北千島も北端に位置する幌筵島となると、夏の晴れ間はとても珍しい。霧が島を覆うからだ。
 だからこそ、こうした霧の晴れた日は、散歩をする。それが磯風の楽しみの一つ。晴れやかな空を享受できる貴重な機会なのだから。

 そんな浮かれた気分は、談話室の扉を開いた瞬間に、悉く吹き飛んでしまった。

 暖炉の前で安楽椅子に揺られる翔鶴さんは、いつも通りぼんやり窓の外を眺めている。それだけ見れば、束の間の北千島の夏を、楽しんでいるようだ。
 しかし、他の皆が部屋の隅に固まっているとあっては、事情が変わってくる。いつも明るい利根さんも、今日ばかりはうつむき気味。伊勢さんさえも、静かに周りを見回しているばかり。おかげで、空気が妙に張り詰めている。薪の弾けるぱちぱち、という音だけが響く。
「おや、えんし……」
「磯風、こちらに」
 その故を問おうと口を開きかけたところで、腕を取られて引っ張られた。しばしたたらを踏んで振り返ると、不知火姉さんである。その無表情の裏に、余計なことを言うなと言いたげな色を出していた。




 ――艦娘達のテンダネス――




 そのまま磯風は、駆逐の溜まり場こと、九水戦――第九水雷戦隊の部屋まで引きずられる。当然これまで誰もいなかった部屋。暖房も入っていないので、部屋の空気がひんやりしている。
「それで、なんだ、あれは?」
 扉を閉めたのを確認してから問うと、不知火姉さんは机の上に腰掛けた。
牟知(むしる)海峡まで行ってた皆が帰ってきたのよ」
「そりゃ、翔鶴さんや利根さんがいるのを見ればわかる。聞きたいことは、そこでどうなったんだ、って話だ」
「不知火も、大した話聞けたわけじゃないのよ」
 と言いながらも、不知火姉さんはおおよその状況を掴んでいるようだ。促してやると、再び口を開いた。
「ほら、今回は年萌(としもえ)の一航戦との合同演習だったでしょ。それで、どうやら惨敗したみたいなのよ」
「そんなもの当たり前じゃないか。勝ってしまった方が問題だろう?」
 赤城・加賀・瑞鳳の三人を中核とする第一航空戦隊は、この国の誇る最精鋭の機動部隊。長く択捉島年萌の第二艦隊に配属されており、北方の守りの要だ。
「負け方の問題よ。なんでも、会敵から40分で壊滅させられたらしくてね」
「指揮は榛名さんだったか?」
 ここの提督は、元艦娘。そのときからの流れで、みな彼女を榛名と呼ぶ。
「榛名さんは、おとといから叢雲と公用で留別(るべつ)行ってるじゃない。大淀さんよ、指揮は」
「そうか、それは珍しい。相手が誰だったかにはよるが、大負けはしないひとだろう?」
「だから驚いてるのよ。いくら相手が航空戦力で圧倒しているとはいえ、こちらは第二戦隊も動員してたでしょう?」
 不知火姉さんも、どうして大敗したかは知らないらしい。
「響か秋月に聞きたいところだが」
「響は、今日の夕食当番だって、厨房。秋月は演習後の記録整理に行ってるわ」
「そうか。そりゃ、仕方ない」
 ふう、と息を吐く。
「それで、なぜ翔鶴さんを皆が避けている?」
「なんか、怒ってるらしいわ」
「翔鶴さんが?」
 俄かには信じがたい話。
「空母同士ならともかく、艦隊指揮について何か意見するひとではないだろう?」
「まさに、空母同士で、何かあったらしいのよ。詳しくはこの不知火も聞いてないけど」
 不知火姉さんが顔を寄せてくる。あまり公言すべきことではないらしい。
「どうやら、龍鳳さんがだいぶ派手にやっちゃったらしくて」
「それで、翔鶴さんが?」
「というより、加賀さんが怒ったらしいわ。呼び出しでお説教されたみたいよ」
「加賀さんか」
 加賀さんならやる。あの人は鬼教官だと評判だ。
「龍鳳さん、演習から帰ったらすぐ自室に引き籠っちゃってて。そうとう何か言われたんじゃないかしら」
「空母は、上下関係厳しいからな」
 上には敬語、常に礼を欠かさず、身の回りにも気を使え、と厳しい空母と、わいわい子供感覚で騒いでいる駆逐艦と、大きな差だ。
「しかし、それじゃ翔鶴さんは、加賀さんに怒られたから機嫌が悪いのか?」
 そういう性格とも思えない。
「そこがサッパリわからないのよ。響か秋月に話を聞ければ良いのだけれど」
 不知火姉さんは首を振る。
「夕食後が狙い目か」
「そうね。とりあえずいまは、触らぬ神に祟りなし、というところ」
「なんだかやたら厄介だということはよくわかったよ。ありがとう」
 磯風の溜息にあわせて、不知火姉さんも溜息をつく。全く、空気が重いのは嫌だ。短い夏の一日が勿体無いじゃないか。



 夕食の時間に至って、艦隊の空気の重さは顕著であった。いつもなら、賑やかとまでいかずとも、幾分会話の弾む時間のはず。が、殆どのひとが無言。唯一、伊勢さんと日向さんとが、二人でボソボソ会話しているだけ。龍鳳さんと大淀さんとが姿を現さないことに、不知火姉さんの言うことが真に近いと感じ取れる。
 その状況で駆逐艦が話をできる状況でもない。四人で、なんとなく静かに箸を動かすばかりだった。響の作ったボルシチは、本当なら美味しいはずなのだが、味がまるでわからない。

「不知火、磯風」
 場の空気を震わせたのは、おおよそ皆が食べ終わった辺りだった。思わず、不知火姉さんと顔を見合わせる。
「申し訳ないけれど、龍鳳と大淀のところに、食事を持って行ってあげてくれるかしら?」
 他でもない、翔鶴さんの言葉。
「お願いできる?」
「はい、わかりました」
 淡々とした口調に、磯風も不知火姉さんともども、思わず承諾していた。
「ありがとう。よろしく頼むわね」
 それだけ述べると、翔鶴さんは席を立つ。磯風は、ただその後ろ姿を見送るしかなかった。

「えっと、どうしよう?」
 珍しく、不知火姉さんが困惑している。確かに、あまりに突然で、どうしたら良いのか。
「不知火、磯風。私からもお願いしよう」
 助け舟を出してくれたのは、日向さん。
「いない二人分の膳は既に分けてあるからな。それを二人のところに持って行ってくれればいい。お願いできるか?」
 今更、嫌ですと言うこともできない。不知火と二人、はい、と述べるだけだ。
「膳のある場所は響に聞いてくれ。済まないが、頼む」
 日向さんは軽く頭を下げて、部屋を出て行ってしまう。
「こっちだよ」
 こうなると、二人して響の後について行くしかなかった。



「ねえ、響?」
「なんだい?」
 スタスタ歩く響に、不知火姉さんが話しかける。
「響は今回、龍鳳さんの隣にいたのよね?」
「ああ。今回は六航戦の護衛だったから」
 六航戦――第六航空戦隊とは、この第五艦隊に所属する戦隊。翔鶴・龍鳳・秋月の三人から構成される。
「何があったの?」
 そうだな、と響はしばし黙った。表情は見えないが、言葉を選んでいるようだ。
「簡単に言えば、翔鶴さんに気を取られていた龍鳳さんが、対処を間違えたというところかな」
「対処?」
「今回は最初に向こうに気づかれたんだ。それで焦った龍鳳さんが、発艦態勢に入ってしまって」
「止まったところを、艦載機に襲われた、と」
 空母の艦娘は、止まらないと艦載機を発艦させられない。弓にしても符にしても然るべき作法が必要だからで、ここは普通の艦船と違うところだ。
「そう。発艦自体にも手間取った龍鳳さんは、会敵から15分で撃沈。付き添いの私もそれから4分で撃沈判定さ」
「それはお疲れ様ね」
「疲れてないよ。対空砲撃つ暇もなかったからね」
 折角秋月にコツ教えてもらったのに、と。響はやや不完全燃焼気味らしい。言葉の皮肉に、苛立ちがある。
「しかし、響。先に、"翔鶴さんに気を取られ"と言ったな。それは、どういうことだ?」
 不知火姉さんについで、磯風も問うてみる。
「ああ。ちょうど昨日くらいから、翔鶴さんの体調がいまいちなの、と龍鳳さんは気にしていたんだ。あ、二人分のお盆これね」
 喋りながら、響はお盆二つを指さす。このお盆、上においておけば料理が冷めない、という無駄にハイテクなお盆である。仕組みは知らない。
彩帆(サイパン)の時の傷か?」
 不知火姉さんと二人で一つずつ持ちながら、話を続ける。
「みたいだ。翔鶴さんは一言も言わないけど」
 翔鶴さんは、昨年六月の彩帆島奪還作戦で大破、本人も重傷を負っている。その時の傷が、いまでも翔鶴さんの体を蝕んでいるらしい。
「翔鶴さんは、正規空母なんだし、練度も高い。本来なら瑞鶴さんと一緒に横須賀でもおかしくないわ。それなのに、こんなところで島の護衛航空隊やってるのだから、やっぱりあまり体調よくないのよ」
 不知火姉さんの言葉に、深く頷く。復帰後すぐ、こちらへ回ってきたというのは、つまりそういうことだ。
「それで、実際のところ、演習ではどうだったんだ?」
「調子が悪い素振りは特に見せなかったね。事実、演習終了まで立っていたのは、逃げ切った翔鶴さんだけだったし」
「逃げ切ったのか……」
「中破判定だったけどね」
 殺到する一航戦の艦載機から逃げ切るとは、やっぱり正規空母は伊達ではないらしい。
「翔鶴さんなら当然よ。それより気になるのは、そんなことで翔鶴さんが怒るのか、ということだけど」
 当然だ、と一言で言えるような業ではないと思うのだが。その辺り、不知火姉さんは翔鶴さんをたいそう高く買っているようだ。
「うん、怒ってたみたいだよ」
「それは、意外ね」
「ええと、怒ってた、というと語弊があるかもしれない。本気で怒ってたのは加賀さんの方で、翔鶴さんは、龍鳳さんにいくつか失敗を指摘していただけ」
「加賀さんは怒ったんだな、やはり」
「そりゃもう。いきなり手が出そうだったよ。慌てて赤城さんが止めてたけど」
「うわぁ……」
 加賀さんも普段冷静そうに見えて、空母に対してはすごく厳しい。それは、磯風たちでさえ知っている、周知の事実だ。
「加賀さんが怒るのはそう不思議でもない。だが、翔鶴さんがそういう意見をいう人だとは、あまり思わなかったが」
 なにせ、いつも静かに安楽椅子へ揺られている人なのだ。話し方もおっとりしているし。
「普段は静かだけど、空母の演習では厳しいことを言うって。前に瑞鳳さんが、年萌で会った時に言ってたわね」
「私も、以前留萌で瑞鶴さんにお会いした時に、翔鶴姉は怖いよー、と仰ってたのを聞いたことがあるね」
 だが響と不知火姉さんがそういうなら、間違いないのだろう。いつも安楽椅子に座って窓の外を眺めている翔鶴さんからは、とても思いもよらない言葉であるが。
「でも気になるのだけど、結局龍鳳さんはどんな風に怒られたの?」
「加賀さんが何を言ったかは、反省会が艦種別だったからわからないよ。私はもっぱら向こうの水雷戦隊と一緒になって、夕張さんに締められてたからね」
「神通さんよりはマシ、かしら」
 神通さんは、磯風たち九水戦の旗艦。直接の上司にあたる。
「まあ、そうだったよ」
「あら、神通さんね」
「Эва?!」
 唐突な不知火姉さんの声に、響は慌てた様子で辺りを見回す。そりゃ、この話を神通さんに聞かれていたら、ただでは済まない。
「いないから安心しろ。全く、不知火姉さんもからかうなよ」
「なんのことでしょう?」
「まったく……。不知火は真顔でいうから、冗談と本当の区別がつかないんだよ……」
 ほ、と響は胸を撫で下ろす。そりゃ、神通さんは怖いのだ。
「ええと、それより翔鶴さんだっけ」
「ああ。なんて言ってたんだ?」
「ちょうど帰りながらだし、私は秋月と帰ってきたから、ちゃんとは聞けてないよ。ただ、ふとした拍子に聞こえたので、覚えているのは、『龍鳳、矢の取り方が違うのよ。ここから手を入れるのは、遅くなるでしょう? そこ、わかる?』って言葉かな。それが聞こえて、思わず秋月と顔を見合わせたよ」
「怖いな……」
 想像通り。おっとりとした翔鶴さんの声で、そんな風に言われるのは、身に堪える。ついでに言えば、響の声マネが結構上手かった。
「その後も、だいぶ厳しい言葉をかけていたみたいだよ。近くにいた利根さんは怯えてたくらい」
「空母はやっぱり怖いわね。龍鳳さんもわざわざ転向したのに、大変」
 龍鳳さんは、空母になってちょうど1年くらいではなかったか。
「全くだよ。あ、私はちょっと用事があるから、ここで」
 響は立ち止まって、こちらに振り向いた。
「今日も留萌に電話?」
「しないと雷が怒るんだ」
 少し恥ずかしそうに帽子をいじる響。でも、少し嬉しそうだ。
「いい妹じゃないか。それじゃ、またな」
「また後ほどね」
「Ну, пока!」


「で、問題は、どちらから行くか、だな」
 響がいなくなった廊下で、私は不知火姉さんに問うてみる。
「二人なんだから、一人ずつ同時でいいんじゃないかしら?」
「それじゃ、不知火姉さんには、龍鳳さんを頼むな」
 にこやかな笑顔でそう告げると、不知火姉さんはやや固まった。
「そうね……。大淀さんのところから行きましょう。磯風はどう思う?」
 あ、誤魔化した。
「ま、まあ、それでいいんじゃないか?」
 下手なことを言うとやぶ蛇。ここは素直に従っておく。
「では、早速行きましょう」


「はーい、鍵掛かってないので勝手にどうぞー」
 想定通りというか、扉をノックするや、明るい声が帰ってきた。
「大淀さん、食事の時間ですが」
 扉を開けると、書類が広がっていた。大淀さんは軽巡であるが、部屋は神通さんの部屋より広い。艦隊指揮や、情報分析といった仕事も担当するからだろう。
 その広めの部屋が、書類の山に埋もれていた。部屋の中央にある小さな食卓も、それどころかベッドの上も、である。
「あら、そんな時間だったのね?」
 そして部屋の最奥。窓際に置かれた書斎机で、大淀さんがやっぱり書類に埋もれながら、なにか書きものをしている。
「やはり。大淀さん、食事の時間は皆で、というのがここの決まりですよ」
「ごめんなさい。全く気づかなかったわ。誰か何か言ってたかしら?」
 不知火姉さんの言葉に、大淀さんはハッと起き上がるや、書類を拾い集めて道を作ってくれる。
「特には、というか、そういう雰囲気ではなかったですよ、今日は」
「あら、そう。あ、お盆そこに置いておいて」
 不知火姉さんが、かろうじて出来た食卓の空間に、盆を置く。当の大淀さんは、書類をどかして椅子を発掘している。
「それって、今日負けたのが響いてるってことかしら?」
 椅子を持ち上げながら、大淀さんは問う。二人して返答に困った。また、顔を見合わせる。
「やっぱりそうみたいね。ホント、今回ばかりはいいところなしだったものね」
 あーあ、と椅子を置いた大淀さんは頭を掻いた。あっけらかんとした大淀さんに、どう返していいのか、言葉に悩む。
「あら、どうしたの? 二人して難しい顔して」
「いえ、その」
「大淀さんも、もっとショック受けておられるかと、思ったので」
 不知火姉さんも、相変わらず端的な物の言い方をするひとだ。
「気遣ってくれたのね。ありがとう」
 書類整理が一通り終わったのか、紙の束を書斎机に置くと、食卓に座る。
「でも、そこまででもないから、大丈夫よ。悔しいのは悔しいけどね」
 いただきます、と大淀さんは手を合わせて、手早く食べ始める。
「というのは?」
 もしかして、大淀さんの指揮には大過なかったということだろうか。そんな予測が頭をよぎる。
「演習だもの。それも相手は、はるか格上の一航戦。勝てないのは当然よ」
 あら、ボルシチおいしい、と述べつつ、答えてくれる。
「でも、大敗だったと」
 不知火姉さん、大丈夫だとわかったからって、本当ズバッと踏み込むなぁ。
「そうね。確かに、紛うことなく私のミスよ。演習で本当によかった」
「大淀さんのミス?」
「今回は、相手にこちらの動きを読まれたのよ。今回は分析されていたみたいね、私の性格が。おかげで手癖で指揮してきたってのを、痛感しちゃった」
 ふふ、と苦笑いする大淀さん。
「……それは、相手の作戦立案が赤城さんではなかった、ということですか?」
 赤城さんはそういうことをするひとではない。あのひとは、もっと直感で戦うひとだ。と、磯風は思っている。赤城さんの将棋の指し方が、そうだったから。
「そうね、今回は年萌鎮守府の作戦参謀が、後方で作戦立案・指揮をしてたみたい。なんてお名前だったかしらね……」
 ええと、と考える大淀さんだが、名前は出て来なかったらしい。わりとすぐ、きっぱり諦めた様子で、またこちらを見る。
「でも、そんなことを聞くということは、あなた達は別の所に敗因がある、と思っていたということかしら?」
 その勢いで、核心に踏み込まれた。
「龍鳳さんが、派手に失敗を……」
 動じることもなく、不知火姉さんが答えを返した。本当、このあたりの度胸は賞賛に値する。
「ああ、それ? そもそも、空母に艦載機を肉薄されている時点で、作戦ミスだから関係ないわよ」
 不知火姉さんと同じように、あっさりと大淀さんは答えた。
「肉薄されたときの反応については、私は空母でないからわからないわ。でも、そういう状況に追い込んだのは私だから」
「少なくとも、龍鳳さんが直接の敗因ではない、ということですか?」
「当然よ。発艦以前に空母が襲われた時点で、私のミス。だから、こうやって反省会をやってるわけよ」
 右手のスプーンで、書類の山を指す。どうやら、これまでの作戦記録のようだ。
「ね、一つお願いがあるのだけど」
「なんでしょうか?」
「あなた達、今から龍鳳さんのところに行くのでしょう?」
 大淀さんは、磯風の手にある盆を指差す。
「あ、はい」
「なら、気にしないで、って伝えてくれるかしら。無駄かもしれないけれど」



 気が重いが、大淀さんにあのように頼まれてしまっては、龍鳳さんの部屋に向かわざるを得ない。逃げようとする不知火姉さんに笑いかけてお願いし、ノックしてもらう。
「……」
「……」
 が、出る気配はない。
「どうする、磯風?」
「と言われても……。無理に開けるわけには、いかないだろう?」
「開けられるわよ、ここ」
 と、不知火姉さんは、ポケットから何やら怪しい工具を一本取り出した。いや、なんでそんなもの持ってる?
「いや、それは拙い。甚だ拙い」
「そうかしら? バレなきゃいいんじゃない?」
「あのな、不知火姉さん。ここは、軍施設だ。仮にも軍の施設で、それは」
「そもそも、この不知火が開けられるような鍵を使ってる方が悪いのよ」
「最近、ニュース見ているか? スパイ容疑で検挙されるものが軍内部にも増えているそうだぞ」
 国防保安法の適用が増えている、そんなニュースだった。"人類共通の敵"との終戦が近いと噂される中、早速人類の中の覇権を各国が争い始めつつあるらしい。
「不知火をそんな不逞なものと一緒にするやつ、沈めてしまえばいいわ」
「"瓜田に履を納れず"って知ってるか」
「瓜を盗むなら裸足で、でしょ」
「何言ってるんだ」
 相変わらず、妙なことをいう不知火姉さんだ。そこで、自慢気な顔をするな。
「……何を、しているんですか?」
「……あ、いえ……」
 あんまりに変な話をしていたからか、龍鳳さんの声が、扉の向こうから響く。
「夕食を、お持ちしました、けど」


「いただきます」
 無事部屋に入れてもらった磯風たち。なぜかベッドの端に座らせてもらう事になってしまっている。
「あ、あの?」
 空母の部屋だけあって、駆逐艦である磯風の部屋よりもだいぶ広い。調度品などこそ、備えつけの"無駄に高級な"ものであるが、例えばカーテンが薄いピンクだったり、それぞれ可愛く飾りつけてある。どちらかというとアンティーク調なこの艦隊司令部にあって、ファンシーな空間というのは、ちょっと不思議な感じさえする。
「龍鳳さん?」
 と、ウッカリ現実逃避してしまった。問題はそこではない。どうして、駆逐艦である二人が、空母である龍鳳さんの部屋で、如在無く座っていることになっているか。
「お二人に、ひとつ聞いてもいいでしょうか」
 そんな、微妙な表情を浮かべるしかない磯風たちの方に、龍鳳さんが向きなおる。
「なんでしょうか?」
「……私、やっぱり空母には向いてないのでしょうか?」
「……え?」
「私、今回も酷い失敗をしてしまいました。加賀さんにも、私は空母には向いてないから、やめた方がいいって言われて……」
 そんな問いに、駆逐艦の磯風たちがどう答えろ、というのか。ただでさえ一緒になって期間も短い。しかも水雷戦隊である磯風達と、機動部隊である龍鳳さんと、共同作戦に当たったことさえないのだ。
「あの、なぜ、不知火達に?」
「お二方とも、私より軍歴も武勲もずっと上と聞きましたから」
 戦艦や空母の方々には聞けないし、と、ポツリと呟いた。
「とは、言いましても、磯風たちは駆逐艦ですが……」
 不知火姉さんと二人、困り果てて口を噤む。
「でも、不知火さんは第五艦隊の最古参、温禰古丹(おんねこたん)海峡海戦でも活躍したと聞きました。磯風さんも長く留萌の第三艦隊におられて、海馬島沖海戦では単独で戦艦を沈めたとも。どうぞ、後輩への助言だと思って」
 そういう問題ではない。駆逐艦と空母の間には絶対的格差がある。
「お願いします。私、やはり潜水母艦に戻った方がいいのかしら」
 見ると、食事は全く進んでいない。龍鳳さんの潤んだ朱の瞳が、ただこちらを見つめている。
「……それは、私たちにはわかりかねるものです」
 絞り出すように、不知火姉さんが答える。
「まずは、翔鶴さんに聞くべきことでは、ないでしょうか?」
「翔鶴さんは、"向いてないと思うのならば、辞めればいいと思うわ。辞めたいのに続けられるほど、空母は甘くないから"と……」
 翔鶴さんも、もう少し言葉を選んでくれればいいのに。
「あなた達も、そう思いますか?」
 背筋に冷や汗が走る。そりゃ、辞めたければ辞めればいいと、ごく個人的には思わないでもない。が、話はそんな単純ではないはずだ。
「そもそも、龍鳳さんは、どこが向いてないとお考えなのですか?」
 ゆえに、やや話題をズラしてみることにした。
「だって私、発艦作業も一向にうまくならないし、頭も鈍いから判断も遅いし」
 龍鳳さんは、今にも泣き出しそうに述べる。
「そんなことはない、と思いますが……」
「加賀さんがね、仰るの。こんなに、上達が遅い空母はこれまでいなかった、って。そんなのろまで、空母が務まると思うのですか、って」
 そういう、甚だ答えづらいことを言われても、その、困る。
「今日の演習で負けたのだって、私のせいですから。もし、私があんなミスをしなければ、きっとあんな無様なことにもならなかったはずです」
「いえ、それは」
「だって、翔鶴さんは発艦させていたんですよ、既に。それなのに私は失敗したんです」
 響はそんなこと言ってなかったが……。
「私が失敗したせいで、響さんと秋月さんも巻き込んでしまいました。もし、そこで私が逃げられていれば、少なくとも2人は逃げられたはずなんです……」
「それについては」
 不知火姉さんが、続けようとする龍鳳さんの言葉を遮った。
「それについては、大淀さんから、龍鳳さんのせいではない、とのお言葉をいただいています」
「けど、」
「そもそも、発艦前の空母に敵艦載機を近づけてしまった時点で、戦術のミスである、と。そのように大淀さんが仰ってました。龍鳳さんが、そこを気に病むことはないかと」
 少し、不知火姉さんはいらついているらしい。クールな振りをして、結構感情の上下が激しいのは相変わらずだ。
「……でも、私がうまくやっていたら、戦況は」
「私見ですが、それは無理だったと考えます」
 ゆえに、変わって磯風が口を出す。
「あくまで一駆逐艦の見立てですが、発艦以前に敵艦載機に捕捉されている時点で、かなり厳しい情勢です。そもそも、相手は艦載機の数では圧倒しているので、相手に捕捉される前にできるだけ接近するのが、勝つには必須になります」
 文字通り日本最強を誇る一航戦の艦載機群を、数的不利でまともに迎え撃つのは不可能なのだ。
「ゆえに、先に発見された時点で、戦術的ミスなのです。艦載機の数からいえば、相手が二倍以上。どんなに龍鳳さんの練度が高かったとしても、キルレシオ2:1の維持が求められる状況は、作戦として破綻しています」
 大淀さんには申し訳ないが、そうとでも言わなければ、龍鳳さんは納得してくれないはず。そう思って、一気に喋ってしまう。一航戦を倒す手段はただひとつ。艦載機に発見される前に一点突破で肉薄し、混戦に持ち込むしかない。磯風ならそう考える。
「そうでしょうか?」
「不知火もそのように愚考します」
 それくらいのことは、冷静になれば龍鳳さんだってすぐわかる話のはずなのだ。
「でも、加賀さんは、もしあなたがちゃんとしていたら、って……」
 あ、話がややこしくなった。
「あのミスがなければ、って、そう仰ってたんです」
 それは、本当の意味で、なんとかなった"かもしれない"というやつなのではなかろうか? 当たり前の話だが、龍鳳さんが早く逃げていれば、発艦作業中に襲われるよりは、なんとかなる確率が高かっただろう。が、それはたとえば1%が1.5%になるとかいう、そんな話でしかないように思うが。
「うん、きっと私、もう加賀さんに見放されちゃったんですよ」
 そんな話をするより先に、龍鳳さんは違う方向へ突き進む。そちらは、崖しかないんだが……。思わず、不知火姉さんと顔を見合わせる。
「そうよ、たぶん、嫌われてるのよ。だから、私にだけ厳しいんです」
「……加賀さんは、そういう人ではないと、思いますが……」
 不知火姉さんの言葉に、私も頷く。加賀さんは、厳しく気難しい人ではあるが、そういう依怙贔屓をする人ではない、と思う。
「そんなことないんです、きっと。だって、あんなに怒るなんて、嫌いでなきゃ、ありえないですから」
「いえ、その」
 龍鳳さんの目からは、涙が零れている。これ、どうすればいいんだ?
「加賀さんは、龍鳳さんにあなたが嫌いだと、そう直接仰ってたのですか?」
「そんなことない。でも、きっとそうに違いないの」
 あ、不知火姉さんがすごく苛立ってる。
「えっと、加賀さんという人が厳しいというのは、駆逐艦の間でも有名なんです。それが普通の対応なんだと、思いますが」
 しかし、ここで不知火姉さんを爆裂させると、事情が数倍ややこしくなる。艦娘の上下関係は、そこまでうるさいわけではない。が、駆逐艦が空母を怒鳴りつけた、なんて話になれば、流石に問題になりかねない。一応、ここは軍だ。
「……そうなんですか?」
「磯風たちは、専ら水雷戦隊ですから詳しいわけではないですが、一航戦の護衛を担当している曙や潮は、よく加賀さんが厳しくて怖いと言っていると」
 そういう話を、雷電姉妹から響経由で聞いたことがある。どれだけ盛られているかは知らない。第一、あの毒舌の曙と泣虫の潮の話であり、しかもお節介で生真面目な雷電姉妹経由の伝聞とあっては、信憑性はお察しというところがある。
「でも」
「駆逐艦にだって厳しいのですから、空母に厳しいのは当然でしょう。特に、龍鳳さんにだけ意地悪をしているわけじゃないと、磯風は思います」
 龍鳳さんは、少し黙り込む。ようやく、少しはわかってもらえただろうか?
「それでは、磯風たちはそろそろ……」
 いくら磯風でも、この場では撤退が正しいと判断する。ゆえに、龍鳳さんが黙っている間に立ち上がろうと、そう考えた。
「それじゃ、私、翔鶴さんに嫌われてるのでしょうか?」
 が、それは龍鳳さんの次のセリフで遮られた。というか、そこで、そっちに行くのか?
「翔鶴さんこそ、そういう方ではないでしょう」
 不知火姉さんのボルテージが上がっている。声が怖い。
「翔鶴さん、凄く厳しいんです。加賀さんよりも、言うことが怖くて」
「……加賀さんよりも?」
 少し意外な言葉が出た。
「雰囲気はいつも通りなんです。でも、そんないつも通りの口調で、私の欠点を一つ一つ指摘するんです。凄く細かいところまで……」
 そりゃ確かに怖いかもしれない、と磯風もそれは同意である。我らが九水戦の旗艦である神通さんも、そういう指摘の仕方をする。演習の度に、真綿で首を締められるような気分になる。
「そもそも、あの翔鶴さんが怒ってるんですよ? あんなに温厚な翔鶴さんが」
「それはそうですが……」
「よっぽど、私のことが腹立たしかったんです、きっと……」
「それは、ないと思いますが」
 なんせ、あの翔鶴さんである。いつも穏やかに窓側へ座っている翔鶴さんが、人を嫌うというのはやや想像しづらい。
「でも」
「細かいところまで指摘された、とそのように?」
 少し苛立ちの漏れる不知火姉さん。しかし、翔鶴さんに嫌われた、なんて話には違和感が先に立ったようだ。
「そうですけど……」
「それは、龍鳳さんをよく見ている、ということではないでしょうか。もし、本当に嫌いなのであれば、そもそもそんな些細な欠点なんて相手にしません。頭から、それはダメだ、と言ってしまうものです」
「……そんなものでしょうか?」
 龍鳳さん、相変わらず泣き出しそうな顔である。
「少なくとも、不知火はそのように愚考します」
「でも……」
 どうにも、龍鳳さんはダメージを大きくしたいらしい。
「磯風達も、同じようによく神通さんに欠点を指摘されるのですよ」
 こうなったら、具体例で対抗するしかない。磯風が代わって答えた。
「神通、さん?」
「はい。九水戦が演習を終えると、いつも神通さんが細かい点、一挙手一投足までを見ていて、それの至らなかったところを指摘してくださるのです」
「くださる?」
「磯風はそのように思っております。神通さんは駆逐艦のことを思って、常に厳しく磯風たちの動きを見ている、と考えるからです。もし、神通さんが駆逐艦のことを嫌っているのならば、何も言わないで去るものでしょう」
 神通さんには、その点においてお世話になりっぱなしである。感謝してもしきれないほどだ。
「翔鶴さんも、それと同じではないでしょうか? 少なくとも、龍鳳さんの話からは、そのように聞き取れましたが」
 ようやく、龍鳳さんが少し黙って考え込んだ。
「そうなん、ですかね……」
「少なくとも、加賀さんや翔鶴さんに厳しく当たられたからと、やめようと考えるのは、早計ではないかと。もう少し、ゆっくり見極めたほうが」
 かなりギリギリな発言ではあるが、これくらいを言わないと、龍鳳さんは納得してくれない。そんな気がした。
「……はい、それじゃ、もう少し考えてみます」
 龍鳳さんは、元気なく一言。それを合図に、磯風たちは立ち上がる。
「それでは、失礼なことを度々申し上げまして、失礼いたしました」
「あ、いえ。こちらこそ引き止めてごめんなさい。いろいろ励ましてくれて、ありがとうございます」
 無理に笑おうとした龍鳳さんの顔は、とても力がなかった。



「不知火姉さん、いらついてるな」
 廊下をスタスタと歩いていく不知火姉さん。いつもより、幾分歩みが速い。
「不知火はいらついていません」
 ぷいっ、と不知火姉さんは一言。その態度が、苛立ってるというんだ。
「しかしあれ、どうしようか?」
「あれは空母の問題で、不知火には関係のない問題よ。辞めたいというなら、辞めればよいと思うわ」
 ばっさり。という言葉がふさわしい。とりたてて抑揚もつけないその言葉は、不知火姉さんの機嫌の悪さをよく示している。
「という問題でもないだろう? 磯風や不知火姉さんのような、駆逐艦とは訳が違う」
 磯風だって、龍鳳さん個人の問題であったなら、好きなようにすればよい、とそう思う。が、こと艦娘とあっては、そう単純でもない。
「そうかしら?」
「空母が辞める、なんて言い始めたら、艦隊も大騒ぎになるぞ。軽空母でも、戦略的価値は磯風たちとは桁違いだ」
 そう言うと、不知火姉さんはしばし難しい顔をした。嫌そうな顔、というのが近いかもしれない。
「……では、どうするの? 駆逐艦の不知火たちが口を出すには、問題がややこしすぎるわ」
「それはそうなんだが……」
「もう、日向さんに投げてしまえばいいんじゃないかしら?」
「日向さんは、榛名さんと親しい。それに榛名さんから、艦娘の取りまとめを託されていることを意識しているひとだ。少し話が大きくなる気がするが」
「そういうことを、バラす人ではないと思うけど」
「しかし、艦隊の運営を常に意識せざるを得ない人だろう? 空母一隻抜ける、という話となれば、嫌でも艦隊規模の問題になりかねない。日向さんはそこをわからんひとでもない」
「なら、磯風はどうすればよいと思っているの?」
「やはり、空母の問題は空母の中でまず解決してもらう必要があるんじゃないか?」
 そう告げると、不知火姉さんは、また微妙な表情を浮かべた。
「翔鶴さんに?」
「考えてみると、翔鶴さんが何を考えているのか、何も聞いていない。翔鶴さんが、龍鳳さんのことをどう考えているかが、一番だろう?」
「そうではあるけれど……」
「翔鶴さんの真意を、私も伺っておきたい気がするんだ。別に、不知火姉さんについてこい、と言うつもりはないよ」
 これまで、翔鶴さんというと、いつも穏やかに安楽椅子に揺られている。そんな印象しかなかった。しかし、今回の話を聞いてみると、そう言う人でもないらしい。
 ゆえに、磯風としては、翔鶴さんがどう言う人か、そんなことに興味を持ったのだ。
「龍鳳さんの言うような話では、たぶんないはずだ。だから、加賀さんや翔鶴さんの考えを、一度聞いてみたい」
「磯風も、変なところで変な興味を持つのね」
「何か、色々なものが見えるのではないかと思ってね」
 何より、相手のことを理解することは、戦場での判断を左右する。磯風は、そう考える。
「そう。では、不知火も付き合うわ」
「おや、珍しい。人には興味ないものだと思っていたが」
「それは、人のこと言えないわよ」
 それには、返す言葉もない。磯風は思わず苦笑した。



 談話室まで戻ってきた磯風たち。しかし、そこに広がるのは異質な空間である。
 十九時半過ぎ、夕食後だというのに、談話室には人が殆どいない。いるのは、相変わらず暖炉の前で窓の外を眺めている翔鶴さん。北千島の夏は、この時間にようやく日没というところ。きっと夕焼けを楽しんでいるのだろう。そうに違いない。翔鶴さんの白い髪が、赤い光に照らされて、儚さを際立てている。
 暖炉を挟んで反対側で本を読みふけっているのは日向さんだ。相変わらず、日本語ですらない、なんだか小難しい本を真剣に読んでいる。
 それから、部屋の隅に熊野さん。端末を弄っているのは、鈴谷さんあたりとやり取りでもしているのだろうか。
 微妙な空間だ。非常に、居づらい。この磯風にしても、大概人を気にしないが、これはきつい。テレビの一つでも着いていれば気が紛れるというのに、普段テレビに噛り付く伊勢さんや利根さんも、今日は影すら見せない。
「失礼します。日向さん、翔鶴さん」
 とはいえ、入り口に突っ立ってるわけにもいかない。やむなく、この張り詰めた沈黙を打ち砕く。
「おや、渡してきてくれたか?」
 四つの瞳がこちらに向くのを感じる。ピリッと、背筋が伸びた。
「はい。無事に渡して参りました」
 一瞬怯んだ磯風に続けて、不知火姉さんが説明してくれる。この程度で怯むとは、磯風も修行不足。
「そうか、ありがたい」
 日向さんが、少しだけ安心したような顔をして、そのように答えた。
「その……、二人の様子はどうだった?」
「大淀さんは、単純に忘れていただけだ、と。龍鳳さんも」
 チラリ、と翔鶴さんの方を見る。相変わらず、柔らかい表情を浮かべている。
「龍鳳さんも、特に問題はないようでした」
 ある、とは言えない。翔鶴さんだけだったら、良かったかもしれない。だが日向さんに、龍鳳さんは空母を辞めたいそうです、と言うのは、やはりまずい。それは先程確認したはずだ。
「そうか、それはよかった。ふたりとも、お疲れ様だったな」
「不知火、磯風、私からもお礼を言うわ。ありがとうね」
 翔鶴さんも、軽く会釈をしてくれる。
「いえ、ただの物運びですから」
「そう、ありがとう。今度埋め合わせはするわね」
 翔鶴さんは、そう言ってくださる。
「ありがとうございます」
 軽く頭を下げる。
「それで、早速なのですが、翔鶴さんにお頼みしたいことがあって」
「なにかしら?」
 不知火姉さんが、翔鶴さんに斬り込んだ。
「響から、翔鶴さんだけが今日の演習で最後まで沈まなかったと聞いたのですが、本当ですか?」
「ええ、そうね。たまたまよ」
「せっかくですから、今日の話をいろいろ聞かせていただきたいと思いまして。対空戦闘とかの、勉強になるかな、と」
 だが、不知火姉さん。たぶん、その方向は、ダメだと思うぞ……。
「そう? でもそれなら、そこの日向に聞いたほうがいいんじゃないかしら? なんせ日向は、回避技術については、日本一のスペシャリストよ」
 案の定といえば、案の定の答えが返って来た。
「えっと」
 不知火姉さんも困っている。
「そうよね、日向さん」
「ん? あ、ああ。伊勢ほどでは、無いがな」
 ちょっと困ったような顔を浮かべる日向さん。逆に日向さんが、何かを察知したらしい。
「でも、方法論としてまとめたのは日向さんでしょう。せっかくなら、私なんかより、そういう大家に習ったほうがいいと思うの」
 いや、そうじゃない。そうじゃないんだ、翔鶴さん。今回ばかりは、その笑顔が眩しすぎる。
「あ、えっと、そうだな……」
 あとは、日向さんに期待するしかない。不知火姉さんと二人、じっと日向さんを見つめる。日向さんが、目線を反らせた。
「うむ、えっと、スマンが、このあと、赤城と演習後の打ち合わせがあるんだ。申し訳ない。それに、不知火達が聞きたいのは、対空戦闘に限った話ではないんだろう?」
「は、はい。今日の演習でどういうことがあったのか、お聞かせいただきたいんです」
「どうか、お願いできないでしょうか」
 こうなったらヤケクソである。不知火姉さんと畳み掛ける。
「そう? 私でいいの?」
「いえ、今回は翔鶴さんにお話を聞きたいのです」
 詰め寄ると、翔鶴さんは磯風達二人の顔を見比べ、やがて頷いた。
「そう。私程度の話でいいならば、喜んでするわよ」
「ありがとうございます!」
 ニッコリ笑う翔鶴さんに、頭を下げる。
「翔鶴、すまんが、よろしく頼む」
「はい、わかりました。赤城さんにも、今日はお世話になりましたと、お伝え下さい」
「あ、ああ」
 日向さん、相変わらず目線が少し遠くを見ている。
「それでは、失礼します」
 日向さんにも続いて頭を下げる。
「ではな、また」


 廊下に出る。八月とはいえ、日が沈みつつあるこの時間には、一気に気温が下がる。築70年、重要文化財という素敵なこのレンガ造りの司令部は、断熱が非常に弱い。しかも夏場は物資不足故にセントラルヒーティングを切られてしまう。結果、夜になると廊下は、しんしんと冷えてしまう。
「どこでお話しましょうか?」
 たったっ、と甲高い足音とともに歩いて行く翔鶴さん。おっとりした話しぶりからはちょっと意外だが、歩くのは結構早い。
「九水戦の部屋では……? 響がいるかもしれませんが」
「ならば、いっそ私の部屋にしましょうか。ちょっと狭いけども、それでいい?」
「えっと、おじゃましてもよろしいでしょうか?」
「殺風景な部屋だけれども、それでもよければね」
 そう言われれば、頷くしかない。それに、翔鶴さんの部屋がどういう場所か、興味ないではなかったのだ。


 殺風景、という言葉は、謙遜でも比喩でもなんでもなかったらしい。
 想像以上に、物がない。備え付けの調度品以外のものといえば、ベッド脇に置かれた写真立てと時計くらい。本の一冊、小物の一つもないのだから驚きである。あとは、普段の練習用の弓くらい。龍鳳さん同様、少し大きめな空母の部屋だが、物がないので本当にがらんとしていた。小物の多かった龍鳳さんの部屋の、二倍くらいの広さに感じられる。
「はい、紅茶ね」
 翔鶴さんは、いそいそと紅茶を用意してくれる。当の磯風たちは、その翔鶴さんをさしおいて椅子に座らされていて、ますます居心地が悪いわけだ。
 正面の小さい食卓に置かれた紅茶からは、少し甘めの香りが立ち上がる。これは、良い物。
「ありがとうございます」
 不知火姉さん、一気に飲むんだな。もったいない。こんな上等品、南樺太は豊原まで行かないと、手に入らないやつだろうに。
「それで、今日の話ってことだけども、本当に対空戦闘の話?」
 よいしょ、と、卓の向こう側に椅子を持ってきて、翔鶴さんが座る。
「えっと……」
 どこから説明しようか、悩むところ。何より、翔鶴さんがどう考えてるのか、あまりわからないのが怖いところである。響は、ああ言っていたが……。
「それとも、龍鳳絡みかしら?」
 さすがに、翔鶴さんもわかっていたらしい。
「……わかってたんですか?」
「日向さんが、赤城さんに連絡しないといけない、って言ったところでね。もし、今から電話したら、年萌では17時過ぎよね」
 千島北東端に位置する占守郡は、大日本帝国本土の中で唯一、時差が適用されている地域である。そのため、内地より時間は1.5時間進んでいる。択捉島にある年萌は内地時間なので、幌筵で19時30分なら、年萌では17時である。
「その時間だと、まだ赤城さんには連絡つかないはずだもの。赤城さん、今日の夕方の便で大湊に飛ぶって言ってたから」
「そうでしたか」
 赤城さんも、一航戦の旗艦なだけあって、お忙しい人だ。
「それで、龍鳳、なんて言ってたの?」
 ふわり、と笑う翔鶴さんに、しかし何と答えていいのか、やはり困る。言葉の選び方を、どうするか。
「そうね」
 しばし思案に暮れていると、先に翔鶴さんが口を開いた。
「もしかしたら龍鳳、私が怒ってる、とか言っていたかしら?」
「……」
 はい、と言っていいのか。磯風も不知火姉さんも、言葉がわからなかった。
「……そうね、やっぱり。そんなつもりはないんだけど……」
 しかし、そんな磯風たちの様子から、翔鶴さんはちゃんと読み取ってくれたらしい。こう言ってはなんだが、そうやって読み取っていただければありがたい話である。
「怒っているようにみえるのかしら?」
 不思議そうな翔鶴さんの顔。確かに、見た目だけならば、怒っているようには見えない。
「……翔鶴さんは、怒っていないのですか?」
 えいままよ、と磯風は口火を切った。
「特にそんなつもりないんだけど……」
 うーん、と唸る翔鶴さん。
「ちなみに、どうしてそう思ったの?」
 どうして、という問いは、答えを導き出しにくいものだ。
「龍鳳さんにたいそう厳しいことを仰った、と聞きましたので」
 だから、代わりに不知火姉さんが答えてくれたのはありがたかった。
「そうね、確かにかなり厳しいことを言ったかもしれないわ」
 翔鶴さんは、特に表情も崩さずに、ふんわりと言う。
「でも、それは今日の龍鳳が精彩を欠いていたからよ。あんまりに、今回の龍鳳は抜けていたわ」
 ことさら厳しい表情をするでもなく、またそんな雰囲気を纏うでなく、さらりと言ってのける翔鶴さんは、却って少し怖い。なるほど、龍鳳さんも怖がるわけである。
「……不知火は、今回の演習の結果を見ていませんが、それほど? 大淀さんは、すべて戦術指揮を行った自分の責任だと」
「それはそれ。少なくとも、龍鳳はとっさの判断を間違えたし、動作も緩慢だった。勝負の行く末とは、関係のない話ね」
 本当に、容赦の無い言い方をするひとだ。磯風は、少し翔鶴さんという人を見誤っていたような気がする。安楽椅子に座ってふんわりしている、そんなゆるい人だと思っていたが……。
「ですが、龍鳳さんは翔鶴さんに気を取られて、失敗したとも聞きましたけれど?」
 その点、少し踏み込むのは怖い気もするが、かといって放っておく感じでもない。思い切って、響に聞いた話題を出してみることにした。
「私に?」
「前日から翔鶴さんが体調を崩していたのを、龍鳳さんが気にしていた、と」
「あら、」
 と翔鶴さんは少し納得したような表情を浮かべた。
「確かに、前日にはちょっと微熱があったわね。それで、龍鳳や秋月があれこれ気を使ってくれたわ」
 海上で微熱。あんまり考えたくない状況である。
「幸い、当日朝には引いていたし、そういう意味ではそこまでの大事じゃなかったけれど」
「しかし、龍鳳さんはそれを気にしていたわけですよね」
 正直、これに対する答えは、大体読めている。磯風ならこう答えるだろう、という答えがそのまま帰ってくるはずだ。
「え、っと」
 翔鶴さんは、なにか考えるように、人差し指を唇に当てる。
「やっぱり、それはそれ、よ。自分のすべきことをまずきちんとする。その上で、人に気を使うべきだと、私は思うわ。自分がおろそかになり、それで失敗してしまっては、元も子もないもの」
 第一、自分が失敗すれば、大切なその相手も危険に晒してしまう。だから、本末転倒だわ、と。磯風が考える答えが、本当にそのまま帰ってきた。見ると、不知火姉さんも頷いている。この辺り、磯風と不知火姉さんとは考えが近いし、翔鶴さんも近いようだ。
「だから、私に気を使ってくれた事自体はありがたいけれど、でもやっぱり龍鳳に言うべきことは言うわ。それが、龍鳳のためだもの」
 全くその通りだと思う。龍鳳さんには悪いけれど、翔鶴さんの言い分が理にかなっている。
「でも、龍鳳はそれで悩んでたりするのかしら?」
「もしかしたら、翔鶴さんに嫌われたのではないか、と」
「龍鳳を、私が?」
 驚いた様子で、翔鶴さんは金の瞳を磯風に向ける。
「はい。ありえない、とは申し上げましたけれど」
「そう、そう言ってくれたの。ありがたいわ。そんなの、ありえないわ、ほんと」
 紅茶を一口飲んで、それでも不思議そうな表情が消えない。
「本当に嫌いだったら、あんなことを言わないわ」
「やはり、そうですか」
「あら、磯風はその辺りわかってくれるの?」
「先から、"龍鳳のために"と仰ってるのは翔鶴さんですよ。翔鶴さん、随分と龍鳳さんのことをかわいがっておられるんですね」
「……そうかしら?」
 翔鶴さん、そこには気づいていなかったらしい。
「随分、龍鳳さんのことを大切にされてるんだな、と不知火も」
 そこで不知火姉さんが追撃する。さすが、不知火姉さん容赦がない。
「……そうね。確かに、龍鳳には頑張って欲しいと思ってるわ、私も」
 も、と微妙な語尾をつけた。
「せっかく空母になったのだもの。力はあるし、立派になってほしいわね」
 その、も、という言葉は何を意味するのか。磯風には、少しわからない。
「も、というのはどういうことです?」
 不知火姉さんにも、同じようにわからなかったらしい。それを聞いてくれるのは、ありがたい。
「きっと、赤城さんや加賀さんの方が、ずっとそういう思いは強いだろうな、って」
「加賀さんの方が、ですか?」
 少し意外な名前が出た。赤城さんはわかる。が、加賀さん? 加賀さんが龍鳳さんを可愛がっていないとは言わないが、"の方が"と言われると、違和感。
「あら、不思議かしら?」
「……少し」
 ぽろっと、言ってしまった。なんだか、少々口が軽くなっているらしい。
「そう……」
 翔鶴さんは空になったカップに紅茶をつぐ。磯風たちのカップにもついでくれた。
「加賀さんのこと、二人はどう思ってるのかしら?」
 それと同時に、直球が飛んできた。
「えっと……」
「三人しかいないんだから無礼講よ。私は気にしないから、率直に言ってくれればいいわ」
 と言われても、というところである。こちらとしては、こんなにハキハキと翔鶴さんが踏み込んでくるとは思ってなかったので、驚きの連続である。
「ほら、ね?」
「……少し、気難しい方、と。そう見ておりましたけれど」
 先に口を開いてくれたのは不知火姉さん。
「私もそのように。それから、しばしばお怒りになられるので、見た目以上に感情の起伏の激しいひと、とは」
「そうね」
 と言って、翔鶴さんは磯風達二人を見据えた。金の瞳は、意志の強さを感じさせる。
「確かに、感情の起伏は激しいわね。今回も、ホントに怒っておられたもの」
「やはり?」
「それくらいは聞いてるんじゃないの? 手が出そうになって、赤城さんに止められた、って」
 本当のことだったらしい。
「怖いお方なのですね、加賀さんは」
 磯風も不知火姉さんも、生粋の水雷戦隊所属。加賀さんと同じ場所にいたことがないので、これまでの話も遠くから見たイメージや、聞いた話が中心になってしまっている。
「そうね、加賀さんは怖いわ。赤城さんと鳳翔さん以外の空母は、みな加賀さんに怒られ怒られやってるようなものね」
 ふふ、と笑う翔鶴さん。
「その意味では、あの人は起伏の激しいひとよ。寡黙だし、話し方も落ち着いているんだけど。見た目と中身との差の大きいひとよね」
 翔鶴さん、それはあなたも、だ。そのおっとり・ふんわりとした柔らかい見た目は、どこにいったんでしょう?
「でも、気難しい、は少し違うんじゃないかしら。私はそう思うわよ」
「そうですか?」
 その辺りは、少しよくわからない。印象でしかないが、磯風としては、非常に話しかけづらい人であったことを覚えている。それに加えて、非常に厳しい人である、という評価。そうなっては、なかなかとっつきづらい。
「龍鳳が、何か言ってた?」
「いえ、特にそういうわけではないですが……」
 龍鳳さんの話の影響を受けていないかと言ったら、嘘になる。しかし、かといって龍鳳さんの話だけで、そういうイメージができているわけではない。
「うーん。これは、誤解を解いておいた方がいいかもしれないわ」
 翔鶴さんが、また紅茶を一口。それから、磯風達をその金瞳で見渡した。
「加賀さんはね、空母の皆の中では、一番"弱い人"なのよ」
「弱い、ひと?」
 思わず不知火姉さんと言葉がかぶる。
「ええ、弱い人。優しくて、弱い人よ」
 龍鳳さんが言っていたような人柄とは、あまりにずれていて、磯風も不知火姉さんも、どうやってとったらいいのか、しばし悩む。
「そうね……。どこから説明しようかしら……」
 その反応に、翔鶴さんも少し困ったような表情を浮かべ、それから何かを決めたように、磯風達二人の方へ、視線を投げかける。ちょっと驚くくらいの、強い視線。
「それじゃ、一つ聞くわ。二人は、これまでに空母が何人死んだか、知っている?」
 これまた、とんでもない直球。思わず磯風は、不知火姉さんの方を見る。一見変わらぬその表情だが、視線が鋭い。
「……2人、ですか? 祥鳳さんと龍驤さん」
 仕方なしに、磯風が答えた。
「そうね。17人中2人。2人とも、初期戦での喪失ね。加えるなら、鳳翔さんが再起不能に追い込まれているわ」
 そんな不知火姉さんとは反対に、翔鶴さんはそのふんわりした表情を崩さない。
「それでは、もう一つ聞くけれど、重巡は、何人死んだか知っているかしら?」
 そんな穏やかな表情のまま、また踏み込む翔鶴さん。さしもの磯風も、背筋に冷たいものを感じる。不知火姉さんの方は、見られない。
「……ええと」
 ゆっくりと、噛み締めるように指を折っていく。
「10人よ。18人中」
 しかしそれが結論を出すよりも早く、翔鶴さんが答えを口にした。半分を超えているのか、と驚いて、それから慌てて、磯風は"不知火型"姉妹の残っている数を数える。似たような割合であることに驚き、それ以上に、それだけの姉妹を失ったことに気づかなかったことに、磯風は愕然とした。
「大きな差よね、空母と、重巡と」
 そんな思考もお構いなし、翔鶴さんは爆弾発言を続ける。その言葉に、たらり、と冷や汗が流れる。もし利根さんが聞いていたら、殴り合いになってもおかしくない。
「その差は、何だとおもうかしら?」
「……空母は、重巡より沈みにくい、ように思いますが」
 いつも以上、ひときわ低い声で、不知火姉さんが答えた。
「戦艦は、12人中3人が沈んで、2人は艦娘として再起不能になっているわね」
 再起不能、の一人は榛名さんのことを指すはずだ。本当に、翔鶴さんという人は、言葉を選ばないらしい。
「……」
「勿論、こういう結果の一つには、運用も理由にあるわ。特に重巡は、戦争初期に積極的に作戦へ参加していたから。それこそ、無謀な撤退戦を任されたことも少なくない。三宅島からの撤退作戦に参加した妙高型とか有名よね。そんな中で多く斃れていったというのは、確かにあるわ」
 三宅島からの撤退は、誰もが無謀だと思っていた民間人の撤退に成功させた、誰もが知る作戦である。その裏で、3人の重巡が犠牲となったこともまた、著名である。
「でもね、言っておくけれど、空母が決して沈みにくい艦ではないわ」
 翔鶴さんの言葉は、噛み締めるような言葉である。
「二人ならわかっているだろうけれども、空母は発艦作業のために止まらなければならない。それは、とても危険なこと。あなた達だって、敵空母を狙うときはそこを狙うでしょう?」
「……はい」
 答えにくい質問だが、いいえ、とは答えられない。
「でしょう。だから私たちにとっての"死"は、発艦作業の場に集中するのよ。祥鳳も龍驤もそうだった。ほんの一瞬の隙を突かれて、あっさり沈んでいったそうよ」
 淡々と語る翔鶴さんは、何を考えているのか、やや読めない。それより何より不知火姉さんが、翔鶴さんを射抜くように見つめている。
「私もそうだった、という話はしたかしら?」
 無言で首を振った。
「そう……」
 翔鶴さんはため息ひとつ。それから、唐突に上着をはだけた。
「ちょっと、翔鶴さ……」
 慌てて止めようとする不知火姉さん。私も翔鶴さんの方へと踏み出す。が、視界に入ったものに、思わず足を止めてしまった。多くの傷が、翔鶴さんの上半身を切り刻んでいた。艦娘たるもの、その身に傷を持たないものはいないはず。であるが、その数はやや常軌を逸していた。あまりに、多すぎる。
 歴戦の、という言い方をすれば聞こえはいいかもしれない。しかし、そこにある苦しみがいかほどのものだったのか、磯風は知らない。
「これの殆どが、発艦するために止まっている、その僅かな時間に受けたものよ」
 そしてその中でもひときわ目立つのが、大きく脇腹を抉るような傷痕。思わずそこに視線が行く。
「そう、これが彩帆奪還の時のもの。北硫黄島沖での発艦作業中に、水雷戦隊の魚雷にやられたのよ」
 これのせいで、すっかり身体が弱くなってしまったわ、と翔鶴さんはあっけらかんと語る。
「しかもその時には、護衛だった霰と曙を失った。護衛の駆逐艦も止まっているから」
 止まっているところで敵に襲われることほど怖いことはない。トップスピードまでには時間がかかる。その間、敵の砲雷撃を受け続けることになる。
「申し訳ないことをしたわ。もし私の護衛で止まっていなければ、逃げられたでしょうから」
 翔鶴さんの言葉には、何かを返す言葉も見つからなかった。
「こう言ったら、怒るかしら。でも、やっぱりこう思うの。空母の判断が、空母自身だけじゃなくて、皆の命を左右するんだ、って」
「磯風もそう思っています。駆逐艦は、戦艦や空母の方々についていくのが仕事ですから」
 それは、この磯風もずっと意識している。駆逐艦とは、戦艦や空母のために敵を駆逐しておくのが役割。そして、いざというときは身代わりとなり、あるいは運命を共にするもの。
「別に、駆逐艦の皆が私たちのいうことを聞いてさえいればいい、とかそういうことを言っているつもりはないわ。あくまで、空母である私の心構えとして、皆の命を握っている、という点が重要。そういう話だから、そこは誤解しないでおいてね」
「わかっております」
 はだけた着物を整え直す翔鶴さんに、言葉を返す。先から、不知火姉さんは一言も話さない。ただ眼光だけが、鋭く翔鶴さんを射抜いている。
「ありがとう。そうだからね、私たちがどのタイミングで発艦を行い、どれくらいの速さで発艦を行えるか、がとても大切なのよ。それが、艦隊の勝敗を左右し、仲間の生死を決める。そう考えているの。ゆえに空母には、ひときわ高い技倆や判断力が求められる。もし、技倆が不足していれば、自分だけでなく、皆を危険にさらしてしまうのよ」
 翔鶴さんは、先から本当に淡々と話しているが、その心構えは、きっと重い。重いはずだ。所詮自分のことだけを考え、言われるままに動けばいい駆逐艦とは、覚悟が違う。
 そんなことを思うと、返す言葉が見つからない。所詮、この磯風は、目の前にいる敵に向かって砲雷撃を加える、ただそれだけの艦娘なのだから。
「加賀さんはね、優しい人なのよ」
 しばし、黙っていたからだろうか。翔鶴さんは唐突に、話を切り替えた。
「先程も、お伺いしましたが、それはいったい?」
「加賀さんは優しいの。優しすぎるから、いつも抱えきれないものを、抱えようとするのよ」
 その言葉には、これまでなかったような感傷が、少し含まれる。
「翔鳳が帰ってこなかったときも、鳳翔さんが虫の息で帰ってきたときも、龍驤が二度と動かない姿で帰ってきたときも、私が一航戦に連絡したの。瑞鶴は動転してしまって、とてもそんな状態じゃなくてね。それでね、赤城さんに電話するのだけれど、そういうときに限って、赤城さんに掛からない」
 話す翔鶴さんは、相変わらず穏やかな顔をしている。少し困ったようにさえ、見える。だが声色が、先ほどまでとは少し変わって聞こえる。
「そうだから、仕方ないから加賀さんに掛けたわ。それでね、加賀さん、私がそういうことを言うと"そう、わかったわ。赤城さんにも伝えておくわね"と、さも冷静そうにね、言うのよ。いや、本人は冷静そうに言ってるつもりなんでしょうね。でも、声がね、震えてるのよ。もう、泣き出しそうな、そんな声音で、一言だけ言って、切るの」
 つつ、と翔鶴さんの目から、一筋の涙が伝った。
「ついには、私、着信拒否されてしまったわ。私からの連絡が、三回も連続で、そういう連絡だったからでしょうね」
 磯風も、思わず数度瞬きをする。なんだか、翔鶴さんが霞んで見えたから。
「だからね、加賀さんという人はね、厳しいんじゃないのよ。優しい人で、仲間の死にも耐えられない、弱い人なのよ。だから、たとえ自分が恨まれてでもいいから、死なない技倆を付けて欲しいと、そう考えるの。それだから、誰かがミスをすれば、徹底的にそこを追及して、直させようとする。態度が緩んでいれば、やっぱり怒ってその姿勢を正させる。そうやって、少しでも味方が死なないように死なないように、ってそう思ってる人なのよ」
 そう語る翔鶴さんの言葉には、加賀さんに対する思い入れが、聞こえる。
「"五航戦と一緒にしないで"っていうあの辛辣に聞こえる言葉も、瑞鶴の前"でだけ"言うのよ。瑞鶴はあの性格だから、普通に怒っても態度を絶対に変えないわ。それを考慮した上で、加賀さんはああいう言い方で瑞鶴を奮起させたわけね」
 人は見かけに寄らない、という言葉を、噛みしめる一日だ。
「おかげで、私も瑞鶴も、こうやってまだ生きてる。こう言ったら、不知火と磯風は怒るかもしれないけれど、加賀さんが身を削って厳しく指導しているから、空母の損耗率は低いのだと、私は思ってるわ」
 不知火姉さんは、相変わらず厳しい顔をしている。けれども、磯風自身としては、そんなものではないか、と思う。どちらにせよ、戦場とは地獄なのだ。そこでは、己が力のみを頼るしかない。それを、戦場に出る以前に叩き込む加賀さんは、とても重要な仕事をしている。
「あの厳しさも、その加賀さんの裏返し。一度の判断ミスが死に直結するからこそ、そういうミスを決してしないように、厳しく当たるのよ。それで、少しでも空母の皆や、それを護衛する皆が助かるならば、って」
 翔鶴さんは、きゅ、と帯を締め直す。
「そういう人だから、あまり遠ざけないでほしい、と思ってるの」
「龍鳳さんを嫌いだ、とかそういうことではないんですね」
「龍鳳、そんなことを言っていたの? それはありえないわ。加賀さんは、空母全員を心から大切に思ってくださってるわ」
 すぐさま、翔鶴さんは口を開いた。
「もし、加賀さんがそんな話を聞いたら、心底悲しむわ」
 その口調に、磯風は初めてすこし厳しさを感じる。
「加賀さんを、尊敬されているのですね」
 だから自然と、そういう言葉が出た。
「尊敬?」
 翔鶴さんが、きょとんとしたような表情で、こちらを向く。
「あれ、違いましたか?」
 あんまりに驚いたようだったので、磯風は思わず聞き返した。
「尊敬、いや、そうね。その通りだわ。意識したこと無いけど、そうね」
 翔鶴さんは、ふわり、と美しい笑顔を浮かべる。
「そう、加賀さんは、尊敬に足る人。私は、その御蔭でここにいるの」
 その表情は、これまでの暗い話を吹き飛ばしてしまうような、そんな鮮やかな笑顔だった。

「しかし、不知火も磯風も、つまらない話に付き合わせてごめんなさいね。本当ならお礼のつもりだったのに、逆になっちゃったもの。今度、きちんと埋め合わせはするわ。大したことはできないかもしれないけれど」
 せめて択捉まで出る機会があればね、と言いながら翔鶴さんが立ち上がった。磯風たちも合わせて立ち上がる。不知火姉さんは、先から黙りこくったままだが。
「あの、翔鶴さん」
 この際だ、とばかり、磯風はもう一段階、踏み込むことにした。
「何かしら?」
「龍鳳さんにも、その話、してあげてください。龍鳳さん、きっと、そのことで悩んでますから」
 本来、駆逐艦の磯風如きがする話ではない。そうとはわかっているのだが、きっとここで言わなければあとで後悔する。そんな気がした。
「……そうね」
 そして、翔鶴さんも、その想いを受け取ってくれたらしい。
「ええ、わかったわ。龍鳳にも、きちんと話すわ。言いづらいことを、ありがとう」
「いえ、差し出がましく、失礼しました」
 頭をきちんと下げる。本来、許されぬような発言のはずなのだ。
「それじゃ、お二人ともお疲れ様。本当に、今日はお世話になったわ。また明日から、どうぞよろしくね」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
「……失礼致します」
 もう一度頭を下げる。不知火姉さんも、深々と頭を下げていた。
「ええ、おやすみなさい」




 たかたか、ローファーを響かせて歩く不知火姉さんは、その足音からして機嫌が悪いようだ。
「不知火は自室に戻りますので。磯風、おやすみなさい」
 磯風が九水戦の部屋を開けようとしたところで、一歩先を歩く不知火姉さんの声が耳を叩く。冷たい声音。
「ん? あ、おやすみなさい」
 磯風が振り向くと、既に不知火姉さんは自室の方へと歩き出していた。まだ時間は早いんだが、そういう気分でもないのだろう。
 はあ、と一息ついて、磯風は扉を開ける。相変わらず不知火姉さんは不知火姉さんだ。
 部屋は、相変わらず誰もいない。寒いので、とりあえずストーブを付ける。ふわり、と灯油が香る。今日は晴れているから、冷え込むようだ。げ、10度しかない。
 とりあえずストーブに寄りつつ、テレビのリモコンをいじる。自室にはないから、情報を得るにはここにいないといけない。
「……ぎのニュースです。敷香(しすか)泊岸(とまりけし)町の敷香郡立楠山中学校では……」
 どうやら、ちょうど地域のニュースの時間だったようだ。大したニュースではない。
「Эге、磯風はこっちにいたんだ。Приветик」
 がちゃり、と扉が開く。意外そうな顔で、響が立っている。
「ああ、今日のニュースを見ようと思ってな。大したものはないが」
 テレビには、中学生のブラスバンドが映っている。平和な光景だ。
「それはよかった」
 いそいそ、と響もすぐ隣に椅子を持ってくる。ストーブの至近でなければ、寒いのである。
「そうそう、磯風、きみはさっきまで、不知火と一緒にいたんだよね?」
 響は、同時に卓も持ってくる。なにかと思ったら、購買から菓子を買ってきたらしい。
「ん? ああ、そうだが」
 それなら、と磯風も立ち上がる。お茶でも淹れよう。
「А, спасибочки」
 お茶は京番茶。前に、これなら磯風にでも淹れられるでしょ、と谷風がよこしてくれたのだ。
「さっきすれ違ったんだけど、なんか怒ってなかった?」
 せっかく大福買ってきたのに、と響。
「ああ、たぶんな」
 ちょうど、ストーブの上に置いた薬罐も湧いている。茶葉をどかっと薬罐に入れて、そのまま放置。
「大淀さん? 龍鳳さん?」
 あとはちょっと待つだけ。本当、誰でもわかる便利なお茶だ。
「いや、翔鶴さんだ」
「翔鶴さんに会ったんだ。わざわざ?」
「ちょっとした成り行きでな。だが、特に怒ってるわけではなかったぞ」
「おや、そうだったの? 利根さんとか、ビクビクしてたけど」
「ああ。話してみたら、特に怖いわけでもなかったしな」
「そうか。結局、怒っている云々は、私らの早とちりだったわけだ」
「龍鳳さんに相当厳しいことを仰ったのは事実だろうさ。だから、怒っているという話にもなったんだろう」
「それは、怒っているというのとは違うのかい?」
「おそらく、それは見た目に騙されているんだ。翔鶴さん、あの人、すごく芯の強い人だぞ」
 そういうと、響が意外そうな顔をした。響もそう思うのか。
「じっくり話したのは始めてだったが、自分の意見をハキハキいう人で、磯風も驚いた。それこそ、少々言葉を選ばないで、な」
 少々、という言葉は要らない気もするが。
「そういう人だったのか。普段、あまり話すことのない人だから、わからなかったよ」
「不知火姉さんもそうだったみたいだ。正直、詐欺みたいなものさ」
「詐欺?」
「翔鶴さん、穏やかな表情で、いつも談話室の安楽椅子で揺られて、窓の外を眺めているわけだ。その長い銀髪が夕焼けで朱に染まってでもいれば、"薄幸の美人"という絵が描けそうなものだからな」
「ああ……。違いないね」
 響も納得の表情。かく言う響だって銀髪なのだし、黙って座っていれば、十分に絵にはなりそうだが。
「それが、口を開けば、ズバズバと意見を述べるのだから。それは、驚く」
「そんな翔鶴さんも、ちょっと気になるね」
「演習のお相手でもしてもらえば、見れるんじゃないか?」
「頼んでいいのかな?」
「そういう人だからな。気軽に頼めるさ」
 今回話してみてわかった。意見ははっきりしているだけに、そういう余計な気遣いは無用な人だろう。
「そうか。それは、磯風と話が合いそうな人だ」
「そうだな。今度、またゆっくり話してみようか」
 そろそろいいだろう。磯風は立ち上がって、ストーブの方へ向かう。薬罐を取り上げて、そのままお茶をポットに注ぎ込んだ。少し煙の交じるような、香ばしい香りが部屋に広がる。
 ちょうど響が持ってきてくれた湯のみに、ポットからお茶をついで。ようやく、大福が食べられる。
「しかし、谷風も本当に良い物くれたよね」
「響は京番茶好きなのか?」
「いや、味よりなにより、磯風ですら淹れられる、というその一点が、とっても偉大だと思うんだ」
「……それは宣戦布告とみなして良いのだろうな?」
「冗談だよ、冗談」
 にやり、と響が笑う。こいつ、一見真面目そうなくせをして、時々こうやってからかってくる。侮れないやつだ。
 そりゃ、磯風が不器用なことは周知の事実だし、認めざるをえないが……。
「ともあれ、いただきます」
「いただきます」
 大福にかぶりつく。正直、所詮購買部の大福なので、とても美味しいというわけではない。だが、特に不味いわけでもない。やたら甘いのも、京番茶とセットならばそんなに違和感もない、というわけだ。
「んで、さ」
「?」
「不知火が怒っていたのは、翔鶴さんがハキハキ物を言う人だったことと、関係するのかい?」
 ずず、と京番茶をすする響。
「んん……」
 大福を頬張っているので、すぐには答えが返せない。なんだ、響、また微妙に笑いおって。
「Ты сладкоежек, как обычно」
 くすり、と笑って、響は何かロシア語でひとこと。響は、時々こういうことをする。人がロシア語わからないことをいいことに、だ。どうせ、ろくでもないことを言っているのだろう。まったく。
「ごめん、食べてからでいいよ」
 何を言ったんだか、と睨みつつ、大福を飲み込む。が、当の響はテレビの方を向いている。つまらん、と磯風もテレビに目をやった。いよいよ宗谷海峡トンネルの開通も近い、とかそんな話。今更か、と思いつつ、京番茶をすする。この煙臭い感じが、磯風は結構気に入っている。
「ふぅ。で、不知火姉さんの話だったか?」
「ああ、そうそう」
 テレビから向き直る。
「と言っても、大したことではない。要するに、加賀さんのお陰で空母は沈んだ数が少ない、とそういう話を翔鶴さんがしただけだ」
「加賀さんの?」
「加賀さんが厳しく指導しているからこそ、空母の練度は上がって、喪失も少ない。そういう論理だったな。それほど違和感のない話だと思うが」
「それは、不知火が怒るのもわかるよ」
 響の表情から、穏やかさが消えていく。厳しい、というわけではないが、無表情に近い。
「磯風だってわかるさ。これまでに"不知火型"が何隻沈んだか、生きてるのを数えたほうが早い」
 翔鶴さんは、それが陽炎姉さんや不知火姉さんのせいだ、と言っているのも同然だったわけだ。
「ちょっと待って、磯風。それはあまりな言い分じゃないか」
「だが、事実だ。戦場では、何より練度が物を言う」
 どんなに必死であろうと、固く団結していようと、鉄の雨と焔硝の香りの前には、無力だ。そんなこと、戦場に立った者ならば、誰でもわかることだ。
「……そうだね」
 故に響もまた、少し目を伏せ、頷くしかなかったようだ。
「ただ、な。それが"人間として正しい"かといったら、そんなこともない気がするが」
 人とは、感情に生きる存在である。
「龍鳳さん、すっかり参っていたようだしな」
「……ああ、龍鳳さん、本気で辞めたがっていたよね」
「何の感慨もなく、人の心を折っているとしたならば、その人間は外道だと、磯風は考える」
「当たり前だ、と思うけれど」
 加賀さんは、それをやっているじゃないか。響の凍った目が、そう告げていた。
「当たり前だが、戦場では当たり前ではない。そういうものではないか?」
「……ああ」
 響も、妙に納得できたらしい。悔しそうな顔で、しかし頷いた。
「感情の上下や、その繋がりや、そんなものが戦場で役に立てば、きっともっとずっと平和な世界になっているだろうよ」
「そうだね、それは、楽しそうな世界だ」
 磯風も響も、しかし現実が全くそうなっていないことを知っている。思い入れなんてものは、戦場では何の役にも立たない。役に立つのはただ己の腕だけ。それが、これまでの戦場で学んだこと。
「そこまで言ってくれれば、磯風が陽炎姉さんや不知火姉さんを、決して非難しているわけではないことも、わかってくれるだろうか」
「……要するに、ふたりとも外道に徹することができない、そういう"人間らしいひと"だ、ということだろう?」
「ああ……。たぶんそうだ。そして、この磯風もできていない」
 できる気はしない。自分ひとりで、精一杯なこの身だ。
「私も、できないな……」
 雷や電に申し訳ないけれども。そう、響が呟く。
「外道になれば、人の恨みを一身に背負うことになってしまうから」
「間違いない。大切な相手を守るために、その相手から恨まれる。そんな立場、とてもではないが磯風には務まらぬ」
 口が乾く。京番茶をすする。
「だが、加賀さんはそれを背負った。空母全員から恨まれる覚悟で、な」
 翔鶴さんは、加賀さんを"弱いひと"といっていた。だがおそらく、それは違うだろう。一身に恨みを背負う覚悟を決めてでも、人を守ることを選んだ。その選択を出来る人が、どうして弱いひとであろうか。
「ねえ、磯風」
「なんだ?」
「それはつまり、加賀さんは優しい人だ、と、そういうことかな?」
「翔鶴さんもそう仰っていた。恨まれてでもいいから、皆を守ろうと、そう決意した方だ、と」
「そう……。それじゃ、加賀さんは一人、傷ついているんだね」
「恨まれるからな」
「いや、それは違うよ、磯風」
 響の瞳は、いやに真剣だった。
「加賀さんは、人が傷つくのに敏感な人なのではないかな。そうでなければ、人を守ろう、とは思わないだろう?」
「ん、そうだな」
「だとすれば、自分が相手を傷つけたことを、わからないはずはないじゃないか」
「……ああ、そうか」
 つまり加賀さんは、自分が外道であることを、常に再認識させられ続けると、そういうことだ。
「それは、厳しいな……」
 気が狂う。率直に、そう思った。
「やはり、加賀さんも翔鶴さんも、すごいひとなんだ……」
 響の言葉には、磯風も頷く。
「強いひとだ。今なお、立っていられるのだからな」
 本当に、強いひとでないはずがない。そこまでしてなお、前に進む覚悟を決めたのだから。
「けれど、虚しいね」
「……ああ」
 虚しい。人を守る、という崇高な希望のために、外道に落ちる。自らが外道であることを常に認識しながらひた走り、たとえ守りつくしたとしても、残るのは傷ついた自分と恨みだけ。
「戦争、というものはそういうものだ」
 人の性質に相反する場、それが戦場。そう磯風は思う。戦場という場では、いかなる人間性も意味を持たず、等しく力のないものから死んでいく。
「それじゃ、もし戦争が終われば、加賀さんも優しくなったりするかな」
「そうだろう。もう、厳しくする必要もないのだからな」
「……そうなった加賀さんは、少し見てみたい」
「そうだな、それは、興味深い」
 もしかしたら、突然人懐っこくなったりするのだろうか。想像してみて、笑いが零れる。
「幸い、そう遠くない未来だろうしな」
 先からテレビで映る光景は、平和な風景ばかり。今映っているのは、高層ビルが林立し大きく市街地も広がる、樺太・豊原市の光景。映る人々の顔もみな明るい。
「終わる、か。少し、想像できないな」
 響の、しみじみとした声。
「ああ、全くだ」
 入れ替わるように映る、樺太や千島各地の映像を眺めながら、磯風も頷いた。我々は、戦争が終わった世界を知らない。
「早く、終わった世界を見たいものだね。どういう世界なんだろうか」
「さてな、磯風にはさっぱりわからん」
 戦場がなくなった世界。どんな世界だろうか。
「だが、一つわかることがある」
「……なんだい?」
 それは、きっと遠くない日にやってくる。
「優しい人は、優しくいられる。そんな世界ではないかな」
「……ああ、そうだね。違いない」
 そんな日を、楽しみにしていよう。











 戦しか知らぬ少女らは、戦なき世に浄土をみる。
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