あっ、と思った時には、弓が手を離れていた。
「龍鳳さんッ!」
 珍しい響の大声。腹の底を揺るがすような重低音が、龍鳳の辺りに重くのしかかっている。慌てて、龍鳳は弓を拾おうとかがむ。波浪はそれほど高くないが、足元の均衡を崩すには十分。それを気をつけながら、注意深く手を伸ばす。
「龍鳳さん!」
 ようやく弓を。
 そう思った刹那、敵艦載機の急降下する音が、空気を切り裂くその音が、上空から降ってきた。
「あ……」








――Nosce te ipsum――








 今回ばかりは、龍鳳もすっかり自信を失うしかなかった。先に発見されたのは龍鳳の責任ではないにしても、発艦における動作の遅延は致命的である。
 空母の発艦作業自体が、海上で行う最も難しい作業である。刻一刻と状況の変わる波と風とを読みながら、体のバランスを崩すことなく、然るべき順序を踏み、矢を放たねばならない。それは、並大抵のことではないのだ。が、そのような言い訳が全く通用しないことを、龍鳳は知っている。
 たまたま、これが演習だったからよかったようなもの。演習なればこそ、加賀に散々怒られ、また翔鶴に容赦無い指摘を食らった"だけ"で済んだのだ。もしこれが実戦であったならどうなるか。龍鳳は、それを想像することさえ拒んだ。龍鳳が持ったのは、襲来から14分37秒。響がそれから3分48秒。秋月が、さらにそこから17分33秒。その時間で、翔鶴を除く三人は牟知(むしる)海峡はるか1800mの海底へ消えることになっただろう。
「やっぱり、向いてないのね」
 呟く言葉は、部屋の暗がりに消えていく。
「なんで、空母になんてなっちゃったのかな……」
 少し目をあげると、部屋の隅に置かれた姿見が目に入る。両目にひどい隈のできた龍鳳を映していて、一層龍鳳を憂鬱に仕向ける。隣に置かれた練習用の弓は、何も物を言わず、しかし龍鳳が弓を持つ意味を問いかけてくる。だが、龍鳳はその答えを持たない。
 つい一年前まで、龍鳳は潜水母艦「大鯨」であった。大湊鎮守府の第二艦隊に所属し、潜水艦の()たちの活躍を支え、見守る。端的にいえば、それだけのお仕事であった。危険はなかったし、皆慕ってくれて、我ながら似合う役割だったと、龍鳳はおもっている。
 龍鳳にとって、その生活になんの不足もなかった。それだけに、一年前に空母への換装を提案されたとき、なぜ頷いたのか。それが、龍鳳自身にもよくわからない。「大鯨」であったころ、戦闘に参加出来ず、えもいわれぬ不安感があったのは事実だ。しかし、その不安感に苛まれたか、といえば龍鳳は首を振る。潜水艦として働く娘たちが、戦闘に参加したとすれば気もそぞろだったし、自分も何かできることがないか、と探したものだ。でも、皆が顔を揃えて帰って来て、「大鯨」を見つけた時のめいいっぱいの笑顔。ただそれだけで、龍鳳の不安ももう全て吹き飛んだ。彼女らがいかに敵を沈めたのか、その話を聞くだけで、龍鳳は自分もまるで戦果を挙げたかのような、そんな錯覚さえしたのだ。
 然るに我、何の故有りて此処に在りや? そんな哲学じみた問いが、龍鳳の中に渦巻いている。
 ただ、一つ。答えはある。
 選択は、やはり間違いだったのだ、と。

 龍鳳の部屋には、小さな食卓がある。ファンシーグッズで可愛く飾られる部屋に、似つかわしくない重厚なニス塗りの食卓。そこには、ティーカップが二つ置かれている。一つは空。もう一つは、まだたっぷりと紅茶が残っている。残っているのが龍鳳のカップ。すっかり冷めてしまっている。
 空になった方。それが、翔鶴のカップであった。
 翔鶴という人のことが、龍鳳はよくわからない。この幌筵に2人しかおらず、全国でも20に余る程度しかいない空母。そんな同じ艦種同士であるが、だからこそ、全く読めない。赤城のように天性の勘で明るく過ごしているわけでもない。加賀のように自分にも他人にも厳しく過ごしているようでもない。談話室にいけば、いつも暖炉横の安楽椅子に座って、誰と話すでもなく静かに外を眺めている。ストレートの長い銀髪で、やや世を憂いたような顔で、安楽椅子に揺られるその様は、温和さを全身で体現しているとさえいえる。
 だが、この間の演習の後。指導が一番手厳しかったのは、加賀でも瑞鶴でもなく、翔鶴であった。発艦に入る前の索敵から始まり、発艦時の細かい作法のミス、波浪への対処。そういった細かい点、一つ一つに至るまでを、翔鶴はあげる。言葉を和らげるでもなく、かといって荒げるでもなく、淡々と事実のみを述べるその姿に、龍鳳は怯えさえした。
 その翔鶴が、先までこの部屋にいたのである。なぜ来たのかも、龍鳳にはよくわからない。慰めに来てくれた、とも言えそうだし、違う、とも言えそうだった。ただ翔鶴は、加賀や翔鶴が龍鳳を嫌っているわけではないこと、むしろそういう指導こそが、空母にとっての愛情なのだ、と。そういうことを述べていた。
 冷静になれば、当たり前のことだ。そこに気づかなかったのは、自分の失態。そう龍鳳は理解している。理解するからこそ、ますます自分の至らなさを理解するのである。聞けば、今回作戦立案を行い、大敗の主犯となってしまった大淀は、すぐ気持ちを切り替え、反省点を取りまとめたというではないか。それに対し、自分は理性を失って泣くばかり。そんな感情の上下は、戦闘では生死に関わるのみ。何の役にも立たない。大淀と自分との格差は、あまりにも歴然である。要するに、そんな自分は艦娘として落第なのだ。そのように、龍鳳には思えてならなかった。


 悪夢の演習から二週間。9月を迎えると、幌筵(ぱらむしる)島は一気に秋へと様変わりする。8月の大半、島に覆い被さっていた霧が晴れ、貴重な青空を眺められるようになる。同時に、島の野草は一斉に色づいた。
 そんな貴重な明るい季節にあって、しかし龍鳳の心は全く晴れない。
 二週間の間、龍鳳には出撃の機会がなかった。
 普段であれば、いつもどおりであるのだが、先日には新たな作戦発動があったのだ。
 ちょうど一週間ほど前、西部アリューシャンを攻略した米軍と共同で、アリューシャン中部・アンドリアノフ諸島の攻略作戦が行われた。龍鳳ら第六航空戦隊はついに呼ばれぬまま、作戦はアダック・タナガ両島を短期攻略して大成功に終わった。
 呼ばれなかったのが、幸運だったのか不運だったのか。龍鳳にはやはり判断がつかない。空母としての才能が不足している自分は、米軍との共同作戦なぞとてもこなすことができなかっただろう。きっと、皇軍の恥を晒すことになったに違いない。そう考えれば、自分がそんな大それたものに参加せずに済んだのは、幸運以外の何物でもない。
 しかし、わざわざ舞鶴から飛龍・蒼龍の第二航空戦隊が参加していることが、龍鳳の心の端に引っかかっている。六航戦は手負いの翔鶴と軽空母の龍鳳の二人で構成されるから、二航戦との差は明白。とはいっても、わざわざ首都・京都防衛の要衝たる舞鶴から引きぬいて、はるばる4500kmも回航してくる必要があったのか。それほどにまで、自分たちは信頼されていないのか。そういうことを考えると、胸が痛い。何より、翔鶴に申し訳なくてならない。

 いくら北千島の霧が晴れようと、龍鳳の心の中は、霧の中なのであった。



 その日の朝もまた、鬱々とした気分は抜けないまま。起きたのはまだ早い時間であったが、二度寝する気分でもない。諦めて、起き上がることにした。
「おはようございます」
 談話室の扉を開けると、既にちらほらと人が集まっていた。翔鶴は定位置の暖炉の前。おはよう、と龍鳳に笑顔を返し、また窓の方へと目線を移した。今の季節なら、さぞ眺め甲斐があるだろう。その反対側には、新聞を片手にした日向。やはり定位置である。
「おはよう。龍鳳はいつも早いのう」
 部屋の真ん中のテーブルについているのは利根。その向かいでは、磯風がテーブルに突っ伏している。
「おはようございます。利根さんも今日はお早いのですね」
「なに、これと夜番でな」
 こん、と軽く磯風を小突く。だが、微動だにしない。熟睡のようで、寝息さえ聞こえそうだ。
「吾輩ももう眠くて堪らぬ」
 大きなあくびをする利根。あまりにのんきなその姿に、龍鳳は思わず苦笑いする。
「それは、お疲れ様です」
「なあに、仕事じゃから仕方ない。そういう龍鳳は、今日なにか当番か?」
「ええと、そういえば……?」
 そういえば、昨日カレンダーを見ないまま寝てしまった。そんなことを今更思い出す。特に何もなかったと思うが。
「龍鳳、君は今日は非番だろう?」
 助けは、思わぬ方向から入った。バサバサ、と新聞を畳む音。
「ほら、それだ」
 日向が指さしたのは、黒板である。叢雲らしい筋張った痩金体で「非番:伊勢・日向・龍鳳」と書かれていた。
「……あれ?」
 そうだったかしら、と龍鳳は首をかしげる。
「ありゃ、そうじゃったか。せっかくの非番の日なのに、もったいないことをしたのう」
「そうですね」
 猫みたいな利根の無邪気な笑顔に、龍鳳も笑顔を返すしかない。もう少し寝坊できたのかもしれないが、もともと今日は"起きてしまった"のだから、あまり関係がない。
「……龍鳳、最近寝れておるのか?」
 利根が、唐突にその笑いを収めた。突然の変容に、龍鳳は驚いてしまって、とっさに答えを返すことが出来なかった。龍鳳を覗きこむような、利根の透き通った瞳が、龍鳳には痛い。
「別に、寝れないわけでは……」
 その龍鳳の声は、小さい。絞りだすような声だった。
「悩みがあるなら、吾輩も助けになるぞ? なんでも聞いてやれるが、どうじゃ?」
「いえ、大丈夫です」
 小さく、そう答えることしかできなかった。



 いつもどおりに朝食を取った龍鳳であるが、食堂から一歩出ると、すっかり困り果ててしまった。いつもなら、予め何らかの予定を立てて、非番の日を過ごす。しかし、あんまりに突然降って湧いた暇は、龍鳳を困惑させるばかりだ。
 残念ながら、ここ幌筵島には娯楽と呼べるようなものは殆ど無い。警備府の位置する柏原を始め、加熊別(かくまべつ)擂鉢(すりばち)、熊泊といった集落こそいくつかあるが、全部合わせたって人口は1万人程度。そもそも、車の運転ができない龍鳳は、ひとりでは島内の移動ができない。柏原の町に出たところで何があるわけでもなかった。
「龍鳳、ここにいたか」
 龍鳳が途方に暮れていると、後ろから声がかけられた。
「……あれ、日向さん?」
「龍鳳は、今日何か予定はあるのか?」
「いえ、特には。何か、ご用命でも?」
「そういうわけじゃないんだが」
 日向が言い淀んでいることに、龍鳳は少し珍しさを感じる。
「よかったら、今日ちょっと付き合ってくれないか?」
「えっと、どちらに?」
温禰古丹(おんねこたん)に行くのだが」
「温禰古丹、ですか?」
 龍鳳は思わず問い返す。温禰古丹島とは、幌筵島の南隣の島である。隣の島の名が出ようとは思っていなかった。
「ああ。明後日、春牟古丹(はりむこたん)海峡で大規模な演習をやる、というのは聞いているだろう?」
「はい」
 春牟古丹海峡とは、温禰古丹島と春牟古丹島とを隔てる海峡である。
「で、ちょうど非番が重なったからな。温禰古丹の海軍の保養所に宿を取って、温禰古丹の景色でも楽しみに行こうかと思ってな」
「そんなことして、大丈夫なのですか?」
「榛名さんには既に了解を取っている」
 第五艦隊の提督は、元艦娘。以前は榛名であったし、なにより本人の一人称がいまだに"榛名"なので、皆そのまま榛名と呼んでいる。つまり、提督からの許可は取ったと、そう日向は言うのだ。
「それどころか、榛名も今日夜には温禰古丹に入るとさ」
「榛名さんも近くで演習を見学されるんですね」
「みたいだな」
 日向が頷く。
「そんなわけで、せっかくだ、龍鳳もどうかと思ってな。温禰古丹の観光、したことないだろう?」
「観光、確かにありませんが……」
 日向のイメージからかけ離れた言葉に、また戸惑う。
「風光明媚なところでな。今日は快晴だというし、ちょうどいいんだ」
「そうなんですか」
 幌筵に来て半年。龍鳳は幌筵以外の島に行ったことがない。
「ですが、今日は伊勢さんも非番だったと思うのですが」
 幌筵に二人しかいない戦艦の、どちらもが非番。それでいいのか、と龍鳳は思うのだが、そうなってるものは仕方ない。むしろ、めったにない機会だから、姉妹水入らずで過ごしたいのではないか。龍鳳は、そう思った。
「……ああ。伊勢とは後に合流する。あいつ、今朝一番に鮭釣りに出たんだ。前から誘っていたんだが、忘れられたらしい」
 日向が、眉間にシワを寄せる。苦労しているのだな、と龍鳳は思った。
「それで構わなければ、どうだ? 姉に振られた私を助けるものだと思って」
「私で良いのでしたら、是非」
 日向が、少し困ったような笑顔を浮かべている。龍鳳はその笑顔に頷かされたといえた。
「ありがたい。榛名さんには私から伝えておこう。では、1時間後に港で」



 温禰古丹島の大泊港についたのは、出港してから4時間半後。すでに日は高く、昼が近いことを知らせてくれる。艤装のおかげで、その程度の航海では全く疲れないのが、ありがたい。。
「いやはや、今日は揺れたな」
「北東の風が随分強くて。明日は冷え込みそうですね」
 龍鳳は、言いながら岸壁に近づき、クレーンの操作盤の前に止まった。いくつかボタンを押すと、高さ3mほどの小さなクレーンが動く。降りてきたフックを艤装に引っ掛けて、自分ごと釣り上げてもらう。クレーンを操作して、自分の足が岸壁の上についたところで、艤装との精神共鳴を切り、艤装を外した。
 艦娘が海の上に浮かびえるのは、艤装のおかげである。艤装は、艦娘と精神共鳴することで特殊な力場を発生させる。その力場が水面に触れると斥力を発生させ、艤装が浮揚する。よって艦娘は水面での活動が可能になる。
 だが、それは水面に限った話である。陸上では浮揚しないし、海上でもあっても艤装に応じて浮揚に必要な水深がある。龍鳳の場合、だいたい3mほど。それより浅い場所では斥力の足りない分だけ沈んでしまうし、力場が海底と干渉して、動きを大きく制限される。それを艦娘たちは"座礁"と呼ぶ。
 しかも艤装の重さは、駆逐艦の場合でもゆうに100kgを越える。艦娘も膂力はただの少女と何も変わらないから、浮揚しなければ、とても支えられるものではない。
 こういった事情から、上陸にはクレーンが必要となる。艤装を支えてもらわねば、陸上にさえ上がれないというわけだ。だから、艦娘は港からしか上陸できない。
「では、ここからは車に乗るぞ」
「あ、はい」
 一足先に上陸していた日向は、すでに港湾関係者との話を終えたようである。艤装をそちらに任せるばかりでなく、車もすでに借りたようで、四駆に寄りかかって龍鳳を穏やかに眺めている。

「思ったよりしっかりした港があるのですね」
 龍鳳は助手席に乗り込む。煙草の香りが鼻をつく。どうやら、前に乗っていた人が煙草を吸っていたらしい。
「温禰古丹は、民間人も多い。軍もあまり手を抜けないんだ」
 日向は、手慣れた様子でギアを1速に入れ、アクセルとクラッチとを踏む。
「民間人ですか」
「この島にはプラントや鉱山があるからな。大泊は海軍専用だからあんなもんだが、オホーツク海側の根茂や西泊には、もっとしっかりした港湾があるぞ」
 港湾地区を出ると、道はダートになった。突然だったので、危うく龍鳳は天井へ頭を打ちそうになる。
「舗装は……」
「そこまで石油資源は回らんな。なに、龍鳳は小柄だから、頭を打つことはないだろう」
 伊勢を乗せたときにはさぞ楽しかったが。にやり、と笑う日向に、龍鳳は少し違う側面を見た気分になった。
「それで、どこに向かうんですか?」
「折角、温禰古丹に来たんだから、まずは幽仙湖と思ったが。それとも、行きたいところでもあったか?」
「いえ、特には。日向さんにお任せします」
「わかった。では、もうしばらく揺れるからな、勘弁してくれ」
 日向の言葉とともに、車が大きく動揺して、龍鳳はフロントガラスに頭を突っ込みそうになった。



 絶景である。
 幽仙湖の中央からそそり立つ黒石山は、綺麗な円錐形。稜線は、富士のような綺麗な弧で、青空を切り取っている。緑の山肌には、それを切り裂くように何本もの白い雪の筋が走り、一つの絵を描き出す。雲ひとつ無い蒼穹との対比は、山の姿を一層際立たせる。
 なにより、湖に映る黒石山の山容が、龍鳳の目に焼き付く。黒石山を取り囲んだ幽仙湖は、凪いで波一つ立てることがない。まさに鏡のごとく、黒石山の偉容を映しとる。青く輝く湖へ向かって、逆さに聳える黒石山は、現実のものとしか思えぬほど、くっきりと映しだされていた。時折風に揺らいで、その山が鏡の向こう側の世界であると訴えるが、かえってその景色が現実であることを龍鳳に知らせてくれるようだ。
 崖によって外界と遮断された幽仙湖は、空や山を映しこみ、まるで別世界をそこに持っているかのよう。"向こう側"への扉なのではないか、とさえ思える。そのまま覗き込んでいると、吸い込まれそうになる。そもそも、どちらが"ほんとう"の世界なのだろうか。それさえも、曖昧にされそうだった。

 この世にこのような場所があるとは。龍鳳はただひたすらに息を呑んで、その絶景の前に立ち尽くした。


「すごいだろう?」
 どれほどの時間が経ったか。ほんの数分しか経っていないようにも、何時間もの時間を過ごしたようにも、そんなふうに龍鳳には感じられる。ただただ目の前の風景が、龍鳳の心を圧倒し、染め尽くしていた。
「ええ……」
 それ以外の言葉が出なかった。何か、言葉にすればそれだけで、この風景のどこかを傷つけてしまうような、そんな気がした。どんなに描写をしても、この"空気"を言い表すことができない。
「……見入るのはいいが、魅入られて湖に飛び込むのはやめてくれよ。此処から飛ばれては、助けにも行けないからな」
 日向の声に、はた、と下を向くと、崖の端まであと50cmもない。いつの間にやら、前に出てしまっていたようだ。その向こうは、遥か下の方に幽仙湖の湖面が見える。落ちればひとたまりもないだろう。慌てて、後ろに下がった。
「気づいていなかったのか。よかった、危うく黒石の山に、大事な後輩を連れて行かれるところだった」
 下がってから、龍鳳の膝が笑い出す。あと少しで"向こう側"へ連れて行かれるところだったことが、龍鳳にはとてもそら恐ろしかった。そしてそれでもなお、この風景から目を離すのが勿体無くて、視線を黒石山・幽仙湖から離すことができない。日向の言うように、なにか魅入られてしまったようだった。
「いや、そこまで気に入ってくれると、案内した甲斐もあったものだ」
 その様子に、日向はにこやかな表情を浮かべる。
「私、こんな場所がこの世にあるとは、思いませんでした」
「この世、と来たか。それまた、随分な高評価だ」
 日向の声もまた、機嫌が良いのか高めである。
「本当に案内した甲斐があったよ。以前、伊勢を連れて来たときとは大違いだ」
「伊勢さんですか?」
「あいつ、この景色を見ての第一声が、"すごい、しゃぶしゃぶ鍋だ!"だったからな」
 苦笑する日向に、龍鳳もまた渋い笑いを返した。周囲を断崖に取り囲まれ、中央に山が聳え立つ。あのドーナツ状のしゃぶしゃぶ鍋といわれたら、そう見えなくはないが……。
 言葉はそれっきり。二人の間には、また沈黙が横たわった。時々風に揺れる野草の音が、さわさわと耳をくすぐる。龍鳳は、再び黒石の山に魅入られる。

「神が、な」
 日向が呟いたのは、また幾分か時を経てからであった。気づけば、日の色はだいぶ赤みを帯びつつある。
「温禰古丹にはな、神がいる」
 日向の視線は、やはり山に向けたままである。
「神、ですか?」
「千島を創ったコタン=ヌ=クルという巨人は、この温禰古丹の湖に眠っているそうだ。そういう、かつての住人たちの言い伝えだよ」
「かつての住人、アイヌの人々ですか?」
「そう、千島アイヌ。つい150年前程前まで、千島は彼らの島だったんだ」
 何の話をしたいのか。龍鳳は、やや山に引っ張られながら、しかし日向の方を向く。腕組みをして仁王立ちする日向だが、表情は逆光でまるで見えなかった。
「そもそも、温禰古丹という名前も彼らが名付けた名前だろう」
「大きい村という意味だ、と以前読んだことがあります」
 たしか、警備府庁内の新聞か何かに書いてあった。何かの引き写しだったのだろうが。
「間違ってはいないが、私は少し違うと思っている」
 遠くを見据える日向の立ち姿は、夕日に照らされ、顕然とそこにある。
「onneという言葉には、"大きい"という意味もあるが、"年を取った""偉大な"という意味もある。私は、温禰古丹とは、"偉大なる村"という意味なのではないかと、そう考えるよ」
 この景色には偉大さを感じるだろう? 日向の言葉に、龍鳳も心底納得する。
「実際、かつてはアイヌたちの聖地として、ヌサが捧げられたりしたそうだからな。今では、滅多に人も来ない秘境だが」
「おかげで、この絶景を独り占めできますけれど」
「違いない」
 日向が少し笑ったことは、龍鳳にもわかった。
「流石に冷えて来たな」
 日はいよいよ傾きつつある。風も、夕方の冷たい風に変わりつつあった。9月初めの千島は寒い。
「お茶を入れて来たが、飲むか?」
 日向は車まで戻ると、やがて水筒を持って戻ってくる。
「あ、ありがとうございます」
 渡されたコップからは、湯気が立ち上る。ふーっ、と一吹きして、それからすすった。
「……烏龍茶ですか?」
「こないだ武蔵から貰ってな。福建のどこだったかに寄港した土産だそうだ」
 てっきり紅茶だろう、と龍鳳は勝手に予想していたので、不思議な感覚を覚える。香りは良いし、きっといいものなのであろう。ただ、紅茶だと思っていたので、口に違和感があった。
「ところで」
 烏龍茶を啜りながら、視線はまた山に向く。
「日向さんは、よくここに人を連れてくるのですか?」
「いや」
 少し間をおいて、日向はゆっくり答える。
「君で四人目だ。一人目は伊勢、続いて翔鶴と大淀、そして君だな」
「思ったより、少ないのですね」
「温禰古丹、という名前を出せる相手は、限られるからな」
 不意に出たその言葉に、龍鳳は黙り込む。どう返していいのか、まるでわからなかったからだ。

 今を去る四年前、幌筵島と温禰古丹島との間にある温禰古丹海峡にて、大規模な海戦が行われた。深海棲艦のオホーツク海突入を阻止すべく起こったその海戦は、ついに温禰古丹海峡を守り切って艦娘側の勝利に終わった。しかし艦娘側の被害も甚大で、当時の第五艦隊はほぼ壊滅している。
 龍鳳は勿論のこと、日向もその海戦で抜けた穴を埋めるべく、幌筵へ新たに赴任している。

「先に」
 それでも龍鳳は、必死に言葉を紡ぐ。そのままでいるには、空気が重すぎる。そう思ったからだ。
「日向さんは、仰いましたよね。温禰古丹には、神がいる、と」
「ん? ああ」
 日向がこちらを向く。表情は読み取り辛い。
「それは、本当なんでしょうか?」
 だから龍鳳は思い切って、疑問をぶつける。日向の目がやや見開かれた。
「どうして、そう思うんだ?」
「……温禰古丹海峡海戦では、多くの犠牲が出たと聞きました。第五艦隊が殆ど壊滅状態だった、と」
「そのようだな。そうだから、私はここにいるようなものだよ」
 日向の表情は、相変わらず龍鳳を探るよう。龍鳳もまた、浮かび上がった疑問をどう処理していいのか、よくわからなかった。
「それなら……、もし温禰古丹が本当に神の島ならば、どうしてそれを看過したんでしょう?」
「……ん?」
 怪訝そうな日向の表情。
「本当に神がいるならば、艦娘の死を見過ごしはしなかったんじゃないかって、そう思うんです」
「神が救ってくれる、と?」
 まるで神風のように? と日向は付け加えた。龍鳳も、自分の話が随分と無理があることをわかっている。
「私、思うんです。神が本当にいるなら、こんな風にはなってないんじゃないか、って。深海棲艦が暴れまわって、本土沿岸部が全部焼け野原になっちゃうみたいな、そんなことはなかったんじゃないかって」
「それは一理あるな。そして、そう唱えるひとは世界にも少なくない。例えばイギリスでは、国教会が風前の灯火らしい」
 日向がふむふむ、と頷く。
「この温禰古丹だってそうです。第五艦隊におられた皆さんは、この島を、そしてこの御国(みくに)を守るために戦ったんです。もしそれを神が見ていれば、きっと救ってくれたに違いないと、そう思うんです。そうは、思いませんか?」
 艦娘達は、御国を守るために懸命に戦い、温禰古丹海峡に沈んでいった。それをただ"見ているだけ"の神が、いるはずがない。龍鳳は、そう思いたかった。
 艦娘というものは、御国のために戦っているのだ。救われなければ、おかしいではないか。
「そうだな」
 ややあって、日向が口を開く。やや視線が鋭く、龍鳳は気圧される。
「あくまで仮定の話だが、仮に温禰古丹にいる神が――千島の創造神たるコタン=ヌ=クルが、海戦を見ているとして、艦娘を救おうと思うだろうか?」
「そうではないですか? 艦娘は、居場所たる御国を守ろうとしているのですよ?」
 疑問を呈するまでもない。龍鳳はそう思っている。日向がそう思っていないことが、不思議だった。
「ふむ……。だが、私はそうは思わない」
「どうしてですか?」
「コタン=ヌ=クルにとっては、深海棲艦も我々も同じようなものじゃないかと、そう思うからさ」
 返答は、衝撃だった。龍鳳には全く理解できない、一言だった。
「それは、そんな」
「コタン=ヌ=クルを信じていた人々が、どうなったのか。龍鳳も、知らないわけではないだろう?」
 コタン=ヌ=クルを信じていた人々、千島アイヌ。彼らがどうなったか、龍鳳もちゃんと知っている。知っているからこそ、言葉を返すことはできなかった。
「千島アイヌは、御国を守るという御旗のもと、色丹島へ移住させられ、そこで全滅したのさ。今となっては、言葉も文化も、何も残っちゃいない」
 日向は、黒石山の方へと向き直った。黒石の山は、赤く輝いている。
「お陰で、この温禰古丹が神の島だと知るひともいなくなり、コタン=ヌ=クルを祀るひともいなくなった。コタン=ヌ=クルには、御国を恨む道理こそあれ、御国を守る道理はないのさ」
 その言葉が、龍鳳には突き刺さる。御国とは守るべきものであったはず。それを否定されると、どうしていいのかわからなくなる。
「コタン=ヌ=クルにとって、深海棲艦も御国も、そう考えたら同じだろう? そこに住む人間を追い払い、全滅させ、自らの中に取り込んでしまったのだから。違いは、人間かどうかというだけだ」
 だが、反論はできない。反論するだけの論理は、龍鳳には全くなかった。
「だから、私はあまり御国という言葉が好きではないんだ。御国のためならば、という言葉は、思考を停止させる。そんな気がしてな」
 その言葉は、龍鳳の心を撃ちぬいた。
龍鳳は、艦娘というものを「御国を守るための存在」だと思っていた。そう習ってきたし、疑ったことはなかった。漠然と、ただ艦娘だから御国を守るべきだと、それしか考えていなかった。
「では、日向さんは」
 だから龍鳳は問う。
「なぜ戦うのですか?」
「なぜ戦う、か。そう聞くということは、"御国のため"というのが、龍鳳の答えだったと、そういうことなのか?」
 厳密には違う。なぜ戦っているのか、そんなこと龍鳳にはわからない。だが、艦娘とは御国のために戦う、そう習ってきたから、"そういうもの"だと思っている。ただそれだけ。
「そうだと、思っていました。艦娘とは、この帝国を守るのが使命だ、と」
「ふむ……それもそうかも知れないな。だが、それは"艦娘"の目的であって、君の目的ではない。そうじゃないか?」
「え?」
 艦娘? 私? そこに違いがあるのか。龍鳳には、わからない。
「問題は、"君が"なぜ戦うか、だ。そこを勘違いしてはいけないと、そう思っている」
 日向の真剣な視線が痛くて、龍鳳は顔を上げることができない。
「では、日向さんは、"御国"を守るために戦っているわけではない、と」
「まあ、そうなるな」
「では、守ろうとは、そう思わないのですか?」
 せめての反撃。というよりは、悪あがき。龍鳳は、日向に問い返す以外の術を持たなかった。
「何も、国のことを思っていないわけではない」
 すぐに答えは返ってくる。
「この国は私が生まれ、育ってきた場所だ。私が私としてここにあるために、この国は欠かせない。だからこの国は守りたい。そう思っている」
 私が私としてここにある。その言葉の意味が、龍鳳にはまるでわからない。この日向という人は、一体何を問題としているのだろう。
「だが、御国が守るべきものであるから守るのではない。あくまで、御国を守るのは手段であって、目的ではないんだ。そうだろう?」
 そうだろう? と問われても、龍鳳は頷くことができない。これまでそのようにして、龍鳳は生きてきたからだ。
「では、日向さんはどうして戦っているのですか?」
 故に、龍鳳は問い返す。苦し紛れでしかない問い。
「私のためだよ。私には、私があるべき場を守る力がある。そして、私は私としてここにあり続けたい。だから、その力を行使して私は私を守る。ただ、それだけだよ」
 その答えは、しかし龍鳳には全く理解できなかった。私、とは一体なんだ。


 あれからすぐ、日向は我に返ったようで、それはもう、龍鳳が呆れるくらいに謝ってきた。曰く、説教みたいになって申し訳ない。折角の休日にこんな話をするべきではなかった、と。
 気軽に話せるから、つい気が緩んでしまったんだ、と言われると、龍鳳も悪い気がしない。結局、こちらこそ面白い話を聞けましたから、と笑って返した。
 龍鳳としても、普段の姿と異なる日向の姿を見れて楽しかったところもあるし、なによりあの風景を教えてくれたのは、何にも代え難い贈り物であった。だから、今更日向にとやかく言おうとは思わない。
 だが日向の言葉が、心にトゲとして刺さっているのも事実だった。
 なぜ、戦っているのか。
 つまるところ、その話になる。龍鳳はなんとなし、御国のためと思って来たが、日向はそれを真っ向から否定した。御国のため、というのは所詮手段でしかない、と。
 では、目的とはなんなのか? 龍鳳には、まるで検討がつかない。



 海軍所有の保養施設は、温禰古丹島北方の蓬莱湖畔にあった。黒石山は南方であるので、龍鳳達はちょうど温禰古丹島を縦断する形になる。
 相変わらず未舗装の道無き道。海上もかくやという揺れの中、日向と龍鳳との間には沈黙が広がる。
 舌を噛むから話せない、ということもある。だが、それ以上に、何を話していいのか、龍鳳にはにはよくわからなかった。
 日向との間が殊更気まずいというわけではない。ただ、先の問いに何か答えを出さなければいけない気がして、しかし全く答えが見つからず、ゆえに話の糸口を見失っていただけだ。

 結局、一時間余りの時間、龍鳳は頭をぶつけないように気をつけながら、ぼんやりと車窓を眺めて過ごした。
 時はすでに夕方。左手に見えるオホーツク海も朱に染まって、波の白と綺麗なコントラストを見せていた。

 様子が変わったのは、途中の霧呼台で伊勢を拾ってからだった。
「ごめんッ!」と両手を合わせて謝る伊勢に、日向は決して表情を崩すことなく、しかし柔らかい声で「構わんよ。伊勢は私より鮭の方が重要だったんだろう?」と皮肉り、「そんなことないよぅ、本当にごめんってば」と伊勢が深々頭を下げる。
 車の中の会話は、そんな調子で掛け合いが行われて、一気に明るさを増す。伊勢は朝一番から鮭釣りをしていたらしく、自分がどのようにして大きな鮭を釣ったのか、身振り手振り交えて、臨場感たっぷりに話していく。歯切れのいいその話には、ついつい龍鳳も楽しくなるほどだ。
 ちょっとした劇みたいな伊勢の話ぶりに、日向は、うんうんと頷いている。時折、なるほどそれは、私との約束を反故にした甲斐もあったものだな、などと皮肉を投げかけ、伊勢を慌てさせる。
 その様を見ているのもまた、龍鳳には楽しい。そんな掛け合いをする日向は、表情こそあまり変わらないが、楽しそうなのだ。伊勢もまた、皮肉に慌てた素振りを見せながら、声は弾んでいる。
 要するに、この応酬自体が、姉妹のコミュニケーションなのだ。互いに互いのことを信頼しているからこそのやりとりなのだろう。
 そう思うと、龍鳳はやや寂しくもなった。龍鳳にとって、翔鳳や瑞鳳は姉妹ともいえる。だが、空母になったころには翔鳳はすでに戦死してしまっていたし、瑞鳳も一航戦の精鋭だから気軽に付き合える感じではない。
 こんな丁々発止を楽しむことができる姉妹が欲しかった、と龍鳳は少し思わないでもない。



 温禰古丹島の夕方は長い。保養所の名物だという露天風呂は、濃い朱に染まっていた。
 正面の蓬莱湖は、峻険な断崖に囲まれた幽仙湖とは正反対。ゆったりと湖畔が開けている。湖の向こうに座す根茂山も、緩やかな稜線でふたつのコブを描く。まるで親子寄り添うような姿がそこにはあった。
 蓬莱湖もまた凪いで鏡の如く、根茂山を映し込んでいる。先にみた黒石のように逆さに聳えているが、しかしそれは異世界のようには思われない。強いて言うなら、陽炎のような、そんな幻のように龍鳳は感じる。
 先に見た黒石山は、猛々しく圧倒される山。それからすると、根茂の山は、穏やかに包み込んでくれるような、そんな景色であった。
 早速、と掛け湯を終えた龍鳳は湯に入った。やや硫黄が香る湯は、白濁してややぬめる。つるりとした湯触りは、温泉ならでは。湯加減がやや熱めであるのは、外気の気温の低さとちょうどよい。
 思わずため息が出てしまう。千島に来てよかったと思うことのひとつが、こうして気軽に温泉に入れるようになったこと。火山群島である千島は、そこかしこに温泉が湧く。幌筵の警備府も、風呂はもれなく温泉である。
 改めて湖を眺め、またひとつため息をついた。入る湯船が、蓬莱湖と一体になったようだった。その向こうに、根茂山が柔らかい山容を浮かべている。先まで見ていた絵のような世界に、自分も取り込まれたような、そんな気分にさせられる。
 まるで山に癒されているかのような。そんなことを、龍鳳は思った。

「あっ、龍鳳だー!」
 しばし遠くを眺めていた龍鳳に、後ろから声がかかる。
「おや、伊勢さん。お先に入っております」
「やっぱりここに来たらまず風呂よねー!」
 手拭いを肩にかけ、ずかずかと大股で入ってくる伊勢。豪快さに、龍鳳は目を丸くした。
「ほんと、日向はわかってないよねぇ。そう思わない?」
 これまた派手に掛け湯をすると、湯船に入ってくる。白い湯が大きく波打った。
「日向さん、来られなかったのですね」
「"風呂は夕食後に入るから、今はいい"だってさ。根茂の山が綺麗なのは今の時間なのに、本当にわかってないわ」
 伊勢が足をばたつかせると、また湯船が波立つ。湖まで、何か呼応したかのようにさざなみを刻んでいる。
「そもそも、何でみんな別の部屋なのよぅ。大部屋雑魚寝でいいじゃない。折角の浴衣パーティーの機会なのに」
「私はそれでも、構わなかったんですが」
「それも日向のせいよね。日向ったら、誘いという誘い、全部断っちゃうなんて、姉をなんだと思ってるのかしらね」
 ぷー、っと頬を膨らす伊勢は、演習などで見せる勇壮な姿と、おおよそ異なっている。こういう姉だからああいう妹なのだろうと、そんな言葉を龍鳳は胸にしまっておいた。
「明日演習ですから、日向さんもいろいろ準備があるのではないですか?」
「そうなのよ。出撃前とか、いつも精神統一とか言って、一人になりたがるのよ。今回もそんなところみたいだけどさぁ。でも折角の休養日だよ? も少し付き合いよくてもいいじゃない」
「そうでしょうか」
「そうそう。枕投げするくらいのノリで丁度いいのよ。いつも、日向は難しく考えすぎるんだから」
 龍鳳は、やや苦笑するしかない。日向の言い分だって、よくわかるのだ。
「ところで」
 ゆえに、話をやや逸らす。この愚痴だって、姉妹の中での阿吽の呼吸があってこそのもの。龍鳳の入る隙間は残っていないからだ。
「よく伊勢さんと日向さん、同日に非番になりましたね」
 この第五艦隊に、戦艦は伊勢・日向の二人。いくら隣の島であり、かつ艤装持参であるとはいえ、その二人が二人とも幌筵島柏原を離れてしまって、よいのだろうか?
「あー、それ?」
 手拭いで顔を拭きながら、伊勢がこちらを向く。
「えっと、ホントは内緒なのかもしれないけど……」
「あ、もしかして軍機関係ですか?」
「いや、もう大丈夫ね。ほら、こないだアリューシャン攻略作戦があったでしょ? あれに参加していた大和と武蔵とが、今日の夜には柏原に帰ってくることになったんだって。それなら、って榛名さんがお休み回してくれたのよ」
 なるほど、日本の誇る戦艦二隻の動向であれば、それは秘されるものだ。知らなかったことを龍鳳も納得する。
「でも、それでは伊勢さんが帰ってこられた後も、大和さんたちは残っておられたんですか?」
「攻略後の後処理がいろいろあったみたいよ。私達と違って、帝国海軍のエースだから」
「米軍と一緒なのでしたか」
「そうそう。たぶん、めんどくさーい交渉だとかなんとか、そういうこともやってるんじゃないかな。大和はともかく、武蔵はそういうの得意だしさ」
 東部アリューシャンの引渡しに関する話し合いとかあるもんね、と、手ぬぐいを湯船で風船のように膨らませながら、ノンビリ告げる。マナー違反だが、伊勢は気にしないらしい。
「それで、どうでした、米軍は?」
 龍鳳も気にせず話を続ける。そも、龍鳳は米海軍と接触したことがない。太平洋は長く封鎖されて、アメリカ大陸との交渉は途絶していた。最近ではアメリカも南洋方面に進出していると聞くが、龍鳳は南洋への遠征にも行ったことがない。
「何もかもが圧倒的、というところかしら。なんせ、正規空母が10人も来ていたのよ。おかげさまで、私たち戦艦は、遠足みたいな感じだったわ。仕事だって艦砲射撃だけだったし、空のことも周囲のことも全く気にしなくていいから、射撃演習みたいなもんよね」
 正規空母10人! 龍鳳にはにわかに信じられない。日本の正規空母は総勢で10人もいない。軽空母をあわせても、20人ほどだ。
「こちらからも蒼龍飛龍の二人が行ってたから、正規空母の艦載機だけで総数1400機。軽空母も合わせたらざっと1800機を越えてるの。壮観だったわよ。飛び立つ艦載機」
「空すべてが艦載機になりそうです」
「まさにそんな感じよ。あんなもんが、向こう側から見えてきたら絶望するでしょうね」
「伊勢さんでも?」
 伊勢といえば、対空戦のプロフェッショナルとして知られる。佐世保にいた頃から、航空攻撃で負傷したことがない、という。
「あんなの無理無理。艦載機の性能も、随分良かったもの。大和もアラバマも――ええと、アラバマってのは米軍の戦艦の娘だけど――その彼女もとても生き残る自信はない、って言ってたし。戦艦の時代ももう終わる、ってそんな感じだったわ」
「え?」
「だって、主砲が届くずっと向こうから、あれだけの打撃力を与えられるのじゃ、話にならないもの。戦艦主砲の射程圏内へ入る前に沈められちゃうから、空母さえ数が揃えば、戦艦の仕事はないの」
 私は航空戦艦だけど似たようなものよね。そう述べる、相変わらず明るい伊勢である。
「ですが、艦砲射撃は重要じゃないですか。深海棲艦の"巣"を潰すのには、欠かせないものでしょう?」
 深海棲艦は、繁殖する時のみ沿岸部に上がり、そこで"子実体"を作る。それを潰さないことには、子実体からいつまでも増え続けるため、じり貧となってしまう。
「そりゃ、大和姉妹の艦砲射撃とか、タナガ島が更地になりそうな勢いだったけど。そのためだけに戦艦を作ってもねぇ。第一、艦爆による空爆だっていいじゃない」
「それは、そうなんですが……」
 残念ながら、反論はできない。うーん、と龍鳳は唸って、黙り込んだ。
「もー! 龍鳳ちゃん、優しいなぁ!」
 ややあって、突然伊勢が後ろから龍鳳へ抱きつく。龍鳳はびっくりして、手をバタバタさせた。
「え、ちょっと、伊勢さん?」
「私に気を使ってくれてるんでしょう? 可愛いなぁ」
 ずりずり、と伊勢に頬ずりされる。後ろから両手はがっしり胴に回されているし、気づいたら伊勢の膝の上にいる。伊勢を前にしては、龍鳳はされるがままになるしかない。肩幅も背丈もしっかりある伊勢と、小柄な龍鳳とでは勝ち目がないのだ。
「ほんと、龍鳳ちゃん色白で羨ましいなぁ。なんかあっちこっちプニプニしてるしぃ」
「いや、ちょっと」
「龍鳳ちゃん、着痩せするのねぇ。いいなー。羨ましいなー」
 もがけどもがけど、龍鳳は抜け出ることままならない。それをいいことに、伊勢は龍鳳をぺたぺたと触っている。そういえば、気づいたら"ちゃん"付けになっているのだが……。
「いやー、どうせならこういう妹が欲しかったわね」
 今や、伊勢の正面膝の上にうまく収まってしまった。さながら、抱きまくらである。どうやら抵抗しても無駄らしいし、触ることをやめて抱きついているだけになったので、龍鳳も諦めてそのまま収まっておくことにした。
「いえいえ、日向さんの方がいいですよ、きっと」
「えー、だってあの娘こんなに優しくないもん。それに、こんなに抱き心地もよくないし。そもそも姉に対する敬意というものが見えないのよ。こう、"お姉さま! お誘いしていただいてありがたいです!"とでも言ってくれれば可愛げもあるのにさ。"伊勢"って呼び捨てだし、お風呂入ろって誘っても、"風呂は食事の後に入る"って一言で断るのよ。ほんと、信じられるぅ?」
 一気に伊勢はまくし立てた。途中に入った比叡の真似は、やや似ていた気もするが、日向がそんなことを言う姿は、龍鳳には想像できない。
「ねぇねぇ、龍鳳ちゃん。今日から日向の代わりに私の妹にならない?」
「いや、そうは言われましても……」
 頭の上に顎を乗せられて、龍鳳は本当、ぬいぐるみか何かになった気分である。
「えー、いいじゃん。なってよう」
「日向さんの方が、きっといいですよ。日向さん、優秀な方ですし。伊勢さんにはお似合いです」
「龍鳳だって優秀じゃないの」
「そんなことないです」
 つい。まさに、つい、というところ。龍鳳から言葉が漏れた。
「そんなことない?」
 そしてそれは、伊勢にきちんと捉えられた。伊勢が顔を傾けて、右上から龍鳳を覗きこんでくる。濡れた煉瓦のような赤茶の瞳が、何もかも見通しているような気がした。
「どうして、そう思うの?」


「やっぱりねぇ。日向を一度しばかないと」
 龍鳳は、結局すべてを話すことになった。自分には根本的に才能がないのだということ。自分が何のために戦っているのかもわからないこと。そんな自分が空母でいていいはずはないということ。
 話したくはなかった。だが、話さないことを伊勢は許してくれなかった。抱きまくらにされているから逃げることもできず、ということである。
「日向さんのせいではありませんよ。仰ったことは、何も間違ってはいませんから。ちゃんと考えて来なかった、私がいけないんです」
「だから、日向の言うことを真に受けちゃダメだって。大体、あの娘はいっつも重く考え過ぎなんだから」
「ですが」
「"なんで戦ってるか"なんて、そんな真面目に考えないといけないようなものじゃないよ?」
 機先を制する伊勢の言葉に、龍鳳はやや面食らった。
「だってさ、それ仕事じゃん? そこに、何かいろいろ求めたって、しょうがないよね」
「仕事、って……」
 艦娘というものは、そんなに割り切れるものではない。少なくとも、龍鳳はそう思う。
「私達は、艦娘ですよ? 戦うために、ここにいるんです。そうじゃないですか?」
「えーっと。私は、そうじゃないと思うのよ」
 伊勢の答えは、何も考えてないように感じられた。それだけに、龍鳳には得体が知れない。
「艦娘が戦うためのものなのは、私もそうだと思うけど。私達が戦うためにいる、といわれたらちょっと違うんじゃないかって。私たちは艦娘であるけど、艦娘でしかないわけじゃないよね」
「艦娘以外になることはできないのに、ですか?」
「できないことはないでしょ? それこそ、その気になれば辞められると思うし、そもそも艦娘であり続ける方が無理だとおもうよ」
「どうしてです? 私達は、この御国を守る切り札じゃないですか」
 深海棲艦は、艦娘無しに倒すことが極めて難しい。故に、人道的には問題のある艦娘という存在が容認され続けている。
「そうだけどさ。いつまでも戦争が続くわけじゃないでしょう? それに、艤装だけを自動的に動かす研究だって、進んでるらしいよ」
 そのうち、若い女性が艤装を背負う必要もなくなるだろう、って日向が言ってたよ。伊勢の告げるその言葉は、艦娘が"娘"である必要を失いつつあるということ。ゆくゆくは艦娘が必要なくなるのだ、ということを意味している。
「だからさ、私達が艦娘でなければならない、という理由はあんまりないと思うよ」
「ですが、私たちは多くを(なげう)って艦娘になっていますよね? すでに私たちは、他のものには」
「なれるよ」
 龍鳳の腰に回る伊勢の腕が、少し締まった。
「だって、艤装を外せば普通の人間と変わらないじゃない? 艤装が背負える、ってのは一つの能力なんだよ。それしかないわけじゃないんだから、別にそれを選ぶ必要はないんだって」
「ですが、もし私達がそれを捨ててしまえば、この国はどうなるんです?」
 日向にいろいろ言われたことではあるが、でもやっぱり、龍鳳は皇国のために戦っている。この帝国を守れるのは、艦娘しかいないのだと、そう思っている。
「この国、ねー」
 顔をしかめた日向と違い、伊勢の口調は相変わらず軽いままだった。
「やっぱり龍鳳ちゃん真面目ねぇ。そんな肩肘張ってると、疲れちゃうよ?」
 ぽんぽん、と頭を優しく叩かれる。後ろからなので、龍鳳から伊勢の表情は見えないが、なんだか母親に撫でられているような、そんな気分になった。
「肩肘を張っているつもりは……」
「国なんてもの、私達みたいな小娘がそうそう背負えるもんじゃないと思うけど、どう?」
「でも、背負わないといけないんじゃないですか? 私達が国を守らなければ、誰が守るのです?」
「たぶん、そこの認識が私と龍鳳ちゃんとで違うと思うんだよね」
 思わず噛み付いてしまった龍鳳であったが、伊勢の答えには不快感が含まれない。それくらい、想定していたといった口調である。
「それじゃ、ちょっと話を変えようかな」
 と。そこで、伊勢は龍鳳を抱え直した。どうやら、離すつもりはないらしい。
「龍鳳ちゃんって、よくニュース見る?」
「人並みには、見ると思いますけれど」
「それじゃ、去年のノーベル医学・生理学賞の話も知ってるかな?」
「深海棲艦の研究が取ってましたね。深海棲艦の正体を解明したということだったでしょうか」
「そうそう。蔡蘭(ツァイラン)、サッタール・アル=サフィーナ、タマル・アブドゥシェリシュヴィリの三人」
「……よく覚えておられますね」
「日向がよく話をしてくれるから、覚えちゃった。ほら、早口言葉みたいじゃん?」
 一応、艦娘に取っての宿敵の話だというのに、随分と軽い話のようだ。てへ、とでも言い出しそうな口調。
「それに、私達にもやっぱり大きく関係するでしょ?」
「私達にとっても、敵の話ですから」
 敵を知ることは、何よりも重要だ。そういう風に、艦娘見習い時代に叩きこまれたことを思い出す。
「そうなんだけどさ。ただ、ちょっとそこに収まらないんだよね。特に、三人目は」
「えっと、なんとかシュビリ氏ですか?」
「アブドゥシェリシュヴィリ氏ね。彼女がやったのは、深海棲艦の遺伝子構造解明なんだって」
「粘菌なんでしたっけ。あれ」
 最初こそ、非生物だと思われていた深海棲艦だったが、実は粘菌が進化したものであったことが、すでに明らかとなっている。
「そうそう。だから、遺伝子を持ってるわけ。で、彼女が遺伝子を解明することによって、深海棲艦には致命的な弱点が判明したんだそうよ。この辺り、日向の受け売りだけど」
「弱点? 遺伝子の、ですか?」
「うん。なんでも細胞同士の情報交換を阻害できるとかなんとか。急激に進化したから、弱点も多いんだって。で、人間側はその弱点を攻撃して、深海棲艦を弱体化させることを目論んだみたい」
 まるでSFみたいだ、と龍鳳は感心さえ覚える。生物さえハッキングするということのようだ。
「ほら、龍鳳ちゃん聞いたことない? 深海棲艦に対してウイルスで攻撃を仕掛ける、って話」
「あ、それは聞いたことがあります!」
 およそ2年くらい前、まだ龍鳳が「大鯨」であったころに、そんな話を伊8から聞いたことを龍鳳は思い出す。
「あれって、遺伝子攻撃なんだって。ウイルスって、標的の細胞の遺伝子を一部組み換えちゃうものらしいのよ。それをうまく使って深海棲艦の遺伝子の弱点を狙い、死なないように、かつあんな大規模な個体を作れないようにするんだって」
「えっと、つまり?」
「ほら、死んじゃうとウイルスが広まらないから。あえて死なないように、無力化だけできるようなウイルスをうまく作ったらしいよ。大規模な行動体が作れないようにだけするウイルス。だから、効果も抜群だった、ってわけ」
「確かに抜群でしたね」
 その効果は龍鳳も知っている。世界の誰もが知っているほど、劇的であった。この戦争は、艦娘が本格参戦して以来の15年、沿岸部にて一進一退の攻防を繰り広げていた。しかしウイルス散布が始まった3年前を境に、一気に人間側有利に傾いた。いまや次々と深海棲艦の生息地は狭まり、徐々にではあるが、戦争の終わりさえ見えつつある。
「こないだ大和が言ってたけど、敵の戦力は6割から7割くらい減ってるんだって。相当な話よね」
「大きな成果です」
 戦闘では絶対に不可能な数字だと、龍鳳だってすぐわかる。艦娘がどんなに頑張っても、せいぜい"艦隊"の6割を削るのがせいぜい。"全体の"6割を削るのは、既存の艦娘技術ではとても不可能である。
「そうそう。艦娘よりもずーっと大きな効果だったのよねぇ」
 伊勢が告げたのは、龍鳳が思っても口にしなかった言葉。さらりと口にした。
「艦娘よりも……?」
「艦娘が15年やっても、押し戻すのがせいぜい。そのまま戦争を続けていたとして、勝てる見込みがあったかといわれると怪しいでしょう? それが、ウイルス入れてから3年あまりで勝利が見えて来てるんだもの」
「それはそうですが……」
 なぜ、それを言葉に出さなかったのか。龍鳳は、あまり認めたくなかったからに他ならない。
「そう考えたら、こう思わない? 別に艦娘がそこまで頑張らなくても、後はなんとかなるんじゃないかなー、って」
「ですが……」
 龍鳳は、しかしその言葉を受け入れがたい。何故そうなのか、といわれてもよくわからないが、とにかく頷こうとは思わない。
「ですが、艦娘たちが御国のために働いたからこそ、今のこの状況があるんですよ?」
「その面は否定出来ないんだけどさ。海上運送が可能になったのは、艦娘が護衛するようになってからだしね」
 伊勢の軽い言葉は、やや不気味でさえあった。伊勢の表情が見えないのもあり、伊勢の真意が本当に全く読めなかった。
「そうだから、ウイルスのおかげで勝利しているだなんて、あんまり認めたくない話なのはわかるんだよ。私もそう思うし、このウイルスの話をしてるときは、あの大和でさえ眉が曇ってたもの」
「なら」
「でも、どうあっても認めないといけない話じゃない? だって、艦娘が深海棲艦を駆逐するには至らなかったという事実は、変わらないもの」
「……」
 不満はあるが、返答が思いつかない。龍鳳は黙り込んだ。
「だから、言ったじゃない。"そこまで頑張らなくても、後はなんとかなる"って。それくらいの軽い心持ちでいいんじゃないかな。"私は御国のために働く""御国を守れるのは私だけ"みたいに考えているから、"実はウイルスの方が自分たちより功績が大きい"と言われた時に大きなショックを受けちゃう。そんなこと考えてなければ、"ウイルス頑張ったな"くらいにしか思わないでしょ?」
 とんでもないことを伊勢が言っている。少なくとも龍鳳はそう感じる。
「だから最初に戻るとさ、やっぱり"何故戦うのか"とか、そんなことを真面目に考えることないと思うの。むしろ、そんなことを大仰に考えているとしんどいばっかりで、大して役に立つものでもない、とそう思うんだよねぇ」
「……」
「ほら、やっぱり龍鳳ちゃん、難しい顔してるー」
 伊勢が顔を覗きこんでくる。ややびっくりしたところで、唐突に右頬をつままれた。
「にゃにひゅるんでひゅ?」
「ほら、リラックスリラ~ックス」
 龍鳳は、自由奔放な伊勢に振り回されるばかり。うわー、顔もやわらかーい、と引っ張ったりなでたり、伊勢にされるがまま、また弄くり回される。
「だから、そんな難しいこと考えなくてもいいんだって。私達が御国を支える必要は、そもそもないんだよ? そんな重苦しいことを考える必要は、もうないし」
 でも、とそれでも龍鳳は言い返したい気分だった。なんとなく、これまでの頑張りを全て否定されているような気分になってしまうというのもあった。それに、艦娘というものは、やはり自分に与えられた"使命"であって、そんなに軽々に扱っていいものではない。龍鳳はそう考えるからだ。
「本当、龍鳳ちゃん真面目だね」
 覗きこんでくる伊勢が、やや溜息気味に呟いた。
「そういうわけでは……」
「こんな真面目な娘にヘンなことを吹き込んだ日向は、やっぱりあとでしばかないとね」
 伊勢は、龍鳳の胸元で拳を鳴らす。やや間抜けた音が、しかし伊勢の膂力を示している。
「ね、龍鳳ちゃん」
「なんでしょう?」
「龍鳳ちゃんって、戦争終わったらやりたいこととかある?」
「戦争が、終わったら?」
 戦争が終わる。その言葉は、強烈な違和感を伴って龍鳳の耳を打った。龍鳳は、自分の知る限り戦争がありつづけた。それが終わる、という光景は龍鳳の想像できるものではない。
「この戦争、近々終わるよ? でしょ?」
「……そうですね。人間側が、勝って終わるんですね」
 だが、先から勝利の話をしていた。考えてみれば、勝利するというのは戦争が終わるということなのだ。そのことに、龍鳳はなんとなく思い至っていなかった。龍鳳の日常は、つねに戦争に覆い尽くされてきた。それが失われるということが、龍鳳には実感できなかったのだ。
「終わるんだよ。終われば私達も、人類も、みな自由に陸海空をまたいで生活できるようになる。私達も、普通の女の子に戻れるよ」
 伊勢の描く光景は、理想的に過ぎて、やはり龍鳳は想像しづらい。だが、戦争が終わるとはそういうことなのだろう。
「そうしたら、龍鳳ちゃんはどうしたい?」
「どう、ですか……?」
「私達なら、きっと年金もたくさんもらえるし、やりたいことはなんでもできると思うよ。もちろん、空母の龍鳳ちゃんだったら艦娘を続けることもできると思うし、遊んで暮らそうと思ったら遊んで暮らせるとも思うし」
「ええと……」
 思い浮かばない。龍鳳には、全く思い浮かばなかった。艦娘でない自分という姿が、想像できない。龍鳳にとって未来とは、どこまでも現実の延長線。毎日空母として訓練をして、深海棲艦が現れれば出陣をする。それ以外の生活があるということ自体が、想像の外である。
「伊勢さんは、何かやりたいことがあるんですか?」
 だから問い返す。下策であることは知っている。きっと伊勢のことだから、龍鳳が答えを見つけられなかったことくらい、すぐ見抜くだろう。それでも、龍鳳は問い返す。
「うーん。特にないかなー」
 しかしこれまた、龍鳳の想像の外の答えが帰ってくる。まさか、問うた当人に答えがないとは、思わなかった。
「だって、終戦後の世界がどうなってるか、私もわからないから。聞いといて、悪いんだけど」
 ごめーん、とあっけらかんとした伊勢の言葉。あまりの明るさに、仕方がないかと思わされる。それが伊勢の伊勢らしさだろう。
「でも、とりあえず日向とノンビリ過ごせたらいいな、って思うかな」
「今と、それほど変わらないような?」
「今は、いつでも"いつか出動があるかも"とか考えちゃうから、あんまり無茶できないじゃない? もっと、後先考えずにやってみたい気はするわね」
 その意見に賛成ではあるが、この伊勢が後先を何も考えなくなったらどうなるのか。それこそ、龍鳳には想像さえできない。とんでもないことになりそうだ、という予測はつくが。
「どこか行ってみるのも面白そうよね。日向がいれば、とりあえず海外どこ行っても困らなさそうだし。世界を見て回るのもよさそうかなぁ」
 夢は広がるよね、と。伊勢のひときわ弾んだ言葉は、戦争が終わることの"希望"を象徴している。
「もしよかったら、龍鳳ちゃんも付いてきたらいいよ。龍鳳ちゃんも、海外行ったことないでしょ?」
「確かに、ありませんけど……」
「それじゃ、けってーい! あとで、日向に言っとくよ」
「え、あ」
 なんという"取らぬ狸の皮算用"。まだ戦争が終わったわけではないし、いつ終わるのかもわからない。それをそんな簡単に決めてしまっていいのか。龍鳳はそんな伊勢のオプティミズムが不思議でさえある。気圧されてしまって言い返すこともできないのだが。そも"戦争が終わったら皆で海外に行くんだ"なんて、不吉な話だ。
「龍鳳ちゃんになにか予定ができたら、いつでもキャンセルしてくれればいいしさ。それと、龍鳳ちゃんも行きたいところどこか考えておいてよ。きっと、決めておかないと困るだろうしね」
 なんだか、伊勢の中では完全に行くことになったようだ。龍鳳が半ば呆然としていると、唐突に両腰から持ち上げられて、伊勢の膝からようやく降ろされた。
「それじゃ、私そろそろ出るね。龍鳳ちゃんはどうする?」
「あ」
 まるで嵐みたいな伊勢の動きに、やや反応が遅れる。
「えっと、私はもうちょっと入っていきます」
「そっかー。それじゃ、お先に~」
 ざぶり、と伊勢が出るとお湯がやや減ったように思える。何より、湯船が広くなった。
「今度は、龍鳳ちゃん、戦争が終わったら何がしたいのか、って聞かせてね」
 ばいばい、と。そう言う直前に、伊勢は爆弾を落としていった。

 戦争が終わる、とはどういうこと?
 私がしたいこと、って何?
 龍鳳には、わからない。

 いつしか外はすっかり暗くなり、もはや正面に聳えるはずの根茂の頂きは黒く塗りつぶされている。蓬莱湖さえも、闇に沈んでどこにあるのか、全くわからなかった。



 夕食と聞いた龍鳳が食堂へ足を運ぶと、入り口のところに車椅子を押す叢雲の姿があった。
「おや、榛名さんに叢雲さん、こんばんは」
 ぱたぱたと駆け寄って声をかけると、まず叢雲が首だけをこちらに向けた。
「あら、龍鳳さん。こんばんは」
 叢雲の言葉に合わせるように、車椅子もこちらを向いた。
「龍鳳、こんばんは。浴衣、似合っていますね」
 車椅子に座って微笑んでいるのは、第五艦隊指揮の提督、榛名である。
「お先にお風呂を頂いてしまいました。榛名さん達は、いつこちらへ?」
 なんとなく袂を整え直しつつ、龍鳳は問い直す。体形的に、なんとも和装は収まりが悪いように感じられてしまう。どうにも、あまり似合わないらしい。
「榛名と叢雲とは、さっき着いたところです。北西の風が強くて根茂港に入れず、遅れてしまいました」
「では、小泊港に?」
「いえ、小泊も風が強くて。結局、大泊まで回ることになってしまいました」
 と榛名が答えたところで、仲居が出て来て、席に案内してくれる。
「それは遠回りを、お疲れ様でした」
「もう秋だから、仕方ないですね」
 車椅子の上で榛名は微笑みを崩さない。やや灰がかった髪を肩まで垂らし、膝にはタータンチェックの毛布をかけている。いつもの軍装ではなく、ウールのカーディガンを羽織っているからか、いっそう華奢に見える。
「あ、榛名さん、こんばんはー!」
「お先に失礼しております」
 案内された先には、すでに伊勢と日向とが席についている。榛名の姿を見るや立ち上がって、一礼。
「伊勢と日向もこんばんは。遅くなって失礼しました」
 榛名の一礼があって、それぞれ席につく。こじんまりとした、五人の席だ。

 提督というものは、本来艦娘とは隔絶されるものである。艦隊指揮権を持つ提督は、艦娘と上下関係にある。軍における上下関係とは、何よりも絶対視されうるべきもの。それに、提督は艦隊の中で唯一"普通の人間"である。そのため、どうしても立場としてやや浮いてしまう。
 実際、龍鳳が「大鯨」として所属していた第二艦隊の提督は、まるで神のような扱いだった。若い女性ではあったが、とても気軽に話しかけるような人物ではなかったし、そも任務以外の言葉なぞ、二言三言しかかわしたことがなかった。
「ところで、ごはんが榛名には少し多いのですが、伊勢はいりますか?」
「いいんですか? 一膳じゃ少し足りないなって思ってたんです!」
「どうぞどうぞ、日向もどうです?」
「いや、私は足りているので大丈夫です。それより、その徳利を頂けますか?」
 だがこの艦隊では、提督と艦娘との垣根は有って無きが如し。そもそも、提督がこの島に来たというのに出迎えさえしなかったし、こうして伊勢と龍鳳とは浴衣で相対している。第五艦隊とは、そういう場所であった。最初はとても戸惑ったものだが、慣れてしまうと龍鳳にとってはずっと気が楽だった。
 龍鳳はこうした緩やかな雰囲気が、榛名に由来するものだと思っている。提督となる以前、榛名は艦娘としてこの第五艦隊に所属していたと聞いている。だから、提督になってもそれ以前の付き合い方を継続しているのだろう。

 艦娘四人に提督一人を交えた夕食は、こじんまりとしながら、たいそう盛り上がって楽しい場となった。
 主役はいつも通り伊勢。今日の鮭釣りでの出来事を、身振り手振り交えて楽しげに語っていく。龍鳳は既に車の中で一度聞いているのだが、軽妙な語り口は、二度目であっても飽きさせることがない。しかも、本当に面白い話はとっておいたようで、ハラハラドキドキしたり、お腹を押さえて笑ったり、龍鳳は随分と忙しい羽目に陥った。
 やや驚いたのは、続いて叢雲もよく喋ったことだった。戦艦空母の前でも臆することないのは、地の性格なのだろう。叢雲の語る、駆逐艦たちの面白おかしい日常は、それぞれの姿が目に浮かぶようで、思わず笑みが零れてしまう。
 食事も半ばが過ぎた頃になると、だいぶ酒も進んできて、龍鳳もだいぶ喋った。今日見た絶景の数々は、言葉にしづらいものであったけれど、何か伝えたくて仕方が無いものでもあったのだ。
 龍鳳の懸命な話を、榛名も叢雲もよく聞いてくれた。特に叢雲は、自分も見てみたいものだと、たいそう喜んでくれた。それが、なんとなし龍鳳には嬉しくて、ついついまた言葉を紡いでいた。



 夕食がお開きになってしばし。龍鳳は、庭に出て涼んでいた。千島の秋となれば、夜は5度近くにまで冷え込むから、当然羽織を着て出るが、それでも風が冷たい。
 随分と呑んでしまったようだ、と龍鳳は火照った体に少し後悔した。龍鳳はそれほど酒には強くない。艦娘になって人格は変わっても、酒の強さは変わらないらしい。日本酒を一合も呑めば酔ってしまう。
 それが今日は、ついつい酒が進んでしまった。気づけば二合を超えていたようで、すっかりフラフラという有様。少し酔いを覚まそうと、こうして庭で風に当たっている次第であった。
 ふと向こうを眺めれば、月光が蓬莱湖を照らし出す。半月よりやや太い月は、根茂の山を斜めから見下ろして、南東の空へ浮かんでいる。
 なんとなし、龍鳳はその月を眺めていた。秋らしい晴れ渡る空は、多くの星を貼り付けている。

 一人になると、ついつい龍鳳は、今日一日で日向や伊勢と話し合ったことを思い返す。二人のいろいろな言葉は、龍鳳の中で絡み合ってあちこちに引っかかっていた。
 日向はなぜ戦うのかと問い、伊勢はそれを無駄だといった。どちらに従うべきかなんて、龍鳳にはわからない。

 龍鳳は、ただ目の前にあるものをこなしてきた。ただ、それだけの人生だった。
 なぜ艦娘になったか、と言われれば、なれるから、という答えしか返せない。7000万にまで打ち減らされた帝国臣民の中、艤装と精神共鳴可能なのは若い女性のごく一部、200人から300人といわれる。そして自分がその珍しい人間の一人だった。だから、言われるがままに艦娘になった。
 艦娘になれば、戦いが目の前にあらわれる。その戦いに勝たなければ、死ぬだけだ。だから、なんとか戦ってきた。伊勢や日向には"御国のため"と偉そうに言ったのだが、それだって皆がそういうから、という以上のものではない。
 そう考えれば、「大鯨」であることをやめて「龍鳳」となったのも、龍鳳になれると言われたから、ただそれだけに過ぎないように思われる。「大鯨」であることがどういうことで、「龍鳳」になればどうなるのか。そんなことは、ついぞ一度も考えたことがなかった。
 そんな有様だから、日向の問いにはもちろん、伊勢の問いにだって答えることができない。
 龍鳳は、自分が何をしたいのかなんて、一度も考えたことがなかったのだ。ただ、そこにある場を乗り切るためだけに消極的な選択をし、その選択がどのような意味を持つのかということも考えぬまま、漫然と歩んできたにすぎない。
 だから、何故戦っているのかなんてわからない。自分が何をしたいのかなんてわからない。
 何もかも、わからないのだ。


「あら、龍鳳」
 そんな、悩みに囚われていた龍鳳を解放したのは、やや高めの甘さを持つ声であった。
「こんなところで、何をしているんですか?」
「榛名さん……」
 龍鳳が振り向くと、入り口のところに車椅子が一つ。浴衣姿になった榛名が一人で微笑んでいる。色白な榛名も、今日ばかりは幾分赤みが差し、浅葱の浴衣が映えている。
「寒くはありませんか? そこは」
「少しお酒を飲み過ぎてしまったんです。それで、酔いを冷まそうと思って」
「そうでしたか。では、榛名と同じですね」
 にこり、と笑顔を榛名は浮かべる。
「榛名さんも?」
「榛名の場合は、長湯のし過ぎです。おかげで暑くて暑くて」
「お一人で……?」
「ええ、今は。叢雲はあのまま酔い潰れてしまいましたから」
 車椅子の榛名には、普段秘書艦である叢雲がついて、身の回りのことを世話している。
「では、お風呂は?」
「それは、日向が付き添ってくれましたから。大丈夫でしたよ」
 ほっ、と龍鳳は息を吐く。まさか一人で、なんてことになっていなくて、本当によかった。
「それで、何かお困りのことでも?」
「いえ、そういうことではないです。涼みに散歩に出ようと思ったら、龍鳳がそこにいたので、お話ししてみただけです」
「そうでしたか。では、ついでですしお手伝いしましょうか?」
 いくら車椅子を手で動かせるとはいっても、一人で動き回るのは難儀だろう。それに、曲がりなりにも榛名は海軍の将官である。適当に放置するのもよくない。
「ですが、龍鳳の迷惑に」
「私も、もう少し涼みたいと思っていたので、大丈夫です」
 それもまた事実である。酔いこそだいぶ覚めてきたが、頭の中はぐちゃぐちゃで、このまま戻るわけにもいかなかった。
「それでは、お願いしますね」
 やや申し訳なさそうに、しかし嬉しそうに、榛名は言った。


 庭とはいっても、何か区切られているわけではない。車椅子を押しながら歩いていくと、まもなく蓬莱湖の湖畔にたどり着いた。月は南中にさしかかり、根茂山の上にある。月光が水面に揺れて、輝く帯を作っていた。
「そろそろ半月ですね」
 しばし足を止めた矢先に、榛名の声が響く。
「今日の月はひときわ綺麗です。満月でないのが、惜しいくらいです」
 満月であれば、山も湖も浮かび上がらせて、きっと素晴らしい景色だっただろう。龍鳳はそんな景色を思い浮かべる。
「全くですね。もっとも、満月が輝いてしまっては、この星空も掻き消されてしまっていたんでしょうけれど」
 榛名は、はるか空を見上げていた。つられて、龍鳳も見上げる。先と同じように、星々が連なり群れて、それぞれに瞬いている。宝石箱をひっくり返したような、という通り一辺倒な言葉を、龍鳳は思い起こした。
「ですね」
 龍鳳の軽い頷きとともに、しばしの沈黙。まるで榛名が星々と何か語り合っているかのように、龍鳳には思える。その表情といい、華奢な姿といい、空にそのまま浮かびそうな気がした。
「あの、榛名さん」
 ゆえに、龍鳳は話を続ける。続ければならぬ気がした。
「なんでしょう?」
 ひとまず話しかけてはみたもの、話題があるわけでもない。龍鳳はその先に詰まってしまう。
 榛名がはじめて、こちらを向く。肩越しに龍鳳を見上げる表情は、心配を含んでいる。
「えっと、榛名さんは、黒石山には行ったことがあるんですか?」
 苦し紛れ。その言葉の似合うひとこと。やや詰まったような口調になった。榛名はきっと気づいただろう、と龍鳳は少し恥ずかしくなった。
「黒石ですか」
 しかし榛名は一言告げたっきり、再び顔を湖の方に戻して、黙り込んだ。その一言も、先までと打って変わって、湖に溶け込みそうなほどの小さなことば。
 龍鳳は後悔する。何か榛名の傷に触れたのは、ありありとわかる。日向は言っていたではないか。温禰古丹、という名前を出せる相手は限られる、と。だが覆水は盆に返らない。
「随分と昔に、皆で来たことがありますよ」
 息を呑んで待つ龍鳳には、次の一言までどれくらいの時間が経ったのか、わからなかった。
「金剛お姉様と比叡お姉様と霧島と。金剛お姉様の"竣工"10周年のお祝いで、一日だけ揃って非番を頂いたんですよ」
 その言葉は、昔を思い起こすというよりは、ついこないだの出来事を報告するような、そんな口調。
「霧島の紹介で、四人で山を登ったんです。まだあの頃は、中腹までしか車が通れなくて、途中からは登山でした。あの時もちょうどこれくらいの時期で、天気は抜群でした」
 龍鳳は、その金剛四姉妹の結末を知っている。ゆえに、後悔に苛まれる。
「あの山は、龍鳳も言うように、言葉に表せない山でしたね。いっつもお喋りな金剛お姉様が、1時間以上口を開かなかったことを思い出します」
 お喋りな金剛。その姿を、龍鳳は知らない。
「また行きたいものです。あれほどの景色をまた眺められるかは、わからないんですけど」
 言葉に反して、榛名はもう決して黒石の山には行かないだろう。龍鳳は、そう直感した。いや、その榛名の声色が、そのように訴えていた。
 ゆえに、眺められますよ、とは答えられない。きっと、榛名が見たいのは黒石の山ではないはずだ。
「ごめんなさい」
 変わって出た言葉は、謝罪だった。
「え?」
 榛名が振り向く。
「ごめんなさい、なんだか聞いちゃいけないことを聞いたみたいで……」
「そう聞こえましたか?」
 榛名の表情は、龍鳳が思うよりもずっと柔らかい表情だった。
「えっと」
 しばし龍鳳は口をつぐむ。どう切り出していいか、わかろうはずもない。どうすれば榛名を傷つけないで済むだろうか。逡巡の果て、榛名の言葉を待つことになってしまう。
「龍鳳は優しいですね。榛名のことをきちんと気遣ってくれるなんて」
「え?」
 今度は龍鳳が問い返す番になった。
「榛名が昔を懐かしんでいるのを、心配してくれたんでしょう?」
 上目遣いの榛名は、微笑んでいる。
「それは……」
「榛名はお見通しですよ。龍鳳は、とても優しくて、いつも気を遣ってくれるって」
 にこり、と榛名の笑顔は、龍鳳には眩しく映る。
「でも、榛名は大丈夫です! 金剛お姉さまも比叡お姉さまも、生きていますから」
 力強いその言葉に、龍鳳はやはり返す言葉がわからなくなる。龍鳳は知っている。四年前の温禰古丹海峡海戦で、榛名は自分の下半身と、金剛の健康と、霧島の命とを失っていると。それを、そう気軽に扱っていいのかどうか、龍鳳にはわからない。
「龍鳳は、本当にやさしい娘ですね」
 難しい表情を読み取られたのか、榛名が龍鳳の頬に手を伸ばす。
「そんな心配そうな顔をしないでください。榛名は大丈夫ですよ、本当に」
 頬に伸ばされた手は、驚くほど冷たい。龍鳳がちょっと驚いていると、榛名は手を離し、また前を向いた。
「確かに、私は温禰古丹でたくさんのものを失いました。霧島だけじゃありません、もっと多くの仲間を、第五艦隊の仲間を失いました」
「榛名さん……」
「ですけれど、それに囚われていてはいけないって、そう思うんです。榛名は、生きながらえたんですから。こうして下半身の自由は失って、艦娘ではなくなってしまいましたけれど、でも生きてることには変わりません。だから、榛名は前を向かないといけないんです」
 龍鳳が驚くほどに、榛名の口調が落ち着いていた。
「しかも、今や榛名は曲りなりにも、この第五艦隊の提督です。皆の命を預かっている立場なのですから、榛名はちゃんとしていないといけないんです」
「榛名さんは、お強いんですね」
 率直に、龍鳳はそう思った。自分は幸いにして、まだ僚艦を失うような事態に遭遇したことはない。だが、きっと自分だったら耐えられないだろう。そう龍鳳は思うから。
「強くなきゃいけないんですよ。榛名はもう榛名ではなく、提督です。榛名が動揺して、それで仲間を失うようなことになったら、霧島に怒られちゃいます」
 ふふ、という笑い声さえ聞こえる。龍鳳は驚嘆さえした。
「霧島さんに?」
「ええ。霧島は私よりもずっと優秀な艦娘でしたから。榛名のうまくない点を、淡々と指摘してくれたものでした」
 龍鳳は、霧島に会ったことがない。榛名の部屋に飾られた榛名とのツーショットの写真で、姿を知っているのみ。
「霧島には指揮官としての才もありました。榛名が失敗したら、すぐに気づいて怒るはずです。だからいつも榛名は、霧島に怒られないように、って考えるんです」
 そういう榛名の口調は明るく聞こえる。
「霧島さんというひとは、榛名さんにとって本当に大切な方だったんですね」
「榛名にはあまりにも勿体無い、優秀な妹でした。霧島が生きていれば――生き延びてさえいれば、ここにいたのは私じゃなくて霧島だったとおもいます」
 しばしの沈黙。榛名の口調は決して湿っぽかったわけではないし、むしろ龍鳳はそこに榛名の芯の強さを感じてさえいた。どちらかといえば、そこでは下手な言葉を挟むべきではないように思えたのだ。
「だから、榛名は頑張らなきゃいけないんです」
 榛名が口を開いたのは、ややあってから。
「霧島は、第五艦隊の皆は、この北千島を守って靖国へ行きました。でも、榛名は生き残ったんです。それはきっと、皆が守った北千島を、引き続き守り続けろって、そう神さまが仰ってるんですよ。もし榛名がそれに失敗したら、皆の奮戦が、あの温禰古丹海峡の海戦が、全て無駄になってしまいます。榛名のせいで、皆のやってきたことを無駄にするわけにはいかないんです」
 それが独白なのか、龍鳳へ語っているのか。龍鳳にはわからない。わからないが、榛名の強い決意を、ひしひしと感じられる。
「榛名さんは、だから戦って?」
「榛名は、守りたいだけですよ。皆が命をかけて守った北千島を、そして今、この北千島を守ってくれている艦娘の皆を」
「艦娘も?」
「提督というのは、艦娘の命を預っているんです。だから、榛名は艦娘を守らないといけないんです」
 龍鳳は、もう一度驚く。そこまでのことを思っていてくれているとは、龍鳳は知らなかった。
「それに、榛名はいつも皆に助けてもらってばかりですから。それくらいしないと、恩が返しきれなくなってしまいますよ」
 榛名は笑う。だが、その重圧はきっと恐ろしいほどのものだろう。そんなことは、龍鳳にだって容易にわかる。でも、そんな重圧にあって、榛名は笑う。笑えるのだ。龍鳳は率直に、榛名のことを尊敬すべき人物だと、そう思った。
「私も、お手伝いできるでしょうか?」
 だから、その言葉は自然に漏れていた。
「こんな私でも、お手伝いできるでしょうか?」
「龍鳳? 何を言っているんですか?」
 くるり、と。榛名は車椅子を回転させて、龍鳳に相対した。
「当たり前です。龍鳳は、立派な艦娘です。榛名の艦隊には欠かせない空母じゃないですか」
「でも私は失敗ばかりだし、艦娘には全然向いていません」
 それどころか、なぜ戦っているかさえわからない。そんな、欠陥艦娘なのだ。
「そんなことは全然ありません。全然ありませんよ」
 ぐっ、と榛名が距離を詰めてくる。小柄な龍鳳の胸元当りまで、榛名の頭が来る。
「失敗は誰にでもあることです。大切なのは、そうやって反省して、次はやらないようにすることです。榛名は知っていますよ。龍鳳は、人一倍練習を欠かしませんし、いつもきちんと反省をして、二度同じ失敗はしないと」
「そんなことは」
「でも、いつも夜になると部屋で弓を引いていますよね?」
「えっ?」
 寝る前に弓を引くのは、龍鳳の日課であることに違いなかった。姿勢を正し、発艦の作法を思い浮かべながら、弓を引き、鏡で確認して、至らぬ点の改善を目指す。だから龍鳳の部屋には、弓一張と鏡一枚とが置いてある。
「榛名の耳は誤魔化せません。龍鳳の扉の前に行くと、毎晩鳴弦が聞こえますからね」
 だが聞こえているとは想定外だった。
「艦娘の部屋を、いつも回って?」
「そんな詮索するようなことはしませんよ。でも、なにか用事があって通った時に聞いてしまったんです」
 榛名の表情は慈母のようで、龍鳳の胸にせまってくる。
「あんな遅い時間までいつも練習しているのは、龍鳳くらいですよ。それは誇っていいことです」
「それは私が空母に向いていないから、せめて練習くらいって」
「そんなことはありませんよ。榛名が保証します」
「でも」
「それだけ練習をするようなひとが、向いていないわけはありません。それに龍鳳は強い娘です。貴女なら大丈夫です」
 榛名の強い口調に、龍鳳はやや驚かされてさえいた。大丈夫だと、そこまで強く言われたのは初めてだった。
「もっと胸を張っていいんですよ? 帝国海軍に20人ほどしかいない空母の一人なんですから。艤装が貴女を選んだんですから、大丈夫です。龍鳳は、立派な空母ですよ」
 榛名の力強い言葉が、龍鳳の心に染みていく。
「立派な、空母……?」
「そうです。翔鶴と一緒にこの第五艦隊を支える立派な空母です。そうだと、もっと自信を持っていいんです!」
「私も、ここにいて、いいんですか?」
 それでもなお、龍鳳は問うてみる。
「むしろ、私からお願いしたいくらいです。この北千島を守るためには、龍鳳の力が絶対に必要なんです。この榛名と一緒に、戦ってくれますか?」
「こんな私でも、本当に?」
「もちろんですよ。龍鳳がいれば百人力なんですから」
 榛名は、龍鳳の手をとった。榛名の冷たい手が、しかし龍鳳には心地よい。そこまで言ってくれて、龍鳳は目が潤んでさえいた。
「榛名が龍鳳のことは守りますから、龍鳳もこの北千島を守ってくれますか?」
「榛名さんが、そう仰るならば」
 そう言って、龍鳳は一歩引いた。ぐっと背を伸ばし、右手を曲げて、敬礼。
「この龍鳳、榛名さんのために、全身全霊を尽くします!」
 言い切った時の榛名の笑顔が晴れやかで、龍鳳まで快い風に包まれたようだった。





 何を迷っていたんだろうか。
 榛名とわかれた龍鳳は、幾分上気していた。

 千島を守るために沈んでいった艦娘達の思いを背負い、千島を守っている艦娘達の命を背負い、榛名は提督として立っている。それは、龍鳳にはとても想像し得ない重圧に違いない。人の命なんて、背負えるものではない。
 だが榛名はそれを背負うと言った。笑顔でそう言った。
 凄まじさを、龍鳳は尊敬する。敬愛する。

 その榛名が、自分のことをちゃんと見ていてくれた。そして、空母として認めてくれた。

 だから、自分は榛名のために戦う。
 榛名を守るために、そして榛名が守りたいものを守るために。
 そのためならば、喜んでこの命だって擲ってみせる。榛名がくれた恩を返すためならば、どんなことだってやってみせよう。
 そうして、榛名に見せるのだ。
 平和になった北千島を。全てが終わった、明るい世の中を。





 翌日夕方、春牟古丹海峡では第五艦隊挙げての大規模な演習が行われ、翔鶴・龍鳳・秋月からなる第六航空戦隊は、輝かしい戦果を挙げて大勝した。
 とりわけ龍鳳の働きはめざましく、前回の演習との違いに、誰もが目を見張ったのだった。









竜なるものは何ぞや。対へて曰く、竜、夢なりと。己の希ふと雖も在る可からざるを云う。
夢、之を如何せん。対へて曰く、人、夢を措きて自我をなす。以て自ずから能く途を択ぶと。
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