うむむ、と理香子は唸っていた。不満足げな表情で持っていたフラスコを机に置くと、眼鏡を左手で外し、右手でこめかみを押さえた。
「これも駄目なのね……」
彼女の目の前にはビーカーが並んでいて、いずれも半分くらいまで透明な液体が入っている。だが理香子は諦めたように手を伸ばすと、次々とその液体を廃液槽へと流していった。
「本当にどうするのだか」
眼鏡をかけ直すと理香子は、本棚に向かって分厚い本を取りだしページを繰り始める。だが、そのまま突っ伏して寝てしまうまでにそう時間はかからなかった。
―― かくて賽は組みあがった ――
理香子は科学者を名乗っている。少なくとも自分自身の中では科学者であると思っている。妖怪が跋扈し、魔法やら妖術やらが飛び交っているこの幻想郷においては、科学なんてものを考えている人間は少ない。もしかしたら、本当に科学の力を信じているのは理香子だけかもしれない。それでも理香子は、科学というものを信じていた。
幻想郷という世界では全く必要ないだろうが、必要不必要は理香子にとって全く関係の無い話。理香子はあくまで好きだから科学を探求し、日々の研究にいそしんでいるのだ。
幻想郷は何でも受け入れる、とさる妖怪の賢者は述べた。それならば、科学者の一人、幻想郷に居ても何ら問題はないだろう。
ふと気付くと、理香子の顔には朝日が差し込んでいる。理香子は一体いつ寝たのかがわからなかった。けれども目の前に本が開いたまま置いてあるというあたり、どうやら本を読んでいてそのまま寝入ってしまったようである。理香子は時間を損したような気分に捉われた。
けれども良いこともある。どれくらい寝たか記憶にないが、結構な時間を寝ていたらしい。頭はすっきりしているし、体もだいぶ軽くなった。
理香子はこの際、開き直って気分転換のために外へ出ることにした。研究に詰まってしまったこの状況で研究を続けても仕方ない。自分の研究室に籠りっぱなしではどうにも解決しないことだってある。丁度涼しくなってきた季節、心地よい空気に浸っていたら、ふと解決策が浮かぶこともあるかもしれない。
家の戸を引いた理香子は、存外の寒さに身を縮めた。まだ初秋とはいっても、幻想郷の秋は早い。もう朝晩は相当に冷え込んでいるようだ。理香子は一度家に戻ると一枚重ね着をして、玄関を潜ってまだ暗さの残る庭に出た。
理香子は門をくぐると、ちょうど人々が動き始めた集落の中を抜けてゆく。この集落に限らず、農業を生業として生きる人里のほとんどの人間は、日の出と共に人々は仕事を始める。粟や稗、黍、そして稲と言った秋に獲れる穀物の収穫も、そしてその収穫祭も終わったこの時期、あちらこちらで見られるのは裏作・大麦の籾選びである。もうそろそろ麦蒔きの季節なのだ。朝倉家の今年の収入を見る限りでは、蕎麦は不作であったものの黍が豊作だったので、全体としては例年並みの収穫量だったといったところだろうか。
動き出した人々の間を潜り抜けて、理香子は集落から外へと踏み出した。空はすっかりと明るくなっていて、秋の空を映し始めていた。集落から川までのなだらかな下り斜面には田畑が所狭しと並んでいる。既に稲刈りはすべて終えられているから、田には僅かに稲の根元だけが寂しく顔を出しており、その枯色がなんとも心を穏やかにさせる。まだ山の色変わりには早いのだろう、山は夏以来の旺盛な緑を堅持している。空の鮮やかな青と山の緑、そして田の枯れた黄色の対比が、理香子の心へ強く強く秋を認識させる。
そうやって暢気に歩いている間に、川辺へと出た。妖怪の山・玄武沢から流れ出したこの川は、水も冷たく魚も多いという、人里の諸集落の生命線だ。堤を越えると河原が広がっていて、その向こうにさらさらと流れる川が見えていた。握るには丁度良い大きさの石が敷き詰められた河原と、大き目の石が川のところどころで頭を出している景観は、川の上流から中流にかけての典型的な景観らしい。尤も、幻想郷という場所は基本的に山間であるから、下流の景観は見当たらない。この川も紅魔館近くの湖に注いで終わりだ。
ふぅ、と一息ついて理香子はその場に座った。河原では子供たちが石合戦をして遊んでいる。朝早くということもあって、まだ始まったばかりのようで、互いの甲高い掛け声が辺りに響き渡っている。眼鏡越しにだが、多くの石が飛び交っているのも窺えた。石合戦が怪我をしうる危ない遊びであることは知っている。けれども、石合戦がその危険性を無視できるほどに楽しい遊びであることもまた知っていた。理香子もその昔は男に混ざって自分も率先して石を投げ、大概怪我をして家に帰っては、父親に酷く怒られたものだ。酷い時には全身生傷だらけであったこともあったはず。
そんな秋の和やかな人里の空気に触れて、理香子は自然と表情を崩していた。研究に詰まってどうしようもなくなった時はいつも、こうして外に出て精神を回復する。青い空の下でぼーっとしているだけでふと研究の突破口を思いついたりするものなのだ。
さらさらと流れる川の音と石合戦の歓声とを背景として、幻想郷の自然は理香子の眼前に屹立する。それは秋の穏やかな雰囲気を纏っており、しかしどこか寂しさを感じさせる。また、これから訪れる峻烈な冬の様相を暗示するかのようでもある。
「お、理香子じゃないか」
堤に座り込み、ぼーっと川を眺めている理香子に、後ろから声を掛けた者がいる。その声に理香子は聞き覚えがあるし、割合親しい相手であることにすぐ気付く。
「悪霊は朝から出て来るもんだったかしら?」
「妖怪が夜に居り、人は昼に居る。ならば、悪霊は朝夕くらいにしかおる場所がないんじゃないかい?」
「いや、悪霊も夜にいるものだと思うわよ。朝っぱらから霊がうろついているなんて話、聞いたこと無いわ」
「ここにいるよ」
暢気に笑いながら前に浮いているのは、トレードマークのナイトキャップを被った魅魔であった。かなり力を持った悪霊で、もし目を付けられ祟られてしまえば、決してその手から逃れることはできないとか。尤も、理香子は魅魔が悪霊として働いているのを見たことはないけれども。
「そもそも、あんたがこんな所にいていいわけ?」
「居ちゃいけない理由なんてあるのかい?」
「あるわよ」
理香子は溜息一つ付いた。
「ここ、人里からすぐのところよ。それに、すぐそこで子供が遊んでるし」
「人里や人の子の近くに居ちゃいけない理由なんてないはずだろう?」
「あんた一応悪霊じゃないの? 悪霊が人里に近づいて良い筈ないじゃない」
「私が祟るとでも?」
楽しげに悪霊は笑みを浮かべて理香子を見下ろしている。その目は少なからず好戦的だ。
「もし危ないのだと思うのだったら、掛かってくりゃいいじゃないか。魔術の名門の娘さん」
だが生憎、理香子は戦いたくない。実力云々の話しもあるが、それ以上に戦うこと自体が嫌なのだ。理香子は近頃出来たスペルカードルールとやらが酷く面倒くさくて仕方ない。
「魔法使うのなんてしち面倒くさいこと、どうしてしなきゃいけないのよ?」
「ならば自慢の科学とやらでもいいんだよ?」
「第一そんな暢気に祟る悪霊がどこに居るのよ。あんただって私とやり合いに来たんじゃないんでしょう」
「やりたきゃやるけどね」
「そんなの、自慢の弟子とやってくりゃいいじゃない。アレも相当な才の持ち主よ」
「アレはもう独り立ちの年だからね。必要以上の干渉は避けてるのさ」
ふわり、と魅魔は理香子の隣に座る。魅魔もまた穏やかな表情で川の方を眺めている。しかしきっとその目は川や山、子供たちを捉えてはいないだろう。魅魔の視線の先は大事な弟子にあるに違いない。
「それに、名前と腹の色とが全く一致していない奴が、悪霊は目立つなとか言うしね」
「名前と腹の色とが一致しないって……」
やけに分かりにくい言い方をする。とはいえ、魅魔に対して目立つな、などということを言うことができ、また言いそうな妖怪はおそらく一名しかおるまい。
「奴の腹の中は真っ黒だろう」
「はぁ」
理香子は口出しするのは控えた。所詮理香子は人間。魅魔とは違ってすぐさま死ぬのだ。だから、妙な能力と大きな実力を持った妖怪につべこべ言うことは憚られる。それに、数回しか会ったことのない相手をけなす気持ちにもならない。
「まあいい。そんなわけで、私はこうして川辺で暇そうな人間に絡んだりしてるのさ」
「別に暇だからここに居るわけではないのだけれどね」
「なら、あんたは一体どうして朝っぱらからこんなところにいるんだい?」
興味を理香子本人の方へ変えたのか、魅魔はこちらを向く。理香子は眼鏡の端に魅魔を捉えながら口を開く。
「研究に疲れてね。難問があって、それがどうしようもなく解けないから気分転換よ」
「それは科学の研究かい?」
「そ。私が魔法の研究をするわけないじゃない」
「それもそうだ」
魅魔は相変わらず穏やかな笑みを浮かべたままだ。悪霊とは言いながら、魅魔は実に人間らしい。理香子からすれば魅魔はほとんど近所のお姉さん感覚である。残念ながら、カリスマとかそういうものは欠片もない気がする。
「しかし、勿体ないねぇ。あんたが魔法の研究を真面目にやれば、幻想郷に敵う者なんていないだろうに」
「あんなもののどこがいいのか、私には全くわからないわ」
「魔法と科学の違いが何処にあるのか、わたしゃわからないけれどね」
「魔法なんてどうせ個人の才能で決まる。魔法を扱える人は限られているし、その中でも優劣がついてる。そんな面白くないもの、どうして研究する意義があるのよ。研究したってどうせ自分の役にしか立たないじゃない」
随分と拒絶の色が濃くなったな、と理香子は自分を幾分客観的に捉えた。
「それは科学も同じじゃないのかい?」
「科学は個人の力に関与しない。どんな人が行おうがどんな妖が行おうが、同じ過程を取れば必ず同じ結果が出るわ」
けれども、これは理香子の本音である。魔法の名家に生まれ、史上稀にみる才と謳われ、実際幻想郷一の魔法使いとなった理香子であるからこそ、持ち得る感情だ。
「ああ、そうかい」
魅魔もそれ以上深くは突っ込んで来なかった。悪霊の癖に、妙に人のいい奴なのだ、魅魔は。
「それで、今からどうするんだい?」
「特に決めてない。研究が詰まってしまったから、今日は気分転換のつもりだしね」
「そうかい」
魅魔は浮かび上がった。足がないから立ちあがったということにはならないけれども、おおよそ魅魔は立ちあがったと表現しても良いくらいの高さだ。理香子は魅魔を見上げる形になる。
「どこに行くの?」
「いや、余り目立つとまたスキマに何言われるかわからないからね。そろそろ退散することにするよ」
「そう。それじゃ、また」
「ああ。もし魔理沙に会ったらよろしく伝えといてくれ」
自分で言えばいいのに、と理香子は思ったが、それを伝える暇はない。魅魔はその場からふわりと姿を消し、霧散していった。
「全く。素直じゃないわね」
理香子も立ちあがった。此処に居るのもそろそろ飽きてきたのだ。目の前で繰り広げられてた石合戦もどうやらもう決着がついたよう。先ほどからの甲高い歓声もだいぶ収まってきている。
風がさらりと吹き渡って、理香子の全身を包む。その存外な冷たさに理香子は軽く震えて、歩き始めた。とりあえず人里へと戻ろうと思ったのだ。
「あら、理香子さんじゃないですか? 随分やつれて見えますけど、どうしたんですか?」
そうして人里へと戻る道の途中で理香子は後ろから声を掛けられた。人里の周辺には知り合いもたくさんいるから取り立てて珍しいことではない。が、その声の持ち主が誰なのか、一瞬理香子はわからなかった。
「私、そんなにやつれて見える?」
「え、まぁ」
誰だったかしら、と考えながら振り向くと、少々困ったような表情で兎の耳を頭から生やした少女が薬箱を背負っていた。ああ、と理香子は思いだす。近頃竹林に引っ越してきたとか言う兎、鈴仙だ。
「まあ、無理もないわ。もう五日も寝てないし」
「そんなに何をしてたんですか?」
どうやら向かう方向は一緒らしく、理香子の歩く方向に鈴仙も付いていく。鈴仙は少し心配そうな表情で理香子の方を見ていた。
「研究」
そんな鈴仙に理香子は一言投げつける。
「やっぱりそうですか」
その言葉に鈴仙は少し語気を強める。
「貴女も師匠と一緒で研究となると途端に周りが見えなくなるんだから」
「失敬ね」
何処となくふらふらと歩きながら、理香子も鈴仙の方へ初めて向く。
「周りは見えてるわ。何のために眼鏡を掛けてると思っているのよ」
「そういうわけじゃないです」
理香子の断言に鈴仙は呆れた顔で理香子の顔をまじまじと見つめ、それから首を軽く振った。
「まあ、いいです。もう」
「あら、そう。貴女も間違いを理解したようですね」
「なにそれ、私が間違っているみたいな」
「貴女は反論を行わなかった。則ち、私の言った事に同意したということに他ならないのでは?」
「いや、そういうつもりでは」
「ならば反論すべきです」
理香子は妙に理屈っぽいところがある。理屈というものがあまり通用しない幻想郷では珍しい性格かもしれなかった。鈴仙はそれが面倒になったらしい。
「はいはい。私が間違ってましたよ」
「随分と投げやりですね。まったく」
理香子は半眼で鈴仙を睨みつける。理不尽さを前に鈴仙は再び溜息をついた。
「それで、今度は一体何の実験を?」
「サイコロ作ってる」
「……は?」
「サイコロ作ってるの。全く作り方がわからなくて、困ってるの」
ええと、と鈴仙は困惑した。鈴仙は薬に関して学んでいるというから、舎密にも詳しい筈。ならばきっとすぐにわかるだろう。
「サイコロですか」
「そう。サイコロ」
けれども、鈴仙はますます頭を抱えるばかり。どうやら頭が固いのか鈍いのか。けれども聞かれもせぬことを説明するのは、理香子には面倒だった。
「全くわからないわ。今回ばかりは、まず入り口がわからないもの」
「入り口?」
「炭素原子のsp3結合角は109.5度。対して、サイコロを作ろうとすれば結合角は90度にしなきゃいけない。かなりエネルギー的に無理がいる」
何に関する話なのか鈴仙に理解してもらえるよう、適当に専門用語を出してみた。確かに今まで、理香子自身が化学の話をしていることを伝えていなかったから、鈴仙には捉えにくかったのかもしれない。もっとも、あの話がサクサクと通じるくらいの洞察力を理香子は、相手に求めるのだが。なかなかわからない奴に一々説明するのはごめんなのだ。
「今は舎密を?」
「そ。香霖堂で見つけた舎密の本を最近勉強し終えたからね」
理香子は度々香霖堂へ行っては自然科学の本を仕入れる。あの店に行くとおおよそあの店主のトンデモ理論に付き合わされる羽目になり、激論を戦わすことになる。理香子にしてみれば、あの店主の推論は自然科学の"し"の字も分かっていない、唾棄すべき論に過ぎないのに、店主はあの手この手で反論を繰り返す。理香子はそれが鬱陶しくて仕方ないのだが、自然科学の本は全て外の世界からの流れ物なのだから、それを手に入れられるのはまず香霖堂くらいしかない。だからトンデモ論を聞かされるとわかっていても香霖堂へと行く。そうして散々とあの店主を論破し、プライドを粉々に砕き折って帰ってくる。
もちろん、苦労して手に入れた数少ない自然科学の本は隅から隅まで読む。そうして一冊一冊確実に頭の中へと叩き込み、前へと進む。
「それで、サイコロとは?」
舎密は、薬学を学ぶ際に欠かせない。それゆえ鈴仙という少女だって舎密を学んでいる。このような舎密の話をできるのは幻想郷の中でも、おそらく永遠亭で薬を作っている鈴仙と八意永琳のみだろう。他の人間にとって、舎密というものは全く関係もなければ役にも立たないものに違いない。
「炭素原子を頂点にした立方体の分子を作りたいのよ。そうすると、炭素原子の立方体と、その全ての角から水素原子が突き出した不思議な形の炭化水素ができるじゃない。面白そうでしょ」
「面白い、ですか」
「ええ。面白いわ。こんな雑然とした世界の中から理路整然としたものが生まれるなんて、面白くないかしら?」
「うーん」
どうやら、鈴仙という少女にはこの面白さが分からなかったらしい。ある意味彼女も、科学者という存在ではなのだろう。これを面白いと思えないということは、彼女にとって舎密は目的でなく手段だということなのだ。
「まあ、分からないならばいいわ」
理香子は、彼女に舎密の面白さ・自然科学の面白さを伝える努力をさっさと放棄した。そういうものをこのわずかな時間で語れるはずがない。
「それで、それがわからないのよ。どうすれば立方体のように配座させられるのか」
「立方体ですか」
詰まった時には、人の意見を聞くことも参考になることが多い。もし相手が答えられなくとも、そのアプローチの方法によっては、突破口が開けることもある。
「……ちょっと手のつけどころがわかりません。私もそこまで深く学んでいるわけではありませんし」
けれども、どうやら今回に関しては有用な話を聞けそうになかった。とはいっても、元々炭素と水素でサイコロを作ろうなんてこと自体が難しいのであるのだから、ここですぐに解法を思いつかれでもしたら、理香子のプライドはずたずたになるところ。答えが返ってこないことは想定済みだ。
「そう。まあ、そんなすぐに分かれば苦労しないけれどね」
「でしょう。貴女がそんなになるまで考えてもわからないことが、そんなにすぐわかるわけないですよ」
鈴仙は諦めたように首を振る。理香子もすんなり諦めて鈴仙から目線を離し、前を向く。
「あ、もしかしたら」
ふと鈴仙が立ち止まる。何かを思いついたようで、理香子は少しギクリとした。もしかしたらこの兎、この難題を解いたのだろうか?
だが鈴仙が続いて発した言葉を聞いて、理香子は胸をなでおろした。
「師匠なら解けるかもしれません。舎密の知識があるのかどうかはわかりませんけれど、薬に関しては万能な方でありますし」
別に鈴仙が解いたわけではないのだ。永琳に解かれるならば仕方ないだろう。こう考えると鈴仙に対して失礼なのかもしれない。けれども、薬の神とすら言える永琳には理香子も一目置いているのだから、所詮助手に過ぎない鈴仙との扱いが違ったって仕方ない。
「全部解かれてしまうのも面白くないのだけれど、ヒントくらい貰いに行ってもいいかもしれないわね」
「ヒントくらい、きっと師匠には容易い事だと思いますよ」
「そうね。けれども、どうやって永遠亭に行けばいいかしら?」
さて、と理香子は鈴仙の方へ希望のまなざしを向けた。幾ら科学を研究しても、残念ながら竹林を抜けることはままならない。
「どうせ貴女、私に連れて行ってもらうつもりだったのでしょう。いいわよ。私も丁度今から永遠亭へ帰るところですし。付いてきて下さい」
「今から帰るって、まだ朝よ。貴女は今まで何をしてたの?」
「最近、朝市にも薬の販路を伸ばしたのでその手伝いに行っていたんです」
言われてみればそれくらいの時間だなぁ、と納得した。そしてそれならば期待通りだ、と理香子は軽く笑うと、歩行速度を速める。ずっと頭に引っ掛かってることの解決の糸口を得られるならば、それより良いことはない。
「ちょっと、待って下さいよ」
鈴仙の焦った声が聞こえて来る。
「帰るということは背中の葛籠も空なのでしょう。もたもたしている時間がもったいないだけよ」
理香子は軽く地面を蹴って飛び上る。飛び上りながら振り向くと、鈴仙も追いかけて飛び上る所であった。歩くのも楽しいのだが、急いでいるときには飛ぶに限る。
なんと底の見えぬ人なのだろうか、と理香子は一目見て思った。やはり人里でも名の知れた薬師なだけはある。八意永琳という女性は、正真正銘の天才であり、普通の人間では到底届かぬ所に居るのだ、と理香子は思い知らされた。
「あなたの話は、鈴仙から時々聞くわ」
理香子が永遠亭に来る機会はそう多くはない。完全なる人間であり、博麗の巫女やら森の魔女やらと違って妖怪の中で暮らすわけでもない理香子にとって、永遠亭の者との付き合いをする機会は少ないのだ。度々人里を訪れる鈴仙を通じて数度、永遠亭にお邪魔させてもらった事があるのと、やはり数回永遠亭への急患の護衛に駆り出されたことがあるくらいである。
だから、治せぬものはないと名高い医師である八意永琳とこうして面と向かって話すのは、理香子にとって初めての経験である。
「そうですか。鈴仙とは随分親しくさせてもらってますし」
故に、こうして理香子は気押されている。永琳が殊更感情を表しているわけではない。表しているわけではないのに、身に纏った雰囲気はやはり並々ならぬものを感じさせるし、何より理香子を見つめる灰白色の瞳は底知れぬ深みを持っていて、理香子を吸い込んでしまいそうだ。理香子はふとどこかで聞いた、"深淵を覗きこむ者は、深淵から覗きこまれているのだ"という言葉を思い出していた。
「こちらこそ、鈴仙が世話になっているわ。人里で薬の販路が広げられたのは、貴女の力添えの御蔭と聞いたもの」
「私は大したことをしていませんけれど」
「人里の中でも貴女が一目置かれているのは知っているから。貴女の助けは本当にありがたいわ」
くすり、と永琳は微笑して見せた。
「永遠亭の薬が効くというのは人里でも評判になっていますし。不治の病だったものさえ治してしまう永琳さんの腕だからこそ、薬は売れるようになったんですよ」
「あら、随分と謙遜するのね」
永琳は瞳を僅かに見開く。
「まあ、そういうことにしておこうかしら」
その声はとても穏やかだし、幾分の笑いが含まれている。その声は本来理香子の緊張を解いてくれそうなものなのに、そうはならなかった。
「でも貴女に感謝することとそれとは何ら関係ないことよね。やはり、私は貴女に感謝してるわ」
永琳は軽く頭を下げて見せた。
「あ、それはどういたしまして」
理香子も慌てて頭を下げる。なんだか妙にぎこちなくて、まるで子供のお使いか何かみたいだな、と理香子は自嘲の念に駆られる。
「ところで、理香子さん」
「あ、理香子と呼んでいただいて結構ですよ」
永琳に"さん"を付けて呼ばれるのには何だか酷く違和感があった。それに加えてこれ以上こんな堅苦しい話をしていては、気分が持たないような気が理香子にはする。確かに永琳は偉大な方であるのは違いないのだろうが、自分がそのために酷く緊張する理由もないと思うのだ。
「あら、そう。ありがとう」
永琳は朗らかに笑う。ほんの少しであるが、理香子の緊張が解けた気がした。
「それじゃ、理香子も私を永琳と呼んでくれていいわ。敬語もいらないわよ。なんだかさっきから妙に堅い会話になってしまっていたし」
「わかったわ。永琳」
永琳、と呼び捨てにするには酷く抵抗があったし、敬語を使わないということも理香子には違和感があった。けれども一度言葉にしてしまうと、それがとてもしっくりするような気がした。それが理香子の単純な勘違いなのか、永琳という者の不思議な人格の故なのか、それはわからない。
「そうね、どうせなら永遠亭を案内してあげましょう。きっと貴女も気にいってくれるはずよ」
まるで子供がおもちゃでも見つけたかのように純粋な笑顔を浮かべ、永琳は立ちあがる。そこに至って理香子もなんとなく推察がついた。永琳もきっと、コミュニケーションの糸口を探していたのだなぁ、と。そう思うと、永琳という女性に対して酷く親近感が沸く。気付いてみれば、あの良くわからない緊張も解けているようだった。
「いいの?」
「構わないわ。別に隠さなきゃいけないものがあるわけでもないしね」
永琳が襖を開いて一歩踏み出したので、理香子もそれに付いていくことにした。永遠亭に興味があったし、なにより、永琳という女性ともう少し語ってみたかった。
「これは――」
永琳が襖が開くと、部屋に座っている理香子の眼前が開ける。その理香子の視界の中央には、枯山水の庭園が広がった。
「この永遠亭の主・蓬莱山輝夜が一から設計した庭よ。素晴らしい出来だと思わない?」
脇に退きながら、永琳は言う。けれども理香子は言葉を返さなかった。庭園の素晴らしさに飲まれて、返す言葉が見つからなかったのである。
竹林を借景とし、竹の高さ、直立性を生かして奥行きを敢えて圧縮して二次元方向を強調しつつ、左に砂利の平地を大きく取り、その奥に灯篭を立てることで必ずしも奥行きが消滅せぬようにされている。要所にある石は、砂利の間から島の如く頭を出し、一つ一つが主張しながらも煩くなく、砂利の海を区切り、広げ、独特の空間を形作っている。右には石や苔が多く配置されて、その隙間を縫うように白い砂利が光る。それはまさに山の間を縫って流れ下る渓流その物。全てを眺めて通すと、山に端を発した川が茫洋たる湖へと流れているよう。水を全く使わぬ枯山水形式であり、良くある主題といえばそれまでなのかもしれないが、それをここまで上手くまとめ、構成しているのは理香子にとって大きな驚きである。と同時に、その庭が表すものとは何なのか、と理香子は考えさせられる。
「おそらくこの部屋は、幻想郷でも最も眺めのよい場所の一つよ」
それは間違いないだろう、と理香子は頷いた。これほどの庭園、幻想郷にはなかろう。
「いや、お見事としか言いようがない。是非うちにもこんな庭が欲しいわね」
「感動していただけたら幸運ね。後で姫――輝夜にも伝えておくわ」
永琳も上品に理香子の隣まで動いてくると、そのまま理香子と同じように庭園に見入る。永琳にとっては毎日見る光景の筈なのだけれども、やはり良いものであれば飽きないらしい。
「お茶入りましたよ」
理香子がふと目をやると、鈴仙がお盆に茶を乗せて持ってきていた。どうやら番茶のようである。理香子は軽く礼をして受け取った。景色がいいとは言え、こうして襖を開け放っていると、少し寒い。それだけに、暖かい番茶は有難かった。
「ありがとう、ウドンゲ」
永琳も鈴仙の方をちらりと向いているようだった。けれどもすぐに庭園の方へと視線を移す。やはりこの庭園はいい。
「それで、二人して庭園見物ですか?」
「そう。とても良いものを見せてもらえて、ありがたいわ」
「ほら、ウドンゲも座りなさい。今は休憩中なのでしょう?」
永琳は微笑んで理香子と反対側の畳を指差した。鈴仙もそれへにこやかに答えて、楚々と座る。鈴仙に限らず、この永遠亭にいる人々は皆一所作一所作が上品である。これはきっと主の気品に由来するのだろうなぁ、と理香子は漫然と思った。
「やはり此処は特等席ですね」
鈴仙も座るや、嘆息して呟く。理香子の見たてではここは客間であろうから、永遠亭の住人といえどもこの部屋で庭を眺めることはそう多くないのだろう。
「最初、ひ、輝夜が庭を作るとか言い始めた時はどうなることかと思ったけれどね」
永琳は少し嬉しそうに笑って見せる。やはり主が良いものを作ると従者としても嬉しいのだろうか、と理香子は思う。自分としては"寧ろ鶏口と為るも、牛後と為る無かれ"という心持であるために、その心情は一生分からぬものなのだろうが。
三人でそのまま茶を啜りながら再び庭園に見入った。寒さすら気にさせないものをこの庭園は何か持っているように理香子には思える。一度見遣ると目が離せないのだ。
そこにはただ静のみが広がっている。しかし時折風が吹くや、ぞうぞうと竹がざわめき、かつかつという竹同士がぶつかる音がする。それがこの庭の静を僅かに乱し、変化を付ける。それがまたいい。
「そういえば」
と鈴仙が声を挙げたのは、どれほどの時が経ってからであったろうか。その時間はとても長いように思えるし、しかし一瞬であったような気もする。それほどにこの庭園には、魅せるものがあった。
「何かしら?」
永琳が問いながら庭園から目を離し、鈴仙を灰色の瞳で捉える。理香子もまた、鮮やかな紫色の瞳を鈴仙の方へと向けた。
「あ、そんなに重要な話ではないですけれど」
突然四つの瞳を向けられたからだろう、鈴仙は少し戸惑った様子で言う。
「理香子さん、あの"サイコロ"の話はどうなったんですか?」
「サイコロ?」
「あ! すっかり忘れていたわ」
理香子はああ、と手を叩く。庭園の素晴らしさを前にケロっと忘れていた。此処に来るまでは何よりの問題だと思っていたのだけれども、こうして何かあるとすっかりどこかへ言ってしまう。人間の記憶という物も面白いなぁ、と理香子は思った。次の研究対象にでもしてみようか。
「そう、サイコロ。鈴仙が貴女なら分かるじゃないかって」
永琳はその言葉に首を傾げた。そのことに慌てて理香子は補足を入れた。
「立方体の炭素骨格を持った炭化水素を作りたいの。けれども中々上手くいかなくてね」
ふむ、と永琳は瞬きして、それから少し考える風を取った。
「109.5度必要な炭素の結合角を、90度にまで縮めたいのね」
「そう。ヒントだけでいいのよ。突破口が欲しいの」
理香子の紫の瞳は永琳の顔をしっかり捉えている。一方の永琳は、理香子の少し上の辺りへ視線を投げているようだった。少しの時間を経て、永琳は瞳を下ろすと少し残念そうな表情をして、理香子を確と見る。理香子は次の言葉を待った。
「ごめんなさい。わからないわ」
しかし、出たのは理香子が待っていない言葉である。
「私は薬を作っているから、薬になるかどうかわからないものの作り方は分からないの」
「そう」
「お役に立てなくてごめんなさい」
「いえ、お気になさらずに」
必ずしもこの薬師は万能というわけでもないのだなぁ、と理香子は少し意外であった。とにかく難題を脱出したい理香子にとって彼女すらわからなかったということは残念至極のことであるが、同時に理香子は安堵もしていた。この難題が解かれていないということは、少なくとも科学の発展・進歩という点において理香子の活動は決して無駄ではないと言うことである。もし永琳がこの難題を解いているならば、炭素のサイコロを作る実験はただの遊びと同じになってしまっていたのだから。
結局、永遠亭で理香子は昼餉まで頂くことになってしまった。庭園を眺めていた時間が存外長かったようだった。
かくて座敷に理香子は案内される。理香子が永琳の後ろから入ると、既に上座には一人の女性が座っていた。
「こんにちは。私が永遠亭の主・蓬莱山輝夜よ」
着座するや、その女性――輝夜は理香子へ声を掛けた。彼女の挨拶に理香子も頭を下げ、それから彼女の姿を見る。そして理香子は輝夜を視線に捉えて、そして固まった。帝すら求婚したというかぐや姫の名を背負うだけの、何か人を惹きつける所を持った絶世の美人であった。これほどの美人を理香子は見たことがない。これ以上の美人と言うものがいるならば、それは最早この世の存在ではない気がする。
そしてただ美人だというだけではないのが輝夜の恐ろしさなのかもしれない。琳とした声はまるで玉の触れ合う音の如く、耳に心地よく響く。その漆黒の瞳は輝夜の輝く知性、そして深遠なる人格を思わせる。
これだけの器の人間がこの世に存在するということをが驚きだと、理香子はそれほどの感慨を抱いた。
「永遠亭へようこそ。大したものは出せないけれども、くつろいでくれれば有難いわ」
「こちらこそ、初めまして。朝倉理香子です」
けれども理香子の挨拶はすんなりといった。輝夜という人物の大きさこそ見たかもしれないけれども、永琳のようにそれに圧倒されることがない。彼女には人を安心させるような雰囲気が漂っているようである。かのかぐや姫も輝夜には敵わないのでないか、とすら理香子には感じられた。
「理香子さんね。優曇華から時々私は聞いているわ」
「理香子で構いませんよ」
輝夜の会釈に理香子も会釈を返し、それからズレた眼鏡を少し上げた。
「しかし、本当にお呼び頂き有難うございます。その上、このような場まで用意していただいて」
「あら、全然気にすること無いわ」
理香子は頭を下げようとしたが、輝夜は手を振ってこれに応じた。
「客人をもてなすのは当然のことだもの」
明るい表情のまま輝夜は手を一撃ちした。その音が鳴るや、永遠亭の妖兎たちが四人分の御膳を持って入ってくる。
「これは、凄い……」
その御膳を覗きこんだ理香子は、その料理の優雅さに卒倒しそうになった。
小鉢にはそれぞれ料理が盛られているが、その孰れもがまるで芸術作品とでも言えるように形を整えられ、美味しそうに輝いている。箸を付けてその形を崩してしまうことが憚られるほどであった。故に理香子は暫く料理を前にして箸も取らず、ただ料理の美しさに見入った。
輝夜もその様子に顔をほころばせる。理香子は暫くそのまま料理を眺めてから、決心したように小鉢の一つに箸を付けた。
「……」
もはや理香子は言葉が出なかった。出汁を中心にした上品な味付けで、その出汁の複雑な味わいはとても真似できそうにない。このような代物、おそらく他のどこへ行っても食べられる物ではないだろう。少なくとも人里で生活する理香子にとっては相当に縁遠い。
幻想郷の料理といえば、山や川で取ってきたものを醤油や味噌で豪快に味付けしたものがほとんど。そしてそんな文化に生まれ育った理香子も、料理といえば大概食材をがつがつ焼いたり煮たりする程度。幻想郷の料理はなべて素朴な物ばかりであって、こんな手の込んだ料理なんて思いもつかないものなのだ。
「どうかしら」
ふと我に返ると、輝夜が少し真剣な顔をして理香子を見ている。ハタと気付いて、理香子は頭を下げた。
「まさかここまで美味しい料理が頂けるなんて思いませんでした。本当に感謝感激です」
「そう、良かった」
理香子の答えに安心したのか、そこで初めて輝夜も御膳へ箸を付けた。どうやら理香子が何かを応えるまで誰も箸を付けていなかったらしい。
「うん、確かに美味しいわ。よくここまでの物を作れるようになったわね」
「料理を仕込んだ甲斐があったものです」
永琳もその味には満足している様子だ。その箸はほんの先しか濡れておらず、とても使ったように見えないが。
「本当ですね」
うんうん、と頷きながら鈴仙も料理に顔を緩めていた。
この料理を作った兎の話に理香子も興味はないでもなかったのだが、それよりまず理香子はこの料理を静かに味わうのが先決に思えた。此処までの料理をただ漫然と食べてしまうのはもったいない。だから理香子はそれから一言も口を開くこと無く、一つ一つの料理をなるべく味わい、少しでも記憶にとどめておこうと努力した。 美味しいものを食べれば無口になる、ということが本当であると実感しながら。
「本当に素晴らしい料理を頂いてしまって、本当にありがとうございました」
「いいのよ、永遠亭のもてなしとして当然のことをしたまでなのだから」
理香子は玄関でとにかく頭を下げる。結局何から何まで世話になってしまい、今の理香子にできることは永遠亭の人は感謝することだけだった。
「しかし、ここまでしてもらって。あのような料理、きっと稗田や霧雨でも食べられないもの」
「永遠亭と人里と、ちょっと文化が違うから仕方ないわ」
特に人里を卑下するわけでもなく永琳は言った。
「幻想郷には幻想郷の良さがある。幻想郷の料理、私は結構好きよ」
昔を……、と永琳が告げたように理香子は聞こえた。しかし、その声は上手く聞き取れない。そこに理香子はとても興味を持ったけれども同時に、それはあまり聞いてはならない言葉であるような気もした。
「ならば、今度私の家に是非来るといいわ。ここまでのもてなしはできないけれども、幻想郷の杜撰な料理くらいなら私でも作れるもの」
「あら、それは嬉しいわね」
永琳はくす、と笑って言った。理香子はなんとなく、この人はある日突然押し掛けてくるに違いないのだろうな、と思った。そういう妙な行動力を永琳からは感じる。
「それでは、今日は本当にお世話になりました。それではそろそろ失礼します」
「こちらこそ、お越しいただいて有難かったわ。それじゃ、幻想郷の料理を楽しみにしてるわ」
理香子は一礼して、永遠亭の敷居を跨ぐ。永琳が頭を下げているのを見て、理香子ももう一度頭を下げてから、案内の兎に連れられて竹林の間を歩き始めた。
存外長居してしまったなぁ、と理香子は空を見上げた。既に日は傾きかけている。
しかも例の研究の糸口は全く掴むことができなかった。月の天才にすらわからないとなると、もうどうしようもない。河童どもの魔術だか科学だかわからんような研究はこれっぽっちも役に立たないし、霖之助の超理論も科学には何の益をも齎さない。この幻想郷に理香子以外に科学を真面目に学んでいる人は、まずいないのだ。
これからどうしようかな、と理香子は少し首を捻った。特に行く先はない。人里の中心に向かっても殊更やることもなし、だからと言ってまだ研究に戻ろうとも思わない。
「あれ、こんなところで何してるの?」
理香子が思案していると、竹林の方から声が掛けられた。最も、理香子が来た方向とは別の方向からだが。
「あ、妹紅。こんにちは」
「こんな所に居るのは珍しいわね。一体どうしたの?」
「今から何処に行こうか迷っていて。妹紅は?」
理香子が問うと、妹紅は背中の竹細工を示して見せた。
「私は今からこれを霧雨道具店に卸しに行くのよ」
「道具店ね。特に買い物はないけれど……」
理香子は少し考えた。どちらにしろ行くのは家の方なのだから、その途中にある霧雨道具店を通るのは間違いない。
「そうねぇ。私もそちらの方に行くことにするわ。ご一緒していい?」
「私は歩いていくけれど、それでも構わない?」
「いいわよ。本来人間は二足歩行の動物だものね」
「そうよ。空飛ぶ人間なんて、妖怪も同然よ」
かくて、理香子は妹紅と共に霧雨道具店の方へと足を向けた。
「で、貴女は一体何故あんなところに居たの?」
「永遠亭に行ってたのよ。鈴仙に誘われて」
永遠亭、という言葉に妹紅はほんの僅かに眉を顰める。しかし理香子はそれに気付かなかった。
「鈴仙、というとあの越中の兎か?」
「越中?」
鈴仙は確か月出身の兎であったはず。それがどうして、越中の兎になるのか。理香子は首をかしげる。
「ええ。越中。越中富山の薬売りー、ってね」
「ああ、なるほど」
確かに、鈴仙を見る時は大概薬籠を背負って歩いている時。越中富山の薬売りの如く、家々を回って置き薬の確認と代金徴収をしている時だ。
「あの兎も御苦労なことよね」
「いくら人里だけとはいえ、一人で全部回るのは中々難儀でしょうからね」
「あれだけこき使われて文句一つ言わないとは、従順なのか頭がないのか」
妹紅はくすりと笑う。ちょっと馬鹿にした笑いだ。
「けれどもあれの御蔭で、人里の医療状況は飛躍的に改善しましたけれどね」
「まあね」
妹紅の言葉は何だか素っ気ない。人里は永遠亭の恩恵を相当に被っていることは事実である。しかしそれを妹紅は必ずしも完全には受け入れていないらしい。
「そんな妹紅さんも、随分働いていますよね」
「喰っていくには何もせずに生きるわけにはいかないからね」
人里には幾らかの地主がいる。朝倉家もその一つであり、その御蔭で理香子は大して働かずとも研究する金がある。働かずに自由なことができるのは決して当然ではないと思っているし、代わりに朝倉家には朝倉家として人里を上手く運営する義務があると、理香子は思っている。人里運営に尽力して初めて、朝倉家は作物を受け取る権利があるはずだ。
「だから竹細工ですか?」
「ええ。竹細工もあるし、竹炭も作ってる」
妹紅が背中の籠を少し揺すって見せる。理香子はそれに従って籠を覗きこんだ。竹炭と魚籠が入っている。
「炭焼きまでするなんて、もうほとんど山の人ですね」
「山の人だもの。元々」
「山の人、ですか」
理香子はこの妹紅という人間を少し量りかねている。確かにこれだけの物を作って人里に卸しているというのは、人里で純粋に生産者として活動しているということである。しかし、こうして妹紅と話すと、理香子は妹紅にそれ以上の何か――理香子が所謂"支配者"に対して感じるような雰囲気――を感じるのだ。
「そう。なにせ何年山に籠ってたと思ってるのよ」
「やっぱり経験ねぇ」
「伊達に経験積んでないから」
にこり、と妹紅は笑う。けれどもそこに若干の影があるように、理香子には思えてならなかった。
「理香子でも研究に詰まることがあるんだね」
「妹紅は、一体私を何だと思ってるのよ」
「変人」
日は少しずつその赤みを強めていく。妹紅の白銀の髪もまた少し赤らんで、鮮やかに輝いている。
「なによ、それ」
「変人と天才は紙一重、ってね」
「あのねぇ、私は残念ながらどちらでもないわよ」
「あれ、そうなの?」
妹紅の言葉に、理香子は少し溜息をつく。妹紅もなかなか理香子を過大評価しているらしい。
「そうよ」
「変人でない人間が幻想郷に居るということが驚きね」
「自分が変人であることは認めるのね」
「私ほどまともな人間が、他に何処にいたっけ?」
「あのねぇ……」
理香子の困り顔に、妹紅は大笑した。その朗らかな顔に、釣られて理香子も笑う。
「それで、貴女はどういう研究してるの?」
「ええと、説明すると長くなるんだけれど」
「構わないよ。霧雨道具店に着くまでに解説が終われば」
「仕方ないわね、ええと……」
理香子はしぶしぶ説明を始めた。幻想郷の人間で科学を知ろうと思う者は居ても、だいたいすぐ付いて来れなくなる。そういう思考をしたことがない人間が多いからだ。それに神やら妖怪やら魔力やらが跋扈するここで科学を信じる者もいない。
「……世の中は全て粒子によって構成されている、と科学では考えるの」
「粒子?」
「さっき、原子のところで陽子・中性子・電子という粒子があるという話はしたわね」
「ああ。その三つの粒子の組み合わせで原子が構成され、その原子の組み合わせで様々な物質ができている、と言ったな」
妹紅は先からずっと熱心に理香子の話を聞いている。そんな妹紅の態度に理香子はひそかに感心していた。大概の人間は、科学の思考法を受け入れられず、科学を放棄することが多いからだ。
「そうよ。でも、その陽子や中性子も、クォークというより小さな粒子が集まってできているのよ」
「万物はそのクォーツとやらが集まってできているってことか?」
「そういうこと。物質を構成する粒子は、6種類のクォークと6種類のレプトンが存在するって、今では考えられてる」
「易では万物が陰陽から構成されている、とされているが、それが6+6の12種類だった、ということか?」
「それが、まだ続きがあるのよ。粒子はクォークとレプトン以外にもたくさんあるの。例えば重力を伝える重力子とか、光を伝える光子とか」
「ちょっと待て、光や重力が粒なのか?」
「そう。この世の中に働いているすべての力は、粒子の運動によって成り立っているの。重力も重力子によるものだそうよ」
「ふむ」
「で、ここからが本命なのだけれど。それらの粒子は粒子にして波、なんだそうよ」
「波?」
「そう。それらは確かに粒としての性質を持っているけれども、同時に波としての性質も持っているということがわかっているわ」
「……」
妹紅は少し考える。説明が足りなかったかな、と理香子は別の言葉を探す。なにせ、この部分は理香子が理解するのにも3日ほどかかったところなのだ。しかも今の説明ではちょっと足りないだろう。
だが、補足をする前に妹紅は口を開いた。
「"渾沌、七竅に死す"か」
「え?」
「世の中は、粒でも波でもある。そういうものなんだろ? 粒だ、とか波だ、とかそういう既定概念に囚われるのが間違いなんだろう」
「え、ええ」
妹紅の言葉に理香子は暫く呆気に取られた。妹紅に肩を叩かれるまで、理香子は思わず立ち止まっていた。
科学の知識を吸収するその速さに、理香子はすっかり目を丸くしていた。理香子が解説すると、妹紅はそれを巧みに自らの持つ概念を想起して理解を重ねていく。漢籍の名が次々と出て来る妹紅の教養と、理香子の純科学的な話を巧みに漢学と結び付ける思考力、そして科学の思考方法を飲み込む理解力の速さに、理香子は舌を巻かざるを得ない。
どうして、ここまでできる妹紅がこうして一人竹林に暮らしているのか、理香子にはいまいち理解することができなかった。
「科学というものも、中々面白そうね」
妹紅は未だ理香子の解説を噛み砕いているようで、何かを思考している仕草を見せながら少し笑う。
「科学を理解できる貴女が凄いと思うけれどね」
「幻想郷で独り科学の実験を重ねる貴女に言われたくないけれどね」
「私だって、理解するまでにはだいぶ掛かったわ」
「今ここで科学を理解したわけじゃないよ。ただ面白そうだなと思えたくらい」
理香子はふと、妹紅という人間の出自が気になった。稗田阿求に言わせれば忍者だとかいうが、理香子にはそのようには思えない。此処までの聡明さを持ち、教養を得ることができる人間といえば、おそらく上層階級出身であることは間違いあるまい。が、そんな彼女は手に職を付けていたりする。妹紅という人間の不思議さはきっとその辺りだ。
「それで充分よ。どう、貴女も科学学ばない?」
「やめとく。学問するほど、考えることは好きじゃない」
「でも、貴女ならきっと素晴らしい発見もできるわ」
理香子は諦めない。妹紅程の人間を竹細工に使うのは、世の中に対して失礼な気さえする。
「いいや。私は研究には似合わない人間だから。そういうのは全部慧音に任せることにしたし」
諦めないつもりだったが、妹紅を説得するのはとても難しそうだった。というより、おそらく無理だろう。
「そう。残念だわ」
理香子は心底残念であった。幻想郷に科学者が増えればよい、と思った事はない。けれども妹紅が科学を学んでくれたらきっと理香子の力になるだろうし、あるいは理香子以上のものを見つけることが出来そうな気がする。そういう能力を持ちながら参加してくれないというのは、理香子にはすこし寂しかったのだ。
「私は竹細工でいいよ。ほら、もう霧雨道具店にも着くしね」
「案外早かったわね」
「そうかな。私一人だったらもう少し早く着いただろうけど」
霧雨道具店、と右から左に書かれた看板を見て、それから中を眺める。流石幻想郷随一の商店というだけあって、品揃えはいい。
「それじゃ、私は卸してくる。貴女は?」
「特に買い物もないしね。私は帰ることにするわ。それじゃ、またね」
「じゃ。付き合ってもらって悪かった」
「いいえ。楽しかったわ」
理香子は霧雨道具店へ入っていく妹紅へ手を振った。行く先は決まっていないけれども、だからといって道具店に用はない。豪放磊落な霧雨の親父さんと話をするのもいいかもしれないけれども、稼ぎ時だろうこの時間帯に押し掛けて話し込んでしまうのは少し迷惑だろう。それに霧雨の親父さんと話をするならば、清酒を片手にじっくり話をしたい。だから今度の機会にすることにしたのだ。
「とはいえ……」
やることがないのは先から事情は変わっていない。すっかり日も赤く染まる時間になってしまっているけれども、日が沈むまでにはまだ猶少ないながらもまとまった時間を残しているだろう。
「……とりあえず、家に向かうか」
理香子は自分の家に向かって歩き始めた。朝倉邸があるのは隣の集落だから、もう少し距離がある。
人里は妖怪の山から流れ出る川に沿ったいくつかの集落から構成されている。そのうち霧雨道具店は最も下流の集落に位置していた。かつては人里への入り口として物流の拠点であったため、この集落には商家が立ち並んでいる。そのゆえ人里の中心にある稗田家の集落よりも、活気という点では勝っているかもしれない。
「こんばんは」
声と共に、理香子は肩を軽く叩かれた。理香子はさらりと振り向いて、誰かを確認しながら会釈する。一人は緑髪に白い水干、青い袴姿で買い物袋をぶら下げた少女。もう一人は道士服に九尾を背負い、やはり買い物の袋を持った絶世の美女。妙な組み合わせである。
「これは藍さんに早苗、随分と妙な組み合わせね」
「先ほど霧雨道具店で買い物をしていて、藍さんと偶々会ったんです。それで、いろいろ買い物を手伝ってもらって」
「なに、大したことはしていないよ。ただ上手い値切り方教えただけでね」
「あの親父さん相手に値切りができるようになれば、相当な物よ」
理香子は霧雨の親父さん相手に値切りに成功したことは一度もない。人懐こい話し口と豪快な性格に飲まれて気付いたら言い値で買わされてしまう。子が子なら親も親だ、と思う。
「でも藍さんはだいぶ値切ってくれました。本当に助かります」
「人里での値切りに苦心するようでは、今頃私は胃潰瘍で幽々子さまの従者になってしまっているだろうからね」
藍が苦笑しながら答える。その苦笑が普段の苦労を滲ませるようで、理香子は少し藍に同情した。やはり魅魔の言う通り紫は喰えない奴であるようだ。
「藍さんにそこまで言わせる八雲紫という妖怪がどのような物か、会ってみたいところです」
「止めておいたほうがいい。どうせ早苗じゃ手玉に取られるだけ、ロクな目に合わんぞ」
「藍さんも、随分苦労人ね」
「相手が紫さまなら仕方ない。それだけの御仁だからな」
藍の言いようは、紫に対する誹謗中傷とさえ取れなくはない言葉ではあったが、理香子はそんな感情を全く感じなかった。やはり藍は主の紫に大きな尊敬を持っていて、心の底からの敬愛故にこんな苦労を厭っていないのだろう。
「それはそうと、理香子さんはどうしてここに?」
早苗がちょっと首を傾げる。その仕草はやはり、どことなく早苗の幼さを感じさせる。
「さっきまで永遠亭に居て、そこから家に帰る途中なのよ」
「永遠亭――病気でもしたのか?」
「いや、ただ呼ばれただけよ。偶々鈴仙に道で会ってね」
「そうなんですか」
ふむふむと得心の表情を浮かべる早苗と、少し目を細める藍との表情の差が少し面白いな、と理香子は思った。もっとも、別に永遠亭で何か重大なことをしてきたわけでもなし、藍が何を考えているのか理香子にはわからない。
「鈴仙さんも確かに人里で良く見ますよね。薬の箱背負って、いつも大変そうですけど」
「あれの御蔭で、だいぶ人里の医療状況も改善されたけれどね」
「月の頭脳の影響はただならぬ、か」
「そうやって人の役に立てるって、すごいことです」
早苗は素直に永遠亭の薬事業に対して感心しているようだった。勿論、永遠亭が人間を救ったことは称賛に値する。けれども、誰でも無償の提供というものは信用しない。永遠亭が薬を配っている代償に何を考えているのか、と考えるものだ。そういう常識に囚われず、ただ素直に永遠亭に対して感謝と尊敬を捧げる。そういう真っ直ぐなところが、早苗のいいところだろう。こんな性格だからこそ、幻想郷にすぐ溶け込んで、あちこちで可愛がられているのに違いない。
「確かに、永遠亭は賞賛すべきかな」
一方の藍は、やはり裏に何があるのかということを何か考えているようだった。それが当然の態度であろうし、特に幻想郷の安定に尽力する八雲紫の式ともなれば、そういうものにも心を配るべきなのだろう。もし紫や藍も早苗同様に素直ならば、この幻想郷は瓦解してしまう。早苗の素直さは評価すべきだけれど、藍の深慮もまた重要だと、理香子は思う。
その上でどちらの態度を取ろうが、それは構わないのだ。
「人里を挙げて感謝しなきゃいけないかもね」
「私もそう思います。あれほど人の役に立てたらいいなぁ」
早苗と理香子の表情に、藍の表情もほぐれる。どうやら永遠亭を疑っても仕方ないと思ったようだ、少なくともこの場では。
「それはそうと、理香子はこれからどうする?」
「そちらは何か決めてるの?」
「特に決まってません。さっき丁度、藍さんと私は分かれるところでしたから」
早苗が住む神社は稗田家の近くにある。守矢神社の本社は妖怪の山中腹に存在するが、そこではちょっと交通に難がある。神様二柱ならともかく、まだ人間としての生活が必要な早苗には厳しい場所だ。そこで人里との交渉の末、元々人里の鎮守であった神社を守矢神社の分社と為し、早苗はそこに住むことになった。神二柱は基本的に本社に住んでいるというが、人里で見かけることも多くなったように思う。一度ならず蛙神が買い食いしているのを見たことがある。
一方で、藍の住む場所は全くの不明。しかし人里の中にないのは間違いない。おそらく人里の外に出るのだろう。
「そう。私も特に決まってないわよ」
理香子は少し考える。このまま別れてしまってもいいのだけれど、もうだいぶ日も傾いている。永遠亭で大層豪華な昼食を取らせてもらったとはいえ、やはりそろそろ夕食時であるよう。炊煙もあちこちの家から上がっている。
「もうそろそろ夕食時だし、夕食でも御一緒しない? 何軒か美味しいお店を知っているのだけれども」
「それ、いいですね」
早苗は即答した。これから神二柱の為に夕飯作るから無理です、とでも言うかと思ったが、存外に早苗は自由らしい。神二柱も、早苗はきちんと一人の人間として扱っているのだなぁ、と今更ながら理香子は思った。少なくともあの神たちにとって早苗は従者ではないのだろう。
「そうだな、たまにはいいか」
一方の藍は少し考えてから、やはり諾の返答をした。藍とて食事をどこで取るかの自由くらいはあるらしい。それに、あの八雲紫である。きっと従者なしに完璧の生活をしているに違いない。
「それじゃ、決まりね。何処がいいかしらねぇ」
霧雨道具店周辺の店を頭に描きながら、理香子は丁度良い店の選定を始めた。
「さっきから私ばかり話してた気がするんですけれど、そういう理香子さんはどうなんですか?」
「最近ねぇ……。最近、研究が進まずに困ってるわ」
理香子が選んだ店はこじんまりとした料理屋である。昔は宿も兼ねていたそうだけれど、結界が消滅した今、宿の必要もなくなったから料理屋のみに専念するようになったとか。宿は閉じたといえ、元々宿であったと言う店らしく接客はしっかりしているし、料理もなかなか美味しい。
「研究、とは例の自然科学のか?」
「ええ。今は舎密よ」
答えながら、理香子はおちょこを呷る。中身も幻想郷の素朴な清酒である。
「舎密――化学ですか。一体どのような研究を?」
「立方体の炭素骨格を持つ炭化水素を作りたいのよ」
「立方体、か」
二人ともが少し考え込んだ。二人とも科学に対して理解があるから、こう言う話はやり易くていい。
「難しそうなものを作っていますね?」
「存外手こずってて、今は完全に詰まっちゃってるわ」
「あちゃー」
早苗は湯呑を置きながら、苦笑する。ちなみに、早苗の湯呑の中身は茶だ。
「いつものこと、といえばいつものことじゃないのか?」
「それもそうなのだけれどね」
藍の言葉には頷かざるを得ない。引っ掛からない研究なんてやっても面白くないのだし。
「そうなんですか」
「そうなのよね」
理香子は、何となく納得している早苗へ苦笑を返した。
「炭素は確か不対電子が4つ、ということは共有結合は4つ可能だったな」
「ええ。で、その間の角度は109.5度になる。全ての結合は反発して最も離れようとするから」
「立方体を作ろうと思うと、間の角度を90度まで縮めなければならないってことですね」
「そういうこと」
早苗は外から来た人だからある程度話が通じるものとは思っていたが、藍にもここまで話が通じるとは思っていなかった。どうやらスキマ妖怪のところで外の情報をいろいろ得ているらしい。
「それで、早苗はこういう化合物の合成とか、外で習ったりしてない?」
「うーん」
早苗は少し考え込んだ。少し考え込んでから少し残念そうな表情を見せる。
「理系でしたから一通り化学も学びましたけれど、そこまで細かいのは勉強しませんでした」
「そう。ならいいわ」
「お役に立てなくてすいません」
「いいのよ」
申し訳なさそうな顔でこちらを見る早苗に、理香子は優しく語りかけた。やっぱり早苗は真面目だ。
「藍さんは知らない? 舎密の本読んだ、とか」
「済まないが知らない。数学はできても、自然科学までやろうとは思っていないからな」
藍も少し申し訳なさそうな顔をして見せる。けれども早苗のそれに較べればそこまで深刻そうではない。
「それならそれでいいわ」
理香子はとっくりを持つと、藍のおちょこへ注ぐ。藍はそれを一気に飲み干すと、今度はとっくりを受け取って理香子のおちょこへと注いだ。しかし理香子はそれを飲み干さず、半分ほど残しておく。藍と同じペースで飲んでいたら、あっと言うまに潰れてしまうからだ。藍は狐であるがウワバミである。
「どうにも手のつけようがわからないのよ。せめて方針だけでも立てばいいのだけれど」
「手のつけどころ、ですか」
藍がまたおちょこを呷る。その飲みっぷりに早苗は驚きと羨望の綯い交ぜになったような表情を浮かべていた。
「立方体を作るならどこからか、ということだな」
三人の間に少しの沈黙が広がった。三人ともわからないなりにどうすべきかを考えてみる。酒の場にしては静かな光景である。
「……例えば、立方体を作るならば展開図を折りたたんでいく方式がありますよね」
「そもそも、展開図の形をした物を作るのが難しい。それを組み立てる方法もわからないわ」
理香子がおちょこに残った酒を飲み干して、答える。
「正方形二枚を一組にして、それを三枚集めるという手もある」
「三枚が上手く立方体として組み合わさらないわ」
答えを聞いて、藍はおちょこの酒を飲み干す。理香子が空いたおちょこに酒を注ぐと、また飲み干した。
「それでは、正方形を二枚持ってきて、それをつなげちゃったらどうですか?」
「え、どういうこと?」
早苗が少し難しそうな顔をしている。何と説明すればよいのか、と思考しているようであった。
「えっと、こうやってですね」
早苗は懐紙を取りだすと、それを正方形二枚にする。中々手が器用なようで、きちんと正方形になる。
「正方形二枚を重ねるんです」
早苗は一枚を下に置き、もう一枚を左手でその少し上に掲げた。
「それで、上の正方形の頂点と下の正方形の頂点とを四本結べば」
と言いながら、右手で角から角を指す。
「立方体になりますよね」
「確かに、立方体になるな」
藍が感心して数度頷いている。一方の理香子は、暫く思考停止していた。どうしてこれに気付かなかったのか、と。
「……駄目でしょうか?」
「いや、駄目じゃないわ」
不安げだった早苗の顔が、理香子の肯定によってぱっと明るくなった。早苗という少女は、そういう素直な感情表現をする。
「こんな手があったのね。これなら、シクロブタジエンを使って……」
一方の理香子と言えば、もう完全に自分の世界に入り込んでいた。こんな絶大なヒントが入ったのである。理香子の思考がこれを見逃すはずがなかった。
「……もしもしー?」
「……」
「駄目だな、これは」
藍は早苗に向かって首をすくめる。早苗もまた仕方なさそうに首を振った。当の理香子と言えば、先ほどから二人の預かり知らぬ世界に籠ってしまっているらしい。何に対しても反応しない。
「これだけの集中力がなければ、研究なんてできんだろうしな」
藍は苦笑しながら一人でとっくりに酒を注いだ。
「確かに、それも言えてますね」
早苗も急須からお茶を自らの湯呑に注ぐ。その顔にはやはり苦笑が浮かんでいる。
「紫さまも似たようなものだからな。もう少し待てば戻ってくるだろう」
「でしょうね」
くすり、と二人は目を細めて笑顔を浮かべる。理香子はといえば、そんな二人にお構いなく相変わらず真剣な顔で何かを考えていた。
「……あれ?」
「あ、戻ってきた」
藍の予想通り、理香子はしばらくするとこちら側へと戻ってきた。
「良い考え思い付きましたか?」
早苗がにこやかに理香子を見やる。理香子は少し茫としてから、状況をやっと把握した。
「……どれくらい考えてた?」
「さあ。どれくらいだろうね」
藍は少し意地の悪い笑みを浮かべて答えた。意地の悪い笑みですら様になっているのだから、この妖狐は救いようがない。まさに傾国の名が相応しい。
「全く、呼んでくれればいいのに」
「呼びましたよ、数回。けれど理香子さんたら全く気付かないし」
「気付くまで呼べばいいじゃない」
「理香子が気付かなかったんだから、文句は言えまい」
藍が理香子の肩を叩いて、とっくりを掲げる。理香子は諦めておちょこを差し出した。そのおちょこに注がれた酒を、理香子は一息で飲む。
「それはそうと、もうお開きでしょうかね」
早苗が左手首を見ながら言った。彼女は幻想郷では非常に珍しい腕時計を付けている。腕時計を見る動作に違和感がないというあたり、外の世界では腕時計は珍しいものではないのかもしれない。
「そうだろうな」
藍は窓の外を軽く見ながら言う。
「それじゃ、今日はお開きね。お代は私の奢りでいいわよ」
理香子は立ち上がりながら二人へと告げる。
「いいんですか?」
立ちあがった早苗が、財布を出そうと袖へ手を突っ込んだまま少し眉を下げて返した。
「構わないわ、どうせ朝倉家のツケだし。家がまとめて払うから、二人くらい増えてもそう変わらないし」
「つまり、理香子と言うよりは朝倉家の奢り、ということか?」
立ちあがりながら藍も聞く。それに理香子は頷いた。
「そういうこと。だから気にしないでいいわよ」
「ありがとうございます」
早苗は深々と礼をする。水干に青袴で礼をする早苗は堂に入っていて、理香子は少し気が引けた。
「ありがたい」
藍も道士服の袖を前で合わせて軽く掲げ、同時に頭を少し下げて揖礼を取る。これまた随分と様になっているな、と理香子は思う。
「そこまでのことじゃないわ」
理香子も軽く頭を下げ、外で待ってて、と告げるとそそくさと店主の方へ向かって行った。
「今日は良い店を紹介して頂いて、しかも奢ってまで頂いてありがとうございました」
「本当に良い店だった。これなら紫さまのお目にも適いそうだ」
「そうでしょ。ここまでの店はなかなかないと思うわ」
理香子は笑って答えた。既に空には星が瞬いている。月明かりが柔らかく照らし、それぞれの表情を浮き上がらせていた。
「それでは、私はこのあたりで失礼する。本当に今日は世話になった」
「こちらこそ、こんな時間まで引きとめてしまって済まなかったわ。懲りないなら、また今度」
「ああ、楽しみにしている。早苗も、またな」
「ええ。また今度」
藍が人里の出口へと歩いて行く。早苗と理香子と、軽く礼をしてから、二人で川の上流の方――人里の中心部へと向かって歩き始めた。
山間部である幻想郷ともなれば、朝晩はそれなりに冷えて来るものだ。夜風の冷たさに、理香子は思わず体を震わせた。
「すっかり冷えましたね」
早苗も思わず身を抱えたようである。
「この時期になればもう朝晩は冷え込むものね」
「紅葉ももうじきでしょうし」
すっかり暗くなってしまったから、山もすっかり黒く染まっていて、様子まで窺うことはできない。けれども昼に見た感じであると、まだほとんど紅葉は始まっていなかったように思う。
「でしょう。もう時間の問題」
「これだけ冷え込むからには、今年も奇麗な紅葉が見れそうですね」
「ええ。これだけ冷えるのだから今年もきっと奇麗よ」
朝晩の冷え込みが厳しい幻想郷の紅葉は、それはそれは美しいものである。幻想郷の四季のうちでもっとも美しいのはいつか、と問われたら理香子はおそらく紅葉の秋、と即答するだろう。梔子で染めたかのように色づく公孫樹に始まり、桜や漆、白膠木、蔦といった木々が次々と赤く黄色く姿を変え、楓の紅葉によって最高潮に達する。山が赤や黄色の木々によって染め上げられる様は何ものにも代えがたい。
「その紅葉が終われば冬ですから、もう冬の訪れも時間の問題ですね」
「紅葉が散れば初雪が舞う。せめて紅葉くらいゆっくり楽しみたいものだけれど」
「紅葉はああして短命に散るからこそ美しいんですよ」
「あら」
理香子は瞬き一つして、早苗を見る。
「あなた、存外にロマンチストね」
「へ?」
早苗が少し不思議そうな顔で理香子を見返してくる。
「私がロマンチストなのが、そんなにおかしかったでしょうか?」
「いいや、そんなことはないのだけれど」
「?」
理香子の煮え切らぬ答えに、早苗はますます首を傾げている。
「ただ、少し不思議だったのよ」
「不思議ですか?」
「そう。だって、あなたって外界からやってきたんでしょ?」
「そうですよ」
自信とも不安ともつかぬ顔で、早苗は答える。
「外界の人って、もっと現実主義的なのだと思ってたわ。奇麗な物は科学で長持ちさせるというかんじの」
「なるほど……」
外界に対する印象はあくまで理香子の主観でしかなく、理由の説明ができるわけではない。荒唐無稽に他ならないのだ。けれどもそんな適当な印象に対して早苗は何か思い当たる所があるらしかった。
「確かに、本当のロマンチストなんてのはいないかもしれません。青いバラを遺伝子組み換えで作る。世界中の美しい景色がTVから垂れ流されて、皆それに満足する。御神渡は水が凍った際の堆積膨張によるものという説明がなされる」
その言葉こそ、外界に対する否定的見解があらわに出ている。けれどもその口調は決して非難するような口調ではなかった。強いて言うならば、それはどこか温かみのある口調であるように、理香子には思えた。
「もちろん、紅葉を長持ちさせようと考える人もたくさんいるとは思います。けれども、私はやっぱりそれは違うんじゃないかな、と思うんです」
「貴女は外界の中でも、現実主義者に染まっていないのね」
「染まっていたら今頃、私は京都で学問に励んでいたと思いますよ」
「……そう」
理香子は少し心が痛んだ。
「早苗はさ」
「はい?」
早苗の表情は暗くて読み取り辛い。けれども決して明るいものではないのだろう。嫌なことを思い出させてしまっただろうか、と理香子は話題選択の失策を悔やんだ。しかし今更悔やんだとて仕方ないことであることも分かっている。
「こっちに来て良かった、と思ってる?」
この問いがより会話を泥沼にするであろう、ということを理香子も理性ではわかっていた。わかっていたけれども、理香子の本能がその問いを吐き出していた。幻想郷の中に生まれ、幻想郷の主流である魔術に長け、魔術の名門たる朝倉家に生まれ、しかし魔術を捨てて科学に心血を注いでいる理香子。外界に生まれ、外界の主流である科学を捨てて魔術に心血を注いでいる早苗。この似たような境遇故に、理香子は早苗に自分を見ていたのかもしれない。
「幻想郷に」
だから、聞いてみたかったのだろう。早苗が捨てて良かったと思っているかどうか。自分が捨てた魔術を取り、自分が取った科学を捨てた早苗という少女の心情を。理香子自身が、魔術を捨ててどのような心情に居たのか。
「良かったか、ですか……」
理香子が投げつけた酷な問いに、早苗はしばらく考え込んだ。歩く速度こそ落ちないけれども、早苗はうつむいて黙り込んでしまう。暗さもあってその表情も全くうかがえないから、理香子は不安でしかたなかった。やはりこれは投げてはならぬ問いだったのではないか、と。
「そんなの、わかりませんよ」
けれども答えは存外に軽い口調で返ってきて、理香子は少し驚いた。
「何の変哲もない風祝として奇跡を使いながら、敬愛する神様と、神の復活を目指す私。何の変哲もない学生として科学を学びながら、大切な親友達と、平凡で平和な生活を目指す私」
早苗は理香子の方へと向いた。その表情は決して悲しみや後悔といった負の感情を窺わせない。本当にそういう感情がない、といえばきっと嘘になろうが、早苗という少女はそういう負の感情を乗り越えられるだけの力を持つのだろう。
「どちらが良い人生を送れただろうかなんて、わからないです」
「わからないわ、確かに」
「だったら、別に比べても仕方ないです。私は学生を捨てて風祝を取っただけ。その選択に後悔さえしなきゃ、あとはどうでもいいんですよ」
「なるほどね」
選択に後悔はせず、前を向いて歩く。ただ前を向いて歩くという素直なことが、人には非常に難しい。それを為し得るほどに真っ直ぐな早苗が、理香子には少し眩しくすら思えた。
「少なくとも、私は幻想郷に居られることを誇りに思っていますよ」
にこり、と早苗は笑顔を浮かべる。明るいところであればさぞ美しく見えたろう、と理香子は少し残念だった。
「私の家に泊まっていけばいいのに」
「いえ、今日は帰ると伝えてありますから」
「貴女の同居人、大人どころか神なんだから、一日くらい放っといても大丈夫でしょうに」
「まあ、そうなんですけれどね」
早苗が苦笑する。早苗が折れるはずがない、ということを理香子もわかっている。
「それじゃ、気を付けて帰ってね」
「今日は御馳走になって、本当にありがとうございました」
「そりゃ、ウチの当主に言った方がいいわ。払うの私じゃなくて朝倉家だもの」
「そうでしたか」
早苗がくす、と笑う。理香子も釣られて笑みを浮かべた。
「それでは、有難うございました。また今度」
「それじゃあね。また」
早苗はここからは独りで神社に戻っていく。とはいっても、並の妖怪よりはずっと力もあるから放っておいても安心だ。それに、もし早苗の手に負えない事態になっても御柱なりなんなりが彼女を護るだろう。鎮守神を敵に回して平気な妖怪がどこに居ようか。
「さて」
理香子も家の門をくぐる。こんな寒い日は、さっさと風呂を浴びるに限る。
「今日は寝よう」
早苗に大ヒントを貰ったが、また徹夜を始めるのも気分が乗らなかった。
研究の糸口は確かに糸口であったが、糸口でしかなかった。
ひとまず魔術に関わる思考は捨て、とにかく研究に熱心になろうと、人里を歩き回った翌日から理香子は半ば無理矢理再び研究に打ち込んだ。早苗のヒントの通り、二つの四角い炭化水素――シクロブタジエンを利用し、その四つの炭素全てを架橋して立方体を作ろうと挑んだのである。
ところが、世の中そう上手くは運ばない。シクロブタジエン二つの間を架橋することは可能であった。しかし、それは炭素二つまでに留まってしまったのである。二つ結合を作れば、四角が三つ繋がった形になる。これで端の炭素を結合させれば立方体は完成する。ところが、端の炭素の結合がどうもうまく行かないのだ。
結局これは、炭素結合角のせいであるのは明らかだった。炭素の結合角は109.5度、90度より大きい。それゆえ、四角形を三枚縦につなげた形の炭化水素は、それぞれの四角形同士のなす角度が90度より大きくなる。すると結合を作るべき両端の炭素原子の距離が離れすぎてしまって、結合が作れなくなってしまう。四角形三つでは、端同士の結合を作るのに少し長さが足りなかったのだ。
いろいろな試行錯誤の挙句、どうして立方体にならないかという理由は三日目に漸く理解することができた。が、その突破方法はまたもや闇の中であった。それから二日間、全く一睡もせずに研究を続けたが、どうにもならなかった。
「あー! どうしてこうも上手く行かないのよ!」
理香子は思わず叫んだ。すでに徹夜六日目に突入し、いくら魔法で体力をブーストしているとは言え最早限界が近い。魔力も体力もいい加減枯渇してきている。いつもなら実験する端から使い終わった試験管やビーカー、フラスコは魔法を使って洗わせ、反応中のビーカーはガラス棒を魔法で動かして掻き混ぜているはず。が、もはやそんな魔力が残ってないから、実験効率も著しく落ちていた。
「それじゃ、次は……」
それでも理香子は諦めない。ふらふらしながらも本を取りだし、懸命に読み始める。実験に頭の中を支配された理香子には、自らの体のことなんて全く眼中に入っていなかったのだ。
理香子は捨虫の術も捨食の術も習得していない、平凡な人間である。その気になって習得すればものの十日ほどで体得することができるはず、というのはアリスの言であるが、理香子はそんなものを学ぶつもりは毛頭ない。もし理香子が不老不死になるとしたら、それはやはり科学の発展の結果であって、断じて魔法によるものではないだろう。
「……あれ?」
さて、そんな普通の人間が、いくら魔法の助力があるとは言え、睡眠を七日間も取らなければどうなるのか。結果は明らかである。
「私、一体?」
体力も魔力も使い果たし、それでも気力で動いていた理香子はとうとう体の方から緊急停止を喰らったのである。要するに、気絶していたのだ。
理香子は、何が起きたのかわからなかった。ついさっきまでビーカーを掻き混ぜていたはずだったのに、ふと気付くと目の前には床が広がっている。目の前には液体が乾燥した形跡がみられるし、白衣もところどころが変色している。どうやら何かを被ったらしい。
「どうして?」
実験をしていた頃、外は真っ暗だったはずなのに今の外は既に明るくなっている。若干赤みがかった光が部屋全てを満たしている。どうやら夕方くらいの時間らしい。何が起きたのかまだわかっていない理香子も、とりあえず自分が何故か床に寝ているということに気付く。床はそう奇麗なものでないし、どうやら気付かぬ間に何かを零してしまったようであるから、掃除する必要もあろう。そのために理香子はひとまず立ちあがろうとした。
「え!?」
しかし、極限まで酷使された体はそうなかなか動かない。机に手を掛けて立ちあがるのが精いっぱい。理香子はその時点で、研究の続行を漸く諦めた。両手で机にしがみついていなければ動けぬ状況では、とても研究をこなすことができまい。理香子には普通に立つ体力も、弾幕の弾一つを出す魔力も残っていなかったのだ。
諦めた理香子は、何とか机と壁にしがみつきながら歩いて、布団を目指した。朦朧とする意識の中、ようやく布団までたどり着くと、そこに倒れ込んだ。
次に理香子がこっちに帰ってきたのは、それからさらに二日後であった。理香子は朝倉家の家人に邪魔をせぬようきつく言い渡してあるから、三日・四日部屋から出なかったところで家人が見に来るということはない。が、たとえきつく言い渡されていようとも、流石に十日も過ぎると心配になったのだろう。叱られることを覚悟で家人達は部屋に突入し、そこで布団にぶっ倒れている理香子を発見したのである。荒れた部屋の中の様子と、尋常でなさそうな理香子の様子に家人たちは理香子が寝ているのでなく、倒れているということを瞬時に判断し、慌てて手当を始めたのだった。
「あんたも随分と馬鹿よねぇ?」
「……どうしてあんたが居るの?」
「あら、貴女が倒れたと聞いて薬草とか分けてあげたんだから、感謝しなさい」
枕元で妙に美しい笑いを浮かべる女性を見て、理香子は再び頭を抱えたくなった。もしここから逃げ出せるならば、即刻逃げ出したい、とも思う。
「あんたがわざわざ薬草取ってきたわけ? ないわよね」
「わざわざ取ってきたのよ。あんたの家人がわざわざ私の所まで来たからね」
何故だ、と理香子は家人を恨んだ。病気になったならば、まずはこの集落にある医者へ行くべきだ。人里の医者へ行けば軽い病なら治してくれる。それで駄目なら、永遠亭に行けばいい。あの八意永琳ならば間違いなく治せぬ病なぞ存在せぬだろうし、きっとすぐに動けるようになる特効薬だって作ってくれただろう。太陽の丘まで出かけて行って花屋を呼んでくる必要はないのだ。
自らの不養生に対しては、理香子は何の反省もしていない。
「今回"も"科学とやらの研究中に倒れたんだってね。あんた、いい加減学習能力に欠けてるんじゃないかしら?」
「ぐ」
幽香の鮮血の如き目が理香子を見下す。それが理香子にはどうにも腹立たしかったのだが、だからといって何かを言い返すこともできない。幽香の言葉は、正しいように思えるからだ。
「人妖どころか、虫でさえも一度犯したミスを二度は犯さないわ。まして、自らの命を二度も同じ理由で危険にさらすなんてことは絶対しない」
「いやそれは」
「違う、と言いたいのでしょうけれど、残念ながら事実よ。自分の命の管理もできないようじゃ、どうしようもない」
言い返せないだけに、理香子はむしょうに腹が立つ。が、怒っても仕方ないのも事実である。一に、理香子が怒るほどの体力をまだ回復していない、ということも挙げられるけれども、重要なのは相手が幽香であるということだ。この妖怪、人妖問わず弄り倒すのが趣味とかいう悪辣な性格の持ち主なのは周知の事実。相手が怒ったのを見て楽しみ、火に油を注ぐように言葉を重ねるような奴なのだ。紫にすら勝てるという噂もあるほどの実力があるからこそできる楽しみだろう。
「自分すら管理できないようで、どうして他のものが操れるというのかしら。理解できないわ」
「そんなことないわ」
とはいえ、元来負けず嫌いの性がある理香子。幽香から一方的に言われるのはどうにも癪に障る。果敢に言い返した。
「自分の好きなことに寝食を忘れて励んでこそ、新しいものが見えて来るのよ。虫やら何やらには、そのことがわからない。"虎穴に入らずんば虎児を得ず"とも言うじゃない」
「それでホントに物考えてんの?」
しかし、幽香からは猛烈な返球が来るだけだ。
「"虎穴に入らずんば虎子を得ず"と言ったって、虎より強ければ危険でも何でもない。そんな言葉、所詮弱者の言葉よ。新しいものを見つけるような能力のある者は、自分を危険に犯さずに虎児を得る。虎穴に入るだけの力を持つからよ。危険を冒さなければ虎児を得られない者は所詮二流。つまり、危険を冒して何かをしようとするあんたは、二流ってわけ」
完全に"いじめっ子"の目で幽香は理香子を見下ろしている。口元がにやけているのは、やっぱり彼女の性格が悪い証拠だ。
「けど」
それは理香子にとって屈辱だ。何かを言い返してやろうと口を開いたが、それは空しく幽香の言葉に遮られる。
「"ゲド"も"ハイタカ"もないわ。まったく、あんたは"か弱き人"なんだからもう少し体を労わりなさいな」
幽香はその笑いを崩さない。が、嘲りとかからかいとかいったような感情が若干薄まったように理香子には思えた。幽香の最も喰えぬ面はここなのだ。人妖を弄り倒すのが趣味の癖に、幽香が誰かから恨まれた、と言う話は聞いたことがない。それは幽香が的確な気配りを忘れないからだろう、と理香子は思っている。これまた紫に匹敵するという頭の回転の速さのなすところに違いあるまい。そしてこういう気配りができるからこそ、恨むことも出来ず弄ばれるばかりで、理香子はどうすることもできない。
「もうそこまでするなら、いっそ、あんたも妖怪になっちゃえばいいじゃない?」
「種族・魔法使いになれ、ってこと?」
「あのアリスも言うように、あんたの才は相当なものよ。こんなこと言ったら魅魔が激怒するでしょうけど、おそらく魔理沙の比じゃないわ。あんたならものの数カ月で幻想郷一の魔法使いになれるわよ」
「あら、そう」
理香子はつっけんどんに返した。せめてもの意趣返しのつもりである。
「そうよ。貴女は魔術に傑出した才を持っている。それを生かすか否かは貴女の自由だけれど」
「魅魔にも言われたけれども、魔術のどこがいいのか私にはわからないわ」
理香子は少し不機嫌になった。どいつもこいつも口を揃えて理香子へ魔術を勧めてくる。どうしてこうも皆して同じことを言うのか。才があるという言葉も大成するという言葉も聞き飽きた。それが嫌で嫌で、理香子は魔術を捨てたというに。
「皆そう言うわ。隙あれば、魔術を学べばいいのに、ってね」
「そりゃ言うわよ。貴女、つるはしを持っているのに手で隧道を掘っている人間を見て、『つるはしを使えばいい』と言わない人間がいると思う?」
「それは」
そりゃ、いないだろう。
「皆、貴女に嫌がらせで魔術をしろ、と言っているわけではないわ」
幽香は諭すような口調で理香子に語りかける。さっきまでの弄りに徹していた態度とは打って変わって、彼女の顔には母性本能が顔を出している。これだけ人格に幅を持っている者は、人妖合せてもそう居ない、と理香子は思う。
「貴女が魔法の類を心底嫌っていて、それゆえに科学者になったということを知らない者はいないわ。けれども、それでも言わずにはいられないのよ。貴女が、その卓越する魔法使いとしての才を利用しないことをとても見過ごすことができないの」
「見過ごしてくれていいのに」
「親切なのよ。手で隧道を掘っている貴女を見かねているのよ」
「一体、私には魔術の何処がいいか皆目見当つかないわ」
たまらなくなって理香子は言い放った。幽香の言葉は一つ一つがしっかりしている。ゆったりとした彼女の口調と不思議な安心感を与える幽香の態度に、理香子は飲み込まれそうだったから。
「どうせ魔力の量は妖怪に敵わない。魔術をどんなに研究しても、その行きつく先は人間から離脱するということだけ。そんなものを研究しても仕方ないじゃない」
「あら、それだけじゃないでしょうに」
幽香の目が少し鋭くなる。血の凝ったが如き、鮮烈に紅い幽香の瞳に睨まれると、さしもの理香子ですら圧倒された。
「例えば、あの黒白は"種族・魔法使い"にはなっていないわ。あくまで人間のまま魔術を極めようと必死だわ」
「あれは」
しかし、理香子も負けてはいられない。
「同じ人間として博麗霊夢に勝ちたいからでしょう。博麗霊夢に決して勝てないと諦めたか、博麗霊夢に勝ったと確信した時、彼女はきっと人間を辞めるわ」
「さあ、そりゃ本人か魅魔にでも聞いてみないとわからないわ」
ふ、と幽香は首をすくめる。
「しかし、貴女が言うほど舎密とは良いものかしら?」
「少なくとも、魔術みたいに才能なんてものに左右されないわ。生まれつきの適正だけで全てが決まってしまう魔術なんて、面白くも何ともない」
「舎密ねぇ」
幽香は何かを思い返しているようである。理香子から不意に瞳を外すと、窓の外の方へと視線を投げていた。
「昔、博麗大結界を割って外に出たことがあったわ」
「割って……?」
「紫の張った結界を、私が割れないわけないでしょ。こうして」
と幽香は閉じた日傘を前に出して見せる。
「『ますたーすぱーく』ってやれば簡単に吹き飛ぶわよ」
「『マスタースパーク』って……」
それは魔理沙のスペルであることくらい、理香子は知っている。そしてそれがおそらく幽香から学んだものであろう、ということも。
「魔理沙は本当に良い観察眼を持ってるわ。あそこまで真似するとはね」
そういう幽香も、アリスの後をつけただけでアリスの持つ全ての魔法を習得してしまった妖怪である。アリスとのスペルカード戦の中で、アリスの人形の制御権を奪い取ってアリス以上に上手く扱い、アリスを封殺したという話は人里でもだいぶ評判になった。しばらくは人形劇の為に人里に来たアリスが、注目を集めて可哀そうだったのが記憶に残っている。
「それはともかく、舎密の話だったわね」
「そうね。舎密というか、科学」
「どっちでもいいわ」
幽香が舎密――化学と科学の区別をわかっていないのか、それとも舎密という言葉に拘りでもあるのか、理香子にはわからない。けれどもこの場で幽香は舎密を科学という意味で使っているらしい。
「博麗大結界を大雑把に破壊したせいか、どうやら時系列的には未来の外の世界だったらしいんだけれど、碌な場所じゃなかったわ」
「え?」
それは早苗の話と違うようだ、と理香子は不思議に思った。
「早苗は決して外界が悪い場所だとは言っていなかったわよ?」
早苗からきちんと外界の話を聞いたことはないけれども、彼女が話の端々に窺わせる外界への印象を聞く限り、決して外界は悪い場所でないように思えた。だからこそ早苗は、外界の早苗と幻想郷の早苗と、どちらが幸福だったかなんてわからない、と言ったのだろう。
「そりゃ、中に居た人はそれにどっぷり浸かっているから、全てが当然になってしまって客観視できなくなるもの」
だって、と幽香は続ける。
「幻想郷の住人の中に、幻想郷が碌な場所じゃない、という判断を下せる者がどこにいるかしら?」
常に微笑を湛えている幽香はしかし、理香子を試しているような、非難しているような、何とも言えない瞳を浮かべた。理香子はその瞳が持つえも言われぬ迫力に気押される。幽香という妖怪の底知れなさを、理香子は改めて認識する。
「それはともかく」
けれども、その態度を幽香はすぐさま隠す。ほんの一瞬の間の出来事だったはずなのだけれど、理香子は却ってその態度の変わり方に戦慄すら覚える。やはりこの妖怪は八雲紫とも並ぶ正真正銘の、幻想郷最強の妖怪なのだ。
「外の世界は魔法を完全に捨て、科学なるもののみが支配する世界。人は未知なるものを全て駆逐し、世界を科学というたった一つの系だけで説明し尽くしてしまった。そこには如何なる未知なものも、理解できぬものも入る余地はないわ。外の世界では、物事は須らく科学によって理解すべきであるものでしかないの。けれども、そこが傲慢よね。そもそも、科学というのは人間が正しいと思っている"因果律"とかいうものを全ての根底に置いて説明しているわ。そんなものが人間以外に通じると思っている人間と言う存在が私には不思議で仕方ない。けれど、人はありとあらゆるものを"因果律"によって解説しようとし、その挙句、死すらも極めて科学的に理解されてしまったから、恐怖の対象でなくなった。死を感覚的に捉える事ができなくなった人間たちは生と死の差異を感じることすらできなくなったの。外の世界の人には、生気と言うものが感じられなかったけれど、それはきっと死に向かって懸命に生きている、という自覚なしに漫然と生きるからでしょうね。"因果律"を背景に妖怪・神といった理解できぬ存在を完全に駆逐することに成功した人は、世界の統帥者としての地位を恣にし、世界を自らのものと為して傲慢に振舞い、腐敗していっているように、私には思えたわ」
つらつらと述べた幽香の言が理香子にはほとんどわからなかった。八雲紫は相手のわからぬようなことを敢えて会話に持ち出し、相手を煙に巻くそうだが、幽香の言もそういうことなのだろうか?
「あら、貴女にはわからなかったかしら。科学をやっているというから、貴女には科学というものの本質がわかると思ったのだけれど」
それは無茶だ、と理香子は思う。外の世界に行ったことのない理香子は、外の世界がどのような場所か未だにわかっていない。それに、科学の研究はまだ外の世界に追いついていないのだ。科学への理解、と言われても困る。
「まあいいわ。要するに私が言いたいのは、魔術が妖怪の道具であるように科学が人間の道具でしかないのではないか、ってことよ」
「そんなこと無いわ……」
そう言いながらも理香子は自信が持てなかった。自分は人なのだから、妖怪が科学をどう思っているかなんてわからないのだ。
「まあ、貴女が科学を懸命に学んでいることに対しては特に文句はないわ。ただ、科学のみばかりを信奉して、魔術を敬遠してばかりいることは、もう一度考え直した方がいいかも知れないわね」
理香子は返す言葉を持たなかった。全く幽香の言う通りだな、と思うしかなかった。
それからしばらくして、放浪妖怪・風見幽香は朝倉家を後にした。家人に聞くところによると、医者から出てきたところで彼女に出くわし、理香子が倒れていることを話してしまったそうだ。それで、幽香は薬草を持って理香子の所へ見舞に来た、ということだった。幽香という妖怪は本当に何を考えているのか、理香子にはよくわからなかった。
理香子が床を上げたのはそれから一日後。しかし理香子はそのまま行動することは叶わなかった。床を上げ、早速研究を始めようとした理香子は家人に見つかって別室へ引き込まれ、そのまま説教へと突入してしまったのである。曰く、いくら魔法が扱えるとは言え、理香子は人間でしかない。十日もそんな無茶をしたら倒れるにきまっている。もっと体を労れ、と。
その翌日も研究室には入れてもらえず、行く場所を失った理香子は仕方なく再び人里へ繰り出すことにした。とは言っても、研究も詰まってだいぶ経っている。再び人里で気分転換をすれば、早苗がしてくれたように、研究へのヒントをくれる人がいるかもしれない。
「で、私ならヒントを出すことができる、と?」
机に向かって熱心に朱墨で何かを書きながら、慧音は答える。今日は寺子屋も休みだと聞いていたのだが、慧音は休みの日も仕事を全くしていないと言うわけではないらしい。
「確かにヒントは欲しいけれども、そこまで飢えてもいないわ。ただ、今日は寺子屋が休みだって聞いたから、先生も暇かなと思って」
「残念ながら暇というわけではないな。ただ、いつもに比べて仕事が少ないのも事実だ」
「本当に、先生も大変ね」
理香子は慧音の書斎を見遣る。本棚には様々な本が詰まっているし、机にはいろいろな資料が山積している。いま慧音が手を入れているのは生徒にやらせた課題であるようだった。
「そういう朝倉も時折科学を教えているだろう?」
さらさらと朱墨を紙へと落とし込んでいきながら、慧音は理香子へ問う。仕事をしながらでも理香子のことにも気にかけてくれているようだった。
「今は私の研究が優先で、休業中。そろそろ再開したいけれどね」
理香子が科学を教えるようになったきっかけは慧音だった。元来、慧音の寺子屋は初等教育から高等教育まで全てを一手に引き受けている。だから寺子屋に来ているのは、読み書き算盤だけを学びに来ている子供から、文士見習いのような青年まで様々だ。
そんなある時、寺子屋でより深く科学を学びたいという生徒が現れた。残念ながら慧音は科学に関しては素人に毛の生えた程度しか知らず、詳しく教えられない。そこで慧音はかつての教え子であり、科学を熱心に学んでいる理香子を紹介したのである。理香子も恩師・慧音の頼みとあっては断りきれず、自分の家に生徒を呼んで科学を教えることになったのである。もっとも、幻想郷で科学を学ぼうなどとする奇特な人間はそういない。理香子が持つ生徒は三人である。
「研究といえば、また倒れたと言っていたな」
「ど、どうしてそれを……」
「一昨日、生徒を送った帰りに風見幽香と鉢合わせたんだが、その時に聞いた。平然と人里を歩き回る風見も風見だが、研究で倒れる朝倉も朝倉だ」
理香子は返す言葉がない。ただ、倒れたことを慧音にバラした幽香が理香子には許しがたい。幽香の奴、よりにもよって慧音に話すとは……。
「確かに研究が大切なのは認めよう。それに夢中になるあまり、一日や二日くらい徹夜してしまうこともあるだろう。だが、それで体を壊してしまってはいけない。体を壊せば、それを治療するのに時間を取られて、結果的に適度に休みを入れた時以上に時間を浪費することになる。それに、休みを入れずに作業を続ければ、必ず効率も落ちる。そんなことはいい加減わかるだろう。研究の度に倒れるような生活を送っていれば、必ず体にガタが来る。人間は体も脆いんだ。一度ガタが来てしまえば、もう終わりだぞ。長く研究することもできなくなる」
「それは私も凄く反省しているの。本当。これからは体をもっと労ろうと思ってるし、研究にのめり込まないようにするわ。家人にも頼んで、もう少し頻繁に来てもらうようにするし……」
理香子はともかく、慧音の関心の先をずらすのが何よりも先決だと瞬時に判断した。説教は昨日一日ですっかり聞き飽きている。今日ここまで来て慧音の説教は、荷が重すぎる。いかんせん、相手は寺子屋を長年続けてきた慧音である。慧音の説教が始まれば、おそらく明日まで続くに違いない。
「それより、慧音の方は今どうなの? 生徒の様子は?」
「ああ、生徒の様子か」
まだ説教モードに切り替わっていなかったのが、理香子にとっては幸いだったに違いない。理香子の話題変更に慧音はあっさり乗ってくれたのだ。
「朝倉の居た頃と大して変わらないと思う。ただ、あの頃よりは生徒が減ったな」
「減った?」
幻想郷・人里の人口が減ったと言う話は聞いたことがない。朝倉家は人里の運営に関わり、そのような人里の情報を見る機会は理香子にもあるが、人口が減った情報はなかったはずだ。
「ああ。寺子屋に通わさない家が増えているらしい」
「へぇ。妙な話ねぇ」
かつては皆率先して慧音の寺子屋に子供を通わせたものだ。幻想郷には慧音の寺子屋以外に教育機関は存在していないから、自然慧音の寺子屋には教育を受けた人間が集まることになる。その結果、教養人を求める稗田などの家は家人をそこから雇うことが多くなった。つまり慧音の寺子屋は一般人と有力者のパイプの役割を果たすようになったのである。
「先生の教え方が拙かった、とかじゃないの」
「教えるのがそこまで上手いわけではないのは認めるが、それは昔からのことだぞ」
少し怒ったような、落ち込んだような口調で慧音は告げた。
「冗談冗談。別に教えるのが下手だとは思わないし」
「そうか?」
理香子が慌てて言いなおすと、慧音は相変わらずな口調で短く返してくる。しかし先ほどと変わらぬ口調の中に少し喜びが混じっていることを、理香子は見逃さない。やっぱり慧音は先生として褒められたのがうれしかったらしい。
「ええ。昔はよく寝たものだけれど」
「授業中に寝ていいと、教えた記憶はないが」
軽口を叩くと、わざと怒ったような口調で返ってくる。
「まあね。それに今では、あの時に寝なきゃよかった、と思ったりするわよ。聞かずに寝るなんて、随分勿体ないことをした、とね」
「そう思ってくれるなら私もやりがいがある」
採点の手を止めはしないが、慧音もこちらにちょっと意識を向けたようであった。
「でもその授業を聞かない人が増えてるなんて、おかしいわね」
寺子屋に子供を通わせれば、家の労働力が減るのは事実である。しかし現在の幻想郷は、子供を駆り立てて仕事をせねばならぬほど飢えているわけではない。寺子屋に子供を通わせるのに欠点は少なく、利点は多いはず。にも関わらず、その寺子屋に子供を通わせないというのは、どういうことだろうか。
「何か理由は思いつかないのかしら? ただ皆が通わせなくなった、なんていう簡単な話じゃないでしょう」
「理由か……」
慧音が採点の手を止めて、少し考える。
「昨今、よく大地主に対する不満を聞くようになったな」
「不満?」
「人里の経営を行っている地主に対する不満だ。家柄だけで経営する人間が決まるのだから、不満を持つ輩がいても仕方のないことだろう」
「でも、それがどうして慧音の寺子屋の生徒減少と結びつくのよ? そこには論理的関連性は見出せないと思うのだけれど」
理香子はすぐさま聞き返す。もしそうなのだとしたら、むしろ寺子屋に通わせて地主との結びつきを強めそうなものだ。
「そこは、推測なのだが」
慧音は採点を続けながら言葉も継ぐ。そういう芸当ができるのは、やはり慧音の明晰さを示しているのだろうな、と理香子はなんとなく思った。
「地主に対する反感から、地主と関わるようになるのを嫌う人間が増えているのかもしれない」
「そういうものかしら?」
「地主と関わる、ということは地主と自分達との差を常に見せつけられることになる。そのことがどうにも許容しかねる、という人間もいるのかもしれない」
あくまでも仮説の上に立てた推論であり、本当に空論に過ぎないのだが、と慧音は前置きした上で続けた。
「そうかしら。自分より上の者がいたら、それを越えようと努力するものじゃないのかしら?」
「皆が皆、朝倉のような考え方をするわけではないからな」
理香子の強い言葉に対して、慧音は苦言を呈す。上を目指さず妬むだけの人間が、理香子にはあまり理解できない。
生憎、というべきか幸い、というべきか。理香子は誰かを心の底から恨んだり、妬んだりしたことはなかったのである。幻想郷きっての魔法使いであり、科学の第一人者でもある。頭脳は明晰で腕も立ち、そこそこの美貌も持っている。そんな恵まれた環境にある理香子は、妬まれることこそあれ、妬むことなぞない。
「人の妬みは、恨みに変わる」
「恨み、ねぇ」
「そうだ。そして恨みとは時として想像もつかぬほどの力を持つことになる」
「人里に恨みが溜まりつつある、なんて考えたくもないわね」
「全くだ。これが仮説であることを願うよ。ただ私の授業が下手になった、ということに収まる方がずっといい」
努めて平静に話しているのだろうが、それでも言葉の所々から、慧音の不安が聞き取れた。それは果たして、半妖という微妙な立場にある自身の立場への不安か、それとも人里の将来に対する不安か。
「とりあえず、私は生徒を取り戻すべく、授業努力を続けるだけだ」
「先生も、本当にいろいろなことを考えているのね」
理香子の頷きに、慧音は黙って縦に首を振った。とはいえ相変わらず採点の片手間の会話だから、慧音の視線の先にはきっと生徒の解答しかないだろうけれど。
「さて、これで終わりだ」
筆置きに筆を置くと、慧音はやっと理香子の方を向いた。当の理香子は本棚から適当な本を取りだして捲っている。13代博麗の巫女が書いた『幻想郷風土記』とかいう本だ。『幻想郷縁起』やその他の本とは記述が全く整合しない辺り、俗説集のような様相を呈しているが、どの話でも妖怪の優越性が強調される。読んでいると、妖怪が偉大に思えて来るような本だ。
「お疲れー」
「何。今日はこれから授業があったりしないから、楽な物だ」
肩が凝ったのか、首を左右に傾けながらもその顔には達成感が満ちている。
「いつもはこれから授業なのね。大変」
「朝倉も自分が生徒を持つようになって、少しは教師の大変さがわかるようになっただろう」
「ええ。二・三人でも辟易しているんだから、何十人も生徒を受け持つ先生は本当に尊敬しているわ」
「ならば、代わってやってもいいぞ?」
「遠慮します」
軽口を叩き合いながら、慧音は出かける支度をする。理香子はとりあえず『幻想郷風土記』を元あった場所にしまう。多分もう読むことはない本だ。
「で、先生はどちらに?」
「今から少し稗田本家に用事があってね。暇ならついてくるか?」
「付いて行っても?」
理香子は立ち上がる。もし付いて行ってもよい用事ならば、付いて行く気満々だ。なにせ、研究室から追い出されて今日は暇なのだから。
「本を返しに行くだけだからな。ついでだから朝倉も挨拶していけばどうだ?」
「ならば付いて行くわ。恩師の誘いとあれば、断るわけにもいきません」
「それをどの面で言うか」
二人で顔を見合わせて、二人で噴き出した。軽口の叩き合いが楽しくて、仕方がない。
「じゃ、行くぞ」
「はーい」
慧音は不思議な形をした帽子を乗せると、立ち上がる。理香子もまた立ち上がって玄関の戸を潜った。
稗田家は人里の中で最も長く続く名家だ。祖・稗田阿礼以来1300年の間血脈を保ち続け、御阿礼の子によって幻想郷の歴史を書き継ぐ役割を持つ他、人里の長を務める家柄でもある。幻想郷の人里を語るに、稗田を抜きでは語ることができない。
「先生に、朝倉の所の理香子さんですか。こんにちは」
「こちらこそ、御無沙汰してました」
「お借りした本を返しに来た。いつもいつも世話になるな」
三人で一通りの儀礼的な礼をする。三つ指ついてきちんと頭を下げるのは、礼として当然であり、相手が気心知れた仲でも欠かすことはできない。
「今日は具合良さそうだな」
「あ、最近調子がいいんですよ。今の時期は寒くも暑くもないし」
「けれど、いつも季節の変わり目になると体を壊していなかったか?」
「そうなんですけれどね」
今日の阿求は機嫌も良さそうである。可愛らしい笑顔を浮かべて元気さを示している。御阿礼の子の宿命か阿求の体はそれほど強くないから、ここまで調子が良さそうなのは、理香子にとって久しぶりであった。
「でもこんなに清々しい天気の時期に、おちおち体を壊してもいられませんよ」
「秋だからなぁ。もう」
「読書の秋ね」
理香子は本棚を眺めながら一言呟いた。ここにいる三人が三人、皆本に寄生して生きているような者たちである。秋といえば読書の秋、というのが当然だろう。
「一体、どこの誰が"読書の秋"なんて言葉を作ったんでしょうね?」
「やはり秋は夜も長いし、寒くも暑くもない。読書するには丁度良い気候だ、と思う者は一人や二人じゃないだろう」
慧音が至極真面目な顔で阿求に答える。しかし阿求はその答えに満足しないようであった。
「阿求さんは何か"読書の秋"に問題がある、とでも?」
「ええ。この言葉は間違っていると思います」
「どこが?」
理香子は阿求の言いたいことがわからなかった。"読書の秋"という言葉の一体どこに、間違いがあるというのだろうか。少なくとも理香子は"読書の春"だとか"読書の夏"なんて言葉は聞いたことがない。
「"秋"ですよ」
思わず理香子と慧音は顔を見合わせた。謎は深まるばかりである。
「読書なんて一年中いつしたっていいでしょう。現に、私は一年中読書してます。私からすれば、秋だから読書、とかいう考え方が理解できないです」
ああ、と理香子はわかった。わかると同時に顔が緩む。確かに、秋だから読書する、というものではないだろう。
「だからやっぱり、"読書の一年"であって"読書の秋"ではないのですよ」
「ああ、阿求の言うことも一理あるな」
慧音もまた口元で微笑んでいる。どちらかと言えば、苦笑という類だろう。
「少なくとも私も理香子も、阿求同様"読書の一年"の性質だろうな」
「間違いないわね」
三人でくす、と笑う。三人似た者同士だから、互いに互いの生活がなんとなく思い浮かぶのだ。外の天気などお構いなく、暇さえあれば食事も惜しんで読書をするというその姿が。
「ところで、先生」
最初に我に返った阿求が、ふと何かを思い出したように慧音を見た。
「なんだ?」
「最近の本で、何かお勧めありますか?」
「最近の本か……」
このままどうやら本談議に突入するらしい。本好きな理香子からすれば、願ってもない話である。
「どういう種類の本かにもよるな。自然科学ならば、理香子に聞いた方が早いだろうし」
「何でも構わないですよ。ただ、最近先生が読んで面白かった本は何かなぁ、と思って」
「そうか」
慧音は少し考え込んだ。慧音の読書量が一体どれくらいのものなのか、理香子には想像が付かない。幻想郷に存在している本を全て読んでしまった、と言われても納得できる気がする。
「最近なら、西行寺幽々子の歌論が面白かったな。中々彼女らしいものでな」
「幽々子さんの歌論ですか。幽々子さんって、そんなものを書いていたんですか?」
「暇を持て余した幽々子が最近、手遊みの一つとして書いたらしい、と妖夢が言っていた。ただの私記のだったのを、八雲紫が出版させたんだとか」
「へぇ」
それは、理香子も初めて聞いた話である。春雪異変以来、時折幽々子は異変に首を突っ込んでいるが、それでも暇を潰しきれなかったのだろう。しかし白玉楼の長であり、かの八雲紫の親友でもあるという幽々子が、一体どんなことを書いているのだろうか、と理香子は少し気になった。
「で、何故それを読むことに?」
慧音と歌論は余り結びつかない。慧音が読むものといえばまず歴史書が思い浮かぶ。
「私もあまり歌論には興味なかったんだがな、あの妹紅が読んでたからちょっと気になった」
「妹紅さんが?」
阿求が驚きの声を挙げる。理香子もまた驚きを隠せなかった。こう言っては妹紅に失礼だろうが、正直妹紅と歌とは全く繋がらない。妹紅と言えば、竹林で竹細工を作っては人里に持ち込み、また時折人里の荒仕事に駆り出されている印象しかないのだ。少なくとも理香子は、妹紅に粗野な印象を持っている。その彼女が、上品さや繊細さを必要とする歌に興味がある、というのは意外だったのだ。
「ああ、あの妹紅が、だ」
そして、そういう認識は三人の共通のものであったらしい。もしこのことを妹紅が知ったら、三人ともとても無事では済まないのだろうけれど。
「だが、妹紅が読んでいたのも納得だな。読んでみるとこれが中々面白い。決して感情論に捉われすぎず、だからと言って形式主義に陥りもしない。少々虚無主義的すぎるような気がしないでもないが、読んでみる価値はあると思うぞ」
「先生がそこまで褒めるとは驚きね」
「いつも"最近の本は質が下がってどうしようもない"ってこきおろしているのに」
「私も何でもかんでも適当に非難しているわけではないぞ」
阿求と理香子の言葉に、慧音は少し不服そうな顔を見せた。
「ただ、最近出ている本が酷すぎるだけだと思うがな」
「先生は手厳しいですねぇ」
本を書く立場にある阿求は苦笑している。慧音が『幻想郷縁起』に対してどのような感想を下すのだろうか。
「なにせ人を教える立場にあるからな。ついつい粗に目が行ってしまうんだ」
「人は褒めないと伸びないわよ」
「だから、褒めるべき本は褒めている」
一人で勝手に頷いている慧音の様子が可笑しくて、理香子も阿求も思わず噴き出した。そこに慧音の教師としての誇りを見たような気がしたからだ。
「なんだ、何が可笑しい?」
笑っている様子にますます気分を害したのか、慧音は眉を少し顰めて二人を見る。
「だって、ねぇ」
「先生って、やっぱり教師であることに誇りを持っているんですね」
阿求の言葉に、慧音は当然とも言わんばかりに首を縦へ振る。
「ああ、誇りはある。そうでもないと、教師なんて仕事、やっていられないからな」
その慧音の姿がやっぱり何だか可笑しくて、また二人で噴き出した。
けれども同時に、理香子は慧音が教師という職にどのような思いを持っているかと言うことを改めて知る。物を教えるということは、斯様にも誇り高きものであるのだ、ということを。
「それで、理香子さんは今日どうしてこちらに?」
気付けばもう昼過ぎである。三人での書籍談話が存外に盛り上がり、果ては幻想郷の妖怪たちの著者評で大騒ぎをした。もしこれを天狗辺りが聞いて新聞にでもしたら明日には幻想郷が火の海になりそうだな、と理香子が思うほどであった。慧音も阿求も中々容赦がないのだ。
「こいつ、研究のしすぎで倒れて家人に追い出されたらしい」
そして阿求の好意で、慧音共々理香子は稗田の家で昼を頂くことになってしまった。申し訳ないといえば申し訳ないし、有難いことである。
「え、理香子さん倒れたんですか?」
「もう大丈夫よ」
理香子は本日何度目かの苦笑を浮かべた。
「阿求も言ってやってくれ。もう少し体を大切にしろ、と」
一方の慧音は、少々困ったような表情を浮かべている。教え子に一人困りものが居る、と顔に書いてあるよう。
「今回は一体、何日くらい徹夜を?」
阿求も少し目を細めて理香子を睨む。理香子は肩身が少し狭くなった。
「7日だそうだ。それだけして倒れない方がおかしいだろう」
どうして慧音がそこまで知っているのだろうか、と理香子は少し驚き、それから怒りを覚えた。おそらくあの性格のねじ曲がった緑髪花屋が、慧音に全てしゃべったに違いない。
7日徹夜を漏らしたことに怒る辺り、理香子は全く反省していなかった。
「7日ですか……」
阿求は完全に呆れている。体の弱い阿求からしてみれば、それだけ連続で徹夜してしまう理香子が全く理解できなかったのだろう。
「理香子さん。いくらあなたの体が丈夫であったって、所詮人間なんですよ。もっと体を大切にしないと」
「わかってるわ。これからは気をつけるわよ」
「本当にわかっているのか、甚だ疑わしいな」
「全くです」
二人に全く信用されていなかった。流石に酷い、と思ったがこれまでも何度かこのようなことがあったし、信じてもらえないのは只理香子の行いが悪いからである。理香子も流石に少し反省した。倒れてしまった事が家人に見つかってしまったのが、不覚だった。
「で、それはそうとして、理香子さんは研究して一体何を目指すんですか?」
ふと、阿求が首をかしげながら告げた。それだけ徹夜をして何をしたいのか、阿求は率直な疑問を持ったらしい。
「目指すもの、なんてないわよ」
しかし、理香子はその質問に首を傾げ返した。
「え?」
阿求の瞳が理香子を捉えた。疑問でいっぱいのようだ。
「目指すものはないのか?」
慧音もまた不思議そうに首を傾げている。
「強いて言うなら、世界を知ること、かしら」
理香子も少し考えてから、言う。
「世界を知る?」
その言葉に、二人が同時に疑問を発した。
「科学とは世界を説明する手段だし、科学を知ることで世界を知ることができるかな、って」
「なるほど。科学を学べば世界を知れる、か」
慧音は軽く頷いた。科学とは世界の様々な事象を、理屈で説明する学問であるのは慧音も知っている。
「でもそれなら、魔術でも良いと思います」
ところが阿求は何か引っかかったらしい。
「此処は幻想郷。科学より魔術が力を持っている世界です。それに、理香子さんは魔術の才にも溢れているといいます。世界について知りたいというのなら、魔術を研究した方がいいと思うんですけれど」
「魔術、ねぇ」
また魔術か、と理香子は内心に嫌気を覚える。理香子は感情を殊更入れたつもりはなかったが、その言葉は最大の嫌悪を纏っていた。
「私はそこまでして理香子さんが科学を学ぶ理由がわからないのです。この幻想郷で世界を知るなら、魔理沙さんやアリスさんみたいに魔術を研究した方がずっと手早い」
魔法もまた、世界の事象を説明する道具である。例えば人間が空を飛ぶことに対し、それを魔力を使った魔法と定義するのが魔術であるのだ。
「私は魔術が嫌なのよ。魔術が嫌だったから、科学を学んでいるの」
「ええ、それはわかりますよ」
阿求の黒い瞳が、理香子の紫の瞳をぐっと捉える。その瞳の力の強さが、理香子には何だか不思議だ。
「でも、この幻想郷で科学を学ぶ意味って一体何なのでしょう? この幻想郷は魔法が卓越し、科学はそれほど力を持っていないように思います。その幻想郷の中で敢えて科学を学ぶ必要は、それほどないように感じるのです」
結局科学から何を見出したいのか、と阿求は理香子に問うているのだ。世界の説明を出来る、というだけでは科学を学ぶ理由の説明になっていない。もっと明確な説明を頂きたい、というのが阿求の言い分だろう。
「才によって規定される魔法というものが嫌で仕方なかった。だから、科学を学ぼうと思ったのよ。それだけ」
「才で規定される、か」
魔法とか魔術とか呼ばれるものは、扱う個人の才能によって大きく規定されるのは事実である。同じ人間であっても、博麗の巫女のように妖怪に匹敵、あるいは妖怪を凌ぐほど魔術に長けた者もいれば、全く魔術を扱えぬ者もいる。
その点、科学ならば誰でも――ある程度の理解力さえあれば、学ぶことができる。
「科学も結局、才に規定されている、といえるのじゃないでしょうか?」
しかし阿求は、その理香子の考えに楔を打ち込む。
「科学にも理解する才がいる。理解できる人間と理解できない人間と、双方が居るとは思いませんか?」
「理解に時間がかかる人間も、努力すれば科学は理解できる。でも魔力は努力しても伸びない。それは大きな差だと思うわ」
「それほど大きくないと思います。理解の速い人が努力をすれば、やはり理解に時間のかかる人の決して届かぬ場所へ到達できる。その点では、魔力の寡多と何も意味は変わらないと思うのです」
む、と理香子は答えに詰まった。確かに阿求の言う通り、科学にも人の向き不向きがある。それが魔術と同じ、と言われてしまえば確かにその通りかもしれないのだ。
でも、と理香子は思う。それでも自分は、魔術よりも科学に魅力を感じている。そのことだけは、まちがいなかった。
「なんだかんだ言っても、結局のところただの興味なのよ。ただ科学という思考方法が面白い、と思っただけだもの」
「興味、ですか?」
阿求の瞳が厳しくなる。暗に、逃げた理香子への非難が含まれている。
「ええ。興味。それ以上でもそれ以下でもないわ」
「興味、ねぇ」
阿求が少し考え込む。それを横目に、理香子は慧音に質問を返した。
「逆に聞くけれど、先生はどうして歴史をまとめているのかしら?」
「それは、私が歴史をまとめる義務を……」
慧音が言いかける言葉を、理香子はさえぎる。
「別に歴史がまとめられずとも、困ったことは起きないわ。だから、先生が歴史をまとめる必然性はそれほどない」
「む」
慧音は少々困った表情をした。理香子の言う通りだ、と思わざるを得なかったからだろう。
「阿求にしても同じこと。阿求は何故歴史編纂を行っているのかしら」
「幻想郷で人間が少しでも妖怪のことを知って、安全に暮らせるように。私にはちゃんと理由がある」
しかし阿求は理香子に確と言って返す。阿求にとって歴史編纂を否定されることは、自己存在の否定につながるのだろう。ちょっと踏み込み過ぎたかな、と理香子は思う。
「そうやって理由があるのなら、それはそれでいいのだけれど」
しかし、全員が阿求の如く理由を持って何かをしているわけではない。
「ほとんどの人は、そこまで理由を持って何かをするわけではないわ」
「では、何故?」
「それはただ、やりたいからよ」
理香子は胸を張る。人間の行動とはそういうものだ。
「私は科学についていろいろ知りたいと欲しているから、科学について学んでいるの。それだけよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「しかし、それでは先ほども聞きましたが、科学を学ぶことは一体どういう意味を持つのですか? 何の意味もないことを、ただ欲望の赴くままに為すというのですか?」
しかし阿求は猶も食い下がった。それほど突っ込んでくる理由が理香子にはわからない。わからないが、阿求は何かに必死であった。
「本当に意味がないか、なんて私にはわからないわ。科学を学んでいたということが、後で役に立つことがあるかもしれない。もちろん、無いかも知れないけれども、それでも私は後悔しないわ」
私は科学が好きだから、と理香子は付け足した。
「そうですか」
しかし阿求は何か納得できなさそうな顔をしていた。けれどももう言葉は帰ってこない。どうやら返す言葉が咄嗟に思いつかなかったらしい。
「阿求も理香子も、その程度にしておいたらどうだ」
猶も阿求が何かを言おうと口を開きかけたところで、慧音が先に言葉を発した。これ以上の議論は無駄である、と慧音は判断したのだろう。
「あまり剣呑な雰囲気のままでは、昼餉を作ってくださった方々に失礼だ」
慧音は微笑みながら、昼餉を持ってきた稗田の家人の方を向いた。家人の持つ盆には、美味しそうな料理が小鉢に入って並んでいる。流石は幻想郷一の名家の食事だ、と理香子は少し感心した。
「あら、理香子じゃない」
慧音と共に稗田の家を辞した理香子は、ふらふらと人里を後にしていた。特に行くあてもない。
理香子の頭の中は、先ほどの阿求との議論で頭がいっぱいであり、なんだか朝倉家に帰ろうという気が起らなかったのである。ああいう議論をするといろいろ考えたくなるものだ。
「あ、あんたは」
前から見知った顔が近づいてくるのに、声を掛けられて初めて理香子は気付いた。
「あんた、とは酷い言い草じゃなくて?」
華やかな小袖に打掛を羽織り、扇子を持った姿。こんな古風な姿で飛び回っている変人は、残念ながら幻想郷に一人しかいない。
「その姿を見て、あんたと言う以外にどう言えばいいのよ」
「姫! と言ってくれればよろしくてよ」
満面の笑みで小兎姫は扇子を軽く鳴らす。理香子は、自分がある程度の変人であると言うことを認識している。だが同時に、少なくとも小兎姫よりマシであるということだけは間違いないと信じていた。
「何がどうなったら、あんたが姫になるのよ」
「どこからどう見ても、姫にしか見えないと思うわ」
小兎姫は今度、理香子の前でくるりと一回転して見せる。その姿に理香子は頭を抱えた。この変人とは、基本的に話が通じない。
「ええ、お美しいですわ姫」
「あらそう、有難う」
皮肉すらも効かないあたり、もう救いようがない。こいつとまともな会話ができるのは、あの古道具屋のトンデモ店主くらいのものではなかろうか。
「それで、何であんたがこんな所にいるのかしら?」
笑みを浮かべたままで扇子だけを理香子に向けて来る。理香子としてはあまり関わりたくない人間だが、だからといって無碍にするのも気が引ける。
「特に理由はないわ。ただうろうろしたかったからうろうろしてただけよ」
「あら、そうなの」
また扇子を軽く鳴らして、そのまま閉じた扇子を胸に当てる。その動作が姫として堂に入っているのだから、本当に始末に負えない。
「暇さえあればいつも研究室に籠っているあなたが、こうして外でうろついているのは随分と珍しいことね」
「私だって時には外出するわ」
「初めて知ったわ~」
如何にも棒読みなその言葉が、理香子には腹が立つ。この変人は、人を怒らせるのが趣味なのだろうか。そうだとしたら、あの花屋と同じ種族ということになる。そう考えを及ばせてふと、花屋に"小兎姫と同じ趣味なのね"などと言った時の表情が少し見てみたい、と理香子は思った。しかし、本当にそんなことをしようものならどうなることかわかったものではないので、流石に言ってみる勇気はない。
「それはそうと理香子、あなたこの辺りで妖精見なかった?」
「妖精? それまたなんで?」
妖精というのはどこにでもいるものである。ただし、人里の中には余り入り込んで来ない。悪戯好きな妖精たちは人里で嫌われ、見つけ次第大々的に妖精狩りが行われるからだ。この間、妖精が三匹入り込んだ時は博麗の巫女まで動員した大騒動になり、結局は霧雨の親父さんに三匹とも首根っこを掴まれ、御用になったそうだ。
「最近妖精の羽を集めていてね。さっきまで珍しい形をした羽を持つ妖精を追いかけていたのだけれど、逃げられちゃったのよ」
「妖精の羽って、もぎ取るの?!」
「ええ」
なんと物騒なことを平然と言ってくれるものだ。小兎姫が妙なものを収集しているのは前から知っているが、まさかそんなものを集めているとは。
少し青ざめた理香子を見てか、小兎姫は大笑した。
「冗談よ。妖精の羽って時々生え換わるから、その時に貰うのよ。あの羽、割と消耗品なんだそうよ」
「驚かせないで、まったく」
理香子は小兎姫を強く睨みつけた。この変人にからかわれたことが気に喰わない。
「まあ」
しかしそんな目線を全く意に介さず、小兎姫は開いた扇子で口を覆う。
「言うこと聞かなかったら、力ずくだけれどね」
「ちょっと!」
「冗談よ、冗談」
少なくとも、理香子には全然冗談に思えなかった。物を集めるためならば、妖精狩りを率先してやるくらいのことはするのだ、この変人は。
「それで、貴女はその羽を集めてどうするのかしら?」
理香子はふと、気になって聞いてみた。妖精の羽を集めて、一体小兎姫はどうするのだろうか。飾ったりする、というのだろうか。
「どうするって、何を?」
「いや、だから妖精の羽よ」
「ああ、そのことね」
小兎姫は扇子を打ちならして、それからにこりと笑った。
「集めとくだけよ」
「は?」
理香子は小兎姫が何を言っているのか、いまいちわからなかった。
「集めとくだけよ。特に意味なんてないわ。なんだか、たくさん集まると嬉しいじゃない」
小兎姫は無邪気な笑顔を浮かべて答える。
「飾るとか、そういうことはしないのかしら?」
「しないわ。時々棚から出して、たくさん集まったって感慨にふけったりするけれど」
理香子は完全に呆気に取られた。小兎姫が物を集めることが好きなのは前から知っていたことではあったけれども、まさかそれを取っておくだけで何もしないとは思いもしなかった。
「……どういうこと?」
「あなたの科学研究と似たようなものよ」
「え?!」
小兎姫がさらりと言ってのけたことに、理香子は耳を疑った。妖精の羽を集めることと科学の研究をするということのどこが同じだ、というのだろうか。同じにしないで欲しい。
「貴女もただ科学を研究したいから科学の研究をしているのでしょう。私も集めたいから妖精の羽を集めているだけよ。そこに何の違いがあるのかしら?」
「……違いがない、と言えば違いもないのかしら」
「やりたいからやっている、という点では何も違いがないでしょう?」
先ほどの阿求との議論を思い返しながら、理香子は小兎姫の言葉に頷くしかなかった。残念ながら否定する要素がみあたらない。
「つまり、貴女と私は同類ってわけ。わかる?」
「同類?!」
何を言い出すかと思えば、理香子と小兎姫が同類だ、とか言い始める。その小兎姫に理香子はますます頭を抱えた。こんな変人と同類にはなりたくもない。
「随分無礼なことを言うじゃない。私とあなたが同類ですって。冗談じゃない。私はあなたほど狂ってないわ」
「さて、どうかしらね」
小兎姫は扇子で口元を隠しながら笑っている風を見せる。どうやら理香子をからかっているらしい。
「何が、どうかしら、よ。あんたと私の間には雲泥の差があるのが、わからないのかしら」
「わからないわ~」
思わず理香子は拳を握り締めた。次に何かを言ったら、頭に炸裂させてやろう。
理香子と他愛もない会話を続けていた小兎姫は、しかし目の前を横切った妖精によって唐突に会話を打ち切った。妖精を追い始めた小兎姫に会話を打ち切られた理香子は、仕方なく小兎姫を追う羽目になる。小兎姫が会話を打ち切ったのがあまりに中途半端なところであったからだ。
明らかに妖精を撃ち落とす気満々の小兎姫を追いながら、ふと理香子はどうして小兎姫を追ってしまったのかと思った。元々の会話も大したものじゃなかったのである。あの変人を追った所で、得られるものは何もないのだ。
そう気付いて帰ろうとした理香子だったが、少し遅かった。理香子が追っていた小兎姫は博麗神社の境内に入り込んで妖精と大捕物を演じていて、いかにも不機嫌な顔をした霊夢が、目線で理香子に説明を要求していたからである。
「それで、言い訳は?」
「神社に妖精が入り込んだんだから、こうなったのは妖精のせいで私のせいじゃないわ」
博麗神社の正面に鎮座ましましているはずの賽銭箱が、粉々になっている。妖精と小兎姫との大立ち回りの犠牲であった。小兎姫も妖精も相当に暴れていたから、当然と言えば当然である。
ちなみに理香子は、既に博麗神社の客人として社殿の中に招かれていた。霊夢に状況を説明するために社殿の中に入ったのである。保身と言われればそれまでだが、元々小兎姫の妖精狩りは理香子と関係ない。関係の無いことで、霊夢とやりあいたくはない。霊夢は強いのだ。
「ふーん。あなたの弾幕が賽銭箱に当たった、という事実は無視するわけね」
そして今、どうやら賽銭箱を破壊した小兎姫に鉄槌が下るらしかった。
「そもそも、妖精が神社に入り込むということ自体が神社に与える悪影響を考えれば……」
「そういえば、貴女、美しい弾幕がお好みだったわよね」
すぐ向こうから、物凄い妖気が流れて来る。社殿の中の理香子はあくまで高みの見物であって、直接害はない。
「この際、スペルカードで決着をつけるのはどうかしら? それなら平等だから貴女も文句ないでしょう?」
「え……?」
「あなたは何枚スペルカード使ってもいいわよ。私は1枚だけにしてあげる。どう、有利じゃない?」
霊夢は相当怒っているな、と理香子は外の様子を眺める。霊夢はあれで結構感情が激しいのだ。
「いいわ、やりましょう!」
小兎姫のヤケクソじみた悲鳴が聞こえる。霊夢がスペルカードを1枚しか使わないということに勝機を少しは見たのかもしれない。
「それじゃ、始めるわね。スペルカード発動!」
「ちょっと、まだ早……」
スペルカードを発動する音と共に、外が弾幕色に染まった。霊夢のスペルカード"霊符「夢想封印・集」"だろう。超至近距離からあれを避けられる者はまずいない。弾速が速いから、おそらくスペルカードを切り返す暇もあるまい。しかも、追尾弾だから間違いなく当たる。残念ながら、小兎姫が生き残る手段は残されていない。
要するに、小兎姫は霊夢の策に嵌ったのだった。
「全く、どうして貴女も止めてくれないのよ」
「あの変人が止められるなら、もっと前に止めているわ」
一仕事終えた、と手をはたきながら社殿の中に霊夢が戻ってくる。小兎姫は負けた代償に香霖堂までお使いに行ったらしい。ご苦労なことだが、自業自得だ。せいぜい店主に絡まれているがいい。
「もし貴女が止めてくれれば、あの素敵な御賽銭箱が真っ二つになることもなかったのに」
「それに関しては申し訳ないと思っているわ。一応、小兎姫の代わりに謝っておくわ」
「さっきも謝ってもらったし、もういいわ」
霊夢は社殿の奥へと入っていく。
「煎茶と焙じ茶と玄米茶、どれがいい?」
「あ、焙じ茶がいいわ」
常に三つが常備されているのは、さすが霊夢と言えるだろう。何があっても、博麗神社から茶が切れることはない、というのは本当のことらしい。
「しかし今日は魔理沙来てないのね」
「研究でもしてるんじゃないの」
社殿の外を眺めながら理香子が言うと、奥から霊夢の声が返ってくる。茶釜で湯を沸かすカラカラ、という音が何だか心地よい。
「魔理沙が博麗神社に来ない日もあるのね」
「大体毎日来るのは事実だけれども、毎日来るわけじゃないのよ」
まもなく霊夢はお盆に急須と湯呑を持って戻ってくる。机の上にそれを置くと、慣れた手つきで湯呑に茶を継いで、一つを理香子に差し出した。すぐさま受け取って、一口啜った。流石、茶には拘りを持った霊夢である。啜った瞬間に複雑な香りが鼻を抜けてゆく。美味しいお茶だ。
「お茶菓子はここね」
霊夢が左手で持つまっ白い平皿に煎餅数枚が乗っている。一方の右手で煎餅一枚を食べているが。
「あら、ありがと。また今度来た時は、何かお土産持ってくるわね」
「楽しみにしてるわ」
理香子も右手で煎餅を受け取って齧る。醤油が香ばしく、米の味のしっかり残った煎餅だ。これまたお茶に合う。
二人座った空間には、先ほどまでの騒がしさとは打って変わって、煎餅を頬張る音と茶を啜る音だけが響いている。
「静かねぇ」
「ええ」
境内は徐々に赤みを帯びていく。森へと帰っていく烏が、朱色の空にいくらかの点を打っている。気温もここに来て一気に下がり始めていた。もう夜が近い。
「ところで貴女、どうして小兎姫と一緒に居たの?」
霊夢は理香子へ問うてから、最後の一枚の煎餅を齧る。
「え?」
「理香子が小兎姫の妖精狩りに積極的に協力するとも思えないし、何か事情があったの?」
そもそもあなたが外に出ることも多くないしね、と霊夢は煎餅を飲み込んでから付け足した。殊更そのことに興味があるようにも見えないが、だからといって答えないわけにもいかない。
「そもそも貴女がこうして外にいる理由から聞いてみたいところね」
「まあ、事情というほどの事情もないのだけれど」
どこから話そうか、と理香子は軽く逡巡する。
「話は長くなるけど、いい?」
「どうせ暇だしね。でも冗長なのは嫌よ」
さらりと、長くなるのは勘弁しろ、と言ってしまえるのが霊夢である。こういうさっぱりした性格が、皆を惹きつける部分なのだろうな、と理香子はなんとなく納得した。霊夢には裏がないということが保障されているから、話しやすい。
「それじゃ……」
理香子は、かいつまんで今日の出来事について話すことになる。よく考えてみれば、こうも一日でいろいろな人妖に会うのも、なかなかない経験かもしれない。
「つまり、あんたは馬鹿みたいな生活をした挙句に家から追い出されて、人里を一日放浪してたわけね」
「馬鹿みたいな生活、って酷いわね。ただ私は寝るのを忘れただけよ」
「だから、それが馬鹿みたいなのよ」
全く、と霊夢は溜息をついた。その溜息がどうにも納得がいかなくて、少しむくれる。
「まあいいわ。それで、その研究とやらのヒントは見つかったのかしら?」
研究の中身までは霊夢に伝えていない。科学の"か"の字も知らないであろう霊夢にその説明をしたところで、冗長ねぇ、と文句を受けるだけだろうからだ。
「それがなかなか。難しいのよね、どうにも」
「あら。それじゃ、ここで見つからなきゃ全くの無駄足ってことじゃない」
「今日は楽しかったから、別にいいのだけれど」
と口でこそ言え、やはり研究の突破の鍵を思いつきたかった、というのも事実である。
「あら、そう」
霊夢はそんな理香子の気持ちを知ってか知らずか、あまり気にしない様子で返事をして、茶を啜る。霊夢は一日に一体何杯の茶を飲むのだろうか、と理香子はちらりと気に掛かった。もしかすると、"カフェイン中毒"なのかもしれない。
「貴女も気ままに暮らしているのね」
「この幻想郷で気ままに暮らしていない者なんて、ほとんどいないと思うわよ」
「それもそうね」
二人してくす、と小さな笑い声を洩らす。二人とも知り合いを思い浮かべてみて、毎日を辛い辛いと生きている者が誰一人としていないということに気付いたのである。
霊夢と二人なのは久方ぶりのこと。様々な雑談に花を咲かせた。気付けば外はすっかり暗くなってしまった。暮れるのも随分と早くなったものだ、と理香子は思う。いつのまにか場所は縁側に、飲むものは焙じ茶から清酒に代わっている。空気も冷え込んできて、来る冬のことを思わせた。しかし澄み渡った空気は、空に多くの星々を映しだしていた。今日は月がないが、それでも星光の御蔭で明るい。二人で星見の酒と洒落込むには丁度良い。
「随分と長居してしまったわね」
おちょこで出来た影を見ながら、理香子は少し申し訳なさげに述べる。元々博麗神社に来る予定もなかった。それがこうも長居してしまって、流石に少し迷惑かと思ったのである。
「構わないわよ。いつもこんな感じで誰か居座っているから」
けれども霊夢は全く気にしていないようだ。上機嫌におちょこへ酒を注いでいる。行灯の光で、二人の影がゆらゆらと揺れている。
「いっそ、泊まっていったら。もう暗いし」
「それはいくらなんでも悪いわよ」
「気にしなくていいわ。魔理沙だってしょっちゅう泊まってるから、ちゃんと来客用の布団もあるし」
言って霊夢はおちょこを煽る。
「とはいっても、ねぇ」
そう言いつつも、理香子はその提案に魅力を感じていた。
霊夢といると、なにか落ち着く。来る予定もなかったのにこうも長居してしまっているのは、きっと霊夢と一緒に居て、霊夢と会話をしていることが楽しいからだろう。霊夢にはそういう不思議な力がある。だからこそ霊夢は皆から慕われ、博麗神社にはいつも人妖が絶えることがないのだろう。
「全然構わないわ。是非是非」
「そうねぇ」
「ほらほら、とりあえずお酒」
言いながら霊夢は酒瓶を持って理香子に差し出す。理香子もついつい釣られておちょこを出した。
「これで一本空いた」
ちょうど理香子のおちょこを満たしたところで、瓶の中身はすっからかんになってしまったようだ。とはいえ、理香子も霊夢もまだいける。
「次開けても良いわね?」
「いいわよ」
先まで長居を申し訳なく思っていたのに、ついつい次を開けることを承諾してしまった。承諾してからはた、と気付いたがもう遅い。こうやってついつい居てしまうのは、やはり霊夢の魅力に他ならないだろう。
霊夢はまだ空いていない一升瓶と、一升瓶が3本ほど入る大きな巾着袋を持ってきた。一升瓶は人里での手吹きであり、貴重なものであるから、瓶を酒屋に持って行くと幾らかの金を返してくれる。その返却用の巾着だ。
「それじゃ、これ」
霊夢は左手に持つ満タンの酒瓶を理香子に示す。理香子はそれを受け取って、代わりに空になった酒瓶を手渡した。
「それ開けといていいわよ」
理香子の右手にある瓶を指し示しながら、霊夢は絞られた巾着を開く。
「了解」
酒瓶の栓を引き抜きながら、理香子はなんとなしに霊夢の動作を見つめていた。
「あら、入らなかった」
絞りを開くのが足りなかったようである。巾着に入れるはずの空き瓶は、しかし角が引っ掛かって入らなかったようである。
「面倒くさいわね。まったく」
霊夢は仕方なしに空き瓶をもう一度脇へと置いて、それから巾着の口をより広げる。
「今度こそ入った」
霊夢は左手で巾着に空き瓶を押し込むと、思いっきり巾着の口の紐を引っ張る。明日にでも人里に持って行くのだろう。
と、なんとなく見つめていた理香子であったが、ふと研究の事が思い起こされた。
早苗の思いつきの通り、四角形状の分子・シクロブタジエンを2枚使ってサイコロを作ろうとしたが、それは失敗に終わった。片方の端を結ぶと、長さが足りずに反対側の端が結べない。
それならば、先ほど霊夢がやったように長さを延ばしたらどうだろうか。四角形でなく、片方が六角形であったら。長さを伸ばして端を結んだあと、巾着を絞るように六角形を四角形にしたらどうだろうか。
発想の転換である。長さの足りぬ四角形二枚を何とか反応させるよりは、いっそ長さを伸ばして反応させた後、四角形に戻せばいい。なにせ最終的に、サイコロになればいいのだ。
「理香子、どうしたの?」
少し赤みがかった顔で、霊夢は理香子を覗きこむ。けれどももう理香子はそのことに気付かない。理香子の頭の中にはもう様々な化学式しかなかったのだ。
理香子は懐から矢立と懐紙を取り出すと、そこに凄まじい勢いで式を書き上げていく。霊夢からしてみれば何を書いているのだかさっぱりだ。
「……そうね、臭素を使って……」
霊夢はしばらくいろいろ試して理香子がこちらに戻ってこないかどうか試してみた。しかしどうにもこうにも理香子が戻ってこないことがわかると、諦めたように新しく開けた清酒を自分のおちょこに注いだ。
「どいつもこいつも、みな似たようなものね」
突然自分の世界に入ってしまうような奴を霊夢は他にも知っている。だから慣れているといえば慣れているのだ。
「一体どうしてくれようかしら」
恨めしそうに理香子を睨みながら霊夢は呟く。しかしそんな霊夢も、入り込む自分の世界を持った人妖達を認めている。認めているからこそ、追い出したり怒ったりはしない。
「……よし。これならきっと!」
「やっと戻ってきたわね。全く、巾着袋のどこが面白いのよ」
はた、と理香子が我に返ると、霊夢が左手におちょこ、右手に一升瓶という姿で隣にちょこんと座っていた。
「……あれ?」
「お帰りなさい。お酒、いる?」
きょとんとした理香子の前に一升瓶が差し出された。すでに三分の一ほどが飲み干されている。
「頂戴」
まだよくわからぬままにおちょこを差し出す。おちょこにたっぷり注がれたのを確認して、理香子はそれを一気に煽った。
「ふぅ。これ、美味しいわね」
「流石は鬼のお土産よね」
霊夢も片手で瓶を回しながら、ちびちびと飲む。濃い茶色の瓶は星明かりを反射して、鈍く光っている。
「で、何か思いついた?」
空いた理香子のおちょこに霊夢は酒を注ぎ足しながら聞く。ところが理香子は、それが暫く何のことを聞いているのかわからなかった。
「あ、ええ。良い考え思いついたわよ」
霊夢の話が何だったかを漸く理解して、図やら計算式やらを書き散らした懐紙を懐へ仕舞いこみながら、理香子は二コリと笑う。
「本当に霊夢って凄いわねぇ」
「はっ?」
「流石は博麗の巫女。私の懸案へ見事に答えを導いてくれたわ」
「え?」
理香子の言葉に霊夢は完全に混乱している。理香子にとって霊夢の動作はまさにヒントとなりえるものであったのだけれど、霊夢からしてみればただ巾着を絞っただけ。何の事かわからないのも当然だろう。
「本当に有難う。貴女の御蔭で展望が見えてきたわ!」
そんな霊夢にお構いなく、理香子はおちょこにある酒を一気に呷った。
「ああ、美味しいわね。もう一杯呉れる?」
「え、いいけど」
上機嫌な理香子の様子に、霊夢もどうでもよくなったようである。理香子のおちょこに酒を注ぐと、自分のおちょこに残った酒を一気に飲み干した。
「ああ、旨い!!」
「随分と調子が良くなったわね」
「今まで悩んでいたことがすっきり解消されたんだもの。酒が美味しいのも当然よ」
「それもそうね」
理香子が飲む気満々であるのを見て、霊夢も開き直ったようである。
「よし、じゃんじゃん飲むわよ。潰れたら承知しないんだから」
「そっちこそ、潰れたら承知しないから」
空になった二つのおちょこに酒を注ぐと、それを軽く突き合わせる。そして顔を見合わせて、一気に飲み干した。
理香子が家に帰ってきたのは、翌日の昼前であった。霊夢と夜通し飲んだ挙句に二人ほぼ同時に撃沈し、そのまま博麗神社で寝ていたのである。一枚だけ奥から出した毛布に、二人で一緒にくるまっていたから、縁側でも寒くなく過ごすことができた。そうして二人で昼まで惰眠をむさぼっていたのである。
二日酔いの頭痛に苛まれながら、やっとのことで家に戻ってきた理香子は、そのまま研究室に直行した。頭痛如きで、一日を無駄にしたくない。折角ヒントを貰った研究を進めたかった。
そしてそれは、余りにあっけなく終わることになる。霊夢のところで思いついた通りだったのだ。
つまり、四角形――シクロブタジエンを二枚持ってくる代わりに、四角形一枚と六角形――2,5-ジブロモ-1,4-ベンゾキノンを持ってくる方法で上手く行ったのだ。まず四角形と六角形を向かい合わせ、隣り合う二辺を架橋してつなぐ。そうして四角形―四角形―六角形と三つの図形が繋がったところで、四角形の端と六角形の端を架橋して接続。そこで六角形から炭素を二つ飛ばして"絞り"、四角形に変形してしまえば、そこに出来上がるのは立方体。目指していたものである。
反応の結果、目的のものができたと知るや、思わず理香子はよし、と小さく叫んでしまった。理香子は満足感と達成感と幸福感とで、いっぱいいっぱいになっている。この成功の時の喜びがあるからこそ、理香子は科学の研究をやめることができない。幻想郷の中でこの喜びを知っているのが、理香子しかいないだろう、という事実がまたちょっとした優越感にも浸らせてくれる。
けれども結局はやっぱり、何より研究の成功が嬉しい。やっぱり理香子は、科学が好きだから科学をやっている、ということを再認識させられた。そして同時に、やはり研究は止められない、とも。
科学の研究とは、ひょっとするとちょっとした麻薬なんじゃないだろうか、とさえ理香子は思う。それほどに研究の成功の時の喜びは大きい。喜びが大きく、病みつきになるから止められない。きっと科学を学べなくなったら自分が禁断症状で死んでしまうのではなかろうか、とさえ理香子は思った。
暫く喜びに浸った理香子は、落ち着いてくると、とりあえずベッドへと向かった。研究の成功によって忘れていた頭痛が、落ち着くにつれてぶり返してきていたのだ。外を見ると東の空が白んできている。早く終わったとは言え、すでに一日以上研究室に籠りっきりであった。
着替えも何もせず、ただ眼鏡だけは外して机に置いて、理香子は只ベッドに倒れ込む。とりあえず今は、この幸福感の中で安らかに眠りたかった。この成功の報酬としての睡眠をむさぼりたかった。
睡眠に飲み込まれながらも、今回の研究は幻想郷の皆に助けてもらった部分も大きかったな、と理香子は思う。幻想郷に住んでいる妖怪も人間も、皆気楽な者ばかり。そして科学を何も知らない癖に、ヒントになるようなことを示唆したりするのだから、中々な癖者ばかりだ。
けれども今回ばかりは、感謝感謝である。理香子は改めて、自分が幻想郷に住んでいて良かった、と思えた。幻想郷だからこそ、自分は科学を学んでいるのだろう、と。
ベッドに飛び込んで幾ばくもせず、幸福感に包まれて理香子は眠り始めた。成功の象徴たるサイコロを、幻想郷の皆から渡される夢を見ながら……。
了