凍蚓(とういん)、茶はいるか?」
 それは、少女にとってはあまりに衝撃的な光景。
「ほう、そうか、その茶は美味いか。これはの、若狭羽賀寺の和尚さまが特別に下さった物じゃ」
 一人の翁は、殊更変わった風は見せない。いつも通りの二人の生活をしている、そんな態度である。
「うむ、確かに美味い。凍蚓の言う通りじゃ」
 しかし、その翁の前に座っている物が、普通ではない。少女には、人間が座っているようにはとても見えない。
「流石は、羽賀寺の和尚じゃな」
 凍蚓と呼ばれる彼は、木像にしか見えなかった。それも、翁の姿を写した。
「ちょっと、あなた……」
 翁は、翁自身の木像と会話していた。






――凍蚓可鏡何如?  凍った蛙は鏡になるの?






●紫惑宗実之行而懼恐彼狂。
  ――安東太は狂ってしまった?

 伊勢朝熊と申せば、伊勢太神宮の巽の守護として知られる山。山岳信仰も相まって大きな寺院もあれば、伊勢参りの客も賑わう。その山の麓、木々に隠れるように建つ小さな庵の一つにて、少女は思わず翁に話しかけていた。
「む、おまえは?」
 その声に振り返った翁は、少女の姿を見るや目を一段と細めた。
「おお、これは久しいのぉ。懐かしや懐かしや。前に見たのはいつだったか」
「あなた、やはり……?」
 対するは、金髪紫眼の眉目秀麗な少女である。着物こそ藍色の小袖であるが、端から見れば南蛮人とも見紛うだろう。
「む? 儂が分からぬか」
 翁が笑う。その少女は、ますますに怯んだ。
「恐れること無かろうて。そもそも、そなたが話しかけて来たのであろう?」
「そうだ、けれども」
「はて、それでは忘れられてしまったかの? そなたが話しかけて来たというに」
「やはり、あなたは」
 少女の顔が、恐れに歪む。まるでその翁が妖怪だ、とでも言わんばかりの顔である。
「いかにも、儂は秋田凍蚓斎宗実。尤もそなたには、安東太郎、と名乗った方が分かりやすいだろうがな」
 その名は、少女の思う通りの名である。
「しかし紫どのよ、そなたはやはり全く、変わらぬのだな」
 少女の恐れにも構わず、太郎翁はどこまでも屈託のない笑顔を見せる。
「ええ、妖怪だから……」
 紫は、答えるだけでせいいっぱいだった。
「いつのまにやら、儂はすっかり翁になってしもうたわ」
「人間というのは、老いも速いわね」
「仕方なかろ。今や大樹の家光公も亡くなっておる。戦国の世に生きた儂が翁となるのも当然だろうて」
 それは、紫にもわかること。しかし紫が本当に言いたいのはそこではない。彼が老いてしまったのはわかるが、変化の様は、ただ老いの話だけでは説明がつかない。
「貴方、どうしてこんなところにいるのかしら?」
 紫は改めて庵の一室に座る。完全なあばら屋で、畳がささくれだっている。天井には蜘蛛の巣が張っていた。前に会った頃は、こんな状況ではなかったはずだ。
「伊勢は暖かいからのう。もう霜月というに、未だ火鉢も要らぬ。雪も降らぬし、のう、凍蚓」
 しかし宗実はそれに気にする風も無い。茶碗を二つ持ち、一つを紫に差しだす。もう一つは木像の前に置き、それからもう一度自分の茶碗を取って、座る。
「暖かいからここに来たわけでもないでしょうに」
「このようなあばら屋も、大層風情があってよかろう? おそらく鴨長明もこのようなあばら屋で、『方丈記』を書いたのであろうな」
 からから、と宗実は笑っている。
「あなた、鴨長明にでも憧れたのかしら?」
「紫どの、そなた長明と会った事があるのではないか?」
「会った事はないわ。そんな有名人ではないもの」
「『方丈記』の中に記されておる天災は、どれもこれも酷いものばかり。源平の争乱に神が御怒りにでもなられてたのか」
「人間の所業程度で、怒るほど神は人間の事見てないわよ」
 会話が、通じていない。紫の話を全く聞いていないよう。これ以上にやりにくいことはない。
「なあ、凍蚓。そなたはどう思う?」
 それどころか、宗実は木像となら会話できているようだった。なにも、その木像が九十九神なわけではない。おそらくそう古いものではないだろう。
「ふむ、やはりそなたも源平の争乱に神が怒ったと思うか。人が争乱しておって、神が良く思うはずがないからのう」
「凍蚓って、あなたね……」
 しかもその木像に向かって呼びかける"凍蚓"という名前。先に宗実は、"凍蚓斎宗実"と名乗ったではないか。凍蚓とは、彼自身の名前だ。
「鴨長明といえば、賀茂の禰宜。怒りを収めることは、できなかったのかのう」
「……禰宜になれなかったから、庵に引き込もったのでしょう?」
「世とは難儀なものじゃ。神が怒っても、人は変わらぬのだからな」
 駄目だった。完全に駄目だ。この宗実という翁とは、話ができない。最初の二・三言こそ通じたけれども、やはり狂っているのだろう。そうとしか思えない。
「あなた、完全に狂っちゃったのね」
「ふむ、どこが狂っておる?」
 だが、そういう言葉に限って彼は返してくる。
「一つも、聞いていなかったでしょう?」
「果たして、狂ったとは一体どのようなことを指すのじゃ?」
 質問が、質問で返ってくる。
「妖怪の私にそれを聞くかしら?」
「人に狂ったなぞという奴は、そもそも本人が狂っておる証拠よ」
「……否定できないわ」
「凍蚓もそう思うだろう? やはりそうか。そうよな」
 紫は、口をつぐむしかない。宗実の余りの悲惨さに、紫は頭が殆ど真っ白だった。
「紫どの、凍蚓も儂は狂ってない、と申しておるぞ」
「凍蚓、ってそれ」
「む? 凍蚓に何かあるのか?」
「それは」
 木像、という言葉が、何故か出ない。いや、出せなかった。宗実は、凍蚓を"いる者"として扱っている。この一人の弱々しい老人がそう信じているのに、わざわざ破壊しにいく行為を紫は、できなかったのだ。
「いえ、なんでもないわ」
「そうか。凍蚓も宜しく頼む、といっておるぞ」
 皺の多い顔に、さらにたくさんの皺を刻んで、宗実が笑う。少しも邪気を感じられない、本当に純粋な笑顔。そんな笑顔に、紫の瞳からは涙がこぼれた。哀れという感情とも違う。その笑顔が、とても悲しいものに感じたし、同時になにか恐ろしかった。
「そう、私からも、よろしくと、伝えてくれるかしら?」
 無理矢理に紫は笑う。
「それでは、私はこのあたりで」
 紫は、その場にいることが嫌だった。宗実のこんな姿を見たくなかった。
「そう言わず、ゆっくりしてゆけ」
 しかしそれすらも、許してはくれない。
「そうじゃ、紫どの。最近の、我が家の系図を作っておっての。ちょっと待て」
 彼は素早く立ち上がると、そのままそそくさと中へ入っていく。その動きは、ちょっと翁離れしている気もする。しかし戦国の雄であった彼からすれば、当然かもしれない、とも紫は思った。
「おお、あった、これじゃこれじゃ」
 すぐさま彼は戻ってくる。手に持つのは、丁度抱えられるくらいの行李である。
「この行李の中身はともかく、問題はこれじゃ」
 続いて、腰から一本の巻き物を取り出す。その顔は、とっておきのおもちゃを持ってきた子供そのもの。その無邪気さが、紫には解せないし、不可解な懼れを齎していた。
「これ、系図じゃ。どうよ?」
 宗実は床に座ると、紫の目の前でその巻き物を一気に開いた。一番巻頭には"安日王"と書かれ、そこから連綿として当主の名前が書かれている。
「確かに、貴方の家の系図ね……」
 しかし、紫の知っている実際の系譜とは、違う気がする。さらりと眺めただけだが、あまり正しくは見えなかった。
「貴方が作っているのかしら? この系図は?」
「確かに儂が作っておる。どうだ、安日王から連なる名家であることが、一目でわかるだろう?」
「まあ、そうだけれども……」
 紫は安日王という名前を聞いたことがない。その兄である長髄彦ならともかく。
「残念ながら、今では殆ど資料がなくてな。途中どうしても抜けてしまうのだがな」
 そう言いながらも、宗実の表情は嬉しそうである。
「貴方、ねぇ」
「だがこれを一目見れば、我が祖たちが、如何にして活躍したかも一目瞭然。どうじゃ、凄かろ?」
「……」
 その系図の人物のところには、一つ一つ丁寧に注が入れてある。おそらくそれも宗実が自分で書いたのだろう。
「改めて見直してみると壮観じゃのう。やはり我が家はただの家ではない」
「だって、そのために貴方は努力を重ねていたのではないの?」
「誠に、滅んでしまったのが残念でならん」
「今、なんて?」
 思わず紫は、その扇子を宗実の眉間に突き付ける。その言葉は、聞き捨てならない。
「む? 滅んでしまって残念だ、と申したのだぞ?」
 見かけの歳の割に耳が遠いのだな、とでも言いたげな顔である。しかし、そんなことは紫にとっては関係ない。
「貴方がいるのに、家が滅んだですって?!」
「儂がおっても、滅んだものは滅んでおる」
 別に紫を試している風でもない。むしろ、紫がおかしなことを言う、と、そんな表情だった。
「我が安東の家はもうないぞ。儂は、秋田実季であるからな」
「ないって、なによりも大切に――」
「はて、何のことかな。安東なぞ、もう忘れてしもたわ」
 宗実は紫の言葉をさえぎるように嗤う。紫はそのおぞましさに、ぞっとした。
「貴方、本当に、あの安東太郎かしら?」
 その言葉に、にやり、と宗実は笑う。
「はて、どうかな」




●紫知為自鏡者於羽州能代。
  ――日ノ本将軍に会ってみた。

 十重二十重に包囲する軍勢が、その場所からは良く眺められた。様々な旗が、北国の短い夏の緑を白く染め変えている。
「これまた、大層な眺めね」
 その場に立っているのは、少年がただ一人。そしてその隣には、上半身だけ浮かべた金髪の少女がいる。
「またあんたか。懲りないな」
「貴方こそ、よくもまあ妖怪とこうも平気で話しているわね」
 扇子を彼に突き付けて、紫は笑う。
「我が安東家には、金髪紫瞳の妖怪は守り神故、疎略な扱いをするな、という口伝があるからな」
「そりゃ、有難いことね。でも、本当かどうかわからないわよ」
「本当じゃなきゃ、父上があんたを殺してるだろ」
 少年は紫を睨みつける。
「あら、人間に殺されるわけないじゃない。私は妖怪よ?」
「なら、俺はこう生きちゃいないさ」
 ああ、と半ば呆れた表情で、彼は紫の方から視線を離す。その先はやはり、この城を包囲する敵方であった。
「どう、従弟は憎いかしら?」
 再び苦渋の色を見せる彼の横顔に、紫は問う。その顔は少年にはあまり相応しからぬ表情に、紫は思えた。
通季(みちすえ)は安東の家を滅ぼさんとしているからな。憎くないはずがない」
「あら、貴方が死んでも、従弟が継げば安東の家は、持つのではなくて?」
「あの敵方の中に、通季の軍勢がどの程度いると思う? それより、便乗した戸沢・小野寺・南部の軍勢が遥かに多い。このままこの城が落城すれば、連中は通季を殺して安東領を分割しにかかるだろうな」
 紫に、少年は返す。紫もまったく同じことを、考えていた。
「だから、"安東太郎"実季の名に懸けて、この檜山の城は守りきらなければならない」

 天正十七年も水無月末にさしかかっていた。とうに西日本の争乱は完全に収まったと聞く。しかし出羽も北端である能代平野は、まだまだ戦から解放されそうになかった。
 去る天正十五年、出羽北部に覇を唱えた安東愛季(なるすえ)が亡くなった。跡を継ぐ実季は、未だ十三歳の少年。少年の当主に不安を覚える者は、少なくない。そして案の定、その不安・不満を背景にして、実季の従弟である湊通季が反乱を起こした。これには周辺豪族も呼応して忽ち大勢力となり、実季は居城の檜山城へと押し込まれたのである。以来、断続的に檜山城の籠城戦は続いていた。

「守りきる、なんて面白いことを言うのね、貴方は」
「面白いか?」
「ええ、面白いわ。だって、この戦に勝てると思ってるのだから」
 紫は扇子を広げて、口元を隠した。
「貴方、彼我の戦力差を、考えてる?」
「勿論」
「じゃあ、言ってみなさいよ」
 紫は目を細める。対して太郎は黙り込んだままだ。不服そうなまま唇をぐっと引き結んでいる。
「無理も無いわね。相手は、こちらの十倍よ。その状況で、一体どうやって勝つのかしら?」
「この城は、堅い城だ。当分落ちることはない」
「でもそれだけで、勝てるわけもないわよね」
「こちらに味方してくれる者たちも少なからぬいるはず。現に、味方しようと言ってくれる者もいる。彼らを従えれば、そう負けることもないはずだ」
「あら、それじゃあなんで貴方はこんなところに押し込まれたままになってるのかしら?」
 太郎は再び口を閉じた。言うべき言葉を持たなくなったようだ。
「ほら、貴方は何も考えていないじゃない。大将がその様で、本当に勝てるのかしら」
「勝てる」
 それでもなお、太郎は断言する。
「なぜそう言えるのかしら」
「勝たなければいけないからだ。だから、勝てる」
「意味がわからないわね」
 紫は再び扇子を閉じると、それを彼の眼前に突き付けた。
「勝たなければ、と言いながら負けていった者たちが、この世に一体何人いると思ってるの?」
「さあ、知らぬ。そのような者はどうでもいいからな」
「貴方もその仲間入りしようとしているのに?」
「俺はそうならないぞ」
「あら、そういう方向に邁進しているようにしか、見えないけれど」
「それは、紫どのの目が蒙いだけだ」
 少年は眉間に突き付けられた扇子も気にせずに、言いきって見せた。その顔は自信に充ち溢れている。紫の問いに対して何一つ碌に答えられなかったというのに、大した度胸である。
「随分と、自信があるのね」
「当たり前だ。負けるはずがないのだからな」
 しかしその自信は、紫にとってもそれほど気分の悪いものではない。少年らしいすがすがしさを、紫は彼の自信に感じ取っていた。
「わかったわかった。つまり、貴方は何があっても勝つ、と」
「ああ、そうだ」
「でも、どうしてそこまでして勝たなければならないの?」
 紫は改めて姿勢を正し、問いなおす。
「別に全てに勝たなくても、よいじゃない?」
 紫だってそうは思っていない。これまで紫は勝ち続けてきて、今ここにいる。実力とは何に於いても大切だ、ということを紫は知っている。そして勝ち続けねばならぬ、ということも。
「いや、勝たねばならない」
 そして紫の思いと同じようなことを、太郎は述べた。
「俺を慕ってくれる者たちのためにも、自分のためにも、勝たねばならないのだ」
「随分と、"らしい"ことを言うのね」
「なんだ、文句あるのか?」
「余りにも模範解答に過ぎないかしら? 家来を守るために勝たなきゃならない、なんてね」
「安東の当主であるからには、当然だ」
 半ば、からかいの表情を見せた紫を、太郎は睨みつける。全然怖くはない。
「この安東の家がどういう家か、紫どのなら知っているだろう?」
「ええ、確かに知っているわ。旧い付き合いだもの」
「我が安東は、得宗の昔より蝦夷の管領を任せられていた家だ。つまりは、この北奥羽の全権は我らが握っている」
「その割には、この羽州河北郡さえも抑えられていないようだけれどね」
 紫の皮肉に、太郎は拳を握り締める。
「今の状況がどうであれ、我らの務めはこの北奥羽、さらには蝦夷ヶ島の鎮撫を行うことにほかならぬ」
「十倍の敵に囲まれて、城が将に落ちようとしている時でも?」
「その通りだ。我々には、北奥羽の武士を皆従え、その争いを収めるという務めがある」
 太郎はそのまま、殆ど叫ぶように言い放つ。
「"日ノ本将軍"の称号は、そういう意味だ!」

 安東氏はかつて、津軽に拠点を置いて大繁栄を極めた。津軽から蝦夷ヶ島・千島・カムチャトカ半島・樺太・アムール河口域に至る北方交易を一手に握り、また津軽から酒田・直江津・放生津・輪島・三国・敦賀・小浜と京へ繋がる日本海交易も握っていたからである。安東氏は、鎌倉幕府より"蝦夷管領代官"としてそれを許されていた。そして室町時代には、"日ノ本将軍"を名乗り、覇を唱えた。
 尤も、そんな時代はとうの昔であるが。

「全く、何時の話よ、日ノ本将軍を名乗っていたのは」
「今でもこの安東の家は、日ノ本将軍の家だ」
 紫が少々呆れると、太郎は喰ってかかった。
「確かに、古い称号かもしれぬ。蝦夷管領代官なんて、もっと古い」
 太郎の声は、低いながらもぶれている。
「しかし、それはこの安東の家にとってかけがえのないものだ」
「そんな古いものが、大切だと、そう言うのかしら?」
「他の誰もが、いらぬというかもしれぬ。しかし、蝦夷管領代であり、日ノ本将軍であったことは、この安東にとってかけがえのない宝なのだ」
 太郎は、紫を強く睨みつけた。
「だからこそ、我々は勝たねばならない。その名前こそ、われわれ安東が守らねばならないものだからだ」
「へえ」
 紫は少し首を傾げて見せる。わからないようで、わからない話だった。相変わらず、人間というものは妙な称号に力があると信じているらしい。言霊というものがあるにしたって、本当にそこまでの力があるかと言えば、とても疑わしいというのに。
 でも、なんとなく、わからないこともない。それは自分の抱えた人間らしさなる物のせいなのか、それとも紫も"妖怪の賢者"という形でそういう立場にいるからなのか。


「ところで紫どの」
 暫く、敵情を眺めていた太郎が、再び話しかける。
「何かしら」
 紫は紫で、特に何をするでもなく太郎の隣に浮かんでいたのだから、なかなか物好きである。
「紫どのが、我が家を救ったというのは本当か?」
「そんなこともあったかしら?」
「父上から聞いた家の口伝によると、なんでも金髪紫眼の妖怪は享徳・康正の頃、政季(まさすえ)公を援けて家の再興に尽力したというが」
「あら、そんなことまで伝えていたのね。下らない」
「下らぬ話か? 我々にはとても下らぬでは済まされぬ話だが」
「人間の興亡なんて、妖怪からしたら下らぬ話よ。ほんの一瞬の出来事じゃないの」
「確かに妖怪にとっては一瞬かもしれぬが、我々にとっては長き一生だ」
「まあ、そうかしら」
 紫はふと、少し遠い目をした。何かを思い起こす風である。
「それで、結局その話は本当なのか、嘘なのか」
「どちらだと思う?」
「俺は、本当だと考えている」
「その所以は?」
「紫どのは、この安東を指して"旧い付き合い"といった。そもそも、本当に人間の興亡に興味がないとするなら、わざわざ俺の所に度々出てくることも無いだろう?」
「道理は通っているわね」
 齢十三とは言いながらも、大人びているだけあって、説明はしっかりとしている。
「あなたの言う通り、私はかつて安東政季を援けたこともあったわ」
「やはり……」
 太郎は嘆息する。
「つい最近の話だと思ったのだけれどね。貴方は何代目?」
「政季公・忠季公・尋季(ひろすえ)公・舜季(ちかすえ)公・父上で、俺が六代目になるな」
「……人間ってのは、本当に一生が短いのね」
「妖怪には、そうだろうがな」
 太郎が首をかしげている。少年には、実感が湧かないようだ。
「それで、なぜ政季公を救った?」
「というと?」
「先に申しただろう。"人間の興亡なぞ、一瞬の出来事だ"と」
 良く覚えている。
「ならば、わざわざ、救うこともあるまい?」

 ふと、紫はその頃の事を思い出した。たかが百年ほど昔である。
 当時、安東氏は南部氏によって津軽から逐われ、没落していた。件の安東政季に至っては、南部氏の傀儡として置かれていた当主である。紫は、その政季を援けて津軽から蝦夷ヶ島に逃がし、さらには軍勢の招集等にも協力した。結局、政季は津軽を諦めて羽州河北郡の能代平野に拠点を築き、勢力を拡大したのだけれど。しかし安東氏の再興という点では、大成功だといえるはず。
 なぜそこまでしたのか、ということを改めて考えてみる。一体、政季がどのような人間だったか。どうしてそこまで、する気になったのか。

「そうね、どうして援けたかどうかは、教えてあげないわ」
「は?」
 いきなり何を言いだすか、と太郎は目を見張った。
「あの時の政季公と、今の貴方とはまるで同じ状況にあるわ。安東の家がまさに滅亡寸前じゃない」
 紫は扇子を広げ、それから手を伸ばす。その先には、城を攻めている軍勢である。
「貴方はこの状況で、どうするかしら? まずそれを聞きたいわ」
 そこで初めて、紫は隙間から出た。自分の足でその場に立つ。太郎の方が、まだ少し背が低い。
「それはつまり、上手くすれば援けてくれるということか?」
 太郎が問う。その顔は、何時になく真剣だ。
「援けてやらないこともないわ。尤も、大したことはできないけれどね」
 紫は哂う。敢えて挑発的に。
「そうか……」
 しばらく、太郎が止まった。ただ紫の顔を睨んでいる。眉間に皺をよせ、気難しそうな顔で。
 直後、彼はその場にひざまずいた。あ、と思う暇もなく、太郎は額を地面にこすりつける。
「我が安東家のため、どうか御助力頂きたく思います。どうか、お力添えをいただけないでしょうか?」
「それが答えかしら?」
 紫は微動だにせず、声だけでそれを問う。
「はい」
「妖怪に頭を下げるなんて、屈辱的じゃない?」
「……」
 太郎から、答えは返らない。
「蝦夷管領代が、妖怪に頭下げてるなんてお笑い話よね」
「我が安東に、なにとぞ御手を」
 紫の声も、無視される。
「そもそも、"日ノ本将軍"であるあなたが、そうホイホイと妖怪風情に、頭なんて下げていいのかしら?」
 紫は、今にも笑いが噴き出しそうだった。それをこらえて冷然と言葉を浴びせるのは、せいいっぱい。
「なにとぞ……」
「……くっ、くく……」
 限界だった。紫は、そのまま笑い始める。最初こそ、息を殺したものであったけれども、次第にその玲瓏な笑い声は大きくなる。
「……紫どの?」
 太郎も流石に不思議になったのか、あくまで膝は下についたまま、顔だけで紫の方を見上げている。
「うふふ、いや、あの、ごめ、あは、その」
 こみあげてくる笑いを前に、紫は言葉をなせない。
「紫どの……」
 次第に、悲しげなような怒り気味のような、太郎の表情が移り変わっていく。
「いや、だって、うふふ、あなた、ね」
 紫は紫で、笑いをこらえるのに必死だ。表情は幾分ひきつっている。
「あなた、政季と全く同じ事してるのだもの。おかしいったら、ありゃしない」
 渋い顔をしていた太郎が、今度は固まる番だった。

「あれは最初に政季の所に顔を出した時だわ」
 互いに少し冷静になるのに、時間がかかっていた。とはいっても紫の息はまだ完全に整っていないし、太郎もいまいち驚愕の渦中から抜け出せてはいないのだが。
「まだ南部家に従ってたころよ。たまたま私が顔を出すや、いきなり貴方と同じように土下座したのよ。あれには驚かされたわ」
 紫はまだ忘れられない。出て行って早々それだったのだから、それは印象にも残るというもの。
「政季公はそれで一体何を仰られたのですか?」
「貴方とだいたい一緒よ。安東を再興させたいから、協力してくれ、ってね」
「なるほど」
「それで、うっかり勢いで頷いちゃったのよね。政季の気迫に押されて。気付いたら、手伝うことになっていたわ」
 紫は扇子を一回打ち鳴らした。
「結局、津軽に戻ることは敵わなかったけれどね」
「だが、代わりに河北郡を得た。その御蔭で、今の我々がいる」
 感慨深そうに、太郎は言う。
「やはり紫どのは、我々の恩人なのだな」
「それは違うわ」
「何が違う?」
「人じゃないもの。私は、妖怪よ」
 紫は扇子で軽く太郎の頭をはたいてやった。

「それで、紫どのは俺に協力してくれるのか?」
 太郎は扇子を恨めしく眺めている。
「協力して欲しい?」
「先言う通りだ。頼む」
 逡巡せず答えが返ってくる。
「なら、仕方ないわね」
 紫は、さもそれが面倒事であるかのように、首を軽く動かして見せる。
「手伝ってやらないこともないわ」
「それは有難い」
 太郎がもう一度、丁寧に丁寧に頭を下げる。それを紫は、少し微笑んで迎えた。

 幻想郷、という場所がある。ごく簡単に言えば、紫の縄張りだ。一定の領域を、紫が自分の結界で囲んで作り上げた場所。昨今、この日ノ本で幻想になりつつあるものを自動的に引き寄せるような結界を張った。そうすることで、日ノ本のうちで忘れ去られる妖怪たちを、呼び寄せようというわけだ。
 紫は、その幻想郷を妖怪の楽園にするつもりだった。この日ノ本全てに住む妖怪たちが、自由気ままに暮らせる場所。そんな場所を作ろうと、目指していた。妖怪というのは、少し時代遅れの代物かもしれない。昔に比べて、人間たちは次第に妖怪を駆逐せんとする力が強まっている。きっとこれからその傾向は強まるだろう。そんな彼ら彼女らを、紫は集めるつもりだ。
 折角、厳重な結界を張る、という形で妖怪を救えるのだから、妖怪をできるだけ救わなければいけない。紫はそう思っていた。そのためならば、なんでもするつもりである。現に幻想郷の礎を作るのに、紫はわざわざ龍神の処で頭を下げた。
 そんな自分と、安東政季は被っていた。だから、彼を援けた。
 そしてまた、何処となく太郎が被る。そんな気がした。

 太郎は、安東家を慕う人々の為に戦う、と言った。安東の家には、蝦夷管領代官職と日ノ本将軍の称号がある。だから、自分たちこそがこの奥羽の戦乱を鎮めることができるし、そうせねばならないのだ、と。そんな太郎が、紫の思いと共通しているように思える。その上で、彼は実際に紫の前に土下座して見せたのである。きっと、何より安東当主であることを誇りに思う太郎にとって、よくわからぬ妖怪に頭を下げるのは、相当に屈辱だったに違いない。にもかかわらず、太郎は躊躇なくやってみせ、その上、紫の罵倒にも近い言葉にも、何も言わずに頭を下げ続けた。つまり、自分の目的のためなら、自分がやらなければならないことのためなら、何だろうとする人間なのを、目の前で示したのだ。

「あなた、やっぱり政季に似ているわね」
「む?」
 その言葉の意味するところは、紫にも判っていただろうか。
「政季にそっくりよ、やっぱり。言うことも、考えていることも」
「それは有難いお言葉だ。中興の祖である政季公と似ているとは」
「ええ、違いないわ。政季の方が、いくぶんかひねくれていたように思うけどね」
 紫は笑いを思わず漏らした。
「ならば、俺もこの安東を再び北奥羽の覇者として君臨させることができるだろうか、父上のように?」
「それは」
 紫は、柔らかに微笑んで、扇子を彼の頭の上に軽く置いた。
「貴方次第だわ。どうぞ、頑張ってちょうだい」
 この太郎が、どうか栄達することを信じて。


 間もなく、太郎らの籠る檜山城の包囲は解けた。由利の諸国人を初めとし、庄内の本庄繁長とその主である越後の上杉景勝が、安東太郎実季を応援することを明示したのだ。こうなると太郎を攻撃していた湊通季の軍勢は、たちまち瓦解する。それから間もなく、通季は完全に敗れて南部領へと逃れ、通季に同陣していた戸沢・小野寺の諸兵も自領へと引いて行った。
 かくて、安東の家は救われたのである。

 何故、突如として国人や大名がこぞって太郎の側に参陣したか。何故、通季の軍があっという間に崩壊していったのか。
 理由は明確でない。




●以光陰之流宗実失宝鑑
  ――とっくに鏡は割れてたよ。

 すでに霜月ともなれば、寒風の吹きすさぶ季節。幹だけになった木がますます寒々しい。
 しかし、紫の全身を鳥肌が覆っているのは、それだけであろうか。紫自身が、一番疑問だった。
「凍蚓、今日は客人が居るからの、特別に般若湯を開けるぞ」
 相変わらず、紫の前では茶番じみたことが続いている。
「そうか、凍蚓も嬉しいか。そうじゃ、儂も嬉しい」
 しかしその茶番が、全く茶番ではないのだ。さも凍蚓が動いているかのように、宗実は振舞い続けている。
「紫どの、どうも有難いのう。このようなものを持ってきていただいて」
「大したお酒ではないわ。伊勢の門前で買って来た、安いものよ」
「いやいや、ありがたやありがたや」
「果たして、貴方の口にあうかしら」
「ほら、凍蚓も礼を言うのじゃ。紫どのがわざわざ、こんなところまで酒を持ってきてくれたのだぞ」
 そう言われて、何もせずにいるのは、紫には少し難しかった。木像の方に軽く会釈を投げる。
「何時以来の酒かのう。もう前に飲んだのが何時か、覚えて居らぬわ」
 からからと、笑って見せるその言葉が紫には痛い。安東といえば交易で全盛を極めた家で、だから金なんて腐るほど持っていたと言うのに。今では、酒一本買う金もないらしい。
「ささ、まずは紫どのに」
 宗実は紫にまず盃を渡すと、次にとっくりからそこに酒をつぐ。盃は白地の染付。蛙の絵が描かれている。線の一本一本にまで魂の入った逸品。盃だけは物の良い染付なのが、何ともいびつである。
「凍蚓にも一献」
 と言いながら、宗実は木像の前にもきちんと盃を置いた。
「それじゃ、貴方もどうぞ」
 紫がそう言うと、彼は盃を差し出した。素焼の何の変哲もない、盃。そこらに行けば一束いくらで売っているような、そんな安物。
「あら?」
 紫には一流の盃を渡した。木像の前に置かれている盃もまた、良い品。にもかかわらず、宗実が差し出した盃は、"かわらけ"と呼ぶにふさわしいような代物だ。。
「もう盃、ないのかしら?」
「般若湯、まことに久しぶりの事じゃ」
 ぐい、と紫の前に盃を差し出してくる。持つ右手は、節くれだっていて、また年月の皺を数多く刻んでいた。紫は、なんだか空しくなりつつ、酒をついだ。
「うむ、うまいのう。うまいうまい」
 紫がつぐや、一気にそれを煽った。その豪快さは、翁ながらもどこか荒々しさを感じさせる。これまでの会話からすれば、違和感といえるかもしれない。
 それを見届けて、もう一度紫は酒を宗実の盃についだ。
「凍蚓、久しい酒じゃ。存分に楽しめよ」
 相変わらず、紫を認識しているのかいないのか、わからないような反応である。凍蚓に会釈をすると、また盃になみなみ注がれた酒を一口で飲みほした。
「それで貴方」
 今度は宗実が、紫の盃につぐ番である。それを眺めながら、紫は問うた。盃には、宗実の顔が映っている。
「いつまで、狂ったふりをするの?」
「何の事かの? 儂はまともじゃ。妖怪から見れば、普通じゃないかもしれぬが」
「そろそろとぼけるのもやめて欲しい所ね」
「とぼける? 紫どのが何を言うのか、儂にはわからんな?」
 宗実は目を丸くして紫を見つめている。紫はゆったりと盃に口をつけ、静かに半分ほど呑む。
「都合の悪い時だけ、こうやって訳もわからない振りをする」
「はて、そのようなこと……」
 その言葉は途中で遮られた。紫の扇子が彼の首元に突き付けられている。もっともその根元は遥か離れた紫の手元にあるのだが。隙間をくぐっている。
「死ぬ?」
「ふむ、紫どのに引導を渡してもらえるならば、幸運かもしれぬな。餓死よりはましだろうて」
 紫はぎろり、と睨みつける。胸はもう、張り裂けそうだった。
「本気かしら、それ?」
「世間は早う儂が餓死せんか、と待っておるはずじゃ」
 感情の籠っていない一言。もはや我慢は、ならない。
「安東太郎っ!」
 紫は叫んだ。その扇子は眉間を撃つ。
「これ以上、私を侮辱するなら許さん! いかなる祟りを、下してくれようか」
「ほう、紫どのも怒るのだな」
 眉間を痛打され、流石に痛いのか頭を抱えたままだが、宗実は告げる。
「おそらく、怒るのを見たのは初めてであるな」
 すっと、再び顔を上げる。
「あまり煩くすると、凍蚓に迷惑じゃぞ」
「まだそのような――」
「まさか、唯一の我が"友"を、愚弄するのか?」
 宗実の真剣な顔に、さしもの紫も出掛けた言葉を仕舞いこむ。
「で、この期に及んでまだ狂っているつもりかしら?」
「紫どのにそこまで言われてしもうては、為す方も無し」
 ふう、と一息、宗実はついた。
「改めて、久しいのぅ。紫どの。天正の折は、本当にお世話になったことじゃ」
 天正、紫にとっても懐かしい年号である。たかが六十五年ほどしか経っていないが。
「だが、結果はこの様。ま、返すものはない。すまんな」
 はは、と宗実は笑った。正気に戻ったと宣言しているにも関わらず、その笑いは狂気そのもの。むしろそれが紫には恐ろしかった。
「一体、どうして……?」
「既に、儂は何一つとして守るものはない。蝦夷管領代官職も、日ノ本将軍も、安東の家も、檜山の領地も、何一つとして、な」
 その言葉が、とても軽く出た宗実の言葉が、紫には余りにも重かった。
 何をしてでも守っていく、と態度で示してくれた太郎の行く末がこんなものだとは、思いたくなかった。

 天正十七年。湊騒動の終結。安東太郎実季は従弟・通季を逐って安東を一つにまとめ上げ、所領回復へと邁進しようとした。
 天正十八年。秀吉は奥州仕置を敢行。安東実季は出羽秋田五万石の所領を認められる。しかし蝦夷ヶ島は没収され、北方交易権を手放すことになった。つまりその時点が、蝦夷管領代官職と日ノ本将軍の終わりである。鶴の一声での終了宣言であった。
 慶長五年。関ヶ原合戦。安東太郎実季改め、秋田城介実季は東軍に従って戦う。ところが山形の大名・最上義光に讒訴され、結果は出羽秋田五万石から常陸宍戸五万石へと移封。奥羽から切り離されたことと実質的な収入減であることを見れば、懲罰たるは明らかだった。
 寛政八年。かねてより嫡男と不仲であった秋田実季は、江戸幕府によって宍戸五万石の没収と伊勢朝熊への閉門を命じられる。嫡男は藩内に「以後、父の言うことを聞いてはならない」とわざわざ命を下した。

 経過に、紫は発すべき言葉を持たなかった。自分の守りたい物を明確に持っていて、それの為なら何でもする。その能力を持っている安東太郎の行く末が、まさかこのようなものだとは。
「今では、凍蚓と二人暮らし。貧しいが、楽しい暮らしだぞ?」
 特に嗤うでもなく泣くでもなく、感情のこもらない、表面的な説明だった。
「こうやって系図を纏めるのも、楽しいのじゃ。どのようにして、我が家が作られていったのか、そして守られてきたのか、考えるのは楽しい」
 それは、たぶん宗実のやってきたことの、裏返し。
「凍蚓と話しているとな、自分がなんと間抜けであったかも、わかる」
「それは……」
「凍蚓は、まるで儂を映しておるからな。よい友であるよ」
「……そう」
 映しているのとはおそらく異なるだろう。
「それで、貴方はもうここから動くつもりはないのかしら?」
「今更、儂が何をすると?」
「……南部の手で幽閉されていた、安東政季が何を言ったか知っているかしら?」
 紫の脳裏に浮かぶのはしかし、政季の姿ではない。あの檜山の城での、若き安東太郎実季の姿である。
「こんなところよりもずっと酷い、下北の田名部に幽閉されていた政季が、何を言ったか知っているでしょう?」
 極寒の地であった。地吹雪ともなれば外には一歩も出られなくなる。そんなところだった。そこで政季は――。
 しかし、そんなことを聞いても猶、宗実は嗤った。大声を上げて、嗤った。
「もはや徳川も四代目。この期に及んで、何を言いだす」
「貴方は、失ったままで過ごすの?」
「紫どの」
 宗実は、少し強張った声で言う。
「政季公には力があって、儂にはなかった。それだけのこと。それでよいではないか?」
「何をっ!」
 紫は思わず立ち上がった。
「なら、あの土下座は何だったというのかしら? わざわざ、私が協力したのはなぜだったのかしら!」
「妖怪のわりに、随分と人間らしい怒り方をするのだな」
 紫が声を荒げても、平然としている。
「本当に紫どのは、妖怪なのか? どうにも儂には、あまり妖怪らしく思えぬ」
「っ!」
 宗実が立ちあがった紫を見上げている。まるで半ば見下すように。
「だからこそ、わざわざ儂を援けるような、"愚行"をしたのだろうがな」
「愚行って」
「紫どのの尽力は、紙切れ一枚で全部吹き飛んだぞ。妖怪よりも、人間の方が強いのだな、世の中」
 宗実の言葉が、紫には突き刺さる。
「その凍蚓が教えてくれたのじゃ」
 凍蚓という言葉が、殊更実感を帯びて紫に襲いかかる。
「"蝦夷管領代官職"も"日ノ本将軍"も、所詮は過去の遺物でしかなかった。所詮は古びて錆びた、残骸でしか。そんなものを守ろうとする方が、無謀だったというわけだ」
「何をしても守るって、貴方は」
「それが、儂の若さ。何も見えてなかったということに、他なるまい」
 宗実はもう、紫を見上げてすらいない。
「それでは、人々を守るという、"陳腐"な思いはどこにいったの?」
「そんな"崇高"な願いが、儂に叶えられるべくも無かろう?」
「どうしてそう決めるのかしら?」
「勿論、あの頃はどうにかなる、と思わぬでもなかった」
「それじゃ」
「だがな、凍蚓といろいろ話しをしてみて、わかったのよ」
 宗実は、凍蚓に柔らかい目を送っている。どこか侮蔑的な、柔らかい視線。
「そんなこと、誰かができる程簡単ではない、とな」
「何を、言うの?」
「そうだろう? 安東の家一つ、碌に纏まらぬのだ。そのくせ北奥羽全てを纏めてやろうとは、片腹の痛い話じゃ」
 紫は拳を握りしめる。ぬるり、という感触を覚えた。
「その貴方が、言うわけ?」
「ああ、儂だから言うてやる。凍蚓の代わりに、何度でも言うてやるわ」
 かっと、宗実は紫に目を遣る。
「あの頃の儂は、ただの世間知らずに過ぎぬ」
 紫の手の中で、軋んだ音が鳴る。扇子が、真ん中から二つに折れた。
「それじゃ、……」
「時に紫どの」
 宗実は、嗤っている。不気味に不気味に、嗤っている。紫はその嗤いが、恐ろしかった。何を言いだすか、わからない。
「政季公の御最期を、知っておられるか?」
 うっ、と紫は言葉に詰まる。思い返したくない記憶。忘れられない、記憶。
「政季公はな、津軽を目前にしながら、終ぞ津軽を手に入れることはなかったのを、紫どのも知らぬはずがあるまい?」
 その宗実の目は、輝きがない。
「紫どのも知るとおり、政季公は暗殺されたのよ。津軽を手に入れられる、という目前にな」
 宗実はわらっていた。
「しかも、家臣に殺されたのだ。自分が守るべき相手に、後ろから刺されたのだ」
 誰に対してわらっているのか、とにかく、紫の方を見て、わらっていた。大笑していた。
「況や、とは思わぬか?」
 もはや紫には返す言葉がない。
「凍蚓もそう思うじゃろう? 政季公さえ敵わぬものを、何ぞ儂が成さん、とな」
 紫には、その木像までがわらっているようにみえた。一瞬立ち眩みがする。
「全く、凍蚓の言う通りじゃ。そんな碌でもないことを目指すからこそ、今ではこの有様よ」
 へたりこむように、そこに座りこんだ。
「というわけで、済まぬな。紫どのの助力も、全く無駄になった。ま、せいぜい儂を恨んでくれ」
 そこに座っている宗実が、紫には木像にしか見えない。隣に座って澄ましている木像とそっくりにしか、見えなかった。
「いえ、そんなことは、ないわ」
 今度こそ、紫は立ち上がる。
「私は、そろそろ失礼するわね」
 一瞬でもこんなところには、いたくなかった。
「お、もう帰るのか?」
 対する宗実はといえば、相変わらず澄まして座っている。否、あれは木像か?
「そうか、もう会うこともあるまい」
「……そうかしら、ね」
「そうそう、一つだけ言うておく」
「なにかしら?」
 もう、宗実の顔を見たくない。紫はそちらに視線を振らない。
「馬鹿息子どもには、そなたの話をしておらぬ。秋田の家に顔を出しても、無駄だ」
「そう」
「あの口伝は安東の家のものだからな」
 安東の家は滅んだのだ、と彼は再度念を押す。
「それでは、もう行くわ」
「そうか、餓死しておったら、せいぜい笑ってくれ」
 宗実の言葉が、紫にはもうただ恐ろしかった。
「それじゃ」
 紫は宗実の方を向かず、応えもせず、隙間に潜りこむ。

「かがみがこわいのか」

 最後に木像が、何かを言った気がした。



 隙間を操れる八雲紫。蝦夷を支配した安東太郎。
 妖怪を救うことができる八雲紫。奥羽の人を救うことができた安東太郎。
 幻想郷を作ろうと邁進する八雲紫。奥羽を統一しようと奮闘した安東太郎。
 幻想郷の為なら何でもする八雲紫。奥羽の為ならなんでもした安東太郎。
 何でもすればどうにかなると信じる八雲紫。何でもすればどうにかなると信じた安東太郎。
 ……。

 紫は、なぜ宗実の元から逃れたかわからない。
 人形と楽しく会話する、宗実の元から逃れたかわからない。
 ただ、恐ろしかった。おぞましかった。怖かった。
 彼の行動が、言葉が、態度が。全てが、怖かった。

 なぜ怖いかもわからない。ただ、怖い。


 幻想郷に戻ろう、と紫は思った。
 安東のことなんて全て忘れよう。全く記憶から、消し去ってしまおう。
 結局、安東は、力のないやつだったんだ。
 自分が、見誤っただけなのだ。
 そう思いこんだ。
 きっと時代が変わったから、幻想郷に来る妖怪だって増える。だからまた、幻想郷のために、立ち働かないと、いけない。
 そうやって妖怪を守る責務が、自分にはあるんだ。守ることができるのだから。

 既に紫の眼下には、幻想郷の景色が広がっている。ふ、と紫は息を吐いた。


 木像の、凍蚓の笑いが、聞こえた気がした。






「凍蚓に、茶を出してやってくれ」
 秋田城介実季こと、凍蚓斎宗実の最期の一言である。





 というわけで、こんぺ投稿作品その2。
 "もう見るからに私の物"という作品として書いてみた。こんぺで身元がばれないように、という偽装といえばそれまで。
 とはいっても、津軽安東氏と紫とには関係がある、という設定自体は随分前から構想として練られていたもの。だからこそ、こういった作品が着想したといえばそういうこと。
 ただし、それを作品として仕立てるかはわからないけれど。
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