鑑、即ち姿を映すものなり。人、鑑に映してその身を矯めんとすれば、鑑の字を以て手本と為す。「殷鑑不遠」の鑑、此の意なり。又、人の行わるる所を纂するを史と謂う。人、史を以て旧きを知り、之を鑑として新しきに生かす。是を以て鑑、史の意もあり。『本朝通鑑』『後鑑』『甲陽軍鑑』の鑑、皆此の義なり。

 ――上白沢慧音『妖境庭訓』















 鈴仙は万年筆を止めた。
 何か、嫌な予感がする。竹林に妙な波動が、あまり喜ばしくない波動が感じられる。昨今は少々幻想郷も物騒になっているし、これは姫さまの所に相談に行かねばなるまい。ちょうどてゐも永琳も所用で永遠亭を離れている。いざという時には私が姫さまを守らねばならないのだ。
 もう夜更けもいいところ。ただどうにも曇っていて、月も星も見られない。ただ濛々と暗い夜で、なにも無くとも何か不安を覚えさせる夜だ。

 鈴仙は丁度書いている冊子を見た。いつのころからか――おそらくあの花の異変のころだったはずだ――書きためていたものが、ついに日記帳の最後に近づきつつある。師匠たる永琳の指導と仕事の合間に書き足していた程度であったのだから、ここまで溜まるとは鈴仙も思っていなかった。こんなに書いたのか、と思うと少し誇らしい。
 さて、と鈴仙は冊子を閉じ、自分の机に置きなおす。それほど、時間に猶予はない。

 この続きは、帰って来たら書くことにしよう。



















  かがみのうさぎ
   うさぎのかがみ



















               叙

 私の歩いてきた道は、罪と恥によって塗り重ねられている。
 それは間違いのないことだ。これまでにどれだけの酷いことをしてきたのか、考えるのもおぞましい。私は周りの兎たちの血を被り、屍を踏みつけながらここまで歩いてきているのだ。だから、過去に向き合うというのは、私にとって鬼門である。
 しかし、そうやっていつまでも目をそむけていることも行かないだろう、とも思う。むしろ、おぞましい過去が積み重なっているからこそ、過去をきちんと見つめ、考え直していかなければならないのではないだろうか。最近、漸くそういう考えに思い至ることができた。今更思い浮かんだのか、と言われればそれまでであるけれど。そして過去を見つめるのにどのようなことをすればよいのか、いろいろ考えてみた。最初は過去についてただ考えてみるだけでもよいかな、と思った。ただ、改めて考えてみれば、それはあまり意味を為さないように思えるのも事実だった。なによりこの私の臆病な性格のこと。きっとそれでは過去を見つめるのなんてすぐやめてしまうだろう。それに、何か成し遂げた結果が残るわけでもない。やったかやらないかが分からないものなんて、続くとは思えない。
 そうやって考えた結果が、こうして文字を書くことだった。とりあえずは時間を追って、私の過去について回想し、書き記してみることにした。とても恥ずかしいし、嫌なことだ。けれどもそれを為すことで、きっとこの愚兎でも少しは得るところがあるだろうと思っている。それと同時に、私が捨てた仲間たちに対する手向けにもなるのではないだろうか。
 だから、これから少しずつ過去を書き起こしてみる。文章は全く書き慣れていないし、本当に悲惨な部分は書き漏らしてしまうかもしれない。でも、書かないよりは良いだろう。

 さて、ここまで書いてみて思ったが、どうしてこれを月の文字で書かなかったのだろうか。私自身も不思議だ。ふと書こうと思って書き始めると、それが地上の文字だった。いつのまにか、自分も月を離れ、地上に這いつくばる民になれていたようだ。もう書き始めてしまったからには仕方がないので、いっそ地上の文字で書き連ねて行こうと思う。

 百貮拾季 神無月 十日 鈴仙かく




               壹

 私が生まれたのがどこなのか、私も知らない。自分の生まれた場所がどこであるか、知っている者なんてそうそういないだろう。生まれてすぐでは、世界を認識することなんてできない。私が物心の付いた時には、既に綿月の宮殿にいた。それが何故か、ということもよくわからない。それを豊姫さまや依姫さまに聞いたこともないし、あまり考えてみようとも思わなかったからだ。おそらく生まれたのも綿月の宮殿なのだろう、と思っているのだけれども、確証はない。
 物心がついてすぐ、私は豊姫さまから一生の宝物をもらった。それが"レイセン"という名前。私にとって最初の記憶は"レイセン"と豊姫さまから読んでもらえる情景だ。私はレイセン――鈴仙という名前が今でも好きだし、こういう名前を付けてもらえたことを豊姫さまに感謝している。

 綿月の宮殿での生活は、とても暖かいものだった。豊姫さまも依姫さまも月の中では重鎮であるというけれど、私たち子兎の前では殆ど親代わりとなってくれたのだ。中でも豊姫さまは、本当によく面倒を見てくれた。大概は、私を初めとする子兎を引き連れての宮殿中の散策で、宮殿に生えている桃をもいで齧りついたり、ほおずき笛を作って誰が一番大きな音を鳴らせるか競ったり、本当によく遊んだと思う。それこそ朝から晩まで付き合ってくれることも多くて、豊姫さまのお仕事は大丈夫なのかと子兎心に心配になったこともあったくらいだ。
 でもその御蔭で、いろいろ知ったことも多かった。豊姫さまについていくだけで、知らぬうちに広い宮殿の姿形を完全に把握することができたし、その他にも薬草と毒草の別や、空の星や地球の位置から方角・時間を知る方法、野外で食用となるものを見つけて調理する方法。豊姫さまは本当にいろいろなことを語っていた。その点では豊姫さまのああした"遊び"は、きっと私たちを一人前にするための教育の一つだったのではないかな、とも思っている。
 一方で、依姫さまは主に私たちの勉強の担当だった。依姫さまは幼い玉兎を集めて読み書き算盤を教えてくれた。決して優しい先生だとは言えなかったかもしれないが、教えるのは上手だったし、きちんと学んでよい結果を出せば誉めてくれた。依姫さまに誉めてもらうのが嬉しくて、私は玉兎の中で一番になってやろうといっつも励んでいたことは忘れられない。
 こうやって書いてみると、綿月のお二方には大きな大きな恩があることを改めて認識せざるを得ない。自分が今、こうしてお師匠さまの弟子を務めていられるのも、あのお二方の御蔭に違いないのだ。

 玉兎同士で遊ぶことも、勿論多かった。豊姫さまや依姫さまが面倒を見てくれるとはいっても、あのお二方は月の重鎮でもあられるから、いつも面倒を見てくれるわけではない。大人の玉兎はみな忙しいとなると、必然的に子兎だけで遊ぶことになる。
 子兎で遊ぶといって、これまた本当に様々なことをした。おはじきやお手玉といった屋内での遊びや、鬼ごっこやかくれんぼといった屋外での遊び。朝一番に集まって夕方日が暮れるまで散々に遊び回るということも多かった。その中でも私が好きだったのはかくれんぼ。波動を使って直接交信が可能な玉兎にとって、かくれんぼとはその波動を如何に上手く消せるか、という勝負だった。私は波動を消すのが抜群にうまくて、他の玉兎に見つかることはまずなかった。それどころかそのうち、私は別の場所から波動が出ているようにカモフラージュできることにも気付いた。実際にやってみると、友人たちは次々と引っ掛かる。隠しきれない波動を見つけたという微笑が、誰も隠れていないことへの驚きに変わるのを見るのは、楽しくておかしくて仕方なかった。それに私だけの必殺技を持てたことは、同時に誇りでもあった。
 かくれんぼこそ私の独壇場ではあったけれども、全体を通してみれば、私は玉兎仲間で軽んじられていたというに近い。何か皆で悪戯をしようという提案があっても、私はやらなかった。また立入禁止と書いてある危険地区に潜入しようというのも、私は絶対に反対だった。そして実際、私は決してそれに参加しない。その結果として当然のことながら、"臆病""自分勝手"という扱いになってしまう。
 そんな扱いが良かったはずはない。しかし、悪いことをするのはそれにも増して嫌だった。綿月の宮殿で悪戯をして、依姫さまに見つからぬはずはないのだ。そして見つかったあとの仕置がどんなものかなんて、見えている。そういった規則違反には厳しい依姫さまだから、放逐されることだってありえた。また立入禁止と書かれているところに入れば、何があるかなぞ明白だ。危険だから立入禁止と書いてあるわけで、入れば死んでしまったって文句は言えないだろう。碌な未来が見えていないのに、その未来を躱さないことは、私にとっては馬鹿な行為にしか思えなかったのだ。結果として私もまた悪戯の対象に選ばれて、よく嵌められていた。例えばドブに落とされたり、座ろうとした椅子をどけられたり、そんな単純なものばかり。このころからそうした悪戯に気付いて躱すのは下手で、真正面から突っ込んでは大いに笑われたものだ。そこで怒ってしまうのが、それまた彼女たちを増長させてしまうらしい。その性格は今になっても直っていないし、きっとこれからも直らないのではないかと思う。
 こうして私は玉兎の連中に馬鹿にされていたが、だからと言って孤独だったわけではない。幼いころから親友と呼べる存在がいた。それがショウカ(と音写するしかないだろう。月の言葉の読みそのままでは地上の文字で表せない)である。おおよそ同い年であったはずなのだけれど、随分と小柄で、結局私より頭一つほど背は低かった。年月がたっても、彼女だけはいつまでも可愛いという印象で、よく「そろそろ子供扱いはやめて欲しいな」とぼやいていた。でもそのくっきりと大きい緋色の瞳は意志の強さを良く示していて、彼女と目を合わせて話していると、なんだか自分が彼女のことを見上げている気分になったものだ。その髪は深い紺色だったけれど、下に行くほどだんだん色が抜けて毛先は純白。まるで夜明けの空みたいだった。彼女と一体どこで出会ったのかは覚えていない。きっと同じように生まれて、物心の付くころから一緒に育ったのだろう。それ以来、ずっと私と彼女は二羽で行動していた。すこし成長し、玉兎二羽に一つの部屋があてがわれた時も、私の相手はショウカだった。でもそうやって共同生活を送っていても、喧嘩することこそあれ、共同生活自体が嫌になることはなかった。常に一緒に居ても全く嫌にならないのは、本当の友人だったからだろう、と私は今でも思っている。
 性格は真逆であったんじゃないか、と思えるほどに違った。その快活そうな容姿に違わず、勝気で何事にもはきはき物を言っていた。楽観的な思考の持ち主でもあって、なんでもやってみなければ済まないという、そんなたちだった。先の立入禁止の処へ率先して入り込んだのも彼女だった。そんな彼女は、小さいときから私の憧れで、もしあんな風に活動出来たらいいなぁ、と思ったことも多かったもの。ショウカは、私にとっての兎の鑑だった。
 ショウカについて今でも忘れられないのは、その例の立入禁止侵入のこと。絶対に嫌だ、と固辞した私を残して、ショウカを初めとする玉兎のみなは次々と入って行った。そんな時は、悪いことをしているのは彼女たちなのに、私ばかり外でおろおろするのがいつものこと。結局、大事に至らぬ程度の事故を起こして彼女たちはほうほうの体で逃げてきて、そこを待ち構えた依姫さまに捕まっていた。当然、依姫さまに彼女たちは説教されるわけなのだけれども、そこで考えもしないことをショウカはやってのけ、皆を驚かせた。玉兎の分際で、しかもまだ仕事も与えられぬような幼い玉兎の分際で、依姫さまの説教に対して堂々と反論してみせたのだ。この時の空気程の物は、未だに感じたことはない。私も、玉兎の皆も、依姫さま自身も固まっていた。反論の中身が何だったかは覚えていないのだが、反論の中身がどうだったかよりもそもそも依姫さまに対して反論するというその行為自体が驚きのことであって、中身自体はその行為を前に吹き飛んで行ってしまったのだろう。ただただ、宵のような濃い紺青の髪を棚引かせ、その緋い瞳で以てきっと依姫さまを見据えた彼女の小躯だけが、今でも目に浮かぶ。
 玉兎は所詮月人のペットでしかないのだから、言うことを聞かないものは必要ない。だから、こんな反論をすれば殺される――穢れの問題から直接は殺さず、月都結界の外に放逐されるだけだが、空気の無いところに放り出されて生きられるはずはないのだ――ことだって充分にありえるし、実際にそうなってしまった哀れな玉兎の話も波動に乗って流れてくる。そのことは充分私にはわかっていたし、きっと彼女にもわかっていただろう。それでもなお反論して見せるのは、蛮勇であるのかもしれないが、私には眩しかった。
 結局、ショウカが殺されることはなかった。依姫さまはショウカの反論に対して再反論し、ショウカを納得させるとそのまま戻って行ったのである。依姫さまが戻るや、私は放心状態で立ちつくすショウカに飛びついた。ショウカが無事であったという安堵感や、反論するという偉業を成し遂げたショウカへの称賛・尊敬が溢れ出して、そのまま彼女の肩に顔をうずめて泣いた。肝心のショウカよりも私の方がずっと動転していて、結局その晩はショウカにあやしてもらって明かした。

 間もなく私とショウカは、その他十羽ほどの玉兎と共に、他の玉兎とは違う教育を行われるようになった。相変わらず依姫さまの授業を受けるのとは別に、豊姫さまのやる授業にも参加するよう言われたのだ。豊姫さまの授業はとても難解で、すぐに理解するのはとても不可能だったと記憶している。隙あらば仕事をサボって、私たちを引き連れて遊び回る豊姫さまが、まさかそんな賢い方だとは誰も思っていなかっただけに、そのあまりに難解な内容には呆気に取られるしかなかった。あの頃は、なぜ自分たちだけがこんな目に遭わなければならないのか、と疑問で仕方なかったほど。授業の直後、ショウカが勉強会をすることを提案し、皆で集まってその難授業を攻略することになった。私たちがこれを乗り越えられたのは、この勉強会の御蔭だ。あまりの難解さに脱落していった玉兎もいて、最初は十数羽いたのが気付けば七羽になってしまっていたけれど。
 後から気付いたことだが、これは豊姫さまや依姫さまから力を認められた、ということであったようだ。エリート教育を施し、将来には玉兎の取りまとめ役や、仕事の補佐となる玉兎として育てようとしていたらしい。考えてみれば、このころから"玉兎の鑑"になれ、と良く言われていたような気がしてならない。きっと豊姫さまや依姫さまは、私たちに"兎の鑑"になってもらって、それで玉兎として活躍して貰おうと思っていたに違いないのだ。そういう"有望な兎"として私も認められていたということだ。当時はそうも思わなかったが、今となって思い返せば返す程、ますます豊姫さまにも依姫さまにも、感謝してしきれないほどの恩がある。




               貮

 ひいひい言いながら、豊姫さまの授業をこなしていったある日、その授業を受けていた玉兎たちが皆呼ばれた。一体何をするのだろうか、と私は震えあがった。ある月人が狂気のあまり、月都の外の別荘で唐突に玉兎を虐殺しその血で池を作って遊んだという話を、波動交信で聞いたばかりだったからだ。当然その月人は穢れのせいで当分月都に入ってこれなくなったらしいけれども、玉兎を虐殺したことについては特に御咎めもなかったとか。ショウカと二羽になった時にそういう話をしたら、当たり前だが、一笑に付された。レイセン、貴女って豊姫さまをそんな方だと思っていたの?
 すぐさま私は言い返した。そんなことはないけれども、否定できないよ。あの事件では依姫さまも穢れを祓うために動員されたというし、そこでなにか面白い事を見つけたのかもしれない。
 貴女、一体どれだけこの月都が恐ろしいところだと思っているの? ここは月夜見さまによって選ばれた民のみが住む場所よ。月都は楽園なんだから、そんなことまず起こらないわ。
 お腹を抱えて笑いながら、ショウカは告げた。相変わらずの楽天家振りであったけれども、そちらのほうが大体は世の中間違っていないものだ。そしてそのショウカの答える通り、その呼び出しは私の死やらなにやら、凶事を伝えるものではなかった。
 ショウカや私や、その他幾人かの仲間たちが呼ばれた通りの時間に行くと、豊姫さまだけではなく依姫さまもいた。正面に座りなさい、と言われると、そわそわと座る私のとなりで、ショウカはまるで対等な関係でもあるかのようにどっかり座る。なんてことをするのだ、と親友ながらやっぱり驚いたものだ。
 その先にどういった話をしたか、詳しいことは正直、もう覚えていない。誰かに聞けば思い出せるのかもしれないが、その時に同座していた兎にはもう聞けないからどうしようもない。ここで言われた、軍に入らないか、というお言葉以外は永久に消えてしまった。
 月の軍の任務は、主に治安維持だ。いくら穢れのない楽園だと標榜していても、時折永い生活に狂った月人や、政権転覆をはかるような野望を抱いた月人が反乱をおこそうとする時がある。それを鎮圧するのが任務であった。他にも、1000年近く前のことだそうだが、馬鹿な妖怪たちが攻め込んできたこともあり、それを迎撃したこともあったという。今思うにそれはきっと八雲紫のことだろうが、彼女の率いる妖怪どもをあっという間に蹴散らしたのも月の軍だ。軍というだけあって基本的には訓練も厳しいので、あまり評判は良くない。波動交信の間では何よりも忌避される仕事のひとつであった。その軍に入らないか、と私たちは誘われたのである。いや、誘われたという言葉では生ぬるいかもしれない。是非に是非に、とせがまれたのだ。情景こそ忘れたが、綿月のお姫さま二人が私たちに頭まで下げたことは覚えている。それにはどうにも驚かされた。 
 この時にもし私が軍に入ることを選んでいなかったら、今でも月でのほほんと暮らしていたのだろうか。それは、今となってはわからないこと。きっと可能性世界の一つには、そうやってのほほんと暮らす私もいるのだろう。しかし、私はその可能性を選ばなかった。そこまで頼まれて、しかもショウカたちが次々と軍に入っていくなかで、自分だけ軍に入らないという選択はできなかった。それに、自分の力を試してみたい、という思いが否定できなかった。
 選ばれて豊姫さまの授業を受けていることに、いつしか自分は有能であると自負するようになっていたのである。それほど愚かなことは、無かっただろう。
 しかし私は、私を含めた玉兎七羽は、軍に入ることを選んだ。

 軍に入ったとはいっても、それほど生活が変わったわけではない。まだ幼い私たちがいきなり軍務に携わるはずもないのだから当然である。豊姫さまの授業が難しくて、度々皆で勉強会を開いて漸くこなす、というのもいつものこと。依姫さまの授業も今までより厳しくなったほか、体力作りとしての訓練が課せられた程度のことである。だが訓練とはいっても依姫さまが常に見ておられるわけではない。そして見られてない間に訓練をするはずもなく、結果的に私たちの訓練はとても短い物でしかなかった。つまるところ、生活は相変わらず緩いまま。言われる課題をこなすのは少し大変だったけれども、それでも何を心配することもなく苦しむこともない楽しい生活だった。
 もう一つ言うならば、ちょうどこの時期が全く軍務のない時期であったということもあったのだろうと思う。先の血迷った玉兎虐殺事件以来、軍が出るような大事は無く、結果として軍の端くれである私たちにはまったく出番が来なかったのである。
 そんな緩い生活ではあったのだけれど、それでも時々ある試験やら何やらで、次第に七羽の中でも順位が付いてくる。それは仲間の中でも位置付けとしてであり、豊姫さまや依姫さまの評価でもある。私はそのうち、仲間の中で出世頭と目されるようになっていった。試験はいつも優秀な成績で通っていたし、訓練も他の玉兎たちに比べればずっと真面目にこなしていたから、当然と言えば当然だ。試験を落とすのが怖くて仕方がなかったし、訓練をサボったのがバレるのが怖かった。だからやっていた。その結果に過ぎないと言えばそれだけだ。でも、仲間のうちでいろいろ――主に勉学の面で――頼りにされ、また豊姫さま・依姫さまから「流石はレイセン、貴女こそまさに玉兎の鑑よ」と誉められるのは決して悪い気持ちではない。そうして、そういう扱いの内に私は自分への自信を確かなものにしていた。
 実際、このころから私の能力は次第に一目置かれるようになってきていた。私も私自身の能力が波長を操るものであるという認識をするようになり、それを上手く使いこなすためにいろいろ考えた。他の玉兎たちも、ショウカを筆頭として、みな玉兎としては強い能力を持っていたのだけれども、その中でも私の能力は特別だった。この世の中は全て波である。だから、その論理から言えば私はこの世の全てのものを弄ることが可能なのだ。勿論、一玉兎に過ぎない私がそんなことをできるはずもなく、能力には大きな制限が付き纏ってはいる。それでも光や音を操って姿を消し、また分身してしまうことは絶大な威力を発揮することには間違いなかった。
 だからこそ、私は綿月の姫さまたちに"玉兎の鑑"として称賛されもし、それを受け入れることができた。数多い綿月宮殿の玉兎の中でも、当に見本になるべき兎だ、というその称号は、私たちにとって何よりの褒め言葉。そして私にとって、何よりの誇りだった。今を思えば、実際に私が玉兎の鑑だったなんて、そんな酷い笑い話も無いと思う。それでも当時の私にとっては、なによりの宝物だった。そう呼ばれるために、真面目にやっていたという面も決して否定できないだろう。
 そんな私と常に並んでいたのもまた、ショウカだった。私と違って快活なショウカは、幾許無く七羽の中でリーダーシップを取るようになっていた。私と比べればずっと不真面目――私が真面目と言えるかどうかはわからないが――だった彼女だったけれども、何故かいつも勉学では私に肉薄し、体術に関してはしばしば私を凌駕した。彼女は普段、他の玉兎とつるんでいて、相変わらずしばしば悪戯をしかけたり冒険をしたりしては怒られていた。それなのに、気付くと私の隣で平然と座っているのである。もし私が同じような生活をしたら、それは性格的に無理な想像だが、私はとうに落ちこぼれていただろう。その点で、彼女は本当の意味で天才なのだろうと、今でも思っている。玉兎の鑑と賞されるべきは、私でなくてショウカだったのだ。
 一通りの教育が終わると、私たちはそれぞれ兵士として正式に軍の部隊へ配属されることとなった。私たち七羽はそれぞれ別の部隊に配属され、それから軍務を務めることとなる。全員が別の部隊に配属になり、散り散りばらばらになってしまったことに私は少なからず落ち込んだけれども、考えてみれば当然の話。当時の私たち七羽はいわば幹部候補生なのであって、つまりすぐに部隊の長に立つような存在である。そんな存在を一つの部隊に固めておいておく道理などどこにもなかったのだ。その配属は、総合的な成績順によって行われたようで、私は後方の作戦に関わる最重要な部隊に回された。尤も、それは部隊全部を見ればそうだというだけで、私の役目は他の兎たちと何ら変わることはなかったけれど。つまり普段の訓練の他、月都や月都外の警護、地上の観察なども課されるようになっただけである。参謀に関わる部隊なだけに、後方支援機能が充実している部分があり、そういう任務が多めであったくらいだ。
 そしててっきり部隊が異なると皆が離れ離れになるのか、といえばそんなこともなかった。部隊毎に少し離れたとはいってもみな同じ綿月宮殿にいたし、ショウカに至っては隣の部隊であったこともあって、相変わらず相部屋のままだった。互いに部隊の任務やら訓練やらで生活時間帯が少し合わなくなったけれども、それでもショウカや仲間たちと過ごす時間は充分に取れたし、娯楽に当てられる時間も凄く多かった。軍に入ったといっても、それは殆ど名前ばかりだったとさえいえるかもしれなかった。




               參

 そんな緩い軍の生活は長く続いた。昔はよくあったらしい地上への干渉も、このころは殆ど行われなかったし、月内部での政争も起こらなかったのである。総じていえば月都の安定期であって、私たちはそれを謳歌していたということになる。結果、私やショウカたちはとても兵隊とは思えぬほどに緩い生活に浸った。少し任務と訓練をして、あとは遊んでいればよい、楽な生活。どうして玉兎の中で軍の評判が悪いのか、わからない程だった。仕事も碌にせず、後は仲間と一緒にのんびり過ごすだけの生活なんて、何にも代え難い、素晴らしい生活だった。
 それを打ち崩したのが、地上による月の侵攻という一大事であった。正しくは、そういうことが行われるという報があったのだ。最初にそういう情報を入手したのは、地上の兎からの連絡であった。地上の兎の中には月と通じて情報を送ってくる者がおり、月都は地上にいる兎たちを通して地上の情報を入手している。そのスパイ網が今回は役に立ったのである。しかし、そんな情報を信じる者は誰もいなかった。地上の愚かな文化では到底月に近づくことすらままならぬだろうし、まして月に侵攻して占領しようとする馬鹿はどこにもいないと思われたのである。戦争に於いて、こういう考えほど害になるものはない。後に慧音さんへそれとなくそんな話をしたら、「古今東西、負ける国とは『我らが負けるはずがない。負けると決まった彼らが攻めてくるはずはない』という驕りに支配されるものだ」と言われてしまった。当時の月都はまさにこんな考え方に捉われていたし、私や仲間たちもまさか地上が本当に攻めてくるなんてことは思いもしていなかった。得てして地上の兎は誤情報も送ってくるし、今回の情報もそんなものなのだということで切り捨てられたわけだ。
 そんな状況であったから、最初の一撃を受けた時には本当に大混乱に陥った。地上からのミサイル攻撃は、月都の結界を破壊して月都近郊を打ち砕いたのである。そこで初めて地上が本気で月を攻略しようとしていることを、月都も認識したのである。その時点で初動が遅かったことは、決して否定できない。これには流石の豊姫さま・依姫さまも大慌てで、軍の増強と警備の強化を始めた。私たちもいきなり任務やら訓練の時間が倍増したのである。
 一度非番にショウカと二羽でそのミサイル攻撃された場所を見にいったことは今でも忘れられない。いきなりとても忙しくなった中で、何とか暇を見つけて行った。それまでは暇ばかりだったのに、そうなってみて暇を合わせようとすると殆ど合わず、大層苦労したことを今でも覚えている。ともあれ、例の如く活動的で突っ走るショウカに引っ張られて行った先にあったものは、かなり衝撃的だった。
 果たして地上人が月都を狙ったのかどうかはわからない。しかし結界を突き破ったときの衝撃は辺り一面の場を乱していて、居るだけで気分が悪くなりそうだった。そこ自体には何もなかったのだけれども、大きく地面が抉れていて衝突エネルギーの大きさを物語っている。加えて、衝突した際に火薬の爆発で撒かれた金属片が周りに散らばっていた。これがもし月都の中心近くに落ちていたら、と思うと血の気が引いた。犠牲が相当な数に及んだだろうことは想像に難くない。さらにたちの悪いことに、その残骸にはアンテナらしきものが見え、落ちる直前まで――結界を打ち破った後も連絡を取り合っていたのではないか、ということを思わせた。これから大変なことがはじまるのではないか、ということを痛感させられたものだ。
 そしてそんな不安を述べると、例によってショウカは私を笑った。そんなに悪いことばっかり考えてて、レイセンも大変じゃないの? とまで言われた。まさに私は、悪いことばかり考えていて大変だったわけだから、そんな言葉を否定する術なんて持っていなかったのだけれども。その上でショウカは私に、綿月のお姫さまがどうにかしてくれるから大丈夫よ、と言って肩を叩いてくれた。不安なことを述べては彼女に励まされるのは、殆ど日課であったといえるかもしれない。
 しかし、後に思うと、どうにもショウカも先行きが暗くなりつつあったことを捉えていたのではないか、とも思える。一つは、勘が鋭く頭も回る彼女が、地上からミサイルを撃ち込まれるという状況に至ってただ楽天的な考え方を持っていたとは思えないこと。そしてもう一つがこの時の表情だ。いつもながらの闊達で陽気な、可愛い笑顔であったのだけれども、その緋色の輝く瞳にはいつもと少し違う色が浮かんでいたような気がする。それに、彼女の波長にも少し違和感があった。もしかすると、彼女も先行きへの不安を抱えながら尚、不安に陥る私のことを慰めるために敢えて明るく振舞ってくれたのかもしれない。ショウカなら、やりかねない。
 どうも私は彼女のことを英雄視しているらしい。ショウカのことが美化されているような気もするが、私にとってはこう見えていたのだから、関係ないと言えば関係ないこと。ショウカがこれを読んだら――絶対にありえないけれども――どう思うだろうか。

 打ち込まれたミサイルは一つに留まらず、続けて幾らかのミサイルが月に打ち込まれた。それはいずれも月都の近くに落ち、幾らかはやはり結界を撃ち抜いた。しかも、おそらく偶発だった最初の結界破壊とは異なって、今度は明確に結界を撃ち抜こうと言う意志の感じられるミサイルばかりであった。つまり、地上は明確に月都の存在を認識し、それを破壊しようという目的を持っていたことになる。地上が月の侵略を行うという情報はここにほぼ確定的となって、月都じゅうを駆け巡った。殊に玉兎の間では大いに広まった。それはそのうち有象無象の情報を孕みはじめ、いろいろな噂となっていった。防衛のために玉兎全員を狩りだして戦争に参加させるというもの、地上の穢れどもを逐ったあとは玉兎を逆侵攻させて地上を破壊し尽くすというもの、実は既に別の星――それは火星だったり金星だったり、木星の衛星であったりした――に逃亡する用意を月人たちは始めたというもの。悲惨なのになると、嫦娥さまが実は地上と通謀していて呼び寄せたというものや、綿月の姫二人が政権を乗っ取るために作った自作自演というもの、果ては地上のお師匠さま――八意永琳が月以上の軍隊を作り上げて月に返り咲こうとしているというものさえあった。もはやこうなってしまうと何が正しいかなんてなにもわからない。結局、月に攻撃の手が近づいているというのがわかっただけだ。
 実際に地上から実働部隊が送り込まれたのは、それからまもなくのことであったようだ。詳しいことは何もわからない。ある日、幾つかの戦闘部隊に命令が下り、完全装備で出撃していったことしか私は知らないのである。実働部隊が来たということは知らされず、出動の理由は語られなかった。出撃というのを聞くや、ショウカと私とは慌ててその部隊に所属する友人の見送りに出た。しかしその友人ですら詳しい理由は聞いていないということらしく、結局最後まで三羽で首を傾げるほかなかった。そして敬礼で見送ったのが、彼女を見た最後になった。出動して以来、彼女を含めた出動部隊所属の全ての玉兎が波動交信から切断され、全く情報が入って来なくなってしまったのだ。そしてそのまま、帰って来ない。
 それから、出動部隊は徐々に増えて行った。最初は数部隊だったのが、次第に出動する部隊数が増え、間隔も頻繁になり始めた。一方で帰ってくる部隊は一つとて存在しない。私を含めた同期七羽も次々と出撃してゆき、いつしか中央参謀に属する私とショウカの二人だけになってしまっていた。
 これで不安を抱くな、という方が無理があるのではないか。この思考は決して、私が臆病だったからということではないはずだと、今でも思える。どんどん部隊が消えていて、しかも音信途絶状態で、出動部隊数が増えている。こんなの、向こうから実働部隊がやってきて、しかも月側が勝てずに逐次投入になっているという以外に、ありえない。そういう風に今でも思うし、当時も思っていたけれど、そういう考えを賛成してくれる玉兎はどこにもいなかった。玉兎というのは得てして楽天的な生き物である。月都という一種の楽園(のように見えるところ)に住んでいるのだから、楽天的になって然るべしなのかもしれない。だから、私が波動交信やら口頭やらで不満や疑惑を明らかにしたところで「レイセンは何を馬鹿なこと妄想しているのだい。この月が地上の者如きに敗れるはずがないじゃないか」という言葉ばかりが帰ってくるのだった。その挙句、ついには相手にさえされなくなった。レイセンはありもしないことを訴えては任務をサボろうとする自分勝手な臆病者だ、と。
 唯一、私の話を聞いてくれたのがショウカだけだった。結局私はここでもショウカを頼ってしまったし、ショウカはそうして私を支えてくれるのだ。ショウカに言わせれば、軍事で情報は最も重要であるから、交信途絶は当然のこと。部隊数が増えているのはむしろ本戦闘に勝利した後に掃討作戦となり、広い戦域を抑えなければならなくなったからだろう、ということだった。まさか豊姫さまや依姫さま、月都の上層部が戦力の逐次投入なんて愚を犯すはずはない。お二方の頭の回転の速さを、貴女も知っているでしょう。
 部隊が出撃して行っては音信途絶になってゆく状況を、実際に彼女がどう捉えていたかはわからない。ただ、もしかすると私に近い見方をしていたのかもしれない、と私は思っている。ショウカ自身は楽天的な玉兎の中でも特に楽観的な思考の持ち主だったけれども、何かと不安を述べる私の影響か、いささか厳しく物事を捉えることもしている兎だった。だからこそ私の不安を落ち着き払って聞いてくれ、その上で不安を解消するような的確な言葉をくれたのではないかと思う。そうでもなければ、私が一体どこに不安を抱えていて、どういう言葉なら解消できるかなんてわかるはずがないのだから。




               肆

 事態は加速度的に進行していた。一体ショウカの言う戦況が正しいのか、私の妄想が正しいのか、それを知る術はなかった。ただどんどん部隊の出撃数は増えて、残された部隊が自分たちの部隊しかないということ。そして相変わらず情報は何一つとして入らないこと。それだけが状況判断の材料だった。
 そしてとうとう、ショウカの部隊にも出撃の命令が下ることになる。命令が下って二日後に出撃だ、という話だった。突然といえば突然だが、そんなものであることは他の部隊の出撃から知っている。むしろ二日という余裕があるだけ、ましと言えばましなのかもしれない。それでも私からしてみれば、もはや唯一の理解者であったショウカまでが出撃してしまうことは、大きな衝撃だった。部屋で直接ショウカからそのことを聞いた時は、失神しそうになってショウカを慌てさせるほどだった。この時期になってもただの一部隊とて帰って来ていない。だからここでショウカが出撃してしまうことは、今生の別れのように思われたのだ。そんなことを私は、あろうことか出撃直前のショウカへ直接口にしたように覚えている。将に出撃しようとする者に対して、そんな不吉なことを唱えるなんて、非常識にも程があると思うが、ショウカはそれに嫌そうな顔一つしなかった。彼女は私より頭一つ小さい癖に、私の頭を抱き寄せると子供をあやすみたいに撫でてくれた。そうやって撫でながら言った言葉だけは、一言一句間違わずに諳んじることができる。
 レイセン、貴女の周りに広がっている世界は、もっとずっと広くて暖かいのよ。それなのに、どうしてそんなに暗い隅っこでいつも震えているの? もっと真ん中に出て来なさい。真ん中に出てきて、世界の暖かみに抱かれなさい。広い世界で踊りなさい。レイセンはそんな端っこに隠れているような存在じゃないわ。貴女こそが、この世界の真ん中で優しさに抱かれるべき存在なのよ。
 その言葉は妙に詩的で、私までちょっと恥ずかしくなるような言葉だった。頭を抱き寄せられていたからショウカの表情は見れなかったけれども、鼓動はやたらとうるさかったし、彼女の波長が彼女らしからぬほどに千々乱れていたのは覚えている。でも、そんな風に彼女に撫でられているだけで私の心はふっと収まっていったのだから、不思議なものだ。ちょうど真逆の性格だったからこそ、というものだったのだと思う。もしかすると補完関係にあったのではないか。とはいっても、私が彼女に何かをできた、とは思えないけれども。
 その翌日、彼女もまた出撃していった。敬礼する私に向けた笑顔はこれまでに見た笑顔の中で最も美しい、そして力に満ちた笑顔だった。宵の空の如き長髪を棚引かせ、糊の効いた紺色の軍服に身を包んで、その小躯で颯爽と風を切りながら歩いてゆくその後ろ姿は、今でも目の前に浮かんでくる。
 そしてそれが、ショウカを見た最後だった。

 ショウカが出撃した後の部屋ほど、私の心を抉ったものはない。つい先日までそこに座っていて、常々私に話しかけていたショウカがいないのである。改めて私はその心の穴の大きさを知った。時には他愛もない話で盛り上がり、時には将来の夢を語りあい、時には月都のあり方について議論を交わした。そして度々、私の相談に乗ってもらっていた。その相手がいないのである。ショウカの居た場所にあるのは綺麗に整えられたベッドだけ。いつも一緒だったショウカが居ないという事実が、押し寄せてくる。今や同期は私一羽だ。仲間だけで使っていた周波数・位相で波動交信しようとしても、誰からも返信はない。ショウカも出撃したと同時に交信が途絶して、それっきりだった。部屋にいようが何処にいようが、私は常に独りになってしまったのだ。
 戦況の悪化は相変わらずのようだった。出撃した部隊の中は相変わらずいずれも音沙汰がない。すでにこの綿月宮殿に居た部隊のうち八割以上が出撃していながら、そのたった一部隊さえ帰って来ず、それどころか連絡さえ全く取れなくなっているのだ。ここにきて、私は先より抱いていた疑念を大きくせざるを得ない。どんどん玉兎の戦力がすり潰されているのではないか、と。それを否定する材料がないだけに、それを抑える手段はもうなかった。これまで不安で不安で仕方なくなって来た時は、ショウカに吐き出すことで抑えていた。もちろんショウカに話せば的確な答えを返してくれるというのもあったけれども、誰かに言葉として話す、という行為そのものもまた、私の不安解消に役立っていた。だが、唯一話を聞いてくれたそのショウカとさえ連絡が取れなくなると、そうした私の不安を聞くのはただ鏡だけとなってしまった。鏡の中の私なら、話を聞いてくれる。答えなんて返してくれないけれど、でも聞くだけは聞いてくれるのだ。"誰か"に話すことの大切さを知り、また話さずにはいられない私は、そうして毎日のように鏡に向かいあって、自分の不安を吐露した。傍から見たらかなり不気味な情景であることは間違いない。今の私がいたら、すぐに治療に取り掛かるだろう。
 鏡に映る私の姿は、確かに話を聞いてくれる。しかし聞いてくれるだけであったし、結局その不安は埋まることがなかった。やっぱり鏡に映るのは私自身。私が感じていることは、鏡の中の彼女も感じている。私が不安なことは、彼女も不安である。私に欠けたところは、彼女にも欠けている。結局のところ、私の欠点を彼女は埋めてくれないのだ。同位相で同じ波長の波を与えたらその波が増幅されていくように、結局私の不安は増大してゆくばかりだった。
 今までこんなこと考えても見なかったが、きっと私にとってショウカは逆位相だったのだと思う。前にも書いたけれども、やっぱり彼女はあらゆる意味で私の逆だった。きっと私の波動をショウカは逆位相で打ち消してくれて、だから私は平穏無事に居られたに違いない。ショウカに不安を吐露するだけでだいぶ落ち着けたのも、そうやって口に出すことで彼女の波動に打ち消してもらえたからだと、そう思う。だからそれを鏡の中の私で代用しようなんてとても無茶な話で、愚行に他ならなかったのだ。とはいえ、私には他の手段が全く残されていなかったことも、また事実である。
 とまれかくまれ、私の生活はどんどん落ちていった。残留部隊数の減少によって増えていた通常任務をこなす他は、殆どの時間をがらんどうの部屋に独りで過ごした。他の玉兎に自分の不安を述べたって、どうせ誰にも理解して貰えない。もう自分の味方はただ鏡だけなのだと、そう思っていた。たぶんそれは半分くらい本当で、この期に及んでも玉兎たちは月が地上に圧勝しているものだと信じて疑っていなかった。当時の私からすればそれは愚者そのものであって、そんなことを信じている玉兎どもの能天気振りに呆れたもの。だがその私だって、数少ない情報で勝手に負の妄想をしてはどんどん落ち込んでいたのだから、同類みたいなものだ。挙句には勝手にそのままどんどん負の方にのめり込んで行って、精神的にどんどん狂っていくのだから、こちらの方がずっとたちが悪い、とさえいえる。

 私の部隊に出撃命令が出たのは、そうやって精神的に転がり落ちて行くさなかの事であった。一向に帰還部隊は無く、交信も復帰しない。何一つとしてわかることのないまま、三日後の出撃命令だけが下されたのだった。私にとってそれは、月が負け続けていて玉兎の迎撃部隊がどんどん潰れていることの証左としか思えなかった。
 その日の夜、夢を見た。月の軍が、敵の圧倒的な軍備によって一掃されてゆく夢。居並ぶ玉兎の兵隊たちが、自分の目の前で吹き飛ばされていく。そちらでは頭を撃ち抜かれた仲間が倒れていて、向こうでは知り合いが上半身だけになっている。そんな情景が目の前でずっと展開するのだ。やがてショウカが出てきて、あの明るい笑顔を私に向けた後に走って行き、敵の砲弾で肉塊と化す。私は何かを叫んでいるのだけれど、皆には聞こえていないようだった。そして最後には私自身も、敵の銃弾に胸を撃ち抜かれる……。
 今になっても何一つ忘れられない、強烈な夢。全てにとても実感があって、あの硝煙と血の混じったような匂いやぬるりとした血の触感まで脳裏から離れない。胸を撃ち抜かれた直後に私は飛び起き、大声で叫び、転げ回った。本当に私が胸を撃ち抜かれたのではないかと、そう思えたのだ。全てが現実なのだか夢なのだかわからない、そんな夢。結局はあまりの大声に驚いた近隣の部屋の玉兎たちが私の部屋に駆けつけ、錯乱してわあわあ叫んでいる私を抑えつけた。たぶんそれだけでは埒が開かなかったようで、だから玉兎たちは一斉に私へ波動パルスをぶつけたのだろう。それで、ようやく落ち着きを取り戻すことができた。私が事態に気付いた時には、玉兎たちの好奇と侮蔑の目が、降り注いでいるだけだった。
 こうして私が、"玉兎の鑑"であるレイセンが、臆病のあまりに一時錯乱したという事実は、噂好きの玉兎にとって格好の獲物となった。それ以来私の噂が交信によって飛び交うことになる。長く"玉兎の鑑"として称揚されていた私は、良くも悪くも玉兎たちの間では割と評判であり、妬みの対象にもなっていたようだったのだ。
 あんな醜態を示したレイセンは軍に居るべきじゃない。あんな臆病者が"玉兎の鑑"だなんて、飛んだ笑い話だ。レイセンは、玉兎仲間のことを綿月に漏らすスパイだったから"玉兎の鑑"だったのでしょ。そう言えばレイセンはいつも綿月のいうままだったね。実際には、そんな力なかったのよ。奴が幹部候補になったのは、ショウカと一緒にいたからさ。レイセンとショウカはデキていて、その縁でレイセンは幹部候補になったんだよ。ああ、奴らは部屋も一緒だしいつも二人組で気持ち悪いとおもったら、そういうことだったのね。げ、私もショウカからそんな目で見られてたのかな。まさかそんな気持ち悪いのが仲間にいるとは思わなかったよ。なあに、ショウカも所詮、その程度の駄兎だったのさ。
 根も葉もない噂だった。最初のうちの、私個人に対する中傷はまだ許せた。実際には、自分が"玉兎の鑑"でもなんでもないということくらい、自分が一番わかっていたのだ。その栄誉を喜びながらも、心のどこかでショウカこそが玉兎の鑑だと、思い続けていたから。けれどもその誹謗中傷はやがて、出撃してこの場にいないショウカにも及んだのである。それだけは、私にとってなによりも許せないことだった。この騒ぎはショウカと一切関係がない。全てが私の責任なのだ。にもかかわらず、玉兎はあろうことかショウカまでをその下品な中傷の対象にした。何の責任もないショウカが、出撃していったショウカが、どうして自分のために中傷されなければいけないのか。どうして玉兎たちは、そんな酷いことをするのだろうか。しかし私には、それを止めるだけの度胸も力も無かった。そう思いこんだ。だから、ますます引きこもることしかできなかった。殆どの波動も遮断して、受け取ることすら拒否した。波を弄ることができる私からすればそんなことは簡単。受信する波動はただ一つ。私とショウカとがやりとりに使っていた位相・波長の波だけ……。
 そんな状況で私の精神状態が回復するはずは、これっぽっちもない。この状況は客観的に見て"狂っている"というべきなのだ。でも本人から見たら狂っていないのだから、厄介なだけ。当時の私が把握していて、そして今の私が思っているとおり、このレイセンはもう駄目だった。あの悲惨な夢以来、私は幻影幻覚まで見るようになっていた。ふと気を散じれば、目の前には世にも恐ろしい軍隊が並んでいて、私を殺そうとする。玉兎の屍が山となっていて、足元にまで真っ赤な血が川のように流れてきている。月都が勢いよく燃え上っていて、宮殿が崩れていく。そんな滅びを背景として、自分の仲間たちが次々と死んでいった。首を撃ち抜かれて血の泡を吹きながら斃れ、銃弾に頭半分吹き飛ばされて即死し、砲弾の破片で腹を切り裂かれてのたうちまわり、弾に直撃して粉々に砕かれる。中でもショウカはたいてい一番悲惨な死に方で、彼女の死にざまを見せられるたびに嘔吐を繰り返した。最後には嘔吐するものも尽き果てて、酸っぱいものさえ上がって来なくなるほどに。
 それでも、もはや私にはどうにかする方法はないのだった。いや、本当はあったのかもしれない。誰かそんな私の悩みを理解してくれる玉兎もいたかもしれない。でも、私は探そうともしなかった。もう玉兎も怖かった。ショウカさえ排斥に掛かる玉兎が恐ろしくて憎くて仕方なかったのだ。
 ただただ、私は出撃直前までのたうちまわっていた。寝ることはおろか目を閉じることもできない。目を閉じて広がるのは悲惨な情景だから、それを見ずに済ませるためには目を開けておくしかないのだ。目を真っ赤にしながら私は、ただ鏡に向かってぶつぶつ呟き続けるほかなかった。




               伍

 もはや私の精神は限界だった。狂気を操るとかいう名前を背負っておきながら、私は着々と狂気に飲み込まれつつあったのだ。冗談のような話である。
 一体何故ここまで落ちてしまったのだろうか。勿論、ショウカがいればこうはならなかっただろうが、それでは全く解決にならない。何時まで経ってもショウカにおんぶにだっこ、というわけにはいかなかったのだろうから。それに、もしあのままの生活がつづいたとしても、たかが私のことで、ショウカを煩わせるわけにはいかなかったと思うのだ。でも未だに、どうすればよかったか、私にはわからない。きっと私の思考方法は変わらないだろうし、他の玉兎からは浮いてしまっていただろう。つまるところ、私は不良品なのだろうな、と私は思う。狂気を操るなんて言われているけれども、それは自分が元々狂気の世界に住んでいるからで、人を狂わせるのも所詮は自らの世界に引きずり込むという行為に過ぎない。そんなものではないだろうか。だから先に書いたような"狂気に飲み込まれつつあった"という表現は、その実間違っていて、正しくは"狂気に戻りつつあった"と書くべきなのだ。そしてショウカは私の狂気を相殺し、普通の世界でもいられるように偽装してくれた。たったそれだけ。畢竟、私が生きていること自体が既に殆ど奇跡だったのだ。ましてそんな私が"玉兎の鑑"なぞと呼ばれるのは、論外である。それを誇っていたなんて、とんでもない話。
 そんな客観視ができる間は、狂っているとは言わない。この時の私はすでに全くの思考能力を失っていた。襲いかかる凄惨な状況に日々心と体を削り取られてゆくだけなのである。しかしその恐怖は誰にもわかってもらえない。相談をすれば、むしろ私だけでなく仲間にも迷惑をかけてしまう。だから独り部屋に籠って、出撃の時刻が迫るのを待つことしかできない。

 翌日に出撃を控えた夜。いても立ってもいられない私は、遂に部屋を飛び出した。久方ぶりに出た外の空気は少し冷たくて、肌に沁みた。丁度その日は満地球(月の言葉を直訳するとこうなる。他に訳語が思いつかない)の日で、大きな青い球が夜空にくっきりと浮かんでいた。地上といえば穢れの代名詞のようなものであって、小さいころから侮蔑に値するような酷いところだ、と教わった。とはいっても何故か、今ではだいたい理由も予想付くが、豊姫さまと依姫さまが地上のことをけなしているのは見たことがなかったけれども。それでも他の玉兎たちと交信していれば、自然と地上は穢い場所だと学ぶ。玉兎によっては、地球がよく光っている夜は地球から穢れが降ってくるからと、外に出ようとしない玉兎さえいるほどだ。
 ところがその日の私には、そんな地球がとても綺麗に見えた。地球は、真っ暗な夜の中で星々を押しのけてひときわ青く輝いていた。その光に照らされると、どうにも体全体が洗い流されるような気もしてくる。そんな輝ける青玉に、私は幼いころに一度みた優曇華の花を思い起こしていた。あの優曇華の花も穢れを吸って咲くというが、月都にある全ての花よりもずっと綺麗だったと思えるようなものだった。そしてふと、私は気付いた。このまま地球に行ってしまえば、戦場に行くことはないし死ぬこともない。誰にもわかってもらえず、独りで苦しまなければならないこの状況から離れられるのではないか、と。玉兎の連中は地上を汚いとか穢れているとかいうけれども、あんなに輝いている地球が汚れているはずはない。むしろ月都よりも、ずっと綺麗ではないか。
 その瞬間、私の頭にはもう地上のことしかなかった。それはきっと、目の前に見えている悲惨でどうしようもない(と勝手に思っている)現実からの逃避でしかなかったのだろう。でも私にはそんなことはわからない。ただひたすらに、地上に行きたい、と思った。逃げるという感覚すらない。ただただ、地上に"行こう"と思っていた。それが任務であり義務であるかのように、地上に行かなければならない、と思い込んだのだ。ここで当時の私にとって幸いなことに、地上にゆく手段もすぐに思いついたのである。玉兎兵の装備には月の羽衣が入っているということを前に聞いたことがあるのを、きちんと覚えていたのだ。つまりその装備一式さえ手に入れれば、地上に行くことができる。私はその場から駆けだすと、装備の倉庫へと駆けこんだ。そして自分の装備一式を握りしめ、地上に向かって飛び出したのだった。
 地上へ行くことしか頭にない私には、もう周りが見えていなかったようで、その時に他の玉兎がどうしていたかがわからない。記憶の限りを掘り起こしてみても、どうにも思いだせないのだ。装備の倉庫に見張りがいないはずはないし、そもそも宮殿内には衛兵がうろうろしているものだから、そんな状況で見つからないのは、普通に考えれば、ありえないのだ。もしかすると無意識のうちに波長を操って見つからないようにしていたのかもしれない。その点では幼いころにやったかくれんぼを、とんでもないところで実践してしまったことになる。でも如何せん私にはわからないこと。聞く相手もいないから、推測することしかできない。
 とにかく、私は一目散に地上へと飛び出した。月の羽衣を使えば、あとは何をしなくても、おおよそ地上に辿りつくことができる。端切れがあれば、あのインチキな吸血鬼のロケットさえ月に辿りつかせることができる代物なのだ。本当に安全を期すならば新地球(と訳すのだろうか?)を狙うべきであったのだろうけれども、月の羽衣を使えばそうでなくても存外どうにかなるものだったようだ【注】。ひたすらに地上へと向かわなければならないということだけを思い続けて、地上へ向かって突き進んだ。
 そんな有様であるから、何か準備をしていたわけでも考えていたわけでもない。まして地上がどんなところかなんてことも全く知らないし、地上に降り立った後のことさえ考えてもいない。月からの脱出は無策で衝動的な行動に過ぎなかったわけだ。今思えば、よくこんな酷いことをなしえたものだと思える。危険度からいえば、戦争に出撃することよりももっとずっと高かったのではないだろうか。それをやってしまったことが、何より私が平常な思考能力に全く欠けていた、というしるしなのだろう。だからこそ、地上で降り立ったのが幻想郷の中の、この高草の竹林であったことは、本当の奇蹟だったのだと今でも思っている。もし少しでもズレて幻想郷の外に落ちていたらどうなっていたか、恐ろしくて考えたくも無い。きっと外の世界の人間どもによって晒し物にされていたに違いない。

 尤も、ただの偶然のみで幻想郷の中に落ちてきたわけでは、どうやらないらしい。つい先日落ちてきた玉兎も、竹林ではなかったにせよきちんと幻想郷の中に落ちてきて、外に落ちることはなかった。それがどうにも不思議だったので、この間人里に行った時に偶々会った藍さんに聞いてみた。するとこれまた明快に答えてもらえた。流石は、八雲紫の式なだけある。
 藍さんによると、どうやら幻想郷には二重の結界で覆われているらしい。一つは、誰もが知っている博麗大結界で、これは外の世界との横断を遮断している。とても強力な結界で、妖怪やちょっとした神では早々傷つけることさえ敵わない結界だとか。その上で藍さんは「どこかの誰かが、力ずくでぶち抜いて外に出たこともあったがな」とか苦笑していたけれど。お師匠さまに聞いたら「そうねぇ、通り抜ける方法、3*10^8通りくらいはあるんじゃないかしら?」とか言っていたし、思ったよりは強くないのかもしれない。
 もう一つが、幻と実体の境界と言うのだそうだ。私は初耳だったのだけれども、藍さんの説明によると、外の世界に対して幻想郷の中を幻の世界と位置付けるものなのだそうだ。つまり、外の世界で幻となったものはこの幻想郷の中に勝手に引き寄せてられてくるのだ。引き寄せられて来た時は特に博麗大結界に阻止されないように調整されてもいるらしい。要するに私は、この結界に引きずられて幻想郷の中に落ちて来たのだろう。外の世界では月に兎が住んでいるという情報はとうに幻となっていたという。だから八雲紫の結界に引っ張られて幻想郷に流れついたのだろう。私は八雲紫にも感謝しなければならない。彼女の張っていた結界の御蔭で私はこの永遠亭に来ることができたのだから。


【注】この部分を書いたあとで、お師匠さまに確かめに行ったら「ウドンゲ、貴女って想像以上に頭悪かったのね」なんて言われてしまった。お師匠さまの解説によれば、基本的に月と地上とを行き来するのは新地球――満月の時だけなのだそうだ。それはその時、地上に浮かぶ幻の月と実際の月との境界があいまいになるから、というのである。もし満月でない時に移動しようとすれば、幻影の地上に辿り着くばかりなのだとか。それでは私が何で無事地上についたのだろうという話を聞いたら、「あなたが来たの満月の日じゃない。何を言ってるのかしら?」と追い打ちされた。どうやら、私の記憶は相当混乱しているようだ。錯乱のあまりに何をやったかもよくわからなくなっているらしい。ひょっとしたら満地球を見たのは出撃前夜ではなかったのだろうか。私には判断がつかない。とりあえず、聞く第三者もいないし、私の記憶の通りここには書いておくことにはする。真丸な地球に魅せられて、装備を奪って逃げ出したという事実だけは、本当のことなのだから。




               陸

 最初に降り立った地上の情景は、竹林だった。月とあまりに違う情景に、とても戸惑ったことを覚えている。まず辺りを取り巻く穢れがこれまでにはとても感じたことの無い量であった。本当にそこかしこから、生き物の持つ波長を感じ取れるのも初めての体験であった。これまで触れたこともないような、そんな世界でいったいどうすればよいのだろうと、途方に暮れるしかなかったわけだ。手に装備の銃こそ抱えているけれども、それで生き延びられるわけでもない。装備に備えられた食料もほんの数日分くらい。あまりに心細い状態だった。
 それだけに警戒心は強くなる。少し風が揺らいで竹が鳴っただけで、びくびくしながらそちらを振り向いたもの。月と違って地上の竹林は、本当にいろいろな所からいろいろな音やら光やらが感じ取れて、そのたびに銃を突きつけてみては敵ではないか確認するような有様だった。実際は手も足も震えていて、たとえそれが敵だったとしても、とても相対できる状態ではなかったが。
 そういう状況だったから、何かがこちらを目指して近づいて来ている波動を感知した時には、まるで失神してしまいそうになるほど恐ろしかった。月を出る時まで地上こそが自分を救ってくれると思い込んでいたはずなのに、いざ地上に降り立ってみればそれがおそろしくて仕方がない。今更、地上になんて来なければ良かったと思い始めた。もう遅いのに。
 そうやって姿無くして私を震撼させたのは、てゐだった。てゐは竹の合間から私の前へとひょっこり顔を出すと、私に笑いかけた。当の私にはその笑いが不気味だったし、まず地上の生き物がなにを考えているのかが分からないから余計に不安を抱かせるものだった。だから私はてゐの頭を目がけて銃を突きつけ、強く睨んだまま動かなかった。はっきり言ってこれ以上間抜けな姿は無かっただろう。てゐが腹を抱えて笑わなかったことに、むしろ驚きかもしれない。銃で狙うのは頭よりも胴体であるべきだし、それ以前に手がそれだけ震えていながらそんな姿勢だけ取ったって意味はない。第一、誰かを殺したことさえないのだ。てゐは私のそんな姿を見ても態度を少しも変えずに、お前は月の兎だろう、といった。その言葉は私にとって再度の大きな衝撃である。目の前の地上の兎が、どうして月の兎の姿を知っているのかと。こいつはもしかしたら月のスパイなのではないかと、そんなことさえ思った。もし彼女がスパイであったなら、私にはすぐさま迎えがやってきてしまう。そして月へと送還されるのだ。その先に碌な未来はない。敵前逃亡罪ならば良くて即刻首刎ね。最悪最前線に送られて玉砕を強要させられる可能性だってある。そんなのは、絶対に嫌だった。
 でもてゐの言葉は、そんな私の悪い想像からはだいぶ離れたものだった。てゐは自分もまた月人と暮らしているのだ、ということを伝えて来たのだ。一体どういうことか、私にはわけがわからなかった。月人は地上を見下している。侮蔑している。だからわざわざ降りてきて住んでいるとは、とても思えなかったのだ。そんな動揺をよそに、てゐは私へついてくるように告げた。
 悪い妄想はいくらでも広がるもの。この時の私もまた、色々な可能性について思いを巡らせてしまっていた。実はここも月の一部ではないか、とか兎について行った先で食べられてしまうのではないか、とか兎はやっぱりスパイでそのまま即刻月へと送り返されてしまうのではないか、とか。でも結果的には付いてゆくしかなかった。その時の持ち物を考えてみれば、自分で何かを為すという選択肢は殆どないも同然だった。それに付いて行かなければどうにかならない、という保証もまた無かったわけだ。だからてゐに大人しく連れられて行くしかなかったのだ。

 そして連れて行かれた先に居たのがお師匠さまだった。てっきり建物につれて行かれるのだと思っていたから、案内された相変わらず何もない竹林だったことに疑念を抱いたものだ。一人誰か立っているとはいっても、わざわざ同じような場所に連れて行っても仕方がないように思えたからだ。やっぱり私はその場で処分されるのではないか、と思えた。
 しかしそんな私の思考を、お師匠さまは一言で打ち砕いた。お師匠さまは震える私に「××に仕うる民か」と聞いたのだ。その××を強いて音写するならば、ツクヨミになるのだろうけれど、つまりは月の民しか発音できない名前を、お師匠さまは私に告げたわけだ。お師匠さまが――目の前に立つ人が月人であることに驚きを隠せない私に、お師匠さまは自己紹介を続けた。私は八意永琳。月では××と呼ばれているわ。
 八意永琳の名前は、私も聞いたことがあった。勿論月の賢者として誰もが知る名前であったということもあるが、それ以上に豊姫さまや依姫さまの授業を聞いていたころ、度々名前が登場していたからだ。お師匠さまは豊姫さまや依姫さまを教えていたことがあったらしく、だから豊姫さまや依姫さまはとてもお師匠さまを尊敬していた。授業中に雑談となると、何かと八意永琳の名を出し、その聡明さや偉大さについて玉兎たちに教え込んでいたのだ。あの綿月宮殿で育った玉兎たちは一人残らず、八意永琳という大きな大きな存在を心に抱くことになったのではないかと思っている。お師匠さまとは、ただ月の賢者だっただけでなく月で随一の伯楽でもあったわけだ。
 その当人が、自分の前に立っているのだから、これ以上に驚かされることなんてないだろう。実際、この時ほど驚いたことは、これまで生きて来た中でもない。ショウカが依姫さまに反論した時よりもずっと、私は驚いた。
 そこから、私は聞かれるままに自分の境遇について話した。詳しく聞かれた内容はもう覚えていない。名前やら逃げて来た理由やら、そんなところを答えたのだと思う。私のことだから自分に有利なことしか言わなかっただろうけれども、それがお師匠さまに通用したとも思えない。お師匠さまが言い訳をする私にどんな思いを抱いたかなんてわからないし、怖くて聞けないけれども、でもあまり良い思いはしなかっただろう。お師匠さまが作った月都を私は捨ててきてしまったのだから。
 幾らかのやりとりの後、私は正式に匿ってもらえることが決まった。それはつまり、私の月からの逃亡が成功したということに他ならなかった。

 永遠亭に案内されてすぐ、私は装備を一式渡すように言われて、全て言われるままにお師匠さまに渡してしまった。月の羽衣も銃も何もかも、全て。私が持っている物々は、永遠亭を守るためにはあまりに危険な代物だったから。一応、今も私の机の一番下の引き出しに全部入ってはいるらしい。らしい、というのはその引き出しに封印がされていて、輝夜さまかお師匠さまではないと開けられないからだ。それに、もうこれらを使うことはないだろう。ただこの時には、本当に装備が必要ないだなんて思っておらず、他に手がなかったから渡さざるを得なかっただけだ。
 そしてその装備と引き換えに、私は大切なものをお師匠さまから頂いた。それが"鈴仙"という名前だった。正しくは字といえるけれども、この時から私はレイセンでなく鈴仙になった。ついで、というとお師匠さまに怒られるけど、優曇華院という名前も貰った。正直この名前がどんな意味を表しているのかはよくわからない。慧音さんに聞いたら「院号とは、貴人のみが持つものだ」と言われたけれど、どうにもなんで私にお師匠さまが院号を渡してくれたのか、さっぱりだ。ただ、いつもお師匠さまが私を呼ぶ時に使う"ウドンゲ"という名前も決して嫌いではない。それに加え、いつも姫さまが"イナバ"と呼ぶもんで、私の名前は何時しか"鈴仙=優曇華院=イナバ"とやたら長い物になってしまったが、皆大切な名前。やっぱり一つたりとも欠かすことはできないものだ。あまりに長すぎる名前に、時折恨めしく思うこともあるけれど。
 でも、この永遠亭が私にとってかけがえのない場所になるとは、この当時の私にはとてもではないが思えなかった。それは勿論私の精神が不安定であり、狂っていたからというのもあるが、それ以上にこの永遠亭によからぬ波動を感じないでもなかったからだ。はっきり言って、今でもその雰囲気が消えたわけではない。それは永遠亭の構成に直接関わるものだからなのだと思う。元々、この竹林の主はてゐである。そこに姫さまとお師匠さまとが入り込んできて住み付いたわけで、そこにあるのは利害の一致による共同生活でしかない。だから、表面的にはとても仲がいいのだけれども、いまいち本当の感情が通じているわけではない。今でもお師匠さまは永遠亭で一体何をしているか、いちいちてゐには言っていないようだし、てゐはてゐで兎に関することについてお師匠さまにも介入させない所がある。そのことが、永遠亭に充ちる波動の不安定さを示しているのだ。てゐはてゐで、兎の長として引けない部分があるのはわかるし、お師匠さまはお師匠さまで姫さまを守らなければいけないから、完全に心が開けないのは仕方ない。
 でもいつか、そう遠くない未来に、永遠亭が一つにまとまる日も来るだろう。少しずつ差は埋まっているのだから。




               漆

 永遠亭は暖かいところだった。最初の私の予想を完全に覆し、永遠亭の人たちはとても優しく迎えてくれた。特に姫さまは、度々イナバ、イナバと私を呼んで、いろいろな話し相手となってくれた。ショウカの出撃以来、誰かと話すこと自体が殆どなかったから、それは私にとって久方振りの体験で、涙が出るくらい嬉しかった。全員が私のことを気に掛けてくれ、何かあったら心配してくれる。そんな普通の生活が、私にはとてもとても有難かった。
 しかし私は、逃亡して来た玉兎である。戦争を前にして、他の玉兎を見捨てた玉兎。臆病のあまり狂気に戻って、仲間を平然と見捨てた玉兎。そんな私に、この永遠亭はあまりに暖かすぎた。狂気に埋もれた私を、姫さまやお師匠さまやてゐや、他の兎たちは暖かく包んでくれて、正気の世界へと引っ張って行ってくれる。そんな暖かい永遠亭の中で、私も再び正気へと染まるのは当然であった。正気の世界へと戻ってくるにつれて、自らの行為や現在の状況が再びよく見えてくる。そうすれば、自分が狂気のあまりにどんな恐ろしいことをしてしまったのか、ということもすぐ明らかになる。さすれば、そうした現実が再び目前に立ち現れてくるのは、必然といえた。
 それを最初に見せつけられたのは、やはり夢からだった。最も錯乱していたころは逆に夢も見ることはなかったのだけれども、永遠亭に留まって暫くすると再びあの悪夢に襲われるようになっていった。しかし一つだけ、月で見たあの悪夢と違うところがある。圧倒的な地上の軍隊に襲われて、仲間たちが次々と死んでいくその情景は、毎回死に方や順番が違うとはいえ、基本的には変わらない。ところが、私だけは死なないのだ。戦場ではないところから、私一人がその凄惨な戦場を眺めつづけるのである。どんなに叫ぼうが喚こうが、私の声も動作も、何も通じない。まるで、私の前にある大きな鏡に戦場の状況が映っているかのよう。私は目の前で、ショウカや仲間が血に染まっていくのを、何度も何度も繰り返し見せられるだけなのだ。その夢は、月に居た時に見た夢よりもずっと性質の悪い夢だ。月にいたころは、自分が殺されればそこで飛び起きる。でもこの夢では、私はあくまで傍観者であり、延々と殺される場面だけを見せられ続けるのである。どんなに嫌でも見るしかないのだ。
 丁度このころ、玉兎通信によると月が地上の軍勢に勝った、という話が流れていた。しかし、実際に出撃していった玉兎がどうなったかという情報は無い。私の部隊もまた音信途絶のまま行方不明になってしまったらしかった。当然ながら、ショウカや他の仲間たちからの交信も、ない。暇を見つけてはショウカたちとの交信に使う位相・波長の交信だけは今でも毎日欠かさず試してみているけれど、これまで一度も反応したことがない。信じたくはないけれども、もうこの世にはいないのだろう。
 そのことは、余計私の夢に現実感を与えることになってしまった。状況は全く同じ。玉鏡(つき)の中で死んでいくショウカたちを、私は地上という外からただ眺めるだけなのだ。助けに行くことはおろか、呼びとめることすら敵わない。自分一人だけ、慌てて玉鏡から抜けだして生き延びてしまった。"玉兎の鑑"と言われながら、自分はその期待も何もかもをかなぐり捨てて、逃げてきてしまったのだ。ショウカたちが苦しんでいるのに、私だけがこんな暖かいところで、ぬくぬく暮らしているのだ。そのことに罪悪感を覚えないことが、あるだろうか。
 その夢は、私が永遠亭にいる期間が延びるにつれて、どんどん悪い方へと進んで行った。最初は私を認識することなく進んでいくショウカたちだったけれども、そのうち私の方を向くようになった。戦場の中で、銃を抱えたショウカが、私の方を向いて少し寂しそうな目をする。そしてその直後に胸を撃ち抜かれ、全身を紅に染めて斃れ行くのだ。その一事だけでも私の心に深く突き刺さるのに、そのうちショウカが何かを呟くようになった。それは怪我を負う前であったり後であったりするのだけれど、どうやら「助けて、レイセン」と呟いているようだった。私はずっと、ショウカに救われて生きて来た。ショウカの御蔭で、ずっと生きてこられた。そんなショウカが、私に救いを求めている。それなのに私が何をしても、ショウカたちのところには決して届かない。手を伸ばしても、その手がショウカの手に触れることは、絶対にない。ショウカが私に救いを求めて手を伸ばすのを、黙って見ていることしかできないのだ。当然である、その戦場は鏡の中の話であり、私はそこからとうに逃げ出してしまっていたのだから。いつも強い意志で以て一等星の如く輝いたショウカの緋色の瞳が、呟いた一瞬だけふと柔らかい色に変わる。その瞬間の、ショウカの憂えを含んだ表情は、脳裏に焼き付いて離れることがない。この夢ばかりは、今でも月に一度くらいの割合で見ることがある。それはたいてい疲れていたり落ち込んでいたりする時で、この頃に比べればかなり内容的にはマシになったとは言え、やっぱり魘されるものだ。これは一生、私の宿痾として残り続けるだろう。
 こんな悪夢から解放されて飛び起きると、よく姫さまが私のことを心配そうに見つめているものだった。姫さまは、私が魘されていると心配してよく見に来てくれたようなのだ。時には膝枕をしてくれていたり、頭や背を撫でていてくれたこともある。それはとても心地良くて、悪夢に憔悴しきった私の心を良く鎮めてくれるものだった。姫さまのそうした気遣いの御蔭で、私は悪夢に狂わないでいられたといえるかもしれない。今でも姫さまは、私がこの悪夢に魘されると見に来てくれて、落ち着けてくれる。姫さまの優しさには、感謝してもしきれない。
 しかし同時に、この優しさが私にはまた苦しかった。仲間を、ショウカをああやって死地に置きながら一人逃げた私が、豊姫さまや依姫さまに"鑑"とまで期待されていたのに碌なことを果たさずに逃げた私が、そんな優しくしてもらってよいはずがないと、そう思えたからだ。私は、私を生かしてくれていた恩人のショウカでさえ見捨てる、醜い醜い玉兎なのだ。こうして優しくしてもらえる資格はない。私は不幸であるべき玉兎なのだ。

 私が罪悪感を感じていたのは、夢の間であったわけではない。どうして逃げてしまったのだろうか、と私は自らへ問い続けた。これも自分がやりたくてやったというよりは、頭の中に勝手に浮かんできてしまう代物で、嫌で嫌で仕方ないものだった。けれども今思い起こせば、その程度には私は"まとも"であったらしいとも思う。こんなことも思わないほどに自分勝手ではなかった、ということだからだ。しかしいざそういう状況に置かれて、そんな前向きな思考ができるはずもないわけで、私は毎日のようにそんな自問自答を繰り返してはやはり自分の無力さを思い知るしかないわけだ。
 逃げてきてしまったということは、自分が苦難に立ち向かわなかったということ。自分の心はその程度でしかなかったということだ。月にいたころから自分の臆病さは嫌というほど知っていたし、それを直したいと思ったことも多かった。ショウカに憧れていたのだって、依姫さまに反論するほどの度胸と行動力の高さに憧れていた部分はきっと大きい。軍に入ったのも、自分の臆病さを少しは軽減できるのではないかという甘い思惑が、ないではなかった。"玉兎の鑑"と賞されて嬉しかったのも、そうした臆病さを打ち消してもらえる気がしたからだろう。ところが、私の臆病さはそれらを全部打ち払うと、自分に課された試練も全て捨てて地上へと逃れてきてしまったのだ。それに私はすっかり絶望してしまっていた。もうこの自分の臆病はどうにも抑えようがなく、自分を喰らっていくのだろうと、そうとしか思えなかったのだ。あの大切な仲間たちさえ、ショウカさえ捨てられるほどのものなのだから。
 仲間の玉兎たちを捨ててきてしまったという罪悪感も、私の心から離れることが全くなかった。同期だった六羽の仲間は、かけがえのない存在だった。彼女たちの御蔭で私は生きてこられたというのに、そんな彼女たちを、ショウカを私は捨ててしまった。もし見捨てなければ、彼女たちを助けられたかもしれない。再び皆一緒に暮せたかもしれない。それなのに私は独り、戦場怖さに逃げてきてしまったのだ。その結果、ショウカたちは全員が消え失せてしまった。苦しんでいるだろう彼女たちを、私は見捨てて逃げた。殆ど、彼女たちは私が殺したようなものなのだ。助かるかもしれない可能性を、私が全部潰してしまった。きっと、独り逃げて平和に暮らしていることを知ったら、ショウカたちは私を恨むだろう、とそう思えた。彼女たちを犠牲にして、私は独り平穏無事な暮らしを手にいれたのだ。
 自分が既に罪にまみれていることは、わかりきっていた。でも、それでも私は生き続けていた。自分が生き続けていいとも、とても思えない有様ではあったのだけれど、ただ死ぬこともできないから生きていた。もしここで死ぬことができるのならば、月から逃げ出すようなこともなかった気がするが、ようするに私は臆病で死ぬことさえできなかったのだ。夜に自分の仲間が死ぬ情景に恐れて、昼に仲間を捨てて生き延びる自分に絶望する。それでもなお、自分はただ生きることしかできなかったわけだ。死ぬ勇気もなく、罪を積み重ねていることに重みを感じながら、抜けがらのように生きていた。

 書き連ねてみると、どうも馬鹿なことを考えていたらしい。馬鹿というよりは、仕様のないことともいうべきか。私が逃げてしまったという行為はもう変えられないし、それがショウカたちを殺してしまったことは事実かもしれない。でもそれをショウカが、あのショウカが恨むはずはないのだ。逃げてしまったと言ったって、きっとショウカは手を伸ばして私の頬を撫でながら、言うに違いない。「鈴仙が生き残って、本当に良かった。私が死んだのは私の力がただ足りなかったから。鈴仙のせいじゃないわ。だから鈴仙は、私の分まで生きてね」と。その情景が、言いながら浮かべるショウカの晴れやかな笑顔が思い浮かぶからこそ、却って胸に詰まるものもあるのだけれど。それでもなお、ショウカが私を恨む姿、というよりは彼女が負の感情をむき出しにする姿は、どうにも思い浮かばない。本当にいい友を持ったと思う。
 ただ、そう思うのはただの言い訳である気もするけれど。結局勝手に想像して、正当化しているだけだからだ。本当のところでショウカたちがどう思っているかを知る術は、存在しない。
 ただ一つだけ、自分が臆病で良かったと思うことがある。それは、この時に勢い余って死ななかったこと。この時に死を選ばなかったからこそ、今があるのだもの。




               捌

 きっとこのまま暮していれば、永遠亭の暮らしもまた悲惨さを帯びていっただけのはず。私は永遠亭の暖かさによって、確実に腐りかけていた。だからだろう。いきなりお師匠さまが私を呼びつけて、弟子になるように勧誘したのは。
 これは本当に唐突だった。お師匠さまが脈絡なくわけのわからない話を持ち出すのはよくあるのだけれども(というと語弊があるかもしれない。もうすこし正確に言うなら、"私には"わけのわからない話。お師匠さまには全部見えているらしいのだ)、この時も私はお師匠さまがなにを言いだすのか、まったくわからなかった。なにせ、ぼーっと暮らしていた私に向かって突然、私の弟子になって薬師を目指しなさい、というのだから。玉兎の中に薬を搗く仕事があるとはいっても、その担当の兎はまた別にいる。私は綿月の宮殿に居た、兵隊玉兎であるから薬とはまるで関係ない。それがどうして薬師なのか、どうにも理解しかねた。はっきり言って、自分が薬師として働いている姿は想像できなかったし、薬師に向いているとも思わなかった。今でも、あまり薬師としての実感が湧かないほどなのだから。
 でも、私には断る理由もなければ、手段もなかった。実質的には、強制というに近い代物だったように私には思えた。いくら暖かい永遠亭とはいっても、いつまでも何もせずに暮らすわけにはいかないと、どこかで何となく思っていたし、それ以上に月の賢者・月の頭脳と称えられるようなお師匠さまに逆らう術なんて、無かったように思えたからだ。
 これの読者は私だけだからこそ書くけれど、この時もし断ったら、その場でお師匠さまに殺されてしまったのではないかな、と思っている。お師匠さまの弟子にならないということは、永遠亭になじもうとしないということ。そんな兎を匿うほど、お師匠さまは危険を冒さないはずだ。今だってたぶん、私が姫さまの危険になるようなそぶりを見せたら、いつでも私を殺すはず。そうでなきゃ、ならない。
 結局私は、お師匠さまの弟子になることを選んだ。他に道が残されていない、という本当に消極的な理由で。ただ生きていくために、選んだと言うだけである。何とも皮肉なものだな、と当時は痛感したものだ。ああやって仲間をたくさん見捨て、殺してきた自分が、よりにもよって他者を救うことを仕事とする薬師の弟子となり、薬師を目指すことになるとは思わなかったからだ。今更贖罪を図るのだろうか、と自嘲するしかない。
 でも、いざお師匠さまについて学び始めると、そう思うこともあまりなくなった。というよりは、思う暇も無くなったというべきかもしれない。お師匠さまは、月の頭脳だ。頭の回転はもう尋常じゃないくらい速い。当然、授業で求められる完成度も半端じゃないのだ。だからお師匠さまについて行くだけで、それはもう必死だったのだ。朝から晩まで勉強に打ち込んで、それでやっとお師匠さまの授業を理解できるかできないか、というその程度なわけである。少しでも手を抜けば、「あら、そんなのもわからないのね。その程度のやる気なら、やめてもいいわよ」と言われる始末。幼い時からの習性か、はたまたただ臆病なだけなのか、そうやって怒られることが嫌で嫌で仕方ないから、必然的に毎日を勉強に充てることになったのだ。そうして薬学の勉強に打ち込んでいれば、薬学の世界に浸っていられるから、月のことなんかを考えなくても良かった、というのは結構大きい。それに、いつもそうやって夜遅くまで勉強して、疲れ果てて寝てしまっていたから、夢を見る余裕もなくなっていた。
 どうやら、お師匠さまはこのあたりまで読み切って、授業をやってたのではないかな、と思う。一生懸命やればどうにか追いつける程度の授業の速度であったことといい、そもそもいきなり私を弟子として迎えようと言い始めることといい、私のためにやってくれたと思うのは傲慢だろうか。お師匠さまに聞いてみたら、にこにこ笑いながら「まさかウドンゲが私の授業ついてこれるとは思わなかったわ」と言っていたのだけれども、本気でお師匠さまが授業をやれば、あんな速度じゃ済まないだろうから、やっぱり授業速度は私を見極めて設定していた気がするわけだ。
 そんな授業と勉強の日々に、私は綿月宮殿に暮らしていた幼いころを思い出していた。あのころも、豊姫さまの過酷な授業を受けては皆で勉強して、必死についていった。この時も、ショウカ達こそいないけれども、授業を受けては必死について行く有様は全く同じ。それに、そもそも永遠亭の空気がどことなく綿月の宮殿を思わせるものがあるようにも思えるのだ。これは今でもそう思っているのだけれど、きっと豊姫さまや依姫さまが、長年お師匠さまの弟子であったからなのだろう。ともかく、勉強している間は愉快で楽しかった幼いころの記憶に埋もれることもできたわけだ。そんな記憶に埋もれていれば、後の悲惨な話は思い出さずともよいし、何となくまた前のような楽しい生活ができるようにも思える。結果、そのまま寝てしまっても、至近の過去を思い出す回数が減った。夢が減ったのには、そういうこともあったらしい。もっとも、時間が少しずつ経ち、暖かい永遠亭の中で心の傷が癒されていたということもあるだろうが。

 でも、そうやって夢を見る回数が減ったことは、本当に良いことだっただろうか、と私は疑問に思うようにもなっていた。夢を見なくなったということは、私がショウカたちにした所業を徐々に忘れて行っているということ。それを忘れて、独りで幸せな生活を享受しつつあること。それが私には、どうにもよくないことに思えた。楽しかったころの綿月の宮殿を思い起こしているということは、自分がその後に犯した大きな大きな罪を忘れようとしているのではないかと思ったのだ。私は、ショウカたちを見捨てて逃げた罪のある兎。幸せになる権利なんて、何処にもないと強く思いこんでいた。




               玖

 お師匠さまの弟子になって、永遠亭の仕事にも参入するようになった私だけれど、住みつく兎たちとは一向に打ち解けなかった。それは当り前で、私の方から兎たちを避けていたのだから。特に、妖怪化して立派にてゐやお師匠さまの手伝いをこなしている兎たちと会話するのだけはごめんだった。自分は誰かと関係を持ってよい兎ではなく、常に独りでいるべきだと思っていたし、誰かと接触することが怖かった。自分の罪を暴かれそうな気がして仕方がない。今でも、初対面の人は怖い。
 けれども、兎たちの世話というのは永遠亭の大きな案件の一つでもある。永遠亭が成りたっているのは、兎たちが働いてくれるからなので、兎たちの世話を見るのは義務といえるわけだ。それに、新薬開発に兎たちは欠かせない。そんなわけで勉強が少し一段落すると、私も必然的に兎の世話に参加させられることになった。けれども私はそれが――誰かと会話をしなければならないという状況が何よりも嫌であったので、何とか懇願してそれだけは免除して貰おうと頑張った。こんなところで頑張ってしまったこと、つまり自分を改善しようとせずに逃げたことは、お師匠さまを少なからず失望させたのだろうけれど、嫌なものはやっぱり嫌だったのだ。
 その交渉の結果、私はまだ妖怪になれない兎たちに限って世話をすることになった。それでも嫌であったけれども、人型になれない兎であれば会話出来ないのだからまだ耐えられたのだ。永遠亭にいる兎の中で人型にもなれない兎というと、子兎ばっかりになる。実質的に、子兎の面倒見を任されたというわけだった。子兎も見れば可愛いわけだが、私はとにかく他者との接触を避けたかったわけで、そんな私にとっては子兎もやはり他者であった。いくら相手が会話できないとはいっても、やっぱり私はやりたくないものはやりたくなかった。そうすると、それは自然に態度として出るものらしく、子兎に懐かれることもない。懐かれなければ可愛くもないわけで、ますます世話が義務化し、それを感じた子兎たちはますます私から離れて行く。そんな負の循環に陥っていた。私の仕事はてゐの補佐程度の役割でしかなかったから、そんな体でもこなせてしまっていたわけである。でも嫌々ながらも兎の世話をさせられていたことは、大きな転機を私にもたらすことになる。

 その日も私は、勉強の合間に兎たちの餌を持って、子兎たちが住む別棟を訪れたわけだ。いつもなら、そのまま子兎の餌を小屋の真ん中に置いて、兎たちが餌を食べている間に頭数と健康状態を見て終わり。十分ほどの作業のはずだ。が、私はこの日、小屋の中に一人、人型をした妖怪兎がちょこんと座っているのを見つけてしまったのだ。この小屋にはきちんと鍵も掛かっていて、勝手に出入りできないようになっているのだから、そんなことは普通に考えればありえない。しかも、その彼女――それは♀だった――は、丸裸でそこに座ってるのだ。私は驚きかえってしまって、持っていた餌もそこにひっくり返しててゐを呼びに走った。それは尋常じゃない表情をしていたみたいで、私を一目見たてゐの驚きようは、忘れられない。さらに、事情を説明した直後の呆れた表情も同じ。例の「なんだこいつ頭悪いな」というようなちょっと見下した表情だ。妖怪兎一匹でなに慌てふためいているのだ、とでも思ったのだろう。その小屋の中に居た彼女は、この日に初めて人型を取ることができたから、兎小屋の中に座っていたのだ。てゐは小屋に座る彼女に新しい服を着せながら、そう説明してくれた。言われてみれば、まだきょとんとしていて実感が湧いていないようだったし、一言もしゃべらないのだ。となると、驚き慌てふためいた自分が馬鹿に見えてくるわけで、なんだか自分の粗忽さに悲しくなったことを覚えている。
 ともあれ、彼女は人型を取れるようになったことで妖怪としての一歩を踏み出したわけだ。それが、その子兎にとってはとても大きな一歩であったことは、地上の兎について詳しくない私にも伺い知れることであった。そしてそんな話を聞いておきながら、彼女に何も言わないでおく程薄情になることもできない。だから私は、無事にその一歩を歩んだ子兎に、笑いかけて祝福した。おめでとう、というたった一言しか出てこなかったけれども、なんだか自然に笑えていた。本当に自然な笑顔であったかどうかは、知らない。笑いかけてから、私はそんな自然な笑顔を浮かべたのがいつ以来だったかな、なんて考えていたくらいだから。もうずっと、私は笑ってなかったのだ。そんな久方振りの笑顔に、彼女が小さく頷いてくれたのが、嬉しかった。
 この永遠亭の兎は、人型を取って妖怪となると名前がつく。全ての兎を"イナバ"と呼ぶ姫さまは置いておけば(とは言うが、姫さまは永遠亭にいる兎の本名を全員分ちゃんと覚えている)、手伝いや仕事をするにあたって名前がいる。人型を取って妖怪兎となったということは、一人前になったということでもあり、だからこそその証明として名前を付けてあげるのだ。そしててゐは、彼女にとって最大のプレゼントである名前を、私に決めるように言って来たのだった。私はすぐさま断った。名前の重要性は、私も知っている。名前はその兎の運命をも変えかねない。名前が彼女にとってただ大切である、という以上に彼女の将来を左右してしまうわけである。そんな重大事に私が関わって良いはずがない。自分の運命ですら碌なものではない私が、まして他者の運命に関与するなんてもってのほか。私はそんな重大事に関与すべきではないと、そう思ったからだ。でも、この時のてゐは何故か譲らなかった。普段であったら、やっぱり駄目だな、と私を見下しながら引いてくれるはずなのに、この時に限っててゐは、いいから鈴仙が名前付けなよ、と引かなかったのだ。結局私は、てゐの押しに負けて頷いてしまった。
 頷いてしまってから、事の重大さを改めて思い知らされるのはいつものことである。名前の重要性を知っていたから、とても安易な名前をつけることはできない。こんな私ではあるけれども、否、これまで多くの者を不幸へと叩き落とした私だからこそ、せめて不幸にならない程度の名前はつけてやらないと、可哀そうだと思ったのだ。そうやって考えれば考えるほど、ドツボに入って思いつかないもので、名前一つに私はうんうん唸る羽目になった。考えながら、やっぱり頑張って引き受けなければ良かった、とも思っていた。その挙句私は、結局諦めた。やっぱり自分が彼女の運命を決めてしまうのは、とてもじゃないができない、と。

 だからどうしてその時に、ショウカ、と呟いたのか私にもわからない。

 それはきっちりとてゐに聞きとられていた。もしてゐが聞き逃していてくれたなら、そのままなかったことにしたのだろうけど、てゐは「しょうか、か。あんたには珍しく良い名前だね」と少し笑いながら言ったのだ。私は望外のことにうろたえてしまっていて、まともな答えを返すことができなかった。
 ショウカが、私の親友であったショウカから来ているのは当然のことなのだけれど、どうしてその名前を付けようとしたのかは、やっぱり今になってもわからない。別にショウカと、目の前にいた子兎とが似ていたわけじゃないのだ。むしろ反対に近いかもしれないくらいだ。なのにどうしてあの時に、ショウカと呟いたのか。ショウカという名前が、良い運命を導くかというと、それも少し違う気がするのだ。ショウカはなにせ、戦争によって夭折してしまった(と思われる)のだ。そんな兎の名前を付けるのは少し酷だ。だから、私は何とか撤回しようと呻いた。何故自分がその名前を思いついたかもわからなければ、代案を思いついていたわけでもない。でもショウカという名前は、あまりよくないように思ったわけだ。
 でも、私のそうした思いは結局、口に出されることがなかった。いつの間にか立っていたお師匠さまも私の言葉をちゃんと拾っていて、私がその案を打ち消すより先に、後ろから一言添えたからだ。
「なら、(よいおと)に霞みで"韶霞(しょうか)"がいいのじゃないのかしら?」
 お師匠さまに言われてしまっては、もう私がその名前にとやかくいうことはできない。そうやってその子兎には、韶霞という名前がついた。今でも彼女の名前がそれで良かったかはわからない。それに、お師匠さまがどうして"ショウカ"という読みに"韶霞"という文字を当てた意図も、よくわからないのだ。でも当の韶霞は名前を気に入ってくれているようだし、ひとまずは安心している。
 それに、きっと名前のよしみでショウカが韶霞のことを守ってくれるだろう。ショウカに守ってもらえるならば、将来は間違いなく安定だ。ならば、ショウカという名前もやはり、そんなに悪くないかもしれない。




               拾

 永遠亭の兎は、皆てゐに従っている。私はてゐの素性を良く知らないのだけれど、てゐは兎たちを束ねるような魅力があるよう。永遠亭に生まれた兎も、永遠亭を訪れた兎も、みなてゐの言うことだけは聞くようになるし、いろいろとてゐを頼りにして生きているらしい。一方の私といえば、相変わらず嫌々ながら義務的に仕方なく兎の世話をしている有様だから、子兎が懐くはずもない。もっとも、とても兎たちの手本になるような存在ではなく、むしろ兎たちに悪影響しか与えないだろうと思っていたから、懐いて欲しいとも思っていなかった。結果的に私の言うことを聞くような兎は誰もおらず、私は永遠亭でも独りで過ごす時間が長かった。
 ところが、韶霞との出会いからそれが変わったのである。何故か韶霞はてゐよりもむしろ私によくくっついてきたからだ。永遠亭の中であれば私がどこに行くにも彼女がくっついてきて、横にちょこんと座っている。いくら人との関わりを避けたい私にしたって、まだ腰くらいの背しかない子兎をいきなり怒鳴りつけることはできなくて、韶霞がするままに任せていた。そうやって黙認していると、本当にずっと私について歩くのだから、少々辟易する面もあった。私が勉強している間も隣に座ってただ黙って見つめているし、仕事をしている私にもちょっと後に下がって待っている。別になにをするというわけではない。しゃべれなかった韶霞は、私に向かって話しかけもしないし、関心を呼ぶためになにかすることもない。まだまだ小さい自分の体を走らせて、那智黒のように深黒の髪を揺らして、でも焦茶の瞳をどこか輝かせ、とことこ私につき従って来る。ただ、私の近くにいようとするらしかった。
 どうしてそこまで懐かれたのか、やっぱりわからなかった。何か懐かれるようなことをしたつもりもなかったし、懐かれるような性格をしているとも思わない。別に彼女がくっついて回っているからといって私が何か気を使うことがあったかといったら、そういうわけでもない。
 はっきりいって、このころの私はそれが嫌だった。韶霞が嫌だったのではなく、そうして懐かれていることが嫌だった。私は全てを棄てて逃げるような兎である。そんな兎を見て育って、韶霞がちゃんと育つとは思えなかったのだ。彼女が鑑とすべきなのは、他にたくさん居る。お師匠さまや姫さまやてゐを鑑とすればいいし、兎たちの中にだって私より鑑たるべき兎はいる。むしろ、私ほど手本となるべきではない兎はいないだろう。彼女のためには、私に懐くべきではない、そう思えたのだ。
 とはいえ、韶霞に懐かれたことが事実なのは自明で、私はどうしていいかわからず半ば困惑するしかなかった。そんなことを思いながらも彼女を傷つけることを恐れて、突き離すこともできない。お師匠さまに一度相談したこともあるが、特に害もないのならばついてこさせておけばいいじゃない、と言われて終わりだった。結果、私は韶霞を放っておいたのだが、それでもずっと彼女はついてきた。
 まもなく韶霞が、いろいろとしゃべれるようになってもそれは変わらなかった。後で知った話だが、韶霞は中々の才の持ち主で、妖怪としての成長は結構早い方だったのだ。1年もしないうちに、一人前に会話できるようになったのだから、凄いもの。そしてそうなると、幾らかの会話を韶霞と交わすようになった。最初は挨拶とかそんな儀礼的なものばかり。それが、徐々に広がっていった。たぶん私の方も私の方で、だんだん韶霞の存在に慣れてきて、会話しようと思うようになった部分もあったのだろう。そうなるとますます、韶霞は私について回るようになったのだから、不思議なもの。いくら会話が広がったとはいえ、会話をするにしたって互いに二三言を交わせばそれで止まってしまう。私は自分から彼女に話しかけることは少なかったし、韶霞も自分から何かを話そうというわけでもなかったのだ。でも韶霞は私と一緒にいるのであれば、もし無言であったとしても構わないらしかった。その感覚は上手く把握できないけれども、もしかすると私がショウカに感じていたようなものなのかもしれない。
 ちなみに韶霞自身に聞いたら「なんか鈴仙さまといると落ち着くんです」と言われた。それ以上聞いても、「よくわかんないけど落ち着くんです」の一点張り。昔からそうなのだとか。これだけ尖って狂った兎と一緒にいて落ち着くという感覚は、やっぱり理解できない。韶霞は、変わった兎だ。それでいてきちんと育ったのだから、不思議なもの。
 そうやって韶霞と会話を幾らか交わすようになると、他の兎とも少しだが会話を取り交わすようになる。韶霞は他の兎とも仲が良いから、韶霞を連れて歩いていれば当然他の兎にも挨拶をされるわけで、そうなったら私も挨拶を交わさざるを得ないのだ。そのついでで、幾らかの世間話を交わすこともある。はっきり言って私にとっては苦痛でしかないけれども、韶霞の関係を破壊するわけにもいかなかったのだ。また韶霞に誘われて、時折どこかに外出することもあった。あくまで竹林の中に限られるのだけれど、韶霞が何か些細なものを見つけて、時々外に出ようと誘ったのだ。そういうのは大体私が断る理由を持たない時であって、そうなると私もついついついて行ったのだ。
 こうした奇妙な韶霞との生活は、今思い返せば当時から結構楽しんでいた節がある。多分自分について回るような、妹のような存在が出来たのは内心で嬉しかったのだと思う。本当に嫌なら断ればよかったわけだし、まして韶霞の誘いに乗っかって竹林についていくなんてしないだろう。ただ、この当時はそんな考え方をこれっぽちもすることがなかった。とにかく私は他者と接触したくないという考えに凝り固まっていて、またそれ以上に接触してはならない、という思いを持っていた。だからその思いに反して私に近づいてくる韶霞の存在は、はっきりいって鬱陶しい存在に思えていた。韶霞のせいで私は兎達とも付き合いをしなければいけなくなっている。ここまできて韶霞を全くいないものとして扱うこともできないわけだから、自然韶霞を気にして行動をとることになる。それが、もともと嫌だったのだ。私の行動はとても他の鑑になるようなものではなく、むしろ反面教師たるべきものだから。誰かが真似するべきものじゃない。少なくとも当時は、そんなことを考えていた。そんなのだから、私は韶霞まで傷つけることになるわけだ。

 確か、この日は酷くお師匠さまに怒られたのだったと思う。なんで怒られたのかは覚えていない。恐らく何か失敗したのだろう。しかも不注意というような類の。お師匠さまを怒らせるというと、それくらいしか思いつかない。とにかく、私は怒られて物凄く落ち込んでいた。このころは最初に比べて授業の速度もだいぶ落ち着き、お師匠さまの手伝いが中心になりつつあった。だから最初に比べればそういう風に落ち込むことも少なくなっていたのだけれど、だからこそこの時は心に堪えた。
 言い訳がましくなるけれど、韶霞に誘われたのは、そういうときだったのだ。自分は駄目だと、そう思いこんでいる私を、韶霞は竹林に行かないか、と誘ってくれた。たぶん韶霞には、私の落ち込み方が見えていたのだろう。きっと気分転換の為に誘ってくれたのだ。真意がどうだったかは、今だに聞いていないが。
 そんな韶霞に私は、勢いのあまりとはいえ言ってしまったのだ。あなたはもう立派な妖怪兎なのだから、もう私についてくるな、と。
 再度書くけれど、私は自分の無能ぶりに嫌気がさしていたのだ。久方振りの、酷い自己嫌悪の発作に襲われていた時。私は自分が消えてなくなってしまえばいいと、そう思っているくらいだった。だから、そんな私に韶霞が構ってくれる必要がないとも思った。むしろ私と付き合っていたら、私を見ていたら、韶霞まで駄目になってしまう、と思ったのだ。
 そういう"善意"だったからこそ、その直後の韶霞の表情が私には予想外過ぎて、とても慌てた。韶霞はその言葉を聞くや、その艶やかな瞳にたっぷり涙を溜めて、歯を食いしばって、拳を震わせながら何も言わずに走って行ってしまったのだ。置いて行かれた方の私といえば、何が起きたかすら理解できない有様。ひょっとしたら自分は韶霞に少し悪いことをしたかな、と暢気な私は少し罪悪感に思ったけれども、それより私は正しいことをしたつもりで、その日一日を過ごした。

 韶霞と衝突した話を書いていて、なんだか自分の言い訳の多さに嫌気がさしてしまった。これではまるで私が悪くないとでも言うみたいだ。自意識としては自分が悪いのだ、と認識しているつもりだった。でも書いてみれば何のことはない。自分が悪くないと書いている。そう思っていた、ということなのだろう。気付けば、この文章も日記帳に結構な分量になった。けれどもこうして読み返してみると、やはりなんだか自分の行為を正当化しようとする部分ばかりが目につく。私は自分を責めている振りをしながら、その実自分の罪から目を背けよう背けようとしているらしい。
 やっぱり閻魔さまの、言う通りだ。




              拾壹

 事の重大さについて気付いたのは、翌日、てゐに出会った時だった。この時のてゐが、またいつになく私を見下していて、何のつもりだと言い返したくなった。が、それは私が見下されるに然るべきことをしたからなわけで、むしろてゐの表情は正しいというべきだ。殆ど私をモノとしか見ていないてゐは、私が表情を顰めたのを余所に、一言「韶霞がいなくなったよ」とだけ言って、私の目の前から去って行った。たぶん私のことが許せなかったのだろう。てゐは、ああ見えて永遠亭にいる兎たちを目に掛け、とても大切にしている。だからこそ兎たちはみなてゐを慕っているのだろうし、その大切な兎を傷つけた私のことが許せなかったのだろう。今ではそう思っている。
 とにかく、韶霞がいなくなったという事実は、私にとって大きな衝撃で、私はその場にへたりこんでしまった。なぜ衝撃なのかもよくわからなかったのだけれど、ただいなくなったという事実は私の頭を殴りつけたようだった。頭の中では韶霞が出て行ってしまったという事実だけがぐるぐると廻っていて、いつまでも同じところを彽徊してばかりだった。
 もしここで私が独りであったなら、私はずっとそのままだったと思う。そしてきっと腐っていた。また狂気に戻って、永遠に腐り続けていただろう。でもここは永遠亭であって、私を見てくれている人がいる。この時は、姫さまが私を救いあげてくれた。姫さまは、こうやって大切な時には必ず出て来てくれる。普段はお師匠さまが仕切っている永遠亭だけど、やっぱり主は姫さまなのだ。その主たる姫さまは私に向かって、私にとってまるで理解できないようなことを言ってのけた。姫さまはまるで独りごとのように呟いたのだ。「韶霞はね、鈴仙を尊敬していたのよ」と。それが信じられないのは、言うまでも無い話だ。今だって、信じられない。私はとても尊敬される兎ではないからだ。嫌われるならわかる。私は臆病で自分勝手で、味方を見捨てるような兎。嫌われて当然な兎なのだ。それなのに、どうして韶霞は私のことを尊敬していたのかが、やっぱりわからなかった。いや、今だってよくわからない。
 でも姫さまの言葉だから、それは事実なのだ。姫さまが永遠亭の主だから信じるに値する、というわけではない。姫さまはそういったところをきちんと見ている人なのだ。つくづく、兎たちを全員"イナバ"と呼んでいる理由がわからない。兎たち全員の名前を把握しているどころか、性格や特徴、その思考までもわかっているのに。あのお方は、そういう貴人の務めをきちんと果たしているお方なのである。
 そういうわけで、私は自分が尊敬されていた、という事実を認めるしかない。そしてそれを認めて、初めて自分が一体何をしでかしてしまったかということが分かった。私は韶霞に「ついて来るな」と言った。それは私にとっては善意の拒絶だった。でも、それが善意かどうかなんて韶霞からすれば関係はない。尊敬した相手から拒絶された時に、どう思うかなんてわかりきった話。ショウカが私を拒絶することと、全く同じわけだから。ショウカは私のことを気遣ってくれたのか、私にそんなことを言わなかった。でも想像することはできる。
 そして私は初めて、自分が韶霞を傷つけてしまったことをきちんと理解したのだ。自分のやらかしたことの大きさに私は固まりかけたのだけれど、姫さまはきちんと動かしてくれた。「鈴仙、あとは貴女の心次第。でも、道を外れたいなら命は棄てて行きなさい。永琳の弟子とは、そう言うことよ」という姫さまの言葉は、私への気遣いに満ちていたように思えた。

 姫さまの暖かさに背を押され、私は永遠亭を飛び出すと竹林を探し回った。この日は大切なお師匠さまの実験の手伝いがあったのだけれども、そんなこと頭になかった。それにきっと、韶霞を置いて実験に行ったってお師匠さまは私を無視しただろう。道を外れたとして、その場で誅殺されたかもしれない。そもそも、永遠亭中の兎の多くが韶霞を探すために駆り出されていて、永遠亭自体の機能が止まりかけていたのだから今更という話だったのだろう。
 私は、かくれんぼが得意だ。隠れるのも得意だったが、探すのも得意。どんな生き物だろうと生き物であれば固有振動を持っていて、私はそれを感知することができるからだ。よほど変な所に隠れていない限り私は隠れている生物を見つけることができる。ところが、この時に限っていつまで経っても見つからないのだ。一つは、竹林が色々な波長に満ちていて、予想以上に解析しにくかったこと。穢れもなければ生物もいない月とはまるで訳が違うことに私は改めて、地上にいることを痛感させられた。そしてもう一つは、たぶん私自身がかなり焦っていたこと。そのせいで私の波動解析はかなり効率が落ちてきて、居ると思って見たら居なかったりだとか、そういう誤解を度々していたわけだ。
 探しても探しても見つからない状況に、私は最悪の想像を頭に思い浮かべ始めた。この竹林には狼や熊といった猛獣も時折出るし、妖怪だって少なくない。まだ非力な韶霞には危険な場所である。でも出て行った時はきっと、韶霞は独りだったはず。だからもしかしたら、もう食べられてしまったのかもしれない。事実、永遠亭の兎の中にはそうやって捕食されてしまった者はいるし、妖怪兎の中にも幾羽かいる。そんな不安に一度取りつかれると、私は自分でその不安を取り除く手段がないのだから、ますます焦りを強くしてしまい、探す精度は落ちるばかり。結局、私はそのまま一日竹林を駆けずり回ったのだけれど、ついに日暮れまでに韶霞を見つけることはできなかった。
 日が暮れれば、竹林の危険度は飛躍的に増す。てゐと、力のある一部の妖怪兎を除き、殆どの兎は永遠亭へと撤収した。夜の竹林で単独行動させるのは、殆どの兎にとっては危険すぎるからだ。今でも、夜の竹林で単独行動を許されているのはごく一部の兎に過ぎない。それはつまり、韶霞にとってますます危険な状態になるということ。私は焦りでいっぱいいっぱいになりつつあった。たぶん、傍目からみたら殆どあっちに行ってしまったような感じだったと思う。それでも自分自身では努めて冷静なつもりなのだから、頂けない。そんな調子で、むしろ韶霞が見つかるはずはない。目の前にいる者さえ見えてこないだろう。
 どうにも、私には"冷静"という言葉が足りないらしい。すぐに浮足立ってしまうこの性格は、やっぱり直さないといけない。
 そうやって冷静さをすっかり失い、ただ走りまわっていた私に冷水を浴びせたのが、竹林の間に輝く炎であった。竹林の中で炎を掲げて歩くような者は、たった一人しかいない。妖怪にとって夜の闇はむしろ喜ばしいものなのだから、わざわざ炎で打ち消す必要はないわけで、それを敢えてやるということは、それが妖怪でないことを示しているわけだ。
 妹紅さんのことは、これより少し前から知っていた。姫さまを狙う悪い者として、一度刺客となったこともある。竹林を歩いている所を見つけ、狙撃して頭をふっ飛ばし、任務達成を報告したのに、次の日には姫さまが丸焦げにされていてわけがわからなかったもの。お師匠さまも姫さまも、妹紅さんが蓬莱人であることを教えてくれていなかったのだ。なかなか酷いと思う。でも刺客になったくらいだから、藤原妹紅という人物は姫さまの身を狙い永遠亭を亡ぼさんとする、極悪非道の人間だと思っていた。その彼女が目前に歩いている事実は、私の心胆を寒からしめるに充分だった。
 私はこっそりとそこから逃げようとしたのだけれど、やっぱりこのあたりが私のドジな所以。いろいろ考え事をしている間に、先に妹紅さんに見つかってしまっていたのだ。すっと突然、目の前に妹紅さんの顔が現れた時は心臓が止まるかと思った。自分が殺した人間が目の前にいると言うのはやっぱりそれだけで不気味だったし、それ以上に私が殺されるのじゃないかと焦った。恨まれているに違いないと思ったからだ。妹紅さんに、さっさと引き取ってくれと言われた時は、何を渡されるのかと血の気が引いたくらい。そういう固定観念に捉われていたから、そんな私に呆れかえった妹紅さんの後から韶霞の顔が出てきた時は、まず自分の目を疑った。何か自分で波長を操作してしまったのではないか、とさえ考えた。
 でも韶霞の泣きそうな、嬉しそうな表情を見た瞬間に、私の頭の中から妹紅さんがそこにいるという事実が吹き飛んでいたのだと思う。私は韶霞に駆け寄って、そのまま強く抱きしめた。心配に埋まっていた心が安堵へと移り変わるその心の動きを、体は堪えることができなかったわけだ。そして私は、とにかく韶霞に謝った。一体何回謝ったかなんて覚えていない。何度も何度も謝ったことは覚えている。韶霞を酷く傷つけてしまったことを穴埋めできたとは、今でも思わないけれども、でも謝らずにはいられなかったのだ。その程度には、私も正気だ。
 韶霞も韶霞で、私に何故か謝っていた。それも、やっぱり私に抱きついてわんわん泣きながら。韶霞が謝らなければならないことは何もしていないと思う。そうなのだけれど、韶霞の謝罪を拒絶してはならないことは、いい加減駄目な私でもわかっていたから、なぜ謝られているかも良くわからなかったけどただ受け入れていた。結果、二羽でごめんなさいごめんなさいと言い続けながら泣いていたわけだ。
 妹紅さんというのは、やっぱりいい人なのだと思う。私と韶霞とが泣きながら抱きつく姿は、傍目から見たら全く何が起きているのかわからない情景だったはず。まして、私も韶霞も永遠亭の兎なわけだ。それなのに、何かするでも無くそこに立って私たちを待っていてくれたのだから。私たちが落ち着き、立ち直ってから、妹紅さんはいかにも素っ気なく、それじゃ気をつけろよ、とだけ言って帰って行った。私も韶霞も、二人して妹紅さんに深々と頭を下げることしかできなかった。

 これ以来、私は少しでも前向きに生きよう、と決めた。確かに私は、駄目で救いようのない兎だ。記憶を掘り起こして書けば書くほど、自分の非力さと無能ぶりに腹が立ち、哀しくなり、書くのが嫌になるほどだ。いつも筆は全然進まないし、何度書くのを辞めようと思った事か。もう少しまともな兎に生まれていればどれほど良かったか、とよく思う。そうすれば私とこれまで関わってきた多くの兎も、もう少し楽に生きれたのじゃないかな、と思うわけだ。
 けれども、そうやってただ後ろ向きに生きていくのは、それだけでどんどん周りの人を傷つけることに気付いたのだ。私はとても尊敬されて然るべき兎ではないのだけれど、それでも韶霞が私の後を追ってきていることは事実。いくら私には信じられなくて許せないとはいっても、そういう事実がある以上は受け入れなければならないのだ。そうならば、私はせめて韶霞の前でくらいは、尊敬されるような、韶霞の見本となれるような兎であるというように示しておかなければならない。そうでなければ、韶霞を傷つけてしまうことになるから。自分を肯定することはできなくても、少しは前を向いて進まないといけない。




              拾貮

 ふと、書くことがあまり残っていないことに気付く。時間としてはまだだいぶ長い時間があるのだけれど、ここにこうやって書き連ねるほどのことはあまり見つからないのだ。永遠亭は元々時間の止まっている屋敷であって、むしろこうやって書き連ねることがあっただけでも、驚きに近いものがある。
 尤も、私がこうして永遠亭を訪れたことは、紛うことなき永遠亭の変化であっただろう。そういう変化が訪れたということは、徐々に永遠亭が動き始めていたということかもしれない。それが果たして姫さまの考えであったのか、お師匠さまの考えであったのか、それとも術の限界であったのか、それはわからない。でもきっと時間が動きだす準備はこのころからあったのだと、思っている。
 とはいっても、私が永遠亭に流れて来たのはそれよりまだ三十年以上昔のこと。だいぶ長い時が掛かったわけだ。その間、私は懸命にお師匠さまを手伝ってなんとか薬師として働けるくらいの知識を得ることができた。韶霞も成長して、いつしか永遠亭の兎の中でも、例えば姫さまのお世話やお師匠さまの実験の手伝いといったような重要な仕事を任せられる、上位の兎に成長した。それに伴って、いつでもどこでも私についてくるようなことは無くなったけれども、それでもやっぱりてゐよりは私の方が親近感が湧くらしく、何かあると私を頼ってくれたり私に構ってくれるのは、変わらなかった。韶霞が大きくなると私の方が韶霞に相談する機会も多くなって、どちらかといえば私が韶霞に頼るようになっていたようにも思うけれども。奇しくも、韶霞の身長は丁度ショウカと同じくらいになったのだから、名前というものは侮れない。それとも、容姿や性格はまるで違うのだからただの偶然なのだろうか。ショウカはとにかく活発でよく私を引きずりまわしたけど、韶霞は大人しくどちらかというと私について回る方だ。容姿にしても、ショウカはいつも紺青の髪を靡かせ、緋色の瞳をきらきらと輝かせて颯爽と風を切って立っている、そんな闊達という印象の兎だった。でも韶霞は、どちらかといえば、那智黒の髪を撫で、焦茶の瞳を物憂げに開いて、婉々と風に流れて立つ、そんな儚い印象の兎。違う兎なのだから当然だけれど、やっぱり全然違うのだ。こうやって比べるのも、双方に失礼かもしれない。でも私にとってはショウカも韶霞も、かけがえのない存在であることには違いない。
 とにかく、普段はお師匠さまの授業と手伝いとに明け暮れ、時々韶霞やその仲間と竹林に出かけたり、永遠亭で雑談をしたりする。前よりは嫌ではなくなった兎の世話も、欠かさない。そんな生活がだいぶ長い間続いたのだ。

 永遠亭を大きく揺るがせることになる事件の、端緒となる出来事もそんな普段と変わらない日にあった。地上に逃げてきて以来、私は殆ど玉兎の通信を使っていなかった。一つには、私の耳の根元の所に、玉兎通信の発信・受信の内容をお師匠さまに知らせ、さらには通信を切断することもできる機械を付けているのもある。丁度ボタンのような形をした小さい機械だけれども、これによって玉兎通信の情報をお師匠さまは手に入れるのだ。これは永遠亭に来た時の条件の一つで、私が月に姫さまやお師匠さまについて連絡することを恐れたのだろう。盗聴器を付けられているようなもので、最初こそ嫌悪感があったけど、考えてみれば玉兎通信を地上で使う機会なんてないわけで、もう普段は殆ど意識しない。ちなみに、一つだけお師匠さまに懇願したことがあって、ある波長・位相の波だけは全く制限なしに通信することができる。それは例の、ショウカとの通信の波長・位相である。一度も返信の来ない、片道の通信だけれども。
 もはや通信を、ショウカとの通信試験以外に使わなくなって長い時間が過ぎた、そんなある日のことである。唐突に私は、玉兎の波動交信で自分の名前を呼びだされたのだ。
 その交信は、月と地上とが全面戦争に入るという内容であった。月の方が不利であるが、地上の賤しき民どもと共存することはできないため、月はいよいよ戦で以て地上の民を蹴落とすのだそうだ。その上で、"誇り高き我々"と共に戦え、とそう伝えていた。
 この交信で、私の仲間たちが残らず死んでしまったことがいよいよ明確になった、とまず私は思った。月が不利というのは、結局実働部隊の殆どが消失してしまったからなのだろう。もし仲間たちが全員無事であったなら、前回の戦争がその程度のものであったなら、決して不利という言葉は使わないだろうし、まして私を呼びだすこともなかっただろう。それに、そもそも通信してくるのが同期六羽の誰かだったはず。だろうに、この通信をしてきたのは見知らぬ玉兎でしかなかった。それはつまり、もう六羽の誰も交信には参加できない、ということになる。またもう一つ、もう殆ど月は滅びつつあるということ。「だが臆する事は無い、我々月の民には何千年も生きてきた知恵と誇りがある。負けるはずが無い」と言っていて戦争に勝った者が歴史上にどれほどいるものか。それこそ慧音さんの言葉の通り、「古今東西、負ける国とは『我らが負けるはずがない。負けると決まった彼らが攻めてくるはずはない』という驕りに支配される」のである。
 ただこの交信は私の心に大きな打撃を与える物であった。私は、既に一度戦争を前にして仲間を置き捨てて逃げてきてしまった。それを思い起こさせるのだ。こうやって、見知らぬとはいえ玉兎の仲間が、そして月にいる仲間が私を頼っている。それなのに、"また"私は仲間を置き捨てて地上でのうのうと暮らすのだろうか、と。
 この日の夜に見た夢は、ひときわ悲惨だった。今になっても、時々例の悪夢を見る。だから当然このころだって見ていたわけなのだが、かなり落ち着いてきていた。この頃も今も、大体頻度は月に一度くらいのものだし、内容も永遠亭に来てすぐのころからすればだいぶ大人しいものだ。嫌な夢には違いないが、それだって私の罪の山なのだから、仕方のないことだと思っている。それが、この時に見た夢はこれまた、近々見ない、とてつもなく悲惨なものだったのだ。姫さまに宥めてもらってようやく収まるくらいの、そんなに酷いものは、本当に久しぶりだった。
 その悩みを私は、独りで抱え込もうとしていた。月に味方を置き捨てて来たのも自分でやってしまったことであったし、月が味方に呼んだのも私なのだ。だから自分で行く先も決めるべきなのだ、とそう思っていた。それに暖かく接してくれる永遠亭の仲間たちに迷惑をかけるわけにはいかないとも思ったのだ。けれども、その最後のもくろみは、完全に無駄だったといって差し支えないと思う。やっぱり昔からなのだけれど、私はどうにも考えていることを隠すのが苦手らしい。波長ばっかり隠したところで、態度やら表情から丸わかりなのだとか。私自身では頑張って隠していても、"頭隠して尻隠さず"の有様らしく、私が何かに悩んでいることは殆どバレていた。挙句にはあの韶霞にまで「どうしたのですか」と聞かれてしまい、剰えそれに上手く答え損ねる始末。下手に隠し事はしない方がいいのだろう、私は。
 私にとって一番気になっていたのは、「次の満月の夜にレイセンを迎えに行く。抵抗しても無駄だ」という文句だった。抵抗しても無駄だ、という文句自体は馬鹿らしい。お師匠さまに敵う者が月にいるはずはないのだ。抵抗しても無駄なのは、むしろ月の使者の方になるだろう。しかし、それではお師匠さまが倒してくれるからどうにかなるか、といったらそうもいかない。むしろここでお師匠さまに頼るわけにはいかないだろうと思った。迎えにきてしまえば、私がお師匠さまや姫さまと暮らしていることが分かってしまう。そうなれば月の使者は、今度本格的にお師匠さまや姫さまを追い始めることになるのは明白だからだ。それは不味い。お師匠さまや姫さまの安住生活を、たかが私が壊すというわけにはいかないのだ。しかし、私から月へ行けば話は別である。そうすれば、お師匠さまや姫さまがどこにいるかを月人に知られてしまうこともないのだ。つまり私が月へ行けば、永遠亭は救われる。

 そういう結論とも言えるかどうかわからない代物を出した私は、早速お師匠さまへ話に行った。月に帰るならば、お師匠さまに封印された一式の道具を返してもらわなければならなかったからだ。
 私はきちんと、月に帰る理由も含めて説明した。しどろもどろだった気もするし、あんまり論理的であったとは思えないけれども、それでもお師匠さまはちゃんと聞いて頷いてくれた。だから私は、てっきりすぐに封印を解いてくれるものだと思っていた。
 ところがお師匠さまは封印を解いてくれなかった。お師匠さまはいつもと変わらず、私には背を向け、手を実験で動かしながら、銀のお下げを微動だにさせず、言ったのだ。「ウドンゲ、あなたは月に帰りたいの?」と。でも、と言った私にもう一度、「鈴仙は、月に帰りたいの?」と問うた。そしてそれっきり、お師匠さまは自分の実験へ戻ってしまって、もう何も言ってくれなかった。だいたいそういう時は、後は自分で考えろと言うサイン。いくら私でも、お師匠さまの言いたいことくらいはわかった。つまり、この"鈴仙=優曇華院=イナバ"がどうしたいか、とそういうことだったらしいのだ。言われてみれば、自分が帰ろうと思った理由は、ただ永遠亭がバレないため、それだけだった。自分がどうしたいのか、ということはまるで考えていない。改めて自分がどうしたいのだろうか、と考えるとこれは結構わからないものだったように覚えている。自分がどうしたいかなんてことは私にとって二の次のことであって、考えるに値しないと思っていたのだ。
 私は、紛れも無く玉兎である。月で生まれて育った玉兎。そのことを忘れたことは、今まで一度も無い。しかし、私はその生まれ故郷の月を棄てて逃げて来た兎でもあるのだ。所詮は月を見捨てるような、その程度の考えしか持っていないということに他ならない。だが、ここで月に行けば少しは月への義理を果たせる気がした。交信によれば、月が負けるのはおおよそ予想できたけれど、その為に働けば月を棄てた罪滅ぼしくらいにはなるのじゃないかな、と思ったのだ。それに、月が滅びようとしていることを知りながら、のうのうと永遠亭に独り安住しているのは、仲間たちに対する冒涜にも思えてもいた。
 その一方で、私はこれまで永遠亭の皆にお世話になってきた。自分のことを玉兎だと思っていたけれども、それ以上に自分は永遠亭の兎でありたい、と思ってもいた。まだ無理だけど、せめて永遠亭のために何か役に立てたらよいな、とも思っていたし、今でも思っている。月に帰ろうという思いも、きっとここから出ていた。そしてその実私はやっぱり永遠亭が大好きで、永遠亭に居たかったのだ。
 暫し考えた後、私はお師匠さまに「ここに居ても、よいですか?」と聞いた。結局、私は永遠亭に居たいという欲望に負けたのだった。自分勝手、といわれる所以はこのあたりなのだろう。でも永遠亭に居たい、という思いを知ってしまってなお、無視することはできなかったのだ。
 そう言うとお師匠さまは、初めて私の方を向いた。お師匠さまは、何もかもを見通してしまうような灰色の瞳で私を見据えて平然と答えてくれた。「ウドンゲは私の弟子です。どうして弟子を放逐する必要があるのかしら?」
 これほど私が嬉しかった言葉はない。お師匠さまがきちんと私のことを弟子だと認めてくれていたからだ。この自分もお師匠さまの中に存在していた、という事実が嬉しかった。ひいては自分が、永遠亭の一員として認識されているということもまた、嬉しくて嬉しくて、そのまま私はお師匠さまにすがりついて泣いてしまった。そんな私をお師匠さまは優しく優しく撫でてくれた。それがまた嬉しくて、また涙が出る繰り返しだった。

 そこまできて、もう永遠亭を離れる選択は取れない。そうして私は永遠亭を選んだ。




              拾參

 お師匠さまは私が態度を決めるや、すぐさま準備に取り掛かった。月と地上を行き来するのは地上が満月の時だけ。だから地上に見えている満月を偽物とすり替え、かつ少し欠けさせてしまえば月都と地上とは行き来することができなくなる。つまり地上を密室にしてしまおうとしたのだ。そして実際にお師匠さまはやってしまった。
 その結果が巫女や八雲紫の乱入だったわけだ。なんでも月をすり替えてしまった事は、この幻想郷に住む妖怪たちに大きな影響を与えてしまいかねなかったのだとか。それゆえ幻想郷の秩序統制を役割とする巫女と妖怪とが私たちの住みかに殴りこんできた、ということだろう。
 私も含めて永遠亭の皆は頑張って戦ったけど、きれいさっぱり負けた。巫女に提案されたスペカ決闘なるルールに則って戦って、そりゃもう鮮やかに負けた。私はともかく、他の兎たちやてゐも、果てはお師匠さまや姫さままで負けてしまったというのだから、完敗である。それなのに殊に何かされるわけでもない、というのはまず私にとって予想外のことだった。というよりはそれ以前に、殺し合いではなくあくまで規則順守の決闘だけで幻想郷の秩序を維持していて、しかも維持できていることに驚きだった。あの穢れていない月ですら、紛争解決にはしばしば血を見ていたのだから。それがこの幻想郷では、あんな派手な術を使った私たちもあっさり抱擁してくれたのだ。解決祝いの宴会に呼ばれて、どんちゃん騒ぎをして和解しておしまいで、最後まで私は半ば驚き通しだった。
 でもこの異変は、永遠亭を大きく動かした。これによって永遠亭の時は、再び動き始めたのだ。私たちは竹林を越えて広い繋がりを持つようになり、幻想郷の中に居る一勢力としてきちんと認識された。そして幻想郷の営みにも参加するようになり、時の流れにもきちんと乗るようになったわけだ。そのことは、私の実感としてもすぐに現れた。時が動き始めると、永遠亭の中が明るくなったのだ。別に光の屈折が云々とかそういう意味ではなく、永遠亭の住人たちにどこか精気が見られるようになったように思えたのだ。それが兎たちのみならず、てゐや姫さまにも感じられたのだから、やはり時が動き始めたということ自体の効能なのだろう。私自身が変化したかどうかはわからないが、もしかしたらやっぱりそう思われているのだろうか。少なくとも、時が動き始めて永遠亭は今までより明るい雰囲気に満たされるようになり、活気が生まれてくるようになった。もう、時を止めた状態に戻ってほしいとは、私は思わない。

 気になることが一つある。それは、この異変の時のお師匠さまの動向だ。どうにも私には、お師匠さまがこの時になにを考えていたのかが、わからない。元々私程度の頭で、月の賢者たるお師匠さまの思考を理解しようというのは無謀に他ならないとはいえ、やっぱり気になる部分があるのだ。
 そもそもの発端はおそらく、私が永遠亭に残る、と宣言した時だ。私はあの時、お師匠さまがほんの小さい声で「よかった」と呟いたのを知っている。それは私が永遠亭を選んでくれたことに対する感想だと思うのだけれど、どうにも少し他のニュアンスを含んでいた気もするのだ。もし私が月を選んでいたら、お師匠さまは私をどうしただろう。
 それはともかく、その後の術に関したって、いろいろと気になる点が多すぎる。お師匠さまが発動した術は、月都と地上とを切り離す術である。そうすることで、お師匠さまは姫さまや私を守った、という。が、宴会の時に八雲紫に聞いたところによると、幻想郷とはそもそも博麗大結界によって外と隔てられ、外から入って来れる者はないという。つまりお師匠さまの術は全くの無駄であった、というわけだ。さらに気になるのが、幻想郷がそういう場所であるはずにも関わらず、玉兎が普通に出入りしているという事実である。結局幻想郷と月都とは、行き来できるのかどうか。全くわからない。もし出入りできるとするならばお師匠さまが再び結界を張る気もするし、一体なにがどうなっていたのだろうか。
 そもそも、あの交信の内容にしたって謎だ。あれだけ危機感を煽るような書き方をしておきながら、地上と月とが大戦争になったという情報は入って来なかった。それどころか、あの一時期だけで私を召喚する交信もぷっつり途絶えてしまったのだ。となるとますます、どうしてあの時期に限定して私を呼んだのかがわからない。お決まりの月都での政争があったにしても、わざわざ私を呼び寄せるという状況は、ちょっと理解しかねる。上にも書いたように、結局幻想郷と月都の間とは容易に行き来できたらしいわけで、それにも関わらず私を迎えに来ることも無かった。更に言えば、私の場所を月が本当に把握したのかわからない。もし把握していて、迎えに来ることができるならとうの昔に迎えに来ていた気もする。後から考えれば考えるほど、謎が多い交信だ。ただ、この後に起こった月都での政変について考えれば、おそらくなにか月の上での動きと関係のある話であったのだとは思う。
 そしてその後の状況を考えてみると、やはり永遠亭はよい方向に向かったと言えると思う。時は動き始めて永遠亭は明るくなったし、幻想郷に住む人々たちとの関わりも増えた。姫さまもずっと明るくなった印象がある。勝負にこそ負けたけれども、殊更御咎めがあったわけでもなく、むしろその敗北は永遠亭にとって良い影響ばかりを齎したわけ。負けてよかった、と今では思っている。どうにも、私にはこのあたりまでお師匠さまは読みきっていたのではないか、と思うのである。そうでなければ、早々敗北を受け入れることはない、と思うのだ。負けてしまうということは、姫さまに危険が及ぶ可能性だって存在するわけで、お師匠さまには決して受け入れられるはずがない。さらに、お師匠さまが本気になれば巫女や八雲紫に負けるはずはないわけだ。負けたのはスペカ決闘のルールの上での話でしかないのだし、お師匠さまならルールを打ち壊してでも敗北をチャラにすることはできたはず。にも関わらず、お師匠さまはあっさり敗北を受け入れてしまったのだ。
 やっぱり、お師匠さまは全く底が知れない。お師匠さまは、たぶん月を隠すというあの術一つで複数のこと――月から来た交信や時が止まっていることなど――を一気に解決しようと図ったのだと思う。のだが、それにしたってどこまで見ていたのかがやっぱりわからない。幻想郷の中の情報をどこかから手に入れて、スペカ決闘のことも事前に知っていたのか、それとも負けても大丈夫だとさとっただけなのか、さっぱりわからない。一つ言えるのは、お師匠さまが決してこの状況を偶然だけでは作り上げたわけではないこと。お師匠さまが私たちに言うように「幻想郷に月の使者が来れないなんて知らないから密室の術を掛けたし、スペカ決闘も私の力が及ばなかっただけよ。そんな大負けだったのに、幻想郷に受け入れてもらえて光栄ねぇ」なんてそんな単純な話であるとは思えないし、そうであるはずもないのだ。一つ間違えば姫さまに危機が及びかねない、という予想ができる道をお師匠さまが選ぶはずは、ないのだ。

 そもそもお師匠さまという人は、どういう人なのかよくわからない。お師匠さまの持つ波は、他の人間とは位相がずれていてあまり干渉することがない。閻魔さまや諏訪の土着神に会った時に思ったのだが、どうやら神というのは他の存在と位相がずれている者らしく、互いに干渉しにくいようだ。だから様々な判断を下すことができる。お師匠さまもどちらかといえば、神に近いといえるのかもしれない。月人も位相が少しずれているのだけれども、それとも少し違う。だから、最初に会った時にお師匠さまが月人とわからなかったのだ。本当に強いて言うなら、あの諏訪の神さまと近いような気もするのだけれど、何なのだろう。お師匠さま曰く「私の出身は月じゃなくて地上なのよ」というのだけれども、月都を作るより前の昔話は教えてくれないから、何一つとしてわからない。とても気になるのだけれど。どうやったら、あれだけの知識を頭に収められ、かつ同時に幾つもの思考を高度に進めることができるのか、知りたい。お師匠さまの生い立ちを聞いたら、少しは賢くなる気もするのだ。ただ、「生まれたころからできたから、どうやったらできるかはわからないわね」と言われてしまうような気もする。

 とにかくこの永夜異変は、この永遠亭の時を再び動かしはじめたという点で、大きな画期であり、お師匠さまの底知れなさを改めて良く知ることになる出来事でもあった。
 でも私にとって一番大きかったのは、私が永遠亭の一員だ、と強く自覚できるようになったこと。私は永夜異変によって、本当の意味で永遠亭の一員になったのだと思う。




              拾肆

 一度時間が動きはじめると、一気にいろいろな事に巻き込まれることにもなる。幻想郷というところは、なかなかと騒がしいところなのだ。毎年のように何らかの異変が起こっては、博麗の巫女がそれ解決しに行き、有無を言わさず全員スペカ決闘でのして、その後に大宴会を開く。宴会は大体私たちにも招待状が来て、行っては幻想郷の各勢力とわいわいやる。私はそうやってたくさんの人妖が居る所は嫌いなのだけれども、姫さまもお師匠さまも、結構そんな集まりを気に入っているらしく、私を引きずって参加するのだ。辞退という言葉はないらしい。宴会ではいっつも私が最後の後片付け役になっている気もするし、行ったあとはげっそり疲れるから出来ればご遠慮したい所なのだけれど。お師匠さまの言葉を断る術を、私は今のところ持っていない。
 けれども、宴会によって私の交友関係が広がったのは否定できない。数多くの人妖が参加するから、自然と顔見知りは増える。いくら人づきあいが下手な私でも挨拶くらいはするし、そうすれば一言二言交わすわけだ。余談ながら、大体宴会の後片付けをする面子というのは決まっていて、そんな貧乏くじを引く可哀そうな人妖たちとは会話をしているうちにだいぶ仲良くなった。
 幾らかの異変を経験するうち、私自身が異変の解決に向かった事もある。これも、お師匠さまに言われて仕方なく行くわけで、しかもなんで自分が行かなければならないのかもよくわからないままに調査に行くことになる。だけれど、考えてみると自分自身でも結構楽しんでいた気がする。紅魔館の吸血鬼や八雲紫は、異変とは妖怪のお祭りなんだと断言していたけれども、そんな気持ちもわからなくはない。スペカ決闘というのは、最初言われた時こそ結構面倒な代物だなと思ったけれど、やっていくと結構面白い。見た目以上にスペカ決闘というのは知的遊戯であって、結構頭を使うのだ。次はどんなスペカを見せてやろうか、と考えるのも、相手のスペカを見ながらどうやって解いてやろうか、というのも頭の体操になる。それだけにスペカが上手く決まった時や、相手の渾身のスペカを解いてやった時の達成感というのは、それは大きいものがある。幻想郷の人妖たちが、多くこれに嵌っているのも頷けるところだ。しかもそれで幻想郷の問題がたいてい解決してしまうというのだから、スペカ決闘というのは素晴らしいものだ。最近では、姫さまと妹紅さんの"殺し合い"も専らスペカ決闘なのだそうで、それでも実力は伯仲しているのだとか。
 あともう一つ、私が異変を解決しにいくということは、きっとお師匠さまや姫さま、てゐが、私の事を永遠亭の一員だとしてきちんと認めているということなのだと思っている。私にとっての異変解決とは、そのことを再認識する場でもあった。永遠亭の代表としてその異変にちょっかいを出し、情報を収集してくるというわけなのだから。私が永遠亭の一員として認められ、かつ異変に参加することで少しでも永遠亭の役に立てている、ということはそれだけでとても有難いことだし、とても嬉しいことだった。永遠亭には本当にいろいろな所でお世話になっているし、少しは恩返しをしたいと常々思っているからだ。

 また私は、永夜異変から間もなく、薬の行商をやるようにお師匠さまに言われた。勿論、とてもじゃないと私はすぐに断った。やっぱり私は他者と接触するのは、今でも苦手。ここまでこうして自分の来歴を書いてきて改めて見つめ直すと、それは多分自分が信じられていないからだと思う。私は自分のことを信じられていないから、他者に嫌われると思い込んでいる。嫌われるくらいなら知らないほうがマシだから、私は他者とは会いたくない。そんな論理なのだろうと思うのだ。考えてみれば月に居たころから他者との付き合いが苦手だったかというと、そんなことはないのだから。とにかくそんなわけで、私は今でも人づきあいが苦手だ。こうして自分のことを理性的に見て原因がわかったところで、やっぱり駄目なものは駄目。自分に自信を持て、と言われたってそれは無茶な話なのだから。
 でも、お師匠さまの言葉を無視するのは、それこそ不可能というものである。私はお師匠さまの言葉に刃向う術を持っていない。この時も又然りなわけで、私にはやらないという選択肢は残されていないわけだ。別に殊更脅迫されるというわけでもなく、お師匠さまは私に理詰めで迫ってくる。論理的な討論でお師匠さまに勝てる者なんて、この世どころかあの世にだって存在しないだろうし、ましてちんけな兎である私が勝てるわけがないのだ。そうやって結局私は言いくるめられて、頷かされる。異変の解決に行かされる時も、宴会に引きずって行かれるときも、そして薬の行商をやるように言われた時も、みんなそうなのだ。どうせ殴り掛かったって勝てるわけはないし、そもそも恩の塊であるお師匠さまに向かって私が手を出すことは言語道断で、そんなことできるはずがない。要するに私は何をしてもお師匠さまに勝てないのだ。
 さらに言えば、そういうお師匠さまの命は、長期的にみて悪い影響を及ぼすはずがないのも、また事実なのだ。お師匠さまは、私に無茶は言っても、無理無謀なことは言わない。きちんと理も有れば謀も有ることしか、私に要求しない。だからそれが私にとって無茶なことであっても、やればむしろ私にとっては良い影響となる。実際、お師匠さまの弟子になったことも、宴会に参加させられたことも、異変に飛びこまされたことも、そして薬の行商をやらされたことも、結局は私にとって良い事になった、と今では思っている。まさしく良薬は口に苦しということを、実践してくれていると言えるのかもしれない。
 そういうわけで、私は結局、お師匠さまに言われるまま薬の行商をするようにもなった。置き薬システムで、私が時折人里の家々を回り、減った分の薬代を貰って代わりに補充する。それからごく簡単な診療も行うこともある。自分のできる範囲での診療を任されているという点では、お師匠さまは私を思ったより認めてくれているのかもしれない。本当に簡単な診療で、少し困難になったら永遠亭に行くことを奨めるのではあるけれども。こうして行商をすると、他者と会う機会はとても増えてくる。というよりは、他者に会うために歩いているようなもの。一軒一軒訪れては薬の中身が減ったかどうかを聞いて、ついでにその人の具合も聞く。それには他者との付き合いをしなければいけないわけで、本当にお師匠さまは無茶なことを言う。それでも、一度言われたからにはやるしかないわけで、もうまるでこれから死にに行くような思いの中で人里を巡ったものだ。始めてすぐのころは、行って帰って来るともう心身共に疲れ果てて、そのまま食事も食べずに布団へ飛び込んだことも多かった。今ではそこまでのことはなくなったが、それでもやっぱり知らない人と会うのは空恐ろしいし、出来れば人里に行かないで済めばいいな、と思う。行商のせい/御蔭で、永遠亭の中では一番人里と近いのが私になってしまったから、人里への用事でただの兎に任せられないようなことは、大体私がやることになってしまったのだけれども。
 でも行商をこなしていった御蔭で、今ではだいぶ人づきあいも上手くなったとは思う。いくら私が他者に出会わぬよう出会わぬよう歩いたところで、やっぱり全く他者に会わないで行き来することは不可能。波長をできるだけ伸ばした上で空でも飛んでいれば話は別なのかも知れない。でも、予め慧音さんのところへ挨拶しに行った時に、人里の中で何らかの術を使うのは人間を恐れさせるからやめてくれ、と念押しされてしまったので、人里の中ではただ歩くことしかできないのだ。となると、もう嫌でも他者との接触に慣れなければいけないわけで、まあ強制的に訓練させられたに近いけれど、結果的に人見知りはだいぶ軽減されたはず。少なくとも見知らぬ者に出会った時に、挨拶をかねて二三言くらい交わして会釈することくらいはできるようになった。まだまだ知らない誰かと出会うのは怖いのだけれども、行商をこれからもこなしていけばずっと改善するに違いない。
 それに行商によって人里の人間たちとの間に知り合いも増えた。人里の中心である稗田の家の人たちは勿論、人里の守護である慧音さんや妹紅さん、そして永遠亭の薬を買って頂いている皆さん。皆さん本当にいい人たちばかりで、私の人見知りやそれによる失態にも特に気にせずに接してくれるから有難い。それどころか私のことをちょくちょく気遣ってくれて、優しい言葉を掛けてくれたり物を分けてくれたりするのだから、感謝の言葉がいくらあっても足りないほどである。それから、人里に良く来る妖怪との付き合いも幾らか増えた。時々人里にやってきて素晴らしい人形劇を披露しているアリスさんや、よく買い出しに来ている藍さんとは今ではすっかり顔なじみだし、最近になって山の神社の早苗さんとも良く話すようになった。
 結局私だって、行商が自分にとって大切なのはわかっているのだ。その御蔭で私が少し成長したこともわかる。お師匠さまの言うことに従えば間違いない、というのも重々承知。痛いほど、わかっているのだ。
 それでもやっぱり、行商はあまり好きじゃない。好きになる時は、来るのだろうか。そう思えた時が、私が大人になった時なのかもしれない。




              拾伍

 行商を始めて少し経ったころから、私は並行して韶霞に薬学を教えるようになった。これのきっかけは、韶霞が私に「薬学を教えて下さい!」と言ったことだった。勿論、私にとってはそんなのもっての他であって、すぐさま全身全霊を尽くして断った。けれど、これまた韶霞という兎は、どちらかといえば寡黙なたちで儚い容姿をしているくせに、なかなかどうして神経のずぶとい奴なのだ。蒼褪めた私に向かって無邪気に「鈴仙さまに教わりたいんです!」とか宣ってくれた。いかにもこちらのことを気遣ってくれてそうで、殆ど見えていない天然さんである。それはごく小さいころに、私が何をしようとお構いなく付いて回っていたことで、わかることではあったのだけれど。ともあれ、そんなことを言われてしまっては、私はやっぱり断る術を持っていない。挙句の果てに、お師匠さまにまで韶霞が薬学を習いたいことが知られて、「鈴仙の実力なら大丈夫よ」なんてお墨付きをくれてしまうものだから、もう私に退路なんて残されていなかったわけだ。それに韶霞は私にとって大切な相談相手で、いつも彼女の世話になっていた部分もあるのだから、断るような無碍な真似を取ることもできなかったのだ。どうにも、永遠亭の時が動き始めてから、私はいろいろと無茶な事をさせられることが増えた気はするが、それは気のせいとなのだろうか。
 誰かに何かを教えるということは難しいことだ。まして、自分に自信も無ければ他者との関わりも嫌いな私からすれば、教授という行為は鬼門でしかない。その相手が、いくら気心の知れている韶霞であったとしたって私には難事だった。それに加えて、私は他者に何かを教えてよいような存在ではない、と思っている。こればかりは今でもそう思っていて、だからやっぱり教えることは嫌いだ。こんな他者に対して何かを教えるなんて、そんな立場に立ってはいけないと思う。教えるということは、自らを相手の手本として提示することに他ならない。だが自分は永遠亭の誰よりも、月の誰よりも未熟で駄目な存在。そんな兎が、誰かの手本になって良いとは、やっぱり思えないのだ。成り行きの上で、今も他者を教えてはいるけれども、本当にそれでよいのかはわからない。
 そんなことを思いながら、でもやむなく教えるとか考えているものだから、最初の最初はガチガチに緊張していて、生徒の韶霞にとても心配されたことを覚えている。教え方にしても全然なってなかったようで、韶霞がきょとんとした顔で見ていたことだけが思い出せる。そもそもここに"ようで"なんて言葉遣いが出てくる時点で救いようのない話。緊張のあまり私は自分が何を喋っていたのかということ自体を、全く覚えていないのだ。完全に教師として失格。終わった後に、私に期待してくれた韶霞やお師匠さまへの申し訳なさと、私自身の不甲斐なさと、今度こそ韶霞に見放されるのではないかという恐ろしさで一杯々々になっていたのは、鮮明な記憶として残っている。
 でも結論を言えば、韶霞は私を見捨てなかった。何故かは良くわからないけれども、韶霞が私を見捨てることがなかったのだ。そのことは、私は続けて授業をするということを意味した。韶霞に次はいつですか、と聞かれた時は心臓が止まる程驚いたもの。韶霞に見放されていなかったということでは喜べたけれども、もう一度アレをやらなければいけないというのは恐怖でもあった。でもやらないという選択肢はやっぱりないから私はバタバタと教える準備を始めるわけだ。
 二度目も酷い授業だった。三度目もやっぱり酷かった。酷かったけれども、二度目の授業は一度目と比べれば幾分まともだったし、三度目は二度目と比べるとまたもう少しましな授業ができる。いくら私であっても、慣れというものはあるのだ。そして韶霞は、最後まで私を見捨てることはなくて、私は授業を重ねた。最初は授業が終わっても、何を言ってるのだかわからない、という表情を韶霞は浮かべていたけれども、授業を五回ほど経たころから、何となく納得したような表情に変わった。今だから言えるが、その変化は私にとって結構嬉しいものだった。それは私が漸く人並みになれた、というしるしだったから。
 しかし、どうして韶霞が私を全く見捨てなかったのだろうか。このあたりは、やはり良くわからない。別にこの授業の事に限らず、私がこれまで韶霞にしてきたことは、百回見捨てられて余りあるくらい酷いはず。韶霞が小さいころから、私が韶霞の害にこそなれ、韶霞の為になったことは無いと思う。それなのに何故か、韶霞はずっと私の後を追いかけてきてくれて、私の傍に居てくれる。それがどうにも解せない。もし韶霞が私だったら、とうに鈴仙なんてしち面倒な玉兎は放り捨てている。韶霞は私なんかといて、本当に楽しいのだろうか。
 現実では、韶霞は私を捨てずにいてくれるわけでとても有難い話。そして韶霞が私を見捨てなければ、授業は続いて行く。十回を越えたころからそれほど苦痛でも無くなって、いつしか自然に話すことができるようになっていった。それに応じて韶霞もきちんと理解してくれるようになって、漸く授業が授業として成り立つようになった。韶霞は、論理的理解はそれほど速くなくて、その部分を教えるのにはしばしば困ったけれども、例えば立体構造の把握といったような直感的な理解はとても速く、その部分では得てして私の説明よりも上手く理解していた。なにより、授業を初めてくれと爆弾を投下したのが韶霞なだけあって、やる気は人一倍あったのだからやり易い。

 韶霞に私が授業をしている、という話は次第に兎の中で評判になっていたらしい。最初にてゐからその話を聞いた時は、かなり困惑した。なにせてゐときたら「鈴仙は名先生だって、皆の評判だよ」なんて言うのだから。てゐは良く私を弄って遊ぶわけで、この時の言葉もたぶんそういう誇張だったのだと思う。けれども、そもそも私が先生をしている、という話はお師匠さまと姫さまと、それから韶霞くらいしか知らなかったはずだから、てゐが知っているということ自体が、私には驚きだったわけ。どうやら韶霞が何羽かの兎に話していて、またお師匠さまも他の兎に話していたようだ。私にとってはハタ迷惑だったけど、特に口止めしていたわけじゃないからそうなることは、わかっていたといえばわかっていた。
 ところが、ここからが私にとってさらなる驚きだった。これまた物好きな兎が私の授業を受けたい、と言い始めたのだ。以前程ではないにしても、やっぱり私は兎たちには殆ど好かれていないから、たぶん韶霞が誘ったのだと思う。誘う方も誘う方だし、乗る方も乗る方だ。でも、頼まれてしまって断ることもできない。韶霞にやっていて他の兎にはやらないという、そんな差別はできないのだから。そうなると、私としてはもうヤケになるしかないわけで、やむなく私は授業の中に、他の兎も招き入れることになった。
 私の授業がわかりやすいかどうか、残念ながら私は自分の授業を受けることはできないから良くわからない。でも、大したことはないのだと思う。そんなはずなのに、私の授業に来る兎は二羽から三羽、三羽から四羽と少しずつ増えて行った。授業に来る兎が増えたのに驚いて聞いてみてわかったのだけれど、どうやらお師匠さまのおかげか、永遠亭の兎の中には薬師に憧れる兎が結構いたらしい。韶霞が薬師を目指したいと思ったのも、多分お師匠さまの背中を見ているからなのだと思う。でもそれならお師匠さまに教わればよい気もするが。
 一羽から二羽に増えた時には結構緊張したものだけれども、二羽から三羽、そして三羽から四羽と増えたところでもう私にとってはそれほど変わらない。そうやって、いつのまにやら私は十羽前後の兎の前で授業をすることができるようになっていたのだから慣れとは恐ろしいものである。最初のうちは相手が一羽であっても碌な授業ができなかった、というのが今となっては嘘のようだ。
 そうやって授業をしていれば、自然と仲が良くなるのは自明らしい。韶霞が私と他の兎との仲立ちをしてくれたのはとても大きいと思うのだけれど、生徒として私の講義に参加してくれる兎たちとは、いつのまにか良く話をしたりするようになって、彼女たちが遊びに行くのに私が誘われさえするようになった。時々私をからかって遊ぶのだけれども、皆根は凄く真面目でいい子で、話しているだけでも私までまともだと勘違いしそうになるくらいだ。視線が合うと兎たちに顔を顰められた少し前までとは、大違いである。いつのまにやら私の周りには、誰かしらがいるようになった。そしてそうやって誰かいる方が楽しいと、私もどこかで思うようになった辺り、やっぱり慣れというものは凄い。
 しかし、どうにも私の授業に出て勉強している兎たちが、昔の私と被ることがあって、少し懐かしく切ない気持になる時がある。かつて私も、ショウカや仲間たちと七羽で授業に出て、力を合わせて勉強していた。同じように十羽前後で勉強を進めていく韶霞やその仲間の兎たちを見ていると、ついつい重ねてしまいたくなる。一羽一羽の性格は全然違うし、雰囲気が似ているわけでもない。それでも、似たような境遇というだけで感じるところがあるのだ。まして、その仲間で残っているのが恐らく私だけ、という事実が猶更そこにのしかかる。完全に感傷でしかないのだけれども。それでもやはり、彼女たちが一緒に学んでいくその姿を見ていると、胸が苦しく思うときがある。そして同時に、彼女たちに私の轍を踏ませてはならぬ、とも思うのだ。韶霞を初めとしてどの兎も私よりずっとできる兎だから、大丈夫だとは思うのだけれども。





               結

 私が生まれたころから書き進めて来たのに、いつのまにやらもう書くことがなくなった。まだ書くべきことはあるのかもしれないけれども、こうやって自然に書き連ねたものが、自分にとって大切なのだとも思う。だから強いて書かねばならぬ事項を考えたりせず、とりあえずはここで一度纏めてしまおうと思う。これからまだ先は長いだろうし、その中では事件もたくさんあるだろうから、何か重要なことがあれば随時書きたそうとは思うけれども。

 こうして書いてみて思ったけれど、どうやら永夜異変を境にして私も大きく変わったらしい。上で"私自身が変化したかどうかはわからない"とか暢気なことを書いているけれども、改めて自分の記憶を見返しながら書いてみれば一目瞭然の話だ。あの異変によって一番変わったのが私じゃないか、と言えるくらいではないかとさえ思える。
 なにせこの私が、人間や妖怪に溢れる人里に通い、人妖の入り乱れる異変に参加し、幻想郷の人妖がおしなべて参加する宴会に出て、しかも兎たちに講義までするようになっているのだ。とても異変の前の私からすれば考えられない。なにより他者との関わりを嫌った私が、永遠亭の中でも他者との関わりを行わなければならないことばかりやっている、という状況はとても想像できなかった。お師匠さまもなかなかに酷いというか凄いというか、ここまでやらせるというのは驚きである。それだけに異変からすぐのころは、とにかく毎日を生きるのが大変だったのは、強い記憶として残っている。当然のことだろう。
 でもその変化は決して悪い方向ではないと思う。むしろ私が少しは"正気"になった、と言えるのかもしれない。半ば無茶な話でもやらされることによって、嫌でも私は他者との関わりを持つようなった。しかも一気に複数のことをさせられたから、色々な場面を一気にこなさなければならないことになる。その結果として、かなり早い段階でそれに慣れることができたのではないか、という気がする。お師匠さまのやり方はとっても手荒いように思えて、その実は理に適っていたのだろう。考えれば考えるほど、知れば知るほどお師匠さまとは、恐ろしい人だ。なにせそうやって私を叩きこんでくれた御蔭で、私は人並みとは言わなくても最低限の付き合いくらいは持てるようになったのだから。もしお師匠さまが無理にやらなければ、私はいつまで経っても誰かとの繋がりを持とうとなんて思わなかっただろうし、だから私がこうして変わることも無かったのだと思う。
 そして、そんな他者とのやりとりを通して、自分というものがよりしっかり見えてきたような気がする。自分を知らなければ、相手を知ることなんて論外だからだろう。他者とやりとりをするためには、まず自分が一体どういう者であるかということを見極めなければならない。私が他者との関わりを嫌ったのは、私が自分自身を知るのを嫌がったからだと思う。やっぱり今でも私は自分が嫌いだ。嫌いだから見たくはない。見たくは無いのだけれど、やっぱりそれは見なきゃいけないものだというものもわかっている。そして以前よりはだいぶ冷静に過去と向き合えるようにもなったように思える。他者との付き合いを未だに好まないながら、やらなきゃいけないという思いも同時に持っているのは、きっとその辺りが所以であるのだろう。
 こう考えて見ると、そもそも私がこんなものを書いていること自体が、そういった変化の影響の一つであって、また変化を与えるものであるのかもしれない。これを書くのだって、元はと言えば地獄に落ちたくないという不純な動機から始めたものであって、あんまり誉められたものじゃない。それでも過去について書くと言う行為は、つまり過去をもう一度見直してみるという行為と同義である。そのことは、これを書いている時に何度も痛感させられた。今でも見るあの戦争の悪夢について書くのは辛かったし、逃げてきてしまった頃のこと、そして永遠亭に来てすぐのころのことを書くのは、なんど辞めようと思ったかわからない。でも私はこうして書き連ねてきたわけで、つまりそれは私がそんな過去を見つめることくらいはできるようになった、ということであるのだろう。
 果たして、これを書いたことでなにか私の心持が変わったかどうか。それはちょっとわからない。不純な動機で書いたに過ぎないものであるのだから、或いはあんまり役に立たないことなのかもしれないとも思う。それでもこうして自分の惨めな生い立ちについて書くことができることが分かっただけでも収穫だと思えるのだ。これはつまり自分が、少しは過去のことを振り返り、客観的に認識できるようになったことに他ならないからだ。

 これをここまで書いてきて、この私にもたった一つだけ、自慢できることができた。それは、出会いの多さだ。私の周りに居てくれたのはいずれも良い人、良い兎ばかり。私はその出会いの御蔭で、ここまでこうして命を保ってきたようなものと言ったって過言じゃないと思う。月で私を支え続けてくれたショウカ。私を拾ってくれたてゐ。肝心な所での助言で導いてくれる姫さま。深謀によって私のことを常に考えてくれるお師匠さま。こんな私についてきてくれる韶霞。いくら感謝をしても足りないくらいだ。誰か欠けていたら、きっと私はとても生きてこれなかっただろう。皆が揃ってはじめて、私という駄目兎がどうにかこうにか這ってこれた。
 私は、そんな方々に少しは恩返しだけでもしなければならない、と思っている。これまで私は全てをやってもらってきた。恩はたくさん受けて来た。でも、それを殆ど返していないのだ。とても全てを返しきることができるとは思っていないけれども、それでも少しは返したい。そして感謝の意を表したい。そう思っている。ただショウカにだけは、もうどう頑張っても恩返しをする手段がない、ということだけが何とも悔やまれてならないのだけれど。

 さて、この駄文を結語しよう。私は、ここまできてやっと、居場所が見つけられたのではないか。そんな気がする。今の私にとって、この永遠亭は大切な居場所だ。その居場所の中で、皆の助けによって楽しく暮らしている。私にはたくさんの罪がある。たくさんの間違いもある。そしてそれが清算できたわけじゃない。私だってまだ間違いだらけの存在だ。でもそればかり見ていても仕方ない、ということがよくわかってきた。過去のことに向き合ったからこそ痛切にわかったのは、もう過去は変えられないということ。つまり過去は鏡の向こう側でもう変えられないのだ。だから私はまず、これ以上の間違いをしないように、罪を積まないように、少しでも他の鑑となれるように、そうやって生きていきたい。そうして初めて、私には過去をきちんと見ることができると思うし、見捨ててしまったショウカや仲間たちの供養にもなるのではないか、と思う。まずは彼女たちの分も私が生きて、真っ直ぐに生きて、彼女たちが私にくれた多くのものを、無駄にしないようにするのが大切なのだ。そしていつか私が死んだ時、彼女たちに自慢するものを、他の見本となるべきようなものをたくさん作る。それこそが、ショウカたちに対する手向け、だと思う。そして真っ直ぐに生きることこそが、永遠亭にとってもいいに決まっている。私が真っ直ぐ楽しく生きている姿を見せることこそが、お師匠さまや姫さま、てゐへの恩返しになるはずだ。
 まだまだ私は不完全だ。こうして書いてみて駄目だなというところもいっぱいある。だけれどもやっぱり私は前を向くべきなのだと、改めて強く思い知らされた。真っ直ぐに前を向いて、他に誇れるように進んでいくべきなのだ、と。だからこれを読みなおした私に一言、送る。

 永遠亭で楽しく生きよう。















                補壹

 書いてたころから、だいぶ時間が経った。改めて読んでみると、どうにも粗が多いように思えてよくない。それに本当にこれで過去を見直したといえるのかどうか、それも疑問だ。まだまだ自分がもっと省察すべき点が増えたように思えてならない。思えてならないが、こうして書いたものが、書いていた頃の偽らざる本心でもあるのだから、全く訂正はしない。またどうしても何か書かねばならぬ過去を思いついたら、こうして補として書きくわえれば良いだけの話だし。どちらにしろ、誰かが読むものじゃないからだ。これを読むのはこの先未来に居並ぶ私だけ。こんな恥ずかしい物、とてもじゃないが他には読ませられない。
 どうにも、やっぱり暫く書かないでいたから書き慣れない。文章というものは使わないとだいぶ衰えるもののようだ。最近は月の文字で以てもっぱら研究の計画を立てたりすることばかりだったから地上の文字は使いなれないのだ。言い訳だけれども。

 それでもこうしてまた書いているのは、前に書いていたころとはだいぶ状況が変化したからだ。とはいっても、私の中身が何か変ったというわけではない。むしろ幻想郷の状況が少し動いたのだ。とても簡単に言えば、昔ほど賑やかで穏やかな場所ではなくなったということだろうか。スペカ決闘は殆ど用いられなくなった。これまで簡単な対立から大きな異変に至るまで、様々なもめごとを解決してきたスペカ決闘はまず行われなくなってしまい、命を掛けた闘争がこれに代わったのである。お師匠さまに言わせれば、それこそが正しい地上の紛争解決なのだそうだ。けれどもこの結果、人間にも妖怪にも負傷者が増え、また死者さえ出るようになった。皮肉なことにそれで永遠亭の薬はよく売れるようになり、また永遠亭に来る患者も増えたのだけれど。
 一体何故か、ということは私にはわからない。はっきり言って知りたくもない。ただスペカルールが飽きられたというわけでもスペカルールが役に立たなくなったというわけではないと思う。遊びの範囲ではスペカルールが使われることはしばしばあるようで、姫さまと妹紅さんとはまだスペカルールを使って殺し合いをしている。この回数も諸事情から少し減ってしまったようだけれど。減って心配になる殺し合いというのも、それはそれでおかしな話だが。どうやら、スペカルールが使われなくなってしまったのは、巫女が夭逝してしまったことと関係あるらしい。巫女の逝去が何にどう関係があってスペカが使われなくなったかはわからないけど、どうにもあれを境にしてスペカルールが急速に廃れていった気がするのだ。たかが調停者の一人を失ったことが、それほど大きい出来事だったのだろうか。
 それ以来、いつの間にか幻想郷はとても剣呑な空気に包まれている。命を掛けた闘争によってしか紛争が解決しないとなれば、その実力が露骨に問われるのだから、各勢力とも自らの勢力を維持するために力を顕示するからだ。結果、人妖の諸勢力が互いに幻想郷の中でその実力を巡って睨みあう状況になってしまった。これではもう平和な幻想郷とは言い難い。勢力の均衡で以てなんとか持っているにすぎないのだから。
 こうやって治安が悪化してくると、妖怪や妖精たちの中には、永遠亭に駆け込んでくる者もいた。実力が乏しく自分の身を守れないから、永遠亭で守ってもらおうということである。無碍に追い出すこともできないが、だからといって永遠亭には大勢を匿うほどの場所も物もないわけで、結局竹林の中の治安維持くらいをやることになった。そうして竹林の中に居る分には最低限の安全保障はする、ということになったのだ。
 こんな時に解決するのが、本来なら八雲紫と巫女なのだと思う。でも巫女は既に亡く、八雲紫もなぜか動かない。これは私の勘だが、八雲紫一人ではこの状況を捌ききれなくなりつつあったのだと思う。

 その結果というべきなのだろうか、永遠亭の中で私が兎たちを取りまとめる立場に立つことも多くなった。てゐは交渉事などがとても得意だからそういう方面の仕事が増え、兎を全て取りまとめて行動させるという仕事まで手が回らなくなったのだ。そうすると、自然と私が兎たちの面倒をみたり指示をしたりすることになる。
 私は元々とても兎に嫌われていた。まあ、嫌われて然るべき存在であったと思うから無理も無い。そしてそんな奴の言うことを兎たちが聞くはずもなく、だから実質的に私と兎たちとの間はあまり良い仲ではなかった。それは韶霞やその仲間たちに授業をするようになってだいぶ兎たちに慣れたとは言っても、それでも全ての兎たちとの関係が改善したとは、言い難かった。だから、まさか私が兎を取りまとめる立場に立たされるなんて思っていなかったし、できるとも思わなかった。緊急時だから仕方がない、ということ。もしこういう状況になかったら、私がこんな立場に立つことは決してなかったはずだ。
 ところが、だいぶ予想外なことに、思ったより兎たちは私の言うことを聞いてくれ、私を頼ってくれた。てゐが予めなにか色々と言い含めておいてくれたのだろうけれども、それにしてもそこまですんなりと上手くいくとは、私自身も思っていなかった。やっぱり例によって、最初はとても緊張していてまともに指示を出すことさえできなかったが、それでも兎たちはちゃんとわかってくれたし、私を気遣ってもくれた。そんな駄目な私を見ても見捨てることも無く、きちんと付いてきた。不思議なものである。
 そういうわけで、皮肉なことに幻想郷に波風が立ち始めるに従って、私は兎たちの中に長として認められるようになっていった。認められるとはいっても、多分それほど上には認められていない。兎たちにちょくちょくからかわれたりするようにもなったからだ。この間は歩いていたら、足元に紐を仕掛けられて派手に転んだし、その前には部屋の戸を開けたら黒板消しが降ってきた。そういう悪戯の対象になってしまって、疲れることもあるのだけれども、良い傾向でもあるのかな、と思う。以前は、兎たちは私にとてもじゃないが寄りつかなかった。それが、今では毎日のように何か悪戯を仕掛けられていて、だいたい三日に一回くらいは引っ掛かる生活。私のやることは増えたかもしれないけど、それはつまり兎たちが私も仲間として受け入れてくれているということなのだ。有難いことである。
 しかし、からかいの対象になるのだけは、ご勘弁願いたいと思わなくもない。月にいたころも良く仲間の玉兎からいろいろなことをされていたが、本当に地の性格とは直らないらしい。

 でも私としては生活はかなり楽しくなった。悪戯もされるけれど、兎たちも今では私を頼ってくれる。私に話しかけてくれる兎もずっと増えたし、時には仕事を手伝ってくれるようにもなった。前書いた時から変わらず、やっぱり他者との付き合いはそれほど好きじゃないけれども、でも兎たちとのこうしたやりとりは私にとって大切なものになりつつある。それに、兎たちにも迎え入れられて初めて、永遠亭の一員になれたと、そう言える気がするのだ。




              補貮

 本当はもう終わりにしようと思ったのだけれども、もうちょっといろいろと考えたいことがあるから、書き加えることにする。この調子だとたぶん、私の生涯の間に十冊も二十冊もこんな冊子が溜まって、補貮百とか補參百とかいうことになりそうだけれど。まあそれはそれでよいのじゃないかな。

 改めて考えよう、と思ったのはこの幻想郷の状況について。思いついたいろいろなことを書き散らしてみようと思う。なんだか補壹を書き始めたときに比べても、幻想郷は悪い方向に進んでいるように思えるから、それが何故なのかという根本から考えてみようと思ったのだ。
 考えてみれば全く予兆がなかったわけでもない。そもそも永夜事変のあとだけを見てみても、どんどん幻想郷の中の勢力が増えていた。それなのに幻想郷自体が変質せずに永遠にあの形である、とは考えにくかった。それに私はどうにもひっかかることがある。それはあの月面戦争の時のことだ。紅魔館と永遠亭と八雲紫と月都と、いろいろな思惑が錯綜していて結局なにが起きたのかよくわからないのだけれども、気になることが幾つかある。
 あの月面戦争は、永遠亭にとっても勝利であったと言っていい。結果的には私たちや綿月さまの汚名を雪ぎ、しかも私たちがどこにいるかを知られることもなかったわけだから。さらに妖怪たちが月を侵略しようとするのも防いだのだから、完封勝利と断言できるものだ。ところが、あれの解決した後に開かれた宴会で、お師匠さまは八雲紫と二人で酒を楽しんでいたらしいのだけれど、それから帰ってきたお師匠さまが本当に能面みたいな表情だった。つい先まで勝ったことに喜んで柔らかい表情だったお師匠さまが、ちょっとの間でそんな風になってしまって私は大層驚かされたものだ。しかもその表情が、ただ能面らしい無表情というだけに留まらなかった。お師匠さまの灰色の瞳は物凄い酷薄な色を帯びていて、波長もますます位相がズレて読み取ることさえ難しくなっていたのだ。それは怒っている、というのとも少し違う感じで、八雲紫との間で何があって、何を思っていたのかはまるでわからなかった。ただ、どうやら月面戦争の過程でなにか思うところがあったらしかった。
 それ以来、お師匠さまは時々そういう表情をする時があった。何かを、それもかなり恐ろしいことを考えていることはわかるのだけれども、それが何かまではわからない。恐ろしくて聞くことさえできない。強いてそれを予測するなら、少し前に一度だけお師匠さまが呟いていた「八雲紫は危険ね」という一言に関係あるのかもしれない。考えてみればあの時、結局月面侵略には完全に失敗しただろう八雲紫の機嫌がやたらと良かった気もするのだ。お師匠さまとは何故か正反対。完全に失敗したというにはちょっと妙だ。やっぱりここで、お師匠さまが八雲紫を警戒せざるをえない何かがあった、ということなのだろう。
 とにかく、あの一件以来お師匠さまはしばしば私に八雲紫の動向を聞くようになった。私と藍さんとが割と親しく付き合っているのを知っていたからだろう。そうは言ったって八雲紫という妖怪は自分の式にすら動向を知らせないようで、あまりわかることなんてなかったのだけれど。それ以外にもお師匠さまは、竹林に色々な術を掛けていたり、てゐに言って兎に戦闘訓練させるようにしたり、いろいろと動いていた。それは完全にスペカ決闘で必要な防衛のレベルを越えていて、戦争をするのではないかとさえ思わせるようなものだった。あの頃はお師匠さまの考えすぎだと思って、余り気にも留めていなかった。けれども今思えば、こういった状況をある程度予測していたのかもしれない。
 スペカ決闘が通用しなくなってから、お師匠さまの対八雲の警戒はますます厳しくなっていて、よく私やてゐに動向を聞いてくる。八雲紫がお師匠さまにとっては仮想敵らしい。相手はこの幻想郷の管理人であるのだから、あまりそうやって敵視してもよくないと思うのだが、姫さまの安全を守る重責を担ったお師匠さまからするとなにか感じさせるものがあるのだろう。

 事態は結構深刻な方向へと突き進んでいて、色々な所でもめごとが一気に増えていた。人里への行商へ行くと、妖怪の殺し合いを見た話だとか、妖怪に人間が喰われた話などを良く聞くようになっていた。前から、妖怪に人間が襲われる話なんかは全くないとは言えなかったけれども、とても珍しい事件であったはず。それが次第に、しかし着実に数を増やしていて、そのうち私が行商へ行くたびにどこかからで聞くようになった。またそうすれば妖怪たちに嫌気が差すのも事実で、人里では妖怪を入れない方針が強まった。それに従って、人里を散策していた妖怪は減り、また永遠亭の薬を買ってくれる人も減る。患者も激減してしまってお師匠さまは完全に開店休業の有様だった。妖怪向けの商売をしていたお店も次々と閉店してしまい、人里は人間だけの里に変貌していってしまった。
 あの永夜異変を境にして、永遠亭でも食料や薬の材料、生活用品のいくらかを人里に頼っていた。だからそのまま人里とのつながりが切れてしまうと私たちは干乾しにされてしまうところだった。でもこればかりは、お師匠さまが事前に大量の買い出しを行っていたこと(珍しくお師匠さま自らが兎を率いて人里に繰り出したものだから、ちょっとした話題になった)と、私が行商で得た知己の人たちが細々と物を売ってくれるのでなんとかなっている。でもあまり良い状況とは言えない。最近では私が人里に行っても意味がなくなってしまった、というか私さえ入れなくなってしまったので、人里に出向くことは無くなってしまった。そしてこの人里を巡って、紅魔館と揉めるようにもなってしまったのだ。
 元々、紅魔館とは場所の遠さもあってあまり交流もなかった。異変の時に私が幾らか面識を持っていたのと、人里での買い出しの際に時折メイドの咲夜さんに会う程度。月面戦争の時は紅魔館の吸血鬼は中心になって積極的に動きまわっていたけれども、結局あの話は依姫さまによって完全に失敗したそうだし、殊更私たちにとって危険な存在ではなかった。
 そんな関係希薄だった紅魔館との関係に亀裂が走ったのは、つい最近の話である。私たち永遠亭がいつの間にか人里に物資を頼るようになっていたのと同様に、紅魔館も物資を人里に頼っていたそうなのである。ところが人里が妖怪に物を売らなくなると、当然のように紅魔館は困る。一方で永遠亭はお師匠さまの御蔭で、その中でもどうにか物資を確保できていた。そうなれば紅魔館は次第に不満を募らせるしかないわけで、そういうわけで次第に関係が悪化してしまったのだ。いまや紅魔館と永遠亭とは、人里での中傷合戦まで行うようになってしまっている。私たちからすればこれ以上人里から買える物資が減ると困るし、紅魔館としても人里から物が買えない状況を変化させなければならない、というそういう空しい対立なのだろう。肝心の調停者は出てこないし、しかも出てきたところで今のお師匠さまがそうすぐに言うことを聞くとも思えないから、難しい話だ。

 少し前までに比べて、永遠亭を取り巻く状況というのはかなり悪化してしまった。永遠亭が存続するかどうかの危機にあるといってもいいかもしれない。その中で、私は永遠亭の一員として何ができるのか、最近は良く考える。
 敵対している者たちを全て排除してしまうというのは一つの策だ。そうすれば私たちは安全だからだ。でもそれが幻想郷という場所に適したものとは、とても私は思えない。私にとっての幻想郷は、スペカ決闘という無血ルールによって全てが解決され、皆が酒を飲みあいながら穏やかに暮らす、そういうところなのだ。
 でも私はそれほど悲観していない。今こそ混乱状態にあるかもしれないけれども、元はみな穏やかな幻想郷の中で暮らしていたのだ。すぐに皆和解して、そういう幻想郷に戻るのだと、そう思っている。ちょっとずつ互いが努力すれば、幻想郷は帰ってくる。
 だから、私も永遠亭の一員とし



















――そして時は再び、"かがみ"から"うつつ"へ。


















 鈴仙はきちんと部屋の鍵を閉めた。いくら永遠亭の気心知れている仲間たちとはいえ、やっぱりあまり見られたくないものは多い。机の上にだって書きかけの危険物が乗っかっているのだ。こういう自分の場は鈴仙にとって重要な砦である。
 しかし、一体何が起ころうとしているのか、鈴仙には見当もつかない。これまでにはあまり感じたことがないような波ではある。しかしなにか、とても不吉な波動であることはわかる。それこそ輝夜の所に報告せねばならぬ、と瞬間的に思える程度には、嫌な波動だった。
 おりしも、この永遠亭からは永琳とてゐが離れている。永琳は山の天狗の元へ向かい、てゐは八雲紫の邸に向かっている。やはり昨今の混乱の中で、永遠亭としてはいつまでも孤立しているというわけにはいかないのだ。特に、いつのまにやら人里を巡って紅魔館との対立状況に追い込まれている現状があるから、他の勢力との話し合いは欠かせない。鈴仙にとってはとても面白くない話で哀しい話であるけれども、そうやって活動しなければ勢力を維持することはできないのだ。
 もし、あの二人がいれば、鈴仙はここまで焦ることはなかっただろう。永琳の力を以てすれば幻想郷の中に永遠亭を傷つけられる者はどこにもいないだろうし、人妖の思考を読み切るてゐの手腕は、鈴仙も良く騙されるだけあって信用している。しかし今は輝夜と二人。輝夜を守るためには自分が動かなければならないわけだ。そして自分が永遠亭を守らなければならないという義務を背景にして捉えれば、やはりこの波動は警戒に値すべきものだ。
 波動は強くなる一方だった。それはつまり、波動を出している源が次第に近付いてきているということである。どうやら何種類かの波動が混ざってそういう不気味なものになっているらしい。それくらいまで分析できる範囲に近づいてきている。足こそ輝夜の部屋に向きこそすれ、鈴仙の頭は波動の分析に傾いている。
 一瞬、そうやって分析していた波動が跳ね上がった。まったく唐突で、鋭い変化。思わず鈴仙は波動の方へ振り向く。

 直後、永遠亭が、轟音に揺れた。

 鈴仙は体を振られ、壁に打ち付けられた。強く打った左肩に鈍い痛みが走る。木の壁だったのがまだ幸いだったかもしれない。これが障子であったら確実に打ち破って床に叩きこまれていただろうし、石の壁であったら肩が砕けていただろう。あちこちから、兎たちの悲鳴が上がっている。なにか焦げたような匂いも感じられる。
 もう鈴仙に立ち止まっている時間はない。おそらく今のは、周囲に張った防衛の結界が破られた衝撃に違いないのだ。永遠亭の防衛結界は、永琳によって永夜異変直後に張られたもので、大規模な戦闘には対応していない。幻想郷ではそこまで物騒なものは要らなかったからだ。とはいえ、対物に関しては相当な強度があったことは間違いない。その結界を、ただの一撃で叩き割るのはそのあたりの妖怪とはわけが違う。何者かはわからないが、永遠亭を揺るがし得る強大な敵対者であるということだけが、鈴仙には認識できた。
 鈴仙は走り始める。「走るな危険」という張り紙が見えるが、こういう緊急時くらいは走ってもいいだろう。これが永遠亭の最大の危機であるには違いない。襲ってくる者の力から考えて、もしかすると月の使者なのかもしれない、と鈴仙は咄嗟に頭を巡らせる。少し前になるが、月面戦争の際には月の中で政変が起こる兆候があった。それで永琳の築いた一派が残らず駆逐され、忽ち征伐というように方針が変わったのかもしれない。この間の月面戦争の際の経験からすれば、月の使者が結界を越えてくるのはたやすいもののようであった。
 鈴仙はそのまま永遠亭の最奥部にある輝夜の部屋に駆け込んだ。結界が破られたというならば、すぐにでも戦闘に巻き込まれるはずだ。月の使者ならば、まず狙うのは輝夜の部屋に違いない。
「姫さま! ご無事ですか!」
 普段ならノックをして、きちんと了承を取ってから入るものだけれども、そんな余裕さえない。
「イナバ、私は大丈夫よ。それより、他の状況は?」
 輝夜は幸いに無傷なようだった。少し鈴仙は胸をなでおろす。しかし、だからといって安堵している暇はない。
「私も慌てて駆けて来ただけですから、まだ状況はわかりません。ただ、相当に力のある敵であるのは間違いないかと思います」
「戦闘用のものではないといえ、永琳の結界を打ち破るくらいだものね。並の相手ではないでしょう」
「もしかすると、月の使者かもしれません」
「ありえないとは言えないわ……」
 輝夜の表情は少し暗くなる。輝夜は、まだ月と対立状況に置かれていることを余り信じたくないようだった。
「とにかく、迎撃の用意をします。姫さまは此処に居て下さい」
「貴女とイナバたちが迎え撃つってことかしら?」
 輝夜の問いに、鈴仙は静かに頷いた。
「私も、参加するわ」
「それだけは、ご勘弁ください」
 輝夜の言葉は、半ば想定済みである。昔ならいざ知らず、積極的に動くようになった輝夜ならば、自分も防衛に参加するというのは、半ば明らかだった。
「もし、敵が月の使者であった場合、姫さまが前に出られていては守りようがありません。お師匠さまとてゐとが帰るまで持ちこたえますから、それまでは奥に居て下さい」
「でも」
「姫さまの身に何かあったら、私の身が立ちません。どうか、お願いします」
 鈴仙の言葉に、輝夜は黙り込んだ。輝夜の気持ちは、鈴仙にも痛いほどわかる。なにせ鈴仙より輝夜の方が実力はあるのだ。それなのに守られる立場、というのは納得がいかないだろう。
「姫さま、あと一つ、お願いがあります」
「なにかしら?」
 輝夜の表情が暗くなっているのに、鈴仙も申し訳なくなる。輝夜の無力感と悔しさは、こちらにまで沁みてきそうなほどだ。しかしそれで妥協するわけにもいかないのだ。もし永琳が帰ってくるまでに、輝夜を月へ連行されましたなんてことになったら、顔向けができないではないか。
「ここに来た時に預けたものを、お返しいただけるでしょうか?」
「え?」
「ここに来た時に一緒に持っていた装備です。羽衣は要りませんが、武器は役に立つと思いますので」
「ああ、あれね……」
 最初はきょとんとしていた輝夜であるが、すぐに思い出したようだった。
「あれなら、イナバの机の一番下に纏めて入っているわよ」
「それはお師匠さまから聞いていますが、封印を解いて頂かないと」
 鈴仙がそう言うと、輝夜は少しまた間をおいて、それからこんな状況だというのに笑い始めた。
「ああ、イナバったらやっぱり永琳の言う通りだったわ」
「え?」
 ふふ、と上品に笑う輝夜には、鈴仙も困惑するしかない。波長から判断するに、時間はもうそれほど残っていない。
「あれには封印なんてされていないわ。永琳も私も、貴女を信じていたから。装備はイナバの机の引き出しに、ただ入っているだけよ」
 鈴仙はその紅の瞳を若干広げ、言い募ろうとする口を止めた。
「それでは」
「そうよ。自由に取って使いなさい」
 鈴仙は、涙がこぼれそうになった。そこまで、輝夜や永琳に信用されているとは、思ってもいなかった。自分の部屋の中にむき出しで危険物を置いておいても、大丈夫だと思われていたのだから。
「姫さま、ありがとうございます!」
 鈴仙はその瞳の輝きが覚られぬよう、深く頭を下げ、それからそのまま部屋を退出しようとした。
「ちょっと待ちなさい、"鈴仙"」
「はい?」
「鈴仙、いってらっしゃい」
 相変わらず、袖で口元を隠して輝夜は笑っている。
「ええ、ちょっと行ってきますね」
 鈴仙も努めて、笑って返した。


「鈴仙さま!」
 自分の部屋に戻る途中であった。韶霞が横から声を掛けてくる。
「韶霞、現状は?」
「とりあえず当直の兎たちが接敵したようですが、全然歯が立ちそうにないということです」
 韶霞も相当焦っているらしい。声が半ば上ずっている。
「それで敵は何者?」
「それが」
 韶霞は少し言い淀んだ。やはり想定した最悪の状況だったのだろうか、と鈴仙は右拳を握りしめる。
「敵は、紅魔館です。吸血鬼とその眷属が、この永遠亭の殲滅を図って、攻撃を掛けてきました」
「紅魔館、ですって?!」
 鈴仙は思わず立ち止った。急がなければいけないのはわかる。それでも立ち止まらざるをえない。
「紅魔館が、それも私たちの殲滅を図るって、冗談にも程があるでしょう?」
「冗談でもそんなこと言わないで下さい! 既にもう死んだ兎だっているんです! 私だって、仲間を置いて……」
 韶霞の言葉は、殆ど悲鳴だった。はっと、月の戦争のころの情景が舞い戻ってくる。
「韶霞はわざわざ、伝えに来てくれたのね。ありがとう」
 韶霞のことを撫でてやる。あまり丁寧に撫でている余裕はないので、自然と黒碁石のような、滑らかな韶霞の髪を乱すことになってしまう。また後で櫛を入れてあげよう。
「それで、連中はどちらに?」
「私がこっちに来るころには、玄関の結界を突破されたところでした。まだ兎たちがその辺りで粘っているとは思いますが。分散の気配がありましたが、第一目標は永琳さまの部屋を狙っていると思われます」
「お師匠さまの……」
 永琳の部屋には、永遠亭の中で最も重要なものがある。人里との契約関係書類、様々に用いることができる薬の数々、治療してきた人々たちのカルテ、月でしか手に入らぬような貴重な書籍や実験器具、永遠亭防衛結界の中枢、そして、皆のアルバム。
「わかったわ。韶霞、貴女は姫さまを守って! なんとしても姫さまの御身を」
「鈴仙さま、鈴仙さまはどちらに?」
 撫でられるがままになっていた韶霞が、上目遣いに鈴仙へ問う。焦げ茶の瞳が潤んでいた。
「私はお師匠さまの部屋を守るわ。お師匠さまの部屋だけは、永遠亭の中でも守りきらなければならないもの」
「それじゃ私も」
「姫さまのことは、韶霞にしか頼めない、お願い!」
 それだけ告げて、鈴仙は再び歩き始めた。
「鈴仙さま――」
「韶霞、頼んだわよ。あと、下手打って死んだら、怒るからね」
 鈴仙は振り返ると、韶霞にせいいっぱいの笑顔を浮かべてみせ、それから再び走り始めた。

 鈴仙は再び部屋へと戻ってくる。しかし机の上に目を向けるでもない。目標は、今まで一度も触れたことがなかった一番下の引き出し。そこに手を掛けて、思い切り引く。それは鈴仙の予想以上にあっさり開いた。そしてそこには、鈴仙が入れた時のままの形で、自分が月から持ち込んだ装備一式がそのまま入っている。鈴仙は必要なものだけを、手慣れた手つきで取り出しては、状態をみる。手入れを全くしていないのに、まさに新品同様なのはさすが月の品。
 鈴仙は拳銃を取り出して腰に差し、手榴弾を三つ、ベルトに付ける。もうずっと使っていないものであったが、存外雀ならずとも踊りは覚えているよう。思ったより使いこなせそうだ。それからライフルを手に取って肩に掛けると、鈴仙は引き出しを閉める。羽衣が出せ、と主張していたが、今はいらない。たぶん未来永劫、使う時は来ないだろう、と思う。
 鈴仙は部屋を出た。鍵を掛ける間も惜しい。この瞬間にも兎たちは懸命に戦っているのだから。鈴仙は戸だけ閉めると、永琳の部屋に向かって駆けだした。


 既に玄関の辺りは大騒ぎになっていた。血を流しながら呻いている兎もいれば、腰が抜けてへたり込んでしまった兎もいる。ざっと見渡しただけで鈴仙はあの悪夢の光景を思い浮かべて、唇を噛む。あんな光景を見るのは夢の間だけにして欲しかったものである。しかし、囚われている余裕はない。
「元気な兎の中で薬学を少しでも齧った者は、負傷者の救護へ回れ! まだ後の治療室の方には来ていないはずだわ。薬学がわからぬ者は、姫さまのお守りを。また戦えぬ者は負傷者の搬送を行いなさい」
 鈴仙は走りながら、叫ぶ。同時にちょっと全員の波長を弄り、興奮させてやった。あまりよろしいことではない。けれどもこういう緊急時には仕方ない。
「それで、吸血鬼らはどこにいるの?」
「鈴仙さま、奴らはもうすぐ向こうに居ます。今、弾幕を張れる兎たちが応戦していますが、相手には少しも傷を与えられません」
 問いに、左腕を抱えた兎が答える。鈴仙の授業に毎回出てきていた兎の一羽である。垂れ下った左手の指先から血が滴っている。
「なら、敵を引きこむわ。とりあえず中庭で迎え撃つ。今応戦している連中に、ちょっとそこのあなた、ちょっと悪いけど中庭まで撤退するよう伝えて。それから、中庭の見える辺りに隠れているように、とも。私が来るまで動くな、と伝えておいて」
 鈴仙は一人、その辺りにいた兎を捕まえて伝える。
「あと貴女」
 もう一度、教え子の兎へと話を戻す。
「貴女、その怪我で悪いけれども、さっき言ったように治療室に回ってちょうだい。今は、負傷者の救護が重要だから」
「はい」
 兎たちは素直に従ってくれる。片や前線の方に向かってくれ、片や治療室に向かって行ってくれた兎たちを眺めやって、それから鈴仙自身は永琳の部屋へと向かう。中庭の向こうにある、離れへ。

 永琳の部屋は、とても綺麗に整理されている。と、永琳は言う。まさに永琳の思考を体現しているような部屋であった。あちこちに本が積み上げられており、また透明な液体の入ったフラスコや試験管がラベルもなく雑然と置かれている。そのうえ、幾つもの同じようなビーカーの中で、スターラーの攪拌子がくるくる回っている風景は、整然とは言い難いだろう。傍から見れば何がどうなっているのかわからない。だが永琳には、全て何がどこにあるかを把握し、何を同時並行で行っているかもわかっているらしい。その永琳にとっては、まさに整然なのだろう。永琳の頭脳のなせる技だ。
 しかしこの今、その作業スペースはどうでもよい。問題はその先だ。
 鈴仙は倉庫に入ると、他には目もくれずに薬の棚へと向かい、一つの薬を手に取る。国士無双の薬、と永琳が呼ぶ薬だ。鈴仙が薬師として最初に作った薬で、一時的ではあるが、体力や妖力を上げてくれる。これを見た永琳は、飲みすぎなければ大丈夫ね、とお墨付きをくれている。それを鈴仙は一気に飲み干す。こういう時のための薬なのだ。
 飲み干せば、もう倉庫には用はない。というよりは、この部屋全体に用はない、と言い変えた方がいい。もう少し探せばいろいろな薬も、あの蓬莱の薬さえも、あるのかもしれない。けれども探している時間がもったいないし、そうやって勝手に永琳の薬を使ってしまうわけにも、いかないだろう。
 鈴仙は倉庫の戸を固く閉じた。そしてそれから、封印の符を貼っておく。札なんて全くわからない鈴仙のものだから、気休めにしかならないだろう。しかし鈴仙は、それにせめて心だけでもこめる。この倉庫こそが、永遠亭にとって宝の倉庫だから。開かないように。

「おや、誰もいないと思ったらいるのだな」
 部屋の戸を開くや、幼い声が響いた。子兎と大して変わらない声である。
「ええ。いますよ。お客様が来たというのに、お出迎えできなくてすみません」
 鈴仙は戸を閉め、一歩出て中庭を見渡す。丁度真ん中に、二人の姿があった。身長差からすればまるで親子連れ。相変わらず月もなく、灯りを消してしまったからすっかり真っ暗で、姿が認知できるくらい。
「私たちは特にお出迎えの必要もなかったがな。むしろ、居らぬほうが有難い」
 口調と似合わぬ声質。しかし鈴仙は、彼女に対する本能的な警戒を既にぴりぴりと感じている。
「そうもゆきません。レミリアさんに咲夜さんをお出迎えしないなんて、お師匠さまに怒られてしまいます」
「そのお師匠さまがいないから、お前がお出迎えなのだろう?」
 すでに向こうは、情報を手に入れているらしかった。というよりは、永琳やてゐがいないことをきちんと把握して、こうして攻撃しに来たらしい。
「ええ。どうにも力不足のようで申し訳ありません」
「いやいや、私は歓迎だよ。あの月人よりは、お前の方がずっとやりやすそうだ」
 暗がり故に向こうの表情はわからない。さきから一言も話さぬ従者と合わせて、やりにくいこと極まりない。
「それで、こんな夜分にこの永遠亭へどんな御用でしょうか? ちゃんと呼んで頂ければ往診に行きますし、そうでなくても玄関で取り次いでくれれば、きちんとご案内しましたのに」
 既に彼の二人は、兎たちを相当数害している。しかし、それで怒りに震えてしまっては本末転倒。ここでの目的は、まず時間稼ぎなのだ。いつ永琳が帰ってくるかはわからないが、それまでここを守り切れば勝利。もし守り切れなければ、敗北である。
「案内してもらいたくなかったからな」
「それは、残念です。紅魔館の方々というのであれば、殊更歓迎しましたのに」
「なんだ、美味い食事をたらふく食わせてくれるというでもいうのか?」
 口調が少しきつくなった。本題に触れたようだ。
「ええ。紅魔館の方々を追い出す道理は、私には全くありません」
「我々紅魔館を幻想郷から逐おうとしているのは、永遠亭だろう?」
「私たちには、そんなつもりは全くありません」
「ならばどうして、我々は日々の食料にも困り、永遠亭はたらふく食っている?」
「それは……」
 鈴仙は返答に困る。永遠亭は普段通りの生活を行うため、最低限のことしか行っていないつもりである。しかしその結果として紅魔館が割を食っている面は、決して否定できないのだ。
「それでなお、敵対するつもりがないと断言できるのか?」
「いえ、今の状態では敵対していない、とはいえません」
 だからこの状況にあるのだろう。まさか永遠亭へ直接攻撃を仕掛けてくるとは、誰も思っていなかったのだが。
「ですが、それほど深刻な敵対関係ではない、と思っています」
「ほう?」
「確かに今は、何かと対立する関係になってしまいました。けれども、私はそれも遠からず解決すると思っています」
「随分とお前暢気なのだな、それでも本当に、元軍人か?」
「ここは、幻想郷です。殺し合いなんて、似合いません」
「そうか? ここは人間に妖怪に神祇の犇めく郷。殺し合いにはぴったりではないか」
 その言葉が、鈴仙には不思議と全く実感をこもって感じられなかった。それはレミリアの言い方の問題なのか、鈴仙の幻想郷認識の問題なのか、わからない。
「ですが、これまではスペカを用いて殺し合いなんてせずに解決できていました」
「所詮遊びでしかなかっただろう、あれは」
「遊びといいながら、あれできちんと異変が解決できていたのです。妖怪同士のもめごとどころか、神社の引っ越しや地底の地上侵略計画まで、スペカによって解決されているのですよ」
「……その異変自体が、全て遊びだったとは思わないのか」
「実際、それに伴う殺し合いがなかったのですから。私たち永遠亭だって、スペカで負けたあとは受け入れてもらえました。それが、この幻想郷なのですよ」
 少し二人の波動が揺れた。おそらく、怒りに表情をゆがめているのだろう。暗くて表情が見えぬのは、鈴仙にとって恐らく幸運だ。レミリアの怒りを全てぶつけられずにすむのだから。
「それで、何が言いたい」
 声が幾分か低音だった。
「貴女方ならば退いて頂ける、と思っているのです。幻想郷の住人が、先に述べたような善い慣習を打ち破ることは、ないだろう、と」
 刹那、波動の激化を読み取る。咄嗟に鈴仙が右へ飛ぶと、鈴仙の影の居た場所が抉り取られた。
「今更そのような戯言を言うか? まだ戯言を続けるつもりか?」
 いきなりの激情。レミリアの噴き出す覇気は、鈴仙を壁に押さえつけんとする。心の底が、さっさと逃げろ、と叫んでいた。
「この決断に踏み入らせたのはお前らだ! そのお前が、知った口を聞くではないっ!」
 会話のお遊びはここまでらしかった。
「許すまじッ! 永遠亭の者ども、一人一匹残らず我が故郷へと叩きこんでくれよう!」
 月が、唐突に場を照らす。レミリアの青白い髪が、風に吹かれて軽やかに波打っている。その真紅の瞳は炯々として鈴仙を捉え、辺りの場がその強大な力に歪んでいるように思えた。先から微動だにせず、隣ですらりと立っている咲夜が、月の蒼い光にこれまた映えていた。

 しかし見とれる暇はない。次の瞬間には鈴仙の目の前に咲夜が飛びこむ。本当の意味での瞬間移動。そしてそのままナイフで以て鈴仙の胸を突き刺すと、抵抗なく腕ごと貫通した。
「ちっ、分身か!」
 咲夜の姿を見やるレミリアが、力任せに妖弾を全周に振りまく。否、"全周と思う方向"に振り撒く。鈴仙は悠々とそれを避けた。
「月の兎の罠で遊びましょう」
 ライフルを構えて、鈴仙は咲夜を狙い弾を放った。このライフルは妖力を弾にするので弾幕ごっこと一見変わらないが、増幅してくれるのでこれがあった方がずっとうまく戦える。弾を見た咲夜は咄嗟に右へと避け、"右腕"に弾を受ける。
「一体これは」
「どこに、戦いながらネタばらしをする馬鹿がいますか?」
 もはや戦闘は始まっている。向こうが引くつもりがないと言うなら、どうしようもない。あとはできるだけ戦闘を引きのばすだけだ。
 出来ればさっさと逃げ出したい、という感情を鈴仙は否定することができない。自分の奥底から、逃げてしまえという言葉が聞こえてくる。吸血鬼を相手にするには、玉兎の鈴仙には荷が重すぎるし、まして時間を止められる従者までいるとなれば、勝ち切るのは難しい。だが、逃げるわけにはいかないのだ。自分の肩には永遠亭が掛かっている。なんとしてでも守らなければならない。
 鈴仙は咲夜の一瞬の隙も見逃さない。咲夜の脇腹に思い切り蹴りを叩きこむ。流石、吸血鬼の従者だけあってそれにも反応したが、わざわざ近寄ってきては詮無いこと。鈴仙の渾身の蹴りを派手に喰らって遥か向こう、建物の柱に激突した。その時宜を逃さずに鈴仙へ妖弾を打ち込んだレミリアも流石だが、やはり見当違いの方向へ飛んで消えた。
 既に、この場ではまともな感覚を行うことができないはず。彼女らには、恐らく真っ直ぐなものが曲がって飛んで行き、曲がっているものが真っ直ぐ見えるだろう。時間の流れ方さえ不安定。音も光も空間も、全てがねじ曲がったこの空間では、何も信用できないはずだ。いくら鈴仙にも荷の重すぎる術だが、薬があればどうにかなる。
 妖弾を絨毯爆撃のようにばら撒いている"つもり"のレミリアの背後から、ありったけの弾を撃ち込む。月のライフルによって数倍に増幅された弾は、たちまちレミリアの羽を木端微塵に打ち砕き、レミリアを地面に叩きつけた。
 さらに咲夜の感覚を少しずらしてやる。ちょうど復帰してナイフを大量に射出しているところで、その狙いは正確。獲物を逃さぬよう、全て計算されている辺りに、鈴仙は改めて咲夜の戦闘能力の高さを思い知る。そのナイフの先にいるのは、全て飛び上がったばかりのレミリアなのであるが。
 流石にそのナイフには勘付いたのか、レミリアはそれを薙ぎ払う。しかし全てを叩くことはできず、左の腕に何本かを受けていた。間髪いれず、鈴仙は再び弾をレミリアの正面から叩きこみ、またレミリアに土を噛ませた。
 幸先はいい。完全に情報に惑わされている。というより、それが限界だろう。人間の五感はおろか、妖怪だろうが神だろうが、感知できるものがすべて残らずかき回されているのだ。そんな状況でまともに攻撃を当てることは、なかなかできないはず。
「お嬢さま、失礼いたしました」
「この状況ではやむを得ないだろう。私に攻撃することに構わず、攻撃し続けろ」
 一瞬のうちに大量のナイフが出現するのは、それだけで震撼ものだ。以前にスペカ決闘した時ですら、恐ろしくて仕方ない代物だった。しかしそれがこのように本気で使われると、恐ろしさは一層に増す。咲夜はきっとメイドが本業ではないのだろう、と思わせるほど。緻密に配置されたナイフ群は、中央に居る人間の脱出を決して許さない。時間が動き始めたと同時に、獲物の死が決定するような、そんな投げ方をするのだ。
「御意」
 だからこそ、空間を狂わせ続けるのは必須だ。まともにその攻撃に狙われたら、その時点で死が確定するからだ。捉われぬようにすることが、唯一の回避策。ざっとナイフが並べられた直後に、鈴仙はその真後ろから近づいて咲夜に弾をありったけ打ち込む。全て致命傷を狙ったはずなのに、なぜか上手く躱される。ただ唯一、彼女の本能的な"勘"なるものだけは、もしかすると狂わせられないのかもしれない。
 しかしそうやって上に避けた咲夜は、直後に360度を弾に囲まれ、左肩に被弾して撃ち落とされた。回りの建物に籠っている兎たちだ。狂った空間なのはこの中庭だけ。その外にいる兎たちは大丈夫なのだ。
「咲夜、大丈夫か?!」
 気遣うレミリアにまた特大の弾をお見舞いしてやる。それは見事に上半身を撃ち抜き、四散させた。しかし打ち抜いた端から再生してゆくのだから、性質が悪い。吸血鬼の力の一つには、そういった回復の早さがある。
 ぴしり、と一瞬、頭に痛みが走る。早くも、脳が悲鳴を上げているようだ。
「大丈夫です。お嬢さまは?」
 咲夜の方は、すでにあちこちが紅く滲んでいる。しかしその紅く染まる瞳からは、全く闘志が消えていない。むしろいくらか傷ついてますますその紅が色濃くなっているように思える。
「上半身吹き飛ばされた程度だからな。大したことはない」
 レミリアは顔に付いた血を拭いながら、嗤う。まるで全てを茶番だと、嗤っているようだ。
「それで、どう致しましょうか?」
「このような大規模な術が永劫続くわけはない。あの兎は相当無理をして、この術を用いているはずだ。じきにボロが出る」
「しかし、あまり手こずると八意永琳が帰ってくる可能性が高まりますが」
「ある程度は、魔理沙が足止めをしてくれると思うが」
 魔理沙が向こうにいる、というのは恐らく図書館の魔女の繋がりなのだろう。永琳が魔理沙に足止めを食うとは、鈴仙は思いたくなかった。
「さて、もう少し話そうではないか」
 にやり、とレミリアが嗤う。血に濡れてますます、無邪気に嗤った。
「なんでしょうか。平穏無事にお帰りになりますか?」
「残念ながら、吸血鬼というのは執着が深い物でな。一度狙った獲物は逃さない」
「この幻想郷には、あまりそぐわぬ言葉ですね」
 鈴仙の言葉に一瞬だけ、レミリアの瞳が一層紅く輝いたように思える。
「だが一つ、お前が死なずに済む方法がある」
「お師匠さまが帰ってくれば、貴女方に勝ち目はありませんよ」
「その前に、お前は我らに狩られるがな」
 再び、じり、と脳の奥が痛む。少し脳が壊れているような、そんな気がした。
「それでだ、お前、我が眷属になるつもりはないか?」
「紅魔館に下れ、ということですか?」
「ああ、そうだ。お前の力は、私も認めているし咲夜も認めている。我々に下れば、決して安い扱いはしないぞ」
 鈴仙には、本気か嘘か、取りかねる言葉。自分が引き抜きを受ける、ということが想定の外だったからだ。力を認められる感覚が、鈴仙にはわからない。
「生活はお前の思うままにさせてやる。欲しい物はいくらでもくれてやる。どうだ。ここで命を失うことに比べたら、ずっとよいと思うが?」
 だが、鈴仙は静かに首を振る。
「お前は死が、恐ろしくないのか」
 レミリアの言葉に、鈴仙は黙り込んだ。今の状況が恐ろしくないはずがない。今だって、心の底があまりの恐ろしさに軋みを上げている。この瞬間にだって逃げ出したかった。脚も手も震えないようにするのが必至だ。術を掛ける以前に、精神統一をしなければならないほどだ。たぶん、この永遠亭のどの兎よりも恐れている。
「恐ろしいのだろう。それで当然だ。恐ろしくないのであれば、それは異常でしかない」
「何が言いたいの」
 鈴仙はレミリアを強く睨みつける。その、狂気の紅色に染まる瞳で。
「恐ろしいなら、逃げて当然だ。我々はそれを、全く軽蔑しないぞ」
 逃げて当然。そう。逃げて当然だ。だから、逃げた。月から、鈴仙は逃げた。仲間を全部置いて逃げた。ショウカさえ置き去りにして、一羽逃げて来た。それを軽蔑"しない"とは、随分と酷い。
 違うのだ、逃げた奴は軽蔑されるべきなのだ。ああ、確かに恐れを感じない奴は異常かもしれない。でもそれで全てを捨てていいわけではない。自分を大切にしてくれた兎も、穏やかな生活も。それを守る義務にありながら、期待されながら、全部捨てた。そんなことが、許されるはずなんて、ないのだ。許されては、いけない。
「軽蔑しない?」
 自然と、鈴仙は声が低くなっていた。
「馬鹿どもが。私は決して、下ったりしない!」
 もう、捨てたりはしない。できない。てゐも姫さまも兎たちも、韶霞も、お師匠さまも。そして永遠亭での暖かい生活も。何一つとして、鈴仙は捨てられない。捨てない。
「悪魔ども、さっさと私の楽園から立ち去れ!」
「馬鹿はどちらか、自らの決定を、後悔するがよいさ」
 鈴仙の啖呵を、レミリアは笑い捨てた。しかしそれには幾分の寂しさが含まれていたといって、嘘ではないかもしれない。鈴仙は、そんな気がした。
 鈴仙が動き出すと同時に、咲夜が弾を撃つ。ざらりと全周に撃ったらしい。それは次々と地面に着弾し、発火した。む、と鈴仙は顔を顰める。いくら鈴仙でも永続して燃え続ける炎を避けることはできない。面を潰される炎は、点の弾幕に比べて鈴仙に不利だ。
 しかしそれに今更恐れる暇はない。もはや鈴仙は動くのみ。建物から狙って放たれる弾を躱す咲夜に向かって、弾を数十打ち込む。視界がぶれている上に弾道も不規則であるため、咲夜はその幾らかをまた被弾している。それにひるんだことを確認し、振り向きざまにレミリアに向かって手榴弾の一つ目を投げた。炎弾を振り撒くレミリアは、気付いたようだが遅い。僅かに爆心から離れてはいたが、まともに食らって身を散じた。
 その隙にも、咲夜はあちこちに火を放っている。復帰が速いというのもあるが、平然と主のレミリアを置き去りにして勝利の下敷きを作っているのは、流石である。完全に主の事を信用しているらしい。だがそれに共感はしない。咲夜にはここで倒れてもらわねばならないのだ。鈴仙は、今のうちとばかりに二個目の手榴弾を取り出す。もう、躊躇している場合ではない。そのピンを引きぬき、それから咲夜に向かって正確に投擲した。
 しかしそれは、咲夜を吹き飛ばすことはなかった。その勘で以てか、咲夜は一瞬でその爆風の影響の受けぬところへと逃れていたのだ。反撃のナイフは全く見当違いの方へと放たれたが、鈴仙は少し驚く。そして同時に、いよいよかと少し歎じた。おそらく彼女の勘だけではないはずだ。自分の能力が、少し弱まっているのだろう。レミリアにしても、爆心からきちんと離れられていた。
 炎は着実に辺りを照らしている。中庭に生える木々には次々と火が燃え移り、いまや防火結界を張られた建物の中くらいにしか、着地点はない。
「さあ、行くぞ」
 鈴仙は叫ぶ。その声と時を同じくして、右翼を除いて復活したレミリアが辺りにレーザーを放つ。それは鈴仙をやはり避けるように飛んだが、レーザーは維持されたまま動かされる。鈴仙はそれを避けて動きながら、弾を撃ち返してやった。幾らかレミリアには弾が当たっているが、レーザーに薙ぎ払われるものも多い。それに加えて、建物の方にも大きな被害がでる。いくらかの兎の波動が消滅した。先からちょくちょくちょっかいを出しては彼女らを攪乱していた兎たちを、排除しにかかったのだろう。
「咲夜!」
 レミリアの方も声が飛ぶ。それと共に、咲夜のナイフが展開された。鈴仙はそのナイフの群を、少しの驚きを交えて向かえる事になる。それは違うことなく、"本物の鈴仙"を向いていた。完全に罠の中に取り込まれていないのが、幸いだ。鈴仙は間一髪のところでそれを躱し、お返しの弾をお見舞いしてやる。ふと気付くとブレザーの左端が、裂けていた。一方の咲夜はまた弾を幾らか被弾している。しかしさきから、一度も致命傷になるようなところには当たらない。それどころか、掠った程度でしかないらしい。復帰もはやい。
 再び、ずず、と脳に痛みが走る。先から比べて、ひときわ大きい。脳がぎりぎりと壊れている。
 しかしそれでも余裕はある。鈴仙は一気に咲夜と距離を取りながら、レミリアに向かってまた特大の弾を放った。レーザーでも撃ち払われぬような特大のものだ。ちょうどレミリアは建物から放たれた弾に気を取られて、反応が間に合っていない。それはレミリアのいる辺りで爆散して、レーザーを一時的に消滅させる。しかしそれは一瞬で、再びレーザーが場を一気に薙ぐ。かなりの力を消費しているはずなのに、何の苦もなく撃っているのが、吸血鬼たる所以なのだろう、と思う。鈴仙の行動を着実に制限しているのもあるが、それにもまして建物を打ち壊されていることは鈴仙にとって、不利につながる。物理結界に守られた永琳の部屋を除いて、あっというまに八割方の建物が打ち崩されている。先まで頻りに弾を撃ってくれていた兎たちは、反応がほとんどない。
 再び、鈴仙の目の前にナイフが展開される。恐らく100を越えるはずだ。レーザーに上を右を囲まれ、左からナイフが飛ぶ。その連携ぶりには、鈴仙も舌を巻かざるを得ない。いくら先から頭が重く感じられるとはいえ、まだ術の効果は大きいはずなのだ。レーザーによる行動制限によって、二人は着実に鈴仙の場所を把握しつつあるのだろう。その上で、誤差は大きいとはいいながらも大まかに攻撃を同調させるのは、流石というほかなかった。鈴仙はナイフを何とかかいくぐり、レーザーの射程の上を越えた。しかし全ては避けきれない。左の脇腹を軽く切り裂かれ、スカートの左端が、裏大腿ごと地上の火炎で焦げた。その傷の痛みが、脳にひときわ響き、軋む。
「そろそろ、術も終わりか?」
 続いて、レーザーの無い方向に目がけてレミリアの妖弾が大量に押し寄せる。鈴仙は慌てて上へと逃れるしかない。そしてそこには、ナイフの網が張られている。鈴仙は一気に右に飛びそれを潜り抜けた。潜りながらも、咲夜の頭上から弾を打ち込むのは忘れない。しかし今度こそ、咲夜は綺麗に避けてみせた。
「そんな希望観測を述べたところで、その通りにはならないわよ」
 ちょっと態勢を立て直すと、意識して術を強化する。少し弱ってきていたらしかったから。その分、頭の中は沸騰しそうだ。力を使った分、体も重みを増している。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。まずは一気に弾幕を張る。弾が消えて見えるような代物だ。咲夜とレミリアと、二人とも上手く躱すこともできずに被弾して、幾分高度を落とす。鈴仙はレミリアの直上にすぐさま飛び込み、それから三つめの手榴弾を投げ込んだ。それはまさにレミリアへと直撃し、レミリアを吹き飛ばす。
 その爆風に乗せて、今度は咲夜へと弾をまた打ち込めるだけ打ち込んだ。弾のうちのいくつかは、確かに咲夜の左ふくらはぎを抉ったが、それだけだ。致命傷を与えることができない。時間を止めて避けるというのは、そういうことかもしれない。
 ずず、と一瞬背景が歪む。目にも過負荷のツケが及んでいるようだ。存外に早かったな、と思うが仕方ないだろう。薬まで飲んで、使えるだけの術を使っているのだから。
 たとえ爆弾を使って吹き飛ばしたところで、レミリアは全く動じもしない。吸血鬼は首を斬るなり心臓を穿てば死ぬというのだが、例外の部類に入るらしい。続いて打ち込まれてきたレミリアの妖弾を少し躱す。術も、先ほどかけ直した術ではあるが、もう緩んできているらしい。先から慢性的な頭痛が酷くなってきてもいるし、この術を掛け続けるには限界が近い、ということだろう。
「たった一匹の兎を屠るのにこんなに時間がかかるなんて、吸血鬼も落ちぶれたものね」
 それでも鈴仙は、笑って見せる。勝つことはできなくても、負けさえしなければいいのだから。
「せいぜい歪んだ空間に、溺れるがいいわ!」


 膠着状態は、予想以上の長期に及んだ。一撃で鈴仙を屠る力を持つレミリアであろうと、攻撃が当たらなければどうしようもない。時を止め、カウンターからの必殺を誇る咲夜であっても、相手の場所が分からなければ攻撃できない。感覚を全て狂わせ、認識を不能にする鈴仙を狩る手段を、二人は持たなかったのである。しかし鈴仙もまた、二人を斃すことはできない。故に、膠着。
「埒が開きませんね……」
「もうそろそろ、奴の術も解けるだろう」
 メイド服を血に染めた咲夜の呟きに、レミリアは答える。鈴仙がいくら攻撃をしても、咲夜が落ちることはない。流石に多くの傷を負わせ、だいぶ動きを鈍らせたとはいえるが、無力化には至らない。レミリアに至っては、まだ無傷のようだ。そして、彼女らの予測は、おおよそ間違っていない。
 鈴仙はちょっと肩を落とした咲夜に弾を打ち込む。その延長戦上には、丁度レミリアもいる。これもまた、咲夜は上手く躱しきった。いい加減そろそろ倒しておかないと、厳しいものがある。一人の相手をするのと二人の相手をするのとの大きな差を、鈴仙は良く知っている。レミリアはいくらかを真正面に受けたが、怯みもしない。
 自分の力を弾とするライフルである。弾の数が明らかに減っていた。頭も、中で銅鑼が鳴っているかのようだ。体にもだいぶ傷を負ってきていた。咲夜のナイフが避けきれなくなってきているのだ。まだ酷い傷を負っていないにせよ、あちこちが切り裂かれ、紅く滲んでいる。たぶんこのYシャツはもう使い物にならない。
 四方八方に繰り出されるレミリアのレーザーを上手く躱しつつ、反撃を撃つ。ちょっとでも鈴仙の動きが制限されるや、すかさず咲夜のナイフが展開され、鈴仙を襲う。何とか下の隙間を潜るが、右肩を裂かれた。そのまま鈴仙は咲夜の真下から弾を撃ち、今度こそ撃墜を図る。

 びしり、と頭が割れたように思えた。

 突然のことだ。鈴仙は思わず、手を止める。脳が沸騰しているような、まるで爆発してしまいそうな、そんな痛み。完全に限界だった。
 そんな痛みを感じながらも、止まる暇はない。一度着地すると、永琳の部屋の前までとりあえず退避する。咲夜の放った火が、燃えるものを全て燃やし尽くし、消え失せていたのがまだ救いである。現状のままでは、とてもじゃないが攻撃できない。それどころか冷静な判断さえ下せなさそうだった。
「お嬢さま、術が解けました!」
「流石に、勝負があったか?」
 もしここでレミリアが総攻撃を掛けてくれば、鈴仙は塵と化しただろう。が、レミリアは宙に浮かんだまま鈴仙を眺めやっている。鈴仙が見上げる形だ。
「どうだ? 降参か」
 レミリアの紅い目が、獲物を見据えている。いつしか、雲は霽れている。真丸なお月さまが、太陽の光を辺りに跳ね返している。"たまかがみ"の名も伊達ではない、と鈴仙は柄にもなく思った。
「月の兎・鈴仙よ」
 レミリアの声が、ひときわ厳かに響く。月から降ってくるようにさえ思える。その向こうから聞こえてくる轟音は、きっと紅魔館の他の者と兎たちとが、戦っている音だろう。彼女らのためにも、自分はここを守りきらなければならない、と、そう思った。彼女たちが懸命に闘っているというのに、自分が逃げることなんてできない。
「このレミリア=スカーレットをして、幾度も土を食ましめたその勇戦は、称賛に値する。まさかお前が、このような勇敢なる者とは思わなかった」
 レミリアの言葉は多分勘違いだ、と鈴仙は思う。自分は決して勇敢ではない。最初のころから足と心は、ここから逃げろと命じ続ける。鈴仙はただ、てゐや輝夜や永遠亭の兎たちや、韶霞や、永琳に見放されたくない。それだけなのだ。彼女たちの役に立ちたい、というそれだけ。
「鈴仙よ、我が紅魔館に下れ。その勇敢さに敬意を表し、我が紅魔館に迎え入れたい」
 だから敬意を向けられるべきじゃない。当然のことをしているにすぎないのだから。自分がこれまでできなかった、当然のことを。
「随分、敵に気を使うのね」
「勇敢な者に敬意を払うのは当然だろう。それに敵も味方もない」
「それじゃ、私は敬意を向けられる相手じゃないわ。勇敢じゃ、ないもの」
 鈴仙は言ってやる。だいぶ頭痛はマシになってきた。もうあそこまで大規模な術は使えないだろうが、まだ抗戦する術はある。
「ほう?」
「ごめんなさい。そこまで言って頂いて有難いけど、こんな臆病な兎に向ける言葉じゃないわ」
「私はそう思っていない」
「でも私はそう思う。そんな貴女を失望させたくないし」
 鈴仙は一度頭を下げる。
「紅魔館にはやっぱり、行けないわ」
「そうか」
 ルビーの如く、レミリアの瞳が輝く。口角は上がり、吸血鬼らしい牙がむき出しになる。とても無邪気に、笑っていた。月を背負って、笑っていた。
「咲夜、この先は手だし無用。私独りで蹴りを付ける」
「しかし、お嬢さま」
「このレミリアに刃向う勇者に対し、二人掛かりで戦えと? 私に卑怯になれというのか?」
 レミリアの声は通る。それだけに命には迫力がある。
「咲夜、まさかそのような無粋なことは言うまい?」
「……御意」
 咲夜が少し遠ざかるのを見遣って、それから鈴仙は視線をレミリアの方へと集中させる。
「さて、すぐに死ぬなよ。少しは私を、楽しませろ!」
 声と共に、レミリアの右手が私を貫く。だが、それも残像。全体に術がかけられないとは言っても、自分の認識をずらすことくらいなら、まだできる。
「甘いっ!」
 だが、想像以上にその動きが速い。次の瞬間には私の胸を目がけて左手が繰り出される。とっさに左へ飛んだが、右肩を抉られた。血飛沫が飛ぶ。さらに飛びこんで追撃を加えるレミリアを躱しきれず、今度は右脇の下を持って行かれる。鈴仙には動きが速すぎて追えない。一瞬姿を消し、それからなんとか距離をとる。
 右の腕の辺りから血が滴っている。今の一瞬で傷を二か所も貰ってしまったのは、苦しい。吸血鬼の身体能力の高さを舐めていたらしい。その二か所からじんじんと激痛が脳へと送りこまれる。波長を弄って、無理矢理それを止めた。神経回路の波長を逆位相で消し飛ばせばいいだけだ。
 続いて飛び込んでくるレミリアを、ライフルの弾で阻止する。それをも意に介さず突入してきたレミリアだったが、さしもの誘爆弾には足が止まるらしい。止まったところに、特大の炸裂弾をお見舞いしてやる。派手に炸裂し、レミリアの右半身を吹き飛ばした。ところがすぐに蝙蝠が集まってくる。そうやって体を復元しながら、既に左手で以て一人目の鈴仙を打ち砕き、直後には二人目の鈴仙の頭をぶち抜く。復元されたばかりの右手が鈴仙の目前に迫り、鈴仙はそれを受け流しながらライフルの弾を至近距離からお見舞いする。しかしその前にライフルが叩き落とされ、続いて右足が鈴仙の胸を狙う。ギリギリ左腕で受け身を取ったが、そのまま鈴仙は吹き飛んで永琳の部屋の戸に激突した。結界が少し軋む音がして、それ以上に鈴仙の体が悲鳴を上げる。左腕はもう使い物にならない。内臓も傷付いたようで、咳をすると手が紅く染まる。だが痛みがなければ、問題はない。
 止まっている暇はない。レミリアの動きはとにかく速い。咄嗟にレミリアの方向感覚をずらしてやると、鈴仙のすぐ右へ渾身のストレートが打ち込まれ、結界にヒビがはいる。その隙に鈴仙は一気に動いて離れながら、腰の拳銃を使って弾を撃つ。先のライフルに比べればかなり性能は落ちるが、ないよりマシだ。鈴仙目がけて進むレミリアの目に向かって弾は撃ちこまれ、ほんの僅かに突き出す右腕の軌道をずらした。それでも鈴仙は左太腿をざっくり削り取られ、血の花を咲かせる。すこし前のめりになったレミリアの後頭部に二発目を叩きこみながら飛びあがり、さらに振り返ろうとするレミリアの顔に二発を撃つ。しかし弾は一発しか出なかった。ついに、妖力も切れて来たようだ。
 レミリアは下から飛びあがらず、代わってレーザーを放つ。そこにある全てのものを薙ぎ払わんばかりの紅い光は、鈴仙の幻影二人を飲み込み、さらに幻影一人の半身を消滅させ、鈴仙の左耳を持って行く。痛みは全部止めているために感じないが、これは鈴仙にとって拙い。耳こそが波長の受信発信の要である。ただでさえ出力が下がっているというのに、それを半分にされたのだ。
 だからといってここで折れるわけにはいかないのだ。この永遠亭への恩返しのためにも、負けてはならない。鈴仙はレーザーを終息させつつあるレミリア目がけてさらに弾を撃ちこむ。それを難なく躱したレミリアは再び鈴仙に迫った。しかしその鈴仙も偽物。本物の鈴仙は、レミリアが右手を撃ち抜いた瞬間を狙って、上から特大の弾を一発撃ちこむ。流石に躱す余裕も無かったようで、その炸裂もあってレミリアは地面に叩きつけられる。
「喰らえッ!」
 思わず鈴仙は叫ぶ。叫びながら同時に数多くの弾を撃ちだす。その椎の実型の弾頭は、レミリアに復帰させる暇さえ与えず、雨のように降り注いで次々と炸裂した。それはまるで、中庭の地面そのものが爆発しているかのよう。中庭はたちまち火炎と砂嵐とに覆い尽くされた。
 鈴仙の脳が軋んで、全身に痛みが戻る。とりわけ左耳と左太腿、右脇からの痛みは、それだけで意識を失いそうになるほどの激痛だった。もう、痛覚を止められるだけの体力も残っていないらしい。
 それでも鈴仙は、なんとか体を支える。目も霞みつつある。だがそれでもなお、力を振り絞って弾を更に撃ちこんだ。そこにいる影に向かって。力の限り。
「フィナーレかしらね」
 それでも、レミリアはそこに立っている。時間でも止めて瞬間移動したかのように、次の瞬間には鈴仙の目の前に居て、それから右腕で頭を掴まれ、投げ飛ばされた。また永琳の部屋の前に叩きつけられる。肋骨は先から何本も折れているらしい。もう全身が、動くなと叫んでいる。
「最後の通告よ」
 鈴仙は、それでも立ちあがる。背中を扉に預け、全身の痛みをも物ともせず、立ちあがった。目の霞みは酷くなっているが、それでもレミリアを睨みつけている。
「紅魔館に下りなさい。ここまで戦ったのだ、誰も貴女の事を責めたりはしない」
 鈴仙は答えない。否、答えられないというのが近いかも知れない。全身の痛みが、鈴仙の脳を突き刺し続ける。寝てしまえ、と命じている。
「貴女なら、紅魔館の客人に迎えたっていいわ。どう、破格の条件よ?」
「……下れません」
 荒い息の元、激痛の元、しかし鈴仙は答えた。その真紅の瞳だけは、力を失わない。
「私は、永遠亭の、兎なのです。お師匠さまの、弟子、なのです」
 すでに鈴仙の体の内、無事なところは残っていない。紺色だったブラザーは、もうほとんど黒く染まり、ずっしりと重さを示している。白い靴下も紅く、素肌には血が河の如く流れている。扉を背にしたその姿は、もはや立つことさえ苦しいことを示している。それでもなお、ただ瞳だけが、透徹した視線をレミリアに向けていた。
「だが、その"お師匠さま"とやらは、この期に及んでも迎えに来ぬが?」
「だから、私がここを、守らな、ければ……」
「諦めろ。お前だって良くやった。吸血鬼相手にそこまで善戦した者は、他に知らぬぞ」
 レミリアは、無表情だった。
「下れ」
「……下れませんッ!」
 鈴仙は叫んだ。渾身の力を使って、振り絞って、叫んだ。
 自分を救ってくれた永遠亭を、自分をこうして生かしてくれた永遠亭を、捨てることなんてとてもできない。自分は既に一度、月を捨てた。仲間を捨てた。救ってくれた、全てを見捨てて来たのだ。
「私は、永遠亭の兎だ」
 二度目があろうか。自分を立ち直らせてくれた永遠亭を、今度は永遠亭を捨てることができるか。碌な恩返しもせずに、捨てるというのか。
「この永遠亭の、兎だ!」
 否だ。できるはずはない。今度はもう、誰ひとりとして見捨てることはできない。見捨てては、ならない。自分は、もう、道から外れない。少しは人に誇れる道を、まっすぐ目指すのだ!
「悪魔よ退け! お前は私を躓かせんとしているだけだ!」
 その鈴仙の言葉は、とても満身創痍の彼女の声とは思えぬほど、透き通っていた。まるで、月の光のようだった。
「そう。本当に、残念だわ」
 もう鈴仙には、レミリアの表情はわからない。レミリアが右手に極光を集め、逆光になったからだ。その光の正体がなにか、思考能力を欠く鈴仙にだってわかる。グングニルの槍。レミリアのスペカでも強力を誇るが、本来の威力はそんなものではないだろう。避けるだけの力は、鈴仙には残っていない。
「それでは、月の兎よ、さようなら」
 妙に感傷じみた声とともに、それは発動する。すぐに鈴仙の目の前が紅々とした光に染められる。とても眩しい光。全てを焼き尽くすような、そんな。
 体は動かない。ちょっと、もう手がないようだった。でも、永遠亭を捨てなかったことは、嬉しい。これで、ほんの少しは、恩返しにでもなったのだろうか。自分は、道を外れずに済んだだろうか。
 鈴仙は笑った。それが、誰の目にも映らないことはわかる。でも、笑いたかった。笑って、永遠亭の皆に感謝をしたい。そう思った。姫さま、てゐ、韶霞、永遠亭の兎たち、そして、お師匠さま。どうも、ありがとうございました。こんな駄兎を構ってくれて、ありがとうございました。おかげで、道を外れないで済みそうです。

 しかし、永遠亭の一員として貢献できただろうか。自分はきちんと、永遠亭の一員としての役割を、果たしただろうか――。


 そこで鈴仙の意識は、光に呑まれる。
 最後の最後に、ショウカの顔が浮かんだ気がした。

 表情を伺うことは、できなかった。







 その月兎(鈴仙=優曇華院=イナバ)は逃亡兵であった。(しかしながら)私の思惑とはおおいに異なって、我々に対して頑強な抵抗を示し、満身創痍になって猶膝を屈することはなく、(我々の降伏勧告に)従うこともなかった。遂に意識を失っても、(八意永琳の)部屋――そこは永遠亭の基盤を支える(情報や器具の揃った)場所であり、だからこそ(私たちにとって)最も攻撃すべき――の扉を背にして倒れることはなかった。(鈴仙の)忠義は敵ながら称賛に値する。まさに臣の鑑と賞するべきだ。(彼女の)運命を(私が)得られなかったことは誠に残念であった。彼女を斃さずに済めばどんなによかっただろう。果たして私(の家人)には、こうして(忠を)示してくれる者がいるだろうか。
 しかし――と改めて考えたのだが、そうして(忠を)明らかにされても私は決して喜んだり、名誉に思ったりはしないだろう。家人を守るものである当主として、(家人の)死は無能を示す。(もし家人が死なんとすれば)むしろ代わって(家人から)私が死を奪ってやろう。

 ――Remilia Scarlet "Remiliae Libelli de Domu Sanguinariae Diabolae" (tr. Flandre Scarlet)
――しょうかは、褒めてくれるだろうか。










 さて、御読了誠にありがとうございました。
 ちょっと変わった形のを、こんぺということを期に試しみた。というわけで、鈴仙による回想録ということ。
 少なくとも、鈴仙についてはこのssで相当書ききった、思っている。最初から最後まで、鈴仙という一人の登場人物を掘り下げてみるのは、他ではあまりしたことがなかったし、面白かった。

 そしてよく言われる、「この話終わってないよ!」という話。その通り、終わってない。
 終わってないけれども、鈴仙にとってはすべて完結している。それを以て、話の終わりとした。
 この後の話は、いろいろ構想を抱えている。もしかしたら、書くかもしれない。
 そんなのばっかりだが、気にしちゃいけない。

 ちなみに、題名は"かがみ"に"歴史(鑑)"、"見本(鑑)"、"月(玉鏡)"、と多くの意味を含ませてみた。どのような解釈を、なさっただろうか。
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