向かいの山に林立していた大友軍の内の幾らかが消えていることに気付いた。衣玖や柏だけでなく黒木の人々も皆気付いたようで、大友軍が減ったと若干の希望を持った。
 しかし、それはすぐに打ち消される。減った大友軍はただ黒木を孤立させるために出動しただけだったのである。
 やはり筑前兵を中心とした出動部隊は、まず先に黒木にも伝わっていた田尻鑑種の援軍を難なく一蹴すると辺りの領主の攻撃を開始。黒木の北西にある三潴郡に侵攻して西牟田氏の領土を掻っ攫い、また龍造寺に属する領主の傘下にある土地を片っ端から焼き払ったのである。この一日の示威行動によって黒木以外の筑後の領主も恐慌状態に陥り、黒木を救おうと思う者は一人もいなくなった。
 則ち、黒木は真に孤立無援となったのである。



「永江どの」
 二十八日の夜。大友軍の一部が筑後を荒らして帰ってきたことが分かった後、これまでずっと戦に追われていた家永が珍しく衣玖の部屋を訪れた。一人である。
「これは、家永どの」
 衣玖が上座を開け、二人は面と向かって座る。空気が重い。無理もなかった。
「永江どのに、感謝とお願いをしに参った」
 家永は重い口を開き、何とか重い空気を退かそうとする。しかし家永自身も暗い顔をしているのだから、そうすぐ吹き飛びはしない。
「感謝ですか?」
 希望を少しもでも持っていなければ、という衣玖の表情すら重い。
 これまで何とか気力で希望を支えてきた衣玖だったが、その衣玖にも今回のことは大きく響いていた。孤立無援になった城は落ちるしかない。食糧も水も手に入らないこの場にいればいつか負けるのは決まっているのだ。あとはいつ負けるかどうか――。
 この状況を前に、衣玖の希望は折られそうであった。
「これまでここに居て頂きありがたい。永江どののおかげで、この城はここまで持った」
「家永どの……」
 家永は、無表情に衣玖を見た。
「だが、(それがし)は降伏するわけにゆかぬ。やはり降伏できぬのだ」
「息子さん、ですか?」
 家永の息子・四郎は龍造寺へ人質に取られている。それで柏は怒っていたな、と衣玖は思う。考えてみればそれほど前の話ではないのだが、衣玖には遠い昔のことのように思えた。
「もし某が降れば、龍造寺は四郎を殺す。それは耐えられぬ」
 無表情であるが、そこには無念さが込められている。
「この黒木の民を全滅させて息子一人を助けようとする某を笑ってくれ。某は息子の為に家を滅ぼす愚か者よ」
 家永の表情が少し動く。衣玖は其処に哂いを見た。自らへの嘲笑を。
「だが、某にももう一つ懸念があってな」
「柏ですね」
 衣玖の言葉に、家永はゆっくり頷いた。その姿は決して戦国武将のものではない。息子と娘を憂う優しき父親の顔であった。
「故に、永江どのにお願いしたい。」
 家永の目に生気が戻る。家永の目はしっかり衣玖を捉えている。衣玖もまた、口を結んで真剣に家永を見る。
「柏を逃がして頂きたい。それと共に永江どのも」
「私に逃げろ、というのですか?」
 衣玖は聞いた。柏を救いたいのは事実。しかし衣玖の目標はそこではない。柏だけでなく、この黒木を救えると、衣玖は思っていた。そういう希望を抱いていた。
「永江どのには黒木の滅亡は関係ない話。これまで幾度も誘ってきたが、今度こそ衣玖どのには引き上げて頂きたい」
「嫌です」
 衣玖は答えた。家永はその言葉の真剣さに少し目を開く。
「私は確かに柏を救いたいと思います。しかし、柏だけではありません。私はまだこの黒木が救われると信じているのです」
「永江どの、それは」
「私はそういう希望を持っています。だからこれまでもここに居ますし、これからもこの城に居るつもりです」
 衣玖はしっかりとした口調で家永へ言った。その表情は、先まで絶望に捉われそうになっていた表情でない。衣玖は自らの希望を芯にして、家永の正面に凛として座っていた。
「そうですか……」
 その姿に家永も、僅かながらその無表情を崩した。諦観が少し崩れたように、衣玖には見える。
「ええ。この黒木は救われます。そうでないと、私も困るのです」






 妹紅は目の前の城を見つめていた。松明が上から下まで動きまわっているが、下の方にはそれとは別に篝火が盛大に焚かれている。大友軍が詰めているのだろうというのが一目でわかる。
 道雪の横に鬼が居ると確信してから毎日、道雪の近辺をそれとなくうろついて鬼を探しているが、一向に鬼は見つからない。まもなく龍宮の使いも出て来るだろうと予測が立てられることもあって妹紅は同時に監視を行っているが、両方とも全く尻尾を出さぬので妹紅は少し困っている。
「妹紅どの、これでよろしいでしょうか?」
「ああ、いいよ」
 本格的に鬼退治を始めたので、妹紅は自分に従ってくれている侍女たちにも動いてもらっている。それは主に目撃情報である。異形の者を見たことがないかと、大友軍の兵たちに聞いて回ってもらっているのだ。
 しかし、鬼を見たと言うのは未だに道雪だけ。そういう話を聞いたのも紹運だけとあって、全く手がかりはない。居ることは間違いないのに、と妹紅は半ば頭を抱えていた。
 対する龍宮の使いの方がまだましだ。二十五日から二十六日の総攻撃に参加した兵たちの中で、黒木兵の後で立ち働く異形の者が居たと言う兵がいたのである。彼女は黒木の人々に混じって後方支援に従事していたという。
 龍宮の使いが人の世に降りて来ることすら稀、まして人に交じって働いていることなぞ妹紅からしたらとても考えられないが、碧髪緋眼とあっては龍宮の使いと言わざるを得ないだろう。
「……全く、何処に居るんだよ」
 ガシガシ、と妹紅は白髪を掻きながらもう一度城の方を見た。すこし篝火の少ない上の部分が、おそらく黒木の最後の砦なのだろう。
「中は生き地獄なのでしょうね」
 侍女の一人が、妹紅に言う。妹紅の隣で、哀しい目で城を見ていた。
「糧道も水の手も切られたと聞くしなぁ。限界だろうね」
 妹紅も中の悲惨さに思いを馳せる。食べるものも水もなく、目の前に居るのは圧倒的な敵勢。精神がおかしくなるだろうな、と妹紅は思う。
「糧道も水の手も……」
 彼女の言葉は、何か真が籠っていた。
「あんた、経験でも?」
「少し。田北紹鉄どのが乱を起こした時に、城へ籠ったことがあります」
 紹鉄、と言われて妹紅は記憶を掘り起こした。もう弥十郎の関係者が増えてわけのわからないことになっていたので、しばらく時間がかかったが、ようやく弥十郎の義理の叔父にあたり、大友家に対して反乱を起こした人物であることを思い出した。そう、6年前の田北の悲劇に追い打ちをかけてしまった人物だ。
「あれは恐ろしいものでした。連日のように、鉄砲大砲の轟音が鳴り響き、その中でその辺りに生えている草を粥にして啜りながら兵の手当てを必死に行う――」
 彼女は身を震わせた。嫌な思い出を思い起こさせてしまったと妹紅は後悔しながら、彼女の背中を摩ってやる。
「悪かったよ。変なこと聞いて。もういいから」
 彼女が泣き始めてしまったので、妹紅は益々罪悪感に捉われる。困った妹紅はとりあえず、抱きしめてやった。少しでも彼女がぬくもりを感じられるようにと。彼女は素直に妹紅に縋って、泣いていた。

 しかし、と妹紅は思う。おそらく猫尾の城の中も同じような状況にあるに違いない。とするならば、あの中の良い父娘――妹紅が城の絵図を描いていた時に出会った父娘もきっと、あんな状況にあるのだろう。
 そう考えた時に妹紅は、この城が落ちないでほしいと思っている自分に気がついた。確かに自分は田北勢にいて大友軍に参加し、こうして田北の人々と親身に付き合っている。しかしどこかでこの城が落ちず、大友軍が敗北してほしいと思っている。この戦に敗北すれば田北の人々の多くが死ぬことが分かっているのに、それでもどこかであの父娘が助かってほしいと思っている。
 結局、妹紅は自分をあの娘に投影しているのだ。自分こそこうして悲惨な運命に遭ってしまっているのだが、あの娘にはそのような運命にぶつかってほしくない。妹紅のような絶望する運命から離れて幸運になってほしいと、そう思っている。希望を失わずに生きて欲しいと、そう思っていた。

 ふと、妹紅はあの未亡人を思い返す。田北勢に加わって一発の鉛弾に斃れた彼女を。どこかで田北が負けてもよいと思っていた妹紅は、あの未亡人にきつく責められているように思えてならなかった。お前は田北を滅ぼす気か、と。






「今日で10日のはずだけれど、まだ落ちてないねぇ。城」
 勇儀は笑いながら道雪の前に現れた。
「落ちなかったな」
 しかし道雪は何でもない顔をしている。悔しそうでも何でもなく平然としていた。右手に盃、左手にとっくりといういつもの姿だ。
「しかも、昨日あんたは攻撃命令も出していない。1日兵を休息させていた」
「それが最良の判断と思ったからだ」
「もし昨日攻めれば今頃あの城は落ちていたかもしれない」
「昨日攻撃命令を出したところで、城は落ちておらぬだろう。兵の様子が疲れておった。そんな状況で城を攻めたとて、窮鼠に噛まれるのみよ」
 道雪という男は何と冷静にものを見ているのか、と勇儀は舌を巻いた。10日で落とせば鬼にしてやれたのに、とも思う。
「所詮儂は人だった、ということよ。人には限度というものがある」
 いや、何でもなくはなかった。道雪は微妙に、極微妙に笑っている。それを勇儀は目ざとく見てとった。
「10日で落とせば鬼にもなれたろうが、やはり鬼にはなれなんだか?」
「まさか、あんた……」
 嫌な予感がして、勇儀は思わず道雪を睨みつけた。鬼の睨みともあれば凄まじいもので、或いは人を失神すらさせかねない。しかし道雪は微動だにしない。
「わかっていた。10日では落とせぬとな。2日ほど足りぬ」
「あんた、10日で落とせると言ったじゃないか!」
 勇儀は内心で怒っていた。目の前に居る道雪という男が、これまで信用できる人間であると思っていたこの男が、嘘をついたということが許せない。しかしその怒りを押し込めてあくまで冷静に道雪を睨みつける。感情を殺したその目線は却って怖ろしい。
「ああ、言った」
 しかし、道雪は悪びれない。
「もし本当に落とせれば、儂は鬼となるだけの力があることがわかる。逆に、落とせなければ……」
「なければ?」
「所詮、儂は嘘をつくような人だったということ。ただ、それだけだ」
「だからといって嘘を……」
 勇儀は拳を握り締めた。如何なる理由であれ、鬼である勇儀にとって最も許せないのが、嘘である。
「あんたは私の信を、あんただけは人として話せると……」
 しかし道雪は動揺を少しも見せず、むしろ勇儀を睨み返している。
「人に為し得ぬものを為してこそ鬼といえよう。鬼に嘘を言いながら嘘を真にできて初めて儂は鬼となる。そうではなかろうか?」
「……ああ」
 道雪の言うことは確かに間違っていないし気持ちはわかる。いわゆる言霊というやつに彼は賭けたのだろう、と。そして負けた。
「そうか、あんたはやっぱり、人だったのか」
「そうだ。所詮人だった、ということよ」
 嘘をついたという事実は本能的に許せるものではない。それでも道雪が嘘をついてまで鬼になろうとしたということを考えれば道雪へただ怒ればいいということではない、ということくらい勇儀にだってわかっていたし、だから怒りを懸命に抑えていた。
「それじゃ、私はもう行くよ」
「それではな。儂が人でしかなかったということが、良くわかったろう」
「ああ、じゃあな」
 勇儀は道雪に見送られながら、その場を後にした。

 床には道雪の涙が、床に照らされて輝いていた。




 勇儀は近くの山の頂に座って思う。結局自分は何を求めていたのか、と。
 きっと、自分は道雪という鬼と戦い得る男が居たのがとても嬉しかったのだろう。だからこそ、彼が鬼になるべく10日という賭けをした。そして彼が賭けに負けたのを見て勇儀自身も、相当に落胆した。彼ならば絶対やってくれる、と勇儀も信じていたからである。

 結局、勇儀もまた友を求めていたのだ。その友となりうる男が道雪だった。しかし道雪という男はやっぱり人間であって嘘をつくような男であり、鬼にはなれなかったということ。つまり、道雪という男は決して勇儀と対等な鬼にはならない。勇儀と道雪の間にある溝は何が合っても埋まらない。

 勇儀は一つ溜息をついた。それは、人と鬼とは二度と分かり合えぬのだなと言う絶望の溜息だった。








     ――藍白――

  雷は藍白に輝き天の意を示す。或いは、雷は人にあらぬ者の象徴とも言ふ。


 とうとう葉月も終わりとなった。葉月の最終日である三十日昼、大友軍に属する全ての将が本陣へと呼ばれた。弥十郎も湖左も宗哲も紹運も、そして道雪も。
 その議で決まったことは僅かに一つ。猫尾城へ総攻撃を掛け、攻め落とすと言うこと。もう兵糧も水もないであろう猫尾の城を攻め落とすのはそれほど難しくないことは誰の目にも――城内の人間たちの目にも、明らかだった。


「永江どの、今日は最終勧告に参りました」
「今更無駄ですよ。何を言っても」
 夜、家永はまた衣玖の部屋を訪れている。
「大友軍の動きを推測するに、明日朝より総攻撃があるのはおそらく間違いありません。残念ながらこの城はそれに耐えられるとは思えません。ですから、永江どのは」
「帰りません。私は最後まで信じています」
 衣玖はそれでも希望を失わなかった、というよりは失えなかった。
 もしこの城が落城するということを一度でも信じてしまえば、それは自らが凶兆であることを認めることに他ならぬ。そしてその先にあるのは、またこれまでのような地獄の生だ。
 しかしああやって人の中で温かみに触れてしまった衣玖は、もうそれに堪えられる気がしない。柏や家永や、その他多くの黒木の人々に良くしてもらい信じてもらい、平和に暮らしてきた衣玖はまたただ凶事を振り撒いて暮らすことなど考えられすらしない。
 だから、信じるしかない。そう、明日の総攻撃さえ耐えれば大友軍はしばらく攻撃をしなくなるだろう。そうすれば、龍造寺が佐嘉より数万の援軍を率いてこの黒木を救うに違いない。黒木は助かる。
「しかし永江どの」
「私は、勝てると信じていますよ。黒木があの大友に打ち勝つことを、信じていますよ」
 衣玖は家永へ言い放った。これほど美しい表情はないというほどの清々しい笑みを浮かべる衣玖は、まさに天女である。"天女"を前にした家永はただ苦笑するしかなかった。そんな衣玖を見ていると、これまで絶望の淵にあった家永ですら勝てるような気がしてくるのが、家永にとって不思議で仕方なかったのだ。




 家永が部屋から去って、衣玖は立ち上がる。もう行く場所は一つしかない。
「柏、居ますか?」
「……衣玖?」
 衣玖が戸を開けると、柏は窓際で外を怖々と眺めていた。窓際から下を望んでも見えるのは、敵の松明ばかり。
「あのね、衣玖。下で松明が頻りに動いてるの。たぶんあれ、総攻撃する用意しているんだよね」
 衣玖も窓際へと寄った。大友陣が置かれた向かい側の山では松明が頻りに動きまわり、また篝火も普段より一際多いように衣玖も受け取る。
「そうかもしれませんね」
 衣玖も認めざるを得ないようであった。大友軍全てで11500、それら全てが動き回り、まるで山が動いているようにすら見える。
「……怖いよ、衣玖」
 柏は震えていた。
「明日になったら、この城落ちるよね。あれ全部が、こっちに」
「大丈夫ですから、安心して下さい」
 衣玖は思いっきり柏を抱きとめた。思いっきり抱きしめて、震えを受け止める。
「大丈夫ですよ。怖がっては駄目です」
「……衣玖」
 実際のところ衣玖だって怖かった。ああやって動きまわる人間たちが全てこちらに襲いかかり、衣玖の希望であるこの城を打ち壊してしまうのではないかと思うと、居ても立ってもいられない。でも柏はもっと怖いに違いない。衣玖が震えている暇なんて少しもないのだ、と衣玖は心に言い聞かせる。
「大丈夫、明日さえ凌げれば絶対に勝てます」
 衣玖は断言した。
「必ず明日勝てます。明日勝てば、黒木は救われます」
 きつく柏を抱き締めて、衣玖は断言を重ねる。断言を重ねて自分を鼓舞しなければ、衣玖自身の希望もまた折れてしまいそうであったから。






 長月二日朝。夜明けとともに威勢よく法螺貝と陣太鼓が響き渡り、同時に猫尾の全ての城門より大友軍が攻めかかった。もはや筑前兵だとか豊後兵だとか関係はない。全ての兵は一番槍やら大将首やらを狙って我先へと進む。対する黒木兵は、逃げる場所さえ見つけられれば逃亡する。幾らかの家永に忠誠を誓った兵だけが懸命に防戦へと従事し、次々と斃れていった。
「こっち、火を消して!」
「鉄砲の弾が足りんぞ、持ってきてくれ!」
「弾はもうありません!」
 本丸の中も怒号が飛び交っている。衣玖も柏もその中の一人として懸命に働いていた。しかし、兵同様後方の人間たちも気付けばいなくなっており、また撃ち込まれる大砲の餌食になってバタバタと斃れる。
「伝令! 三の丸に敵兵突入!」
「三の丸が、もう?!」
「なんだって……」
 伝令の度に城は混乱に陥りそうになる。全ての伝令は黒木にとって不利を伝えるものだけであり、どこかで勝ったとか追い返したとか、そういう伝令は一つも来ないからだ。
「まだ三の丸だけです。日没まで耐えればよいのです!」
 衣玖もまた叫んでいた。絶対勝たねばならないという気持ちと、極めて不利にあるという焦りとが、衣玖を普段からは想像できないような行動に掻き立てていた。




「や!」
 弥十郎の槍は敵兵の槍を巻き上げてさらに伸び、兜と鎧の隙間の頸筋を的確に貫く。
「三の丸攻略もまじかだ! 田北の力を見せてやれ!」
「おう!」
 弥十郎は返事を聞きながら、槍の石突で二人目の顔面を殴っていた。さらに田北兵へ馬乗りになって止めを刺そうとする敵兵を蹴り飛ばし、起きあがる間隙を突いて脇へ槍を押し込む。再びそれを蹴り飛ばして槍を抜くと、後ろから襲いかかってきていた敵を槍の柄で力任せに殴った。
「流石弥十郎、槍の裁きが上手い」
「兄上に比べればまだまだですよ」
 宗哲もまた槍で数人を打倒している。既に田北勢はほとんどが三の丸へと突入し、三の丸全体で乱戦を繰り広げていた。寄せ集めの田北勢ではあるが、既に勝ち戦の流れに乗って順調に進む。
「さあ、我に続け!」
 正面の一人の顔面に槍を打ち込んで、弥十郎は建物の方へと走る。おそらく三の丸の大将がその中にいるに違いない。
 矢を袖で受けながら走り、弥十郎は縁側の下に居た兵の脛を槍で払って、動きを止めたところでその脇腹を貫く。さらに縁側の上から弥十郎の顔面目指して突き出された槍を槍の柄で叩き落とし、それを左手で掴むと槍の持ち手ごと縁側から引きずり落とす。着地に失敗した彼は弥十郎に追いついてきた田北兵の一人の槍にかかっていた。
「との、少しは御自重を」
「それじゃ皆が私より先に行くんだね」
 兵の諫言に答えながら、縁側上の一人の腿を槍で貫き、隣の男の足の親指を石突で思いっきり叩く。
「伝令、志賀どの、二の丸に突入!」
 すぐ後ろから伝令の声が聞こえる。二の丸を攻撃していたのは志賀勢、湖左の率いる軍だ。
「ほら、志賀に負けるな!」
 弥十郎の声に田北は一層奮起した。





 それから半刻もしないうちに、三の丸は大友軍によって完全に占領された。三の丸の守将は建物を焼いて自刃し、田北勢は勝鬨を上げる。
「妹紅、こんなところに来て大丈夫かい?」
「おそらくこのあたりに鬼と龍宮の使いが居る」
 三の丸陥落の報の直後、妹紅もまた城を上って来ていた。戦場なぞ見たくもないのであったが、妖怪がこの城の上のほうに居るのは間違いなさそうだったからだ。
「でも気をつけないと、先に足軽に殺されちゃうよ」
「気を付けるさ」
 隣で無駄に気遣う弥十郎もいくつかの小さい傷はありそうだった。しかしそれ以上に刃はささくれ立って柄は血でねっとり光っている槍が、その戦の壮絶さを示している。
 もう言ってあったのか、弥十郎の元へ一人の兵が弥十郎に近づき、新しい槍と古い槍を交換して古い槍を持って行った。
「しかし、弥十郎は槍に慣れてるねぇ」
 その様子を見て、妹紅は素直に感想を漏らした。正直、鈍そうな彼が槍に慣れているのは意外だったのだ。
「そりゃ」
 槍を見ながら弥十郎は苦笑している。
「兄の吉弘加兵衛(かへえ)が槍の名手なんだ」
「へぇ」
 最早、妹紅は弥十郎の関係者を把握することを放棄している。本当の叔父・高橋紹運が出てきた辺りで諦めた。だから聞き流しに徹する。
「それで、小さいころは一日中槍の訓練の付き合いをさせられてたわけ。嫌になるほど」
「ああ、なるほど」
 弥十郎の苦笑が、兄・加兵衛に嫌々付き合わされる弟・弥十郎を思い起こさせて妹紅も少し笑った。
「それで、本丸攻撃は?」
 後残っているのはほとんど本丸だけ。いつこの戦が終わるのか、と妹紅は思っている。
「二の丸陥落待ち。二の丸攻撃は湖左だからすぐだと思うけど、そしたら二の丸側と三の丸側から同時に本丸へ駆けのぼる」
「そうか」
 落城は本当にもうすぐだ、と妹紅は思った。その落城に喜んでよいのかどうか、妹紅にはわからない。少なくとも田北に居る自分としては、きっと喜ぶべきなのだろう。
 でも、やはり素直に喜べないのである。一度しか会っていないのに、あの娘の顔は妹紅から全く離れない。そして彼女が本丸でじわりじわりと攻め寄せて来る敵の恐怖に震えていると思うと、とても他人事とは思えないのだ。
「伝令! 二の丸を落としました!」
「重畳、それじゃ志賀どのに伝えて、田北は本丸攻撃に掛かる、と」
「承知つかまつりました」
 伝令がまたひとつ、猫尾城の寿命を縮めていた。





「伝令、二の丸陥落致しました、守将・笠原どの御自刃!」
「うむ」
 本丸にはもうわずかな兵と幾らかの女しか残っていない。もう逃げようと思っていた者はあらかた逃げてしまったようだし、本丸以外を守っていた兵はほとんどが討死してしまったようであった。
「こうなったら、最期に黒木の意地を見せようぞ!」
「おう!」
 家永が、縁側から居並ぶ兵たちに気合を入れている。しかしそれはもはや守りきるという掛け声でなく、如何に潔く散りゆくかという話になっていた。
「衣玖……」
 不安そうな目で柏が見つめている。無理もなかった。もう誰の目が見ても、猫尾の城は落ちるしかないのだ。
「柏、一つ尋ねていいですか」
「何?」
 だから、衣玖は起死回生の策に出ることにした。一つだけ、衣玖には考えがあった。
「もし、もし突然戸次道雪が死ねば、どうなると思いますか?」
「え?」
 衣玖は妖怪である。人に有らざる力を持つ。空を飛ぶこともできれば雷を操ることもできるのだ。
「道雪を殺せば、どうなるでしょう?」
「そりゃ、大友は大混乱に……」
「ならば、勝てますよね」
「たぶん……」
「わかりました」
 その答えがあれば充分だった。衣玖はさらり、と羽衣を身に纏う。羽衣は龍宮の使いである印だから、と一度も纏わなかったが、今は自分が龍宮の使いである必要がある。さらりと纏った羽衣の神々しさに、一瞬柏は戸惑った。
「衣玖、どこへ?」
「道雪を殺しに」
 ふ、と衣玖は浮かび上がる。柏が目を丸くするのに軽く笑いかけてから、衣玖は大友本陣の方を目掛けて飛んで行く。衣玖は自らが妖怪であることに、初めて感謝していた。






「あ!」
 妹紅は頭上を飛ぶ緋色の物体を決して見逃しはしなかった。本丸から飛び立って一目散に本陣の方へと向かうそれは、紛うことなき龍宮の使いだ。
「奴、なんてことを!」
 妹紅も一瞬でそれの意図するところを把握する。黒木に協力していたという情報は入っていたから、狙うところは一つだろう。黒木を守るために、道雪を殺るはず。
「弥十郎に、道雪どのの所へ行っていると伝えてくれ」
 突然妹紅の様子が変わったことに戸惑っている侍女の一人に伝言を頼んで、妹紅もまた飛び上った。まさか妹紅が飛べるとは思っていなかった彼女たちは、目を見合わせる。
「妖に人の世へ手は出させないからな」
 妹紅も道雪の所へと向かう。飛べばすぐのはずであった。谷の上空を直線で移動してしまえば、対岸の山にある本陣までは近い。

「あれ、あんた飛べる人間か。珍しい」

 鬼に話しかけられなければ、の話であった。
「どけ。あんたに構ってる暇はない」
「あれ、鬼より面倒くさい妖怪なんていたかねぇ」
 金髪紅眼。額から一本の角を生やした鬼――星熊勇儀が、妹紅の正面で盃片手に笑っていた。
「今はそれどころじゃない、早くどいた」
「嫌だね」
 勇儀は笑う。
「どいて欲しきゃ、私を倒しな」
「そんな暇がないと」
「ならあんたが死ね!」
 勇儀は宙に浮いたまま、右拳を妹紅のすぐ右へ繰り出した。妹紅の左頬すれすれを轟然と拳が貫く。それでも妹紅の目線の先には道雪の陣がある。例え鬼に腕一本を吹き飛ばされてでも道雪の陣に行く必要があると、妹紅は思っていた。
「次は真ん中だ」
「邪魔だ、と言っているだろう!」
 妹紅は飛びのきながら両手から札をばら撒いた。それは勇儀の周りを囲むように浮いて結界を張る。勇儀が打ち壊そうと動いた刹那、内側は炎に染められる。妹紅渾身の一撃だ。
「後でいくらでも相手してやるから」
 それをちらりと見て、妹紅は飛び去ろうとした。今は道雪の方がはるかに危ない。
 だが、すぐに妹紅の耳を磁器が割れたような音が打つ。妹紅は飛び去ろうとした態勢のまま固まった。
「私を置いていこうといっても、そうはいかないよ」
 振りかえった妹紅の正面に、結界を打ち砕いてなお傷一つない勇儀が笑っていた。
「さあ、我が名は星熊勇儀。本気で掛かってくるが良い!」
 星熊とは厄介な、と妹紅は思った。どうして畿内でも著名な鬼だったはずの星熊が此処に居るのか、と。しかし今更どうしようもないことにも気付く。妹紅はこの星熊をすぐに倒して、道雪の元へ行かねばならないらしかった。
「そうか、私は藤原妹紅。藤原の名に掛けて、あんたを倒してやるよ」





 む、と道雪は上を見た。すぐ横にいる紹運も、辺りにいる輿担ぎの兵も全く気付いていないが、道雪は上からの殺気を捉えていた。
 道雪は出陣した時は輿の上に乗る。輿と言っても、板の縁に低い欄干を付け、下に担ぎ棒を付けたような粗末な代物である。それに道雪は座り、屈強な8人に担がせる。歳を取って足が悪くなってしまった道雪の戦場での移動手段である。とはいっても、まだ輿は下に置かれていて、担ぎ手たちも道雪の近くに侍しているだけだが。
「化生が来る」
 道雪は刀を左手に持ち、すっと立ち上がった。刀はもう60年も一緒に過ごしてきた愛刀・千鳥。それを抜くやその刀は嬉しげにひときわ輝く。
「ど、道雪どの?」
 足が悪く、立つにも一苦労であるはずの道雪が突如として抜刀したことに紹運たちは驚愕した。しかし直後に上から来る殺気に気付いて上を見上げ、再び驚く。
「道雪どの、お止め下さい! 代わりに私が!」
 その相手が人間ではないということは誰もが理解する。故に道雪という偉大な希望を失うことができない兵たちは道雪を何とか救おうと道雪の身代わりとなろうとする。もちろん紹運も例外ではない。
「邪魔だ、控えておれ」
 しかし道雪の気迫を前に、紹運も担ぎ手である兵たちも道雪に近づけなかった。当の道雪は刀を正眼に構えて、上を睨んでいる。上では雷雲が紫電を帯びて、いよいよ道雪を打たんとしていた。
「化生! 道雪はここぞ!」
 その雲を強く睨みつけ、道雪は叫んだ。










 衣玖は、道雪の名乗りに振り向く。刀を構えて上を睨む老人が見えた。その気迫といい眼光と言い間違いない、おそらくあれば戸次道雪だ。
 衣玖は雷を纏う。羽衣を円錐型に回転して槍の代わりとし、道雪に狙いを付ける。
「黒木のために、死んでください!」
 そうして衣玖は雷となって、道雪目掛けて突撃した。










「弥十郎、三の丸はごくろうさま」
 湖左は槍で敵兵を兜の上から思い切り殴って、挨拶した。
「そちらこそ御苦労さま。こうして本丸で会えてよかったよ」
 脳震盪を起こしてふらふらしている彼の胴丸の綴じ目を、弥十郎は槍で貫きながら挨拶を返す。
「さあ、田北もすでに来ておる! われらより数の少なき田北になぞ負けるでないぞ!」
「志賀に遅れを取るな! 戦は数ではないことを見せてやるがよい!」
 二人で互いに声を張り上げた。それは決して仲が悪いというものではなく、むしろ仲が良いからこその張り合いである。
「湖左、槍の挙動が遅い!」
 次の一人に突き刺した槍が抜けずに苦戦している湖左を横目で見ながら、湖左を狙って刀を振り上げた敵兵の喉へ弥十郎は槍を突き入れる。
「加兵衛の槍の訓練に一日中付き合わされて、泣いてたあんたに言われたくない」
 漸く槍を抜いた湖左は、真後ろに来た男の脛を石突で撃ち、顔面へ槍を刺し込む。
「だから槍だけは自慢できるんだよ」
 弥十郎は右に居る兵の胴へ思いっきり蹴りを入れながら左の兵の刀を躱し、右腿を突く。
「加兵衛に一度も勝ったことないくせ」
「ああ、兄上には一度も勝ったこと無いよ。悪かったね!」
 続いて湖左を狙っていた男の鼻を石突でへし折り、その右にいた兵の刀を槍で叩き落とした。

 あちこちで大友側の兵たちは黒木の人々を倒していた。もう戦闘員も非戦闘員も関係がない。本来猫尾城の後方支援として従事していた女たちも次々と殺され、あるいはより悲惨な目に遭っている。落城時の悲惨な光景であった。

 そこに突如として、雷が響き渡る。透き通った晴天の中、何の前触れもなく起こった霹靂にどちらの兵も一瞬動きを止めて、静止する。






 一瞬道雪の周りを目を潰すほどの閃光が包んで、紹運たちは思わず目をつぶる。いくら道雪がその中にいるとは言え、余りの光量に彼らは動けなかったのである。
 その光が収まって目を開くと、目の前の道雪は刀を杖の代わりとし、膝を突いていた。顔も下を向いたまま、微動だにしない。
「ど、道雪どの?」
 紹運は慌てて道雪に駆け寄った。道雪の足からは焦げくさい匂いが立ち上っている。嫌な予感がした。
「道雪どの! しっかり!」
「どうした、紹運」
 しかし道雪は紹運へと振り向いた。その顔は未だ怒りに包まれているが、殺気は既に消えている。紹運はその姿に、若干の安堵をする。
 道雪はそのままどっかと輿へ座り込んで、刀を見遣った。刀の中ほどが焦げて青く変色し、先の方は妖の血らしき紅いものが滴っている。
「ど、道雪どの、まさか……」
 その刀を紹運も見て、驚愕の色に顔を染めた。紅い液体は血である。まさか、道雪は雷の中を泳いでいた妖を斬ったとでもいうのか?
「雷を纏った程度でこの道雪に勝とうとは、化生もアホよ」
 そんな紹運の驚きにも構わず、道雪は怖ろしい笑顔を浮かべる。
「雷なぞ、この"千鳥"で斬ってやったわ」
 そうして、紹運が考えていた通りの事を言い放った。
 紹運は腰が抜けてその場へ座り込む。道雪という人から外れたような人間に、驚きを隠せなかったのだった。










「道雪どのが、雷神を斬ったぞ!」
 どわ、と大友軍全てが鳴動する。











「らいじん、って雷の雷神?」
 弥十郎と湖左は目を見合わせた。二人の周りはもう大友兵しかいない。建物の外にいた黒木兵はとうとう駆逐されて大友兵は建物へと突入した。後は外から指揮すればいいと、二人で言っていたところである。
「道雪どのが、雷を斬った?」
「一体、どういうこと?」
 二人には全く状況が掴めない。しかし、きっと大友にとってはいいことに違いない。湖左は瞬時にそう判断したようで、思い切り叫んだ。
「我らが道雪公は、大友に仇為す神すら斬ったぞ! まさに道雪公は神。この城を落とせぬはずがない! さあ、あとひと踏ん張りぞ!」
「おお!」
 その一言で大友軍の士気は一挙に上がる。その機転に弥十郎は舌を巻く。
 残念ながら瞬時にそれを判断できるような器量は自分にはなさそうだ、と。






「どうやら、あんたの出番は無くなったみたいだよ」
 突如落ちた稲妻を眺めながら、勇儀はにやりと笑った。
「ああして人と妖怪とが戦うのが、人妖のあるべき姿だよ。そう思わないかい?」
「馬鹿言え」
 何とか勇儀の一撃を躱しながら、妹紅は応える。勇儀は未だほとんど無傷であるが、妹紅はすでに全身傷だらけである。力の差が如実に表れていた。
「あんたは鬼のことしか考えてないんだよ」
 しかし妹紅の目だけは輝きを少しも失っていない。炎のような紅い目で、鮮血の如き勇儀の目を睨みつけた。
「鬼は力比べするのが楽しいかも知れないが、力のない人間はそれに狩られるだけじゃないか」
 直後に、大友軍のどよめきが響き渡る。道雪が雷神を斬った、と。
「どうかな、道雪という男は"雷神"を斬ったよ?」
「確かに、斬ったらしい」
 妹紅も雷の落ちた方角を見る。
「でも、そういう人間は少ないのじゃないのかい?」
「まあ、そうかもしれないな」
「それじゃ、鬼に対抗できないほとんどの人間はどうすればいい?」
 妹紅は勇儀へ問う。妹紅の脳裏には、弥十郎が映り、妹紅に従っていた侍女たちが映り、懸命に働く田北の人々が映り、あの死んだ未亡人が映る。
「鬼にただ殺されればいいのか、鬼にただ連れ去られればいいのか?」
 妹紅は睨みつけた。
「人は騙すから嫌いだ、などど言うのは鬼の身勝手だ。私は許せない」
 妹紅は言い放つ。勇儀は少しうろたえていた。
「それでは、鬼は……」
「人の中に、鬼と付き合いたいと思う奴なんて一人もいないのさ」
 構わず妹紅は言ってのけた。その言葉は、勇儀にとっては重い一言だった。すでにどこかでわかっていたからこそ、痛すぎる一言だった。
「それじゃ、あんたがやる気がないなら私は行くからね」
 勇儀が茫然としているのを横目にして、妹紅は勇儀から離れて行く。勇儀はそれを見ていることしかできなかった。
 自分が人を見放すよりもはるか昔から、人に鬼が見放されていたということを肌に感じながら。






「もはや、これまでか」
 家永は呟いた。すでに建物の一階にも大友兵は入り込んでいて、あちこちで剣戟の音が響いている。そして高い士気を保持し数にも勝る大友兵が、次々と黒木兵を打倒している。家永とて呟きの間に一人の大友兵に留めを刺したが、全体の流れを動かすには足りない。
 大友兵の喚声によれば、雷は負けた、という。おそらく衣玖のことだろう、と家永は既に推測している。黒木に味方した神が斬られた、という言葉はまさに致命的だ。もう望みはない。
 家永は決意した。
「火を掛けよ!」
 家永は一言叫ぶと目の前の灯明を蹴倒した。皿に入っていた油が零れて全体に火が付き、それはやがて板にも火が回る。
 それを見て、家永は階段を上がった。二階までは上ってきていない。最期の砦である。
「柏、いるか」
 しかし二階にはほとんど黒木兵もいない。いたとしても階段に張っていて、二階へあがってこようとする大友兵を薙ぎ払うのに精いっぱいだ。黒木兵のほとんどはもう死んでしまったし、残りも一階で戦っている。
「父上、なんですか?」
 不安に支配されたな表情で柏は家永を見る。返り血と自らの怪我のせいとで血塗れになった家永は、鬼神にせまるような表情で柏を見つめている。もはや選択肢は一つしかない。
「もうこの城はだめだ」
 柏を見ずに家永は告げた。一つの心残りだが、今更どうすることもできない。頼みの衣玖が負けた今、家永が柏を救う手段はない。
「某は腹を斬る。介錯してくれ」
「え!」
 柏は手に持つ薙刀を見やって、それから家永を見た。父である家永は横を向いて、何も答えない。家永もまた感情に呑まれている。
「頼む、介錯を」
 ただそれだけ、家永は告げた。それ以上何かを言えば、柏のことで胸がいっぱいになりそうだったのである。
「嫌!」
 その言葉に、ほとんど反射的に柏はありったけの声で叫んだ。
「絶対嫌、どうして、私、父上なんて、殺せないよ」
「だが、他に頼める者は居らぬ。頼む」
 家永は頭を下げる。もはや他に術はない。家永にとってあと憂うべきは、如何に敵の辱めを受けずに済むか、ということである。今更柏を逃がすことも助けることも、家永にはできそうになかったから。
「いや、いや!」
 しかし柏は首を振る。せっかく衣玖のおかげで仲直りできたのに、素直な気持ちで父親と相対できるようになったのに、どうしてそれを自分の手で壊さなければならない。
 少しずつ、この場が煙くなってくる。下で放った煙が燃え上がってきているのだろう。
「頼んだぞ」
 家永は非情にも告げた。家永は座り込むや鎧を外し、着物の合わせ目を開くと、脇差を引き抜いた。
「いや、いやだってば……」
 柏は首を振りながら家永の挙動を見ていることしかできない。怖ろしくて、動けなかったのだ。
「柏、すまなかった。それでは、さらば」
「いや!」
 家永は短刀を思いきり右腹へと突き立て、そのまま一挙に左へと一文字に掻き切る。家永は痛みに呻き、前に倒れ伏す。
「はや、く……」
「ひ……」
 柏は家永に手を掛けることなどとてもできない。だが、目の前で家永が苦しみに呻き喘ぐのを見ることもまた、耐えられなかった。しかもそれから解放できるのが自分しかいないと言うことが、柏にはわかっている。
 柏は両目からボロボロ涙を流し、唇を噛み締めた。もうすることは一つしかないのだ。
 薙刀を引っ掴むと震える足を叱咤して立ち上がり父親へと切っ先を向けた。
「ち……ちちう、え」
 そして、父親の首目掛けて振り下ろす。柏の薙刀は奇麗な弧を描いて家永の頸を捉えきり、そのまま頸を切断する。
 家永の頸は前へと転がり、頸からは真紅の鮮血が吹き出した。

「父上ーっ!」

 柏は薙刀を投げ捨てると、そのまま父の胴体へと抱きついた。母が死んでからずっと育ててくれた父親が、目の前で冷たくなっていく。首から血を噴き出して冷えて行く。まだ暖かい血に濡れながら、柏は泣き叫ぶ。
 一体何故自分はこのように父へ手を掛けねばならなかったのか。父は一体何故切腹し娘の手に掛からなければならなかったのか。それが柏には全く理解できないし、したくもない。
 家永の首が転がって柏の方を向き、止まる。その顔の無念さが柏の胸を打つ。
「……許さない!」
 柏は許せなかった。父親をこんな目にあわせた大友の連中が。父親を自害させた大友の連中が。初めて、柏は本当に人を恨んだ。人に死んでほしいと思った。
 一人でも多く、父を死に追いやった大友の連中に死んでほしい、と柏は心から願った。大友の連中が一人でも多く殺せるのなら、何をしてもいいと柏は思う。
 もう柏は命なぞ惜しくはない。今はたった一人でも多く大友の兵を殺したいという、そういう気持ちでいっぱいだった。
「許さない!」
 柏は父親の首を右手に引っ掴み、そのまま窓から身を乗り出す。建物の周りは大友兵で埋まっていた。
「これが、お前らの欲しがってた父上の首だ! くれてやる!」
 柏は敵の大将と思しき人間目掛けて首を放り投げた。柏の恨みがその動作には籠っている。

 その首はその男二人のすぐ足もとに落ちて、ゴト、と音を立てた。







 叫び声で呆気に取られた弥十郎と湖左との目の前に、首は落ちて転がった。
 二人とも、動くことすらできない。それが家永の首であるということだけを認識してなお、何が起きたのか二人にはまず理解できなかった。
「父の仇共、一人でも多く冥府に送ってくれる!」
 壮絶な叫び声と共に、一人の娘が全身を血に染めて、血濡れの薙刀片手に煙を噴き出す建物の一階の縁側へと躍り出る。彼女は歳に似合わぬ素早い動きで薙刀を払い、すぐ近くにいた一人の兵の首を刎ねた。その業は見事なものである。
 しかし、大友兵にとってはそれに見とれている場合では決してない。彼女の動きに気を取られ、全く動くことのなかった兵たちも、鮮血を噴き出した一人の胴体を見て慌てて動く。大友兵たちはその娘を遠巻きにし、槍を突き付ける。
「あ、」
 弥十郎の思考も漸く動き始める。
「殺すな! その娘は生捕にしろ!」
 湖左も再起動したようで、兵たちに向かって叫んでいる。
「父上の仇、一人たりとも許さぬ! 大友め」
「自害もさせるな! 必ず生捕れ!」
 湖左の後ろからの命に、兵たちがざわめく。早く飛びかかりたいのだが、彼女がなかなかの使い手であることは先の一撃で兵たちもわかっているのである。すでに勝ち戦が決まっているから、今死にたくないとも思っている。
 遠巻きにしたまま動けぬ姿に弥十郎は一つ溜息を吐くと、槍を軽く扱いた。湖左が声を掛ける暇もなく、弥十郎はその姿に似合わず機敏に動いて兵の輪を潜り抜け、彼女の死角から槍を繰り出した。
 それは、弥十郎なりの考えあってのものである。弥十郎の槍は彼女自身を貫かず、ただ彼女の眼前スレスレを穿つ。弥十郎の槍はやはり上手い。
「今だ、かかれ!」
 突然眼前へ出現した槍に彼女が動きを止めたことを見てとって、弥十郎は叫ぶ。同時に大友兵たちは一斉に彼女へと飛び掛かり、或る者は薙刀を奪い、或る者は舌を噛み切らぬよう口へ手拭いを押し込み、或る者は縄を掛ける。もはや勝負はついていた。
 その様子を見遣って、弥十郎は元立っていた位置へと戻る。湖左がその様子を無表情に眺めていた。
「相変わらずの槍の腕だ、ほんと」
「少しは兄上にいじめられた甲斐があったよ」
 言葉こそ軽いが、二人とも口調が重い。あれだけのものを見せられて、明るく振舞えという方が無理があろうが。
 目の前で家永の首が、無念さを詰まらせた顔で上を眺めている。彼はどんな思いで娘に介錯を頼んだのか、弥十郎にはわからないしわかりたくなかった。きっとわかる時は、自分が腹を切る時であろうから。
「Kylie Eleison; Christe Eleison;..」
 隣では、湖左が何だかよくわからぬ文言を唱えながら磔像の付いた数珠――コンタツとか言うらしい――を握って両手を組む。おそらくキリシタンとしての弔いなのだろうな、と思う。
 しかし弥十郎自身は弔う気持ちにもならなかった。今更彼が救われるように祈ったところで、弥十郎には無駄にしか思えないのだ。もし彼が救われるならば、そもそも娘に介錯を頼むようなことにはならない、と弥十郎は思えてならない。
「色即是空、空即是色……」
 故に出てきたのは、弔いとは何の関係もない般若心経の一節であった。
 すべての物事は空であり、空が全ての物事を形作っている、と。この悲劇を見ていたら、そんなことがふと信じられる気がしたのだった。






「……くぅ」
 ふらふらと、朦朧とする意識を懸命に叩き起こしながら、衣玖は何とか本丸に戻ってきていた。衣玖の右脇腹がパックリと断ち割られている。どうして負けたのか、と未だに理解できない。ただ自分がこうして大きな怪我を負っていることだけが、自らが負けたことを認識させる。
 ふと、建物の手前で彼女の叫び声が聞こえた。その姿に、衣玖は目を擦る。全身を真紅に染めた柏が窓から身を乗り出していた。左手には血に濡れた薙刀を握り、右手には何か丸いものを掴んでいる。
「……あれ、は」
 衣玖はその瞳を見開いた。
「くれてやる!」
 柏の叫び声とともにそれは宙を舞う。それは、家永の首である。間違いない。柏の父の首であった。
「な、なぜ……」
 同時に柏は中へと駆けこんで、やがて一階の縁側に躍り出るや、絶叫した。
「父の仇共、一人でも多く冥府に送ってくれる!」
 柏は父の血に塗れたまま、やはり父の血に濡れる薙刀で正面にいた一人の兵の首を刎ね飛ばす。首を刎ね損ねなかった辺り、活発な少女らしく薙刀の腕もあるようだった。
 ここに、衣玖は柏が一体どのような状況にあるのかを理解する。彼女は自分の手で尊敬する父を、衣玖が仲直りさせた父を手に掛けた。父は死に、いまや彼女は敵中に一人あって復讐を試みんとしている。余りにも救いの無い光景。
 衣玖の目の前で、光景は展開していく。結局彼女は一人を斬ったのみで捕えられ、まるで蓑虫のように縄を巻かれたまま兵たちに担いで連れ去られていた。
 後に残るのは、いよいよ燃え上がる建物だけである。それがこの猫尾の城が落ちたことを象徴していた。

 嗚呼、と衣玖は呻いた。やはり自分は凶兆に過ぎなかったのだ、と。
 これまで衣玖は何をしてでもこの城を救おうとして戦い、そしてこの城が救われると信じ続けてきた。それはすべて、自分が凶兆ではないということを信じたかったから。自分は凶事を持ちこむだけの妖怪ではないと、信じたかったから。
 しかし、それは全て徒労だったのだ。所詮自分は凶兆なのだ。
 それを衣玖に見せつけるように、本丸の建物は轟々と音を立てて燃えている。衣玖と柏が一カ月余り過ごした場所が、容赦なく燃えて行く。

 衣玖は、柏と家永という父娘の仲を取り持つことはできた。柏という少女に希望を与え続けることもできた。しかし、それはすべて最後に訪れる悲劇をより悲惨な物にしたに過ぎなかったようである。衣玖が仲直りさせたことで、柏は自分が慕っているということをきちんと認識しながら父を殺すことになってしまった。衣玖はただこの悲劇を悪化させただけだ。
 此処で自分は死ぬのかな、と衣玖は思う。むしろ死にたかった。もうこの龍宮の使いという存在が飽き飽きしている。どんなに努力をしようが凶事しか運ぶことのできない自分が嫌で嫌でたまらない。そして、耐えられない。
 誰かが衣玖を殺してくれないかな、と衣玖は切実に願っていた。

「やっぱりあんただったか、龍宮の使い」
 しかし、そんな衣玖の自嘲すら中断される。どこかで聞いた声に、衣玖は振り向いた。
 正面に、阿蘇で衣玖を封印した白髪の女術師が札を両手に構えて立っていた。






 龍宮の使いの気を感じて妹紅もまた本丸へと降り立った。既に建物からは煙が噴き出していて、まさに落城の瞬間だと言うことは妹紅にも容易に分かった。
「これが、お前らの欲しがってた父上の首だ! くれてやる!」
 龍宮の使いを探そうとした妹紅はしかし、その言葉を聞いて振り向いた。遠いが、妹紅の位置からも彼女の声は確と届いた。間違いない、あの娘は城の中で出会ったあの娘だ。
 彼女は右手に持っているものを投げる。それが何かということを妹紅は一瞬で視認し、そして目を見開いた。
「く、首……」
 妹紅にもそれが彼女の父の首であるということはすぐにわかった。そしてそれが何を意味するかということも、妹紅は即ち理解する。
 あの娘は、父を誰よりも慕っていたあの娘は、父を殺したのだ。自らの手で。
「なんて、なんて……」
 妹紅は其処にへたり込んだ。彼女が誰よりも慕うはずの父を殺さなければならぬ状況に陥ったということが、妹紅にとっては余りにも大きな衝撃だったのである。
 自分の受けた衝撃の大きさに、妹紅はやはりあの娘に自分を投影していたということを強く認識する。そしてその上で思うのだ。やはり彼女には幸せになって欲しかった、と。
 運命の残酷さに妹紅は軽く笑う。やはり運命は人を圧し潰して進んでいくのだな、と。そう考えれば妹紅の運命はまだマシなものであったのかもしれない。おそらくもっと重い運命を背負わされて押し潰される人間は、山のようにいる。
 もしこの運命が少し違っておれば、と妹紅は嘆息する。しかし嘆息してすぐ思い返した。もしここで黒木の人々が、あの娘たちが勝っていたら、代わってきっと妹紅に良くしてくれた田北の人々が死ぬのだ。もしかしたら、弥十郎だって死ぬかもしれない。
 そう考えると益々妹紅は人が嫌になる。どうしてこうも争う運命へと突き進まねばならないのだ。悲劇を振り撒きながら生きて行かなければならないのか、と。

 しかしその思索はそこで中断した。妹紅の目の前に、負傷に喘いでいる龍宮の使いが目に入ったからである。
「やっぱりあんただったか、龍宮の使い」
 その龍宮の使いはやはり、阿蘇高森で頼まれて封印した龍宮の使いである。きっと逃げ出したか何かでここに来たのだろう。
 たとえ絶望に沈んでいても、仕事はこなさねばならぬと妹紅は思う。というより、妹紅自身が仕事をこなさぬことが嫌で仕方がない。承ったからには、キチンと最後までやり遂げてこそだと妹紅は思っている。
「残念だけれど生捕になってもらうよ。道雪どのの前に突き出すからね」
 だから、妹紅は彼女の力を封じる札を両手に彼女を睨んだ。しかし彼女は身動き一つ取らなかった。








     ――紅――

  紅は血の色。歴史は紅く染まりて進む。


 勇儀もまた、落城の様子を一部始終眺めていた。
 そして感じるのである。人間とはやはり理解できない、と。
 どうして父が娘に自らを殺すよう頼めるのか、どうして娘が父を殺せるのか、どうしてそんな所業をさせるのか。それが勇儀にはわからない。そんな醜いことを平然と行える人間どもがまるで理解できない。
 勇儀は笑った。
 所詮人間とはああいう醜い存在なのだ。鬼であろうが人間であろうが平気で騙し殺す。正々堂々戦うなぞという考えなぞまるで持っていない愚かな存在なのだ。そんな連中がああして殺し合い苦しむことはなんて滑稽なことであるだろうか。なんと面白いことであろうか。
 勇儀は笑いながら大盃を傾ける。正面では一人の少女が薙刀で首を刎ねている。さぁ、と青い空へ紅い鮮血が艶やかに舞う。

 だが、その人にすら見捨てられた鬼とは一体何なのだろうか、とふと勇儀は思った。何のことはない、実際鬼の方が先に人間を見捨てたのだ、と主張することは簡単である。しかし見るからにあの藤原妹紅という少女の言い分は嘘と思えなかった。
 もし人が鬼の恐ろしさの果てに堕落して嘘つきとなり、それを鬼が人を愚かだと勘違いとしていたら? 目の前で醜く争っている原因が鬼にあるとしたら?
 勇儀は盃を煽った。酒ごとそんな思いも飲み込んでしまいたかった。

 くく、と口を拭いながら勇儀は再び笑う。良く考えれば、そこまで不思議な話ではなかったのだ。道雪が鬼にならなかった時に確信したではないか。
 鬼と人とは、決して分かり合えぬのだと。鬼と人とは隔絶した存在で、共存することも能わぬのだと。
 それはそういうことだったのか、と勇儀は改めて認識させられた。
 鬼は人を理解せずに人を嘘を覚えさせ、人は鬼を理解せずに鬼を騙した。かくして人と鬼とはただ対立するだけの関係となって、鬼と人との関係は完全に崩れた。それはすべて、鬼と人とが相容れぬものだったからに違いないのだ。

 勇儀は本丸に背を向けた。もう、どこか人の居ない所へ行こう。人と居ても碌なことはない。人のいない所へ行こう。決して一緒にはなれない人となぞさっさと別れて、鬼だけの楽園を作ろう。

 輪郭を失いがちになる風景に、懸命に勇儀は目を拭った。






 田北勢の陣へひとまず帰陣した弥十郎は遠くの空を眺めながら一人木の下に座っていた。返り血と自分の血であちこち紅くなっているが、弥十郎はそれほど気にしていないようである。
「弥十郎どうした、突然空なんて見上げて」
「叔父上……」
 弥十郎が振りかえる間もなく、宗哲が弥十郎の隣に座った。宗哲もまた返り血を浴びているようで、鎧のところどころが紅く染まっている。
「妹紅、どう思ったんでしょうね」
「は?」
 唐突な弥十郎の言葉に首を傾げた宗哲へ、弥十郎は持っている手紙を渡した。妹紅の置き手紙である。五人の侍女が不思議そうな顔で、そして大層寂しそうな顔で持っていたものだ。
「家永どのの最期を見たのかな、妹紅も」
 読んでいる宗哲へ弥十郎は呟く。うむ、と黙り込んだ宗哲へ弥十郎は続けた。
「殺して殺して、人は生き続ける」
「?」
 宗哲は弥十郎の言葉に僅かに首を傾けた。その双眸は弥十郎を睨みつけている。
「それにはきっと、大きな支えがいる」
「そうだろうな」
 弥十郎のポツリとした一言に、宗哲も頷く。弥十郎や宗哲にとっての田北、湖左にとってのキリストに当たるような存在の事を言うのだろう、と宗哲は思っていた。
「妹紅には、何かあったのかな?」
「……わからぬな」
 妹紅という存在自体が、未だに宗哲はよくわかっていない。
「ただ」
「ただ?」
 宗哲は感じたままに言葉を紡ぐ。
「田北に居たということが妹紅の何かを動かしたのは、間違いあるまい」
「……そっか」
 その答えに、僅かな安堵を含めて弥十郎が答えた。

 二人の視線の先では空がきれいな朱に染まっている。二人の影は後ろで長く伸びていた。






「これがその龍宮の使いとやらか」
 後ろ手を縛られて、衣玖は戸次道雪の前に引き出されていた。傷はだいぶ治っているが縄にはどうやら特殊な封印が掛けられているらしく、どうしても解けない。もっとも、衣玖自身に逃げ出そうなどという気力は残っていなかったが。
「これ、答えよ!」
 衣玖を引っ張ってきた兵の一人が衣玖の喉元に刀を突き付けた。しかし衣玖は微動だにしない。体力がないわけではなかったが、全く動く気にはならなかったのだ。
 衣玖の瞳はすっかり輝きを失って、まるで打ち上げられたリュウグウノツカイの如き濁った眼で道雪を視界に入れていた。表情もすっかり失われて暗く、ともすれば白痴のようにすら見える。
「もうよい」
 道雪は輿の上から衣玖を睨んでいる。それは相当に凄みのあるものだったが、衣玖にとってはどうでもよいことである。もう衣玖には生きようと思う気力すらない。希望を全て断ち割られた今、衣玖にとっては死だけが目の前にある現実だったのである。
「さっさと去れ」
 しかし、それすらも道雪は否定する。
「人の争いに手を出すとは無粋な奴め、失せろ化生が」
 道雪の言葉は、衣玖の最期の希望すらも完全に打ち壊した。
「その辺りに捨て置け、縄も解いて構わぬ」
 その言葉を合図に、衣玖は再び引っ立てられる。何を考える暇もなく兵らに陣から引きずり出された。






 妹紅の上には高く九州の秋の空が広がっている。真っ青なそれはまさに、天高き秋である。

 衣玖を道雪に引き渡したその足で、何も言わずに妹紅は黒木を離れた。もう誰にも会いたくなかった。このままあの場にいたところで前にあるのは、悲惨な運命だけだ。
 どうして自分が人から隠れていたのか、ということを妹紅は再認識していた。人がたくさんいれば其処にある悲惨な運命を否が応にも見せつけられてしまうのだ。そして妹紅は不死身。そういう運命をずっと見続けねばならないのだ。隠れていればまだ、そういうものを見ることが減る。
 どうすれば運命を変えられるのだろうか、もう無理なのだろうか、と妹紅はほとんど諦めの境地に至りつつある。

 けれども、と妹紅は思いなおした。その運命に立ち向かってこそ、人間なのかもしれない、と。
 例えば、弥十郎。彼は田北を守るという信念の元、なんとか生き抜こうと努力している。例えば、湖左。彼はデウスという神の救いを信じて前へと進んでいる。
 そうして、死んでしまった人間だっている。あの未亡人だって運命を泳ごうとして溺れた。その事実は痛いほどわかる。それでも虎穴に入らずんば虎児を得ずともいう。きっと運命を泳ごうとしている人間しか、泳ぎきることはできないのだろう。
 皆、希望を失っていた妹紅には眩しかった人々である。でも彼らの在り方が最も人らしかったのかもしれない、と思う。
「色則ちこれ空なり、か」
 知らずの内に妹紅は呟いていた。全てのものは空であり、空が全てのものである、という。
「そうなのかもしれないな」
 田の間を歩きながら、妹紅は納得する。妹紅の両側ではたわわに実った稲が黄金色の風を吹きわたらせている。
 もしかしたら全ての事柄とは、所詮空虚な物なのかもしれない。全てはきっと、空虚だ。
 でも、と妹紅は続けて思った。空虚であるからこそ、それを変えようと思えるのかもしれないし、ひょっとしたら変えられるのかもしれない。なにより目の前の巨大な現実が空虚だと知っているから人は運命へと、現実へと戦っていくのではないだろうか。
 少し頑張ってみようか、と妹紅は思った。人とぶつかるのはもう嫌だし悲惨な運命はもう見たくない。でもひょっとしたら、人から隠れた里なんてものがどこかにあって、自分みたいな不死人も平和に暮らせる場所があるのではないか、と。そんな希望の火が妹紅には小さく宿っていた。
 妹紅は前に歩く。果てしない道を、前へ。

 道の先は夕日に赤く燃えていた。





 衣玖の周りはまだ焦げ臭い。家々の焼け跡がそこかしこで燻っている。そこは焼き討ちによって跡形もなくなった黒木の町である。道雪の命で衣玖はそのど真ん中に放り出されたのであった。
「はは」
 もう衣玖の身を拘束するものは何もない。あたりには誰も居なかった。衣玖を引っ立てていた兵たちも衣玖が妖怪であることを気味悪がって、衣玖をここに連れてきて縄を解くや、何もせず一目散に逃げてしまったのだ。
 正面では藤の木が煙を上げている。藤棚も全て燃え尽きて、焼け野原の真ん中に幹だけが突き立っていた。あの大藤も、もはや見るも無残でしかない。
「ははは」
 衣玖は笑っていた。空虚に笑っていた。
 笑うことしかできなかったのだ。余りにも自分に対して無残な運命に、もはや自分を笑う以外のことは何一つとして出来ない。緋色の瞳から涙一滴すら流れない。

 やはり龍宮の使いとは凶兆だったのだ、と衣玖は改めて確信していた。自分の居るところには災厄が舞い降りる。衣玖がどのような努力をしようとも、周りの人々が如何なる努力を捧げようとも。龍宮の使いはすべてを喰らう。これまで人々が積み上げてきたものも大切にしてきたものも全てを打ち壊す。凶事を振り撒き悲劇を呼び起こす。
 自分は今回、黒木の人たちの信頼も優しさも何もかも裏切った。向うは恩をくれたのに自分は黒木滅亡という最悪の仇しか齎さなかった。龍宮の使いとは、衣玖とは、なんと酷い存在であるのだろうか。
 そして天もまた、酷い悪戯をするものだと思う。最初は阿蘇で死ぬかと思い、博多になったかと思い、助かったかと安堵させて最後にはこの黒木で死ぬように見せかけ、結局生き残る。なんとまあ、ここまで振り回さなくてもいいではないか、と衣玖は思う。しかも最後に"とっておき"の悲劇がついて。
 否、ひょっとしたらこれは自分が努力をしてしまったからではなかろうか、と衣玖は思い至る。自分が凶事を少しでも躱そうと努力を重ねた結果として凶事が後ろに溜まっていき、ここで最大のものとして発現してしまったのではなかろうか。
 だったとすれば、最早自分は完全に狂言回しに過ぎぬではないか。凶事を防ごうと努力すればするほど凶事は大きくなる。皮肉もいいところではないか。
「色即是空とは、いいこといいますよね」
 ははは、と笑いながら衣玖は告げる。ただ衣玖は焼け跡の真ん中で独り笑い続ける。
 この世の中の全ての物事がただ空しいものに過ぎない、とは随分と的を射た言葉ではないか。自分の努力も柏の優しさも何もかも、結局は空しいものに過ぎなかった。衣玖が持っていた全ての希望も悉く空しいものであった。
 なるほど、と衣玖は思い至る。全ての世の中が空しいのであるから、自分がこのような運命にあるのも仕方がないのだ、と。自分の努力なんてしても無駄だ。ただ空しい世の中で龍宮の使いは空しく凶事を伝えていればいい。空しいことを信じずに努力をしてしまったから、このような最悪の悲劇が生まれてしまったのだ。

 衣玖の笑いは止まらない。それは最早不気味以外の何ものではないが、見るものは誰もいない。
 これで若し死ねたら、龍宮の使いの身を離れられたら、どれほど良かっただろうか。龍宮の使いよりも悲惨な者に転生することは絶対にないと衣玖は断言できる。
 だが、それすらならなかった。戸次道雪は衣玖を殺しもせずに解き放った。何の咎めもなく。
 それはどういうことか。衣玖には一瞬でわかっていた。道雪という男は衣玖に対して殺す価値すら覚えなかったのである。全くの価値を――何らかの行動を起こすだけの価値も衣玖には無かったのだ。

 これはまさに龍宮の使いたる自分には丁度よい処遇ではないか。龍宮の使いは凶事を運び人から忌み嫌われる妖怪。そのような存在は殺すには能わぬと断じられるが正しかろう。
 そして自分は結局龍宮の使いという存在なのである。そのように忌み嫌われる龍宮の使いなのだ。

 龍宮の使いという凶兆から離れられない衣玖は、これからどうすべきか、とふと考える。そしてすぐに思い至った。
――努力しなければいい。感情を持たなければいい。何もかも圧し殺して、ただ凶事を伝える仕事だけをしていればいい。それ以外に目移りすれば、それは自らへ遥かに大きな災厄となって返る。

 はは、と再び衣玖は笑い声をあげる。


 沈んでいく夕日は、空を赤く染め上げる。衣玖にはそれが、黒木の人々の血の紅に見えて仕方なかった。







死生命也、其有夜旦之常天也
 死生は命なり。其の夜旦の常有るは天なり。
  死があり生があるのは運命である。あの夜と朝との決まりがあるのは、自然である。

人之有所不得與、皆物之情也
 人の(あず)かるを得ざる所あるは、皆物の情なり。
  〔そのように〕人間の力ではどうすることもできない点のあるのが、すべての万物の真相である。

『荘子』












 黒木の運命の海に、血は紅く舞う。


おまけ書きました: こちら
解説も書きました: こちら
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