〇 妖怪再会故朋於夢郷
 ――その妖怪は幻想郷にいたり、昔の友に再び出会った。

 店主なれば、客の動きには目敏きもの。この香霖堂の店主とてその例外ではなかろう。問われた彼女は改めて認識することとなる。
「『東坡(とうは)集』か」
 斯く尋ねる店主の目線は他の本へと向かっている。意識もそちらに集中していることが伺える。凡そ漢籍には興味を持たぬのだろう、と彼女は推測し得た。
「いえ、『東坡続集』ですよ。蘇東坡の書いたものに違いはありませんけれど」
 さらり、と彼の言を正しつつ棚に置かれたその本を手に取る。
「へぇ」
 やはり店主は殊更興味もないようで、気の無い返事が返ってくる。彼女もまた店主の言葉を流しつ、表紙を見る。明代辺りの木版本だろうか、と彼女は値踏みした。それにしては状態が良い。
「君はその本に何か愛着でも?」
 見回す彼女に、店主は問うた。本よりも彼女自身への興味と言う所だろうか。
「ちょっと思い出があって」
「へぇ、君は蘇東坡に会ったことがあるのかい?」
 店主の問いに彼女は、紅い髪のお下げを弄り、人の良さそうな苦笑いを浮かべる。
「蘇東坡にはあまり思い入れがないんですよ、ただ、内容が気になっただけで」
 彼女は再び開いた頁に目を落とす。紙面には整然と木版印刷の字が並ぶ。それらは一つ一つ個性をもち、屹と立っていた。









美鈴語燮(めーりんゆーしえ) 
  ――美鈴、燮と語るのこと。









一 吾宗祝為我祈死
   ――神主よ、私の為に死を祈ってくれ。

 周の簡王十二年、妖怪たる美鈴は范の城邑に異様な物を見た。人の住む城邑ともいえば、結界を幾重にも張り巡らし、妖の侵入を防ぐもの。内は澄気に満たさるるものなれば、妖が入れば則ち力を失い、狩られることとなる。美鈴ほどに妖力を持つ者ならば、話は別かもしれぬが。
 されど、この邑は異なる。否、異なるとは言えぬかもしれない。妖を排する結界は幾重にも貼られ、余程の妖でなければ入ること能わぬに違いあるまい。だが、その内なる空気が異様。妖の居らぬ筈の内から、それも最も聖なるべき祖廟より、穢れた空気が滲んでいる。
 美鈴はその正体を知りたくなった。力強き妖怪がおるならば、それを倒すのも一興。それ以外であっても、全く何もないというはずも無し。
 一度決めると動きは早い。未だ食し終わらぬ人の腕を右に持ち、城邑に入らんと飛び立った。いくら美鈴とて、厳重なる結界を越えるには荷が重い。だが、壁を越えられずともその入り口たる門を使えばよいだけの話だ。


 幽王の宗周にて弑されしより200年。中華の争いは収まる所を知らず、多くの国々が存亡を賭けて争っていた。後の世に「春秋時代」と呼ばるることになるこの時代、人々はただひたすらに生きることを望んで戦いに明け暮れた。
 この時代にあって、その力を示した国がある。それは南方の蛮族・楚である。周代中期以降より次第に勢力を拡大した彼らは、周の衰えるや南方を一統。中原をも喰らわんと触手を伸ばし始めたのである。
 この楚に唯一抵抗し得た中原国家が、晋である。晋は中原諸国の盟主となりて楚との衝突を繰り返した。何としても蛮族たる"楚"を排除せんと奮闘している。この范の町も、晋の邑だ。
 昨年六月にも北上してきた楚軍を、晋軍は(えん)陵にて叩き潰している。


 衛兵の目を欺いて邑に入った美鈴は、人の振りをしながら町の中を抜けてゆく。可愛い顔をして楚々と歩く美鈴の、持つ骨付き肉が人の腕であるなどと、誰が気付くことがあろうか。気を操ることを得意とする美鈴たれば、妖術の類を扱う者の多き都とて、見つかることなぞありえぬ。
 既に空は暗くなりつつあった。妖の時間を恐れる人々は家屋へ消えたようで、道も空いている。妖怪たる美鈴にとっては好都合であった。
 町を見物しながら歩いているうちに、目的地に辿り着いた。遠くから眺めていて違和感を覚えた一つの屋敷。この范の中心にある区画である。このような場所にある邸宅といえば、およそ范の領主の邸宅であるとしか思えない。すなわち、禍々しく染まりし祖廟は、紛れも無くこの范の領主の祖廟であるということだ。
 ますます美鈴は不思議に思う。何故、斯くの如く地位の貴き者の祖廟が、かくも穢れているのか。領主の祖廟とも申せば、禍々しさなどというものと最も縁遠いものではなかろうか。
 興味があるならば、入ってみるに限る。城邑同様、強固な結界が張られているが故に、容易に塀を乗り越えることはできぬ。されど、こことて門から潜りぬけてしまえばよいのだ。
 暫く待つと、中より男が一人、出て来る。彼が余所を向いたその一瞬に、中へと潜り込んだ。

 何事無く屋敷に潜った美鈴は、自らの感覚を頼りに目的地へと向かった。あれだけの強固な結界に覆われているからであろう、瘴気が逃げ場を無くして凝っているように美鈴は思う。妖怪たる美鈴こそ、心地よいとさえ思えるかもしれぬが、人にとっては凡そ不快に思えているだろう。
 間もなく美鈴は、それほど大きくない瓦葺の建物を見る。美鈴の探していた建物であった。異様な瘴気を噴き出す建物は、やはり紛れも無く祖廟であろう。大きくはないが、丁寧に手入れをされていることが美鈴の目からも伺える。祖霊の宿る場なればそれも当然といえた。
 美鈴は、早速建物へと入り込んだ。本来なれば痛いほどに澄んだ気に包まれるはず。故にいくら人の数倍を生きる美鈴とて、廟に入るのは初めてであった。内は暗闇に包まれて廟の中央のみが灯りに照らされている。その小さく暖かな灯りは却って、周囲の闇を一段と深めていた。
 廟の内には、壮年の男の声が響いている。それほど大きなものではないが、廟の中に響き渡ってどことなく荘重な雰囲気を感じられる。まるで祝詞か何かのように唱えられているが、これが祝詞でないことに美鈴はすぐさま気付く。妖怪にとって心地の良いこの声は、紛れも無く、呪詛である。
「誰ぞ」
 まもなく、美鈴に向けて言葉が発せられた。美鈴は少し驚き、動きを止める。
「誰も入れるな、と申したであろう。其処に居るは誰ぞ」
 先ほどの男の声である。少し低い所が威圧感を持っている。
 美鈴は改めて堂の中央を凝視した。中央には一人の人間が座っている。齢は40程だろうか、決して派手ではなく、しかし作りの良い服を着ている。
「何だか不思議だったから、来てみたのですよ。ちょっと普通じゃない雰囲気を見たので」
 美鈴が言葉を返すと、彼は黙り込んだ。暗さ故に美鈴はその表情を読み取ることはままならなかったが、何かを思考しているのだろう、ということは容易に伺えた。
「……妖か」
 幾ばくもせず、声が返ってくる。その声は、とても異形に会った声とは思えぬほどに冷静である。
「少なくとも、人じゃないですよ」
 全く動揺した風情を見せぬ彼に驚きながら、美鈴は言葉を継ぐ。
「こうして廟堂に妖怪が入ってきたというに、貴方は全く驚かないのですね」
「差し詰め、この穏やかならぬ空気に引き寄せられたのだろう。今更驚くべきことでもない」
 その発言からも、この廟が不祥なるを彼も理解しているらしい、ということが推測できる。
「この一帯の空気があまりに異様でしたからね」
「そうか」
 美鈴の答えに一言だけ答えると、彼はそれっきりまた暫く黙った。答えが返ってこないと、廟内が苦しいまでの沈黙に包まれる。だが美鈴も何一つとして言葉を発しはしない。骨付き人肉を齧りながら、彼の様子を窺っていた。
「時に、汝は名を何という?」
 彼が声を発したのは、暫くの沈黙を抜けた後であった。沈黙が恐ろしくて聞いたのか、それとも、考え合ってのものなのか、美鈴にはわからない。
「聞いてどうするんです?」
「此処で会ったのも何かの縁。名くらい聞いてもよかろう?」
 何を言い出すのかと思えば、名を聞く。もしや彼はどうしようもない好色家なのかもしれない、と美鈴は疑った。声を聞いて女性であることを知り、口説こうとしているのではなかろうか。
「……そうだな、私が先に名乗ろう。私は士叔(ししゅく)、今では晋の(けい)を務めてもいる」
 その言葉に、さしもの美鈴も驚いた。卿というのはつまり大臣である。慌てて美鈴は晋の六卿(りくけい)の名を思い浮かべ、士叔という男が六人中の上から二番目にいることを思い出した。六卿の中に士氏を名乗る者が他に居ないことを考えると、目の前にいる男はその士叔という男に違いあるまい。則ち、この男は晋の大臣の中では二番目の地位におり、公を含めると晋で三番目に偉い男である。そして晋で三番目に偉いということは、周王を含めて中華で四番目に偉いということにもなる。
「……」
 美鈴はしばし口を閉ざした。いくら人の世とは関わりを持たぬ美鈴とはいえ、ここまでの男が突然前に出てくるとは思いもしなかったのである。范の領主は士氏であり、この廟は士氏の廟であるのだから、その当主たる士叔が居ても不思議はないのだが。
「まあよい」
 美鈴が名を言わぬと見るや、士叔は立ち上がった。そうして片手に灯りを持ち、美鈴の方へと近づいてくる。声は堂内あちこちで反響していたはずだが、彼は美鈴の居る方向を正確に当てていた。
 美鈴はその様子を見つめているだけだ。殊更逃げるほどのことも無いと、既に腹を括っていた。晋の卿が何するものぞ、(いずく)んぞ能く妖怪を害することあらんや!
 すたりすたりと、長身の彼は姿勢を伸ばして歩いてくる。やがて美鈴と二歩ほどの所まで近づくと、そこで止まる。既に美鈴は能く士叔の表情を捉えることができたし、彼もまた美鈴の表情を捉える事はそう難しくないに違いあるまい。彼は端正な顔立ちであるけれども、そこより見ゆる気は、どこか鬱々としているように美鈴には思えた。
「汝に一つ頼みがある」
 士叔は灯明を横へと置き、それから両手を前で合せて拱手する。彼の影が炎に照らされて、ゆらゆらと揺れていた。
「頼み?」
 美鈴は首を傾げた。美鈴は彼とたった今会ったばかりである。頼みごとをされるほど親しくなったつもりは毛頭ない。もし彼がその権力を使おうと思っているのならば、それは飛んだ思いあがりだ。
 そう思った美鈴であったが、まもなくそんな思いを丸ごと吹き飛ばされることとなった。
 彼は一言、美鈴に望みを告げた。


「私を殺してくれないか?」


 その言葉に、美鈴はまず凍りつく。美鈴は彼の言う言葉そのものが理解できなかった。
 その次に、この男は何を言い出すのか、と美鈴は混乱に陥った。私を殺してくれ? そんな言葉、一体どこから出て来るのだ。
「……貴方、自分の言葉がわかっているのですか」
 ひとまず美鈴は乱れた気を整えつつ、士叔を睨んで見せた。もしからかっているというのならば、容赦はしない。
「ああ、わかっている」
 だが士叔は冷静に答えを返すだけだった。
「此処は祖霊の廟。戯れに言葉を紡ぐはずがあるまい」
 その言葉に、美鈴はますます混乱を隠せなかった。やはり彼の希望は正気のものであった。それは一体、どういうことか?
 美鈴には、殺せという彼がわからない。何を考えているやも知れぬ、この士叔という存在が恐ろしくすら思えてきた。果たして士叔は本当に人なのだろうか。
「一体、何故そんなことを言うのです」
 美鈴は、少し怖じけながらも士叔の瞳へと挑みかかる。死を欲する彼の瞳は、底無く深い。
「妖怪が人を殺すことに、理由がいるのか?」
「それは……」
 美鈴は黙り込む。人を殺す理由なぞ、考えたことはない。左手に持つ腕だって、なんとなく狩ってきたものだ。
「要らぬだろう。ならば、疾く私を殺してくれぬか」
「え……」
 人を殺すに理由は要らぬかもしれぬが、美鈴には士叔が人間離れして思える。妖怪でも人間でもない、未知の"何か"なのではないか、と思えた。
「まだ無理か?」
「で、では、どうして自分で死なぬのです?」
 美鈴は必死に抵抗する。士叔の思考をどうにかして理解せねば、と思った。
「自裁しろ、ということか?」
「ええ、そうです」
 美鈴は軽く頷く。その表情が引き攣っているだろうことは、美鈴にも少しわかっていた。
「それは無理だ」
 だがその美鈴の抵抗は、あっさり打ち砕かれた。
「自裁では駄目なのだ。私は"他の力によって"死ぬ必要がある」
「どういうことです」
「それ以上の説明がいるのか? お前は妖怪だろう。こちらの理由なぞ構うまい?」
 美鈴より二歩の位置に立ち、柔和な笑みを浮かべながら彼は問う。穏やかな表情であるが、その裏にある彼の鋭さを、美鈴はどことなく感じていた。
「……断ります」
 懸命に声を絞って、美鈴は言う。殺せと自分から望む人間が美鈴にとっては理解できず、故に恐ろしい。とてもそれを殺すことなぞ、やはりできなさそうだったのだ。
「そうか」
 少し落胆したように、彼は呟いた。
「妙な願いをして済まなかったな」
 再び彼は拱手すると、灯りを再び手に取って堂の中央へと戻って行く。その姿を見るや、美鈴は廟堂から逃げるように立ち去った。
 自分を殺せなどとのたまう人間の居る廟堂なぞ、美鈴には居ても立ってもいられなかったのである。



 妖怪が人を殺して生活しているというのは紛れもない事実である。これまでに数えきれないほどの人間を食べてきたし、今日の朝も旅路の女性を狩った。今、左手に持っている骨付き肉だって彼女の左腕を焼いたものだ。
 だがこれまで食べてきた人間も、自ら"殺してくれ"などと言った者はない。むしろ、最期の最期まで抵抗した者ばかりである。今日の朝の女性などは、決して叶わぬとわかっていながら剣を抜いてまで戦おうとした。

 美鈴の思う"人"とは、自分が生きるためならば何であろうと行う存在である。生きる為ならば他の人間を騙すことも殺すことも全く厭わぬ存在であると、そう思っていた。だからこそ、中華は250年にも及ぶ争乱にありて、猶、一向に収まる気配がなく、人々は殺し合いを続けるのだ、と。そうでなくては、ここまで戦乱の続く理由が説明できないのではないか、と思っている。
 故に美鈴の知る限り、自分から死のうとする人間なぞ、どこにもいない。当たり前だ。生きるためになんでもする人間が、自ら死にたいなどと告げるはずはないのである。
 だがこの士叔という男は何を言っただろうか。彼は"自らを殺せ"と言ったのである。生きるために何でもするはずの人間が、自ら生きるのを辞めたい、と言ったのである。
 再度考えてみようとも、美鈴には決して理解できなかった。理解できるとも思えなかった。
 多くの人間の上に立つと、あのような感情を抱くのだろうか、とも考えてみた。晋の第二位の卿たる士叔ともあれば、殆ど中華全ての上に乗っていると考えてよいはず。
 だがその説も否定されねばならない。もしそうなれば、彼の上に居る人間どもは悉く同じように"自ら死のう"などと思う者たちであるはず。されど、士叔の上司たる晋公――後に厲公と(おくりな)される――の噂を耳にする限り、とてもそうとは思えなかった。晋公は放逸の限りを尽くし、また寵臣ばかりを近づけて、(いたずら)に六卿を遠ざけていると言う。

 なれば、一体どうして士叔という男は"自らを殺せ"などと言うに至ったのであろうか? やはりわからぬものはわからぬ。わからぬことは恐ろしいことだ。だからこそ、美鈴は士叔を殺すこと能わなかったのである。
 だが今、恐ろしく思う気持ちは幾分収まっていた。代わって美鈴の心のうちを支配していたのは、彼が何を考えているか、ということである。普段なれば、人間に全く興味を持つことのない美鈴であったが、殊、士叔という男に関しては、もう一度会ってみたいという感情が生まれてきていた。
 それに、と美鈴はもう一つ思う。結局逃げ帰ってきてしまったが為に、本来神聖であるはずの祖廟が穢れている理由が、何一つとしてわからない。

 おそらく士叔の被殺願望と祖廟の穢れも関係あるに違いないだろう、と美鈴はどこかで確信していた。




二 諸侯皆叛晋可以逞
   ――諸侯が全て叛いてこそ、我が晋は安泰なのだ。

 再び訪れた廟所は、変わらず濁った空気に満ちていた。否、変わらずという言葉は当てはまらなかろう。昨日訪れた時に比べてもその穢れは酷くなっている。士叔による呪詛のせいだと言って間違いない。
「居ますか?」
 廟堂へ入り込むや、美鈴は問うた。今回の目的は廟堂自身ではなく、その中にいるであろう一人の男である。もし彼がいないとなれば、美鈴は此処にいる意義なぞ少しもない。
「妖か」
 だが、無事答えは返ってくる。先日同様、士叔という男は中央の灯りの傍に座り、やはり何かを唱えているようだった。彼の視線の先にあるのは、先祖代々の位牌に違いあるまい。人を呪うにしても、祖霊に向かって詛文を唱える者はあまりおらぬ。士叔という男の行動は、かなり不思議だ。
「そうですよ」
「私を殺してくれるのか?」
 美鈴の答えに、彼は振り向く。これまた先日同様、正確に彼は美鈴の居る方向を向く。相当耳がいいのか、気を読むのに長けているのか、そのどちらかだろう。これだけ反響する空間で、声の発生源を特定するのはたやすいことではない。
「いえ。その前にいろいろ聞きたいことがあって参りました」
「聞きたいこと、か?」
 士叔は首を傾げたようだった。いくら晋の大臣である彼でも、否、晋の大臣であるからこそ、妖から何かを問われる経験が不思議だったのだろう。
「聞いてどうするのだ?」
 士叔はこちらを向いて確と言う。どうやら話を聞いてくれそうだと判断した美鈴は、そこで初めて闇を抜け出し、彼から二歩程の所にまで近づいた。美鈴からしてみれば必殺の距離である。
「私を殺してくれるのか?」
「それはわかりません」
 士叔に話を聞いて殺す気になるのかどうか、それは美鈴にはわからない。
「ただ、私は貴方に興味があります。だから話を聞きたい」
 美鈴は正直に告げた。彼が何を考えるのか、美鈴には気になるのだ。
「そうか。妙な奴だ」
 士叔はほんの少しばかり表情を顰めた。それは妖怪と話すことへの忌避か、それとも自分に対する嫌悪なのか。
「何を聞きたい?」
 士叔はその表情をすぐ緩めて、美鈴の視線に相対する。妖怪だろうと向き合う、という意思表示のように美鈴には思えた。
 美鈴は改めて、士叔という男の顔を近くに見た。如何にも柔和そうな顔つきであるが、切れ長の目は才気を感じさせる。一見すれば隙だらけにただ座っているように見えるのだが、その気は周りに張り巡らされていた。一見すると隙だらけのようだが、油断して掛かると痛い目にあうのだろう。
 大臣故に体躯は大したことがないのだろう、と高を括っていた美鈴は、その認識を改めさせられることになった。
「貴方は、此処で何をしているのですか? 此処の状況を知らぬ貴方じゃないでしょう?」
 そして同時に気付く。澄んでおらねばならぬはずの廟の空気がここまで淀んでいるのは、彼自身が纏う気のせいであるということ。彼の纏う気は、人間とは思えぬほどに禍々しいものだった。 
「見ていてわからぬか?」
「どうして、貴方が詛文を唱えるのですか? 卿たる貴方がすべきことではないでしょうに」
 誰かを呪詛するのは卿本人ではなく、祈祷官たる宗祝がやるべきことである。卿がそのようなことをするのは"下賤"である。
「一応宗祝にも頼んであるのだがな、連中が本当に儀式をしているかどうか疑わしい。それに、祖霊に向かうならばやはり子孫たる私が行うべきだろう」
「そこまでして、誰を一体呪詛するのですか?」
 何としてでも、その相手を殺したい、という感情が士叔の言葉から感じられる。そこまでして殺したい相手が、優しげな顔をして話す彼にいるのだろうか。斯く思ったところで、美鈴は一つ思い当たる。士叔が最も殺したい相手が。
「貴方は、貴方自身を呪詛しているというのですか?」
 もしこれが正しければ、士叔がここまで妖気に包まれる理由も説明が付くといえる。則ち、呪詛されており、それに対して何の対策もしないが故に大量の悪霊が付いているのだろう。それにしてもその気は壮絶なものであるが。
「そうだ。私の呪詛相手は私だ」
 思わず強張った美鈴の問いへ、士叔はあっさりと返した。やはりか、と美鈴は納得した。昨日"自らを殺せ"と述べた人間である。死にたいというのならば、自らを呪詛することも行えど、疑問を感じるところはない。
 されど、美鈴にはなお疑問があった。
「そこまで死にたいのですか?」
 故に美鈴の問いは続く。
「ああ、死にたい。一刻も早く死にたいのだ」
 これまた、表情一つ変えずに士叔は述べた。だがその答えは、美鈴の推測する所である。ただ、彼の気が何らかの変化を、ごく僅かであったとしても、見られるだろうと予測していた美鈴は、その期待を打ち破られることになる。彼の表情も気も何一つとして変化することはなかった。それが表すことは只一つ、彼はこの言葉を発する際に何の動揺もしなかったということである。
「どうして、死にたいのです? 死んだって碌なことはないというに」
「私は、生きていたら困るのだ。だから死にたい」
「生きていたら困る、とはどういうことです?」
「私が生きていた方が、碌なことが起こらない」
 士叔の答えは要領を得ない。美鈴は、彼が何故死にたいというのか、全く理解することはできなかった。だが、一つ言うことができるとするならば、彼はもはや生きるつもりなんて寸毫とて存在せぬ、ということである。
「ならば自裁すればよいでしょうに」
「自裁はならぬ」
 士叔は断言した。
「何故です? 死ぬなら変わらない」
「自裁をしても、碌なことにならないのは変わらない。それを避けるにはすぐに、他力で死ぬ必要があるのだ」
「そこまでして、他力で死のうと思うのは、どうしてなのです?」
 美鈴には彼の言うことがわからない。士叔の表情もいまいち読み取れなかった。
「我々が勝ってしまったからだ」
「勝ってしまった?」
「ええ。我々は(えん)陵にて勝ってしまった」
 鄢陵の戦いと言えば、昨年六月に行われた楚軍との会戦である。この戦いで晋軍は楚王を負傷させるほどの大勝を得た、ということは美鈴も知っていた。こういう戦の情報は、"食糧"を得るために大切であるが為、美鈴もまた重点的に集めている。
「どうして、勝って"しまった"なのです? 貴方は、晋軍が負けた方がよかった、とでも言うのですか?」
「物分かりが良くて助かるな。そうだ、鄢陵では我々が負けるべきであった」
 物分かりが良い、というわけではないだろう。美鈴は最も"理解できない"だろう予測を選んで口にしているのだ。負けなければならなかった、などと思う心情がわからない。死なねばならぬ、という思考と同様なのかもしれぬ。とするならば、彼は只の破壊主義者でしかないのではなかろうか。
「全く以て理解できません。どうして戦って負ける必要があるのですか?」
 戦ったならば勝つべきである。そも何故戦うかというならば、生きるためである。戦って敗れ、命を失ってしまったとすれば、それこそ本末転倒としか言えぬ。にもかかわらず、彼はどうして負けねばならぬ、というのか。
「我が晋の状況を知っておるか?」
「大体。一通り、町は回ったことがありますから」
 美鈴は人間の住む城邑へと忍び込むことを好みとする。自らの喰う人間どもが、常日頃どのような努力をして身を守っているかということを冷やかすために、城邑へ潜り込む。気を扱える美鈴なれば、人に擬態することなぞ容易なのである。
「城邑にこうも紛れ込むとは、結界も形無しとしかいえまい」
 その美鈴の言に、彼は僅かに眉を動かし、それから続ける。
「ならばわかるだろう。晋人(しんひと)は驕りすぎている。皆、われらが中華に君臨すると勘違いしているのだ」
 それが勘違いである、ということがそもそも美鈴には理解しかねる。晋はこの中原一の国であることには違いない。となれば、晋は中原に君臨していると言って差し支えがないだろう。
「それで良いではありませんか。弱者が強者を斃して君臨する。それで構わない」
「ふむ。妖ならばそれでよいのかもしれぬな」
 士叔は少しだけ表情を崩す。
「されど人は、驕ればますます欲する。故に乱れる」
 再び表情を引き締め、彼は言いきった。眉に皺の寄る様は、彼の不機嫌さを表していた。
「故に、勝ってはならなかった。戦に敗れることこそが、我らの驕りを戒める唯一の機会であった」
「驕りを戒める?」
「そうだ。自らが優位にある時こそ、我々は自らを戒め、謙虚に居らねばならぬのだ」
 にも関わらず、と言って士叔は唇を噛む。両拳をきつく握りしめてもいた。
「我々は勝ってしまった。勝った晋は、もはや驕りを戒める機会を持たぬ」
「へぇ」
 美鈴は、軽く頷くに留まる。
「妙なことを言いますね。どうしてそこまで考えるのです?」
「妙か?」
「驕慢になったとて、勝ち続けられれば欲を満たすに足る。にもかかわらず、乱を恐れて自らを戒める」
 美鈴は士叔を見据えた。彼の言い分もわからなくはないが、納得はできなかった。
「乱になっても、自分が良ければよいではないですか」
「勝ち続けるなら、それもよいだろう」
 ひと息ついて、士叔は美鈴から目線を離す。その先にあるのは、先祖の位牌である。
「だが、世はそうも甘くはない。必ず負ける時がくる。それよりは、乱に加わらぬようにしたほうがよいのだ。身を守って生きるにはな」


 士叔の言い分に一理あることは、美鈴だって認められた。だがやはり、美鈴には士叔の言い分は納得できない。結局美鈴は士叔との妥協点を見る所なく、廟堂を後にした。今のうちに負けるべきだった、という彼の理論は納得できなかったのだ。

 しかしそういう考え方――負けた方が良いという考え方があるということ自体に、美鈴は興味を持っていた。こんな考えを持つ士叔という人間が、どのような人間であるかと言うことに、美鈴は少しばかりの興味を持つようになっていた。





三 夫賢者寵至而益戒
   ――賢者というものは、栄達すれば益々自らを戒めるものです。

 三度目ともなれば、もはや祖廟の穢れとて違和感も感じることなし。妖である以上、本来ならば祖廟など天地が覆ろうとも入ることの出来ぬだろう。そのような場へ立て続けに訪れている自分が、美鈴には妙に思えた。
 どうしてこんなところへ三度も来たのか、と美鈴は少し首を傾げる。士叔という人間に少しばかりの興味を持っているのは事実かもしれないが、だからと言って、半ば危険を冒してこの范の城邑へと紛れ込み、廟堂に忍び込むほどにまで興味を持っているだろうか。
 そのことばかりは考えていても無駄だろう。とりあえず言えるのは、美鈴は既に廟堂の目の前にいる、ということだけである。

「また私の所に来たか、お前も物好きだな」
 相変わらず、先祖の霊に向かって呪詛を唱え続ける士叔であったが、やはり美鈴の気配を感じたのか、美鈴が廟堂へと入りこむと美鈴に向かった言葉を発した。
「確かに、私は物好きかもしれませんね」
 その言葉に頷きながら、士叔の方へと近づいていく。士叔も殊更動じた様子は見せない。士叔は美鈴のことを本当に妖だと思っているのだろうか、と美鈴は気になった。
「でも、貴方だって人のことは言えません。貴方は晋の卿だと言うに、こうして妖と付き合いを続けているのだから。晋の卿がこうして妖と祖廟で密会している、なんて噂が立ったら、中原全てが大騒ぎになるでしょうねぇ」
 人を統べる晋の卿と、妖とがこうして談笑している。もし知られようものなら、中原全体の大動乱を誘引する可能性だって充分に考えられる。
「私は誑かされた哀れで愚かな卿として死ぬ。それはそれでいいかもしれないな」
 士叔はほんの僅かに、笑いかけた。
「それでどうだ? 前回は私を殺し忘れたようだが、今日こそ私を殺してくれるか?」
 その口調のまま、いつも通りに、自らを殺すように要求してくる。
「残念ながら、私は当分貴方を殺すつもりなんて、ありませんよ」
 それに対して美鈴は言い返す。少なくとも、今のところの素直な感情である。
「自ら死にたいという人間を殺しても、面白くもなんともありませんから」
「そうか」
 美鈴の言葉は、人間にとっては面白くない言葉であったはず。筈であるのだが、士叔は特に反応も示さず、少し困ったような表情を浮かべ、
「残念だなぁ」と告げただけであった。
 相変わらず死を望む士叔という男の様子は変わらない。彼の意思をそこまで硬くならしめるものとは何であるのか、それを美鈴は探りたかった。
「つまり、今日も私を観察しに来た、というだけなのだな。面白いことでもなかろうに」
「まあ、そういうことですね」
 うむ、と美鈴は軽く頷く。その美鈴の動作を見ると、彼は柔和な会釈を美鈴へと向けて、それから再び呪詛を唱える作業に戻る。

 士叔は、所謂霊術にも僅かな才を持つようである。彼が祖霊に向けて延々と述べる呪詛には幾らかの霊力が籠っている。だからこそ、士叔は今、恐ろしい程の悪霊を背負うことになっているに違いない。彼の呪詛は確実に祖霊へと伝わり、それを聞く祖霊は将に士叔を祟らんとしている。
「何故祖霊に唱えるのです?」
 ふと思い立って、美鈴は士叔へと問いを発する。美鈴は人間に非ざれば、呪詛の法も知らぬ。だが、普通に考えてみるに、わざわざ先祖に自らを祟れと祈るよりは、呪う専門の神へと祈った方が早いのではないのか。
「む?」
 美鈴の問いに、士叔は再び呪詛の言葉を止めて振り返った。灯りに照らされる士叔の顔は、以前より蒼白く、また憔悴していた。
「呪詛を唱えるならば、祖霊よりも凶神の類にすべきと思いますが。どうして貴方は、わざわざ祖霊に唱えるのですか?」
 祖霊は本来祟る者ではない。守護するものである。それに祟れと祈っても、なかなか難しかろう。
「それも、そうかもしれないな」
 そんな美鈴の問いに、士叔は頷いてみせた。だが受け入れる様子は微塵も見られない。
「だが、私は祖霊に向かわねばならないのだ」
「ねばならない?」
「そうだ。私は祖霊に祟ってもらわねばならない」
 祖霊以外には、呪詛することなぞ出来ない、といったような口ぶりである。当然その言葉に納得できるはずもなく、美鈴は聞き返した。
「祖霊に"祟ってもらわねばならない"?」
「そうだ。自裁でも、他の凶神による死でも駄目なのだ。私は、祖霊に祟ってもらわねばならない」
 此処まで、自裁を完全に否定してきたのはこの理由であったか、と美鈴は思う。だがそこまでして意地を張る理由がわからない。
 士叔と言う男、柔和な表情を見せながらも、中々芯の太い男である。
「どういうことですか?」
「このままでは先祖――とりわけ父上の積み上げたものを守ることができない。私にできるのは、祖霊に謝し、祟られることだけだ」
 先祖に申し訳が立たない、と士叔は言いたいようであった。先祖なんて持たぬ美鈴には、その感情を理解することなんて全くできるはずもなかったけれども。
「父――范武子(はんぶし)ですか」
「そう。士会(しかい)だ」
 士会、(おくりな)して范武子。それが士叔の父の名であった。
 美鈴も、この名前くらいは知っている。この中原に於いてこの男の名を知らぬ者など、ただの一人もいるはずがない。妖怪でさえ、知らぬ者はおるまい。士会という男が晋の正卿(宰相)になったと同時に晋国中の盗賊が皆逃げ出した、という話は今や彼への畏敬と共に、人妖の口に膾炙する話である。
「父上は偉大だ。非常に多くの事を成し遂げ、私や一族に残して下された」
 その言葉には、多大なる尊敬が含まれていた。他人をそこまで尊敬するという感情がわかる美鈴ではなかったが。
「だが、私はそれを守れそうにない」
 そして同時に大きな絶望をも、その言葉は内包する。
「父親の積んだものが、そんなに大切だというのですか?」
 だが美鈴は問い返す。父親の成したこととて、他人の成したこと。自らは自らで、良いではないか。
「何を言う!」
 その言葉に、士叔は語調強く反論した。その言葉に秘められた激情に、美鈴は思わず気押される。この柔和にしか見えぬ男の裏には、このような芯があったのか、と。
「父上に泥を塗ることだけは、あってはいけない」
 だがその激情も、自らの戒めに向けられている。やはり彼の構造というものは理解できそうになかった。
「偉大、ねぇ」
 実際、偉大だと言われても美鈴にはよくわからない。士会がどのような男かを美鈴は知らないのだから、無理も無かった。
「今の士氏を、そして晋を築いたのが、私の父上だ」
 そんな美鈴に、士叔は答える。
「兵を率いては威を中原に轟かしめ、民を治めては徳を中華に広げしめ、公には頼りとされ、臣には慕われる。父上はそんな方だった」
 士叔の語調には、士会を貶すことは許されぬ、という空気さえ漂っている。美鈴とて知る士会であるから、やはり才有る人間ではあったのだろうが。
「ですが士会……」
 と述べると、美鈴は士叔に強く睨まれた。いくら故人とはいえ――むしろ故人であるからこそ、本名を呼び捨てることは著しく不敬である。美鈴は慌てて口をつぐみ、言い直した。考えてみれば、士叔という男の脅しに屈することなぞなかったはずなのに、美鈴は思わず恐ろしいと思ってしまっていたのだった。何故かはわからぬが、士叔の覇気は並々ならぬものであった。
「范武子がそれほどの男なのでしたら、どうして晋公と、中原の王とならなかったのです?」
 士叔の言うほど完全無欠の男であったとするならば、士会が王となることもできただろう。にもかかわらず、どうして彼はならなかったのか。
「昔、私が二十くらいのころ、晋の朝廷へ出仕し始めてすぐだが、隣国・秦より使者が来たことがある」
 だが士叔は、全く違う話を持ち出した。一体何を言い出すのだ、と美鈴は思う。だが美鈴の困惑も余所に士叔は話を続けた。
「その使者は朝廷の中で三つのなぞなぞを出した。列座する者たちが答えぬのをいいことに、私は三つともにも答え、正解を言い当てた」
 さ、と灯火が揺らめいて、士叔の影が動く。それは物語の動きに呼応しているのだろうか、と美鈴は感じた。さして物語自身には興味も無かったが。
「家に帰って、それを自慢げに隠居していた父上に報告した。自分が問いを解いて晋の面目を守った、と。すると、父上はどうしたと思うか?」
「誉めたんでしょう? 晋の正卿まで務めた范武子ならば、晋の面目を守ったことに喜ぶに違いないです」
 美鈴は即答する。何を、わかりきったことを聞くのだ、という不満も込めて。
「いや、喜ばなかった」
 だが美鈴の予測とは裏腹に、士叔は答えを否定する。美鈴は無意識の内、え、と声を発していた。
「私の言葉を聞いた父上は、持っている杖で私を散々に殴り付けた。冠を留める簪が折れるくらいにな」
 士叔は、後頭部についている簪を触りながら、柔和な顔を崩さない。
「そうして殴りながら父上は怒鳴りつけたのだ。『他の臣が答えなかったのは、上の者に気遣ってのこと。お前はそれを全て無にしたのだ。もし儂がいなければ、お前はとうに殺されていたぞ』とな」
「は?」
 ますます意味がわからなかった。自らが解けるものを解いただけだと言うに、どうして気遣いがいると言うのだ。発言せぬほうが悪い。さらに言えば、最後の一言、"もし儂がいなければ、お前はとうに殺されていたぞ"という言葉も理解できなかった。この話を唐突に始める士叔といい、美鈴にはわからないことだらけである。
「どういうことですか? 解ける者を解いて何が悪い」
「悪い。例え才があるからとて、それを必要以上にひけらかす必要はないだろう。むしろそれは害になる」
 ふう、と彼は溜息をつく。
「下手に才をひけらかせば、人に恨みや妬みを買う。そうすれば、必ず身に(わざわ)いする。だからこそ父は、殺されていたぞ、と私に脅迫したのだ」
「つまり、それを避けるために范武子は、中原の王にならなかった、と言いたいわけですか」
 ここまで言われて、美鈴も漸く最初の話とつなげることができた。つまり士叔は、自らが殴られた話を以て答えと為したのである
「その通りだ」
「だが、(わざわ)いさえ自らの力で打ち砕いてしまえばよいだけの話じゃないですか。違いますか?」
「無理だ」
 さらり、と士叔は告げる。
「打ち砕けば打ち砕くほど、恨みや妬みは増大する。それに何時までも対処できるか?」
「すればいい」
 美鈴も言い返す。自らに力があるのに、それを発揮せぬということが美鈴には信じられないのだ。
「増大し続ければいつかできなくなる。その時はどうするのだ?」
「そんな時が来ないくらいの力を付ければいいだけです」
「理想だ」
 美鈴の言葉を、士叔は斬り捨てた。
「常に粛々として生きれば、そもそも戦うこととてなくなる。勝つか負けるかわからぬ争いなぞ、するものではないのだ」
「その為に自らの才を隠すというのは、おかしいです。持つ力は使ってこそ。使ってこそ生きることができるのですよ」


 結局この日も、議論は平行のまま終わることとなる。やはり美鈴としては、実力は行使して当然であり、隠すべきものではない。発揮してこそ意味があるのであり、そのために争うのもやむを得ないと思っている。だからこそ、士叔や士会のように才を隠して争いを避けようとする態度が全く理解できなかった。

 理解はできなかったが、その態度に対して悪感情を持つこともまたなかった。士叔という男の生き方もまた一つの、生き方ではないか。才を隠して争いを避ける、温和な生き方とはいえないか?
 そう考えて、美鈴は頭を振った。あのような生き方は全く理解できないし意味も無い。才を隠して生きるなぞ、惨めなだけだ。
 必死に否定こそして見れど、美鈴の頭の片隅では、士叔という男の生き方へのかすかな羨望があった。





四 使我速死無及於難范氏之福也
   ――私を速やかに死に至らしめ、(わざわ)いを取り払うことが、我が一族の幸福となるのだ。

 幾度、范に入るを辞めんと思ったことか。士叔という男に会う意義なぞどこにもない。士叔という男の思考構造自体が理解できないということは則ち、彼が死にたがる理由も決してわからぬということだ。既に祖廟が穢れている理由についてはわかったのであるから、わざわざ危険を冒してまで城邑に潜入することは無駄だ。
 されど、結果をいうならば、美鈴は四たび祖廟を覗きこんでいた。どうして此処まで来てしまったのか、美鈴さえもわからぬ。わからぬながらも、来てしまったのである。せざるを得なかった、とさえ言える。
 つまるところ、やはり士叔という男との会話を楽しく思っているのだろう、と美鈴は納得するしかなかった。

 覗きこむや、中より響く声が美鈴の耳を打つ。彼の低く流暢な声と見事に構成された韻や平仄とで、それはそれは美しい旋律を奏でている。廟内全体へと反響し、美鈴にさえ荘厳さというものを感じさせる。その文章の韻や平仄の見事さは、やはり士叔という男の才を表しているに違いない。いつまでも聞いていたい、との思いさえ抱かせた。
 その中身は、自らを呪う詛文であったが。

「お見事ですね。ここまでの文をお書きになるとは」
「また来たのか」
 美鈴は士叔へと近づきながら声をかける。そうして初めて、士叔は振り向いた。それまで気付かぬとは、随分と慣れられたものだな、と美鈴は苦笑を隠せない。晋二位の卿が妖怪と慣れ親しんで話している状況は、きっと双方にとってあまり良い状況とは言えまい。言えまいが、美鈴は後悔はしていない。
「ええ、来ました。貴方の呪詛の御蔭で、入れる内に祖廟を見学しておこうと思いましてね」
「そうか」
 美鈴の軽口に少し彼は笑って見せる。だがその微笑のやつれ方に美鈴は驚きを隠せない。昨日も憔悴していると感じたところであるが、今の状況はもはやその程度ではない。病人とさえいえるのではないか、と美鈴は思った。
「貴方は一体、どれだけの時間呪詛を唱えているのですか?」
「そうだな」
 士叔は軽く指でその木簡を叩いた。
「朝議がなければ、毎日この時間から一度読むことにしている」
 そう言って木簡を綴った巻物を開いて見せる。それはかなりの長さで、読み終わるには相当の時間が掛かることが容易に推測された。一寸幅、一尺丈の簡一本に15字ほどが書かれている。一文字一文字が様々な事象を象徴して凛とそこに在り、力を帯びている。字はそれぞれの事象を象形すればこそ、事象自体の霊をもまた象形される。言葉に霊があるように、文字にも霊はいるのだ。
「よくこれを全て読む気になりますねぇ」
「それほどのことでもないだろう?」
「そうでしょうか」
 美鈴はもう一度見直した。美鈴とて字は読める。むしろこの中華に於いて文字を読める者の数を数えると、人間よりも妖怪の方が多いかも知れない。妖怪ならば文字の霊がわかるのだから、字が読めて当然である。
 だが文字が読めるとはいえ――むしろ文字が読めるからこそ、その面倒さと言うものがわかってくる。あれをすべて読み上げるということは、相当の難事に違いあるまい。
「そもそも、これを書くのも大変だったでしょう。それを書き記した上で、毎日読み上げるというのは、かなりの労力です」
「書き上げたのはもう1年近くも前の事であるがな」
 士叔は字を軽く撫でながら、あっさりと答えて見せる。
「毎日読むにしたって、もう私のすべきことはない。これくらいの時間は充分取れる」
 士叔のすべきことがない、というのは嘘だろうと美鈴は直観した。ないのでなく、しないのだ、と。死ぬと決めたのだから、それも当然かもしれない。
「どうして、そこまでして自分を殺そうとするのです? 結局、私にはそれが全くわかりません」
 美鈴は少し士叔へと詰め寄った。美鈴がこの四日間、最も不思議に思っていたことである。士叔という男がこれまでも様々なものを犠牲にしながら、平穏に過ごそうとしてきたことはわかっている。だが、死んでしまえば元も子もないのではないか。
「ここまで、貴方は様々な努力をして身を守ってきたのでしょう。私からしたら、余計な事の積み重ねで、それでも生きてきた。しかし貴方は今、それを全て無に帰そうとしているではありませんか。一体それは何故なのです?」
 美鈴には士叔が死を望む理由が理解できない。
「貴方は、自分の努力を無駄にするのですか? これまで貴方は、平穏に"生きる"ために余計な努力を重ねたのではないのですか」
 美鈴の問いは、悲痛さすら秘めている。それは果たして、士叔への憐みから来るのか、持説破壊への抵抗から来るのか、自身にすらわからなかった。
「それは違うな」
 だが、対する士叔の答えは極めてあっさりとしていた。
「汝の言う"余計な努力"は、間違っても私のためではない。努力するほど、私は大切でもないからな」
「身が大切ではない?」
 美鈴にとって、自らを大切にするということは、至上命題である。それを否定する士叔に、美鈴は思わず耳を疑った。
「私自身の身などどうでもいい。守るべきは士の一族であり、私自身ではない」
 溜めの一つもないその言葉は、しかし美鈴を凍りつかせた。全く美鈴の想定の範囲外の答えであったのである。これまでも士叔には驚かされること度々であったとはいえ、それでも"自分なら決して言わぬこと"というものを想定すればまだ予測可能であった。だが、自らの身を何とも思わぬという士叔の発言だけは、全く予測すること能わなかったのである。
「貴方の努力は……」
「我らの一族の為だ。私自身の為に努力をしてなんとなる?」
 混乱の中にありながらも、美鈴は士叔が死を望む理由を予測し得ていた。きっとそれは、酷く空しい話ではなかろうか。
「つまり、貴方は一族を、一族を守るためには、死んでさえかまわない、と?」
「構わない、では済まない。士一族を守るためには、死なねばならないのだ」
 なんと馬鹿げた、と美鈴は思った。一族を守ったところで、自分には何の恩恵もないではないか。一族とて、所詮は他の人間なのである。自分を殺してまで他人を守って、それのどこがいいのだ。
「貴方の言うことが全くわからない」
 美鈴は呻いた。
「どうして、貴方は自らの身より一族を優先するのですか? 一族を守ったところで、何もないではないですか」
「父上の、そして祖霊の為にも、私は一族を守らなければならないのだ」
 美鈴の問いに、士叔はやっと、僅かに感情の籠った言葉を返した。そこに浮かぶのは、悔しさである。
「この一族は、父上が築き上げたものだ。そして非力な私を支えてくれていた」
 美鈴は絶句した。その考えが、明らかに間違っているというように美鈴には思える。思えるのだが、なんて返していいのかはまったくわからなかったのだ。
「その一族を守れるのであるならば、私はどんなこともしてみせるつもりだ」
「だからと言って、貴方は死んでもよいのですか? 貴方が死んだ後、一族が守られる保証は全くない」
「私が生きていれば、必ず一族に(わざわ)いが降りかかるのだ」
「どうして、そのようなことが言えるのです?」
 彼の言いざまは、自分の生こそが害悪である、というような言い分であった。いくらなんでもそれはないだろう、と美鈴は思った。少なくとも彼は一族を守るつもりだったのではなかろうか。
「晋はこれから乱れる」
 士叔は断言した。まるで確定事項であるかのように、言い切ったことへ美鈴は驚きを隠せない。
「残念ながら私は二位の卿になぞなってしまった。この乱に巻き込まれぬはずがないのだ」
「どうしてです?」
「二位の卿なぞという顕職におれば、私自身に乱での利用価値が出てしまう。となれば、様々な者が私を乱へと引きずり込もうとするだろう。それを全て排除し、乱から距離を置くことなぞ私にはできぬ」
 まるで二位の卿になどなるのではなかった、と言うようでさえあった。否、事実彼はそう思っているのかもしれない。これまでも、自らを隠して隠して生きてきたのであるのだから。
 だが士叔は二位の卿になった。そのことは、彼に力があると言うことの証左ではないのだろうか、と美鈴は思った。実力がなければ誰かの上に立つことなんてできないのではないか、と思うのだ。
「ならば、乱に勝てばよいでしょう。巻き込まれてしまうならば仕方がありません。違いますか?」
「まだ仕方ないとは言えないだろう。巻き込まれずに済む方法が現に存在しているのだからな」
「つまり、貴方が死ねばいい、ということですか」
 美鈴は強く問うた。乱に巻き込まれぬことと士叔が死ぬこと、どちらが"仕方のないこと"だというのだろうか。
「私が死ねば、士の一族は助かる。それで良いではないか」
 どうしてそういうことを言うのだろうか、と美鈴は思う。士叔という男は、どれだけ自分を過小評価すればよいというのか。
「どうして貴方は、そうやってすぐ諦めるのです? 乱で勝てば貴方も生き延びるし、一族も守られる。よほどそちらの方がいいじゃないですか」
 一族を守ることがそれほどに大切か、と美鈴は思えてならないのだ。自分が生き残ってこその他人であって、他人が生きていても意味はないではないか。
「一族だけは何としても守らなければならない。だからこそ、万に一でも滅びる可能性がある手を使ってはならないのだ」
「どうしてそこまで……」
 美鈴は思わず叫んだ。
「貴方は、自分をなんだと思っているのですか? 貴方はどうして自らを失ってまで……」
「不肖の息子だからだ」
 士叔は冷静である。その無感情な表情に、美鈴は叫んだことも忘れて固まった。穏和なここまで冷えた表情をするのか、と思ったのだ。
「父が積み上げたものを壊すことだけはならない。父の如く守ることができぬ以上、私は身を捧げて以て一族を守るつもりなのだ」
 馬鹿な、と美鈴は思った。思ったが、言い返す言葉を持たない。士叔の、輝き一つない鳶色の瞳を見つめながら、ただただ美鈴は黙りこんでいた。

 ふと、美鈴は考える。どうして士叔という男に此処まで自分は喰い込んでいるのだろうか、と。人間の一人や二人、死にたがって死んだところで別にいいじゃないか。士叔が何故死を望んでいるか、ということはもうわかった。どうせそれを納得できないのだから、あとは受け流して帰ってしまえばいいじゃないか。反論する必要がどこにある。
 所詮、美鈴にとっては人間なぞ食糧ではないか。この間も生きることを望む人間を殺して食べたじゃないか。その人間の死に対して此処まで努力することはない。相手がその辺りに住む者だろうが、晋の二位の卿であろうが、変わらない。死にたい人間には勝手に死なせておけ。
 だが士叔に関して、美鈴はやはりそういう感情は持っていない。

 美鈴は此処に認めざるを得ないようであった。士叔に憧れを抱いていて、死んでは欲しくない、と願っていることを。
 これまで聞いてきた士叔の生き方を、美鈴は何一つとして認められなかった。ああやって自分をひた隠しにし、しかも勝つことを厭うその考え方はとても理解することができない。出来ないのだが、そうして生きる彼に興味を持ち、いつしかそれに憧れさえ抱いているようなのだ。
 どうしてそれに憧れを抱いているのか、美鈴にも全くわからない。これまで美鈴は、実力を最大限に生かし周りに誇示することで生きてきた。それこそが妖怪の生き方であり、同時に人間の生き方であると思っていた。士叔の生き方に憧れを抱いているように感じられるけれど、実際はただ自分と全く違う生きかたに対して不思議に思っているだけなのかもしれない。

「いや、やはり貴方は死んではならない。いや、死なないでください」
 美鈴は、これまで決して言った事のないような言葉を、発していた。
「ふむ。食人する妖怪が、私に死ぬな、と言うか」
「ええ、言います。認めましょう。私は貴方に死んでほしくない」
 美鈴は彼に迫った。最初の一言は軽く受け流した士叔であったけれども、美鈴のその言葉が冷やかしでないということがわかると、流石に驚いたようで目を丸くした。
「なにが言いたいのだ?」
「そのままです。私は貴方には死んでほしくないのです。貴方ともう少し、いろいろなことを話したいと思った」
 一体人間風情になにを言っているのか、と美鈴は自嘲する。自嘲するが、美鈴と全く違う思考をする士叔といいう男がどのようなことを考えているのかをもっと様々に聞きたいというのが率直な感情であった。
「そうか」
 士叔は美鈴の言葉に、少しだけ笑った。
「妖と申せば、人を見下す者と思っていたが、そうでもないらしいな」
「貴方だからだ、と言っておきます。その辺りの人は、私にとっては食糧でしかない」
 美鈴は断言した。人を同列に置くことだけは、美鈴の矜持が許せない。
「何が違うか、まるでわからぬがな」
 士叔は自嘲する。
「違います。貴方は他の人間とは、違う」
 その自嘲を打ち消すように断言した。何がどう違っていて、自分が士叔のどこに魅力を感じているのかを言うことはできない。でもやはり、彼に死んでほしくないと言う感情だけは、間違いないものだと美鈴には思えた。
「そうか」
 士叔は、温和な顔のまま頷いた。
「ところで、だが。一つだけ聞いてもよいだろうか?」
 そんな表情を崩すことなく、士叔の視線がふと美鈴の顔を捉える。
「なんでしょう?」
 美鈴も又、士叔を視線で捉えている。何を聞くのだろうか、という疑問を送りつつ。
「名は何という? 私に死ぬな、などと言った妖怪の名を、知っておきたい」
 士叔の瞳を眺めながら美鈴は少し考える。力の無い瞳は、しかし真っ直ぐと美鈴を透徹していた。あくまで美鈴も彼の瞳を見据えたまま、口を開く。
「私は紅瓏。氏は紅、(あざな)が瓏」
「ふむ、紅瓏か。善い名前だ」
 士叔の眉間が緩む。その瞬間を見計らって、美鈴は続ける。
「名は、美鈴と言います」
 美鈴がその名を発した瞬間に、士叔の表情が一変する。穏やかに微笑んでいた士叔の顔は、忽然と驚きへ変わる。
 美鈴には何故彼が驚いているのかということは、容易に想像がつく。おそらく彼は、本名を教えられるとはとても思っていなかったのだろう。士叔は、珍しく、狼狽を露わにしていた。言葉が全く見つからぬ、といったような雰囲気である。妖怪から本名を教えてもらう機会なぞ、人間の短い一生ではないのだから、無理もなかろう。

 文字が、一文字一文字ある事象を象徴する霊を持つように、名というものもその個を象徴する霊を持つ。名を、呪ったり祝したりすれば、その"名の霊"を通して本人に直接影響を与えることができる。則ち、名を知られてしまえば、どんな霊的攻撃も可能になるのである。それは人間にとっても決して良いことではないし、より概念的な存在と言える妖怪にとっては、致命的なことだ。
 だからこそ、人妖は字を持つ。互いに字であれば、名を使って呪われるようなことは、なくなるからだ。故に、余程親しい間柄でない限り、名は教えないのである。

「名か……」
 暫く待った後、やっと士叔は呻く。
「一体、何を考えている?」
 その辺りに浮いていた士叔の視線が漸く定まる。その鳶色の瞳は、美鈴の翠色の眼を捉え、深く見据えた。
「貴方が名を教えるだけの男であると、私は認めたのですよ。それで、何か文句があるのでしょうか?」
 だが美鈴もひるまなかった。士叔の視線は、まるで美鈴全てを見通すのではないかというほどの、透徹した視線である。だが、だからなんだというのだ。
「そうか。妖怪に認められる、か」
 彼は一つ瞬きをする。途端、その眼からはその力が失せた。彼が再び美鈴に向けた視線には、覇気だとか威厳だとか、そういうものは微塵もない。ただそれは暖かいだけであった。
「人にとって、それが良いことかどうかはわかりませんけれどね」
「いいことと言える気はするな」
 士叔は少し笑う。
「私を認めてくれるというならば、それが人だろうが妖だろうが、素晴らしいものには違いあるまい」
 言って士叔は、立ち上がる。すらりとした長身でもって彼は、美鈴に正対した。美鈴には、彼が何をしたいのか、予測がついていた。
「私は士叔。姓は杜、氏は士、字は叔」
 美鈴は粛々とそれを聞く。
「名は(しょう)という」
 燮、と美鈴は口の中で呟く。なるほど、当に名の体を表すべし。美鈴は納得せざるを得なかったし、同時に、彼の運命が既に如何ともしがたきものであると知る。

 燮する――人と調和する、と名づけられているのだから。




五 今吾觀女也專則不能將若之何?
 ――今見るに、お前は一人ではやってゆけまい。これからどうするというのだ?

 朝、美鈴が范の町を眺めるや、違和感を覚える。何かがおかしい、と。直後に何が起きたかに気付いた。范の町からその濁気が消え失せていたのである。范の町は既に、"普通の城邑"に戻っていた。
 美鈴はすぐさま何が起きたかを直観する。美鈴は一目散に范の町へと向かった。

 これまでよりはるかに、范の町の居心地は悪くなっていた。これまでと異なり、気が身に沁みる。妖を受け入れようとせぬ空気が、そこには満ちていた。
 それでも美鈴は進む。邑の門も、館の門も、易然とすりぬけ、美鈴は廟堂の前に立った。
 幸いというべきか、廟堂は未だ祓われた形跡がない。昨日に比べれば相当澄んでいると言えるのかもしれないが、それでも美鈴が入り込むには充分なほど禍焉としている。

「父上を殺したのは、お前か」
 美鈴が廟堂に一歩踏み入れた途端、声が響く。その声は、士叔の声にかなり似ているように思ったが、それにしては若すぎた。
「貴方は?」
「俺はお前に聞いている」
 廟堂の中央――いつも士叔が座っていた所に立っていた彼は、左手に灯りを持ってつかつかと歩み寄ってくる。右手に持つのは、戈だ。
「父上を殺したのか?」
 彼は美鈴から二歩ほどの所に灯りを置き、それから両手で戈を構え、その先を美鈴へと向ける。どうやら脅しているらしい、と美鈴は思う。尤も人間一人、美鈴の相手ではない。普段ならば、一撃の元に殺してしまった筈だ。
 だが美鈴は殺そうとは思わなかった。何故かはよくわからないが、いつものような闘争本能が全く湧いてこないのだ。
「もし貴方の父が、この范の領主の士叔であったとするのなら」
 故に美鈴は彼へ告げる。
「私は手を出していない」
「そうか」
 その美鈴の一言で、彼は戈を下ろす。
「もう一つ問うてよいか?」
 その青年は、下ろしこそすれ左手で戈の柄を強く握りしめ、美鈴を見据えていた。彼の纏う気は敵意ではないようだったが。
「貴女は、妖だな?」
「そうですよ」
「やはりか」
 美鈴の答えは、彼の予測通りのものだったようである。
「警戒しないのですね」
 全く敵意を出さぬ彼に、美鈴は少し疑問を覚えた。"私を殺せ"などと言う士叔ならともかく、死にたくないごく一般の人間であったなら、妖と聞けば恐れ慄くものだろう。
「貴女は、父上と知り合いのようだ。ならば、警戒することはない」
「やはり、貴女は士叔どのの……?」
 言動や姿に、美鈴はその若者の素性に大体の予測がついた。彼の顔に相対してみれば、その瞳が士叔にそっくりであるように美鈴は思えたのだ。その輝きの有無を覗けば。
「そうだ。私の父は士燮だ」
 先ほどまでの覇気とは一転、彼の表情は苦悩に満ちたものとさえいえる。
「どうして、私が士叔と語っていたのを知っているのです?」
「いつも、父上が何かと語っているのは知っていた」
 彼は、はっきりと美鈴へ告げる。
「覗いてみれば、人に非ざるものであることぐらい、すぐわかるものだ」
 美鈴を見据えたまま、青年は断言した。美鈴は少し油断しすぎたな、と悔いる。尤も、士叔の前では故意に警戒を解いていた部分もあったのだが。
「それで、士叔どのは……?」
 その語った相手について、美鈴は問わずにはおれなかった。おおよそのところは、この著しい気の変化から予測はついている。ついているとはいえ、確証が欲しかった。
「死んだよ。昨日の夜」
 そしてその美鈴の予測通りの事を、彼はあっさりと告げた。
「そんな……」
 美鈴は絶句した。
 どこかで、士叔が決して遠くはなく死ぬことはわかっていた。呪詛を辞めればどうにかなったかも知れぬが、士叔が呪詛を辞める可能性は残念ながら無いと思っていた。となれば、何ぞ斯くも多き怨気を背負いて生き延びること能うべけんや。
 それでも美鈴は、士叔が死んだ、と言うことを信じたくはなかった。

 彼の生き方は、終ぞ美鈴には理解できなかった。しかし、理解できないながらも、どこかでずっと憧れを抱いていた。だからこそ、あのままずっと生きていてほしかった。士叔が生きるその先を見てみたかった。
 とはいえ、所詮は士叔とて人間。その先とてたかが知れている。
 結局、美鈴は士叔ともっと話し合いたかったのだ。士叔にもっといろいろな話を聞けば、彼の生き方というもの――士叔という人そのものを知ることができたのではないだろうか、と美鈴には思えるのだ。
 美鈴が士叔という人を知る術というのは、永遠に失われてしまったのだ。

「最期まで、私とこの士の家を心配して、死んでいったさ」
 青年の言葉はあくまで冷静である。だが美鈴にはわかった。彼の心は平静などとは程遠い所にあるということに。
「……」
 美鈴も返す言葉を持たない。士叔が死んだという事実に打たれた美鈴の心はまだまだ乱れていたし、父を失って悲嘆する青年に掛ける言葉も見つからなかった。
「何処までも、父上は穏和に生きた」
 青年は、静かで感情の籠らない言葉の裏で、激しく慟哭している。
「父上はひたすら影に徹し続けたのだ。郤克の影となり、欒書の影となり」
 郤克・欒書というのは、確か晋の正卿の名だったな、と美鈴は思い返す。
「連中よりもずっと才に溢れていたのに、だ。父上はあれだけの才を持っていながら、最期まで表舞台に立つことはなかった」
 それが士叔という人の生き方だったのだ。最期まで裏方に徹するのが士叔であった。
 だが、所謂"出来人"であった、と美鈴も思っていた。あれだけ穏和な人間であったが、時折美鈴さえぞっとさせるような部分があったのだから。
「最期まで、祖父・武子さまの積み上げたものを守ることだけを考えて」
 あくまで冷静に語っているつもりなのだろうが、青年の言葉には次第に感情が籠ってきていた。その心の哭泣が滲んでいる。
「結局最期まで、父上は武子さまの影を守り続けていただけだ。そう、最期の最期まで」
 少し俯いていた青年は、唐突に顔を上げる。切れ長の目で、美鈴を半ば睨んだ。
「教えてくれ。父上の生涯は、一体なんだったのだ?」
「……」
 青年の問いに、美鈴は答える術を持たない。
「あんたは、父上と語っていたのだろう? あんたはどう思うんだ?」
「……わからないです」
 それがわからないから、美鈴は士叔と会っていたのだ。なのだから、美鈴にわかるはずなんてなかった。
「わからないけれども、そんな影を支える生涯も、立派だったと思いますよ」
 美鈴に出来るのは、士叔の生涯が無駄ではなかった、と思うだけだ。自分にもその確信はない。ないが、無駄とはとても思いたくなかった。
「そうか」
 青年は、美鈴の言葉を受けてしばらく黙りこんだ。

「俺は」
 暫くの静寂を破ったのは、青年だった。
「俺は、父上が命を擲ってまで守っていたものを、守り通して見せる」
 その言葉は、青年の決意である。
「何人も欠かすことは許さない。天神だろうが地祇だろうが、指一本触れさせはしない」
 青年の拳からは血が滲んでいる。力強く握るその様は、彼の決意の強さだろう。力強い言葉に、死を越えた決意を美鈴は感じていた。
「だが、父上にはならない」
 その言葉に、美鈴は青年の瞳を覗きこんだ。しかし、それは冗談でも何でもない。
「どんな手を使ってでも、父上の守ってきたものも、この俺自身も、守って見せる。そうして、父上の死が間違っていたことを見せつけてやる」
 死が間違っていた。その言葉こそ、士叔への非難の様にさえ聞こえる。
 だが美鈴にはわかっていた。その言葉には、青年が父を慕っていたということ、父がこの形で死んだことに対する哀しみが、詰まっているということを。
「そうですか」
 美鈴は、それ以上何も言えなかった。
 理性では、士叔の死に対する青年の反発もわかる。
 でもどこかで、青年が反発することが許せない自分がいた。


 士叔の死は、美鈴にとって大きな衝撃であった。彼の息子も言っていたけれども、士叔という男の生涯は、一体なんだったのだろうか、と美鈴にも思えたのだ。
 ああやってひたすら己を戒め、才を隠し、人の影となって生き続ける彼の生涯はなんだったのか。ただ人の為に生きている士叔自身は、なんだったのだろうか。

 士叔という男は、美鈴にとって疑問の山であった。
 だが同時に、彼に憧れを抱いていたのも事実であった。何故か、と問われても良くわからない。ただただ、士叔という男の生き方に対して理由もわからずに憧れているのだ。
 ともあれ、美鈴は士叔という男が何故あんな生き方をしていたのか知りたかった。さらに言えば、士叔と言う男の生き方の意義を見出してみたかった。そうすれば、どうして彼の生き方に魅かれているのか、と言うことがわかるかもしれない。

 故に、美鈴は決意した。自分も、士叔のように生きてゆこう、と。
 真似てみれば、士叔の生き方が理解できるかもしれない、とそう思った。





六 美鈴欲燮(めーりんゆーしえ)
  ――美鈴は、調和して生きようとおもった。

 紅魔館の門前へと立ちつつ、先ほど手に入れた『東坡続集』を美鈴はめくる。唐宋八大家の一人・蘇軾によって撰ばれた文章をこの本はまとめている。だが美鈴の目指す所は、そのうちただの一つだけ。
「こうして広く議論されるようになると、あの方も思っていたのでしょうか」
 美鈴は思わず呟く。その目線の先には「士燮論」と題された短文があった。

 あの不思議な邂逅から既に2500年以上の時が流れている。その間に自分の知り合いは殆ど死に絶えて、新しく知り合いが増えた。あの頃から付き合っている人間はおろか、妖怪とていない。
 士叔の死より後、美鈴は士叔を目指した。勝つことよりも戦わぬことを目指し、才力を表に出すことはなく、殆どただの人と変わらぬ姿にして、そうして世に埋もれて暮らした。他の妖怪たちには、見下され嘲笑され罵倒された。腑抜けめ、と怒鳴られたことも一度や二度でもない。
 だが、そうして怒鳴った連中は次々と死んでいく。或る者は人に狩られ、或る者は妖に討たれ、或る者は神に誅され、或る者は時に引かれ、次々と此岸をあとにしてゆく。気付けば美鈴一人となってしまったのであった。
 決して自分に力があるから、こうして一人生き残ったのだ、とは美鈴も思っていない。美鈴より余程力のある者も多かったが、彼ら彼女らも又、死んでいった。

 今こうして生きて楽園であくびをしていられるのは、士叔の御蔭ではないか、と美鈴は思っている。士叔のあの処世術――謙虚たりて自戒するということを実践した結果として、2500年という長い歳月を生きてこられたに違いない。
 そして、長く生きてきたおかげで美鈴は、もう一つの士叔の生き方を実践する機会を得ることもできた。つい100年ほど昔から、自分が命を賭けてでも守りたいと思う者ができた。そのおかげで、士叔の境遇にもう一つ近づいたのではないかな、と美鈴は嬉しい。士叔と違って自分が主ではなく、あくまで門番でしかない。けれども、自分以上に守りたいものがある、という点では同じと言えるはずだ。

 士叔にもう一度会って、感謝を告げたいな、と美鈴はふと思った。そんなこと、決して叶わぬものだということは重々承知している。それでも、こうして生き延びてこれたこと、自分にも守るものができたということ、そして、こんな楽園で生活することができること。全てが、士叔の御蔭であると言ってもいい。だからこそ、こんな幸福な境遇を得られたことに、感謝したい。

 今でも、士叔の生き方を完全に理解したとは言い難い、と美鈴は思う。時折、自分の力を見せつけていた方が良い生活だったのではないか、と思うこともあるのは事実だ。だが、士叔の存在を理解できずとも、やはりそれが尊敬すべきものであるのだな、という心は変わらない。むしろ士叔のように生きてきた今、その心はより確固たるものとなった。

 そして、美鈴は今なら自身を持って言うことができる。士叔の生涯が、決して無駄ではなかった、と。彼のように生きることを学んだ妖怪は、生きながらえて能く夢郷に遊んでいる。士叔の生涯は、妖怪をして幸福たらしめたということだ。それは一介の妖怪かもしれないけれども、ただの一人とて幸福に出来ぬが殆どの者だ。となればやはり、士叔の生涯には確と意義があったと言えるに違いないのだ。


 美鈴は本へと目を落とす。
 「士燮」の字が美鈴に向かって、微笑んだ気がした。







 もし士燮が死ななかったとしたら、晋公は必ずその野望を大きくして、士氏を巻き込んだことだろう。それは、かつての宰相・趙盾のことを見ればあきらかだ。趙盾は死なずにすんだかもしれないが、悪名を被ることになった。だから、士燮の知略とは、趙盾をはるかに凌駕するものであるのだ。

蘇軾『士燮論』
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