毎日昇る地上は、なにもまして明るく見える。漆黒の中に一つ浮かぶ、吸い込まれる程に碧い玉。
 若し届くならば、手に入れたい。
 そのように嫦娥は思っていた。


 一体いつからここに閉じ込められているのか、嫦娥の記憶はあいまいである。
 もうかなり長い期間に渡って、いくらかいる部下の兎以外の、顔を見たことが無かった。なにせ、彼女はもうここから出られないのだから。
 ゆえに、毎日空を見て過ごす。すると、おおよそいつも碧い玉が、そこには見える。満ち欠けこそすれ、ほぼ間違いなく、そこには地上がある。
 にやり、と嫦娥は歪んだ笑いを浮かべる。あの地上を手に入れるには、どうすればよいだろうか、と。

 嫦娥自身は、この月で生まれた生粋の月人。それも、ツクヨミの直系に連なる、高貴なる月人の中でもひときわ高貴な身分の生まれである。だが、その嫦娥にとって、月はつまらないところでしかなかった。月は不変の地。不変故に、長い生を生きていくことができる、ということだった。そしてそれを、月人はなによりも大切にしている。
 もし、何かを傷つけようものなら、大騒ぎである。曰く、ケガレは最も忌避すべきものなのだ、と。
 嫦娥からすれば、馬鹿らしくてならない。この世に在るもの、互いに影響し合って初めて成り立っているのである。その影響の中には、殺す殺される、傷つく傷つけられる、そういうものも入っている。そうやって影響し合って初めて、存在意義というものがある、そう思う。それは神だって同じだろう。人妖を傷つけ、また人妖を救い、人妖に祭られ、人妖に侮辱せられ、そうして初めて神はそこにいるということがわかる。
 その途上で変わるのもまた致し方のない話である。というよりは、そうして物事とは流転してゆくものなのである。そうした流転の中で、それぞれがより良い姿形を見出していく。そうして初めて、生きているという意味がある。
 故に、ものを少しでも傷つけることさえ厭い、安穏と不変を守ろうとする月人が、嫦娥には理解できない。どうしてこんなことを考え続けるのだろうか、と嫦娥は思っている。いつから思い始めたのかは、覚えていない。しかし、自分があくまで月の高貴なる姫であることを定義されていると気付いたことと、何か関係があったのかもしれない。
 どちらにしろ、嫦娥にとってはそんな昔のことどうでもよかったわけだが。

 かく考える嫦娥は、ある日願って地上へと降りた。これに、自称月の賢者を称する愚者・八意永琳は猛烈に反対したが、ツクヨミさえ説得すれば八意如き歯牙にも掛からない。あとは弟子の安否について少し言及してやれば、それで八意は黙り込んだ。


 降りた理由はただ一つである。地上の、征服。


 嫦娥は生粋の姫であった。生まれて以来ずっと姫であり、ツクヨミを除くすべての月人も、嫦娥に逆らうこと能わなかった。最初は、嫦娥もそれが聊か不気味に思えていた。自分は、殊更何かをしたということもなかったからである。
 しかし、やがて気づいた。自分は、そういう運命にあるのだと。"そうあるべき"なのだと。自分は、他の月人共とは異なる場所にいるのだ、と。
 そう思った時、嫦娥はもはや周りに気遣うことをやめた。同時に、彼女は思ったのである。
 この不変な世はつまらない。不変な月で、いつまでもこの身分にいるのはもったいない。もっと広い所に出て、私こそがこの世の至尊たるを見せつけようと。そしてこの世自体を、私のものとしよう。

 かくて、嫦娥は地上に降りた。蓬莱の薬とともに。


 結果的にいえば、嫦娥の地上征服は失敗であったと言える。弓の達人であった后ゲイに狙いをつけ、彼と組んだのだが、彼が存外に律儀な男だったのである。故に、その部下にして狡猾なる逢蒙と共謀して后ゲイを殺害し、今度こそと思ったが、その逢蒙は力量が足らなかった。嫦娥は、命からがら月へ逃れるのが精いっぱいだったのである。
 そのように地上を荒らしておきながら、無罪で済むとは嫦娥も思わない。故に嫦娥は、一つの策を用いた。

 蓬莱の薬を、飲んだのである。

 かくすれば、自分はもはや処刑されようが何しようが死ぬことは無い。月から追放されればこれはこれで占めた物。今度こそ、地上の支配を目指すことだってできる。
 蓬莱の薬を飲んだ、と豪語した時の八意永琳の苦渋の顔は、今でも思い出すと胸がすくようだ。あの賢者ぶった奴に、一泡ふかせられたのだから。

 誤算であったのは、月都の隅に押し込められてしまったことだ。月夜見がまさか、唯一の月の姫である私にこのような処分を下すとは、嫦娥も思っていなかった。
 なにせ、月の姫は至尊なのである。罪に問われること能わざるはずなのである。少なくとも、嫦娥はそう思っていた。
 おそらく、八意とやらの陰謀なのだろう。
 嫦娥は、八意の排除を堅く心に誓った。


 しかし、嫦娥は自分の身分を知っている。
 自分は、あくまで月夜見の元にいる、唯一の"月の姫"である。
 その身分であるかぎり、殺されることも追放されることも、おそらくない。自分が不死である以上、もう一度釈放されることだって十分考えられる。
 なにせ、月の姫なのだ。長く、閉じ込めておけるはずはない。月の姫を閉じ込めておくことそれ自体が、ケガレを生むことになりかねない、とそう思われているはずだからだ。
 偉神を不当な場所におくこと、それ自体が、祟りの対象であり、この月の勢力均衡を破壊する可能性がある。

 嫦娥は、それを知っていた。だから、こんな仕打ちにも耐えられた。
 不変の月で、しかもそのはずれで、いくらかの兎に囲まれるだけの生活。
 そんなひどい生活にも耐えられた。

 嫦娥は、笑う。
 一体、どのように、連中に仕返しをしてやろうか、と。





「嫦娥さまっ!」
 澄んだ地上と、濁った月の大地を眺める嫦娥に、兎の一声がかけられる。
「何事、うるさいわね」
「月夜見様のところに、つくよみさまの」
「なによ、さっさと言いなさい。串刺しにするわよ」
「赤子が生まれたとのよしにございます。お姫でございます!」
 なにを、いった?
「名は、カグヤ、と」
「は、はは」
 嫦娥は、笑うしかない。

 なんだ、姫が生まれた?
 月の姫が生まれた?

 それでは、私はどうなる? もう一人月の姫がいれば、自分の出番など、もう永久にめぐってこないではないか。
 自分の価値は、消えたではないか。
 そうすればあとは、この永遠の命を、この生活を、ずっと続けろというのか。
 ひたすら不変を寂しく続けろというのか。

「もう、無理、だ」
 かか、と嫦娥は笑う。兎たちが驚いている。なにに、驚くのだ。
 私は、月の姫だ、唯一の月の姫だ。





 あんな奴に、取られてたまるか。
 月の姫は、ここにしか、いないのだ。






「嫦娥さまのおつきの兎、大変ね」
「時々暴れるからね。話も通じない、いつも私は姫だとしかいわないしね」
「お疲れさまだね、まったく」
「それどころか、突然兎を殺して"ほら、私が支配者よ"とかいいだすの。やってられないわ」
「気を付けてね」
「いつまで、私も命がつづくか。」
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