「おや、こんなところで何をしているのかしら?」
「そちらこそ、何してるんだい?」
人里へ向かう道の上空。こちらを見ている亜k量が正面に一匹。トレードマークのナイトキャップは、遠くからでも目立っている。ふと下を向くと、これは珍しい、といった顔をして人間がこちらを見上げている。
「ちょっと人里に行こうと思ったのよ。あんたは?」
「奇遇だねぇ。私も、ちょっと人里に遊びに行こうとおもったのさ」
私自身よりも、いくらか濃い緑の髪を掻き揚げて、魅魔が白い歯を見せた。
――魔法使い集って――
清冽な冷気が身に刺さる。空から地上を眺めると、どちらも真っ白で目が痛くなりそうな、そんなしばれる冬の日。
「幽香、あんた最近どうだい?」
「最近どうだい、って言われてもねぇ。そういう魅魔は何かあったの?」
「無いから聞いてるんだろう? 日頃平和に暮らしてるしがない悪霊が、話のネタを持っているわけがない」
「ならば、日ごろ平和に暮らしているしがない妖怪が、ネタを持ってるわけもないでしょ」
軽い掛け合いも、魅魔らしい。
「で、人里に用事があるの?」
「特にこれといったものは無いよ。誰か知り合いでもいれば、ちょっといじってやろうかと。その程度さ」
「そうねぇ。また理香子あたりをからかうのは、楽しそうね」
どうせまた研究にでもハマっているのだろう。
「それか、夢美んとこに行って珈琲を御馳走になるのもいいかもしれないねぇ」
「あいつのところねぇ。それもありといえばありだけれど」
「珈琲、結構好きなんだよ」
「私は紅茶の方が好きね。珈琲はちょっと酸っぱいし、野蛮っぽいじゃない」
「そうかい? 私はあの珈琲のガツンとくる苦味が好きなんだけれどねぇ」
「別に珈琲嫌いじゃないわよ」
魅魔が私を少し見下ろしている。差し詰め、子供だなぁとでも思っているのだろう。
「ふーん」
「言ってればいいわ。まったく」
「いや、何も言ってない」
「ああそうなのね」
気の無い返事を返した。付き合いきれない。
「別にあんたが何考えてても構わないけど、夢美のところに行くといつも変なことさせられない?」
「そういえば、そんなこともあるかねぇ」
「あれ、何やってんの? 魔力の波長がどうのこうのとか」
「一応、外でやってきた研究を今もやってるとか」
「へー」
舎密とかそういう類のものだろう。私にはあまりいい思い出がない。
「だから理香子とは話が合うって言ってたねぇ」
「まあ、あの二人なら話が合いそうね」
「最近では、朝倉嬢が夢美のところに泊まるのもしばしばらしい」
「よく知ってるわね、そんなこと」
「この間、小兎姫の奴に会って、その時に聞いたんだよ」
「それは、また」
災難だったわね、という言葉は飲み込んでおいた。
「でも、そういうことなら魅魔は結構人里に行くのね」
「それほどでもないよ。あんたとそう変わらないくらいじゃないか」
ふむ、と私は思案した。存外、悪霊もよく人里に出没するらしい。
「ところで、幽香」
「なあに?」
「あそこに面白いの見つけたんだが、どうだい?」
「確かに、面白そうなのがいるわね」
人里の門のあたりに、人影が見える。真っ白い地面には一際金髪が映えている。周りでうろちょろしているのは、人里の子供だろう。
「そうだ、あの子の家にお邪魔させてもらうというのはいいんじゃないか?」
「名案ね。それ」
「嫌がると思うけれども」
「そりゃ、もう二度とメイドなんてしたくないと思ってるでしょうから」
「今だに、魔法を盗まれたことを恨んでるんじゃないかね」
時々光るのは、人形の髪だろうか。子供たちの集まり方からするに、人形劇の後なのはすぐにうかがえた。評判は時々聞くが、概して上々。見たことは無いから、よくわからないけれど。
「さあて、行くか」
「ええ、行きましょ」
魅魔が突然速度をあげる。私はついていくので精いっぱいだった。この悪霊、見かけによらず足が速い。きっと、逃げ慣れているからなのだろう。
雪原で子供と戯れる彼女は、本当に人形のよう。ちょっと現世からは逸脱しているような雰囲気があるのは、彼女らしいといえるだろう。
「お久しぶりねぇ、アリス」
「今日は人形劇の帰りかしら?」
二人同時に声をかける。アリスの目じりが、少し上がる。
「げ」
「何よ、げ、って。昔からの付き合いじゃない。それなのに、げ、はひどいんじゃないかしら?」
「折角旧友を見つけて声をかけてみたら、げ、とは随分と嫌われたもんだねぇ」
気付けば、人里の子供たちは不思議そうに魅魔を見上げている。軽く会釈をしてあげると、上海人形を抱えた女の子が笑い返してくれた。
「一体どこから来たのよ」
「そりゃ、太陽の畑から」
「私ゃここにいるよ?」
「それが揃ってってのは、なにか私にでも恨みがあるわけ?」
アリスの端正な顔は、明らかに忌避の表情だ。魅魔の奴が前にメイドとしてこき使ったせいに違いない。
「いいえ、そんなこと無いわよ。ただ、たまにはアリスさんのお宅にお伺いしたいとおもって」
「そうそう。アリスと会うのも珍しいからねぇ」
「ちょっと待ちなさいよ、どうして私の家なわけ?!」
「あら、呼んでくれないの?」
「そんなこと言っても、あまりに突然すぎるじゃない!」
「つまり、アリスにしてみれば私たちみたいな旧友もどうでもいいってことかい? それはこれまた、冷たいねぇ」
「あのね、そもそも私は」
「子供たちが見てるわよ」
「だからなんなのよ」
「いや、私たち"友人"に対してどんな振る舞いをするか、見てるわよって話」
私の言葉に、アリスは振り返る。真摯な目で見つめる、子供たち。純朴な瞳は、やはり人間の子供だからこそだろう。その視線が、アリスに集まっている。
「あの」
「下手なことを言ったら、上白沢はさぞ怒るだろうねぇ」
「ねぇねぇ、普段上白沢先生から、お友達はどうするように教わったの?」
魅魔の後ろを抜け、私はしゃがみこんで問う。
「お友達は、大切にしなさいってけーね先生いってた!」
「そうそう、いってたー」
「無視したりしちゃいけないってー」
次々と言ってくれた子供たちの頭を、撫でてあげる。やっぱり人間の子供はかわいい。
「と、子供達も言ってるが?」
「ぐっ」
アリスが、左手でこめかみを圧す。考えるときの、彼女の癖だ。
「それじゃあ、スペカ決闘で決めない? 私勝ったら、貴女の家にご招待ということで」
「嫌よ。一人とやっても勝てなさそうなのに、二人とやっても勝てるわけないもの」
「なら、私と1対1で?」
「そんなもん勝負にならないわ」
アリスはゆっくり首を振る。しかしここで諦めるわけにはいかないのだ。
「じゃ、あなたは何枚でもスペカ利用可能。私は一枚も使わない。これでどう?」
「はあ?」
「それで勝ったらアリス邸二名ご招待。負けたら、私と魅魔とを一月こき使って構わないわ」
「なによそれ、何を考えてるの?」
アリスが半眼で睨んでくる。
「ねえねえ、君たちー。これだったらどっち有利かな~?」
「もちろん、アリスさんが有利だとおもうー」
「でも、喧嘩はよくないってけーね先生が言ってたー」
「どうしても必要なとき以外に、そういう力は使っちゃいけないってー」
魅魔に言い寄る子供に、それこそ子供もかくやという程の無邪気な笑顔で、魅魔は答えた。
「これは仲良しの証拠なのさ。こうやってじゃんけんみたいに、弾幕ごっこが気軽にやりあえるってのは、大切なんだよ」
「そうだったのかー!」
「そうさ。そうやってみんな、仲良くなるんだよ。私とそこの幽香、そしてアリスも一緒なのさ」
「へー! じゃ、とっても仲が良いんだね!」
「そういうことだね」
「じゃ、アリスさん頑張れー!」
「って、子供達が言ってるけど、どうするの?」
かわいらしい子供たちに、もう一度私も軽く手を振る。一人、返してくれた。
「ああ、もうやればいいんでしょうやれば!」
アリスが持っていたカバンを子供たちの前に置く。
「これ、大切な道具だからよろしく頼むわ」
「ああ、子供ともども、安全だけは保障する」
「私が勝ったらホントに言うこと聞いてもらうからね!」
「幽香、負けたら承知せんからな」
なんとも、魅魔もアリスも厳しい所。子供達も、アリスを応援するらしい。
「じゃ、始めましょう。私はスペカゼロよ」
「何枚でもいいって言ったのは、あなただからね! 今更撤回とかしても遅いわよ!」
アリスが右手を突きだす。カードが現れる。「グランギニョル座の怪人」だ。これまた、派手。
どうせなら、ちょっと面白く勝ちたい。だから私はそのための準備を始める。弾幕は、最低限を傘で躱すだけ。
「別に動くなとも弾幕を張るなとも、言ってないわよ」
「ええ、わかってるわ。でもまだ始めるときじゃないわ」
「何言ってるのよ、すでに終わりが近いのよ」
「馬鹿ね。これは終わりでも、終わりの始まりでもないわ」
弾が速い。が、反応できない速度ではない。普段なら避けるのは、それほど難しくない。
が、魔法陣を描きながらとなると少し話が違う。最低限の動きと、弾幕避けに使える傘を用いても、少々骨の折れるスペル。なにせ遅い弾と速い弾とで攪乱するようなスペルなのだ。アリスは、どうやら本気らしい。
「歳取ってますます足でも悪くなったかしら?」
「その程度のスペルでは動くのがもったいないでしょう?」
幸い、かつてのアリスとそれほど魔法は変わっていない。その点では、読みやすい。あの頃ストーカーしてまでアリスの魔法を学んだのは、決して無駄ではなかったらしい。
「ならば、これでどうよ!」
続いて二枚目。ふっと右手を前に突き出し、カードを現出させる。ペースが速い。何枚使ってもいい、といったから当然ではあるが。さっと見たそこには、赤符「ドールミラセティ」。くじら座ミラをモチーフにしているとは、これまたアリスも思ったよりロマンチストだ。前から、だが。
そういっている暇は、実はあまりない。次々寄せてくる大赤玉をうまく躱しつつ、球形に次々襲ってくる鱗を払わねばならない。それをやりながら、思考しつつ魔法陣を描くのは相当な難事だ。
じりり、と右足を走る鈍い痛み。弾が掠ったときのそれ。流石はアリス、楽しませてくれるようだ。
「幽香、ほんとにやる気あるのか?」
魅魔から野次が飛んでくる。うるさいやつだ。
「アリスさんの弾幕キレイだ」
「すごーい」
子供達の容赦ない応援。確かに外から見る分も、中から見る分も相当きれいなのだが、そんなのを楽しむ余裕は少し私にはない。
「もう知らないからね、三枚目!」
再び、右手を前へ。操符「ドールズインシー」。容赦なし。
「さあ、さっさと落ちろ!」
私が怪しげなたくらみをしているのを見て、とにかくサッサと落すのを狙っているらしい。アリスの周りにはもう三十体程の人形が浮かんでいる。それを操作するアリスの表情も、近頃ではお目に掛かれぬほど真剣。そこでばら撒き型のスペカなぞ、反則にも近い。
じ、と右脇腹に痛みが響く。続いて左肩。傘で振り払う少々の反則技を使っても、次々と体のあちこちを削っていく。正直かなりしんどい。ここからは、弾で殆どアリスが見えないほど。
だがその一方で、私の狙うものも着々と完成しつつある。ばら撒きだからこそ、行動範囲の制約は少ない。その弾を避けられさえすれば、どこにでも行けるのだ。
とにかくがむしゃらにばら撒かれる小弾を避け続け避け続け、私は最低限の魔法陣を完成させる。あとは、期を待つだけ。
それが、長い。
避けても避けても、弾。只管に、弾。本来なら、人形を打ち消すことで避けるのを容易にするスペルなのだろうが、こちらが私自身からの攻撃をするつもりがない以上、これは難関スペルだ。
「アリスさん、あとちょっとー!」
子供からの応援が走る。
「幽香、負けたら私はあんたを一生こき使うからなー!」
魅魔には一生なんてもうないくせに、と思ったが言う暇すらない。
にやり、と思わず私は歪み笑っていた。こういう、勝つか負けるかの勝負が、楽しい。楽しくて、仕方がない。
「ほら、アリス。この程度で私を落とす気なのかしら?」
「あら、さっきから顔が歪んでるのは、痛みのせいじゃなくて?」
「楽しいのよ。ああ、ここが仕方なくね」
くすくす、と自然に笑っていた。確かに痛さは感じているし、目の前が弾の光で一色なのは、なかなかに絶望的な光景だ。でも、これほど楽しいことは、他に思いつかない。
「そう、なら止めよ!」
アリスが手を前に突き出す。来た!
「行きなさい!」
アリスの右手の先に、カードが現出しかける。一気に魔法陣の起動をかける。さあ、この刹那。
カードの字を見る。騎士「ドールオブラウンドテーブル」。魔法陣に照らされて、私の視界が緑に染まる。
「かかった!」
円筒形のランスを握った人形たちが向きを変える。アリスが少し首を傾げる。完全に、掛かったらしい。私が右手をわずかに、動かす。アリスの表情が、さっと蒼褪める。人形たちが、アリスめがけて突進する。
「え?!」
避けることができるはずもない。四十体近いアリスの人形。それが隊を組んで、アリスめがけて突進する。
「なんなのよ!」
咄嗟の五枚目。「リターンイナニメトシス」。食らいボムに近い、スペカの切り方。一般的な弾幕ごっこでは、ごく普通の展開であるといえるだろう。だが、この場合の対処法としては、全く間違っているといわざるを得ない。
スペカ発動の刹那、人形の数体が、そのアリスのすぐそばで爆裂した。
「全く、意味が分からない! 幽香何をやったのよ!」
「さあ、こちらの番よ」
あの爆裂からどうやって隙を抜け出したのか。正直、私は驚いた。次の瞬間には、爆発のいくらか上に、少々傷の増えたアリスが浮いていたからだ。まったく、ひたすら楽しませてくれる。
「さあて、避けなさいねー」
アリスの下に浮く四十体の人形。それが、私の命に従って動き始める。アリスを中心に惑星軌道を取り、弾幕をばらまき始める。アリスの色に合わせた、七色の弾幕。次々と人形たちの軌道の内側へと弾幕をばらまきはじめる。
野次側は無言。呆れられてでもいるだろうか。
「ち、ちょっと!」
アリスはスペカを出しかけて、しかしやめた。どうやら、半分ほど状況を理解したらしい。端正なアリスのこと、焦った表情さえ様になっているのが少々疎ましい。
「スペカ使ってないわよ、わたしー」
「そういう問題、じゃ」
ざーっと、アリスは弾に揉まれる。声も途切れるほどの、弾の嵐。これまで散々させられてきた分の、お返しだ。
ぴちゅーん、という妙に間抜けな音。被弾すると鳴るようにするのが、スペカ決闘の規則。
「あら、一被弾ねー」
「ち、ちょ」
アリスがもう一度こちらを睨み付けてくる。ぞくっとするほどの、綺麗な青の瞳。同性ながら魅かれるものがあるのは、アリスのアリスたる所以だろう。純粋に、美しい、と思った。やっぱり彼女は、"神の贈り物"。
そんな気持ちは、向こうにはどうでもいいだろう。アリスはそのまま片手に持つ本を開きかけている。私はまた、にやりとした。それなら、もう少し面白い勝負が続けられそうだからだ。
かつてアリスは、そこにある魔法書を以て最高の魔法を用い、挑んできた。それからだいぶ時間がたつ。今のアリスはどれほどの魔法を使って見せるのだろうか。この私を、打ち破ることもできうるような魔法を用いるだろうか。
それが楽しみ。
されどそこでアリスは本を閉じた。使わないらしい。
と、二被弾。がく、っとアリスが肩を落とし、前のめりになった。
「負けたわ。もう、いいわ。諦める」
「そうなの」
つまらない結果だ。
「ええ、あんたには、やっぱ勝てないわ」
ふ、と右手を動かす。弾幕は一気に消え、アリスの前に人形が整列する。まるで王に従う騎士のように。
「ゆーかおねーさん、すごーい!」
「やる気無かったんじゃないんだね!」
子供達の歓声が、耳に心地よい。
「あら」
とてて、と駆け寄ってきた子供達の頭を撫でて、それからしゃがむ。目がキラキラと輝いている。
「どう、見てて面白かったかしら?」
「うん、とっても綺麗だったよ!」
「人形がね、こうひっくりかえって並ぶ瞬間がね、かっこよくてー」
「どうもありがと、ちょっといつもとは違う弾幕ごっこだったかもしれないけど、面白かったならよかったわ」
「おねーさん、また来るー?」
「ええ、時々来るわ。もし見かけたら、挨拶くらいちょうだいね」
「うん!」
一同声をそろえた挨拶に、なんだか満たされる。
「あと、守ってくれた魅魔にもちゃんとお礼しなさいね」
「あ、みまさん、ありがとー!」
「ああ、こちらこそ。久しぶりに楽しく弾幕ごっこを見たよ」
「それじゃ、またねー」
すっかり上機嫌な子供たちが、人里に戻っていく。魅魔と私と顔を合わせて、ふふ、と笑った。珍しい、屈託のない。
「まさか、円卓の騎士に裏切られるとは思わなかった。何をやったのよ」
一方の、アリスの声が、沈んでいる。新雪に沈み込みそうだ。
「そりゃぁ、私あんたの魔法だいたい知ってるもの」
「こいつ、ストーカーだったもんねぇ」
さっきまでの笑顔はどこ行った、と傘で殴りたくなった。しかし傘を突いた先に、魅魔は既にいない。
「結局、私の魔法の欠陥をついたわけ?」
「そうね。流石に探すのに苦労したけど、ごり押しで存外どうにかなったわ」
「あんだけの魔力ブチ込まれたら、耐えられるわけないわ」
はあ、とため息。その愁いの顔がこれまた、どことない色気を匂わせ、また保護欲をさりげなく駆り立て、心を打つほどの容姿。ああ、西施か、と故事を納得。きっとこの顰に倣うと、悲惨な目に合うに違いない。
「それはともかく、あの最後の弾幕、あれは反則じゃないの?」
「そうかしら?」
「あんなばら撒き、避けられるわけないじゃない」
「ばら撒きじゃないわ」
魅魔が、あきれ返ってこちらを見ている。
「中心のアリス、楕円軌道を周回する人形38体、そして人形を焦点に七重の周転円を軌道とする丸弾4320個、これを、重力などの相互作用を考えつつ挙動を計算すれば、十分軌道は読めたはずよ」
「そんなもんできるわけないでしょ!」
「あら、こないだ紫にやったときは、二重周転円軌道の惑星123体、十七重周転円軌道の弾124029個、挙句弾の大きさ5種類で質量変えても、計算されて避けきられたわよ」
「あいつと一緒にしないで」
魅魔が、アリスの肩をたたいた。なんだ、その不服そうな目。
「そもそも、なんでそんな科学的な話なのよ、それ」
「この間、理香子んちで読んで面白そうだから再現したの」
「あんた、よほど暇なんだね」
「魅魔、あんたにゃ言われたくないわ」
魅魔の脇をつかんでやる。思ったより、つかんだ肉が大きい。にやり、と笑ったら殴られた。
「で、私にどんだけ計算しろと?」
「さあ?」
「なによ、それ」
「近似でしか解けないからねぇ。どの程度の精度を求めるかによるんじゃない?」
「はあ?」
アリスが、がっくりと再び肩を落とす。なんか意味も分からなかった、という表情。
「最初から、勝たせる気なかったんじゃない」
「そりゃ、勝つために勝負してるんだもの」
とはいっても、結構こちらもぎりぎりだったのだ。もしあれで乗っ取りに失敗でもしていたら、それこそ完全に私は術を失っていただろう。でもそんなことは、言ってあげない。
「幽香、よっぽどあんた暇なんだねぇ」
「なによ、魅魔だって同じじゃない」
「あんたほど面倒なことはしないよ。私ゃ」
「じゃあ、どうするのよ?」
「そんなもん、手を出させるまでもなく叩き潰すさ。やるなら本気だね」
「へー。だって、アリス」
「要するに、二人とも全く容赦しないってことなのね」
如何にも不快そうな顔。
「だって、手加減したってつまらないじゃない。ね」
「まったくだ。やるなら全力で」
「ああ、そう」
気の無い答えが返ってきた。
「それじゃ、早速だけど案内頼むわね」
「やっぱり、行くの?」
「当然だろう? 一度した約束は、約束さ」
「あんたは、何もしてないけどね」
「なら私ともやるか? 幽香と同条件で構わないよ」
言って魅魔が胸を張る。
「いいわいいわ。どうせ、勝てないでしょうから。もうこれ以上疲れさせないで」
「ああそうかい。つまらないねぇ」
「つまらなくてごめんなさいね」
明らかに、アリスがむくれている。私はその肩を軽く一度だけ叩く。
「でも、約束は約束よ?」
「わかった、わかってるわよ」
再び溜息。溜息をすると、幸せは逃げていくのに。
「なら、さっさと案内頼むわ」
「今から行くから、そう焦らないでもいいじゃない」
アリスは軽く地を蹴り上げて、浮かぶ。まるで空気に座ったようなその姿。その腰の捻り具合が、アリスのやわらかな曲線美を空中から切り出す。
「ただ、せめて家を整理する時間くらい頂戴ね。5分でいいわ」
「相変わらず、いい家に住んでるわよねぇ」
「あんたにゃ言われたくないだろうよ。館の主さん」
「とは言っても、最近帰ってないのよね」
「帰らないのかい?」
「読む本には困ってないしね、今のところ。人里でもだいぶ面白いものが手に入るようになったもの」
「そういう問題じゃない」
「それに、あまりあそこで皆と一緒にいると、ここの主のおばさまにいろいろ言われそう」
「幻想郷の主、ね」
魅魔も悪そうな笑顔を浮かべている。奴が出てこないあたり、会話までは聞いていないのか。
「しかし、それでどうにかなるもんかい?」
「同居人が結構いるもの。別に私がいなくとも、回ってると思うわ」
幻月や夢月、エリー、くるみにも最近だいぶ会っていない。きっと彼女たちなら元気に暮らしているから、問題ないだろうけれど。
「それも少しさびしいだろう?」
「言う程でもないわよ。これまた随分と柄でもないことを言うわね」
「幽香のことだから、密に泣いているのではないか、とか思ったのさ」
「私のことをなんだと思ってるのよ」
「寂しがり屋の妖精さんさ」
思わず傘で殴ってやろうとおもった。だが、こんなのを殴るのは傘がもったいない。そう思うと、手がでなかった。魅魔には感謝してほしい。
「で、魅魔はどうしてるのよ?」
「もっぱら、博麗神社あたりに居座ってるよ。別に家というものほどではないが、そもそもこれじゃ雨露をしのぐ必要すらないから」
「そりゃそうね」
魅魔は霊体なのだ。これでも。
「でも、霊夢が前々から、人が集まらないと嘆いているのだけれども、やっぱりあなたのせいだったのね」
「霊夢、そんなこと言ってたのかい?」
「ええ。なんでも、妖怪しか集まらず人間はさっぱりこないとか。それって、やっぱり悪神を祀ってるからとしか思えないじゃない」
「そりゃ自業自得としか言えないねぇ。そもそも、あんなに修行もしないだらけた巫女の神社に、誰が行くのさ」
「あら、きついわね」
「奴のことは昔から見ているから、よくわかるんだよ」
「よくいじめられてたのね」
「いじめてたんだよ」
魅魔に挑みかかっては叩き潰される霊夢が、脳裡に思い浮かぶ。だいたい、誰とやっても霊夢はねじ伏せている印象しかないが、この魅魔だけは霊夢もねじ伏せていそうだ。あくまで印象だが。印象は、大切だ。
「ところで、魅魔」
「なんだい?」
「中、興味わかない?」
目線の先には家の玄関。魔法で施錠されてある。
「そうだねぇ。そろそろ、開けるかい」
「あんた、開けられるの?」
「私が誰の師匠か、あんたは知らないのかい?」
「知っているから聞いてるのよ」
魅魔はそのまま玄関に近づいていくと、手を玄関にかざした。
「まさか、ほんとに吹き飛ばすつもりじゃないでしょうねぇ?」
「なんでそんなことするんだい?」
ぼう、と魔法陣が浮かび上がる。そういえばこいつも、魔法使いだ。
「いや、あんたの弟子といえば、"弾幕はパワーだ!"と豪語して已まない魔"砲"少女じゃない」
「そういえばそうだが、それはあんたの影響だろう?」
「私、あいつに教えたことなんてないわよ」
「だが、"ますたーすぱーく"はあんたの技だろう?」
「私のあれは恋符なんてぬるいものじゃないけどね」
「でも、力でねじ伏せんのがあんたじゃないか」
「あんたもでしょ」
言っている間に、魅魔は針金へ持ち替えている。鍵穴から聞こえるかちかちという音が、鍵の無力さを示している。
「お、開いたよ」
「速いわねぇ。どこでそんなのやってたのよ」
「もう覚えてないねぇ」
ナイトキャップのぼんぼんが左右に揺れている。犬の尻尾のようだ。
「さーて、突入!」
「アリス、勝手に入るわよー」
揃って中へ。廊下を抜けて居間へ入ると、正面のアリスが、驚いたような呆れたような姿で、大理石の彫刻の如く固まっていた。本当に止まっていると、とても生きているとは思えない。
「……」
「……つまらないわね。2点」
畳を敷けば10畳ほどになるだろうか。正面の窓を除いて、左右には本棚が並んでおり、真ん中には大き目のテーブルが一つ。人形たちがあちこちで作業を続けている。
「何よ、つまらないって」
有体に言えば、綺麗な部屋であった。
「それじゃ、二階ぃー」
「ちょっと」
「どうせなら家探ししないと面白くないからねぇ」
アリスが動くよりも早く、さっさと二階へあがってみる。
二階は、予想通りアリスの工房であった。端にベットが置かれており、その上が窓。それ以外の壁面がすべて本棚で、作業台が中央に鎮座している。 人形の腕やら目やらが転がっているのが、少し猟奇的な雰囲気を感じさせる。
「……つまらんね」
「つまらないわね」
しかし概して、綺麗であるといえる。殊更床になにか積んであるわけでもなく、見た目通りの、いたって普通な作業部屋だった。
「あんた、つまらないわ」
「だから何よそれ」
「せっかく掃除中に踏み込んだんだから、もっと弄りがいのある部屋を期待してたんだけどねぇ」
「はあ」
溜息。呆れている。
「研究するのに、そんな雑然としてちゃ、わかるものもわからないじゃない。第一人形を作るのに、そんな汚い空間じゃとてもできないわ」
「じゃあ、なんで待たせたんだい?」
「他人さまをお迎えするなら、それでもきちんとしておきたいじゃない。普段使いのままじゃ失礼だもの」
「あれじゃ呼べないってことかしら?」
「ちょっと呼ぶ気はしないわ。まあ、あんたらが入ってくることは何となく予想がついたけどね」
「へえ? の割には、驚いてたじゃないか」
「てっきり、どっちかが玄関ごとぶち抜くと思ってたのよ。まさか、正当に鍵開けするなんて思わなかったわ」
「私の弟子を誰だと思ってるんだい」
「それ、どういうことよ?」
「弟子は"死ぬまで借りるぜ"の常習犯ってことね」
夢幻館は一度も被害にあったことはないが。一度来たときは、幻月が遊んであげたらしい。
「鍵開けなんて、魔術のだろうがなんだろうが、余裕さ」
「それ、魔理沙にも教えたの?」
「どうだったかねぇ」
魔理沙の盗難癖は家出少女だからかと思っていたが、どうやらこいつのせいらしい。しかし、そんな技まで知っているとなるともはや完全に泥棒である。
「さて、あんたらも満足したら下に行くわよ」
「何かあるの?」
「紅茶くらいわ出すけど、いらない?」
「私ゃ、珈琲の方がありがたいね。メイドさん」
「メイドはやめなさい、メイドは」
「ほら、行くよ」
「あんた、ほんとにつまらないわね」
「なんなのよ、その扱いは」
「だって、そうじゃない」
薫り高いこの紅茶は、一口含んだだけで口の中に爽やかさとわずかな渋味とが広がる、華のあるもの。舌の通りがよく、雑味がない。きっとアリスが選んだのだろうし、入れたのもアリスだ。
「全くだ。これなら霊夢んとこでも行った方がネタがあったかもねぇ」
隣で魅魔が傾ける珈琲にしても、香りからしてかなり良いものだろう。やっぱり入れたのはアリスである。お茶請けとして置かれたラスクも、これまた紅茶に適度な甘さ。
「あんたら、私に何期待してるわけ?」
「弄り甲斐」
「遊び甲斐」
というには、結局器用すぎるのだ。人形を乗っ取って改めてわかったが、あの数の人形を一体一体的確に動かしていくのは、相当の神経を使う。あの弾幕戦の時のように一定の行動様式に従って動かすならともかく、その場に応じて動かしていくのは、並大抵ではない。
「悪かったわねぇ。遊び甲斐も弄り甲斐もなくて」
「やっぱ、あのままメイドやらせておくべきだったねぇ」
「やめなさいよ。あの時は本気で怖かったんだから」
「どうしてこんなに優しいお姉さんが怖いのか、私ゃわからんねぇ」
「こんなたちの悪そうな霊に捕まったら、そりゃ怖いわよ。こればかりはアリスがかわいそうね」
「あんたも人のこと言えないだろう?」
「私、アリスには迷惑かけてないわよ、ね?」
「四六時中追いかけまわしておいてよく言うわね」
「貴女は最後まで気付かなかったでしょうが。なら、関係ないわ」
「四六時中、幼い女の子を追いかけまわすなんて、幽香は変態さんだねぇ」
「そういう趣味はないわよ」
「どうかな。長く生きた妖怪は、得てして変な趣味を持ったりするからねぇ」
「悪霊よかマシよ」
「少なくとも、私はそのせいで今日こんな目にあってるんだけどね」
「追いかけられた程度で、魔法を解析されてしまう未熟を呪うことね」
「それはもう、ずっとしてるわよ」
いそいそと、空になったカップへアリスが紅茶をついでくれる。こういう気の利くところまで含めて、本当にメイドに向いているのではなかろうか。或いは、あの紅魔館の天然メイドやうちの似而非メイドより。
「そういえば、あの時に何やったか、詳しく教えてくれない?」
「ああ、乗っ取り?」
「そうよ」
「それで、次は乗っ取られないように頑張るのかい?」
「ええ。せめて負けた理由は次に生かさないと。弾幕はブレインだもの」
「これまた、あいつとは全然違うこと言うのね」
アリスから紙を受け取り、懐から万年筆を。さらさらと、黝いインクを布いていく。
「弾幕ごっこを力づくなんて、弾幕ごっこを全く理解してない証拠じゃない」
「最近、魔理沙との勝率はどうなんだい?」
「たしか34勝28敗くらいね」
「アリスが優位とは、こりゃちょっと予想外だよ」
「ここの数か月、8連勝中で逆転よ」
「奴、驕って修行をサボったようだねぇ。ちょっとお仕置きせにゃならんか」
「無駄よ。結局、ブレインが勝つんだから」
「なら、さっと軌道計算くらいこなさなきゃやってられないわよ。ある程度科学もやっとかないと、なんだかんだ言いながら弾幕ごっこは苦労するわよ」
「そんなことないわ。それに、今の状況じゃ科学まで勉強する余裕はそんなにないわ」
「ほんとに真面目だねぇ。疲れないかい?」
「あんたら二人の相手をする方が、よほど疲れるわ」
「ああ、そうかい」
魅魔の相手が疲れるというのは、共通認識であるらしい。
「はい、これでいいかしら」
「お、書けたのかい? 見せてみな」
「え、ちょっと」
「いいだろ、減るもんじゃなし」
「私の魔法がばれるじゃない」
「態々あんたの魔法なんてマネないから安心しな」
アリスに手渡そうとした紙片が、ぱっと魅魔に奪われていた。考えてみなくても、魔法使いの師匠をするような、魔法使いであった、魅魔も。
「それで、アリスは魔理沙のこと、どう思ってるのよ?」
「どう、ってどう答えればいいのよ?」
「伸びそうとか、伸びなさそうとか、好きとか嫌いとか、そういうことよ。同じ魔法の森の住人じゃない」
「魔理沙は、ほんとに努力家よね。私だってそうそう他には負けないと自負しているけれども、魔理沙にだけは勝てそうにないわ」
「才は?」
「平々凡々、というところじゃないかしらね、正直。はっきり言って、そこまで目立った才能はないと思うわ。才能だけなら、理香子さんやパチェの方がずっとずっと上よ」
「ああ、私もアリスと同じような考えさ。しっかし、あんたも古風な字を書くじゃないか」
「話題を混ぜないでよ面倒ね」
「すまんね。でも、こりゃ読みにくくてたまらん」
「筆記体も読めないとは、魅魔も無知ね」
「幽香も物好きねぇ」
アリスが魅魔の横に顔をだし、呆れている。水色に透き通った目が、右に左にとわずかに振れる。
「文句あるなら、持って帰るわよ」
「いや、これは大切に使わせてもらうわ」
「なんだかんだと言いながら、あんたも、やっぱ随分と熱心ね」
「魔法使いですもの。弱点を見つけてもそのまま放っておくようじゃ、私が何してるんだかわからなくなるじゃない」
「魔法使いという種族には、ついていけそうにないね。私ゃ、もっと気楽にやりたいもんで」
「そういいつつ、魔法使いを育ててるじゃない」
「それは、アレが家出したままうろついていたから、つい、な」
「教えられるってことは、あなたも魔法に熟達していたってことなんだから、今更何言っても無駄よ。諦めなさい」
「ちょっと魔法を知ってるって程度さ。とても、真面目に学ぼうとは思わんね」
「そうなのね」
「ああ、そうさ」
魅魔は一つ首を振った。どうにも、あの霧雨魔理沙を教えていた魅魔とは思えないような言葉。こいつも、少し変わったのだろうか。
「さて、メイド。珈琲をもう一杯くれるかい?」
「そのメイドって言い方やめなさいよ」
「私ゃ、あんたをメイドから解放したつもりなんて一度もないのだがね」
「何よ今更」
「どうせなら、私の紅茶もお願いね、メイドさん」
「だから――」
「悔しかったら、本気出して掛かってきなさいよ。相手してやるわよ」
「――いやよ。本気出したって、あんたらには勝てないのがわかってるってさっきも言ったでしょう」
「どうかな? 私ゃもうずいぶん外にも出ていないし、腕もなまってるだろうと思うが」
「神綺さまにさえ勝つような連中に、どうやって私が勝つのよ。そんな決まりきった勝負、したくないわ」
「ふーん。じゃ、あんたはいつまでもメイドね」
「待ちなさいよ、魅魔はともかく、幽香、あんたのメイドになったつもりはないよ」
「あんたは私のメイドって、今私が決めたわ」
「どうしてよ」
「だって、あなた不戦敗じゃない」
見下すように笑ってやると、アリスは黙り込んだ。
「何か文句あるならどうぞ?」
「……ないわよ。珈琲と紅茶ね、かしこまりました」
アリスは不服そうに眉をひそめて、それからカップを二つ持って行った。
「あれ、重症だよ」
「だいぶ喧嘩を売ったつもりだったんだけどね。あれでも喧嘩買わないとは、相当ね」
「霊夢だったら、夢想封印が四回は出てるな」
「私も魅魔に同感よ。魔理沙でも、マスタースパークだとは思うわ」
「冷静だというか、なんというか」
「そんなに、本気出したくないのかしらね」
「だろうな。そんなこと私の知ったこっちゃないがね」
「そう」
魅魔らしい発言。私たちが何か悪いことをした、というわけではないが。
「珈琲と紅茶が入りました、ご主人様」
「なんだいそれは」
「どうやら、メイド扱いというから、あなた方はご主人様じゃない」
「アリス、いっそあんた紅魔館でもメイドをしたらどうかしら?」
「なんで、あんな悪趣味な場所で働かなきゃいけないのよ」
「あ、元に戻った」
「だって、その才能もったいないわ。やっぱりメイドにはもってこいじゃない」
「いやよ。私の主は神綺さまだけなんだから」
「そうかい」
「ええ。そうよ」
「それで、その味はどうなのよ」
「だから、あんたはつまらないんだよ」
「全く、魅魔の言うとおりだわ」
言うと、アリスが一見半眼になる。しかし、その頬が緩んでいるのは、すぐに見て取れる。修行が足りていない。
「そう喜んでくれると、頼んだ甲斐もあったわ」
「どうして喜ぶのよ、それに」
「いやいや」
はは、とごまかした。
「あら?」
「ん? どうした?」
ふと、一冊だけ本が本棚で横向きに置かれているのに、今更気付いた。革張り金文字の並ぶ中では、少し目立つ。どうして今まで気付かなかったのだろうか。
「この本なにかしら?」
「あ、その本は」
「何か、問題でもあるのかい?」
ふっと手を伸ばして、手に取る。少し埃っぽい。
「面白そうな本読んでるじゃない」
「この間、漸くパチュリーから借りてきたのよ」
「へぇ」
少し焼けてしまっているのは、あの図書館に置かれていたからだろう。
「幽香も、本好きは変わらないねぇ」
「気になるじゃない、アリスがどんな本読んでるのか」
「だいたい、予想はつくがね」
「魅魔の予想と、それほど違わないわね、たぶん」
「へぇ」
魅魔が横から覗き込む。目次から、内容はもう明らかだ。
「でも、よくこんな本見つけたわね」
「貴女には貸さないわよ。まだ私だって読んでないんだから」
「あら、読んでないの?」
「昨日借りてきたばかりだもの。流石に一日で読めるようなものではないと思うわ」
「そうなの」
その本は勿論として、他にも多くの本がある。そしてその殆どが、人形にかかわる魔術の本。
「あくまで、あんたは人形関係の魔法使いなのね」
「そうよ」
「将来は、完全自立の人形を作るってことかい?」
「もちろん。それは傀儡師としての憧れよ」
「なら」
ざっと、手にある本をめくる。いろいろな魔術式が細かく書かれているが、いったい何時頃の何処の本だろうか。
「神綺に聞けばいいじゃない」
「神綺さまに?」
「幽香の言うとおり、神綺なら詳しそうだな。そういうの」
「魔界を作った方だから、ってことかしら?」
「そうよ。ヒントくらいはくれるんじゃないかしら」
本から、顔だけを上げた。
「でも」
アリスは、形の良い金の眉を顰めていた。
「それで成し遂げたところで、面白くもなんともない、とは思わないかしら?」
「というと?」
「それじゃ、私は神綺さまをいつまでたっても超えられないわ。私は、あくまで神綺さまのお弟子ということでしかなくなっちゃうじゃない」
「そりゃ、アリスの言うとおりだ」
「だから、神綺さまと全く違う方向を目指してみたいの。幻想郷に態々やってきたのも、そのためみたいなもののつもり」
「ほんと、努力家だねぇ」
「それくらいじゃないと、魔法使いは務まらないわ」
「全く。魔法なんて、"妖怪"にはとてもじゃないけど無理なものよ」
努力、なんて言葉は妖怪にはあんまり似合う言葉じゃない。妖怪というのは、ただそこに在るがまま在るのだ、と思っている。
「私は妖怪じゃない、とでもいうのかしら?」
「少なくとも、アリス自身は自分を人間だと思ってるのじゃないのかい?」
「確かに、人間っぽく生きていることは認めるわ」
「別に妖怪だからいいなんてことがあるわけでもなし、人間みたいに生きてた方が楽かもしれないわよ」
私は人間として暮らしたことなんてほんの少しもないので、全く分からないけれども。
「そうかしら」
「そうだね。私もそう思うよ」
「魅魔と意見が一致するとは、不覚だわ」
「私も、幽香と意見が一致してしまうのは誠に不本意だがね」
魅魔の方に視線をやると、碧緑の瞳が不気味に浮かんでいた。
「さて」
三杯目の紅茶を飲み終えた。茶菓子ともどもおいしくて、ついつい止まらなかった。
「私はそろそろ失礼しようかしら」
「お、そうかい」
「すっかり遅くなったわね」
「気付いたら外が暗くなってるのだもの。冬の日は速いわね」
「夜が本番だがね。私にとっちゃ」
「流石に夜来られても、応対できないわよ」
「おや、アリスは妖怪じゃないのかい?」
「妖怪なら必ず夜に行動すべき、とかいうのかしら?」
「妖怪の時間は夜だろう? そこの寝坊妖怪でもなければ」
「花は昼に咲くものよ。夜に咲くのは、昼から逃げた者ばかりね。ま、悪霊さんはせいぜい夜にでもさびしく蠢いてることね」
「ほう、言うじゃないか」
「頼むからここで始めるのはやめて。やるなら魔理沙の家ででもやりなさい」
「ああわかってる、ここじゃやらんさ」
「それじゃ、こう忠告したのは何回目なのかしら」
「覚えてないわ。妖怪ってのは、そんなところにこだわらない物よ」
若干頬を膨らませたアリスの頭をなでてやる。妙に金髪が冷たかった。
「それじゃ、今日はお世話になったわ」
「全くだ。ありがと、メイドさん」
「はぁ」
アリスが、肩を落とした。
「もう少し穏便に来ていただければありがたいわ」
「それは、無茶ね」
「だろうと思ったわ」
「ま、諦めとくれ」
にやり、と笑いあう。
「じゃ、また」
「またね」
軽く一礼して、それから扉をくぐりかける。
「ねぇ!」
アリスらしからぬ上ずり気味の声に、二人して振り向く。
「今日はどうも、有難う。私も、楽しかった!」
「おやおや」
魅魔の表情が、明らかに緩んでいた。悪霊には、とても見えない。これでは慈母だ。
「また、楽しみにしてる!」
「ええ、今度はご招待を待ってるわ」
ふ、ともう一度魅魔と笑い合って、それから扉を抜けた。
「さあて、幽香はこのあとどうするんだい?」
「予定はないわよ」
「なら、人里でどうだい」
と魅魔は、手に盃を持つしぐさ。
「あ、それいいわねぇ。なら、いい店知ってるよ」
「へぇ」
「この間、自称警官に聞いたのさ」
「その店大丈夫なのかしら、ほんとに」
「それは保証する。なにせ、霧雨の御用達だ」
「なら大丈夫ね」
「信用してないなぁ」
「信用しろという方が、無茶ね」
「今度、本人に言っとくよ」
「よろしくね」
月の光が、雪に映ってますます皓い。
「じゃ、行こうか」
「ええ、行きましょう」
幻想郷は、森々と静寂。
髪が風になびくその音だけが、新雪にしみ込んでいく。
了