―― 黒き海を出でて ――










 天は高い。青く青く染まった空は何処までも広く、その内に幾つかの白い雲を浮かべていた。完全に秋の景色である。一方地の田は一面黄金色に輝き、空の青に負けぬ存在感を持っていた。既に稲刈りの季節であれば、田北の里の人々達も皆田に出て立ち働いている。棚田の上から田北の里を眺めると、眼下の黄金と空の蒼碧との組み合わせが鮮やかに映る。

 そんな良い天気の下を私は黙々と歩いていた。脇差だけを腰に差し、すっかり薄くなってしまった白髪混じりの髪を後ろに括って、私は棚田を下って行く。周りの棚田を黄金に染め上げる稲穂は重く、出来はかなり良いようであった。知らず知らずの間に、私の顔はほころびる。
「ああ、と……、庄屋さま。こんなに上までお疲れ様です」
 狩った稲を担いだ壮年の男が、私の姿に驚いたように頭を下げた。けれどもその表情は柔らかい。
「いやこれくらいは大したことないよ。昔なら駈け下ってたんだけど、最近はそうも行かないみたいだ」
 私は笑いながら腰を叩いて見せた。昔から何かと動き回ってきたから体力に自信はあるけれど、それでももうこの年ともなれば坂道を駈け下ることはちょっと難しい。
「お戯れを」
 でも稲を担ぐ男はそんな私の仕草に笑った。
「いや、年寄りだもの」
 その笑いが穏やかだったから、私も今度は穏やかに笑って見せた。
「それはそうと、収穫はどのような感じ? 私の見たところでは、だいぶ良さそうだけれど」
「今年やっと田を作るまでになった程度の田です。まずまずですよ」
 稲を担いだまま男は言う。しかしその表情に嬉しさが見え隠れしている。必ずしもここの収穫が良かったからだけではないだろう。
「とはいっても、かれこれ40年ほど前には田だった場所だけれどね」
 昔のことを思い起こして、私は目を細めた。此処が再び稲のとれる田になったということは、私にとってもとても感慨深い。
「ええ。ここは私の一族の、母の大切な田でしたから」
 男は笑ったまま私に答えて見せた。だが、その目が普段以上に光を反射していることに私は気付いていた。
「お前の母が亡くなったのは、どれくらい前になる?」
「一昨年に三十三回忌を終えたところでございます。私がまだ5歳だったので」
「そうか……」
 私は返す言葉が見つからなかった。彼の母の死には少なからず私にも責任がある。それにあれは本当に痛ましい事件であったから、少し胸が詰まっていたのだ。
「そうか、もうこの田を荒廃させないように頑張って」
 だから私は、そう言うのが精いっぱいだった。
「ええ。ここは我が一族の発祥の地として代々受け継ぎたいと思っております」
「そうだな」
 私は軽く手を上げて別れを告げる。稲を担いでいた彼も軽く頭を下げてこれに答えた。まだ刈られぬ稲穂も風に棚引いて揺れる。まるで私に頭を下げているようだった。


「もう三十数年か……」
 私は棚田の一番下まで来て川辺で水を汲むと、一口でそれを飲み干した。
「妹紅、今どうしているだろうか」
 下から見上げる棚田は黄金色に棚引き、豊穣そのものを訴えかけて来る。立ち並ぶ家はいずれも新しく、白木が眩しい。
 ここは高城合戦の後に廃集落と化していた場所。妹紅を引き連れて来たところで、あの黒木攻めの時に死んだ未亡人と出会ったところ。私――田北弥十郎統員(むねかず)にとっては思い出の地に他ならない。あの時私は妹紅とこの川辺にやって来て、鎧を持って行く未亡人と挨拶を交わしたのである。
 私は川辺に座り込んだ。この川辺は何一つとして変わっていない。酷く荒れていた廃集落が、あの未亡人の遺児を筆頭とする村人たちの開墾によって新集落となっている以外、何も変わりはしない。でもあの時此処に座っていた青年武将・弥十郎は、白髪の生えた中年の庄屋になってしまった。もう槍を振り回すことも田北の里を駆け回ることもできない。
 そう思うと、自分の小ささを私は感じるのだ。自分も周りもこんなに変わってしまったのに、田北の里の自然は全く変わっていない。

 さて、と私はふとあの頃のことに思いを馳せた。まだ若くて懸命に生きていた頃のこと。どんどん流れて行く時代の中で溺れないようにしていた頃のことだ。
 妹紅という人が現れたのもあの頃。最初の出会いは確か不審者の謁見だったか何だか。もう詳しくは覚えていないけれど、確か湖左に聞いた間者の見破り方なんてものを実践してみた気がする。
 そう、その後いろいろあって黒木にも同陣したはず。そして彼女はそのまま消えた。何を見たのかはわからないけれど、きっとおぞましいものを見たのだろう。でなければああやって勝手に消えてしまうような人ではなかったはずだ。

 はた、と私は思い至った。あの悲惨な黒木攻めに参加した人間は、気付けば私だけになってしまったのだなぁ、と。考えてみれば、あの黒木攻めを境目に物事は大きく変化したように思える。今思うと、おそらくあの事件以降一気に時代は動いていったよう。とするならば、やはりあの黒木攻めは皆の運命の分岐点であったのではないだろうか。


 落城時に父の首を投げたあの娘は、生捕にされたあと姉の嫁ぎ先である高良山別当の所へ送られた。その後、龍造寺氏の後継である佐賀藩の藩士・大木某と結婚したと言う話だった。彼女が一体どういう思いを持って生きていたのか、ということが私には全くわからない。彼女が幸せになることができたのかどうかということは分からないのだけれど、私としては、やはり幸せになっていて欲しいと思ってならない。彼女をあんな境遇に追いやる片棒担ぎをしておいて言える義理ではないのかもしれないけれど、それでも彼女があの悲劇を引きずって生き続けたと私は思いたくなかったのだ。

 道雪どのが亡くなったのは、それから僅か一年後の天正十三年長月十一日。黒木攻めのあと少しして豊後に私たちが帰り、その後筑前軍4500を率いて筑後を転戦していた間のことだった。享年は73歳であったと言う。

 私の実の叔父にあたる高橋紹運は、道雪どのの死から一年たった天正十四年文月に壮絶な戦死を遂げた。大友家攻略を狙って北上してきた島津軍20000を僅か763名で岩屋城に迎え撃ち、島津軍に多大な犠牲を強いながらとうとう玉砕したという。763名一人たりとも生き残りはしなかった。

 天正十四年神無月、島津軍は豊後侵攻へと着手。島津家久以下15000が日向から、島津義弘以下25000が肥後から進軍し、豊後は大混乱となった。島津軍の中に降伏する者は多数おり、また降伏しなかった者もとても抵抗し得ずに死んでいった。
 この中で、義理の叔父にあたる田北宗哲は死んだ。田北の里を守っての戦死だった。また田北一族の田北鎮利(しげとし)は島津方へと裏切った。黒木攻めの指揮官だった朽網(くたみ)宗暦どのは、80を越える高齢ながら刀を取って居城へ籠城するも、籠城中に病死なされた。
 そんな状況において名を挙げたのが湖左だった。湖左は島津義弘以下25000の軍に対して岡城での籠城戦を敢行。わずか1000の手勢ながら島津軍を翻弄し、とうとう城を守りきったのだった。

 さて本来ならば田北の里で防衛戦を行うはずの私はそのころ、豊後南端の佐伯にいた。大友家の命によって私は手勢を引き連れ、佐伯・栂牟礼(とがむれ)城の援護へ行っていたからである。またもや田北の里を守ることができないばかりか、無理な負担を掛けることになったと随分悔んだものだ。それでも田北に大友へ反抗する力はないし反抗する気もなかったから、泣く泣く老人と子供しかいない軍を引き連れて佐伯へ行った。
 栂牟礼城の城主は佐伯太郎惟定(これさだ)。佐伯家は大友の中でも外様の家臣になるから、おそらく私は監視のために派遣されたのだろう。とはいえ、太郎は昔からの朋友であったから彼が裏切るのではないかと言う心配はあまりしていなかった。
 結局私は幸運だったと言わざるを得ないと今では思っている。太郎もまた大友家随一の才人であった。彼は佐伯へ攻め込んできた島津軍を次々と峠道で撃破。島津軍を佐伯へ侵入させないばかりか、佐伯を無視して北上した島津軍の後背を攪乱して、島津軍へ少なからぬ損害を与えたからだ。私は彼の言うことに従うばかりだったけれども、その結果として島津に踏みにじられずに済んだ。
 もし私が自分だけで田北を守ろうとしても、きっとこのように上手くは行かなかっただろう。せいぜい島津の攻撃を支え切れず戦死するか、諦めて降伏していたに違いない。その点、太郎と共に戦ったのはやっぱり幸運だった。

 天正十五年になると中央の豊臣秀吉が大友を援け島津を潰すために九州征伐を発動。豊臣軍200000が九州へ殺到し、島津軍はあっという間に敗北・降伏した。そうして豊後は再び大友家のものとなる。
 そうして大友家内の裏切り者は処罰されることになる。田北一族の裏切り者・鎮利は私が直々に切腹させた。彼の御蔭で田北の里は戦場にならずに済んだのだったけれども、それでも大友家には逆らえなかった。大友本家には天下人が背後に居るのだから。

 天正二十年、秀吉の命によって朝鮮へと出兵することになった。大友氏にも命が下り、私も田北兵を率いて朝鮮へと渡った。天下は太平となったはずだったのにまだ田北の人々に無理を強いている。自分の不甲斐なさに唇を噛んだことを今でも記憶している。それでも行くしかなかったから、涙を飲んで海を渡った。
 そうして私の人生で最も大きな事件は起こった。朝鮮で無断に退却したとの咎めにより、大友家は豊臣秀吉によって改易されてしまったのである。そうして道雪どのや紹運どのや宗哲叔父や、皆が命を掛けてまで大友家を守ろうとしたその努力は、老人の一言によって全てが水泡に帰した。

 私の知る限りそれは退却しなければならない情勢だった。平壌近くまで進撃した我が国の軍は、突如として現れた明の援軍に襲われていたのである。大友軍より北に布陣していた小西行長どのの軍は既に壊滅していて、いつ大友軍に攻めてくるかわからなかった。数は圧倒的であり、その上勢いに乗る明軍には敵わぬ、と大友軍の誰もが判断をした。だから大友軍は撤退したのだ。
 けれどもそれが"卑怯だ"と咎められたのである。もはや天下人のコマでしかない大友家にはそういう戦略的判断なんて必要ないのだった。私は改易を聞いた時、余りにも無情な出来事と悲嘆したものだ。

 かくて旧大友の家臣団は離散することになった。大友家の豊後はバラバラに分割して豊臣直属の家臣に与えられることになったのである。それからの行き先は人さまざまである。
 私の従兄・立花左近侍従宗茂(最も、当時は統虎を名乗っていたが)は、これより先に柳川を与えられて柳川藩主となった。宗茂は紹運叔父の実の息子であるが、道雪どのの養子となって立花家の家督を継いでいた。二人の名将から目を掛けられるだけあって、おそらく大友家臣の中で最も才のあった人だと思う。
 私の命の恩人である佐伯太郎惟定は、藤堂高虎の家臣となった。
 私の兄・吉弘加兵衛統幸(むねゆき)は、従弟・宗茂の元で家臣となった。
 そして私の親友の湖左は、どこかへと消えた。このころ伴天連(宣教師)追放令が出ていたこともあって、キリシタンに対する圧力が強まっていた。やがてキリシタンが迫害される未来を見ていたのかもしれない。ふらりと屋敷にやってきた湖左と酒を酌み交わしたのが、最後のやりとりだった。それ以来、彼はこの世界のどこかに埋もれた。はたしてこの国にいるのか、どこか海の向こうに渡ってしまったのか、今生きているのか死んでいるのか、それすら、もうわからない。
 皆が散らばっていく中、私は武士を辞めた。私は大友家の崩壊を機に宮仕えを辞め、田北の城を出、田北の里に一軒の家を構えて庄屋となった。元々田北の里の農業生産の管理をし、年貢を集め、田を守っていたのだから、庄屋とやっていることは変わらない。変わるのは、帯刀できるかどうかというくらいなのだ。
 私は凡人である。自分の力量くらい自分でも分かっているつもりだ。もし宮仕えをしても田北の里を守って行ける自信はない。おそらく、田北の里を離れなければならなくなってしまうだろう。そんなことになるのだったら、武士を辞めねばならなかったとしても、この田北の里で力量に合わせてのんびり生活するのがいいのじゃないか、と私は思ったのだった。

 そんな私へお構いなしに時代は進む。秀吉が死ぬと徳川内府が天下を狙って石田光成と対立。関ヶ原合戦となった。これは各地で石田方西軍と徳川方東軍との争いを引き起こした。
 この豊後も例外ではない。豊後の諸大名はそれぞれ西軍に属いたり東軍に属いたりした。けれども最も大きい出来事は大友家復興運動である。最後の大友家当主となってしまった大友義統(よしむね)さまは、西軍方毛利家の援助を受け、旧大友家臣団を集めて豊後へと上陸した。西軍が勝った暁には大友家を復興させようという計画だったらしい。
 私はもう武士になることを望んでいなかったし、大友家が復興すればいいとも特に思っていなかったから、参加しなかった。大友家が復興したって、田北が平和になるとは限らないことはこれまでの経験から痛いほどよく知っていたから。
 でも兄・吉弘加兵衛は違ったらしい。従弟・立花宗茂の家臣として仕えていた兄上は大友家復興の話を聞くと真っ先に参加したという。生粋の大友家臣として忠誠を尽くしてきた兄上らしい行動である。
 けれども豊後奪還はならなかった。東軍に従った豊前・中津城主の黒田如水が豊後平定を企図して侵攻。西軍方である大友軍を攻撃したのである。大友軍と黒田軍は別府で激突し、大友軍は壊滅した。
 その乱戦の中、兄上は戦死した。槍の名手として奮戦したが、井上之房という敵方の槍上手の前に敗れ去ったとか。兄上は私よりよほど槍が上手いし、小さいころは槍の練習の度に打ち負かされ、泣かされていたものだ。大友家でも槍の名手として名を馳せた兄上が戦死するというのはすこし考えにくかったけれども、でも兄上は槍で負けたという。世の中とはわからない。
 その後、かつて兄上が居城としており、この時兄上の家臣や家族が拠っていた国東の屋山城が攻撃された。湖左の妹でもある(あによめ)は城が守れぬと悟ると、兄上の子供共々自害したという。私の出身である吉弘家は此処に絶えてしまった。

 今でも時々私は思う。どうしてこの時、私は兄上を助けに行かなかったのかと。私は確かに田北の家の当主だが、生まれは吉弘家だ。もし自分の実家が危機に曝されたなら、もし自分の兄が大変なことになっていたら、助けに行くのが道理ではなかったのだろうか――。
 それでも私は兄の元へ行かなかった。義姉上が城で自刃したときも私は、田北の里でのんびり暮らしていた。それこそが、田北の里を守る一番の方法だと信じて。
 つまり、私は田北の里と兄とを秤に掛け、兄を捨てたのだった。そういう意味で、私は芯から田北の人間になり果てていたのかもしれない。ある意味望んだことではあったが、それでも兄のことを思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 また、従弟である立花宗茂は西軍につき従って改易され、京で浪人生活を始めた、という。道雪どのと紹運叔父の薫陶宜しく、九州でも朝鮮でも圧倒的な力を見せつけ、故に西国無双と称された宗茂も、徳川という巨大な勢力の前には為す術もなかった。

 こうして兄上とその家族を踏みつぶし、宗茂をどん底へと蹴落として、徳川幕府が成立した。

 ところで、私は田北家の婿養子である。だから当然妻は田北家の娘であるが、その従姉妹が日向飫肥藩主・伊東祐兵の正室であった。その関係で私が武士を辞めると妻は娘の雪江を連れて飫肥へと赴いた。武士を辞めて妻や娘を養えるかどうかわからなかったから、一時的に妻へ離れていてもらったのだ。その時にどうやら雪江は見染められたのか、飫肥藩家老・稲津重政という男に嫁いだ。
 その後私が田北の里で暮らせることが分かると妻は帰ってきたけれども、雪江は飫肥藩家老の妻として暮らしていた。

 しかし関ヶ原合戦後、飫肥藩で内紛が勃発。稲津重政は巻き込まれ、居城の宮崎城を攻撃されて敗北し、自害した。この事件の中で、夫と共に雪江も自害したと言う。まだ20才にもならぬ新妻の身のまま。

 この報を聞いた時、私は珍しく泣き崩れた。紹運叔父が玉砕したとか、宗哲叔父が戦死したとか、兄上やその家族が死んだとか、たった10年ほどの間に近しい人は次々と亡くなっていったが、泣くようなことはなかった。彼らは自らの志を持って斃れて行ったのだから、それに泣くのは失礼だとおもったのだ。
 けれども、雪江が自害したということには耐えられなかった。結婚したときに見た嬉しそうな晴れ姿を思い浮かべると、とてもやりきれなかったのだ。今でも雪江の事を思い出すと、胸が詰まる。
 雪江の自害の話を聞いて、少しだけあの黒木家永の気持ちが分かった気がした。娘を死地に置いてしまった彼の無念さ・やるせなさはこのようなものか、としみじみ感慨を持った記憶がある。あまり分かりたくないことではなかったが。

 こうして気付いた時には、近しい人の中で生き残っているのは数少なくなっていた。黒木攻めに参加していたのはもはやとうに私だけとなっている。他に命の恩人・佐伯太郎惟定が藤堂藩の家老として、従弟・立花宗茂が将軍の近習として勤めているくらいだ。
 そして今年、元和三年水無月九日。太郎――佐伯惟定が藤堂藩家老として津で亡くなったと言う。今日はその四十九日。いよいよ生き残っている者は減ってきた。


 そう考えると、私はとても不思議でならない。黒木攻めの時、大友家に居た時、私の周りに居た人間たちは誰も彼も私よりも遥かに才もあれば容貌も優れた者ばかり。私如きがとても敵わぬような者ばかりだ。既に老年に達していた道雪どのや宗暦どのならばわかる。だがまだ先も長い筈の紹運叔父や兄上まで死んでしまったのはどういうことだろう。湖左がどこかへと消え失せてしまったのはどういうことだろう。娘までも死んでしまったのは、どうしてだろうか。
 一方で私はまだこうして生きている。様々な人の助けを受けながら、気付いたら髪が白くなるほどにまで長生きしてしまった。あれだけの人物が揃っていた中で長生きできているのが、どうしてこの凡人の私なのか。未だにそれが不思議で不思議でならないのだ。

 ふと、私は妹紅に思いを馳せた。世の中がこれだけ変わってしまった。彼女はまだ生きているのだろうか。きっと生きていれば私と同じくらいの中年にさしかかっているはず。元々髪は白かったから、より一層美しくなっているかもしれない。
 妙に達観しているくせに、どこかで幼いと言えるほどの純粋な希望を持っていた彼女。あの黒木の悲劇を見た後、彼女はどこに消えてしまったのだろうか。

 もう一度だけでも良いから、私は妹紅に会いたかった。親友のほとんどが消えてしまった今、対等に話せる相手として再び彼女に会いたい。一緒に居た期間はわずかであったけれども、彼女の声も姿も未だに忘れはしない。それだけの荘厳な雰囲気を纏った女性であったのだから。そしてまた他愛もない話をして、下らぬことで笑い合いたい。教養を持つ彼女と再び語り合いたい。
 でもきっと、それは叶うまい、とどこかで分かっていた。これだけ荒れた世の中なのだ。孤高に生きていた妹紅が助けもなしにこの世の中を生き延びられたとは思えない。既にどこかの土と化しているような気がするのだ。


 よいしょ、と私は腰を上げた。空は青く、稲は黄色く棚引いている。こうして親しい友人や親戚が死に絶えてしまったけれども、私にはまだやることがある。私がずっと守ろうと努力し、けれどなかなか守れなかった田北の里が、私の手には残っている。
 私は自分の屋敷に向かって歩き始めた。数多くの犠牲を撒いて、戦乱はとうとう終わりを告げた。もはや田北の里を壊すものは何一つ存在しない。私の望んでいた、平和な田北の里が漸く目の前にある。皆が憂いなく稲作りに勤しむことのできる田北の里が。

 私は、空を見上げる。黒木の城を落としたあの日に見た透徹した蒼穹が、田北の里を見下ろしていた。






――田北弥十郎統員がその後どうなったかは、誰も知らない。
  けれどもきっと、彼は豊かな田北の里で穏やかに暮らしただろう。
  そう信じたい。







 こちらまでお読み下さり本当に有難うございます。もはやこちらは東方ファンの来るところというより、歴史好きのみなさんが来る所でありましょう。
 さて、拙作『黒き海に紅く』は衣玖の物語であります。衣玖たち妖の物語であります。決して、大友家臣や黒木氏の物語ではございません。
 その点で、この弥十郎に関わる後日談は蛇足に過ぎないでしょう。オマケですらありません。
 しかし、この後日談があるとないとで『黒き海に紅く』という作品の色は少し変わるかもしれません。黒木攻めに参加していた人間がどういう結末を向かえていったのか。このことはこの作品の印象をガラリと変えてしまう気がします。舞台の人間たちの色が変わったわけですから。
 とはいえ、これはやはり自己満足に過ぎません。これは所詮、舞台装置の設定を記したに過ぎないのです。

 ともあれ、物語は幕を閉じます。もはや作者の自己満足に過ぎぬところでございますので、幕は疾く引くに限るでしょう。
 改めて、ここまで読んでいただいたことに御礼申し上げます。


 さて、最後になりましたが参考文献を提示致します。

吉永正春『筑後戦国史』海鳥社
  黒木攻めについて手っ取り早く知りたいならこの本を是非。

田北学編『編年大友史料 併大分県古文書全集26・32・33』自費出版
  大友家の史料を翻刻し、年代順に並べた本。大友氏について本格的に調べる時にまずこの本から。

黒木町史編纂実務委員会編『黒木町史』黒木町
  黒木の歴史を調べるならこれ。ただし、黒木攻めの話はそこまで詳しくはない。

直入町誌刊行会編集委員会『直入町史』直入町
  田北の歴史はこの中に。ただし、弥十郎の話はほとんどない。

角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典40・44』角川書店
  40福岡県、44大分県を利用。黒木ならびに田北についての記述あり。

山本大・小和田哲男編『戦国大名家臣団事典・西国編』新人物往来社
  戦国大名の家臣を大名ごとに挙げる。弥十郎についての記述の他、様々な人物を収録。

大分縣史料刊行會編『大分縣史料』大分縣史料刊行會
  大分県の史料を翻刻し、まとめたもの。しかし大友氏治世下については上記の『編年大友史料』の方が見やすい。

金谷治訳注『荘子 四』岩波文庫
  御存じ荘子の内、最も人口に膾炙する岩波文庫版。最後の訳文は当本に拠った。

 他、様々な書を利用致しましたが、おおよそこのような感じであります。
 興味があるならば、お読みになると良いかもしれません。


解説書きました。ここからどうぞ