かつて一人の僧が死に、それと共に永遠の若さを手に入れた尼がいた。
尼は自らの思想の元行動し、そして後に『悪魔』と呼ばれる存在となった。
全ての種族の平等を掲げたその尼、彼女の名前を聖白蓮という。
――覚りて法世に陽は烈し――
「地底……ですか?」
「そう、地底。そこには忌み嫌われた妖怪がいるんだよ」
私は里で説法を説いていると里にいた妖怪の一人がそんなことを話してくれた。
差別を受け、地底に逃げてしまった妖怪。
それは他者に害となる能力を持つ者なのだと言う。
私はその話を聞いてすぐさま地底へ向かうことを告げると妖怪は驚いた顔で
「おいおい、話を聞いていなかったのかい? あんたが行っても追い出される、もしくは殺されてしまうぞ?」
「大丈夫です。話せば分かりあえますよ。彼らは差別されてしまっただけなのです。妖怪の存在に罪はないでしょう?」
「その妖怪の能力が危険な奴もいるんだ。あんたの説法には興味が沸いたがこれは根本的な話だよ」
「あら、それでしたら私だって人間なのに千年も生きていますもの。十分に化け物です」
妖怪はため息をついてもう止めないと手を振った。
私はそれに笑顔で答えその地底とやらに向かったのだった。
そもそも何故妖怪が差別されなければならないのか。
私にはそれが分からない。
崇められた者が神、疎まれた者が妖怪だと言うのならば根本的な所に違いはない。
だと言うのにそれを差別し、地下に追いやると言うその考えは愚かであるとしか言いようがない。
人であっても善人と悪人がある。これにあっても私は理解をし難い。
聖人君子が一度の悪行で罪人に堕ちるように、悪逆を繰り返した人間が1匹の蜘蛛を救ったことで救いが訪れたように、すべての善悪という天秤は酷く曖昧なものだ。
だと言うのに一時の行動から多くの人間が付和雷同に天秤を傾ける様は私には謎でしかない。
今向かっている地底に住む妖怪達もそのような平等とはほど遠い差別を受けてきてしまった者たちなのだろう。私はそれから解放しなくてはならない。それが私の使命だ。
そう考え歩いていると地底という呼ばれる場所に私は辿り着いた。
追いやられた者の果てとは思えない見事な街並みである。
聞くにここは鬼達が作り上げた『旧都』と呼ばれる場所らしいが……。
そこには苦しんだ様子も何もない妖怪達の姿がある。
過去の確執などないのではないか?
私はそう考えた。怯えているのは地上にいる者たちだけで、地底の人間は自らの能力を恐れることなく過ごしている。
それならば地底と地上の関係の修復も可能なのではないだろうか。
私は舗装された見事な石畳を歩きながらそう考えていた。
「あれ……見ない顔だね? あなたはだぁれ?」
と急に背後から話しかけられる。
振り返ると目の前にいたのは空を飛ぶなんとも不思議な格好をした妖怪だった。
右足と左足の格好が別々で不格好で、更に右手には長い棒のようなものが装着されているではないか。
背に羽織っているマントからはどのような仕組みか宇宙のようなものが見える。
しかし問われたものを返さないのは礼儀に反するだろう。私は彼女に向けて礼をした。
「こんにちは、私は聖白蓮。地上で尼をしている者です。あなたは?」
「私は霊烏路空って名前さ。……あま? ……海女?」
「僧侶です。そもそも幻想郷に海はありませんよ」
「そうなの? 外に出たことがないからわからなかったよ」
「あら、この地底から出たことがないのですか?」
「あぁそうさ。地底で生まれたから知らないけどずっと地底暮らしだね」
あぁなんということか。生まれた妖怪の種族によって縛られ、この地底に堕ちている者が目の前にいる。
ならばこの旧都で笑う者たちもこの子のようにその実地上の美しさを知らずして生きる者達なのではなかろうか。
そのような悲劇、私は見逃すことなどできはしない。
私は目の前の少女、空に地底のことを尋ねた。
「地底がどんなところか?」
「そうです。私は初めてこの地底に来たのでよくわからないのです。色々と教えてくれませんか?」
「ふぅん。そうなんだ。私がわかることなら教えてあげるよ! ちょっと待っててね」
そういうと彼女は私の目の前に降りた。
何を話すやらと思い待っていると空は地図らしき紙を取り出し、いきなり頭を抱えて呻きだしてしまった。
「えっと……どうしたのかしら?」
「こっちが右であっちが西で……地霊殿が……北。北だから……上?」
地図が読めないのだろう、周りと地図を見合わせてキョロキョロと首を回している。
その姿は子供のような愛らしさを感じる。
「無理に詳しくとは言いませんよ。あなたの知っていることをあなたの言葉で教えて?」
「私の言葉? 多分すごいわかりづらいよ?」
「えぇ、構いませんとも」
と言って私が微笑むと彼女はパッと顔を明るくして地図を丸めて放り投げると矢継ぎ早に話し始めた。
自分が地獄烏と呼ばれる妖怪であること。その能力。
自分が地底で行っている仕事のこと。自分が住んでいるところ。
「あっちには温泉があって! その温泉の向こうにお店があって……そうそう温泉って言えば私が川に入った時お燐がね……お燐っていうのは……」
頭に思いついたことをただ口にしているだけのような話し方でわかりにくい。
けれど私は彼女がこの地底を、いやこの世界を愛しているのだとわかった。
そうでなければこうも語ることはできまい。
苦も楽も、善しも悪しもすべて自分の価値観もなく公平に、対等に話している。
彼女は私の目には純粋無垢に見える。
それならば私の考えにも賛成してくれそうだ。
賛成してくれたなら地底と地上を繋ぐ鍵になるはずだ。
そして地底と地上の差別を無くして。
この子に世界を見せてあげたい。
この子の愛する地底を地上の妖怪や人間に見せてあげたい。
全て皆平等に。平等に全てが映るように。
「それでそれで……あっちに飛んで右の方に行けば私の住んでる地霊殿なの!」
「そうなんですか。さぞかし立派なお屋敷なのでしょうね」
「そうだよ! 多分幻想郷で一番なんだから!」
彼女の住処の話はこれで六度目なのだが嬉々として語るあたり話したことも忘れるほどに自慢なのだろう。
だが私が気になったのは別のところであった。
「そこでご主人様達と一緒に仲良く暮らしてるんだよ!」
「ご主人様? あなたはお友達と暮らしているんじゃないの?」
「えっと、友達はお燐で、いや同じペットで……」
「ペット? 主従関係なの?」
「しゅじゅう……?」
彼女は地霊殿で『飼われている』妖怪だった。彼女の友達らしい燐という少女もそうらしい。
私は絶望した。涙すら浮かばんとするところであった。
地底にすら差別が存在するというのか。
彼女のような純粋無垢な存在が何故籠の鳥にならなければならない。
地底の解放のためにはまず彼女達を解放しなくては。
私は解放のための意志を再び固め、空に私の話を始めた。
「空さん。あなた今のままがいいと思う?」
「う~んどうかな。地底が変になっちゃうのは嫌だけど……でも楽しい方がいいや」
「ご主人様達ともっと仲良くなりたい?」
「なりたい!」
彼女は笑顔で答えた。地底が解放されれば間違いなく地上、地底ともに繁栄するはずだ。
それに立場が対等になれば自然に関係も深まる。
彼女もそれは分かってくれるだろう。
「なら地上に行ってみたいと思わないかしら?」
「行きたい! この前は巫女に邪魔されちゃったもの!」
巫女……私を倒したあの巫女だろうか?
地上の者の意見と言え、あまりに酷い行為だ。彼女は地上に行きたかっただけだろうに。
空は私の質問に興味を持ったようで次に何を聞かれるかとワクワクしながら私を見ていた。
そこで私は彼女に私の思想を話した。
「ねぇ空さん。全ての妖怪も、人間も平等になれたら素敵だと思わない?」
「平等に……?」
「そう。地上の妖怪と地底の妖怪全員で手を繋ぐの。皆友達になるの。皆横並びになってね」
「……皆が友達……いいなぁそれ! 楽しそう!」
「そうでしょう。きっと楽しいわ。私はそのために来たの」
「そうなんだ……それなら話をしてきてあげるよ!」
空の話によれば彼女の『ご主人様』はこの地底で相当な地位にいる妖怪なのだそうだ。
さっきまでの話ではそのご主人様についてはほとんど話されていなかった。
いや、されていたけれどすぐさま別の話に飛ぶために情報が曖昧だった。
「そうしてくれると助かるわ。今日は無理ですけど私もそのうち会いに行かなくちゃね」
「そうよ! さとり様とも仲良くなってくれれば聖も地底にいっぱい来れる!」
地底の主……か。地上の管理者のように頑固で閉鎖的でなければいいけど……。
……――――――さとり様?
「地霊殿の主の名前はなんていうの? 空さん、もう一度教えてくれる?」
「さとり様だよ? その妹のこいし様もご主人様!」
「古明寺ですか?」
「……うん、そう! でもよくわかったね? さとり様を知ってるの?」
そうか。この地底に彼女達がいるのか。
なんと嬉しい奇跡だろうか。
千年という時を越えても人の輪、縁というものは切れずに存在していた。
これを奇跡と言わないとなんというのだ。
「えぇ。さとりとこいしのことは知っていますよ。仲良しでした」
「そうなんだ! ここにいるって知らなかったの?」
「私はつい最近まで自由に動けなくて。全くの偶然です」
「おぉ……すごいね!」
私がさとりを知っていると知った途端彼女の顔は益々晴れやかなものになった。
まさに太陽のような笑顔だ。私も自然に微笑んでいた。
「よかった……さとりが地底の主なら話はすぐに進みそうですね」
「うん……こうなったら今すぐにでもさとり様に話してくるよ!」
そういうと空は別れのあいさつも無しに飛んで行ってしまった。
まだまだ聞きたいことがあったのだけど……まぁ仕方がない。
また来ることにしよう。その時はさとりに会えばいい。
そして再会を喜びあおう。あの時の償いをしよう。
地底解放の理由がまた一つ増えた。
夢の中で私は、ボロボロになって倒れていた。
そして、私を護るようにこいしが立っている。
大勢の人間が私達を囲んでいる。周りからは怒号と歓喜の叫び声が聞こえる。
「……」
喉から搾り出すようにこいしが何かを言った。
しかし、その悲鳴のような声は私の心に流れて込んでくる濁流のような感情に掻き消されて、
私の鼓膜を震わせても私の心に届いてはくれなかった。
なぜ、私達がこんな目に合わねばならないのか。
そんな疑問、とっくに答えは出ている。私達は嫌われ者だったのだ。
嫌われ者だから、色んな人からも裏切られ――
急に、夢の中に今までとは違う感情が流れ込んできた。
喜び。嬉しい。さとり様に。早く。
この太陽のように真っ直ぐで明るい感情は、確か……。
「さとり様!起きてよさとり様!」
目が覚めると空が私の体をゆさゆさと揺さぶっていた。
私は、寝起きの頭の痛さがさらに増幅されるのを感じながら、空に言った。
「おはようございます、空。そんなに慌てて何かあったのですか?」
「聞いてよさとり様。えっとね、突然地上の尼さんがやってきて私に地底の事を聞いてきたの!
で、その人がさとり様の知り合いで今度お話に来るって!」
「尼……? 空、その尼さんは一体何と名乗っていたのかしら?」
私は、胸にこみ上げてくる嫌な予感を押さえ込みながら空に聞いた。
空の答えは、私の嫌な予感を見事に射抜くものであった。
「名前? 確か聖白蓮さんだったと思うよ。
でね、その人が地底と地上がみんな手を繋いで仲良く暮らせるようにって……」
私は、空の話を耳で追って相槌を打ちながら心では全く別なことを考えていた。
聖白蓮。あの裏切り者の尼が地底にやってきた。
そして、空の話を聞く限りでは私達が一体どんな目に合ったかも知らずに、まだ平等を掲げて回っているらしい。
怒りも少しはあったが、それ以上に面倒だ。別に過去のことは今更掘り返されたくない。
それに、私たちがひどい目に合ったのもある程度は仕方がないと言える。たとえあの尼がいくらかの火種であろうとも。
とりあえず、今は空にそれとなく注意をする程度に留めておけばいいだろう。
こいしには……知らせないほうが、良さそうだ。聖のせいで彼女がどれだけ傷ついたかは想像を絶する。
あの子の性格ならば、真っ先に復讐に向かうに違いない。それを収めるだけの力は私には無い。
「空、その尼のことだけど。私のところには来ないように言って頂戴」
「それで……え? どうしたのさとり様?」
「簡単に言うと、その人と私達は喧嘩しててあまり私は会いたくないのよ」
「へえ……あの人はそんな様子は無かったけど」
「まあ、そういうことに鈍感な人はいるでしょう?貴方にも覚えが有る筈よ」
「そうだね、確かに私も忘れっぽいからなんでこいし様が怒ってるのかわからない時があるもん。
わかった、さとり様が言うなら今度会ったらそう言っとくね」
空は、うんうんと頷いて納得してくれたようであった。
「空、もうちょっと寝かせてくれないかしら。急に起こされたせいでまだちょっと眠いのよ」
私が少し眠たげな様子を装って言うと、空は慌てて謝った。
「あわわ、ごめんなさいさとり様。じゃあまた散歩にいってくるね!」
空は、ドアのところまで歩くと不意にこちらを振り返った。
「あ、そうださとり様。聖さんが言ってたんだけど『主従関係』って何?」
「説明しづらいけど、空は私のペットでしょう?ペットと飼い主の関係が『主従関係』よ」
「それって、無くなったらさとり様ともっと仲良くできる?」
「……わからないわ」
理屈を弄せば空を言いくるめることは出来たかもしれない。
しかし、この子の純粋な瞳を見ているとそんな気分にはなれずに言葉を濁してしまった。
「じゃあねー、さとり様」
空は私の態度に一点の疑問も持たずに私の部屋を出て行った。
私は、私の右後ろの壁に向かって話しかけた。
「で、あなたの意見を聞きましょうか。こいし」
「あれ、お姉ちゃん気付いていたんだ」
「ええ、ついさっきだけど。流石にそこまで苛立ちを発してれば流石に気付くわ」
私の直感どおり、そこにはこいしが立っていた。
彼女は、その無意識の能力によって隠し切れないほどに怒りのオーラを纏っていた。
「ねえお姉ちゃん。聖のこと殺しちゃって構わないかしら?」
「駄目よ。あの尼には悪意は無いわ」
「悪意は無かろうと私達姉妹を見殺しにしたのは間違いないでしょ?」
「いいえ」
私は、かぶりを振って答えた。
「あの尼のやったことは全部忘れましょう。そして、二度とここに来ないように手を打ちましょう。
そうするのが一番お互いのためになると思うわ。今更お互いに掘り返すような話では無いわ」
「ふん、つまらないのー」
こいしは、そう言うと私の意識の中から姿を消した。
私は、朝っぱらから頭の痛くなる話が一気に転がり込んできてため息の出る思いだった。
まあ考え込んでいてもしょうがない。とりあえずは朝食の用意をしよう。
そう思って私はすこし遅い朝食の準備に取り掛かることにした。
「尼公さま、早く来て下され。こちらでございます!」
先導する男は、どんどんと山を登っていく。白蓮もまたそれに従うように、路なき山を登っていた。
「随分と山奥まで入ったのですね」
「我が村の若衆が、近くに出た連中を逃げられはせぬよう追って追って、なんとかここまで追い詰めたのです」
既に村からだいぶ登ってきている。白蓮はとうに位置がわからなくなっているが、長年村に住んでいる彼らたちからすれば、このあたりもきっと庭のようなものなのだろう。
「よく追いましたね」
「奴が罠に掛かったのですよ。本当ならそこで叩き殺せるところだったのに、もう一匹が助けに来たようでして」
「なるほど」
男の進みは早い。彼より体力がある自信はあったが、慣れの差だろう。白蓮は追うのが精いっぱいであった。
信貴の尼公、と言えば力ある法力僧として知られている。人間を害さんと現れる妖怪を退治し、人を数多く救った徳のある僧だ、という評判は既に天下に広がっていた。信貴の尼公に頼みさえすれば、どんな妖怪に悩まされていようと解決できるのだ、と人々はあちこちで噂していたのである。
白蓮自身は、そんな噂を対して気にはしていない。彼女にとって、信貴といえば醍醐朝の名僧・命蓮であった。まさか信貴の尼公がそれほどの扱いを受けているとは思っていないし、受けるべきでもない、と思っていたのである。
さて、尼公が妖怪をよく退治している、という噂を聞いたのが、白蓮を先導してきた男――件の村の村長であった。彼は白蓮の噂を聞くや、わざわざ大和は信貴にある白蓮の寺まで訪れたのである。
玄碌と名乗る彼は、白蓮に会うや頭を下げた。妖怪を退治して欲しい、と。
玄碌の言うには、自分の村の近くに最近恐ろしい妖怪が出没するようになった。自分たちだけで退治しようと思ったが、二匹おり手を出せぬ。故に、白蓮に村を守って欲しい、ということである。そういった彼は、白蓮の前に土下座までした。
そんな彼の頼みを、白蓮は快諾した。人に救ってくれと頼まれて、断る白蓮ではない。村が、白蓮の寺から幾らか遠いところにあることも、白蓮をして断らしめるには足りなかった。
そうして来たのが、丁度半月ほど前のことになる。来てすぐのころの村は、本当に悲惨なものであった。その妖怪は、村の辺り何処にでも出没するようであり、それを恐れて人々は村から一歩も出ることのできない有様であった。本来欠かせぬ薪も取りにゆけない始末で、人々は唯々妖怪が村まで降りてこないことを祈るばかり。
どうして村長である玄碌が、わざわざこうして頭を下げてまで頼もうとしたのか、ということがそこで始めて白蓮にもわかった。山の物資を全く手に入れられぬその状況では、もはや村の生活は崩壊寸前であったのだ。村を守るには、何としてでもその妖怪を退治して貰うほかない。だからこそ、彼はわざわざ大和まで来たりて、白蓮を頼ったのだ。
そんな現状を見るにつけ、白蓮はこの村を守らねばならないという意志を強くしていった。妖怪によって人間の生活が崩壊に追い込まれることは、決して避けねばならぬことであった。
妖怪と人間とが、平和に生きることのできる世界。それを目指す白蓮にとって、この村の問題は大きな大きな問題であった。
「ありました! こちらです」
白蓮は、先導する村長・玄碌の声に顔を上げる。そこは相変わらず急な斜面であって、そこに静止するのも難儀とさえ言える場所である。そのような場所であるにも関わらず、槍や刀を持ち出し難しそうな顔をした男たちが、そこには集っていた。
「あの洞窟の奥におります」
一本の木を掴みながら、玄碌は上を指差す。四角い彼の顔は、恐ろしい迄に憎悪を浮かべていた。その強面も相まって、凄まじい気を発している。
白蓮は彼の憎悪に少し気押されながら、その指さす方向を向いた。
彼の指差す先、この場所から少し登ったところには、確かに洞窟が口を開けていた。当に深淵とも言うべき闇に包まれたそこは、如何にも禍々しい雰囲気を発していて、彼らに言われずとも妖怪の雰囲気を感じざるを得ない場所であった。
「尼公さま、早く退治してつかあさい」
詰め寄る勢いの彼らを白蓮は懸命に留め、それから告げる。
「わかりました。必ず退治いたしましょう」
「本当に、お願い致します」
これまで先導してきた男――村の村長が頭を下げる。それに合せ、そこに居る者たちも次々と頭を下げる。
「それでは、行きましょう」
白蓮は錫杖を右に、数珠を左に持つや、一歩を踏み出す。
「ナマク・シチリヤ・ジビキャナン・サルバ・タタギャナン……」
高らかに真言を唱えて、白蓮は洞窟へと向かう。
後で、村長を頭にして若衆たちが、不安そうな目で見つめていた。
真言を唱えながら洞窟の中へ入った白蓮は、気を集中しながら辺りを見回す。見たところ小さい洞窟で、どこかに繋がっている様子もない。恐らく近くに居るのだろう、ということがうかがえた。
「そこに居るのでしょう?」
白蓮は奥の方を睨む。
しかし、言葉は帰って来ない。
白蓮はもう少し奥へと進む。僅かに曲っているようであり、一番奥は見通せない。しかし明らかに狭くなっていて、先がないことはますます明らかである。
「ここから逃げられぬことはわかっているのでしょう」
「どうして貴女は、私を退治しようとしないの?」
声が帰ってくる。反響したその声は、相手が幾人もいることを感じさせる。
しかし、それより白蓮を驚かせたのは、その声が殆ど少女とも言うべき女の声であったからだ。
「退治しようとしない?」
「貴女には、私たちを攻撃するつもりがないわ。それなのにどうして、こんなところへ来たの?」
岩の陰からであろうその声は、不思議な事を告げる。響く声のせいで、どのあたりに居るのかは相変わらず不明確だが。
「随分不思議そうね」
少しその口調へ笑いが含まれる。
「そうよね。だって、心を読まれる経験なんて、貴女にはないだろうし」
「……」
白蓮は逡巡していた。一体どうすればいいか、ということに悩んでいた。これまで様々な噂を聞いてこそいたが、村人たちの語る妖怪像はもっと凶悪な代物だったから、少なくとも一度は力で倒さなければならないと思っていたのだ。
しかし、この声の相手はそれほど凶悪な様子はない。もし本当に力があるならとうに襲いかかってくるだろうに、それも無いと言うことは力が格別大きいわけでもないのだろう。
それに、と白蓮は少し躊躇いながらもその印象を拭えなかった。声の持ち主の彼女は、なにか妙に苦しそうだ。そんな彼女を退治しようと、力づくで叩き潰そうとは、とても白蓮には思えなかったのである。
「どう、心を読まれる気持ちは?」
「そうやって、これまでも人を追い返していたのですか?」
「え?」
彼女の声が疑問へと変わる。
「確かに人は心を読めば驚くでしょうね。そうやって、村人を驚かせていたのでしょう」
白蓮は一歩、その岩陰の方へと近づく。
「なに、貴女、怖くないの?」
「だって、驚かせるだけでしょう?」
もう一歩、白蓮は近づく。もう岩陰までは3歩もないだろう。
「なら、怖くないわ。それに貴女」
「来ないで!」
彼女の声が悲痛に変わる。妖怪の声とは思われぬほど、白蓮の胸を打つ。
「貴女こそ、私に怯えているじゃない」
白蓮はそう言いながら、岩陰から覗く腕を掴む。色の白く、細い腕であった。
「やめて! 一体何するの!」
やはり、と白蓮は思った。岩陰に隠れていたのは、青みがかった白い髪に、緑の瞳を持った小さな少女であった。むろん、その姿がそのまま力を表しているとも限らない。少女の姿をしながらも、国一つを容易く吹き飛ばすような妖怪も又存在する。
だが、おそらく彼女に関しては当てはまらぬだろう。白蓮の腕一つ振り払うこと能わず、いやだいやだと叫びながら暴れているだけなのだ。力ある妖怪であるかはわからぬが、既に彼女は白蓮へ抵抗できないのである。
「貴女を傷つけるつもりはないわ。少しは大人しく」
「手を離して! どうなっても知らないよ! あんたなんかあっという間に吹き飛ばしてやるんだから」
「オン・キリキリ・バサラ・バサリ・ブリツ・マンダマンダ・ウンバッタ」
その真言と共に、白蓮はその手を離す。それを見るや白蓮に掴みかかろうとした彼女だったが、見えぬ壁に阻まれる。結界の真言は、白蓮にとって必ずしも得意なものではないが、並の妖怪では決して破れぬような結界をつくる自信はある。彼女もまた、なんとかその結界を破ろうと奮闘していたが、半ば錯乱状態にある彼女ができようはずもなかった。
「少し落ち着いてくれないと、きちんと話も出来ないじゃない。ちょっと静かにして頂戴」
「何するのよ、早く出しなさい!」
結界を殴りつけながらまだ騒いでいる。果たしてそこまで自分が恐ろしいのか、と白蓮は少し疑問に思えた。
「ん?」
腕組みをして、捉えた彼女をどうしようかと考えかけた白蓮は、岩陰の奥にもう一つ人影らしきものがあることに気がつく。
「そっちは!」
一歩踏み出そうとするや、結界に閉じ込められた彼女が叫ぶ。
「やはりいるのね」
「行かないで!」
彼女のあまりに切実な声に、白蓮は少し胸が痛む。しかし白蓮には、その人影を見逃すこともまたできなかった。
「行くなぁ!」
ぴしり、というごく小さな音が響く。その音が響くか響かぬかのうちに、白蓮は素早く真言を唱える。まさに間一髪のところ、もう少し遅ければ、彼女によって結界は崩されていただろう。白蓮は少し認識を改めた。やはり彼女の力は、並ではない。
結界が再び彼女を閉じ込め得ることを軽く確認し、それから白蓮はその人影に近づいた。相変わらず結界の中は騒がしいようだが、一緒に防音結界も張ってしまったのですでに声は聞こえなかった。
「あら?」
その人影に、白蓮は少々驚きを隠せない。そこにいたのもまた、少女であったからだ。それも、さっき閉じ込めた彼女にそっくりの。
白蓮が近づいてもその少女は身動き一つしない。もし彼女が妖怪だったにしても人間だったにしても、人が近づいてくれば何らかの反応を起こすだろうに、と白蓮は不思議に思う。
しかし、そんな思いはすぐに消し飛んだ。彼女は反応しないのではなく、反応し得ないのである。彼女の体には何本かの矢が突き立っていて、そのいずれにも妖怪退治用の札が貼られている。それらは霊的な結合を互いに取り結びながら、彼女の体を酷く蝕んでいた。
どうやら彼女に意識はないようである。呼吸も早く、苦しそうである。
先ほどまで騒いでいた少女は、彼女を守ろうと懸命だったのだろうと、ようやく白蓮は納得していた。
「大丈夫よ、今手当してあげるから」
「ん……?」
「あら、目を覚ましたのね」
矢を引き抜き、晒し布を傷に巻いているところで、彼女は目を覚ます。いつしか、結界に閉じ込めた方の少女も静かになったようであった。少しは誠意が通じたのだろうか。
「!!」
白蓮の姿を見るや、彼女は慌てた様子で逃げようと身をよじる。だがその途端に激痛が襲ったのだろう、彼女は呻いてそこに伏せた。
「まだ動いちゃだめよ。いくら妖怪でも、そんなにすぐ傷が治るわけじゃないわ」
晒しの上に梵字を書きつけながら、白蓮は告げた。その言葉に、彼女は顔を上げる。その表情は、理解できない、という表情であった。
「誰かが傷ついていたら救う、というのが当然でしょう?」
白蓮は軽く笑って言う。丁度、治癒促進の真言が書き終わったところであった。
対する彼女は、その姿の割には大人びたように考えを巡らせ、それから微笑する白蓮に向かって相対した。
「貴女があの信貴の尼公ですか。妖怪退治で名を知られている人間でありましたね」
「馬鹿げているわ」
微笑を崩さぬまま、白蓮は言い捨てる。
「退治なんて、必要ないじゃない。人と妖怪とが平等にくらせれば、それで何ら問題ないわ。違うかしら?」
「平等、ですか」
少し首を傾げた彼女へ、白蓮は更に言う。
「そうよ。妖怪と人間が平等に共存できれば、それでいいじゃない。一方的に妖怪ばかり殺して、何処がいいというのよ」
白蓮は彼女の瞳を覗きこむ。紫水晶のような瞳が逡巡しているのが、窺えた。
「あなたは、時代に逆行するようなことを言うのですね」
「逆行?」
「この数十年の間に、だいぶ私達に人間が寄ってくることが増えました。その中で退治する人も増えています。それなのに、あなたはそんなことを言う」
きっと、村は拡大を続けているのだろう、と白蓮はその言に思う。次第に村が大きくなって、人間たちは山の少し深いところにも入ってくるようになった。それに応じて、彼女たちが人間と会う機会が増えてきた。さすれば、何かと揉めることもあるだろう。中には妖怪に人間が虐げられることもあるだろうし、それは確実に増えているに違いないのだ。
「それでも、私はそう言いますよ。決して退治することを容認したりはしません」
しかし、それも白蓮には関係の無いこと。近づいたから争うとは、唯の獣とかわらぬではないか。そんなことを続けていて、良いはずがない。むしろ村と妖怪がこうして近づいたことは、互いの理解を広げる機会である。 これは天与のまたとない、機会なのだ。
「とりあえず、私は外の人間たちに"退治"したことを知らせて来るわ」
白蓮は彼女から抜いた矢を手に持つや、立ち上がる。
「もし貴女達が人と共存できるというなら、歓迎するわ」
再び白蓮は笑いかけ、洞の外へ足を向ける。向きながら、もう一人の少女を閉じ込めていた結界を解いた。尤も、そちらの少女も相変わらず呆然と立ち尽くすだけなのだが。
「それでは」
「古明地」
足を踏み出した白蓮の背中に、声が掛けられる。
「古明地さとり。私の名前よ」
翌日のことである。
私は地底を出ると命蓮寺からほど近い人里に訪れていた。
無論地底との関係を改善せんがためである。
空はしっかりさとりに伝えてくれただろうか。
あの時私達が出会ったこと。それはもしかしたらこの時のためであったのかもしれない。
千もの時を越えて繋がる絆とはなんとも麗しく素晴らしいではないか。
私は感傷に浸りながら胸に手を当てて祈りを捧げた。
捧げたのは神などではない。私が求める、いや万人が求める思想の未来だ。
法の世界の元に全ての者が平等に。
そのために今私のすべきことは簡単なこと。
この足一つで道を駆け、この口一つで法を説き、わが身全てで繋ぎとめる。
私が中心に、なんてことを言いはしない。
その輪に混じれなかったとしても、全ての者を繋がなければ。
……いや、私も入らなければ完全な平等ではないだろう。
少々緊張しているようだ。
『あの時』のようなことはもう2度と起こさない。
大丈夫、賛同してくれた者がいる。私だけではないのだ。
私は祈りを終えると里の中心の集会場の壇上に上がった。
するとすぐさま通りかかった人間が何かあるのかと立ち止った。
元々何の話し合いもなく勝手に行っていることだ。
里の者からすればいきなり何が始まったのか、と言わん状況だろう。
まばらに人妖が集まってくる。
通りがかりで止まった人間、興味本位でやってきた妖怪、私を知る者。
私はある程度人が集まったところで説法という名の説得を始めた。
「皆さん! 許可もなしにこの場をお借りしたことを先に謝らせていただきます。私は聖白蓮。魔法使いであり僧侶です。今日は私の話を聞いてもらいたくこの壇にあがらせていただきました」
「聖白蓮? っていうとあんたつい最近まで魔界に封印されてたっていうあの僧侶さんかい?」
「その通りでございます。私はそこに住む者達との価値観の違いから魔界に封印されていました。しかし私は今、その価値観の違いを悪しと思わずこの壇上に立っております」
人々がざわめく。それはそうだろう。
私は封印されたけど自分は悪いとは思っていません。
そういきなり壇上の人間が話せばそれはそうだろう。
「私は皆さんに私の考えを知ってほしい! そして賛同できるのならば協力していただきたいのです。私の言葉を聞いて下さいませんか?」
「あなたの封印された理由に賛同しろって?」
「私は知ってほしいのです。千年も昔かの地で行われていた暴挙、そしてそれによって行った苦しみの連鎖を。そしてそれがこの現代に2度と起こらぬようにしたい。私の考えはそれに根絶するためのものなのです」
千年、という言葉に眼下の者達は多様な反応をしていた。
時の単位に圧倒される人間。
千年を振り返る妖怪。
事情を知っているのか何か含んだような顔をする者。
逆になんのことやらと不可思議な顔をする者。
広めようと家々に話し回るもの。
しかし話には興味を持ってくれたようだった。
元より人と妖怪の交流があるこの里では興味の深い内容だったのだろう。
気がつけば集会場には幾多とは言わないもののかなりの人妖が集まっていた。
視線が私に集まったのを確認して私は話を始めた。
「……これが千年前私と私の友に降りかかった悲劇です。皆様はいかが思われますか? 人妖の不平等を説き、平穏な日々を送っていた者へのこの仕打ちは正しいと思われますでしょうか!」
私の言葉を人々は聞き続けてくれた。
ところどころ首を傾げる様は見受けられたがそれは事情を知る妖怪だった。
するとさきほど真っ先に声を返してくれた人間が私に向かって声を張り上げた。
おそらく里の纏め役か何かの役を担っているのだろう。
「あんたの言葉は聞いた。だがあんたの千年前ってのがどうだろうが今はその千年後だ。今じゃそんなこともありゃしないだろう? あんたの目的はなんなんだい?」
「その通りですね。今の地上は至極安定していて人妖共に共存しあっています」
「なら何を望む? まさか『このまま頑張ってください』ってわけじゃあるまい」
「そんなつもりはありませんわ。皆さん、お忘れではありませんか? この幻想郷には悲しくもいまだ差別された場所があることを」
私の言葉に疑問の声が飛び交う。
気づいた人間もいるようでまさか、といった顔をしていた。
飛び交う声が無くなり始めたのを見計らい私は声を上げた。
「お気づきの方もいらっしゃるかと思われます。私が申し上げたいのはこの地上ではない場所。すなわち……地底のことです」
ざわめきが広がる。
人々の顔に驚きと若干恐怖の顔が映る。
妖怪の顔にも恐怖と若干の怒りが私に向けられた。
……これが地上の人妖の姿か。そこまでに地底を恐れる理由はなんだというのだ。
「先ほどお話した通り、私は人、妖怪、神、全ての平等のために動いております。そこで私は知ったのです。忌み嫌われ差別されて地の底へと追いやられた妖怪達の存在を」
「ならあんたも知っているだろう? 地底の妖怪は危険なんだと。だからこそ地底へ送られたのだと」
「では、その言葉は誰からの進言でしょうか。それがもし皆様の親、書物、噂によって聞きいれたものならば何故それを信じられましょうか!」
また人々のから様々な声が飛び交う。
私の言葉に対する疑問、否定、罵詈雑言。
特に怒声は妖怪達から多かった。地底の妖怪のことを直接に知っているからだろう。
私はそれに臆さず言葉を続けた。
「かつて悪行を成した妖怪もいるのでしょう。その能力を恐れられた妖怪もいるのでしょう。ですが今またこの地上に、人妖共に共存しているこの地上に地底の者達を招き入れることはそんなにも許されぬことでしょうか!」
「あんたは何も知らないだろう! 千年も魔界に封印されてたあんたに何がわかるってんだ!」
「わかりますとも。私は先日その地底に行って参りました。地上の者が『殺される』と言っていた言葉を聞きながらです」
そして私は昨日の地底での出来事を話した。
すると人間達も徐々に表情を変えてきていた。
それは特に若い人間、つまり噂や文書によって情報を知っていた者達だ。
そして妖怪達も知っている妖怪の名が出る度に耳を傾け怪訝な顔をしていた。
つまり地底のことに疑問を抱き始めているということだ。
「生まれついての地底の妖怪は地上への憧れを示しています。それを奪う権利が我々地上にいる者達にあるのでしょうか。噂や文献での情報に惑わされ、付和雷同に悪しきと決めつけているのではありませんか?」
互いに目を合わせる人間。差別に対して疑惑の念は浮かんできている。
少なくとも否定の声は無くなり始めていた。
その時妖怪からの声が来た。
「ですけど……どうやって地底と地上を繋げるおつもりで? 確か地底の主は人間を毛嫌いしていたはずですし……そもそも地底側からも対応してもらえないんじゃ?」
妖怪の声に人間達からも疑問の声が飛んだ。
……これが干渉され、行動することだというのに。人はやはり変わらない。
今の言葉が無ければさとりのことを思い出しもしなかっただろうに。
自分達がやってやろうとしているのに、といった顔も見える。
やはり地底の者達を軽く見ているように感じる。
「その点は大丈夫です。地底の主は私と昔からの友人です。その友ともお話をする機会がございました。地上の方が、いえこの里の方が了承してくださればすぐさま行動できますよ」
「地底の主と知りあい……だって?」
ざわめきが起こる。
それに合わせて私はその計画を話した。
最初は私の管理する命蓮寺に地底の妖怪を招き、ここで交流を取る。
地底の妖怪が慣れてきたらほど近いこの里での交流を。
ゆくゆくは地上全体で活動できるようにするというもの。
「地底と地上が手を取り合い、全ての者が平等でいられる世界を作りましょう!」
私の計画を話すと人々が顔を見合せてしばらくすると賛同の声があがり始めた。
幾人かの妖怪の視線が気になる。妖怪の山などから来た妖怪だろうか。
だが今は少しでも多くの信用を得ることが先決だ。
そう思い私が『説得』を止め多くの声に包まれながら壇上を降り、人々との『対話』を始めた。
やはり知らぬ者の上からの言葉というのは信用に欠けるだろう。
この話は里の人間との交流を兼ねることもできる。
無論妖怪と人間だけではなく封印解放から間もない私も。
地上での話を終えたあと私はすぐさま地底に向かった。
無論さとりに会いに行くためにだ。
彼女にこのことを話せば喜んで協力してくれることだろう。
私の贖罪の意味もあるが彼女自身も人間との共存は望まなくとも妖怪との交流が望むはずだ。
私は昨日空と出会った場所に行くと彼女が飛んで行った方向、つまり地霊殿のある方向に足を運んだ。
少し歩くと見事な建物が見えてくる。あれが地霊殿なのだろうか。
あのさとりが主となっている館。
あの子には私の思想は伝わらなかったのだろうか……。少し悲しく思う。
平等に生きるという思想を彼女が受け入れてくれたのならあの空という少女をペットなどとは言うはずもないのに。
しかし私のせいで彼女達にも危害が加わってしまった以上、一層人間への恐怖心が増してしまったのかもしれない。
ならばせめて地上の妖怪と、そしてゆくゆくは全ての者と仲良くなってもらいたい。
それが私の願いであり、贖罪だ。
「さとりに会えない?」
「うん、さとり様は聖に会いたくないって。地霊殿にも来ないでほしいってさ」
私が地霊殿の近くに来た時それを待っていたかのように空がやってきて私を引き止めたのだ。
しかし会いたくないとはどういうことか?
私が空に問うと空は首を傾げて
「さとり様の話だと……聖とは喧嘩してるから会いたくないって言ってたよ」
「喧嘩? 私がさとりとですか?」
「うん。聖は鈍感だから気づいてないだろうって」
喧嘩……? 確かに私は彼女達を怒らせることをした。
しかしそれは致し方ないことであり、さとりほどに頭が良ければわかることだろうに。
私に悪意はなかったこと。救いを与えられなかったこと。
それは彼女達にとって許されざることであったとしても。
謝る機会すら与えないとはどういう了見か。
「聖も鈍感なんだね。私と同じだ~」
「あら、空さんもそういうことがあるので?」
「うん、なんで怒ってるのかわかんない時があるからさ。その時『鈍感!』って怒られるんだよ」
「そうなんですか。私も知らずのうちに怒らせていたのかもしれませんね」
自分との類似点に彼女が微笑む。その表情はまさに純粋と言った様子で私の言葉も真摯に受け取っていた。
しかし私がさとりとこいしを怒らせていたのだとしたら。
私は何を成すべきことは一つだ。
一刻も早くこの地底と地上を繋ぎ、あの2人で地上の素晴らしさを見せる。
そして全ての人妖が手を取った世界を見せてあげる。
それが人間を恐れてしまった彼女達への贖罪だ。
私はまた目標への意志を固めた。
「じゃあねー!聖」
「さようなら、空さん。活動のこと、さとりに聞いてきてくださいね」
「わかった!それじゃあ行ってくる」
そう言って二人は別れた。空の歩く方向を見るに地霊殿へと戻るらしい。
多分、姉に許可を貰いにいくのだろう。
私は、一つため息を吐いて、これからどうすべきかを考えた。
空と聖が出会ってこんな話をしていたとは。たまたま通りかかって幸運だった、と私は思った。
姉は「向こうがこちらへと近寄って来なければ自由にさせる」という非常に消極的な結論を下していたが、
このまま聖を野放しにしておくと、間違いなく地霊殿まで踏み込んでくるに違いない。
彼女は、平等を語りながらも無意識に空を利用しているように見えた。
彼女の語る「平等」など所詮自分の都合を通すために正論の皮を被った脅迫に過ぎないのだろう。
さて、これからどうすべきだろうか。
考えられるのは二つに一つ、空に全てを話して聖に近寄らせないようにする。
または物理的な手段を用いて、つまりは聖に怪我を負わせ彼女自身とその計画を完全にストップさせることで ある。
どちらにしてもひどく手間のかかる方法であるように思われた。
まずは前者の可能性を考えよう。
空は単純で忘れっぽいところはあるが、純粋であるがゆえに時々非常に鋭い。
私達が一体どんな目にあったのか、聖と言う僧は一体どんな存在で何をしてきたのか。
それを全て話してしまえば、聖と一緒に行動するのがいかに愚かなことであるかは理解してくれるだろう。
そして、それを聞いた空自身が聖を拒絶すればあいつと地底の私達を結ぶリンクを途切れさせることができる。
そうなれば彼女の立てている計画はほぼ破綻してしまうだろう。
しかし、と私は首を横に振る。
私達の過去の忌まわしき記憶を語ることを姉が許すのだろうか。
もし、話すつもりであるならば昨日空に聞かれた時点である程度ほのめかすなりしていた筈だ。
それを、「喧嘩をしていて会いたくない」程度の言葉で誤魔化すということは、やはり話したく無いのだろう。
まあそれは仕方が無い、私もあまり触れられたくないと思っている。
仮に話せる心境であったにしても、空に話すには重過ぎる話であるように思われた。
「今まで自分が話していた相手が、自分を利用しようとしている悪魔である」と知ったら、それこそ私達姉妹の 二の舞になりそうだ。
信じていたものから裏切られる苦しみは、まだあの子には早すぎる。味あわせたくない。
ならば、聖を止めるしかない、が。現状ではそれも少し厳しいと思われる。
幾ら過去がああだとしても一応は立派な僧なのである。それに、人を寄せるだけの話術と雰囲気を持っている。
手を出して「地霊の者が聖の目的を邪魔するために聖を襲った」などと噂が流れれば、
地霊殿の主である姉が真っ先に非難を受けるだろう。それは私としても本望ではない。
それに、姉のほうの態度も少しはっきりしないものがある。
先日、姉に殺して良いかと尋ねたのは半分ほど本心もあったが、残りの半分は姉がどう答えるかへの興味だった。
姉の返事を聞く限り、きっと彼女は聖のことをまだ心の奥では信用しているに違いなかった。
もしかしたら、姉は姉なりに聖のことを許そうと思って地霊殿に招くかもしれない。
その可能性がある以上、私が迂闊に手を出してしまうのはまずいように思う。
それならば、私のとるべき行動は……。
「さとり様ー!聞いて聞いてよ」
まるで弾丸のようなスピードと共に空がやってきた。
心の中では「聖からの許可をとらなきゃ、地底と地上を繋げるために」とまるで念仏のように連呼していた。
おそらく忘れまいとするための空なりの方策なのであろう。
「おかえりなさい空。一体そんなに慌てて何の用かしら?」
「さとり様、聞いてよ。聖が地上と地底を繋げたいからその許可を出して欲しいんだってさ」
「地底と地上と繋げる、と本当に聖がそう言っていたのかしら?」
「うん。そうすれば皆が幸せになることができるから、って」
そう言って笑う空の顔にも心にも一点の曇りは無かった。
きっと、いや絶対にそうだ。この子は、地上と地底を隔てるものがただの地盤一枚であると考えているのだ。
地上から地底への偏見はそんな薄い岩一枚を取り除けば消えるようなものではない。
「偏見」や「利権」などと言う概念を理解するのはまだ空には早いのかもしれない。
それはそれで仕方の無いことだ。彼女は、まるで籠の鳥のようにこの地底で過ごしてきたのであったから。
そんな空が地上の複雑なしがらみを理解しろと求めるのは無理であろう。
しかし、問題は聖のほうである。
「地上と地底を繋いでこの地に平等をもたらす」そんなことが本気で可能と考えているのであろうか。
だとすれば、聖は私達の時にしでかした過ちを全く鑑みていないということである。
第二の私達のような存在を生み出しても、「平等を認めない人が悪い」と考え続けるのであろうか。
正直に言えば、会って説得をしたい。が、実際に聖を前にして持論を押し通せる自信はまったく無かった。
彼女は、その点で言えば空に負けず劣らず純粋ではないかと思う。
「ねえ、さとり様どうしたの?怖い顔してるよ」
空のその言葉で自分が彼女を完全に無視して考え込んでいることに気付いた。
とりあえず、今はお互いに余計な摩擦を作らないためにも許可を出しておくのが良い。
少なくとも聖は悪意を持って動いているわけでは無い。それだけは確かだからだ。
「僧の崇高な目的を邪魔するために地霊の主が許可を出さなかった」という噂が広まるのは私も望んでいない。
それに、多分聖の目的はそう上手くいかないであろう。私が許可を出したところで人々の心境だけはどうしようもないに違いない。
心配そうな顔で呟く空を見続けるのも辛くなってきていた私は口を開いた。
「もしかして、聖と喧嘩しているから許可は出せない……?」
「わかったわ。空、聖には地底と地上を行き来させる許可を出すと言っておきなさい。ただし、行き来しても構わないけど地霊殿には近づかないで、ともね」
「さとり様ありがとう! 明日にでも伝えに行ってくるね!」
混じりけの無い空の笑顔を見ながら、私達の身に降りかかった悲劇が空にも怒らないことを切実に望むのであった。
かの恐ろしき覚妖怪どもが退治された、という情報は瞬く間に村落中を飛び回った。元々山間に少し分けいった小さな村。情報が回るのは非常に早い。そしてなにより、その村をこれまでずっと悩ませていた妖怪どもが退治された、という情報は住民にとって何よりの朗報だったのである。
この村の長である玄碌もまた、白蓮の勝利には飛び上がった。妖怪どもの籠る洞穴へ、真言を唱えながら一人で入りこんでゆく姿には、なんとなしに頼りなく思えたはず。だが白蓮はきちんと洞穴より戻ってきた。妖怪の血の付いた矢を握りしめ、相変わらずの穏やかな顔で出てきた彼女を見た時の感動と言ったら、とても言葉で表現できなさそうだ、と玄碌は思っていた。再び穏やかな村が戻ってくるということが、何よりもうれしかったのである。
朝早くから白蓮が訪ねてきたのは、それから2日ほど後のことであった。妖怪退治の喜びも次第に落ち付いてきて、再び普段の生活へ――妖怪の居らぬ穏やかな普段の生活へ、村人たちが戻りつつあった時である。
玄碌もまた、妖怪のおらざることに感謝しながらも、普段の生活へと戻らんとしていたころであった。
「お早くよりお尋ねして申し訳ありません」
「こちらこそ、尼公さまに御足労をおかけしました」
玄碌は頭を下げながら、侍女へと合図を出した。ささ、と進みでた侍女たちが白蓮より手荷物を受け取る。
「大した距離でもありませんでしょうに」
相変わらずの微笑を浮かべながら、白蓮は縁に座って草鞋の紐を解く。玄碌もまたすぐ横に正座した。
「それもそうでしたか」
玄碌もまた、僅かに笑う。言われてみれば白蓮が宿所とする、村唯一の寺はここからすぐ近くである。
「しかし、お呼び下さればすぐにでも伺いましたが」
「私の方の都合ですから、私が伺うのが礼儀でしょうから」
白蓮が草鞋を脱ぎ終えるや、玄碌も立ち上がる。
「こちらでございます」
白蓮が縁に立ったのを見計らって、玄碌は奥の客間へと白蓮を案内した。
「ささ、こちらです」
上座に白蓮を案内し、それから玄碌自身は向かい――下座へと座る。白蓮は一礼してから上座へと腰を掛けた。
「今すぐ白湯が参ります故、暫しお待ちを」
「突然の来訪ですから、どうぞお構いなく」
白蓮は少し申し訳なさそうな表情を浮かべている。白蓮といえば、この村の恩人である。この村を何よりも大切に思う玄碌にとって、その村の恩人たる白蓮がいつ来ようと全く構わないと思っている。だから、玄碌はそれほど気を使わずともよいと思うのだが、こうしたちょっとしたことも気にしている白蓮に、彼女の人柄の良さを見てもいた。
「それで、このような朝に参るとは、急ぎの御用でしょうか?」
白蓮が来てくれたこと自体は一向に構わないと思いつつも、玄碌は白蓮の来訪があまり有難くはなかった。白蓮が朝早くから村長の処へ来る用事、といわれるとついつい何か悪いことがあったのではないか、と思えてならないのである。妖怪を退治してからまだ一晩しか経っていないのだ。
「ええ、まあ」
対する白蓮は、少し苦笑いをする。
「なるべく早くお伝えした方が良いとは思ったので今日参りましたが、凶事ではありませんよ」
「それはそれは」
その言葉に玄碌は、たいそう胸をなでおろした。妖怪の帰還という何よりも恐ろしい憂慮は、杞憂に終わったようである。
「して、それではどのような御用で?」
妖怪が生きていた、だとか、新しく現れた、だとか、そんな凶事以外の急ぎの用事とはなんだろうか、と玄碌は考える。そのような事は、あまり玄碌には思いつきそうもなかった。
「実は昨日の深夜、私の元へ童女が二人ほど到着いたしました」
「侍女でございますか? わざわざお呼びに?」
玄碌は首を傾げた。白蓮の身の周りの世話くらい、誰でもするだろうに。
「いいえいいえ」
白蓮はゆっくり首を振った。
「近くの村より、修行の為に私のところまで参った者たちですよ」
「なるほど」
玄碌は納得する。なるほど、信貴の名僧が近くに来たと聞きつければ、その元で修行したいと思う尼もいるのだろう。
「村人に何も言わずに外の者を受け入れてしまうのは不味いと思いまして、それでこのように朝早くから参ったのです」
「尼公さまが不審な者を招き寄せるとは誰も思っておりませんし、そこまで気になさらずとも」
玄碌は白蓮の来訪へ、非常に好意を持った。名僧として名高いながらも、全く驕らずにあくまで"村の客分"の地位を守り通している。彼女は村の英雄なのだ。だから、もっと驕ってもいいというにも関わらず、こうして玄碌の処まで訪ねて来てくれて、しかも早朝の来訪に謝りまでいれる。中央の僧といえば得てして偉ぶるものであったことを考えれば、このような白蓮の態度は玄碌にとっても感心させられ、そして喜ばしく思えるものであった。
「本来ならば、先に了解を取り付けるものです。それを事後承諾という形で認めて頂くことになったのです。これくらいのことはして当然でありましょう」
そんな白蓮の言葉に、玄碌は微笑みながら頭を下げるほかなかった。
「ところで」
玄碌は頭を上げたところで、話題切り替えの一言を告げる。これまでの声よりも一段低い。
「なんでしょうか?」
相も変らぬ穏やかな表情のまま、白蓮は問うた。
「白蓮さまは、まだ退治の旅を続けられるのでありましょうか?」
玄碌にとってこの一言は、少し重いものである。既に妖怪は退治され、村には平穏が戻ってきている。となれば白蓮にとってはもうこの村に居る必要はないのである。
「何故?」
「尼公さまがこのまま、この村に居て下されば、我々は安心です。今回は退治も済み、村にも平穏が戻っております。ですが、またいつ妖怪が現れずとも限りませぬ。是非ともこの村に、永く御滞在頂けぬか、と」
白蓮ならば、村に永くいても問題を起こすことはまずあるまい。玄碌はそんな確信がある。
「なるほど、そんなことですか」
深刻な表情を浮かべたことが馬鹿らしくなるほど、快活な声で白蓮は告げた。
「安心して下さい。私はそうすぐ、何処かには参りません」
「む?」
「まだ当分の間は、この村に置かせていただくつもりなのですが、それでもよろしいのでしょうか?」
「妖怪退治に向かったりは、なさらぬのですか?」
「いま誰かに頼まれているということもありませんので、もし、この村の方々がよろしいと仰って下さるのならば、ここに置いて頂けると有難いのですが……」
というところで、白蓮は少し言葉を詰まらせる。白蓮がこの村に居てくれることは、玄碌たち村の住人にとっても大歓迎のことであるのだが、何を白蓮はためらっているのだろうと玄碌は思った。
「どうなさいましたか?」
そのまま言葉を失ってしまった白蓮を見かねて、玄碌は問いかけた。白蓮の表情からは、珍しく笑いが消えている。
「この村は山階寺荘園ですけれども、それでも大丈夫ですか?」
「ここが山階寺の荘園であることは、やはり気になりますか?」
「というよりは、この村に私が迷惑を掛けてしまうような気がするのです」
南都奈良に山階寺という寺がある。都に犇めく藤原一族の氏寺であり、寺とは言いながら恐ろしいほどの力を持っていた。寺の領土とも言える荘園は、既に全国各地に広がっている。山階寺の寺域には学問を行う学僧の他、悪僧と呼ばれる武装集団も多数住まっており、荘園に一朝事あればその軍事力でもって他を圧倒する。誰もが認めるこの時代最強の寺院である。山階寺では、仏教の中でも法相教学が盛んにおこなわれた。この法相学というのは呪術体系を多く含んだ仏教学であって、それゆえ山階寺は妖怪退治や疫病平癒などでも力を発揮している。
一方の白蓮は、信貴山の僧である。信貴山の教義は、今から100年ほど前に入ってきた真言密教学。真言教学は真言(サンスクリット語)による呪術体系を中心としており、法相教学とは対立関係にある。しかも場所は山階寺と同じ大和。それゆえ山階寺は信貴山を恐ろしいまでに敵視している。
翻って、この村は件の山階寺の荘園である。直接山階寺から代官が来ているわけではなく、あくまで村長の玄碌が山階寺へ納税しているだけである。とはいえ山階寺の支配地には違いない。その状況を白蓮も知っているのだろう。
「確かにここは、山階寺の荘園であります」
玄碌ははっきりと言いきる。この村がこうしてこれまで平和である理由の一つは、山階寺の保護故に国や他の寺社の乱入がないからだ。だから玄碌は、山階寺には感謝してもしきれないと思っている。
「ですが、だからといってどうして尼公さまを追い出すことができましょう」
玄碌ははっきりと言いきった。玄碌は既に腹を決めていた。
「尼公さまは我等の命の恩人です。たとえ山階寺がどんな圧力を掛けてこようとも、尼公さまの御身はお守り致しましょう」
「それゆえ、この村へ残って下さいませんでしょうか」
玄碌は白蓮の顔を強く見つめる。ただ、白蓮にその思いを受け取って欲しいがために。
「そのように仰って下さるのでしたら、是非ともこの村に置いて下さいませ」
白蓮が軽く頭を下げようとする。玄碌はすぐさま右手を前に出し、それを押しとどめた。
「この村の何処に、尼公さまを村から締めだそうとする者が居りましょうや。その申し出は村の者一同が願っていたことに他なりません。誠に、誠に有難き次第でございます」
白蓮が頭を下げることをとどめつつ、玄碌こそが白蓮へと頭を下げる。白蓮はその姿に慌てた様子である。しかしそれにも構わず、玄碌は深々頭を下げたまま動かない。
否、嬉しさのあまり動けなかったのである。これで村の安心が永く守れる、というその喜びに。
「この二人が、私の元に来た女童(めわらべ)です」
白蓮が住むのは、村の中にあるお堂である。玄碌が私財を投じて作ったお堂であり、村の信仰をこれまでも束ねてきた大切なお堂であった。決して大きなお堂ではないが、村人たちが木一本々々から選びぬき、丹念に普請した自慢のお堂である。村人たちが毎日交代で手入れをしてくれているから、少なくとも白蓮にとって住み心地が悪いということはないだろう、と玄碌は思っている。
「こちらがが"さとり"」
「よろしくお願いします」
さとり? と玄碌は若干引っ掛かった。何と言う偶然もあるのだろうか。ついこの間まで村を苦しめていた妖怪は"覚り"であった。それに代わって来た人間の名が"さとり"だというのだ。
しかし玄碌はさとりの姿を見て思いなおす。人見知りをするのか、少し物憂げな表情を浮かべてこちらを眺めている少女を疑うほど、玄碌は人間不信ではない。それにさとりを呼び寄せたのは白蓮なのだ。
「そして、こちらが"こいし"」
「こんにちは」
こいし、と呼ばれた方の少女は打って変わって、快活そうであった。さとりと比べれば少し背は低いようであり、一目見てこいしが妹であるということがわかる。顔立ちが似ているからこそ、二人は好対照であるように玄碌は思えた。
「こちらが、この村の長・玄碌さんです」
「玄碌という。小さい村で何もないが、これから宜しく頼む」
玄碌は彼女たちへ向かって笑みを振り向けた。彼女たちはもう自分の村の住人である。ならば、自分にとっては家族も同じようなものなのだ。少なくとも玄碌にとってはそう思える。だから玄碌にとっては、もうこの二人も家族なのである
「お願いします」
「よろしくおねがいします!」
二人の声は、玄碌にとってもとても心地の良いものであった。
地底と地上の関係の回復計画はあっという間に進んでいった。
空がさとりから翌日にすぐさま許可をもらってきてくれたことが幸いし、里の人間は地底側の意欲を感じとったようだ。
すぐに許可を出すあたりさとりも否定的ではないのだろう。
私は内心彼女の奥ゆかしさに微笑んだ。
おそらく空の顔と私の話を真摯に受け止めてくれたからの行動であろうからだ。
空と別れたあと私は地底の妖怪に今回の件を話し、同意を得た。
彼らからすれば地上に行けることになんのデメリットもないから当然だ。
しかし過去の確執を根に持つ妖怪も居り、彼らには地底側が地上に慣れるまで地底には地上の人妖は入れない、ということで同意を得られた。
最終的な目的は地底と地上を完全に繋ぐことだが現状地底側の立場が低いと言わざるを得ない。
噂によって誇張された恐怖、文献によって捻じ曲げられた常識は地上も地底を深く蝕んでいる。
それに元々妖怪の山の妖怪に存在する傲岸不遜な態度。地底の者がこちらに来るに当たって必ず障害になるだろう。
彼らは『現状維持』の考えを貫いており、里での説得の後軽い警告がかけられた。
『幻想郷に混乱を持ち込むな』
それが彼らの意見らしい。
何が現状維持か。その考えこそが上からの重圧であり地底の妖怪を苦しめているというのに。
結局は自分が長く座ってきた椅子から降りたくないだけの意見。
私は憤りを感じざるを得なかった。
恒久なる平和を作るには皆が手を取り合わなくてはならないのに。
私はそのために行動しているというのに。
「よく来てくれましたね。空さん」
「うん! すごいね地上は! ものすごく綺麗!」
「そうでしょう? とりあえず最初はこの命蓮寺でお話をしましょうね」
「仲良くなれたら外に出ていいんだよね?」
「ええ、空さんならすぐに皆と仲良くなれますよ」
数日がすぎ、ついに地上との交流が始まった。
やはり最初に地底から出てきたのは空だった。私が制止するのも聞かず私よりも先に地上へと飛び出したのである。
その姿は籠に閉じ込められた鳥が開け放たれるようだった。
その姿を見て彼女は必ず地底と地上を繋ぐ鍵になってくれる。私はそう思えた。
その想像はまさに的中した。
空の明るく悪意のない姿が地上の人妖の警戒心を解いたのだ。
命蓮寺にきた人間に笑顔で声をかけ、にこやかに会話を始めた彼女に対して悪意を感じる者はいなかった。
彼女の能力を話す時も警戒心を解いた人間は興味深げに聞き、彼女に危険性がないことを確認していた。
妖怪に関しても能力に応じた制御の力を持っていると判断したのか、彼女に話しかける者が多かった。
すると彼女は地底に戻る度に地上の話題を話すことから地底の妖怪も恐る恐る地上へ上がってくるようになったのだ。
そして空や私を介して地上の妖怪と対話し少しずつ打ち解けていった。
しかし地上の妖怪の数割は地底の妖怪の悪行を知っていたため反応が悪く、対応してくれないものもいた。
そういった妖怪も人間と交流する彼らを見ているうちに警戒心を解いていくのがほとんどだった。
すべては順風満帆。私の考えが肯定された瞬間のようであった。
すべての人妖が平等に生きるために行動している。
私は歓喜せんばかりの思いだった。
感動に打たれ胸に手を当てていると後ろから声をかけられた。
「あんたが聖白蓮さんかい?」
「ええ、そうですが……あなたは確か地底でお会いした……」
「おぉ、覚えていてくれるなんて光栄だね」
「あなたも地上にいらしたのですね。 どうです久しぶりの地上は」
話しかけてきた彼女は鬼であった。
地底は元より鬼の住処として名高いが彼女はその中でも強い鬼のようであり、旧都で空の次に話しかけてきたのも彼女である。
旧都の妖怪との対話は彼女のおかげで潤滑に進んだと言っても過言ではない。
聞けば鬼は他の妖怪を地底に入れないという盟約を地上の妖怪と交わしていたらしく、私が今回の件を話すと多少の反発の声が上がった。
しかし繁栄のためになること、地上の鬼に会えることを彼女が愉快に話したてたことで鬼達も納得したのだった。
彼らにとっては後者の方に興味があったらしい。繁栄は自分達で行おうとの意志が見えた。
「さっきまで久しぶりの再会に飲み会をしていたところでね。帰りがけによらせてもらったよ」
「あら、そうですか。私もそういう方が居ればいいのですけど……」
「さとりとは知りあいだって聞いたけどね? 会いに行かないのかい?」
「『喧嘩中』だそうです。あの子が言うのでしたらそうしておきます」
私が微笑むと鬼はクスクスと笑うと酒をあおる。
さとり、というあたり知りあいなのだろう。
彼女に友達ができたことは素直に喜ばしいことだ。
あの時のように姉妹2人きりで過ごすなんてことは悲しくてならない。
けれど『ペット』などという関係を起こそうとは思いもしなかった。
確かに主従関係では自らには害はなく、苦しみも少ないと言える。
しかし従に当たるもの、つまり支配されてしまう者の思いを彼女達が分からぬとは言うまい。
彼女達は『覚』だ。周りの苦しみは偽ることなく伝わってくるはずなのに。
空の話によれば自由でつらいことなどない、とのことだが私は主従関係自体に許せなかった。
なぜならば今この幻想郷にそのような制度の必要性を感じないからだ。
幻想郷無き千年前ならばまだその存在は許されたものかも知れないが。
主従関係というものの多くは傲慢な支配欲と社会性の誇示から存在するものだ。
生きる時間の短い人間ならば年功序列という上下関係の成立はあり得るが数百、数千を生きる妖怪にそのような関係は成立しえない。
何故ならばこの幻想郷は人妖が共存しあって生きている。
知る時は千年としても今を生きるのに必要なのは精々百年程度だからだ。
そうでなくては人間との兼ね合いができない。
地底はそうではない、とも言える。人間がいないから。
しかしそれは長く生きた者の傲慢な意見だとしか言いようがない。
もし能力によっての支配だというのならなおさらである。
だが彼女の能力は支配を行うためのものではなく行えるものだと思い難い。
ならば彼女なぜ『ペット』などという主従関係を行っているのか。
今の私には想像がつかない。
「……おい……おいあんた!」
「……っ?」
「どうしたんだい? 笑ったかと思ったら急に顔を顰めちまって。すごい形相だったよ?」
「すみません、少し考えてしまって」
はっと我に帰ると鬼が怪訝な顔をして私の顔を覗いていた。
相当恐ろしい顔であったらしい。
「何か考えることがあるのは構わないけど……話し相手の目の前でやられちゃ困るな」
「そうですね。気をつけます」
「そうそう。相手と話す時は例え嘘でも考えなしに話すもんさ。その方が会話は弾む」
そういって鬼は私の横を通り過ぎ寺の出口の方へ向かっていく。
しかし彼女は何か思いだしたように振り向くと私に向かってこういった。
「そういやあんた、酔狂な思想を掲げて歩いてるそうじゃないか」
「……酔狂に感じますか。私の思想は」
「そりゃそうさ。あんたもわかってるだろうが上からしてみりゃ席を並べるようなもんだからねぇ。まぁ正直に言えば私も賛成、ではないね。『無投票』ってとこかな」
「……どうしてですか? すべての者が平等に生きられることは素晴らしいことなのに」
「万人の望みだからこそ万人が否定するのさ。望んじゃいるけど心の底じゃ上でいたいもんだよ。あんたもそうだろう?」
「私は違います。全ての人妖が平等にと思っていますとも」
「ならあんたは間違いなく人の思想を持っちゃいない」
「それを悪しきと思いますか? あなたは」
「いいや? それこそ『人それぞれ』さ。今はうまく行ってるんだろ? それなら問題ないじゃないか。がんばりな」
鬼はそういうと背を向け片手を振りながら去っていった。
私が間違っている? そんなはずはない。
すべての人妖が平等に生きる世界。そこに何故不満があるというのだ。
支えあい、助けあい、認め合うことのできる平等な世の中になれば全ての者が幸せになれる。
それに間違いはないはずなのに。人の思想ではないという。
万人が望む結果なはずなのに。万人が否定するという。
何が違うというのだろうか。
私の思想と理想の世界は。
「さとり様! 今日も地上の人たちと沢山お話してきたんだよ!
まずはね、私の第三の足を『かっこいい』って言って触ってくる男の子が居て、
そしたらその子のお母さんは『ごめんなさいねえ』って謝ってきたんだけどあれはなんで謝ってきたのかな?」
「へえ、地上の人たちって変な時に謝るんだねえ」
箸を動かすのも億劫であるという様子で空は楽しげに今日地上であったことを話す。
ここ最近の食事時間での恒例行事のようなものである。
燐は、適当に相槌を打ちながらも、地上の人間がどのような様子であるか興味深いようであった。
『さとり様、聞いてよ。今日始めて地上の人たちとお話したんだよ!
えっとね、最初は皆怖がっててあまり近寄ってくれなかったんだけど。
私が地底から来ました空です、よろしくお願いしましゅ! って思いっきりかんじゃったのを聞いてみんな笑ってくれて。
それから色んな人が私の話を聞いてくれるようになったんだよ!』
確か最初の夜の話はこんな始まりだったように思われる。
地上での話をする時の空の心はまるで真夏の太陽のように明るく輝いていた。
そこからは、自分が誰かの役に立てて嬉しいという感情がひしひしと伝わってきた。
聞いたところによると、空は地上から地底へと行くものを募集していた聖に真っ先に自分から名乗りを挙げたらしい。
まるで、母親のために役立ちたがる子供のようだ、と思う。
けれども、それは有る意味では仕方の無いことなのかもしれない。
私は、空にも燐にもそれ以外のペットにも一度として自分の身の回りの世話をさせたことが無かった。
それどころか彼女自身のことも私がほとんどやってしまっていた。
食事も私が全て作ったし、服なども私が縫って用意した。住処もそうだ。
特にお風呂なんかは最近やっと空は一人で入れるようになったほどである。
そこまでするのは、彼女達は私の大切なペットであり彼女達に不自由をさせるわけにはいけかなかったからだ。
それは、彼女達の上に立つものである「飼い主」としての私の責任だろう。
だから、空が誰かのためになりたいと思うのは、ペットの心の成長として本当は喜ばしいことなのかもしれないが。
状況が状況であるが故に全く喜べないのであった。むしろ、あどけない子供のように利用されているように思える。
「さとり様、もしかして食欲が無いのですか?」
私の様子に気付いた燐が、空の話を一旦遮って私に問いかけてくる。
燐と空の心は、私のことを真剣に思ってくれているそれであった。
私は、そんな彼女達に感謝を覚えながら首を振って答える。
「いえ、ちょっと明日の夕食のメニューについて考えていただけよ。空、あなたの話を続けて頂戴」
「わかったさとり様! えーっとね、その女の人は私の事を……」
空のことも心配であったが、問題は聖の計画のことである。
今のところはうまく行っているようであるが、正直これからどうなるかはわからない。
幾ら人間や妖怪などが許しても、力の強い妖怪はどう思うか。
多分、彼らの意見としては「バランスを崩したくないから現状維持が良い」と思うものが少なくないはずだ。
彼らにとっては、地上と地底の交流によるメリットよりも、
コントロール下にない地底の妖怪が地上に出てくるデメリットのほうが大きく感じるはずだ。
だから、その内聖を止めるために何か仕掛けてくるに違いない。
もしそうなって空が巻き込まれるようなことがあったら、絶対何があっても止めねばならない。
私は、楽しげに談笑する二人のペットの姿を見ながらそう決心するのであった。
すべての者が平等に生きられることは素晴らしいこと、か。
私は、鬼と聖が話していた内容を思い出して大きくため息を吐いた。全く持って素晴らしい考えじゃないだろうか。
素晴らしすぎて吐き気を催すような理想だ。
それは、まるで欲望は全て危険であるから排斥すべきだ、という意見となんら変わらない。あまりにも横暴で、いい加減すぎる。
結局のところ、あの僧が見ているのは目の前で生命活動を営む人間ではなく、
彼女の頭の中にしか存在し得ない、彼女の理想であるところの「人間」であった。
そういえば、彼女は空と会うたびに言っていたっけ。
『毎回思うのですが、あなたはさとりから飼われていて何も思わないのですか?』
『えー、別に幸せだよ?聖は私の事が幸せに見えないの?』
『そうではないのですが、心の奥でどこか辛いことがあるのでは?』
『別に、さとり様って優しいんだよ。ご飯もちゃんと用意してくれるし、私のお洋服なんかも……』
空が不幸せであるわけがない、そして、それは彼女を飼っている姉のほうも同じだろう。
それは、「主従関係」と言う名のルールであったからだ。ある種では「契約」であるとも言える。
飼い主の言うことに何一つ逆らわないことを求める代わりに、ペット達に不自由を掛けない契約。
それは、聖の言うとおりまったく平等ではないが、それゆえにお互いに安心であるといえる。
多分、「真の平等」という物が一度この世界にやってきたとしても、それは必ず破綻して新しい上下関係を必ず人々は生み出すに違いない。
何故なら、それが私達生き物の性であるからである。
他人より上に立って他人を支配したいという願望。他人の下で平穏な人生に落ち着きたいという願望。
私は時折地上に遊びに行くたびにそのような人間を沢山見てきたし、
現に姉も空達をペットとして支配下に置くことで、自分の周りの者に裏切られない安心感を得ている。
空たちも姉に大事に可愛がられて、そのことをとても幸せに感じている。ギブ&テイクと言うやつである。
「感情」だけはどうやっても正論の下に置くことはできない。
そんな人間ならば早い段階で気付きそうな、ある種真理とも心理とも言える事実に聖はどうして目を向けないのだろうか?
あるいは、そんなことに気が付かないほど取り返しの付かない所まで彼女の心境は行ってしまっているのかもしれない。
そうであるなら、彼女の向かう先には一体何が待ち受けているんだろうか。
相変わらず、村は平和だった。
もう妖怪が出てくることはない。村人全てが、これまで通りの平穏で楽しい生活に戻ることができた。
そして、白蓮はまだ村に残ってくれていた。妖怪がいなくなった以上、白蓮がこの村に居る必要はこれっぽっちもないはずなのだ。だが、白蓮は二人の女童を連れて今でも村のお堂に住んでいる。穏和な白蓮は村人に好かれていて、今ではすっかり村人の一員のようだ。
「玄碌のおじさん、こんにちは」
「あれ、掃除かい?」
お堂に上がってきた玄碌は、こいしが珍しく箒なんぞを持っているのを見る。普段は、大体お堂の外を駆けまわっているのに。
「今日は、白蓮さんが村人をお堂に呼んでお話する日だから」
「なるほど。それでその前の用意に駆り出されているということか」
「そういうことなの。まあ、いつも白蓮さんにはお世話になっているからね」
仕方ないなぁ、という顔でこいしは笑う。出来ればさっさと辞めて何処かへ行ってしまいたいな、という気持ちが駄々漏れであった。
それでもどこにも行かずにここにいるというのは、やっぱりこいしが白蓮を慕っているからなのだろう。
「いつもお世話になってるから、偶にはちゃんと掃除するんだ」
玄碌が眩しく思えるくらいの笑顔で、こいしは箒を握り締める。
「そうか」
玄碌はそんなこいしがほほえましい。
「ところで、尼公さまはどちらに居られる?」
だが、玄碌は別にこいしと戯れるためだけにここへ来たわけではない。玄碌もまた村長なのである。いくらなんでもこんな朝から遊び回るほど暇ではない。
「今日の予定について話し合うんだね。でも、白蓮さまはここにはいないよ」
「む、そうか」
玄碌は少し眉を寄せる。まさか白蓮がどこかに行っているとは思いもしなかったからだ。しかしどこへ行ったのだろうか。
「桑の手入れの手伝いだって」
「そうかそうか」
白蓮の元で修行する二人の女童は、双方ともがかなり聡明である。玄碌がふと疑問に思った事を鋭く察して、すぐさま答えてくれる。流石は白蓮の認めた女童だと感心する次第である。
「お堂の中で待ってれば、帰ってくると思いますよ」
箒でこいしはお堂の方を指す。その仕草に玄碌は少し笑って言った。
「それじゃ、そうさせてもらおうかな」
玄碌は左に抱えた荷物を一度抱え直すと、お堂の方に歩き始めようと踏み出す。が、そのまえにふと玄碌は手を伸ばす。
「それじゃ、掃除頑張ってな」
玄碌はこいしの頭に手を乗せる。こいしが何、と表情を見せる間もなく、玄碌はその節くれた手で、こいしの髪を乱暴に掻きまわした。
「ちょっと!」
こいしがぷーっと膨れるのを余所に、玄碌はその髭面へ満面の笑みを浮かべる。そうしてこいしが何かを騒ぐのも構わずお堂へと歩いて行った。
玄碌の印象というのは、まず怖い人で始まるらしい。四角い強面に髭を生やし、その上剃髪もしていればそれもしかたないのかもしれない。でも、二人ともすぐに玄碌に慣れてくれた。今では、あの二人を可愛がらぬ人間はこの村には居ないだろう。
「玄碌さん、こんにちは」
お堂の中に入った途端、さとりから声が掛けられる。さとりは雑巾でもってお堂の柱を拭いているところだったようだ。
「さとりちゃんもこんにちは。精が出るね」
「ええ。今日は白蓮さんの説経会(せっきょうえ)ですから」
あくまで無表情に、さとりは答える。喜怒哀楽がそのまま顔や態度に出るこいしとは異なり、さとりの心情は読みにくい。
「このように頻繁に、このようなことをして頂けるとは、本当に有難いことだ」
今日これからやるような説経会は、十日に一度もある。村人の一人がどうしても白蓮の話を聞きたい、と言って始まったこの会はいつしか定期化し、参加者も殆ど村人の全員と大規模化している。
「このように尼公さまの手を煩わせていることだけが、少し申し訳ないが」
「白蓮さんもこういうことをするのが好きなのですよ」
玄碌の懸念を、さとりはすっぱりと切り捨てる。無表情のままではあったが、その口調は先ほどより少し穏やかだ。
「そうなのか?」
「なにせ尼なのですから。これは白蓮さんにとっても重要な仕事ですし、何より自分の理想の為にはこういうことも必要だと思っているようですよ」
その上でさとりは補足した。さとりの観察眼には、玄碌も舌を巻かされることが多い。今度もそうだ。
「よく尼公さまを見てるのだな」
「それは、私たちと毎日こうして暮らしているのですからね」
「ふむ」
毎日一緒に暮らしているだけで、そこまで細かいことが分かるかどうか、と言われると玄碌は疑問である。だが、きっとさとりにはわかるのだろう。玄碌にはそう思えた。
「君は随分と賢いな」
「そうでしょうか?」
あくまで柱を拭きながら、さとりは頭だけをこちらの方へと向けている。そのさとりの声には、疑問が少し混じってくる。
「ああ、私はそう思うな。人の考えを類推するというのは、愚鈍ではとてもできないことだ」
「そうでしょうか」
何故か少し、彼女の声は小さくなる。何か癪に障ることでも言っただろうか、と少し玄碌は心配する。
「自分で自分を聡い、ということはできませんし。でも、玄碌さんの言う通りだな、とも思いますから」
今度は普通の口調で、さとりは言う。なるほど、彼女は認めるのが少し恥ずかしかったのだろうと、玄碌は納得した。
「それもそうだ」
玄碌は微笑みながら告げる。さとりは相変わらず柱に向き合っていて、こちらからは横顔しか伺えない。傍目には無表情であるが、僅かに動揺しているように玄碌には思えた。
ふと話が途切れたところで、玄碌は荷物を置き、お堂の中へと入っていく。
それほど大きくはないお堂であるが、きちんと南都から頂いた本尊の釈迦如来像が安置してある。一見すると穏やかでなだらかだが、その表情には何処となく厳しさがあり、受ける印象はどちらかと言えば尖っている。見れば見るほど、飽きることのないその像を、玄碌はとても気に入っていた。
玄碌はその大切な釈迦如来の前に座ると、数珠を取りだして手を合わせた。
祈るは唯一つ。村の安全。
「玄碌さんは、本当にこの村を愛しておられるのですね」
珍しく今日のさとりは饒舌だ、と玄碌は思う。さとりは基本的に無口である。一緒に居たとて、話さぬこともまた多いのである。さとりから話しかけることはそうそうない。
「勿論だろう。私はこの村の村長なのだ。この村と村人の安全を守るのが仕事なのだからな」
玄碌は村長である。玄碌自身だって田畑は持っているが、それ以上に村人からの税収によって暮らしている面が大きい。そのように税収が得られているのは、偏に村人の安全を守りこの村を守っているから。そのように玄碌は考えている。そうである以上、玄碌は村の安全を何よりも望むべきなのだ。
「そうでなければ、貴方がこうして田畑に出向かぬ身分に居る理由がない、と?」
「その通りだ。村の為ならば、なんだってするつもりだぞ」
玄碌は軽く胸を張る。この村は玄碌にとって自慢の村。何にも代えがたい自慢だ。
「そこまで、大切ですか」
さとりは、小さく呟く。さとりがなにを思ったのか、玄碌にはわからない。
「命に代えてもな」
玄碌は自信を以て言ってのける。
その言葉に、さとりは少なからず驚いたようであった。一見こそ普段通りではあったかもしれないが、その瞳はほんの僅かに開いていた。
説経会は恙無く終了した。一刻ほどの間、白蓮が経や真言陀羅尼の内容について丁寧に解説してくれる。こんな辺鄙な村に居ながら密教の教えを受けられるということは、何にも代えがたい。白蓮の解説が抜群にうまいか、といわれれば、玄碌も首を振らざるを得ないかもしれない。だが優しく語りかけるような白蓮の解説は、聞いてて非常に心地良い。それゆえ、説明が少々複雑であったとしても、白蓮の語り口に乗せられているうちに何となく意味がわかってくるのだ。
「尼公さま、毎回御苦労さまでございます」
先ほどまで満員だったお堂も、今ではすっかり人がはけた。外からはまだ喧騒が聞こえてくるのを思うに、村人たちは外で談笑しているのだろう。
「いえ、私の本業はこうして人々に仏道を語り、導くことでございますから」
母性を感じさせる笑顔を、白蓮は玄碌へと向ける。
「しかし、まさかこの村で真言について学べるとは」
つい100年ほど前に入ってきた密教。妖怪を退治するものも含めた、様々な呪文体系を含むこの教えは、あっと言う間に日本全体へと広がっている。とはいえ、こんな小さな村まで伝わってくることはそうそうない。村から出ることも多い玄碌であっても、その密教の教えはほとんどわからなかったと言ってよい。
「果たしてこの村で真言を教えるのが良いのかどうか、私にはちょっと判断しかねますけれどね」
白蓮は苦笑した。その裏には、少しの不安が浮かび上がっている。玄碌はその不安の内容がすぐに浮かぶ。この村の立ち位置の問題なのだろう。
「実は尼公さま」
故に玄碌は話しかけた。懐に右手を入れながら。
「なんでしょうか?」
その不安を打ち消すように、白蓮は少し真剣な表情になる。いつも笑っている白蓮らしく今も微笑っているのだが、目の力が違う。
「このような書状が届きました」
懐から出した紙を、玄碌は白蓮へと渡した。
「これは、山階寺の?」
「その通りです」
そこには、この村に真言僧が忍び込んだ故に捕えて山階寺に護送しろ、という旨が記されている。玄碌は白蓮の存在を漏らしたつもりはないが、白蓮は広く名の知られた名僧。人知れず噂は広まっているのだろう。
「それで、これをどうなさるのですか? 嘘をついてもいつかバレると思いますが」
「まだ、この書状は私と尼公さましか見ておりません。ので」
玄碌は、白蓮からその書状を受け取るや、真っ二つにちぎった。
「この村は妖怪も出る危険な土地。手紙を受け取った者が偶然、妖怪に殺されてしまったようなのです」
もう半分に引き裂きながら、玄碌は白蓮に笑いかける。
「まだ油断ができませんので、白蓮さまはまだ村に居て下さるでしょうか?」
その玄碌の言葉には、白蓮もくすり、と笑うと告げた。
「勿論」
数枚になった件の書状へ、一枚一枚火を付けて燃していく。あっと言う間にこの書状がこの世から消えていくのを横目に、玄碌は外の方へと視線を向ける。
「こいしちゃん、今日の仕事は終わりなのかい?」
「あ、建部のおじちゃんに長谷部のおじちゃん! こんにちは!」
「こんにちは」
村人が二人、こいしと談笑しているのが玄碌の目に入る。まだ若い男たちである。
「今日はこれから、説経会の片づけだからまだ仕事が終わらないの。一杯人がくると、いろいろと大変だから」
「そうか、それは御苦労さまなことだね」
「それじゃあ、これをあげよう」
村人の一人が何かを懐から取り出す。途端、こいしの表情がぱっと明るくなった。
「え、これくれるの?」
「仕事の合間に遊びで作ったものだからね。持っていきな」
こいしのその小さな手に何かが手渡される。玄碌が目を細めてみると、その正体がわかった。
「建部のおじさん、有難う!」
こいしはそれを両手に挟むと、思いっきり回す。するとそれは空高く舞い上がる。竹トンボだ。
「おお、随分飛ぶな。流石、建部だ」
もう一人も感心しながら眺めているよう。その二人ともが、これまで見たことないくらい穏やかな顔を浮かべている。村に子供はそれほど多くない。とりわけ若い彼らは子供と関わる機会も少ないのだろう。それに、こいしがあそこまで喜んでいるのを見て、猶心穏やかにならぬものなぞおるまい。
「すっかり、溶け込みましたね」
隣から聞こえた声に振り替えると、白蓮もまたそちらの方へと目を向けている。
「こいしちゃんなんて、村人に会うたびいろんな人に可愛がられているみたいですし」
「村の中をあちこち歩き回って、てっきり遊んでいるのかと思いきや、結構手伝いをしているようですよ」
玄碌は、村人から聞いた情報を披露する。白蓮はそれに少し驚いた表情を浮かべて、それからとびきり晴れやかな笑顔を浮かべた。
「きっと、村人が働いているのに自分だけがふらふらしている状況が嫌になったんでしょうね。本当にいい子だ」
玄碌は率直な感想を漏らす。果たして村の子供は、ここまで殊勝な考えを持つかどうか。
「そりゃ、私のところの童ですから」
白蓮は胸をはる。しかし、その仕草がなにかおかしくて、玄碌も顔を緩ませる。
「尼公さまの童ならば、間違いはありませんでしょうが」
噴き出すのをこらえながらも、玄碌は頷く。
「村人たちも、以前よりも皆が優しくなったように思えます」
ふと違う方を向くと、村の小母さま方からさとりが花飾りを貰っている。さとりが少し困惑しながらも嬉しがっている、そんな様子が遠いここまで伝わってくる。
「偏に、尼公さまとあのお二人の御蔭です。本当に有難うございます」
「私は、そんな」
玄碌もまた、穏やかな笑顔を浮かべる。ほんの一瞬だけ、困ったような表情を見せた白蓮であったが、彼女もすぐに穏やかな笑顔を見せて頷いた。
「本当に、あのお二人が来てからこの村は良くなった」
玄碌は自慢げに呟いた。一時は妖怪が訪れてどうしようかと思ったはずだったのに、ここまで村が変貌するとは。
白蓮という存在の大きさを、玄碌は実感していた。
その日私が里を訪れると、里には地底の妖怪の姿が無かった。
その上何故か、皆々私から目を逸らしわざとらしく避けるような仕草で私の横を抜けて行く。
何かあったのだろうか? 話しかけようとしたがその人間は逃げていってしまった。
周りを見れば別に人妖に何かあったわけではないように見える。
窓の隙間から人間と地上の妖怪が話している様が見えたし、店も普通に営業している。
ならば一体何があったのか。
避けることのなかった友好的な妖怪に頼み話を聞いてきてもらうと彼は私を見るや不思議な顔をしてこう言った。
聖白蓮は悪魔である、という噂が流布されている。
悪魔とはどういうことかと問うと『妖怪を擁護する者』という意味合いらしい。
おそらく妖怪の前には『悪い』の二文字が入ることだろう。
なんということだ。つまりはこういうことなのだ。
『妖怪を紹介した人間が悪魔であった』ならば『悪魔の紹介した妖怪を信じられるはずもない』ということ。
怒髪天を突かんばかりの怒りが私から湧き上がった。
かつての噂に流されずに接せよと、曇りなき眼で見よと言ったのに。
噂一つでこの言葉は、あの時の賛同の声は崩れるというのか。
事実地底の妖怪はまた地底へ追いやられ始めているのだという。
裏切られた、とは言わない。だが許されざることだ。
私が悪しき者だと言われることは一向に構わない。
しかし私が悪であるからといって何故彼らまでもが悪と言われねばならないのか。
何故それに反する者がいないのか。
怒りと共に悲しみも湧き上がる。
流布したのは里の人間だという。古い文献に私のことを見つけたのだそうだ。
それを書いたのは山階寺の僧。書かれた文章は『人に害なす妖怪に加担せし悪魔』。
その他はものの数行私の所業が書かれているだけだ。
文献を見つけた人間はこの文献を里中に回したらしい。
何故文献にまた操られるというのか。
我々の語らいは、彼ら地底の妖怪との交流はたった一枚の紙にすら劣るというのか。
里の人妖が向けた笑顔はそこまで軽いものだったのであろうか。
絵物語の化け物のごとく私が近寄ると人は避けた。
流れ出る感情の波に押しつぶされんほどだった。
すべてが平等になる世界。
彼らもそれを望んでいたはずなのに。私がそう考えていることをわかっていたはずなのに。
彼らの中では私は『地底を率いて地上を侵略せんとした悪魔』となっている。
文献は予想を生み、予想は噂を生み、噂は噂を生み湾曲してゆく。
そして大多数の言葉によって湾曲された噂は強制的な真実へと変えられてしまっていた。
地底の妖怪はものの数日で友人から侵略者へと変わり苦しみを受けている。
何故こんなことになってしまったのだ。
かつての私の行動が悪ならば今の行動の全てすら悪なのか。
それでは救いの糸などありはしない。
平等など存在しない悪夢のような世界だ。
何故こんなことになってしまったのだ。
そして私はどうすればいいのだろうか。
私は悩みぬいた末里を離れ妖怪の山へと向かっていた。
人間の地底への、いや私への警戒心は私では解くことはできまい。
ならば他の存在、つまりは妖怪に説得をしてもらう他ないのだった。
あの山の妖怪の言葉であれば一枚の文献を覆すことも可能であろう。
正直私はそのような力に頼りたくはなかった。
妖怪の山に存在する身分を表すような社会制。それは私の考える平等とはほど遠い。
しかし私はそれに期待するしかなかった。
私が被せられた汚名を拭うことができなければ多くの地底の妖怪が苦しみを受け、差別を背負うことになる。
それだけは無くさなければならない。
法の世界の元に全ての者が平等に。
そのために私は動かねばならない。
外れてしまった輪にもう一度入り繋ぎなおすために。
「ここからは妖怪の山。何か御用ですか?」
「私は聖白蓮と申します。この山の大天狗、いや鴉天狗の方とお話をしたいのです。取り次いでいただけませんか」
妖怪の山に辿り着くと入り口に近づいた瞬間一人の白狼天狗が目の前に現れ道をふさいだ。白狼天狗は山の警備を司ると聞いている。
一振りの刀と椛の描かれた盾を構え通さんと構える姿に私は違和感を持った。
さも来ることがわかっていたような挙動だ。待ち構えられていたような。
その違和感はすぐさま的中した。
「聖白蓮を絶対に通すなとの命が出ております。お引き取りください」
「……待ってください! 話も聞かずにですか?」
「上からの命ですので。 ご理解ください」
目の前の天狗はものすごく冷めた顔で私を見ている。
決して見下しているような様子ではない。
何の興味もないような、どこまで自己のない事務的な対応だった。
「ならばどうしてそのような命がなされたのですか?」
「……あえて申し上げるのであれば『警告を無視したから』かと」
警告。
『現状維持』。
それを破ったから。
ふざけるな。
私は怒鳴りそうになるも思いとどまった。
ここで怒鳴り散らしたところで現状は変わらない。むしろ悪化するだろう。
目の前にいるのは白狼天狗。彼女には何の非もない。
この状況を打破するにはなんとしても影響力のある妖怪からの言葉が必要なのだ。
頼ることに抵抗は感じるが里付近の天狗にゴシップ記事を書いてもらうことでも多少効果は得られるだろうか?
「何か考えていらっしゃるようですが……この命は私だけではなく天狗、河童の全てに伝達されています。どんな言伝も受け付けるわけにはいきません」
「……理解できません。私はただ人妖の平等のために行動しただけでしょう?」
「その行動が警告を無視した、ということです。私からは伝えられたことしか言えませんので」
「でしたら……その上から伝えられたことを……教えてくださいませんか?」
声が震えているのが分かる。
屈辱だとか、怒りだとか、そういうことではない。
目の前にいる彼女は私を見てすらいない。淡々と答えるのみだ。
彼女は何か考えるようしていると狙い澄ましたかのように別の天狗がやってきた。その手には何か紙のような物が握られていた。
彼女はその天狗と私に聞こえないように話すと小さくため息をついた。
話すことが済んだのか天狗は去っていく。
彼女の顔で先ほどよりは少し人間的になっていた。
今なら話ができるかもしれない。私はそう思い尋ねた。
「私がこの山に入れない理由は……何なんですか」
「……私が言われたことは聖白蓮という人物について、『聖白蓮は地上の秩序を乱している』ということ。襲撃の可能性のために備えよということです」
「襲撃って……私の行動はそちらも見ていたはずでしょう? 私がいつ妖怪に危害を加えたというのですか」
「可能性、ですので。あなたの思想が我々の社会制を敵視していることは妖怪の山に住むすべての妖怪が理解しています。それにあなたは強力な力をお持ちですし。当然の対応かと」
この天狗の言葉に間違いはない。
確かに私はこの山の体制に敵対するような行動をしている。
しかし直接的な危害を加えるつもりはないし加えたこともない。
襲撃とはどういうことか。そう曲解し下を操作してでもその地位が大事なのか。
命蓮寺に地底の妖怪が来ていた時に天狗も監視に来ていたではないか。
寺にいた妖怪の行動を見て、それでも地底は悪しきと決めるのか。
そしてそれに助長した私を突き離すのか。
感情が沸きあがるのを抑える。
沸き上がるのは怒りだ。どこまでも熱い炎のような怒り。
私は怒りに震えているのに気づいてなのか天狗は更に冷酷な事実を突き付けた。
「ここからは先ほど聞いたことですが幻想郷の管理者、八雲紫様からの提案があったのだそうです」
「提案……ですか?」
これをどうぞ、と先ほどの天狗が持っていた紙を私に渡してくれた。
紐をとき開いてみるとそこには信じ難い内容が書かれていた。
『地底妖怪との関係の回避及び断絶についての意見書』
書かれている内容は現状の地底の妖怪の危険性を並べて立てた様子。
私のいない数年前に地霊殿が異変を起こしたということ。
その時の詳細を明記したものでその中にはさとりとこいし、空の名前もあった。
それにより地底の妖怪を地上に上げぬように、という文章であった。
更に先日の里での私の演説の内容が現状の幻想郷の体制にはそぐわないこと。
私の思想が幻想郷にどのような影響をもたらすのかを詳細に書かれている。
書かれていたことは真実である。
しかし詳細には書かれているもののそれは明らかに地上の者からの意見であった。
私は空から自らの能力のために起こしてしまった異変のことは聞いていた。
しかしその時の話を聞いて地底の妖怪にそのことを尋ねた時の話は非道なものだったからだ。
この文章を提案していた八雲紫は地底の調査をとある巫女に依頼していた。
その時の巫女に下されていた命は『地底の妖怪は出会い頭に倒せ』というものだ。
穏便に解決する気などない極めて暴力的な手段である。
更に地底の妖怪によればその巫女も八雲紫に騙されていたような行動をしていたのだと言う。
まさに非道としか言いようのないものであった。
どれだけ地底の妖怪を見下しているのだろうか。
幻想郷の管理者というこの地で最上位の地位からの進言とあれば妖怪の山のものも聞かずにはいられないのだろう。
そして他の妖怪、つまりは里で交流をしていた妖怪も。
「この文書には多くの人妖が賛同しています。例を上げるのでしたら、この妖怪の山の山頂にあります守矢神社の二柱、竹林の永遠亭に住む月人……」
私は唇を噛み締めながら次々と列挙される妖怪や人間を聞いていた。
なんということか。
私が里で行った全ての人妖のための行動はまた紙きれ一枚によって無駄にされてしまった。
空や地底の妖怪達の希望も踏み潰されてしまった。
そして私の思想も完全に否定されてしまった。
どうしてそんなことになってしまうのだ。
私はただ全ての人妖が共に笑いあえればと思うだけなのに。
許されぬというのか。認められぬというのか。
「……まぁすべて挙げれば切りがないですが……今やこの意見書は『幻想郷の総意』です」
「総意……ですって?」
「はい。ですからこの場はお帰りください。襲撃に備えよとは言われましたが襲撃せよとは言われておりませんので」
先ほどまでの事務的であった彼女とは違う少しの慈愛が感じられる言葉だった。
全てを封じられた私への最後の慈悲とも言わんばかりの言葉。
「納得できません」
「そうですか」
「……納得などいくものか!」
私は遂に激昂し怒声を響かせていた。
その声は目の前にいる白狼天狗へではない。
山の中にいるであろう者、この場を見ているであろう者へだ。
「何故排除されなければならない! 彼女らはただこの地上で生きたいと願っただけだというのに! 人妖が共に暮らし、平穏に暮らすこの幻想郷とはここまで粗悪なものだというのか!」
私の叫びに反応する者はない。目の前の天狗も無視を貫いている。
叫びが反響し響く。それは少しずつ小さくなり消えてゆく。
私の行動と同じように。全てが消えてゆく。
「何故否定されなければならない! 全ての者が平等に、幸福に生きる世界をどうして幾人の存在によって潰されねばならないのか! 『幻想郷の総意』など誰が言ったというのだ、この言葉すら地底の妖怪を追いやった妖怪の言葉だろう!」
叫びは無情にも消える。誰に届くこともなく。ただ一時の音として消えていく。
全ては水泡に帰すというのか。そのようなことがあってたまるものか。
「あなた達は自らの幸せのために地の底で苦しむ者を見捨て笑い過ごそうとする悪人だ!それはこの文面にいかなる事実が書かれようとも変わらぬ罪。何故それを理解できない!」
私は意味がないとも分かっていながら叫んでいる。
私は道化だったというのか。
どんなに思想を語ろうとも全ては上から蓋をされ、全て単なる話種に変えられる。
そんなことが許されてなるものか。
『幻想郷の総意』などとふざけた言葉に潰されて語れぬようにされてゆく。
「ふざけるな……ふざけるな! 人妖の共存を……万人の願いを……万人の幸せを……このようなことで潰されて……許されてなるものかぁ!」
遂には涙も零れ落ち膝をついてしまった。
叫ぶにも声は枯れ、もはや嗚咽も出てこない。
流れる涙は悲しみではなく、無念の痛みだ。
潰された願いはどこに行くこともなくただ消えるのみ。
そんなことは許すわけにはいない。
私は考える。どうすればいいのか。どうすればこの状況を打破できる。
もう地上の人妖は頼れまい。
ならば……。
私はふらつく足で妖怪の山を去った。
向かうは地底、地霊殿。
さとり達と一緒なら……なんとかなるかも知れない。
そんな一抹の希望に賭けた。
賭けるしかなかった。
「さとり様、さとり様。大変ですよ!ちょっと来てください!」
部屋でうたた寝をしていると、突然燐が慌てた様子で私を起こしに来た。
私は、とっさに第三の目に意識を集中して燐の心を読み取る。
「空が泣きながら地上から帰ってきたってどういうこと?」
「あ、心を読んだのですか。その通りなんですよ。
いつも通り地上に行ったかと思ったら急に泣きながら飛んで帰ってきて。
どうにも落ち着いてくれないので部屋で寝かせてますよ」
「わかった、今すぐ行くわ」
私は、ベッドから飛び起きて急いで空の部屋へと向かった。
どうやら、地底と地上の間に何かが起きたに違いない。遂に恐れていたことが現実になったようだ。
さっき、幻想郷の主とも言える八雲紫が偶然私の元までやってきた理由も
彼女は全く詳しく語ろうとしなかったが、今ならなんとなく理解できるような気がした。
部屋に入ると、真っ赤に泣き腫らした目で空がこっちを見ていた。
彼女の心の中はまるで台風のように黒く吹きすさんでいた。
私は、出来るだけ優しい声色を作ってなだめる様に問いかけた。
「空、一体どうしたの?何があったの?」
「さとり様は……よね?」
「え?もう一度行って頂戴。よく聞こえなかったわ」
「さとり様は……私の事を利用してたりしないよね?」
空の心は真っ黒に波打っていた。
不信感。疑心暗鬼。不安。喪失感。求めていた対象からの剥離。
さとりさまは、わたしのことをすきなの? あのそうは、わたしのことをどうぐとみてた?
わたしのやってきたのはぜんぶわるいことだったの? わたしはまちがってたの?
感情が流れ込んでくる。これはまるで、あの時の私達と同じではないか。
聖に裏切られ、人々に弾圧され、蹂躙されることとなった私達と。
私は、怯え震える空の体を抱きしめた。
目を閉じると、空の恐怖のシーンが目の前に再現される。
『おい、お前は地底の妖怪だろう? もう地上には来れなくなったんだよ』
『どうして?』
『あの聖って奴は悪魔だったのさ。地底から妖怪をつれてきて、人々を恐怖の渦に陥れようとしてると専らの噂だぜ』
『違うよ!聖はみんなを幸せにするために……』
『違わないね。妖怪のお嬢ちゃん、あんたは聖に利用されてただけだったのさ。地底の奴らはこんなに無害ですよ、って見せびらかすためにな』
『違うもん、聖はそんなんじゃない!ここを通して、聖に会わせてよ!』
『駄目だね。無理やり通ると言うなら天狗たちを呼んでお前をこの場で殺す。
わかったらさっさと帰りな、化け物の仲間のお嬢さん!』
悲しみ。絶望。怒り。混乱。
「空、本当にごめんなさいね。あなたを護るのは私の役目だったと言うのに」
「さとり、様」
「ペットだから、私はあなたを利用しているとかそういうわけじゃないわ。
ペットだからこそ、貴方を真剣に愛しているの。わかる?空」
「わからない、わからないけど……さとりさまああ、こわかったよおおおおお!!」
そういって、空は大声を上げて泣き始めた。この分だと落ち着くにはしばらく時間が必要に思われる。
それにしても、と私は思う。
もし、あの時を私とこいしを抱きしめてくれる誰かが居たら、もう少し別の生き方を歩めていたかもしれないと。
こうやって私の傍に居て誰か言葉を掛けてくれる誰かが居れば、私は……。
やめよう、今は空を立ち直らせることが第一だ。そのためにも、そろそろ聖の過去について語る時が来たのだろう。
「空、ちょっと聞いて欲しいことがあるの。私と聖の関係のことなんだけど。
実は、私とこいしと聖はね……」
聖が立ち去った門の前で、私は歪んだ笑みを浮かべた。
ついに、恐れていた事態が起きた。私もそろそろ我慢の限界だ。
私の家族の平穏を犯す奴は絶対に許さない、たとえ平和を語る善人であってもだ。
地上からも追放され、地底の者にも見放され、良い気味だ。
私達の味わった地獄のような苦しみを味わえ。さて、あの様子だとどうやら地霊殿に向かったようだ。
早く追いかけないと、皆が危ない。あの僧は、最早自分が何を求めていたかわからなくなっている。
早く追いかけないと、聖が危ない。
私は、あまりの突然さに呆気に取られていたがやっと自分を取り戻した。
見事なほど綺麗に吹っ飛んだ扉を踏みつけて部屋の外に出る。
既に心の声が聞こえなくなっているということは、もう地霊殿の外に出てしまったようだ。
確かに空を立ち直らせることにはある意味では成功した、が空の黒い感情は全て聖への復讐へと燃え上がっていた。
そして、私の話が終わるや否や部屋の外へ飛び出していった。
話に夢中になって気付かなかったか、あるいは突然心にひらめいた行動なのか。
どちらかは判らないがとにかく突然空は部屋を文字通り飛び出した。
急がなければ、空の能力で聖だけでなく地底が灰になってしまうかもしれない。
私は、空を止めるために全力で屋敷を出て飛んだ。
「こいしちゃーん、これどうかな?!」
すぐそこで花輪を作る少女がこいしに話掛ける。外見はこいしと同じくらいの、髪をおさげにした少女だ。
「うーん。もうちょっと一杯お花入れようよ」
「えーっ、そんなに入れたら少し派手すぎないかなぁ」
「そんなことないって、大丈夫だよ」
こいしが傍らにある花を摘んで渡すと、手の花輪を見ながらうんうん唸り始める。どうするか考えているらしい。
「あ、ねえねえ」
こいしはそんな彼女の姿へ軽く吹き出しながら、別の方を見る。黒い髪を束ねた少女がそちらでは、やはり花飾りを作っている。
「そこにある花、摘んでくれない?」
「これ?」
こいしの見る先には小さな紫の花。自分の好きな紫である。小さい花ではあるけれども、これを入れるのと入れないのとでは、全く違うように思えた。
「そうそう。この花輪に入れたいの」
こいしは、手にある花輪を彼女へ見せる。彼女はその花輪を見ると、にっこり笑顔を返してくれる。
「わかったー。これね」
彼女は暫く野原をじーっと睨むと、良さそうな花に狙いを定めて、それを摘む。その姿は少々大げさで、摘むというよりは引き抜くという感じであったが。
「はい」
「有難うね」
こいしもまたたっぷりと笑顔を返して、それから再び花輪作りへと没頭し始める。
その花輪は、紫一色だ。
二人の少女と、野原を駆け回ったりお花を摘んだり木に登ったり。散々楽しんで気付くと、既に日の色が赤みを帯び始めている。遊んでいると、いつも通りとんでもなく時間が経つのが早い。
「かえるがなくからかーえろ」
三人で手をつないで、歌いながら畦道を歩いて行く。
「もう晩御飯の時間だねー」
「だってもうそろそろ日も落ちるもん」
「まだまだ遊び足りないけどね」
二人の言葉に、こいしは笑いながら返す。
「遊んでるとどうしてこんなに時間が経つのが早いんだろうね」
「きっと、楽しいからだよ」
こいしの呟きを聡く聞き取ったのか、おさげの少女がとびきりの笑顔を見せる。
「楽しいことは、すぐ時間が経ってしまうんだって、私のお父さんも言ってたー」
髪を束ねた少女も、また眩しいほどの笑顔。
「そうだね。もっとゆっくり時間が進めばいいのに」
こいしが不平を洩らすと、髪を束ねた彼女はこいしの方へと振り向く。
「楽しいことはすぐ過ぎるけど、またやってくるからそれでいいじゃん」
「絶対、楽しいことは次も来るんだから。欲張らないで、その時に楽しめるだけ楽しめばいいよ」
お下げの少女も、こいしの手を強く握って言いきる。彼女たちの心を見なくたって、こいしは彼女たちが自分のことを大切に思ってくれていることが簡単にわかっていた。
「だね。楽しいことの時間を延ばすんじゃなくて、回数を増やせばそれでいいか」
「こいしちゃんの言う通りだよ」
ふふ、とこいしは両方の手を強く握る。二人の手の両方が、とても暖かかった。
「ちょっと、あんたら良いか?」
二人の手の暖かさを一杯に感じていたこいしは、後ろからの声になんとなくの不吉さを覚えた。
「なに?」
あ、と思う間も無く、左手が離される。お下げの少女が振り向いて対応してしまったようだ。無視して村まで戻ってしまおうと思ったのに。
「他に誰か居らんのか?」
「いないよ。すぐ向こうの村まで行けばあるけどね」
会話を始めてしまったなら仕方のないことである。こいしもまた、右手を離して振り向く。
「おじさん、私たちに一体何の用?」
髪を束ねた少女も男へ問う。二人とも恐れていないようだ。
その男、身なりはそれほど良くない。或いは旅人なのかもしれないな、とこいしは思う。ただ右に差している大刀だけは結構良いものだ。
「そうか、お前たちはその村の住人なのだな」
しかし、こいしはその考えをすぐ否定した。せざるをえなかった。
「そうだよ。おじさんも村に用事なの?」
「ああ、そうだ。ちょっくら、な」
その男は一歩ずつ近づいてくる。その顔は穏やかさに満ちていた。
「それじゃ、案内してあげようか?」
「おう、頼もうか」
しかし、こいしは判ってしまっていた。
「あんた、これ以上来ないでよ」
「ちょっと、こいしちゃん? 何言ってるの?」
「む、俺が何かしたか?」
「誤魔化したって無駄」
こいしは強く彼を睨みつける。相変わらず人懐っこそうに笑っている。それがどうにもこいしには腹が立った。
「こいしちゃん、いくら知らない人だからって、そんなことしちゃ駄目だよ」
服の裾をこいしは引っ張られる。が、それも気にしない。
「あんた、この二人を傷つけようとしたって、そうはいかないんだから」
「え?」
こいしの言葉に、二人の少女は顔を見合わせ、一人の男は頭をかく。
「な、何を言うのだ、君は?」
少し男の笑顔が崩れる。動揺しているのがこいしには手に取るように分かる。こいしは、続ける。
「丁度よく、弱そうな女どもが見つかったな。丁度金も無いところだし、こいつの一人か二人かとっ捕まえて、売り飛ばすか。そこそこの金にゃなるだろ」
こいしは無表情に告げる。否、自分自身は無表情のつもりだったが、こいしの表情はその実怒りを孕んでいた。
「な……!」
「ああ、もしくはこいつらを人質にして村に行くのもいいな。子供を殺すと脅せば、いくらかの金ぐらい出すだろ」
「お前、一体!」
彼の表情はもう笑っていない。穏やかさの仮面はとうに打ち割れて、瘴気が内より染み出している。その表情の変貌ぶりに、二人は固まっている。
「殺すつもりなの?」
彼が刀を抜くと見たこいしは、手に持っていた石を素早く彼の手に投げつける。彼は痛っ、と声を上げる。
「テメェッ!」
彼から殺気が明確に噴き出した。こいしはそれを睨み返しつつ、きょとんとしたままの二人を軽く叩く。
「何だか知らんが、ぶっ殺してくれる!」
「無駄よ」
迫ってきた彼の右足を的確に躱すと、左足にけたぐりを逆撃する。あっと言う間も無く、彼はそこに転がる。
「許さねぇ!」
ふっと彼が立ち上がる。
「何が何だかわからねぇが、こんな少女に負けるはずはねぇ。まずは一撃蹴りでも加えるか、とでも考えたんでしょ?」
彼に正対しながら、こいしは淡々と告げる。自分の大切な友達を害そうとする奴に、掛ける情けなぞない。
「このっ」
彼が再び太刀を取るよりも早く、こいしは彼の右手を蹴り飛ばす。体こそ少女とは言え、こいしだって妖怪である。こんな下種に遅れを取るわけはない。
「だから無駄よ。貴方の考えは全部わかってるんだから。あんたが次に何をするか、私には全てお見通し」
続いて彼が左へと蹴りを入れるや、それを躱しつつ彼の股間を蹴り上げる。悶絶して倒れた彼を、こいしは睨みつける。
「これ以上手出すなら、殺すよ?」
こいしはさらに一歩踏みだし、彼の頭までほんの少しのところに立った。もし何か動きを示せば、頭を踏みつぶすのだ。
「ば、化物め」
一方の下種は、怒りと恐れとが混ざったような表情でこいしを睨みつける。もはや動きも取れぬらしい。彼は何とか立ち上がると、慌てて逃げていった。
「こいしちゃん凄い!」
「私たちを助けてくれたんだね」
二人の声にふと振り返ると、驚きによって丸くなった目が四つ、こいしに向いている。こいしは彼女たちに笑顔を返す。
「二人とも、怪我はない?」
「大丈夫。こいしちゃんが守ってくれたから」
二人の笑顔に、こいしは、胸をなでおろす。こんな穏やかで楽しい日々を過ごさせてくれた村は、こいしにとって何にも代えがたい。だから、あの二人に、そしてあの村に仇為すような連中は、こいしにとって何よりも許しがたい存在なのだ。
これで自分も、村に恩返しができたとこいしは喜んでいた。
「こいしちゃん、人の心が読めるんだね。すごいね」
お下げの子は、満面の笑みをこいしへ浮かべた。
「お前、自分の言っていることが分かっているのか?」
駆け込んできた家人の一人の言葉に、玄碌は耳を疑った。
「本当です。信じて下さい」
「尼公さまの女童が妖怪だと、そんな話を誰が信じるのだ」
思わず玄碌は立ち上がっている。そんなことがあっていいはずがない。尼公がここにいるのは、妖怪を退治するためなのだ。間違っても妖怪を連れ込むためではない。
「しかし、本当なのです。玄碌さま」
家人の声は半ば悲痛だ。
「どうしてそれがわかった?」
「村の子供たちが、"こいしちゃんはね、人の心が読めるんだって!"と申しておりますし」
「どうせ、ガセじゃないのか?」
「それが……」
家人は黙りこくる。玄碌は、唾を飲み込んだ。
「村人の中に、彼女が大の男をやすやす倒したのを見た者がおりまして」
「そうか」
玄碌は妙な納得を、覚えていた。彼女たちは人の心に聡かった。てっきり単純な賢さなのだと思っていたが、もし彼女たちが"覚"だというのならば、つじつまがある。彼女らは、心を読んでいたのだろう。
「それで、村人たちはどうした?」
努めて平静のつもりではあった。だが、ほんの僅かながらも声が震えていることが自分にもわかる。どうしても怒りが抑えきれない。
まだ確定したわけではないのだ、と言い聞かせてみても無駄なよう。村人を籠絡していた白蓮と"覚"共への怒りが、腹の底からぐつぐつと湧きだしてきている。
「皆、事情を聴きにと堂へ向かったようです」
「そうか」
玄碌は立ち上がる。一応、やることはやっておこう、と思ったのである。出来ればやらずに済むとよい、と思いながら。それでも、やはり許しがたい。
玄碌は文机の前に座ると、硯箱を開ける。家を出るとでも思ったのか、家人は首をかしげる。
「お前、脚に自信はあるか?」
その上、玄碌の問いは脈絡がない。ますますその家人は疑問符を浮かべながら、答える。
「村で一番速いと、皆に言われます」
「そうかそれは丁度良い」
玄碌は、呟いた。すでに筆を持つ手は動き始め、"玄"の字を書き終えている。
「書き終わったらお前に頼むことがある、しばし待て」
厄介な事になったものだ、とさとりは思う。お堂の前には、既に村人の殆どが集まっている。彼らの思いは不安と怒りとに支配されている。
当たり前だ、とさとりは思う。妖怪の天敵として迎え入れたはずの白蓮が、その実妖怪を村の中へと引きずりこんでいたのだから。
「貴女達は、絶対にここから出ては駄目よ。ここは私に任せなさい」
白蓮はさとりとこいしの肩に手を掛けると、優しく言った。
「あとはよろしく頼むわ」
さとりは小さく述べた。それを聞いて、白蓮は立ち上がると、お堂の外へと足を向けた。
ふと横を見ると、こいしが小さく震えている。自分の仕出かしたことの大きさに、こいしはまだ動揺を隠しきれないのだろうと、第三の目を見るまでも無く、さとりにはわかる。さとりはこいしの頭の上に手を置くと、ゆっくりと撫でた。
「貴女は村が好きだからやったんでしょう。それなら、そう怯えることはないわ」
言いながらも、さとりも不安であった。こいしに読まれまいと隠そうとしても、不安を払拭することはできそうにない。
村人に追われて殆ど死に掛け、こいしと白蓮に救われたあの日、その夜になって白蓮は再び洞窟を訪れて言った。村人と一緒に暮らそうとは、思いませんか。
聞いた最初は、何を言い出すのかと思った。自分は妖怪である。どうして人如きと仲良く暮さねばならないのか、と。さとりにとっての世界は妖怪の世界であり、そこに人間がいる必要はなかったのだ。
しかし、それと同じような答えを出したこいしに、白蓮は自分の考えを述べたのだ。そしてその考えが良いのではないかと、さとりは思ってしまった。こいしも、同じように思ったことを知っている。
白蓮は目指しているのだ。人間と妖怪とが平等に、そして平和に暮らしている世界を。
そしてその考えに賛同してしまえば、あとは白蓮に従うほかはない。だから、こうして妖怪の姿を隠してきたのだ。白蓮を信じたから、こうして村で暮らしている。
だから、今も白蓮を信じている。きっと彼女なら、さとりが妖怪と知れても暮らせるようにしてくれるに違いないと。
そう信じているつもりでも、しかし、不安がぬぐえないさとりがいた。
「尼公さま、これはいったいどういうことでしょうか?」
「彼女たちは、本当に妖怪なのですか?!」
ぎしり、と木の板が軋む音と同時に、白蓮が外に出たようだ。村人たちの訴える声が聞こえてくる。
「少し、静かにしてくれますか」
しかし白蓮はあくまで冷静である。こうして興奮した人たちの前で話すのも慣れている、という気配である。その落ち付きぶりに村人も感化されたのだろうか、みるみるその喧騒は薄れゆく。
「逆に私から聞いてみたいと思います。もし、あの二人が妖怪だったらどうするというのですか?」
「それは、殺すに決まっているだろう!」
壮年の男が叫ぶ。続いて、そうだそうだ、と村人の大合唱が起こった。その声にはさとりも、震えざるを得ない。
「どうして、殺すのですか?」
「どうして妖怪を殺さずにおく必要があるのだ」
しかし全く臆すことなく、白蓮は問い返す。
「妖怪だから殺すのですか? どうして、妖怪を殺さなければならないのです?」
その問いが向けられた途端、先までの喧騒が嘘のように静まりかえる。
「あの二人が、これまでに何かをしましたか? 私たちに危害を加えることがありましたか?」
「それは……」
先まで威勢良く叫んでいた男は、打って変わって頼りなさげな口調で答えた。
「他の方々も考えて下さい。彼女たちが、あなた達に何をしたというのです。村の子を助けこそすれ、村に害を与えたことも、少しもないではありませんか」
これは、とさとりは思う。村人たちの空気が少し変わりつつある。先ほどまで怒りに満ちていたはずなのに、それが揺れ動いている。これはもしかしたら、白蓮が成功するのではないかと、そんなことを思っていた。
「あなた達はこれまで、彼女たちと全く隔てなく過ごしてきたのを忘れたのですか。あなた達は、昨日まであれだけ親しく付き合っていた者をあっさり斬り捨てられるほど、薄情なのですか」
もう男の反駁は聞こえてこない。その場全てが白蓮によって飲み込まれていることは、さとりにだって簡単に伺えた。
「妖怪だからと言って殺すのは、女だから殺すといって殺すのと、何ら変わりはないのですよ」
白蓮の言葉は、だんだん熱を帯びてきていた。前々から彼女が抱く理想の話になってきたのだから、当然であろう。
「害を為してはいないのに、そうだと決めつけて殺してしまう。そんなことが、許されるはずはありません」
「しかしそれなら、妖怪が人間を殺すのはどうなのだ!」
ふっと、声が返ってくる。今度は老女の声。絞り出したような声であったが、それははっきりとさとりにも聞き取れる。
その声にさとりは、思わず俯く。白蓮の説得で、物は試しと人間と暮らし始め、その楽しさを知った。今でこそ、人間を取り殺そうとは思わない。ただそれは今の話であって、これまではずっと人間を殺して暮らしてきたのだ。それに反感を持っても仕方ない。
「それは、勿論妖怪に非があります」
毅然とした白蓮の声がお堂の中に響く。全く動揺した気配も無いのは流石であった。
「だから、私は彼女たちを説得したのです。彼女たちはわかってくれました。人間を殺してはならないということを」
再びざわめきが広がる。
「それで彼女たちはわかってくれました。昔なんて知りません。今の彼女たちは懸命に、人間と共存しようとしています。あなた方はそれを全く無視しようと言うのですか?」
すかさず白蓮は畳掛ける。
「あなた方は鬼子母神さまの話を聞いたことがありますか?」
きしぼじん? とさとりは首をかしげる。こいしも不思議そうな顔をしている。村人もまた、わかっていないよう。
「かつて、遠い唐(から)の国に、それはそれは悪しき女鬼がおりました。その鬼は、自分に500人も子供がいながら常に他の人の子を攫っては喜んで食べていたのです。それを見たお釈迦さまは、鬼の子をお隠しになられました。子を失う恐ろしさを覚えさせたわけです。鬼はそれに深く反省し、以後は仏法に帰依しこの世の子供を守る神、訶梨帝母(かりていも)となったのです」
朗々とした語り口は、さとりにとっても効いていて心地の良いものといえた。
「毎日、子を殺すような鬼でも改心すれば善神として仏に仕えることもできるのです。況や、あの"覚"たち、です」
ざわり、と三度村人たちがざわめく。しかし、これはさとりにとって不快なざわめきではない。もう自分たちへの露骨な敵視が消え失せていたからだ。
「本来妖怪と人間とは、平等なのです。互いに対立したり殺し合ったりするものではない。それを双方がわかり合えば、仲よく共存できるのです」
その言葉は、さとりにも響いてくる。ついこの間まで、白蓮に出会うまではわからなかったこと。しかし今なら、わかると言えるのかもしれない。自分は人間と暮らすこともできるし、人は自分をわかってくれる。第三の目がなくても。
「どうです、これでも彼女たちを追うというのですか?」
「私は、さとりちゃんとこいしちゃんがここに居てもいいと思う!」
は、とこいしが顔を上げる。さとりもまた、一瞬耳を疑った。その声は相当震えていたが、紛れもなくあの、お下げ髪の女の子の声だ。
「だって、私たちを助けてくれたんだもん」
震えているが、しっかりした声だ。思わずさとりは目頭が熱くなる。彼女がそんなことを言ってくれるなんて、思いもしなかったからだ。ああして一緒に楽しんでいたのは、嘘ではなかったのだろう。
そしてその子供の声は、村人にとっては大きな効果を齎したようである。村人たちの表情は、ずっと柔らかくなっている。もうきっと、自分たちを受け入れてくれるはず。
「それが言い分か、悪僧が」
その男の声が響くまでは。
地底についたころには流れた涙も止み、自分にも力が戻ってきているのを感じた。
ふらついていた足も今はしっかりと土を踏んでいる。
それは偏に、今は少なき味方に会えるからだろう。
たった一縷残った希望。
彼女達ならば私のことを分かってくれるに違いない。
ただそれだけを考えていた。
そうでなくてはこの身は一歩も進めなかった。
全ては水泡に帰した、そんなことなど許されない。
歩いた先に豪奢な建物が見えてくる。地霊殿だ。
こいしは元気でいるだろうか。彼女ならばかつてのように笑って私を迎えてくれるだろうか。
さとりはどうしているだろうか。優しいあの子がちゃんとこの地底をしっかり纏め上げることができているのだろうか。
私はさも自らの子のように思い起こしていた。
そして地霊殿が眼前に広がった時それはきた。
猛烈な熱。広がるは紅蓮の炎。
目の前が赤に染め上がりすぐさま結界を張る。
だが急造の結界は膨大な熱に焼かれひび割れていく。
そしてそこにとてつもない衝撃が襲いかかった。
結界は割れ、炎と何かとの激突の衝撃が私を襲う。
私はいとも容易く吹き飛ばされ建物の壁にぶつかった。
……なんだこの炎は? 地上の妖怪が追って来たとでも言うのか。
だがそんな考えはすぐさま吹き飛ばされた。私ごと文字通りに。
「聖……白蓮! あなたは絶対に……許さない!」
その声は怒りに震えているが凛として。
その顔は涙に濡れているが爛々と輝いて。
炎の背に立つその姿はまさに太陽とも言わん姿。
「空さん……? どうして」
「黙れ悪魔。 私はもう騙されない! 今ここで……燃やし尽くす!」
豪炎が迫る。防御など間に合うはずもなく熱が私を包む。
空はどうしたというのだ。
許さない。地上で何かあったのか。
騙されない。何者かの言葉に流されたのか。
考えども私の中に答えはない。
私は結界を張り炎を破った。話をしなければ。
「何があったのですか空さん! 私に話してください! 地上で何があったのですか!」
「地底のみんなが……お前のせいで……酷い目にあった」
地底の妖怪が? やはりあの連判状のせいだろうか。
もしくは里で流れた噂のせいだろうか。 苦しみを受けたと言うのか。
何ということだ。地底の妖怪の排除がそこまで地底の妖怪に深刻な傷を負わせていたとは。
「地底の皆さんは大丈夫なのですか? 私はまた地上と関係を取り持つためにここに来たんです」
「ふざけるな! 誰がお前の言うことなんて聞くものか! お前は地底を騙した悪魔だ!」
「……あなたも地上の言葉に感化されたというのですか」
空まであの言葉を信じた。私はそのことに悲しくなった。
いくら地上の者が話しても、空ならば信じまいと思っていたのに。
あの子の純粋無垢な心ならば真に悪しきは誰かを理解できると思っていたのに。
「地上の人間の言葉なんて……どうでもいい」
「ならどうして……」
「さとり様が話してくれたんだ!」
さとりが?
私は困惑した。さとりが何を言ったというのだ。
私との話を。
過去を話したのか。
「もうお前に話すことなんてない! さとり様を……こいし様を傷つけた報いを受けろ!」
「あの二人を傷つけた? そんな馬鹿な。私はあの子達を」
「お前のせいで二人の幸せは奪われたんだ! お前さえ……いなければ!」
「私があの子達を傷つけた……そんな」
「さとり様悲しそうだった! 私に話してくれたもの……お前の悪行を!」
私の……悪行?
彼女達を傷つけてしまったこと、それが悪行だというのか。
確かに千年前のことは私の意識の問題による事件であった。
あの子達を村に人間だと嘘をついて住まわせたこと。
それによって起こってしまった悲劇。
あの二人はそこまで傷ついてしまっていたのか。
「さとり様を……こいし様を……騙して、傷つけて。今度は私を……地底を騙した! そんな悪魔は消えてしまえばいいんだ!」
「違います……私はただ地底の妖怪のために」
「平等を……押しつけた。そんなのは地上の奴らと同じじゃないか!」
熱風が吹き荒れる。今にも結界を割らんと炎がのた打ち回る。
どうしてこんなことになっているのだ。
私はただ皆が平等に過ごせるように行動していただけなのに。
全ての者が笑いあえる世界を求めたはずなのに。
「あなたは皆が平等で笑いあえる世界がいいとは思わないのですか?」
「いいと思うよ! みんなで笑いあえるなら楽しいもん! でも……その裏でさとり様みたいに人が泣いてるなら……そんな世界いらない!」
炎が猛り炎弾が私に迫る。
私は横に避け結界を強化する。
どうあっても空を攻撃するわけにはいかない。
私には空を攻撃する理由がない。
正当防衛などという言葉で彼女に刃を向けることはできない。
彼女は私を信じてくれていた。
私は一瞬でも彼女を疑った自分を恥じた。
彼女が分かってくれていたこと、それは自分も信じていたことではないか。
何故それを疑ったのか。
私は彼女を攻撃などできない。
信じてくれた相手に刃を向けて言葉を紡ぐことなど許されない。
それは彼女への本当の意味での裏切りであるだろうし、自分への裏切りだ。
「私はまたあなた達と関係を作り直したいのです! そしてまた地上と!」
「それでまた酷い目に合う? そんな堂々巡りなんてしたくない!」
「本当に地底が団結したのなら今度こそ関係は改善するはずです!」
「それで改善したとしても……私は地上も……お前のことも絶対に許さない!」
悲痛な叫びだ。
彼女も酷いことを言われたのだろうか。
苦しみを味わったのだろうか。
悲しみと怒りに追いやられ彼女は何を思ったのだろうか。
すべては私の責任。それは分かっている。
だが。
何故笑い合っていたはずの友が刃を向ける。
私は彼女のために地底のために動いただけなのに。
私は……間違っているのか。
そんなことない。ないはずだ。
万人の夢、万人の希望。
それが許されず、望まれず、否定されるというのか。
結界にひびが入る。
「信じてたのに……いい人だと思ってたのに! 皆が傷ついて……そんな……許せるわけないじゃないか!」
空が涙と共に叫びを上げる。
流れた涙は一瞬にして蒸発し消え失せる。
叫びと共に炎は勢いを増し結界は破砕された。
圧倒的な熱と赤が私の五感を支配する。
私の一抹の希望は水泡に帰するよりも先に蒸発して消えてしまっていた。
非難は否定となって炎と化した。
非は否となり火に変わって私を包む。
炎に身を焼かれ叫びと悲しみに心も焼かれ私は倒れた。
地霊殿を前に地に伏して立ち上がることさえままならない。
しかし私を取り囲むように炎は依然燃え盛っている。
このまま焼かれるのが運命なのか。
そう考えた時、懐かしい声が聞こえた。
「空。もうやめなさい。その人はもう動けませんよ」
「……さとり様止めないで! 私はこいつを……」
「頼んでいるのではありません。命令ですよ」
「……わかりました」
一瞬にして周囲の炎が消え失せる。
周囲は急激に空気を集め始め一気に空気が変わっていく。
そんな中、倒れた私の目の前に現れたのは。
千年前の友人、古明寺さとりだった。
「……さとり」
「お久しぶりです白蓮様。お変わりないようで」
「あなたは随分立派になったのですね……地底の主なんて」
「お世辞でもそういうことは言わないでください。あなたの大嫌いな『主従関係』でしょうに」
さとりの言葉はどこまでも冷めていた。
私を見るその目は冷え切っている。
だがそれでも彼女ならば私の考えを理解してくれるはずだ。
私が起こした事件で傷ついたとしても。優しい彼女ならば。
「ねぇ……さとり。お願いがあるの。聞いてはくれないかしら」
「……なんですか?」
「私に協力してくれないかしら……あなたなら地底の皆を纏め上げられる。そうすれば地上の妖怪たちとも仲良くなれるわ……みんなで笑いあえるようになるの」
私の言葉を聞くと彼女は眼を凝らす。恐らく私の心を読んでいるのだろうか。
それならば私に悪意がないことも理解してもらえるはずだ。
私の心に燃え尽きたはずの希望が宿る。
「相変わらずの考えですね。全て皆平等に」
「……笑いますか。私を」
「いえ、笑いません。あなたはそういう人でしたから」
するとさとりは懐から何かを取りだす。
それは数枚の紙であり。
そして私の希望を打ち砕くのに十分な物だ。
『地底妖怪との関係の回避及び断絶についての意見書』
何故さとりがそれを……?
結果だとでも言われて渡されたのだろうか。
さとりは意見書の内容部分を抜くと倒れていた私にそのうちの一枚を見せてくる。
『同意者署名表:八雲紫 西行寺幽々子……』
同意者一覧……?
私は眼を泳がせてゆく。
気づいてしまっていたのかも知れない。
今読まなければそれを見なくても済む。
だが眼は勝手に上から文字を読みあげていく。
吸い寄せられるように私はそれを見つけた。
望まない結果が、望みたくない最悪の結果がそこにはあった。
『古明寺さとり』
どうして。あの署名表にこの子の名前があるのだ。
同意したというのか。このふざけた文書に。
「……どう……して」
「この方が地底のため、私のペット達のためだからです」
「なんで……あなたは……」
「信じられない、ですか。ですがこれは私が望んで書いたものですよ」
望んで? さとりが、地底の妖怪が、地底の妖怪の排他に賛同したというのか。
だから地底の妖怪は反乱しなかったのか。
どうして……どうして……。
「あなたはいいのですか? 地底が地上に見下されていることが」
「私達は今地底で幸せに暮らしているんです。問題はないですよ」
「あなたは……私の味方ではないのですか……?」
聞きたくない言葉を訊いてしまう。
もしこの後の言葉を聞いてしまったら。
私にはもう。
「私はあなたの思想には賛成できません。絶対に」
「……」
声など、出るはずもなかった。
潰れた姿に希望など何もなく、ただ更に潰された。
言葉など、紡げるはずもない。
「『幻想郷の総意』がこの文書にあるように、『地底側の総意』もこの文書にあります。つまりこの場所にあなたの許される場所はありません。あなたは……」
「いらない」
さとりが言葉を続けようとしたその時私の背後から声がした。
それもまた懐かしい声。
だがその声はさとり同様、いやそれよりも冷たい。
「お前はいらないんだ。白蓮」
「こいし……」
後ろからする声は間違いなくこいしだ。
こいしは倒れる私の脇を歩くと私のことを見降ろして冷たく笑う。
「どうしてここに来たの? どうしてまた私達の前に来るの? いらないのに。お前なんていらないのに!」
いらない。
たった四文字の言葉が私の心を抉る。
こいしはそんな私を見て冷酷に言葉を続ける。
「お前が来なければ私達は幸せだった。今も、あの時も。私達の幸せの邪魔をどうしてするの? もしかして本当に悪魔だから?」
「私はただ……」
「ただ? ただ何だっていうの? あの時は私とお姉ちゃんが傷ついて、今はお空が泣かされて。私達にどうして不幸をばら撒くの?」
「皆が平等に……幸せになれるようにって」
「その行動で私達は不幸になった。お前は間違ってるんだ。だからお前はいらない。そんな思想に取り憑かれた人間なんて死ねばいい」
どうしてこんなことになったというのだ。
私は思想を通しただけなのに。ただそれだけなのに。
皆が幸せにそう願って。
外れた輪をもう一度繋ごうとしただけなのに。
「消えてしまえばいいんだ。この地底から、幻想郷から、世界から!」
「どうして……私は……」
「このまま死ぬなら死ねばいい! ちょうど地霊殿にはお燐もいるんだから今ここで殺してあげる!」
「こいし。そこまで」
手を振り上げたこいしの手をさとりが取る。
こいしは嫌々と手を振るがさとりはその手を離さない。
「どうして? お姉ちゃんだって憎いでしょ?」
「言ったでしょ。この人には悪意はない。ただ……狂っているだけよ。私達は何もしなくていいの」
「狂っている……って」
私は狂っているのか。
人妖のために尽くし、生きてきた私は狂っていると言うのか。
「あなたはただ思想に愚直なだけ。あまりに純粋にそれに向かうからそれが悪しきと思われる」
私はただ外れた輪を繋げたかっただけなのに。
全ての生き物が繋がる輪を作りたかっただけなのに。
「その輪も元は繋がっていたいくつかの輪であることにどうして気づかないのですか? それをあなたは『外して』輪を作ろうとしている。あなたの行動はそういうことなんです」
でもそれでは皆が笑いあうことはできない。
どこかで必ず泣く者が出てきてしまう。
そんなことはあってはならない。人間であれ、妖怪であれ。
「だから小さく輪を作る。そして社会という媒介で、上下関係などの様々な形で輪を繋げるんです。大きな輪じゃない。鎖のように」
それがさとりの考えなのか。
「あなたの考えとは違うけれど、今も昔も私達は小さな輪の中で幸せでした。だからあなたは……間違っていたのだと思います」
私は間違っていたのか。
平等を掲げ、人妖を救ってきた私は間違っていたのだろうか。
そんなはずはない。ない、あるはずがないのだ。
どうしてさとりはそんなことを言うのだ。
万人の願いを……その全てを。
「万人の願いであっても、それは万人の望まぬ物でもある。すべての関係が崩されて、横に並べたてたならきっと幸せなんてありませんよ」
なら私は……なんだというのだ。
どうすればいいのか。
人も救えぬ。妖怪も救えぬ。
ならば私はどうすればいい。
苦しみを背負い、泣き続けている者に手を差し伸べることも許されないのか。
「私はこいしのようにここで死ねとは言いません。少なからずあなたには感謝していますので」
「お姉ちゃん!」
「さとり様!」
こいしがさとりに迫る。
さとりは落ち着いて、と声をかけると倒れる私に顔が見えるようにしゃがみ私の顔を見た。
「あの時はああいう結果にはなりましたが村での生活は楽しかった。今回もお空は地上の生活を楽しんでいました。結果はどうであれ、ですが」
空は悲しい顔でこちらを見る。
つらかったはずだ。楽しかった思い出を塗りつぶされて。
こいしも怒りの顔でこちらを見ている。
私のせいで彼女は酷い目にあってしまった。
全ては私の責任なのだ。
「ですから私はあなたに何もしません。これ以上傷つけることもしませんし謝罪も求めません。ですから……もう地底に関わらないでください」
……あぁ、断罪すら許されないのか。
さとりは2人を連れて地霊殿へ戻っていった。
私の動かない体は冷たい地面に張り付けられて。
私の目は否定した彼女達の歩く様を見つめ動くことすらできず。
私の心は燃え尽きた思想の欠片が漂うのみ。
ただ地面だけは冷たく私を支え、彼女達と初めてであった洞窟を思い出させた。
動くことなどできず。ただ倒れ伏しているのが私だ。
千年の時を経てまた思想のために動き、この結果になったのが私だ。
すべては無駄だったというのか。
私の掲げた全ては。求め続けた正義は。
こんな形で幕を引くのか。
無念とも悔しさとの違う別の涙が流れる。
私はその場で意識を失った。
私は、精一杯の冷たい表情を湛えて、白蓮の前に立ちはだかった。
ここが、彼女と私の最後の邂逅になるだろう。そう考えるとなんとなく力が沸いてくるような気がした。
「空。もうやめなさい。その人はもう動けませんよ」
「……さとり様止めないで! 私はこいつを……」
「頼んでいるのではありません。命令ですよ」
「……わかりました」
私は、空へと出来る限り「主らしく」命令を下した。
平等を語る白蓮への、挨拶代わりの当てつけであった。
私の命令どおり、空は火の手を緩めた。私は、白蓮に向かって一歩踏み出す。
「……さとり」
「お久しぶりです白蓮様。お変わりないようで」
「あなたは随分立派になったのですね……地底の主なんて」
「お世辞でもそういうことは言わないでください。あなたの大嫌いな『主従関係』でしょうに」
私は、聖の言葉尻を捕らえて揚げ足取りを返した。
聖の心は、私の言葉に少なからず動揺しているようであった。
最初のほうは、私に向かってもしかしたらという淡い期待を抱いているようであったが、
私が言葉を発するに連れて、その期待は段々冷たくなっていき、私への懇願の気持ちが強くなりつつあった。
さとりなら、さとりなら判ってくれるはずだ。
白蓮の心は悲鳴に近い声を上げつつあった。
「ねぇ……さとり。お願いがあるの。聞いてはくれないかしら」
「……なんですか?」
「私に協力してくれないかしら……あなたなら地底の皆を纏め上げられる。そうすれば地上の妖怪たちとも仲良くなれるわ……みんなで笑いあえるようになるの」
白蓮の言うことは、少々破綻しつつあった。
平等を口では非難しながらも、私の支配力を期待して地底と地上を統括しようと言う。
やはり、彼女の「平等」はそれだけのものでしかないということがありありとわかった。
しかし、あくまでそれは深層心理の話であり、白蓮の心は必死に私へのSOSを飛ばしていた。
「相変わらずの考えですね。全て皆平等に」
「……笑いますか。私を」
「いえ、笑いません。あなたはそういう人でしたから」
私は、意を決して彼女の希望を打ち砕くための最後の切り札を取り出した。
『『地底妖怪との関係の回避及び断絶についての意見書』……?これは一体?』
『名前の通りですわ。平たく言うと、地底と地上の縁切りのための意見書』
『つまり、これは白蓮が一体何かを……』
『それは、何も言いません』
幻想郷を支配する隙間妖怪が持ってきたものであった。
私は、幻想郷の有力者が既にある程度署名をしているのを見て、もはや白蓮の計画の失敗を悟った。
だから、私はそれに地霊殿一同の名前を署名した。
私が掲げた意見書を読んで、白蓮の心が見る見る闇に染まっていくのを感じた。
「……どう……して」
「この方が地底のため、私のペット達のためだからです」
「なんで……あなたは……」
「信じられない、ですか。ですがこれは私が望んで書いたものですよ」
白蓮の心は、動揺と困惑に染まっていた。
どうしてさとりが?どうして私の味方だったさとりが?
私は、飛んでくるその声を必死に無視しながら話を続ける。
「あなたはいいのですか? 地底が地上に見下されていることが」
「私達は今地底で幸せに暮らしているんです。問題はないですよ」
「あなたは……私の味方ではないのですか……?」
目の前の僧の心は、黒く黒く圧し広がり遂には私の心を蝕むかのように、私の体へと纏わり付いてきた。
さとりに見捨てられたくない。さとりに裏切られたくない。
その言葉の先は言うな、聞きたくない。絶対に聞きたくない。言わないで。
私の言うことを聞いてください。私のことを判ってください。私はただ……ただ……。
まるで、子供の戯言のようなそれを断ち切るように私は決別の一言を放った。
「私はあなたの思想には賛成できません。絶対に」
その短い一言だけで充分であった。私に黒く纏わり付いていた「それ」は、しゅるしゅると音を立てて萎んで言った。
「『幻想郷の総意』がこの文書にあるように、『地底側の総意』もこの文書にあります。つまりこの場所にあなたの許される場所はありません。あなたは……」
「いらない」
私が、追い討ちを掛けるように続けた言葉を遮って、こいしが無意識の狭間より現れた。
そのこいしの一言で、白蓮の心は完全に崩れたようであった。彼女の信じていた物が、砕け散って周りへと飛び散った。
「お前が来なければ私達は幸せだった。今も、あの時も。私達の幸せの邪魔をどうしてするの? もしかして本当に悪魔だから?」
「私はただ……」
「ただ? ただ何だっていうの? あの時は私とお姉ちゃんが傷ついて、今はお空が泣かされて。私達にどうして不幸をばら撒くの?」
「皆が平等に……幸せになれるようにって」
「その行動で私達は不幸になった。お前は間違ってるんだ。だからお前はいらない。そんな思想に取り憑かれた人間なんて死ねばいい」
「消えてしまえばいいんだ。この地底から、幻想郷から、世界から!」
「どうして……私は……」
「このまま死ぬなら死ねばいい! ちょうど地霊殿にはお燐もいるんだから今ここで殺してあげる!」
「こいし。そこまで」
私は、これ以上はこいしが暴走すると思いこいしを手で制した。
こいしは駄々をこねるように手を振ったが、私は強くその手を握り返した。
彼女ときっちり決別を告げるためには、肉体ではなく心を折らなければならない。
二度と封印を解いて彼女がまた現れないように。
「どうして? お姉ちゃんだって憎いでしょ?」
「言ったでしょ。この人には悪意はない。ただ……狂っているだけよ。私達は何もしなくていいの」
「狂っている……って」
「その輪も元は繋がっていたいくつかの輪であることにどうして気づかないのですか? それをあなたは『外して』輪を作ろうとしている。あなたの行動はそういうことなんです。
あなたの考えとは違うけれど、今も昔も私達は小さな輪の中で幸せでした。だからあなたは……間違っていたのだと思います。
万人の願いであっても、それは万人の望まぬ物でもある。すべての関係が崩されて、横に並べたてたならきっと幸せなんてありませんよ」
違う。そんなではない、そんなのは望んじゃいないはずだ。
白蓮の声が必死に否定しようとする。
しかし、彼女の心は少しづつ現実を受け入れつつあった。
私はどうすればいいのだ。どうしたら正しかったのか? どうすれば認めてくれる?
私のやったことは、間違っていたのか?
「私はこいしのようにここで死ねとは言いません。少なからずあなたには感謝していますので」
「お姉ちゃん!」
「さとり様!」
私は、二人の声を振り切って続ける。
「あの時はああいう結果にはなりましたが村での生活は楽しかった。今回もお空は地上の生活を楽しんでいました。結果はどうであれ、ですが」
私は、心の中で一つ息を大きく吸い込んで、最後の一言を言い放った。
「ですから私はあなたに何もしません。これ以上傷つけることもしませんし謝罪も求めません。ですから……もう地底に関わらないでください」
ぱちん、とまるでしゃぼん玉が割れるかのような音がした。
白蓮の心が完全にその働きを投げ出した音であった。彼女の脳が、終わりを告げる音でもあった。
彼女は、ゆっくりと倒れて行った。その心は、さっきまでの黒とは違う、完全な「白」であった。
「それが言い分か、悪僧が」
白蓮の言葉を全部ぶち壊しにするかのような言葉が、その場を包み込んだ。
「一体、何を言うのですか、玄碌」
縁側の上に立つ白蓮は、お堂の門に仁王立ちする玄碌を睨みつけた。白蓮には玄碌のいう言葉の意味がわからない。
「お前こそ、何を言っているのだ」
つい先日までの、厳格ではあるが穏やかな玄碌はそこには居ない。ただ怒りに震える玄碌が、そこにはいた。
「人間と妖怪が平等だと、今更共存しろだと、何を抜かす」
「あなたは、これまでの話を聞いても猶、妖怪だから殺さねばならないとでも言うのですか」
「勿論だ」
頑迷な、と白蓮は少し頭に来た。一番物分かりの良さそうなものであるのに、どうしてわからぬ。
「俺は、妖怪によってこの村がどれだけ酷い目にあわされてきたかを忘れはしない。薪一つ取りにいけず、危うく村丸ごと滅びるところだったのだ。その張本を前にして、共存できますからはいはい、と聞き入れることができるとでも思っているのか?」
「それは、彼女たちも反省しています。だからこうして、私の元にいながら、村の為にいろいろなことをしたのではないですか」
「馬鹿を言え」
白蓮は極力優しく語りかけたつもりだが、それを玄碌はあっさり切り捨てる。一体何が、そこまで彼を怒らせているのかが白蓮には理解できない。
「本当に反省しているかどうかなど、わかるはずがなかろう。それこそ、"覚"でもなければ、な」
ただでさえ、凄まじい形相の男である。まして怒っているとなると、或いは鬼とさえ思えるほどに恐ろしげである。
「どうして将来的に、この村を壊すことがないといえる? ついこの間、そ奴らは村を滅ぼしかけたのだぞ」
「だから、改心したのです。妖怪も、変わることができると。人間との共存を望むようになったと」
「それがなぜ信用できる?」
玄碌は、とりわけ低い声で呟く。それはもはや、突き離しのように白蓮には思えた。
「それでは、彼女たちの無垢な笑顔を……」
「俺は、この村の安全を守る義務がある。少しでも危険性があるならば、それを排除すべきなのだ」
白蓮の声をさえぎって、玄碌は言う。
「意図がなんであれ、村人を騙していた奴を、俺は許せん」
玄碌の瞳は、白蓮を見下していた。間違っても、これまでの玄碌が尼公に向かう視線ではなかった。白蓮の立つ縁側の方が位置は高いはずで、玄碌は白蓮を見上げる形になっているはず。にもかかわらず、白蓮は玄碌に見下されているように思えた。
「村の者はどう思う。あの"破戒僧"の言うことが、信用できるのか」
村人は、動揺している。これまでにもなく動揺しているのが、白蓮にもわかる。
「あなた方はそうやって、あんな子供たちを殺せるとでもいうのですか? あなた方を信用している者を!」
「人を騙しておいて、そんなことがよく言えるな。少なくとも俺は、つい先まで、お前が妖怪を匿っていたと言うまで、信用していた。お前はそれをあっさり崩した。そんな者の言葉を、誰が信じられる?」
玄碌の言葉は、あくまで淡々としていた。ずっとその調子である。普段の玄碌にもまして感情が感じられぬ彼の言葉は、だからこそいっそう感情的に思えた。
白蓮は、遂に黙らざるを得ない。いくら説法に慣れた白蓮とは言え、自分の発言の無力性を訴えられてしまっては、言葉が思いつかない。このまま放って置くこと能わぬことは、痛いほどわかっていても。
村人も、既に揺らいではいない。一様に、白蓮に対して敵意を向けているようである。どうして、こうも人間は愚かなのだ、と白蓮は嘆息せざるをえない。妖怪と人間とが共存できる世界が、理想の世界がすぐそこにあるというに、どうしてそれを拒絶するのか。
「村の者よ、この破戒僧を何とする?」
玄碌は一言だけ、告げる。とともに、凄まじいまでの罵声が飛び交った。
白蓮はその罵声自体よりも、そうして罵声を飛ばすこの村の人々のあまりの愚昧さに、呆然と立ちすくんだ。
白蓮はそれからも、折りを見つけては村人の説得をせんとした。
これまでは、こういう方法で成功してきたのだ。入道を用いて人を捕えて喰らい、村を恐怖に陥れていた少女。数え切れぬ船を沈めて猶、恨み消えぬ幽霊。皆、こうして村人と共存することができた。彼女たちが村に受け入れられてしまえば、村人は後からその人ならずを知ると雖も、態度を変えることもなかったのだ。
今回の"覚"だって、あそこでバレてしまったのは少し目測外といえるかもしれないが、もう村にはすっかりなじんでいた。村人全てが彼女たちを受け入れていたし、彼女たちも人間と暮らすことの楽しさを覚えていた。充分村に溶け込めるはずだと、そう考えていた。今だって、そう考えている。
むしろ、白蓮からしてみれば、この村のあのような態度に出たのが全く理解できなかった。何故未だに、ああして排斥するのか。
異変に気付いたのは、数日の後の事である。最初は体にまとわりつくような妙な空気を感じたところから始まった。てっきり雨でも降るのだろうか、などと思っていた。あの重い空気とは少し事情が違うようにも思えたが、どうにもわからない。
「ほら、御飯よ」
雨だったら面倒だ、と思いながら白蓮はさとりとこいしのいる洞窟へと入る。最初に彼女たちと会ったこの洞窟に、白蓮は二人を匿っていた。
「白蓮さん、有難う」
白蓮が手にあるおにぎりを渡すと、さとりは丁寧にお辞儀をする。すぐ後ろでこいしも、合せて頭を下げた。その二人ともが、不安そうな表情をこちらに向けていた。既に今日も上手く行かなかったことを、彼女たちは知っているのだろう。白蓮の心を読んで。
「いえ。こんなところに追われてしまって、申し訳ないわ」
白蓮は、この二人が不憫で仕方がない。どうして、このか弱い二人が追いだされるようなことになるのか。どうして村人たちが平気でそれを許容し得るのか。白蓮には全くと言っていいほど理解できない。
「このご飯をくれたのは、いつもと同じであの少女たちですか」
さとりの呟きに、白蓮は頷かざるを得ない。他の村人は、話しかけても憎悪の面を向けるばかりで話を聞いてくれようともしないからだ。
ただ、こいしが助けたあの二人の少女だけが、隠れながらも白蓮やさとり、こいしを応援してくれていた。子供の方がよほど大人より素直であることを、白蓮は実感している。彼女たちはさとりとこいしとを、今でも友達だと思って疑わないのだから。
「それでは、また行ってくるわね」
「いってらっしゃい」
白蓮は、いたたまれなくなってその場を後にする。彼女たちをこれ以上、こんな目に遭わせておくのは心が痛む。なんとしてでも、村に受け入れてもらう必要があると白蓮は痛感していた。
あの少女たちは、友達として――人妖の別を越えて、さとりやこいしを純粋に心配している。それなのに、大人共はまるで無視だ。どうして子供のように、村人も思えないのだろう。白蓮はそれが不思議で仕方ないし、許せなかった。
どうして楽園を目前にしながら、それを放棄するのか。どうして人間どもは、そんな平和で穏和な生活を捨ててまで、妖怪を排斥しようとするのか。あの村人たちは、何を考えてこういう行動を取ったのか。
白蓮は洞窟から離れながら考える。
そうして思いいたる。やはり、元凶は彼しかいない。あの玄碌という男が村人を率先して、悪逆非道に走っているのだ。だから村人は何時まで経っても、楽園の存在に気付かない。玄碌が村人をして楽園から遠ざけしめている。
もはや、と白蓮は思う。あの玄碌という男を、とてもではないが許してはおけない。そのようなことをするのは、人間の所業ではない。悪魔の所業であり、仏敵の所業だ。
となれば、神罰を下すしかないだろう。仏敵ならばむしろこの世から排除すべきであるのだ。人々をわざわざ地獄に放り込む人間、生かしてはおけない。
白蓮はここに腹を括る。
往くべし。
「玄碌どの、ご協力に感謝いたします」
若い僧が一人、玄碌の前に座っている。袈裟を着、頭を丸めている彼の顔は、しかし僧とは思えぬほどに剽悍である。
「こちらこそ、いつもお世話になっておりますので」
玄碌は軽く頭を下げる。
「いえ、我ら山階寺はこの土地より物々を頂いております。一朝事あらば、即ち来るのが当然でしょう」
そういって彼は頷いた。その姿は非常に頼りがいがある。
「して、他の方々は?」
「既に妖及び邪僧の退治に向かっております。そこで、失礼ながら私が使者として来た次第」
「それは仕事が早いことで」
玄碌は感心していた。彼ら、山階寺の僧がやってきたのは今朝。そして昼前にはもう退治を始めているというのだ。
「この村を一刻でも、危険に曝したくはありませぬので。我が山階寺の下にある以上、これ以上危険を感じさせることはございませんから」
ふ、と彼は笑う。その力強さに似合わず、それは人を安堵させる笑みであった。
玄碌はあの時ひそかに、南都山階寺に家人を走らせていた。妖怪と真言僧が結託して悪事を働く故、討伐をお願いしたい、と。そう書いた手紙を持たせて。
玄碌は知っている。かの白蓮を山階寺は退治したがっていることを。だから玄碌はこう書いた。"尼公などという真言僧"と。そしてその効果は覿面であった。山階寺は優秀な法力僧を数多くこの村へと派遣してきてくれたのである。
おそらく山階寺は、白蓮も消すだろうがそれでも構わない。むしろ、さっさと消して欲しかった。
玄碌は、どうしても白蓮が許せなかったのである。ああして、如何にもいい人のふりをし、村を守っているという姿を見せながら、その実では村を危険に曝し続けていた。玄碌にとっては、さとりやらこいしやらが妖怪であるという事実もさることながら、そういった危険を放置し続けていた白蓮も許せない存在なのである。
この村は、玄碌の村だ。玄碌が養ってもらっていて、守らなければならない村だ。その村に取りいって、人々を騙しながら危険に触れさせ続けていた。白蓮の人柄云々以前に、その行為はとてもではないが玄碌には受け入れられない。
しかも、その目的は"楽園を作ること"と来ている。白蓮は、妖怪と人間とが平等だなどと考えているらしい。馬鹿げているではないか。そんなはずはない。もし平等なら、どうして村は妖怪によって滅びかけたのか。
力を見れば一目瞭然である。そんなはずはない。あの少女もどき独りで大人を呆気なく退ける。そんな連中と人間がどうして同列に並ぶことができようか。
そしてなにより許せぬのが、そんな狂気じみた目的のために、この村を危険にしていたことだ。例えばもっと崇高な目的であって、そうせざるを得なかったというならば、考えるところもあったかもしれない。しかし、たかがその程度の目的の為だけに白蓮はこの村に綱渡りをさせた。
そんな白蓮が、玄碌には憎くて仕方がなかった。
光は白蓮に押し迫る。は、と咄嗟に避けた白蓮の脇腹をかすめると、その光はすぐ背後にあった杉の木を一瞬にして吹き飛ばす。流石の白蓮も、あれを喰らって生き残る自信はあまりない。
「破戒僧を殺すというのは、殺生戒から外れるのではないですか」
白蓮はくすり、と笑う。しかし既に右足と左腕は言うことを聞かない。割かれた左脇腹からも血が噴き出すのがわかった。
「妖に魂があるとは、寡聞にして聞いたことがないのでな。殺生戒には当てはまらぬだろう」
先の技を放った僧がにやり、と笑う。壮年の男が浮かべる笑みが、余裕のものであることは、白蓮にも伺えた。
「妖には魂がないなぞと、随分と適当なことを言うのですね。それが、法相学の研究で知られる山階寺の僧の仰せることでありましょうや」
「それは私が訂正を。妖怪に魂有る無しに関わらず殺生をするつもりはございませんな。ただ、仏道に仇為す仏敵を封印せんと思うておるのみで」
別の方から、また男の声が飛ぶ。今度は若そうな声だ。
「真言陀羅尼を修した私を封印できるとでも?」
「そちは、既に外道。外道が仏にすがるとて、何ぞ救われることあらん?」
ずし、と白蓮の体は一気に重さを増す。行動制限の術だろう。白蓮は真言を唱えてそれを解除に掛かる。
正直、まさかここまで来るとは思っていなかったというのが、白蓮の本音である。この村が山階寺の荘園であった事はわかっている。しかし辺境の小さい村であって、山階寺にとってそこまで重要な荘園であるとも思えないのである。だから、討伐隊とは言っても大したことがないものと鷹をくくっていた。
ところが、これは何だ。あの法力僧たちは、紛れも無く山階寺の精鋭である。それを、こうも大量に送ってきている。
白蓮は既にわかっていた。この山全体が、巨大な結界に覆われていて、真言の力が著しく弱められていることを。ここまでの術を使うには、一桁ではとても足りない。少なくとも、20やら30やらの僧がいるはずだ。
「外道を封印すると、仏さまは仰っていたでしょうか?」
「かつてお釈迦さまが悟りを開かれた折り、悪魔の誘惑がありました。しかしそれをお釈迦さまは全て知りぞけなさった」
語りながら、白蓮は隙を探す。この愚昧な僧どもを一掃しなければならない。まだ洞窟にはさとりたちがいる。村にはあの憎き玄碌がいる。そう、白蓮は玄碌を討ち、彼女たちを守らなければならない。その為に洞窟を離れたのだ。もし妖怪を退治するような人間どもをのさばらせておけばこの国の未来は閉ざされたままだ。
「されど、我々はお釈迦さまほど強くはあれぬ。なれば、せめて誘惑の悪魔を封印し、その助けを為すのが道というものであろう?」
いいながら突きだされた錫杖を躱す。続いて後ろから迫る光弾を全て弾き返し、右に飛んで迫る光線を避ける。
「そのあなた達こそが、誘惑の悪魔ではないのですか? 他僧を悪魔だと称し、討ち亡ぼさんとする。正しき道を語る僧を討ち、邪教を語る。それが悪魔でなくて何だというのです」
「何を言う。そなたは尼に見せかけた妖怪であろう。それを討ち亡ぼし、何が問題あるというのだ?」
決して相容れぬ会話。
「左様。そも、意味もわからぬ言葉をお釈迦様の玉言を僭称し、それを用いるとは人をして堕落せしめんとするからであろう」
「お釈迦さまは身毒の方。なればその玉言もまた身毒にて用いられる梵語であって当然でございましょう? にも関わらず、曲解された漢語を用いるのは、何の故がございます?」
そう、彼らと白蓮では、奉じるものが違う。山階寺の僧たちはあくまで法相学であり、白蓮は真言密教学なのである。
「お釈迦さまの玉言は世俗の言語なぞに捉われぬ。梵語も漢語も有りはせぬ。となれば、より古く弥勒菩薩以来脈々と伝わる我らが玉言こそが正当であろう?」
身の危険を感じた白蓮は、素早く右へと躱す。光線が三本、先ほどの白蓮の陰を貫く。しかしその着地の先に何かがあることに、はたと気づく。素早く真言を唱えるが、間に合いそうもない。
「かかったな」
しゃがれた声が響く。白蓮は瞬時にこれが、大術であることに気付く。これを喰らえば、かなり不味い、とも。しかし、既にそれは遅かった。白蓮が技をぶつけるよりも早く、その地が光を帯び始める。
あっと言う間も無く、そこからは全面に光が噴き出した。無理矢理体を捻るも躱すこと能わず。白蓮はその光に思い切り吹き飛ばされ、杉の木を数本へし折って地に伏した。
「ぐぅっ」
いくら身体強化を付している白蓮とはいえ、これは致命的だ、と白蓮は判断した。先の光は霊力・体力ともを根こそぎ奪っていったらしい。これまで術で抑えていた痛覚が、全身にどっと押し寄せている。
「それでもッ」
立ち上がらなければならない。この蒙昧な連中をこの世から消し去り、あの愚痴な村長を追って、楽園を妨げる者を除かねばならないのだ。
「無駄だ」
何とか立ち上がらんと、手を地についた白蓮だが、直後に上から凄まじい重圧がかかる。結界術であろう。それに刃向えるだけの霊力も体力も、既に白蓮には存しない。
「ようやっと沈黙したか、この尼」
年老いた僧が近づいてくる。おそらくこの者が、最も偉い者だろう。
「流石は、名を知られる怪僧というものです」
伏して動かぬ白蓮のすぐ横に、彼は立つ。そこを、白蓮は狙っていた。
「黙って、溜まるかッ!」
ありったけの体力を、霊力を、気力を用いて白蓮は技を発動する。彼の足もとには、白蓮の血を用いて書いた曼陀羅。ここに居る全員をすぐ倒すすべは勿れ共、長さえ刺してしまえば――。
「ノウマク・サラバダギャテイビャク・サラバボッケイビャク・サラバタタラタ……」
唱えるは不動明王の大咒。突然の出来事にうろたえる僧共の隙を突く。
「……ケンギャギャキ・サラバビギナン……」
「諸行無常是生滅法生滅滅已寂滅爲樂」
その白蓮の声に割って入るかのように、その老僧は経を唱える。途端、白蓮は突如として声を失った。否、体全ての制御を失ったといっていい。意識こそまだあれども、以て動くべからず。
「危うい者だ。既に妄執に捉われておる」
老僧は、心底心配そうな顔をしてみせる。そのお前こそが、諸悪の根源だと叫んでみても、声は届かない。
「さて、封印の準備はできたか」
されるわけにはいかない。覚の姉妹のためにも、村人のためにも、信貴山にいる仲間たちのためにも、そして、この世界の為にも。
「既に整っております。お手をお掛け致しました」
「致し方有るまい。儂が童子のころより、我が寺が追っていた力ある僧だ。若い者だけでは力不足だろう」
老僧は、改めて白蓮を見下ろす。その顔は、穢れた者を見るような、そんな見下した目だ。決してこの僧は許さぬ、八つ裂きにしてくれよう。白蓮は必死に体を動かそうとしたが、微動だにしない。どうしてこれだけ激しい想いを持つというに、それを吐き出すこと能わぬのか!
「ところで、あちらはどうなったか報告はあるか?」
「どうやら洞窟からは逃げられたようで、今10人ほどが追っておるようで」
「そうか」
あちら、という言葉に白蓮は腸が煮えくりかえるようであった。間違いない、さとりたちのことだ。この連中はやはりさとりやこいしにも手を出そうとしているのだ。人間を信じ、これまで人と穏やかに生きていた、無害な彼女たちに。
ますます、白蓮は動かねばならなかった。彼女達まで犠牲にすることはできない。彼女たちと約束したのだ、平穏な世界を作るのだ、と。人間といがみ合わずに済む世界を作るのだ、と。
「それでは、始めよ」
だが、どうにも動くことはできなかった。既に霊力も体力も、全てが空っぽである。術に対抗する術はなく、力に対抗する力はなし。
「はい」
その掛け声と同時に、山全体に経が響き始めた。徐々に白蓮の意識が刈り取られようとしているのが、白蓮にはすぐにわかる。
だが、そんなわけにはいかない。自分はこんなところで朽ちるわけにはいかない。この村を救うために。人々の蒙きを啓くために。さとりたちとの約束を守るために。自分はこんなところで倒れていてはだめなのだ。
何としてでも、何としてでも――。
はっ、とこいしは気付いた。自分に向かって飛び込む矢。どんなに頑張っても、それを避けることが出来ぬことが分かる。間違いなくその矢は破魔矢。法相学の護符が貼ってあることがわかる。
矢が飛びこんで来るのが遅い。どうしてかな、とこいしは考える。これだけの時間があるのだったら、避けられるんじゃないかなぁ、とも思う。だがそれが無理であることは何故かしっかりと認識できている。きっと、感じる時間が遅くなってるだけなのだろう。
そもそも、どうしてこんなことになったのだろうか、と今更こいしはおもった。
自分は村人のみんなと仲良くできていたのではないのか。白蓮の元で懸命に働いて、村人のお手伝いをして、子供たちと遊んで。こいしの見た村人たちは、誰もが笑顔で喜んでいた。心までも澄みきっていた。だからこいしだって、村人のことが好きで仕方なかったし、村のことも好きで好きで仕方なかったのだ。
にも関わらず、突然村を追い出されてしまった。村の子を助けたのに、自分はこうして追われている。一体何故なのか、こいしには理解できない。
あの玄碌という男が、白蓮を負かせたのが始まりであることはわかっている。でもどうしてそれで村人全てがこいしたちを排斥するようになってしまったのだろう。これまでの楽しかった村の生活は、全て嘘偽りだったとでもいうのだろうか。
あまつさえ、今自分は大挙して押し寄せた法力僧に殺されようとしている。食事を持ってきた白蓮が立ち去ってすぐ、あの洞窟に現れたのだ。
一瞬の隙を突いて洞窟を飛び出したはいいが、さとりもこいしも新たに行く先を持っているわけではない。このあたりの地理に詳しいとはいえ、彼らから逃げおおせる方法も良くわからない。ただただ走って逃げているだけ。
「こいし!」
ふと、さとりの体が目の前に現れる。あ、と思う間もなく、さとりが目の前に立ちはだかる。どうして、とこいしは思った。どうして突然、さとりが飛び込んでくる。
矢は迫る。さとりはそのままこいしに抱きついた。慌てて突き放そうと手を伸ばすが、とても間に合わない。さとりの顔は目の前にある。それはそれは穏やかな笑顔で、笑っている。
「く……」
矢が、さとりの背に突き立つ。僅かにさとりの笑顔が歪む。呆気に取られてこいしは動けない。
「早く、逃げなさい」
さとりの声が掠れている。激痛に襲われているだろうに、さとりからは笑顔が消えない。
「どうして」
こいしは呟く。さとりの両手からは、徐々に力が抜けている。だんだん、瞳からは光が失われている。慌ててこいしがさとりの体を掴むと、ぬるり、という感触がした。
「どうしてッ!」
あの時と同じだ。村人に追われて洞窟に逃げ込んだあの日と。またさとりが、こうして怪我をしている。いや、あの日より酷いかもしれない。あの時、追ってきたのは自分たちを敵視していた村人だったし、なにより人間を知らなかった。彼らが自分たちを狙っているのは知っていた。
しかし今回は違う。自分は知ってしまった。人間が、凄く優しいことを。そういう姿を見てしまった。澄みきった心で、何の裏心もなく自分たちを可愛がってくれる人間たちを。
「はやく、はやく、逃げ……て」
さとりの声はもう、聞き取れるか取れないかわからないほどである。さとりを支えるこいしの両手は、ずっしり重い。支える両手が濡れていて、そこから水滴が滴っていることさえわかる。
「お姉ちゃんっ!」
「逃げ、なさい……。私を、置いて……」
それでも、さとりは笑う。
どうして、と再度こいしは問う。どうしてこんな目にあうのだ。どうして目の前で、さとりが瀕死になっているのだ。
「いました!」
若い女の声。尼僧らしい。ずっとこいし達を追ってきた連中だろう。
「ほ、ら、見つかったら……」
「しゃべらないで!」
どこかでこいしは、白蓮がまた助けに来てくれるのではないかと思っていた。あの日と同じなら、白蓮が助けに来てくれる。また、さとりを救って人間たちと仲良く暮らせるようにしてくれる。そう信じている。
だから、こいしは祈る。白蓮が早く来てくれないだろうか、と。
「こい、し」
だが、白蓮は来ない。今前にあるのは死に掛かるさとりと、自分たちを殺そうとする僧たち。自分たちの命が危険に曝されている。
「は、や……」
もうこいしには痛々しくて見ていられない。現実が、理解できない。
自分は、村で楽しく暮らしているのではなかったのか。子供たちや白蓮や村の大人たちや、さとりと。あの白蓮の理想となる、妖怪と人とが皆仲よく暮らす村の中で、穏やかな日々を過ごしているのではなかったのだろうか。
「いたな、妖が」
若い男の声。こいしが見れば、そこには法力僧が10人ほど並んでいる。袈裟を着た術師が5人ばかりと、鎧姿の悪僧が5人ばかり。孰れも弓を持っているのを見るに、おそらくあの矢を放ったのは5人のうちの誰かなのだろう。
「すでに片方は手負い。これは援を待たずともよいかと思われますが」
「報告によれば、奴らは"覚"という。厄介ではあるが、力は強くないぞ」
あの人間たちの心は嘘だったのか、あの態度は嘘だったのか。あれが、自分たちを殺そうとする、こうしてさとりを傷つけるための策略だったというのか。
こいしは、はっと気付いた。そうか、あの白蓮の申し出から、自分たちがこうなることは既に決まっていたのではないか。全てが、こうして自分たちを殺すために動いていたのではないだろうか?
そうであれば全てのつじつまがあう。白蓮が来ないのも、白蓮は自分たちを殺そうとしているから。だから白蓮は自分たちを救いには来てくれないのだろう。
ああ、とこいしは納得した。この法力僧たちも、きっと白蓮が呼んだのだろう。白蓮は、こいし達の味方であるように見せかけながら、その実は殺すためだけに動いていたに違いないのだ。
そう、あの人間の心も嘘だったのだ。村人たちの澄んだ心も、あの子供たちの朗らかな心も、理想を目指す白蓮の眩しい心もみな嘘だったのだ。全ては自分たちを襲うための策だったに違いない。
そして、その結果がこれだ。さとりはすでにこいしの肩に凭れて動かない。荒い呼吸ばかり聞こえている。こいしはさとりの重さを全身に感じている。こいしの下半身までが、不快なぬめりに侵されつつある。
そうだ、人の心なんて結局信用できない。心を読んだって、本当のことはわからないんだ。自分がたとえ覚であったって、人間に対しては全くの無力なんだ。
だからさとりが死にかけている。自分がこうして襲われている。
もし心の本当の奥底までわかれば、連中がなにを狙っているかさえが分かれば、こんな目に遭わなかったに違いない。
あの白蓮とかいう詐欺師の心がわかっていさえすれば。
こいしは叫んだ。ありったけの声を張りだして叫ぶ。狂人の雄叫びに、法力僧たちは、ひるんだ。
心なんて読めなくていい。どうせ意味がない。あの憎き白蓮の悪謀も、人間どもの偽証も、何一つとして見抜けなかった。ならば、心なんて読めなくていい。読めない方がいい。そんなものより――。
直後に、こいしは動く。さとりを木に凭れさせ、駆けた。
それを認識できた者なぞ、誰もいない。
その言葉に、玄碌はほっと胸をなでおろした。
「よくぞ、やって下さいました」
「それはこちらの言葉ですな。この村に居ると素早く通報してくださった玄碌どのの御蔭というものです」
丁寧に頭を下げる若い男へ、玄碌は笑いかける。
「あの邪僧が消えた今、もうこの村を脅かすものはないでしょう」
「漸く、この世にも平穏が訪れたというものであります」
これで村も平和になった。平穏になった。いろいろあったが、こうして村はやっと安全になった。
それがなにより、玄碌にとって嬉しい。自分を欺いた者どもを許せぬということもあったが、それよりなによりまずは、村の安全が一番だ。
「それもこれも、偏に山階寺の皆さまの御蔭です。これからもどうぞ、宜しくお願いしたく思います」
「それはこちらの言葉です」
若い僧は微笑む。
「玄碌どのが村をこうして守り続け、食物を山階寺に届けて下さるからこそ、我々は仏の道を修めることができるのです」
「それは」
玄碌は、頭を掻いた。まさか、中央から来た僧からそうも誉められるとも思わなかったからだ。
「だからこそ、法力僧を50も従えてこの場に参ったのでありますよ」
その僧の言葉は、本当に穏やかな口調だ。
「その誠意には、感謝しようもありません」
玄碌もまた微笑む。
「本当に守れて、よかった」
彼の表情は、大事をやり通したという自負と、危険を去らしめた安堵とを丸く包んでいる。その言葉が、中央の偉い僧であるだとか、そういうことを全く抜きにしている、心の底から出た言葉である事は、玄碌には伺えた。
「誠に」
玄碌もまた、穏和に笑って頷いた。
ああ眩しい、とさとりは思った。
一体何がどうなっているのかわからない。ただ眩しい、とだけ思う。
「うん……」
次第に焦点があってくる。どうやらここは洞窟らしい、とわかった。ただ、前とは違うよう。
「あ、お姉ちゃん!」
「……あれ?」
一体自分はどうしてこんなところへいるのだろう。どうして、自分は寝ているのだろう。
「お姉ちゃん、大丈夫!」
こいしがずい、と顔を近づける。その目には、涙が滲んでいる。
あれ、とさとりは懸命に記憶を探る。一体、自分になにがあったのか、と。
「……こいし、あなたも死んじゃったの?」
そうだ、と思い返す。こいしを庇って射られて、それで気を失ったのだ、と。身を捨てて、折角こいしを逃がしたのに、追いつかれてしまったのだろうか。
「ばかっ!」
途端に、ぺし、と額を弾かれる。
「お姉ちゃん、4日も寝てたんだよ、心配してたんだから!」
「4日……?」
ぽたぽた、とさとりの顔に水滴が垂れてくる。その水滴は、暖かい。もしかして生き残ったのかな、とさとりは漸く気付く。
「そうだよ。もう駄目なんじゃないかって、私、私ッ……」
そのままさとりは、がっしりこいしに抱きつかれる。こいしはさとりの肩に顔をうずめたまま、動かない。いや、肩がふるえている。きっと、とっても心配してくれたのだろう、ということが心を読まなくたってわかる。
「……心配してくれたのね」
ぐずぐず、とこいしは頭だけ縦に振る。肩に感じられる暖かさが、さとりの心をほぐしていく。なんとか動く手をこいしの頭に回して、優しく撫でてやった。
やはり、こいしは自分にとって何にも代えがたい、妹だ。
そのまま、どれくらいの時間が経っただろうか。漸くこいしは顔を上げる。その鼻と目は真っ赤で、酷い顔だ。
「私を、助けてくれたの?」
「お姉ちゃんを捨てて逃げるなんて、できるわけないもん」
まだ涙を目に溜めたまま、こいしは胸を張る。
「そう、有難う」
ここまでこいしが心配してくれているなんて、さとりにはちっともわからなかった。こいしの言葉のぬくもりが、さとりの心にも沁みる。
言葉が?
え、とさとりは思った。何か違和感がある。一体、何がおかしいのあろう。
「とりあえず、何か食べ物を探してくるね」
ふふ、とこいしは笑う。その表情は、先までの泣き顔とは一転して喜びにあふれていた。それだけ、さとりが生きてたことがうれしかったのだろう。
だろう?
何だ、何がおかしい。さとりは回らぬ頭で考える。何かがおかしい、これまでこんなことは――。
「……まさか」
は、とさとりはこいしの胸辺りに視線を移す。そこに浮かぶのは第三の目。覚妖怪の象徴であり、心である。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
こいしの表情は屈託がない。しかしさとりの目には入ってない。さとりの視線の先にはただ、こいしの第三の目。
閉じていた。
蒼然と心が冷え行くのを、さとりは感じていた。なぜ、とさとりは呻く。どうして自分は、こいしをそんな目にあわせてしまったのだ。自分がしっかりしていれば、こいしが全てから心を閉ざしてしまうなんてことはなかったはずなのに。自分が怪我をしてしまったばっかりに、こいしは心を閉ざしてしまった。全てを、捨ててしまった。
「……こいし」
さとりの表情はこわばっていたのだろう。こいしが心配そうな表情をする。
「お姉ちゃん大丈夫だよ。もう白蓮とかいう悪魔は来ない」
白蓮、とこいしは吐き捨てる。ついこの間の、親しみを持った口調はもう何処かに行ってしまっていた。きっと最後まで、白蓮は助けに来なかったのだろう。
「あの白蓮とかいう悪魔は封印されちゃったから」
封印? とさとりは問い返す。
「そうだよ、封印。なんか、法力僧の連中が封印しちゃったんだって。仲間割れだね」
ふふ、とこいしは笑う。その笑みは、先までと違って凄絶だ。
「あんなことしたんだから、自業自得」
笑うこいしが、さとりには恐ろしい。何を考えているかわからぬのが、何よりも恐ろしい。
「まあいいや、とりあえずご飯探してくるね」
こいしはそう言うと、一人洞窟を出ていく。
しかし、さとりは何も言わない。言えなかった。
白蓮が封印された。何故か、ということはさとりにも簡単に予測できる。伊達にお堂に居たわけではない。さとりは知っていた。白蓮が別の僧たちに追われていたことを。そして白蓮の心が、寸分の疑いなく自分たちにも村人にも好意を向けていた、ということを。
またさとりは知る。玄碌という男が村を守るために懸命であったことを。そして村人たちが、自分たちに澄んだ好意を向けてくれていたことを。
ああ、と再びさとりは嘆く。これはすれ違いだ。救いようのない、すれ違いだ。
少しずれただけなのだ。こいしが目を閉じることになってしまったのは、ほんの少し、ほんの少しだけ狂っただけなのだ。
さとりは、右手を握り締めた。
これは、誰を恨めばいい。こいしをあんな目に遭わせたことへの怒りを、どこへ向ければいいのだ。
自分の知る限り、皆が皆最善を目指して突き進んだだけじゃないか。悪人なんて、どこにもいないじゃないか。
白蓮は、ただ自分たちを村に入れるため欺いた。玄碌は、ただ村を守ろうとした。村人は、ただ妖怪を恐れた。法力僧たちは、ただ玄碌と村を救おうとした、こいしは、ただ村を好いていた。
全てがすれ違った。ただそれだけ。皆が善人の、例えようもない悲劇にして、喜劇。こいしが目を閉じたのは、その結果でしかなかった。
ただ、さとりは涙を流して耐えることしかできなかった。
こいしに謝ることしかできなかった。
暖かな日差し。
命蓮寺には光が満ちている。
私はその光を浴びながら縁側に座っている。
鳥は囀り木々は見事に咲き誇り。
美しきとはこう言うのかという風景である。
周りを見ればそこには人妖が集まり宴会の用意をしている。
そこには地底も地上も差別なく。
人間と妖怪の違いもなく。
全ての者が一つの宴会のために行動している。
皆が笑いあい、助けあって。
幸せそうに働いている。
そこには善悪という括りはない。
生きた時間の差もありはしない。
悲しみもなければいがみ合いもない。
一人は皆のために、皆は一人のために。
全ての者がそう動いている。
法の世界の元にすべての者が平等に。
これが私の望んだ世界だ。
人妖が平等に生きる世界。つまらない事件や悲しみが起こらない世界。
私はそれを望んで生きてきた。それが全てだった。
自分を捨て、人妖のために走り回った。
それが私のすべきこと。それを今私は成し遂げてここにいる。
あぁ、なんと満たされた気分であろうか。
これが全てを成した充足感なのか。
これが私の幸せなのだ。
目の前で宴会の準備をする者達の笑顔。
それを眺めながら談笑をしている者の笑い声。
この縁側から見えるこの光景こそが私の幸せの結晶なのだ。
私はこの光景のために生きてきたのだ。
誰も掴めぬ夢だと言った。
酔狂だと、途方もないことだと言った。
だが私は今それを目の前で見ている。
誰もが見ていない世界を作り上げ。私はここにいる。
「白蓮様! おいでよ! 一緒に準備しよう!」
こいしが私の前に立ち座る私に手を差し出す。
晴れやかな笑顔で私を見つめ。その瞳には一縷の曇りもなく。
喜びに満ちあふれた顔で私を見てくれる。
「白蓮様だけが準備をしないのはだめですよ」
こいしの隣にさとりがやってきてまた手を差し出す。
彼女の顔も落ち着きながらも笑顔で喜びがうかがえる。
あぁ、彼女らは幸せになれたのだ。
二人への贖罪もできた。私は苦しみから救うことができた。
私もその輪に、一つの輪に入らねばならない。
それが本当の平等な世界だ。
私は二人の手を取る。
さとりは左手を、こいしは右手を。
二人は私の手を引き私を立たせ、準備の人間の中へ引っ張っていく。
私は二人に引き寄せられて入っていく。
幸せの輪の中へ。平等な世界へ。
視界は光に満ちている。私の世界に光が広がっていく。
……法の世界に光が満ちる。
「お姉ちゃん?どうしたの、もしかしてまだ、この尼は立ち上がろうとしてるの?」
不意にこいしから声を掛けられ、私は我に返った。
こいしが私の顔を不安そうに覗き込んでくる。
こいしの心は読めないものの、彼女の表情からは聖がまた起き上がってこないか不安になっているのがひしひしと感じられた。
私は、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、多分もう白蓮は起き上がってこないわ」
「ふーん……なんで?」
「白蓮の心は完全に壊れてしまったわ。今の彼女が見ているのは、彼女自身が作り上げた幸せな夢」
白蓮は、空の炎で煤けていながらも幸せそうな表情を湛えて地面に横たわっていた。
私は、そんな彼女の心に描かれた夢を思い出して、ひとつ溜息を付く。
「……もしかしたら、これが一番良い終わり方だったのかも知れない。絶対に彼女の夢は叶うような物ではなかった。
だから、こうやって私達が現実を突きつけて、ずっと彼女に夢を夢のまま見させてあげる。
笑えるけど、これこそがハッピーエンドという奴なのかもしれないわね」
「お姉ちゃんらしくないね、そんな感傷的になるなんて」
「そうね、確かにそうかもしれない」
私は、未だに心に残り続ける白蓮の心の声の残響をふっと抱きしめるように、腕を抱いた。
必死に冷静さを取り繕うとしていたが、正直に言えばあと5分も話していればこちらの方が折れていたかもしれない。
それほどに、白蓮は必死に、そして純粋に私達に訴えかけていた。
だけど、それはまるで子供の言うわがままのようなもので、誰も聞き入れることは無いのだろう。
だから、ここで彼女の夢を折るのは私達の役目だったのだ。そう自分へと必死に言い聞かせた。
私は、隣でニコニコ笑っているこいしと、悲しそうな顔で立ち尽くしている空へと言った。
「帰りましょう、私達の家に」
私達は、倒れている白蓮をそのままに地霊殿へと戻って行った。
翌朝、こいしが言うには白蓮の姿は見えなくなっていたということだった。
私は、それを聞いて、またいつも通りの生活に戻ったとほっと胸を撫で下ろした。
空いわく、「命蓮寺には探し物が得意な人が居たからその人が見つけたのかも」と言っていた。
それから一ヶ月ほど後に聞いた噂によると、命蓮寺には今沢山の人が来ているらしい。
「命蓮寺の尼さんが、ついに神の世界へと旅立った。その証拠に、まるで仏のような笑みを浮かべて眠り続けている」
大体そんな触れ込みで一度その姿を見ようとする人が集まっているらしい。
まるで生きたまま即身成仏を遂げたかのような白蓮の姿のおかげで、皮肉にも命蓮寺の信仰は伸びているそうだ。
一時は悪魔と弾圧しておきながら、今は神とはやし立てる人々のそんな移り気な様子を、
白蓮ならばまるで見下すかの如く苦笑を浮かべるだろうが、私は酷く憎らしく、それでいて愛おしく思うのであった。
了