「光の当たる場所に居ると、影も濃く映るよね」
 最期に聞いた言葉は、無邪気で、とても哲学的な言葉であった。










――闇在光之所照 闇、光の照らす所に在り――











 人里での用を終えて、霊夢は森の中をふわふわと飛んでいた。
 時々、霊夢は博麗神社の巫女として人里に呼ばれることがある。博麗の巫女は、幻想郷唯一の神職であるのだから、人里で何らかの神事が必要となると、呼び出されて当然だ。
 尤も、現在では早苗も住んでいるので、仕事はそれほど多くない。諏訪の信者となった者たちは、皆早苗のいる諏訪社に頼むのだ。早苗の住む諏訪の分社は、鎮守として人里のすぐ裏にあるのだから、人々がそちらに行くのは当然である。霊夢が行くのは、おおよそ、昔から幻想郷に住んでいて博麗神社を未だに頼ってくれるわずかな人間の為だ。
 それでも、ここのところは呼び出される回数が割合多かった。つい半年ほど前に起きた災害のせいで人間や人里に多大な被害が出て、今人里はその復興に尽力しているからだ。死者の弔いも重なっている。
「……疲れたわねぇ」
 人里での神事については、基本的に無報酬で行っている。神事によって金を貰わずとも、様々な形で、生活必需物資は手に入る。故に、物資は基本的に足りているのだ。幻想郷を守護する役を任される霊夢が、幻想郷の中で苦行することは、ほとんどない。
 だが、霊夢の体力には限界がある。こうも毎日のように人里へ狩りだされ、神事に追われていれば、疲れも溜まってくるものだ。
 しかも、ここにきて、霊夢は酷い悪寒に襲われていた。どうやら、どこかで風邪を引いてしまったようである。さっさと博麗神社に帰って寝ようと、霊夢は帰りを急いでいた。
「あ、貴女は食べてもいい人間?」
 それであるから、森から聞こえてきた暢気そうな声が、霊夢には酷く面倒だった。
「あら、貴女、まだ生きてたのね?」
「闇は、どんな場所にも存在するのよ?」
 草陰から金髪の少女が姿を現した。赤いリボンがかわいらしい。相変わらず、陽気な笑顔でこちらを見つめていた。
 霊夢は、とりあえず何もせずに引き上げたかった。
 スペルカードルールを以て戦えば、まず負ける相手ではないだろう。とはいえ、さっきから、悪寒が体を蝕み続けている。日も既に傾き、あたりは朱に染まり始めていた。紅葉しかけている木々が、赤の光に染められて、煌々と赤を映え渡らせている。このまま暗くなる、則ち、陽から陰へと変わる時間に、闇の妖怪などと事を構えたくない。
「そうね。悪かったわ」
 目の前に立ちふさがる形になるルーミアに、霊夢は優しく語りかけた。
「私は、食べてはいけない人間よ。幻想郷の人間を食べてはならないの」
「え~」
 ルーミアは、外見そのままの性格をしている。まだ幼き子供の如く、ルーミアは駄々をこねた。
「だって私お腹空いたし」
「なら、どこかで他の動物でも狩ってきなさい。私はあんたを相手している暇もないの」
 霊夢は、すこし凄んで見せた。幻想郷守護たる霊夢は、幻想郷随一の実力者だ。妖怪であろうと、少々の妖怪ならば、スペルカードルール外でもどうにかなる。まして、霊夢に対して、スペルカード戦を正面から挑むのは愚の骨頂といえる。現に、紅霧異変において挑んできたルーミアを撃墜したことがある。故に、霊夢はこれでルーミアがどこかへ行ってくれることを期待した。
「他の動物なんてほとんどいないし。もう、4日もご飯食べてないから」
 ルーミアという妖怪は、なんと妙な妖怪であろう、と霊夢は思った。既に一度撃墜されているのだから、ルーミアが霊夢に敵うと思っているはずはない。実力差は絶対的である。誰が見ても、それは明らかだ。
 それでも、やり合いたくはない。体調の優れぬ時に、動き回るものではない。
「なら、私が出すわよ。ご飯」
「でも、人を食べたい気分なの。私、3枚使うよ」
 霊夢の言うことを、ルーミアは聞く気がないようである。無邪気に笑いかけて、ルーミアはスペルカードを取り出した。避けられぬならば、すぐさま潰すに限る。そう思い、霊夢もスペルカードを取り出して、発動した。
「私も3枚で行くから」
 夢想封印・集。霊夢の得意な追尾弾によって構成されるスペルカードであり、相手が一人なら絶大な威力を発揮する。
 対するルーミアは、スペルカードを出した癖に、通常弾幕を作るだけでスペルカードを発動していない。どうやら、出し惜しみをしているようだ。まあ、霊夢のスペルカードの厳しさを見越して、喰らいボムにでも利用するつもりなのだろう。
 悪寒は、一層酷くなってくる。霊夢は、早く帰りたい、とこぼした。外も次第に暗くなってきている。まだルーミアはその能力を使っていないが、使い始めると厄介だ。夜、闇を利用されると、視覚を麻痺させられる。とにかく、長期戦はごめんだ。
 ふと考え事の内に、ルーミアの弾幕が変化する。同時に、スペルカード発動の宣言が聞こえた。どうやら、一発被弾しかけたらしい。これで、あと2枚だ。
 ルーミアから送られてきた弾幕が、あたりに展開される。だが、霊夢にとって、それを避けるのはさして難しいことではなかった。霊夢は、スペルカード決闘における絶対性で、幻想郷にこれまで君臨し続け、秩序維持の役割を果たし続けてきている。
 続け様に、ルーミアのスペルカード発動の声が響く。まだ、夢想封印・集すら終わっていないのに、既に彼女は2枚を使った。こちらには、まだ2枚ある。霊夢は、安堵した。酷い悪寒の中でも、そのあたりをふわふわ飛んでいるような妖怪共に、後れをとったりはせぬ。自分は、この幻想郷を守るべき人間なのだから。
「そろそろ2枚目でも行こうかしら?」
 独り言をする余裕すらある。さっきより若干難しくなったとはいえ、ルーミアのスペルカードなぞ恐るるに足らぬ。悪寒で感覚が鈍っているのを自覚していても、避けるには造作もない。目の前に広がる弾の群れは、花火の如く様々な色に輝く。だが、それも霊夢にとっては避ける対象に過ぎないのであって、感傷を抱かせるものではない。
 さて、と霊夢は2枚目を取り出した。八方鬼縛陣。陣に閉じ込めてしまえば、3枚目を切らなければなるまい。そうして、このスペルカード戦は終わり。霊夢は晴れて神社に帰って、ぐっすりと眠ることができる。
 す、とここで初めて霊夢は眼を上げる。懸命に弾を避けている、ルーミアと眼があった。真っ赤な眼が、霊夢を見据えている。その視線は、とても先ほどまで駄々をこねていた少女とは思えぬほどに、透徹している。心の内の内まで、何から何までを見通してしまいそうなほどに、目線は鋭い。霊夢は、その赤い視線に、全てを見透かされたように思えた。ルーミアなぞ、その辺りにゴロゴロ居るただの一小妖怪であるはずなのだが、その視線は、紫やレミリアといった、実力者のものを思わせた。
 そして思わず、霊夢は目線を避けていた。

 その刹那に、霊夢は被弾した。

 最初、霊夢には身を襲った事が理解できなかった。そして、理解する前に新たなスペルカードを切る。次に、自分の被弾に気づいた。そして、激しく混乱した。被弾するはずのない相手からの被弾は、霊夢の思考を一時停止させるには十分な出来事であったし、思考を錯綜させるにも十分すぎた。紅霧異変の際には、鎧袖一触、忽ちの内に葬り去った相手に、不覚を取った。そのような事、天才肌で何事も容易く切り抜けてきた霊夢には、経験がなかった。
 霊夢とは、博麗の巫女である。妖怪と人間との均衡を崩す者があれば、スペルカードルールを以てこれを排除するのが役割である。均衡を崩す者であれば、誰であろうとも排除せねばならない。だから、霊夢は、今代の博麗の巫女として、強く在り続けてきていた。如何なる存在をも打倒せる存在であり続ければならなかったから、あり続けた。それが、博麗の巫女の義務であった。
「霊夢、生きてて楽しい?」
 そのような考えに生きてきた霊夢には、ルーミアの一言は、大きな一言であった。その才と義務のもと、疑問も抱かずに生き続けてきた霊夢にとって、その人生とは顧みるべきものにあらず。故に、何も感じていなかったのだ。何も感じていなかったし、博麗の巫女は、何らかの価値判断を人生に抱いてはいけなかった。博麗の巫女とは、幻想郷内の存在全てを等しく排除できなければならない。如何なる価値観・感情を、外に依ってはならぬのだ。博麗の巫女は、その強大な力を以て、空しく宙に浮き続ける。
「私は、楽しいんだ。まだ、消えたくないし」
 だが、この瞬間に巫女は知ったのだ。人生に対して、感情を持つということが有り得る、ということを。目の前にいる、一匹の小妖怪は、力としては弱い者に過ぎぬが、自らの人生を顧みて、一言、楽しい、と結論付けた。霊夢には、その方法など、わかりはしない。
「楽しい?」
 宙に浮き続ける巫女には、地に足を付けて生きる方法がわかりはしない。自らの持つ強大な力を費しながら、飛び続けるしかないのである。
「どうして? 生きることが楽しいとか哀しいとか、ってあるの?」
 その疑問は、空の青にも海の青にも染まらず、唯々哀しく白く飛び続ける巫女の、空しい問いであった。
「え? 楽しくないの?」
 だが、地に足付ける者もまた、宙を浮く者を理解するに能わず。
「よく、楽しくないのに生きてなんていられるね」
 故に、霊夢に非情な問いが投げつけられる。これまで考えもしなかったし、意識もしなかったものを、霊夢は嫌でも認識させられた。どうして自分は、このように生きているのだろうか?
 博麗の巫女に存在理由を求めるならば、幻想郷の守護といえるだろう。それ以外に、理由を持たない。幻想郷を守護することこそが、生きることのすべてである。何にも頼らぬ価値観を独り有しているのも、幻想郷の為である。友と呼べる人間を、或いは妖怪を、一人たりとも作りはしなかったのも、博麗の巫女だからである。あの霧雨魔理沙ですら、博麗の巫女にとっては、その他大勢と変わらない一人間である。

 互いに理解できぬはずなのに、霊夢だけが、問いの重みに引きずられていた。地に足を付けているルーミアと異なり、宙に浮いているのであるから、当然であった。

 不思議なことに、今猶、ルーミアは最後のスペルカードを切らずにいる。そして、被弾する気配もない。それが、霊夢の所有する最強のスペルカードの一つ・二重弾幕結界であるにも関わらず。霊夢が所有する最強であるということは、幻想郷最強といえるものであるのだが。
 若し、ここで自分が弾幕戦に集中できればどんなによかったであろうか、と霊夢は慨嘆した。今発動しているルーミアのスペルカードは、霊夢にとって集中するに能わぬ代物である。であるからこそ、却って先ほどより問いが、霊夢の心の中で繰り返され続けるのだ。何故、自分は生きているのか、と。
 自らの存在意義をどこに求めるべきか、霊夢は知らなかった。全てを公平に、可もなく不可もなく、ただ同じとする価値観に於いては、存在意義を支えるに足るものなど、ありはしなかった。故に、博麗の巫女に必要なものというものは、強靭な精神力。存在意義を見つけられずとも生きていけるだけの精神力が、博麗の巫女には必要である。博麗の巫女が強くあらねばならぬのは、必ずしも幻想郷の為だけではない。自らが生きるための必須でもあった。博麗の巫女が、存在意義を探してはならぬ。探せば、支えてきた精神力は脆くも折れる。
 だが、霊夢の精神は、既に折られていた。霊夢は、自らより強い者、決して越えられぬものを知っていてしまっていた。神奈子と諏訪子、という神だ。あの二柱は、幻想郷の均衡を完全に破壊するに十分な力を持っている。それは、人や妖怪では到底手の届かぬ場所。
 霊夢は知っている。守矢神社移住騒動の際に戦った時は、神奈子や諏訪子に手加減されたことを。連中は、霊夢に負けることで幻想郷に溶け込もうとしたことを。あの二柱は、霊夢より上に居る。遥か彼方に居る。故に、地霊殿の騒動の際に、異変の首謀者であったにも関わらず、霊夢は彼女たちを罰することができなかった。それは、幻想郷ではあってはならないことであった。異変を起こした者は、全て博麗の巫女によって罰されねばならなかったのだ。だが、霊夢にはそれを行う力がなかった。それを認識してしまったからこそ、霊夢は、強靭な精神力を保てなかった。自らの力に、少しでも、疑問を抱いてしまったのであった。
 だからこそ、霊夢は、存在意義を探してしまった。自らが生きている理由というものを、霊夢は自らの内から探した。だが、霊夢は存在意義など決して見つけられない。価値を同一化してきた霊夢が、自己存在に特別の価値を見出すことなど、できるはずもないのだ。それが博麗の巫女としての限界であった。
 さて、生きるに足る強靭な精神力も折られ、存在意義のないことに耐えられなくなった霊夢は、一つの結論に至らざるを得ない。自分に存在意義がないのであるなら、生きている意味なぞ、ないのではないか。
 博麗の巫女は、宙に浮いている。あらゆるものとの関係は希薄だ。故に、博麗の巫女は達観する。もはや、霊夢をこの世へ釘づけておくものなぞ、何一つとして存在しないのだ。何に対しても、同じ価値しか見いだせぬ博麗の巫女にとっては、生と死すら同価値である。
 霊夢は苦笑いをした。
 わざわざ生にしがみ付き、幻想郷に居続ける必要なぞないのだと。為るがままに為れば、それでよい。
 弾幕戦は精神戦である。勝つことに意義を見いだせなくなった霊夢は、その時点で勝つ可能性を喪失した。

 森を色とりどりの光に彩っていた弾が全て消え失せた後に残るのは、倒れた霊夢と、莞爾としたルーミアであった。
「やっとご飯だ」
 うつ伏せに倒れていた霊夢から、ルーミアの表情は見えない。だが、その声はとても嬉々としていて、生きる喜びを感じていられるようであった。
 だが、霊夢にとってそれすらどうでもよいことであった。
 ルーミアと違い、自分は生に何も見出さないのだから。



「光の当たる場所に居ると、影も濃く映るよね」




 ルーミアは新しい食料を、とりあえず血抜きをして住処に持ちかえった。霊夢には4日と言ったが、4日前に食べたのは、食い散らかされた屍肉であった。だから、新鮮な肉にありつくのは9日ぶり。干し肉にでもして、大切に食べなければならない。
 手慣れた動作で捌きながら、ルーミアは思う。
 彼女の闇を誰も気づかなかったのか、と。
 ルーミアは一応、闇を扱う妖怪ではある。だが、能力の大半は封印されているし、自分の力は自覚しているつもりだ。そんな自分でも、容易に見てとれてしまうほど、霊夢の心の闇は深かった。
 だから、勝てた。卑怯だと謗られるかもしれないが、こちらにも生死が掛かっていたのだ。この間の旱魃のせいですっかり獲物はいない。人間も人里から出てこない。食べれるものはもはや、飛んでいる巫女くらいしかいなかったのだ。
 あれを逃すわけにはいかなかったから、心の闇を操って、獲物になってもらった。
 だが、それにしても、闇は深かった。ルーミアが行ったのは、最後のひと押しに過ぎない。宙に浮く霊夢に少し重しを載せるだけで、霊夢は地へと墜落死した。あれだけの闇を抱えて生きていくのは、自分なら嫌だと、ルーミアは思う。そういう意味では、霊夢は霊夢に負けたのかもしれない。自分で勝ったのではなく。そも、あれほどの心の闇がなければ、ルーミアが退治されて今頃あの原っぱに引っくり返っていただろう。ルーミアの技量では、本当の「闇」ならともかく、形而上の「闇」はほとんど弄ることができない。あれだけの闇があったから、ルーミアはそれを弄ることができて、霊夢が負けた。
 だが、紫はどうして霊夢を救いに来なかったのだろうか、とルーミアは続いて思った。紫にとって、霊夢は幻想郷を守るのに欠かせない人間であるはず。守ろうとするはずだ。
 だが一方で、紫が、霊夢を殺したからと言ってここまで来ることはないだろう、ともルーミアは考える。紫とは、死んでしまった霊夢の為に仇討に来るような妖怪ではないと、ルーミアは認識している。彼女もまた幻想郷の守護者である。私情だけで、他に何の意味もなく妖怪を狩るような妖怪ではないはずだ。仇討をしたところで霊夢が生き返るわけではないのだから、仇討の意義とは特にあるまい。
 きっと紫は、ルーミアと霊夢の戦う場を見ていない。あの紫のこと、見ていたら、助けに来ないはずはない。そして、あの場を見ていないなら、誰が霊夢を襲ったのかすらわからないだろう。
 ルーミアは、下ろした肉を干し肉用に薄切りにして、紐で結びながら考える。
 霊夢があれだけの闇を抱えてしまっていたのも、ここのところ感じている違和感に由来するのかもしれない、と漠然と感じていた。特にどこがどう、というわけではない。だが、幻想郷がこれまでとすこし違う気がしていた。いつ頃から、ともどの程度、とも表現できそうにない。だが、気がついた時には、なんとはなしに、違和感を感じていた。
 強いて言うなら、これまで平行だった天秤が傾いた感じかな、などとルーミアは思う。だが、それが何を現すかわからない。闇などと言う抽象的なものを扱うルーミアは、直感的に何かを感じることに長けている。わずかな幻想郷の変化を感じ取れたのは、ルーミアの能力故であった。一方で、封印されたルーミアが、その何かを理解することはできなかった。
 ルーミアは肉を結んだ紐を、家の外へ釣るしていく。わざわざルーミアに近づいてくる妖怪はいないから、このまま放っておけば肉は、盗まれることもなく無事干し肉となるはず。1人分あれば、10日は暮らせる。
 ルーミアは、無事これからも生きていけそうであると微笑った。ルーミアは、まだ生きていたい。この幻想郷で、子妖怪としての生を――何も考えず、ただふわふわと無邪気に生きる子妖怪の生を、まだまだ続けていたかった。
近代は「自主独立」を人に求める。
 霊夢は、幻想郷の中で最も近代人であった。
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