我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明りにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………
芥川龍之介『神神の微笑』








――其処に居る神――









 もう七月も近い。例年ならば、連日の雨に幻想郷の住人たちは辟易し、また恵みの雨とて歓迎している時期である。だが、今年は違った。四月から雨は一滴すら降ってはおらぬ。いくら空梅雨と雖も、ここまで降らねば、天候異常と言うほかはない。
 照りつける太陽に汗を滲ませながら、霊夢は水桶を二つ手に神社へ降り立つ。丘陵の上に建つ博麗神社に井戸はない。故に毎日、霊夢は麓の川へ水を汲みに行く。空を飛べるとは言え、楽な仕事ではない。
 桶から水瓶に水を移し替えながら、霊夢は水源の川を思い浮かべた。たしかに、決して水量の多くはない中流域だ。今年の冬に降った雪も多くはなかった。それでも、もはやほとんど断流しているのは、少し異常が過ぎないだろうか。
 しかし、霊夢は動くのを躊躇した。異常であり異変であると、自らの勘が叫んでいる。だが同時に、動くな、とも叫んでいるのだ。この異変に介入してはならぬ。たとえ博麗の巫女であり、幻想郷を守る立場にあろうとも、この異変に口を出すことはならない。
 霊夢は、ひとまず観察することにした。もしかしたら、七月になって野分でもくるかもしれない。それに、今の幻想郷には風雨を司る諏訪大明神がいる。いざとなれば、悔しいが、頭を下げに行けばよい。彼女らとて、人や妖怪を無闇矢鱈と殺したい、とは思うまい。

 渇水に備えてもう一つ水甕を引っぱり出しながら、霊夢は、非情なほどに青く澄み渡る空を見上げた。



「とうとう全ての集落の井戸が枯れた。川が枯れたのはこの間報告しただろう。もはや、ここの水源しか残っていないのだ」
 慧音は、その表情を曇らせた。
「確かに、ここの蓮池の水はまだ枯れてません。ですけど、毎日三滴ずつしか補充されないですから、長くは持ちませんよ」
 八月に入っても、一向に雨が降る気配はなかった。既に、妖怪の山の峡谷より流れ出す川は完全に干上がり、人里の各集落では井戸水も貯蓄水も払底した。人里の持つ田の内、水が入ったのは半分にも満たない。人里の鎮守たる諏訪神社に移住している早苗も、人里における水不足を理解していた。紅魔館のある湖になら水はあるだろうが、あまりにも人里からは遠すぎる。
「わかっている。だが、このままでは田に入れた水を使わざるをえなくなる。それでは疫病の危険があまりにも高すぎる。君の仕えている神が雨を降らせてくれるまででいい。なんとか水を皆に融通してはもらえないか」
 頭を下げた慧音に、早苗は慌てた。人里の中でも随一の人望を持ち、早苗自身も人格者として認めている慧音に自分が頭を下げさせてしまった。
「わかりました。なんとか、諏訪神社の方でも皆さんを救えるように融通しましょう。融通しますから、頭を上げてください」
 早苗の言葉に安堵したのか、慧音は頭を起こし、わずかに微笑を浮かべる。だが、すぐに再び表情は険しくなった。
「ところで」
 慧音は、とても言いにくそうに口を噤んだ。だが、慧音の言わんとすることが自らの主に関係するに違いない、と推測するのは早苗にとって、難しきことではない。
「神奈子さまは、今回の天候異常については関係していない、と言っていました。ただ、天候が変えられない、とだけ」
 慧音は、安心したような心配しているような、そんな複雑な表情を浮かべて、そうか、と一言だけ答えた。早苗がええ、と返すと、慧音はす、と立ち上がった。
「今日は忙しい中、邪魔をして済まなかった。さっそく、全ての集落に水の話を伝えてこよう」
「いえ、こちらこそ。慧音さんに協力できて光栄です」
 早苗の言葉に慧音は微笑んで、社務所を出て行った。早苗はその後ろ姿を見送ると、ひとつ溜息をついて、縁石上の下駄に足を突っ込んだ。
 既に蓮池も、その水量を平時の半分ほどに減らしている。普段ならば滾々と湧いているはずの水もほとんど止まり、今となっては完全に宝殿からの天水だけが、その水の供給源と化している。しかしそれも所詮一日三滴。もし五つある人里の集落全てから人間が来れば、水は一月も持ちはしないだろう。やはり、少々無理を言ってでも、神奈子に雨を降らせてもらわなければ、死んでしまいそうだ。人間、水がなければ三日とて生きられぬ。
 とにかく少しでも節水しなければ、と早苗は一杯だけ、蓮池から桶で水を汲んだ。自分一人で使えば、この夏・秋を過ごすことは余裕であろう。だが、神職たる者、信仰してくれている人々を助けねばなるまい。それならば、蓮池の水を少しでも持たせなければならぬ。


 諏訪神社が救いの手を差し伸べる、という情報は、忽ち人里に行き渡った。既に飲料水にすら事欠く状況となっていた者たちの生存本能が、その情報速度を作りだしたと言ってよいだろう。
「一列に並んで。まだ水はたくさんあるから、焦ることはない」
 そしてその情報が伝わるや、諏訪神社は人間や妖怪で溢れ返った。人間だろうが妖怪だろうが、水がなければ生きて行くことなどできぬ。
「人間はこっち、妖怪はこっちに名前を書く。水は一人柄杓三杯までだ」
 鳥居の下で、慧音が来訪者たちを整理し、蓮池では、妹紅と早苗が水を配る。早苗一人ではとても荷の勝ちすぎる仕事であったが、人里の人間たちを救うためとて、慧音と妹紅は諏訪神社に泊まり込んでいた。

「実際、あとどれくらい持ちそうだ?」
 もう日も暮れ、三人は社務所で夕飯を突いていた。水を配るのは、一日の終わり、夕方過ぎのみと決め、それ以外の時間は神社への立ち入りも禁じていた。全て、慧音の指図の元にある。
「持って半月ね。いくら水が途切れないとは言え、一日三滴じゃ雀の涙。それ以上はきついと思うよ」
 そして、社務所はさながら、渇水対策本部という様相を呈している。夕飯を摂りながらも、三人とも真剣な表情を崩しはしない。その夕飯も、極めて質素なものだ。
「それに、一番湖に近い集落ではコレラで死人が出てる。どの集落でも赤痢やコレラの患者がいるから、出来るだけ早く清潔な水ができるだけ必要よ」
 茶を啜りながら妹紅は話す。
「このままでは集落単位で人が死にかねないか。諏訪の神様はどうなってるんだ?」
 状況の悪さを再認識させられた慧音は、御飯を口に運びながら早苗の方へ向いた。
「八坂さまも、山の守矢神社に籠ったまま出てきません。明日でも山の方に戻って、八坂さまに雨を乞うてみましょうか」
 早苗の言葉に、二人は頷いた。尽くせる手は、様々に打っている。もはや神頼みするしかない。


 早苗の問いに、神奈子はにべもない。相変わらず、自分にはどうすることもできない。私に雨を降らせることができるなら、すぐにでも降らせると、前に聞いた時とほとんど変わらぬ答えを返すだけだ。それでもなんとか、と言った早苗に、神奈子は声を荒げた。曰く、早苗は神を信用しないのか。できないことはできない、と。早苗は、頭を下げて謝ることしかできなかった。

 何一つ収穫はなく、早苗は守矢神社から人里へと引き返していく。白狼天狗の警備は、だいぶその数を減らしているようであった。水利の良い人里ですら、もはや水不足に手も足も出ぬ状況であるのだから、水を得にくい山の中に住む天狗は、かなりの影響を蒙っているようだ。
 しかし早苗の目に、そんな山の状況は入らない。彼女はただ、神奈子の態度についてだけを考えていた。そもそも、神奈子が早苗に向かって声を荒げることなどほとんどない。早苗に対して神奈子は頗る甘く、例え酷い失敗をしようとも、怒りもせずに慰めてくれる。それだけに、今回の出来事は早苗にとって衝撃が大きい。自分がそれだけ神奈子を傷つけてしまったのかと思うと、悲しくなるのだ。今回の問題に頭を痛め、心を痛めている神奈子に、早苗を許容するほどの余裕がなくなっていたのではないだろうか。神奈子だって信仰してくれる者たちを救うために努力してくれているのかもしれない。
 よく考えてみれば、普段なら神奈子も諏訪子も、よく人里の諏訪神社に来ていたはずなのに、旱魃の気配が見えだしたころから、一度も来ていない。これは、あの二柱が、この旱魃を予測し、阻止すべく努力し、こちらに来る暇がなかったということではないだろうか。
 それなのに、自分はそんなことを意に介さず神奈子を責めてしまったかもしれない。自分は、諏訪の風祝であるにも関わらず、自らの神を不用意な言葉で傷つけてしまった。
 そんな罪悪感にとらわれながら、早苗は人里の背後の丘に建つ諏訪神社へと向かい、一直線に飛んだ。



「霊夢、梅雨の段階でおかしいと気付いていながら、どうしてあなたは動かなかったの」
「動くのは危険だと思ったからよ。御蔭で今酷い目に遭ってるけど」
 博麗神社本殿の縁側に腰掛け、霊夢は虚空へ口を開いた。霊夢が言葉を向けた先には、忽然と現れた金髪の大妖怪が頭だけを出している。
「もう、幻想郷どこに行っても水はない。あなたの見たとおり川の水はとうに枯れているし、紅魔館のある湖もだいぶ水が減って淀んできてるわ。これでも霊夢は放置するの?」
 珍しく、紫は怒り気味の口調だった。いつもは感情を見せぬ言動しか行わぬが故に、霊夢には、紫の焦りが見て取れた。彼女は、幻想郷を最も愛する妖怪だ。今回の異変は、彼女にとって憂うべきものであるに違いない。
「なら、どうして紫は動かなかったのよ。別に私がいなくても、あなただけでどうにかなるじゃない」
「六月、七月と守矢神社に行ったり天界に行ったりしたわよ。でも、守矢神社では蛇神に丁寧にこの異変に対する対策を説明してもらっただけ。天界では不良天人と一戦交えてきたけど、関係なかったみたいよ」
 紫は、霊夢を睨んだ。どうやら、行く先を見失って、紫はここに来たようである。紫でもこの異変の元凶が分からなかったのか、と霊夢は少し不思議に思った。
「仕方ないわね。私もだいぶ危険を感じていたところだし、行くわ」
 霊夢は、腰を上げた。依然として"勘"はあまり芳しくない反応を示してはいるが、これ以上抛っておくわけにはいかない。対応せねば、自分の命も危うくなってしまう。
「それで、まだ行ってなくて、異変を起こしそうな所は?」
 あえて霊夢は聞いた。勿論、霊夢の"勘"は、行くべき場所を知らせてくれはする。が、とにかく勘はそこへ行くなと叫ぶ。紫に別の候補を挙げてもらいたかった。自らの勘が外れていることを、紫に証明してほしかった。だが、当然の如く、あなたの勘の赴くままについていくわ、と紫は答える。行く先を見失ったからこそ博麗神社に来た紫であるのだから、その答えは十分予測しうるものだったが、それでも霊夢にとっては、あまりに無常な答えであるといえた。



 慧音と妹紅が泊まり込みをはじめ、諏訪神社の蓮池を水源として利用するようになってから、早三日ほどが経過している。蓮池の水は確実に減りつつあり、同時に、淀みつつあった。もともと蓮が育つような泥質の底を持つ池である。水が減り、かつ流れが全くなくなってしまえばその水質は急激に悪化する。既に布で漉さねば使えないほどに、藻類が増殖している。
 そして、人里のどの集落にも疫病が流行り始めていた。川の水が枯れて以来、あちらこちらに溜まっている水質の悪い水を毎日飲料水としていれば仕方のないことである。やはり慧音の依頼によって、既に永琳や鈴仙が各集落を回り、治療して回っている。
 それでも、死者が出てしまうことを防ぐことはできない。既に、かなりの数の子供や老人が亡くなっている。すでに、飲料水の不足で体力の削られていた人間たちは免疫力も低下している。疫病の蔓延は、速い。
「だいぶ熱も下がったかしら。よかったわ」
 永琳の声で、早苗は眼を覚ました。
「あ、永琳さん」
「あら、起きてたの。どう、具合は?」
 早苗の額に手を乗せながら、永琳は微笑んでいる。
「だいぶ楽になりました。迷惑を掛けてしまって申し訳ありません」
 早苗もまた、赤痢に倒れてしまっていた。この旱魃に際して流行っている赤痢にしてもチフスにしてもコレラにしても、現代日本において感染することは極めて稀だ。ゆえに早苗はこれらの疫病に対し全く免疫を持たない。清潔な井戸水で生活するならともかく、病原菌が繁殖した水で毎日生活すれば、すぐさま倒れてしまっても、当然といえば当然だった。
「迷惑なんて被ってないわよ。今、回診を終えてきたところだから」
 永琳は笑みを絶やさず、早苗の額にある手を頭へと動かした。
「よく寝て、体を治しなさい」
 永琳は、早苗の瞼を閉じながら優しく言った。早苗は素直に、一眠りしようと目を閉じる。それを確認して大丈夫だと判断したのか、永琳は部屋を離れていった。人里は、二次感染もあって、完全な医師不足にあった。だが永琳は、どれだけ診療しようが決して病気をもらうことがない。腕も良く、決して倒れない医者ということで、多忙を極めているのだろう。それにもかかわらず、自分のためにここまで来てくれたのだ。本来ならば自分も、人々を救うために率先して働き、一人前とはならずとも半人前程度には、慧音たちや永琳たちの手助けをせねばならないはずだ。だが、これではお荷物ではないか。
 寝ようと目を閉じた早苗だが、目が冴えてしまっていた。そして、そんな早苗は、自らの不甲斐無さと向き合うことしかできない。
 早苗は、懸命に働いた二日間で多くの死を見つめてしまった。老若男女、多くの人たちが病に倒れ、死んでいくのを見つめた。死に触れることの少ない現代に育った早苗にとっては、全くの初体験である。一度に多くの人間が亡くなるのを見て、早苗は初めて、生の近くには死が常に存在することを認識させられたのだ。
 その上で、寝られぬ早苗はそれらの死の原因を自分に見てしまう。熱のせいからか、はたまた、初めての災害に精神の均衡を崩したのか、幾分早苗は自虐的思考に走っていた。もし自分がこの間、八坂さまの説得に成功して雨を降らせていれば、或いは、もし自分が、もっと修行して力をつけ、雨を降らせるほどの力を持っていたとするなら、このような悲劇を免れることができたのではないだろうか。
 実際のところ、早苗がどんなに努力をしても、結果が変わりなぞせぬのだが、早苗はそこに気づかぬ。今回が如き大旱魃は、もはや人の範疇にあらぬことを、早苗は完全に失念している。
 そして、早苗はさらに思考を進める。
 このような災害を防げないとするなら、こんな時にまったく役に立たないなら、現人神として信仰を集める理由とは、いったい何であろうか。自分の力とは、いったいどんな意義を持ち、どんな役に立つというのだろうか。信仰を集めるに足る能力なのだろうか。
 自らの能力にまで、早苗は疑問を持ってしまっていた。



「ここに違いないわ」
 結局、逃げようとする体を無理矢理引きずり、自らの勘に従って、霊夢は動いた。そして、やっと目的地に立っている。
「あら、私ここに来たって言わなかったかしら?」
 紫は、不審そうな目つきで霊夢を見た。だが、霊夢の勘は確かに、ここがこの異変の本質に近い、と告げている。
「そうね。でも、ここが怪しい気がするわ」
 霊夢は、目の前に広がる拝殿とそこにかかる大きな注連縄を睨む。そこには誰もいないようであった。拝殿の向こうで一位の木が、風にざわめいている。
「あら、幻想郷の"神様"じゃない」
 だが、誰もいなかったはずなのに、いつのまにか、拝殿上空で神奈子が姿を現した。神奈子は、二人を威圧し、睥睨する。
「何を言ってるのよ。私も霊夢も、神なんてもんになったことないわ」
「あれ、世界の維持なんて仕事請け負ってるから、てっきり神なんだと思ってたよ」
「何の話よ。それより、早く旱魃をどうにかしなさい!」
 霊夢は、神奈子の話を断ち切って言い放つ。そもそも、どうして紫と霊夢を彼女が神扱いしたのかなど、霊夢には理解できないし理解する必要も感じられなかった。
「あら、その話はもう八雲にしたはずよ?」
 二度も同じこと聞くなんて不思議ね、とでも言いたげな表情で、神奈子は応じる。だが、霊夢はその類稀なる勘で感じる。神奈子は、この旱魃に少なからず関係している、と。
「いや、絶対に貴女はこの旱魃に関係しているに違いないわ」
 故に、霊夢は断言した。第一、正一位の神に勝る力を持つ者が、この幻想郷のどこにいるというのだ。
「貴女の影響すら排除して、天候を操れる者なんていないもの」
 御祓棒を突き付けた霊夢に、神奈子は苦笑を浮かべる。
「流石は、これまで幻想郷の均衡を維持してきた"神子"ね。大妖怪は騙せても、貴女は騙せなかったか……」
「貴女って人は! この私を騙してまでこの旱魃を継続させるなんて!」
 紫は、完全に怒りを顕わにした。自分が騙されていたこと、そして、幻想郷を完全に滅ぼさんとしている旱魃の元凶が、このように平然と自分を騙して逃れていたことが、許せなかったようだった。
「ちょっと待ちなさい。一つだけ言っておくけど、私は旱魃の元凶ではないわ。あくまで、その原因を知っているというだけで」
 相変わらず、神奈子は不敵な笑みを浮かべたまま、二人を見渡す。
「なら何故止めないのよ」
「私には止められないからよ」
「だから言っているじゃない、貴女の影響すら排除して、天候を操れる者が幻想郷のどこにいるのよ」
 霊夢は、神奈子を見上げながら反論を繰り返す。騙していたことまで露見しているにも関わらず、どうしてこうも嘘をつきとおすのか。霊夢にはやはり、理解できない。
「あんたたちが知らないだけで、いるのよ。貴女達もこの件からは退いた方がいい。貴女達に解決できるようなものではないわ」
「私たちを煙に巻こうとしても無駄。とっとと、自分の犯した罪を認めなさい」
「霊夢、無駄よ。こういうのは、痛い目に合わせないとわからないんだから」
 そんな霊夢を押しとどめたのは、紫だった。拳をきつく握りしめ、全身に妖気を纏って、神奈子を見上げた。
「必ず、あいつを撃ち落として旱魃を終わらせる」
「やる気なら仕方ない。相手しようじゃないか」
 神奈子もまた、凄まじき神気を全身に纏い、身構えた。


 スペルカードルールとは、種族間の格差を埋め、対等に勝負できるように作られたルールである。それ故、神である神奈子と妖怪である紫、そして人間である霊夢とは、みな同じ地平に立って戦うこととなる。さらに言えば、依然としてそれほど弾幕合戦に慣れていない神奈子よりも提案者である紫のほうが、そしてスペルカードルールの下で様々な異変を解決してきた霊夢のほうが、慣れの点ではるかに勝っている。
 故に、紫と霊夢の二人が圧倒的な試合展開を見せるのは、至極当然のことである。当然のことではあるのだが、あまりの歯ごたえのなさに、霊夢は不審を覚えた。周りの連中に言わせると"絶対"であるらしい霊夢の勘が、この一方的な試合に違和感を主張している。
 既に弾幕合戦も佳境に入ってきている。紫は三枚、霊夢は四枚のスペルカードを消費し、神奈子を圧倒したまま試合を維持している。しかし、考えても見れば、神奈子は未だ二枚のスペルカードしか切っていないのだ。そして、そのいずれもが、どちらかといえば、守りに入るタイプのスペルカードであった。力の点では他に勝る神奈子の持つスペルカードは、本来、多分に攻撃的なものが多いはず。
 だが、霊夢はそれに構うこと無かった。例え神奈子が、こちらに対して手加減していようと、神奈子を押し切って屈伏させてしまえばいいのだ。何をしようがルールの中で勝てばよいのだから。
 結局神奈子は二枚しかスペルカードを使わぬまま、紫と霊夢に対して白旗を上げた。あまりの呆気なさに、二人は拍子抜けした。

「私たちが勝ったわね。それじゃ、早く雨を降らせて」
「だから無理だと言っているじゃない」
 二人が詰め寄っても、神奈子は首を縦に振らなかった。負けたのだから素直に言うことを聞け、と言っても、できないものはできないのだ、と突っぱねる。ルールを守れ、と言おうが、貴女は風の神なんでしょ、それぐらいできなくてどうするの、と言おうが、できない、の一点張りだった。
「ちょっと、本気で幻想郷を滅ぼすつもり?」
 神奈子の腰の重さに、霊夢はとうとう怒りを顕わにした。しかし、それに対しても、神奈子は特に反応を見せなかった。
「本当にあなた風神なの? 雨一つ降らせられ……」
「やめなさい。霊夢」
 神奈子に詰め寄らんとした霊夢を、紫は片手で制した。
「この旱魃はあなたのせいではないということね?」
 制しつつ、紫は神奈子に訊ねる。それに神奈子は、憮然としたまま、何も言わずに縦に首を振った。
「それではいったい何故……?」
「こんなこと、妖怪にできることではないよ。それに、妖怪に利点はない」
 二人から目をそらしたまま、神奈子は告げた。ならば何だ、と顔を見合わせた二人に、神奈子は面と向かった。
「あんたたち、人間と妖怪ばかりを気にし過ぎてはいないかい?」

 二人が去って行った方向を見つめて、神奈子はふ、と溜息を突いた。流石は博麗の神子。元凶がどこか見切っている。だが、だからこそ、神奈子は二人を止めたかった。どうせ異変解決なんて、成らないのだから。そもそも、あの二人で解決できるのなら、とっくに自分が解決して、旱魃なんて終わらせている。友人や恩人、信者、なにより、早苗のいる幻想郷が壊れていくのを見つめるのが、嫌になっている。
 それでも神奈子は、わずかな希望を持って、二人の後姿を見つめていた。



 異常な状況下に置かれたとき、人間の精神もまた、異常状態となる。旱魃という極限状況にあって、人里の人間たちもまた、精神的に極限を迎えていた。そして、その精神は、どこかに向かって暴発する。
 彼らの場合、その先は諏訪神社だった。なぜ諏訪の神様は救ってくれないんだ。これだけ、雨の祈願をしているじゃないか。考えても見れば、このような旱魃に際しても水がある方がおかしい。もしかして、諏訪の神様が旱魃を起こしたのでは? そうだきっと、これは自らが強者であることを宣伝するために、あの諏訪の神様たちが仕組んだ罠なんだ。
 幻想郷に住む人間も、所詮、明治時代の意識を持つ人間たちである。古代の人間ほど神様に対して恐ろしさを感じはしない。それこそ、"困ったときの神頼り"にすぎない。
 そうして、彼らは諏訪神社に押し寄せた。もう許せない、あの巫女も共犯だったんだ。ならばあの巫女を生贄にして、雨の神様に捧げてみよう。あれだけの力を持ってるんだ。きっと効くに違いない。

「待て、早まるな。落ち着いてまずは話し合うことが……」
「こら、入るな。ちょっと、一体なにを……」
 早苗は、外の喧噪に目を覚ます。まだ外は暗い。だが、障子の向こうで、いくつもの松明が掲げられてるのが確認できる。
 早苗はまだ熱っぽかった。頭も曖昧模糊として動きが鈍い。障子の向こうが明るいことに気づいても、それが異常であると認識するには相当の時間を要した。
「……あれ?」
 早苗がつぶやくと同時に、乱暴に板を踏みつける音が響き、続いて障子が叩き壊された。
「いたぞ、旱魃の元凶はここだ!」
 いつのまにか、部屋の隅に押しやられ、障子との間に慧音と妹紅とが立っていた。その向こうから、わあわあ、という歓声が聞こえる。大勢の人間が、早苗のいる部屋に向かってくるようだ。
「慧音先生。どいてください。そいつは旱魃を引き起こした奴等の仲間です」
 槍を構えた青年が言った。人里の人間たちは、皆武器を握っている。刺股に始まり、槍に刀に弓、火縄銃に果ては後装旋条銃に至るまで、さまざまな武器が、そこらじゅうでちらついている。
「冷静になれ。どうして諏訪の神様がこんな旱魃を起こさなければならない。諏訪の神様のせいではないだろう」
 慧音は、縁側に詰めかけた人間達の前に仁王立ちし、睨みを利かせていた。既にあの帽子はなく、あちらこちらに傷が見えたが。
「なら、どうして諏訪の神様は助けてくれないんだ。祈願してもちっとも雨は降らねぇ」
 そうだそうだ、という声。ようやく、早苗にも状況が理解できてきた。人間たちの怨嗟が、早苗に押し寄せてきていることに気づく。
 早苗は、全身に恐怖を覚えた。大勢の悪意が、早苗の体を押さえつける。人間全員の悪意は、早苗の動きを完封するに足るだけの力を持つ。早苗は、指一つ動かせなくなった。
「大丈夫。慧音が何とかしてくれる」
 早苗の様子が変わったことに気づいたのか、しゃがんだ妹紅が背を向けたまま、早苗を励ます。その言葉はとても優しげなものであったが、幾分緊張がこもっていた。
「きっと、諏訪の神様にも考えが」
「慧音先生。五つの集落で一体何人死人が出たと思っているんですか。もう諏訪の神様を許せません。これは人里の総意です」
 慧音は言葉に詰まった。慧音にも、諏訪の神が一体何を考えているのかが理解できていない。早苗の話だけでは、旱魃の元凶でないことすら怪しいのだ。その理解で、彼女たちを擁護する方が難しいといえる。
「さあ、どいたどいた。この巫女を川上の滝壺に投げ込むぞ」
「慧音先生。最後通告です。退いてください」
 慧音に、人間たちの得物が向けられた。慧音と妹紅の緊張が高まる。いくら二人が圧倒的な力を持つとはいえ、人里にだって異能を持つ人間がいる。それに、刀槍ならともかく、銃を使われては、空しく蜂の巣になるしかない。
 その状況においても、早苗は動けなかった。敵意が早苗の体に恐怖を呼び起こし、恐怖が早苗の体を縛りつけていた。
「なら仕方がない」
 あちらこちらから火縄の煙が上がっている。全てで八丁というところだろうか。まったく気配のわからぬ後装旋条銃も合わせれば、二人を絶命させるに十分な数である。いくら妹紅が不死身とはいえ、復活している間に早苗は連れ去られ、生贄にされてしまうだろう。それはまずい。
「くっ」
 万事休した、と慧音は後ずさりした。妹紅も、より姿勢を低くし、攻撃態勢を取る。
 だが、鉛の玉は飛んでこなかった。三人を誅さんとした人間たちは、一様に、空を見上げたまま固まっている。
「とりあえず落ち着きなさい。嫌だというなら、私が相手するわ」
 早苗にとって聞き覚えのある声が響いた。だが早苗に、外の状況は全く見えていない。目の前の妹紅もまた、完全に固まっている。早苗にとって、外の状況はその声によってしか分からない。
「そうだ。落ち着け。早苗を生贄にしたところで、雨が降る保証はない。むしろ諏訪の神様を怒らせるだけだ」
 その声に続いて、慧音が畳み掛けるように説得を試みる。
「ひとまず武器をしまいなさい。話はそれからよ」
 妹紅の向こうに、右手に弓を持ち、微笑みながら参道に降り立つ永琳の姿が見えた。微笑んではいるが、人間たちを引かせるだけのものを持っている。纏う神気が、尋常ではない。
 慧音も縁側から参道へと降りる。妹紅も、緊張を解いて早苗の枕もとに座った。早苗の視界が開ける。境内の中が、見渡す限り人間で埋まっていた。そして、目の前の参道に空白があり、その中心に永琳が忽然と立っていた。
「それでは、永琳さまにお尋ねします。諏訪の神様は救ってくれないのでしょうか」
 発言したのは、最も川上の集落の長だった。手に槍を抱えたまま、永琳を睨んでいる。例え恩人・永琳だろうと、容赦はしない、と態度が明示している。
「あなたたち、神さまを本当に祀っているの?」
「もちろんです」
 長は即答した。ほかの人間たちも一様に頷く。慧音ですら、彼らは御祀りを欠かさない、とつぶやいた。
「諏訪の神様はきちんと神徳を発揮してくださいますから」
「それが、間違いではないとは思わないのかしら?」
 それだけに、永琳の問いは、その場にいる全員を混乱に落とし込んだ。御祀りを欠かさぬことが間違い?
「あなたたちは、あくまで神徳の為にしか御祀りしてない。きっと、神徳を発揮するような"見える"神しか信じていないんでしょう」
「神徳を発揮せぬ神など、存在するはずがないでしょう。神徳を発揮できぬのは、神とはいえません」
 すぐさま、人間の一人が言い返した。だが、永琳は表情一つ崩すことはなかった。
「神とは、祟る者よ。神徳はあくまでおまけにすぎない。それ目的に信仰するのは筋違いじゃないかしら」
 弓を片手に、永琳は、上を向く。莫寂とした鎮守の森の木々の間から、木漏れ日がわずかに差し込んでいた。



 例えば、そこの木。そこの石。そこの淵。そこの沢。そこの滝。そこの峠。あらゆるところに神は存在する。だが、人間や妖怪に認知できぬものも多い。神奈子や諏訪子、雛、秋姉妹のいずれもが、人間に近い部分を多分に有しているが故に、人間にも理解し、知覚できるに過ぎぬ。もとからそこに"在る"ような、極めて純粋な"神"とは、形を持つことがない。その存在は、人間や妖怪に理解できず、よって知覚することもできぬのだ。
 古代以来、この日の本の人間たちは、理解できないなりにそれらの神々を信仰した。様々な祟りを受け、その度に神々を祀り、崇め、祟りを逃れようとしたのである。
 だが、中世・近世と時代がすすむと、人々はその信仰心を忘れた。形なき神より形ある神を、そして人間を信じるようになる。理解できぬものを排除し、理解できるものを信仰するようになったのだ。
 同時に、様々な祟りに対して、人間は超えるに能う力を得る。洪水に対しては堤を築き、旱魃に対しては灌漑を行う。地震に対しては建築技術で対抗し、疫病は衛生環境整備で撲滅する。
 祟りを克服されてしまえば、"見えぬ"神々は信仰を失うしかない。そうやって、形なき神々の存在は隠れてしまったのである。
 しかし、消えてしまったわけではない。土着神たる彼らは、忘れ去られた神の座で、ただそこに"在った"のである。祟る力すら失いながら。
 そして、来るべき時は来る。
 信仰を得た、土着神の長が、幻想郷に現れた。



「あれ、もう来たんだね」
 諏訪湖の上空。蛙神が一柱、ふわふわと雲の如く浮かんでいた。
「ええ。やはり、この異変は諏訪に関わってると思ったから。どうやら、人間でも妖怪でもないものが関わってるらしいし」
 霊夢は、諏訪子を睨む。湖の水位は、通常と全く変わっていない。これは、異常だ。
「神奈子の奴、余計なことを」
 諏訪子のつぶやきを逃す二人でない。霊夢は針と札を取り出し、紫は結界を敷かんと身構えた。
「あなたが元凶だったのね。一体、何人の人間と妖怪が困らせるつもり?」
「だから?」
 霊夢の言葉に、諏訪子は表情一つ変えなかった。
「だから、ってあなた。幻想郷の妖怪と人間の命をなんだと思ってるの?」
「幻想郷を滅ぼすつもりかしら。なら、容赦しないわよ」
 その反応に、霊夢と紫は食い付いた。外来の神に、この幻想郷を滅ぼされるわけにはいかない。
「特に何とも。妖怪と人間は死ぬもんだし。幻想郷は滅ぼさないから安心しなよ」
 だが、二人の予想しうる発言とは全く違う発言を、諏訪子は平気でする。
「は……」
 あまりの発言に、二人は声を失った。
「勘違いしないでほしいね。私は土着神の頂点に立つ神だ。世界の均衡を保てさえすれば、人間も妖怪もどうでもいいもの」
 二人には、もはや発言する気力もない。この諏訪子という神があまりに違う存在であるということを改めて認識させられ、理解に苦しむしかないのだ。
「……だからって、人間や妖怪をバタバタ殺していいわけじゃないでしょうが」
「何言ってるの? バタバタ薙ぎ倒してこそ神でしょうが」
 あまりに、諏訪子の言葉は酷い。彼女は、人間も妖怪もなんとも思わぬ、無情の者に違いあるまい。そんな者が、平気で幻想郷を傾けている。紫には、それが許せなかった。結界を張り、中の均衡を保つべく維持を図り、全て自分で作り上げた世界。それが幻想郷である。なのに、この神は一人で破壊しようとする。これに怒らず、何に怒るというのか。
「妖怪が均衡を崩せば妖怪を狩る。人間が均衡を崩せば人間を狩る。それが神だよ。あんたたち、何か勘違いしてるんじゃない?」
 諏訪子は、驚くほどに冷淡である。その、少女の如き姿と彼女の態度とは、とても釣り合わぬ。
「そして信仰を失えば、その力の全てを尽くして人間と妖怪を狩り、自らの力を見せつける。神ってのはね、そういうもんなのさ」
 再び、諏訪子は二人のほうを見る。その表情はとてもあどけなく、とてもさっきの発言と噛み合わなかった。
「神はね、基本的に祟る存在。祀られることで、その祟りを下ろさないで猶予するに過ぎない。今、妖怪も人間も見える神しか信仰しない。だけどね、本当に純粋な神というのは、神以外には理解も知覚もできない存在。幻想郷の者たちはみな、そういう存在を忘れていた」
 状況にそぐわず、淡々と諏訪子は説明する。霊夢も紫も、既に完全に攻撃態勢を整えているのだが、隙を見つけられなかった。実に飄々としながらも、諏訪子はその力を発揮していた。
「そういう土着神たちは、これまでずっと雌伏してきた。なにせ、祟りを起こすほどの信仰もなかったから」
 諏訪子は、帽子のつばを人撫でした。いかにも余裕のある、という態度に、二人はますます怒りを膨らませる。
「だけど、私が来て変わった。なにせ、私は本来的に、そういう土着神を纏める神として、信仰をもらうのだからね。土着神も、私を通じて少しの力を得られた」
 諏訪子は、湖全体を再び見下ろした。それでも二人は、諏訪子に隙を見つけられなかった。
「同じように、私に付いてきたのに信仰の得られなかったミシャグジ達も、私を通じて少しの力を持っていた。そこで、幻想郷の土着神とミシャグジは結託して、自らへの信仰を得るべく決起したのさ。"見えぬ"神々の力を見せつけ、信仰を復活させるためにね」
「ふざけないで」
 紫は叫んだ。
「そんなことで、この幻想郷を破壊しているの」
「そんなこと、とは笑わせるね。あんたこそ、神をなんだと思ってるの?」
 だが、怒りに燃え、膨大な妖気を噴き出す紫に対して、諏訪子は冷やかな眼線を浴びせる。
「あんたはここを"自分の思い通りになる縄張り"だとでも思ってるらしいけど、そうじゃない。そもそも、土着神の存在を無視し、妖怪のくせに神の真似事をして一つの世界を作り上げ、均衡を保とうとするほうが無理」
「幻想郷を否定しようというの?」
 紫の体は、すでに紫電すら散らしている。あまりの妖気に大気が悲鳴を上げているのだ。霊夢ですら、耐えるのが精一杯のものである。だが、諏訪子は素気ない。
「いや。助けてもらった恩があるしね。でも、神を忘れて神の真似事なんてしていたあんたたちは、祟りを受けて然るべきだということを認識すべきだね」
「外来の神が何を言うの! 所詮外で信仰を得られなかった奴が」
「ああ、当然わかってるだろうけど」
 諏訪子は、何かを思いついたように目線を上へやり、それから二人を見た。
「異変を起こしたのは、この幻想郷にはるか昔から、あんたらが住むよりずっと昔からいた土着神と、亡命先の幻想郷で冷遇されたミシャグジ達だ。私は、承認しただけで何の手も出してないもの」
「誰だろうと、幻想郷を壊す者は決して許さない。存在までも消し飛ばしてやるわ」
 だが、紫が攻撃態勢を取ると、諏訪子の姿は掻き消えた。
「その態度が、神を軽視している、っていうんだよ」
 酷薄な声を最後に、諏訪子は気配すら消失させた。代わって、激烈なる敵意が、湖より押し寄せる。
「……まさか」
 諏訪湖全域から、神気を感じ取る。そして、殺意を感じるのだ。非力の身で神に逆らうとは、おこがましい。妖怪だろうが人間だろうが、神に刃向うものは、一人残らず消し飛ばしてやろう、という。
「来るわ!」
 霊夢の勘は、動けと命じる。それに従った刹那、巨大な弾が霊夢の袖だけを切り裂いていった。紫もまた、帽子を別の弾に吹き飛ばされていた。
 そして、その弾を皮切りに、諏訪湖全体が鳴動した。続いて、諏訪湖を埋め尽くすほどの数の弾が、二人を襲う。
「これは……」
「あいつ、完全に殺す気よ」
 紫と霊夢と、これまで異変を解決しなかったことのない二人が、完全な戦闘態勢に身構えた。
 澄み切った青い空の光を受けて、湖も、満々と湛えた水を、曇り一つない真っ青に染めていた。


 霊夢にしても紫にしても、自らの力に自信はある。幻想郷をこれまで守り続けてきたという自負もある。それだけに、負けは認められない。
 だが、"見えぬ"神々の力は、あまりにも圧倒的であった。否、本来の実力差がそのまま表れてしまったというべきかもしれぬ。神とは、如何なる物をも罰するだけの力を持ってこそ、"神"たりえるからだ。
 ゆえに、二人の勝ち目は最初からほとんどなかったといってよい。四重結界と二重結界を重ね掛けしたところで、持つのは数瞬。攻撃しようにも、全てを弾幕にかき消されてしまう。紫が隙間を展開する暇もない。
 いくら抵抗しようが、何一つとして策は見つからない。そう考えている間にも、体中に傷は増え続ける。もはや諏訪湖全てが完全に弾幕で埋め尽くされていた。三次元的に弾幕に包囲されている二人は、諏訪湖上空から出ることすらままならない。
 二人とも、既に全身血だるまと化している。致命傷となる弾幕を避けるために、致命傷とならない弾幕を片端から身に受けているのだから仕方あるまい。それでも、勝つ希望など微塵も見えてこない。いくら避けようとも、このままでは、狩られる時間が遅れるに過ぎない。
 無言のまま、絶望的な展開は続く。身を削り、避けども避けども、決して弾がなくなりはしない。次から次へと、諏訪湖全体が弾を吐き出す。そして、行き過ぎた弾は戻ってくる。二人が幻想郷有数の実力者であるが故に、生き残っているにすぎなかった。

 そうして、とうとう時は訪れる。どれか一つの弾の射線が致命傷を作ってしまう。そういう状況に、霊夢はいつのまにかに置かれていた。
 その刹那に、霊夢は覚悟する。きっと、勘がずっと逃げろと伝えていたのは、こういうことだったのだ。考えても見れば、ここまで生きていたのだって奇跡だ。ここまでズタズタにされたのなら、死んでも仕方がない。

 だが、まさしく霊夢が絶命せんとした時、唐突に弾はすべて消えうせた。一つ残らず。
「御苦労さま。言ったでしょ、神が人や妖怪を狩るなんて造作もない、って」
 ズダボロの二人の正面に、無傷で諏訪子が浮いていた。だが、二人に攻撃を加える力なぞ残っていない。体を支えるので、精一杯である。
「あんたたちを殺すと、均衡が崩れるから殺さない。とっとと帰りな」
 諏訪子は、右手の人差し指で鉄輪をクルクル回しながら、二人に告げた。要するに、あんたたちは負けたんだから、引き下がれ、と。
「幻想郷を滅ぼすほど神々は馬鹿じゃない。せいぜい、人と妖怪の数がそれぞれ半分くらいになるところで止めるんじゃないかな。なにせあいつらの目的は、神の恐ろしさを再度植えつけることだからね」
 諏訪子は、輪を回しながら、笑った。二人には、その笑いは、理解できぬだけに非常に怖い。
「それに、もし滅ぼしそうになったら」
 だが、そんな二人の反応も、諏訪子は意に介さない。諏訪子は、回していた鉄輪を湖に向かって投げつけた。水面に着水するや、轟音とともに龍と見紛わんばかりの大きな水柱が立ちあがる。
「私が成敗してやるよ」


 紅に染まった二人は、這這の体で何とか神社に戻った。互いに無言で、支えながらなんとか戻ってきたのである。そして、神社本殿に着くや、そのまま倒れ込んでしまった。
「霊夢、紫さま!」
 すぐさま、藍が駆けつけてくる。藍は、幻想郷の水確保に走っていたために同行できなかった。出先で二人が戦いに出たと聞くや、取るもとりあえず博麗神社に駆け付けたのである。
「一体、これは……」
「藍……」
 部屋に転がっている紫を抱え上げた。あっという間に藍の道士服が紅く染まっていく。
「とにかく、今すぐ手当を」
「私より、まず霊夢が先よ。私はなんとかなるから」
 藍は躊躇った。自らの主が、目の前で倒れている。声もとてもか細く、とても紫とは思えない。
 だが、主の頼みだ。それに、主たる紫は妖怪であるが、霊夢は人間だ。放置しておけば死んでしまうかもしれない。
「わかりました」
 言われれば、仕事は早い。手当の道具を棚から見つけ出すと、至極丁寧に、霊夢の傷に軟膏を塗り、包帯を巻いていく。
「しかし、一体誰に? 紫さまが敗れるほどの実力者、花の妖怪か閻魔か薬師か」
「神よ」
 藍の純粋な疑問に、紫は一言だけ、悔しそうに答えた。
「神?」
「ええ」
 それだけ言って、紫は目を閉じた。これ以上話しているのは、体力的に厳しい。藍には後で詳しく説明しよう、と紫は思った。

 初めての、異変解決失敗であった。紫はこれまで、山奥に自らの縄張りを築き、そこを桃源郷とすべく立ち働いてきた。そうして、この幻想郷をここまで広げることができたのだ。均衡を保つ者として、人間側に博麗の巫女を置き、妖怪側を自分が勤め、幻想郷を守り続けてきた。
 にも関わらず、今回かの蛙神を、自分は倒すことができなかった。幻想郷を破壊せんとする元凶を知りながら、何もできぬという無力感を、紫は全身に浴びる。そして、自らに対する怒りが込み上げた。あのような、外から来ておきながら、幻想郷の主が如く振舞う蛙神を誅伐できぬ自らの力の無さが、恨めしい。
 紫にとっては、神など存在しない。幻想郷では、紫が神である。自分より強い者が、紫の幻想郷に居てはならなかった。



 最初に駆け巡ったのは、全身を真紅に染めてよろよろ帰還する霊夢と紫を見た、という情報だった。次に、二人が、神社で完全に伏せっているという噂が立つ。
 そして半日も経たぬうちに、天狗の新聞以下、様々な場所から、霊夢と紫が異変の解決に失敗した、という情報が溢れだす。その情報は尋常ならぬ速さで幻想郷を駆け巡り、幻想郷の住人たちを絶望の内に落とし込んだ。これまで不敗を誇っていた彼女たちが失敗したなら、誰がこの異変を解決できようか。
 とりわけ、人里の人間たちはその情報に絶望し、狂乱した。このまま旱魃が続けば、全滅しか途がないのだ。
 その日の夕方、諏訪神社の境内において人間の代表たちによる会議が行われた。この旱魃はもはや、幻想郷始まって以来の大災害に発展している。彼らにとって、これを如何に生き残るかは、とても重要な問題であった。
 一晩にわたって、彼らは議論を戦わせた。ある者は、紅魔館のある湖畔に移住し、水を確保しようと訴えた。ある者は声高に、幻想郷から出ることを主張した。また、上流にあたる妖怪の山に突撃し、水源を奪い取ろうと叫ぶ者もいた。このままなるがままなるしかない、とすっかり諦めた顔で悟ったように呟く者もいた。
 その中で、神を祀り直そう、と言ったのは、誰だっただろうか。彼は、幻想郷のあちらこちらで朽ちはて忘れられかけた神木・磐座・祠を見た、と主張した。その上で、そういう神々が怒っておられるのだ、今からでも遅くはないだろうから、祀り直そうじゃないか、と訴えかけたのである。
 一同はみな、あまりに突拍子もない話に唖然とした後、一笑に付さんとした。いくら緊急時とはいえ、諏訪大明神ならともかく、もはや朽ち果ててしまったような自然神に頼って何となるのだ、と。だが、縁側でそれを聞いていた早苗が、彼らの前に出た。突然の風祝出現に驚く彼らを前に、早苗は口を開いた。
「諏訪信仰の中核は、そういう自然神であるミシャグジさまです」
 その言葉に、笑いかけた全員の表情が凍り付いた。
「普段は諏訪子さまが統制されてますが、そういう神々はたくさんいます」
 早苗もまた、拳を握りしめる。
「言われてみればそうだったのかもしれません。ここに住むだれもが、ミシャグジさまのような自然神を忘れてしまっていたから、神々が怒ったのでは」
 早苗の言葉は、人里の行動の方針を決定づけた。あの天才薬師・八意永琳も、そんな祟り神に言及していた、という声が挙がった瞬間、人々は神の怒りの存在に震えあがった。

 翌日から、人里の人間たちは、回りの山、川、道、原、ありとあらゆるところにこじんまりと祀られる神々を祀り直し始めたのである。同時に、早苗も行動を起こした。
 早苗の育った東風谷家は、明治時代に淫祀邪教として弾圧された一子相伝を、守矢家に代わって受け継いだ家である。そして、はるか神代より伝えられる守矢家の一子相伝とは、ミシャグジさまを祀る儀式に他ならない。
 早苗は、一子相伝の儀式を厳かに執り行い、ミシャグジさまの怒りをなだめたのである。

 これらの動きは、効果覿面であった。会議の行われた翌日、早苗が儀式を始めたころにはすでに空は曇天で灰色を呈しており、終わるころには土砂降りの雨となったのである。
「ふ、降った!」
「雨が降ったぞ!」
 雨の降り注ぐ諏訪神社は、人里の人間達の歓喜に包まれた。中でも、全身をずぶ濡れにしながら、儀式を無事に執り行った早苗は、多くの人間に囲まれ、感謝の嵐を浴びている。早苗自身も、全身に喜びを表して、ずぶ濡れも構わずに跳ね回っていた。

 慧音は、社務所の縁側に座り、茶を啜りながら、さながら祭りの騒ぎのような様相となった境内を眺めていた。
「神が戻って来たね」
 妹紅が隣で呟く。彼女の生まれた時代は、まだまだ神が力を握っていた時代であったようだ。
「私には、"見えない神"ってのは、ピンと来ない。ただ、辺りに祀られる神々が、怖ろしい物へ変わったとしかわからんな」
 慧音の答えは、幻想郷の人間たちの答えに近いものであった。いくら半獣とは言え、所詮数百年。妹紅と異なり、慧音の生まれ育った時代は、すでに"見える神"の時代であった。
「神ってのは本来、その辺りにうろついているようなものよ。これまで力のなかった神々が、あの諏訪子のおかげで力を取り戻したってわけ。そういう神々は、本来とても大きな力を持ってるのよ」
 妹紅は、祭り騒ぎの向こうに広がる鎮守の森を見つめている。様々な木が、久しぶりの雨に濡れている。風に揺られるその姿は、喜んでいるようにも見えた。
「本当に力のあるものは姿を持たぬ、ということだな」
「そ、『无形なれば、則ち深間も窺うこと能わざるなり』ってね」
「孫子か。詳しいな」
「そりゃ、"史"なんて名乗ってた男の娘やってたからね。"教えがいがある"とかなんとか言っちゃって、私に何でも教え込んだんだ」
 相変わらず、妹紅は動きを見せない。森を見つめているというより、過去を見つめているように、慧音には感じられた。
「それで、さ」
 妹紅の話を聞きながら、慧音は参道を眺めている。相変わらず、早苗が人里の人間たちに取り囲まれながら、狂喜していた。
「慧音は、この状況に対してどう思ってる?」
 どう? とすぐさま慧音は聞き返した。妹紅の意図することが、慧音にはまだ読めない。
「神が力を手にしたことで、幻想郷がどう変わっていくのかってこと。これって、良いことなのかな? 悪いことなのかな?」
「ふむ」
 妹紅は、真剣な表情で慧音の方を見ている。慧音は初めて、妹紅に正面から相対した。
「起きた事象の評価をすぐに行おうとする者は愚者だよ。そんなこと、時間が経たなきゃ分からないのだから」
 慧音は、あっさりと言い切る。それは、歴史家としての見解であった。時代ごとに、評価する者ごとに、取り上げた史料ごとに、事象の評価が変わることを、慧音は知っている。そして、その事象が後の時代にどのような影響を与えたのかなぞ、後の時代の者にしか分からぬ、ということも。
「ただ、ひとつだけ、言えることがあると思う」
 歴史家としての見解を最初に述べたうえで、慧音は、事象を目の前に見た者として、発言した。
「幻想郷はこれから変わる。幻想郷を保つために機能してきたものが、根本的に変わると、私は思う」






 旱魃の最も恐るべき事象とは、決して水不足でも疫病でもない。
 それは、食糧難である。

 養和元年、源平合戦のさなかに日本列島を襲った旱魃は、全国的な大飢饉を誘発し、鴨長明をして「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり」と書かしむる惨状を現出した。

 さて大旱魃によって、本来の収穫の七割を失った幻想郷がどのような状況に陥るかは、想像に難くない。当然、野生動物も激減していて腹を満たすには足らぬ。外との接触が完全に切断されている幻想郷では、外から食料を手に入れることもできぬ。農耕用の馬、牛、木の皮、雑草、藻、食べれるものを全て食べたとしても、幻想郷全域の妖怪と人間を養うには、食糧は足りなかった。
 冬を迎えると幻想郷は、養和元年の京もかくやという、壮絶な光景を曝したのである。

 人間は、弱い者から死んだ。ある者は餓え、ある者は病に倒れ、死んだ。
 妖怪で、飢え死にした者はいなかった。弱き者、弱った者から、他の妖怪に食われた。来年の食糧生産を担う人間を襲ってしまえば、この飢饉が慢性的な事態となってしまう。妖怪たちはそれを理解していたため、人間を襲わず妖怪を襲ったのだった。
 人間も妖怪も、生きるためにもがき、あがき、死んでいく。






 翌年の春までに、幻想郷の妖怪と人間は、半分に減った。
かみ【神】
①人間を超越した威力を持つ、かくれた存在。人知を以てはかることのできない能力を持ち、人類に禍福を降すと考えられる威霊。人間が畏怖し、また信仰の対象とするもの。
〔中略〕
⑤人間に危害を及ぼし、怖れられているもの

『広辞苑 第六版』



 日本では、元来そこらじゅうに神とは存在しました。ありとあらゆる場所に、人は神を見ました。
 それは、神達は自然の表象であったからです。先史のころ、人間が自然に対して抱いた畏敬こそが、そんな神々たちを育てました。ですが、今、自然とは"保護されるべき弱者"として認識されています。

 忘れていませんか? 自然に対する、そしてそしてそこに在る神々に対する畏敬の念を。純粋な人間が自然を見た時に持つ、原初の畏敬の念を。
 彼らが元来、祟り神であることを。
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