「この部分には随分朱が入っているようですね?」
阿求は原稿に目を通しながら、首を傾げた。一部分だけ、まるで血しぶきでも掛かったかのように赤に染まっている。
「残念ながら、そこの部分は全くの出鱈目だったのよ」
「おかしいですね……。この稗田の家に残された実録を見る限りでは、こういう話のはずなのですが」
 『幻想郷縁起』をまとめるのは、御阿礼の子の役割である。しかし御阿礼の子が現世に存在している時間はそれほど長くない。それゆえ稗田家は、御阿礼の子がいない間にも当主が記録を取る。その記録――実録を元に御阿礼の子は幻想郷の歴史をまとめるのだ。
 だが今、紫はその実録が間違っている、と伝えてきた。そのようなことがこれまであっただろうか。阿求は阿礼以来続く記憶を探るが、全くそのようなことはない。稗田の記録と紫の記憶が食い違うというのは、あまりにも異常事態だ。
「少なくとも、私が体験してきたことはこの朱で直した通り。当時の稗田の当主が何を考えたか知らないけれども、実録が間違っているのは確かだと思うわよ」
「……そうですか」
 阿求は考え込んだ。ここの記述をどうすべきなのだろうか。











――人妖の境に立ちて――











 紫は店内に置いてある、一つの器に目を付けていた。青や赤で染付された、白磁の香炉である。
 記憶に違わぬならば、この鮮やかな藍色の発色は、鍋島焼だろう。遠く筑紫は有田の焼き物である。
「店主、これ見てもいいかしら?」
「お、それに目を付けるとは、八雲さまもお目が高い。どうぞ、お構いなく」
 店主の貼り付けたような笑いに会釈を返し、それから裏返して高台を見る。その裏書は、紫の見立ては間違っていなかったことを証明していた。続いて、横に置かれた箱も眺める。千家の某氏の名で以て、鍋島焼である旨の箱書きがきちんとある。
「ええ、この香炉気に入ったわ。頂ける?」
「八雲さまがお買いになるというなら、この香炉も喜びましょう」
「それで、支払はツケでいいかしら?」
「いえ、それはちょっと……」
 店主は眉を曇らせている。恐らく、ここは譲れない部分なのだろう。この香炉がかなりの値の張るのは、紫だってわかっている。わざわざ筑紫で船積みし、海路陸路とこんな山奥まで運んできた手間は、馬鹿にならない。
「それじゃ、これでいい?」
 紫は指を一つ鳴らす。と、その前に箱が現れる。紫がそれを開けると、中には小判が詰まっていた。
「これくらいでどうかしら?」
「少々足らない、といいたいところですが八雲さまの御用とあれば、これで手を打ちましょう」
 店主はその小判を受け取ると、香炉を箱に入れ、きちんと紐を結んでから差し出す。
「有難う」
 そう言って紫は、それを風呂敷に包む。
 包み終わると、扇子を軽く鳴らす。それと共に、その包みは消えて失せた。
「それでは、また来るわ」
「またのお越しをお待ちしています」


 さっと紫が暖簾をくぐると、ふと目線を感じた。そちらを振り返る。
「随分と高い買い物をしたのねぇ」
「あら、見てたの、いやらしい」
「変なスキマから覗くあなたよりは随分マシだと思うわ」
 言葉こそ嫌味だが、口調は軽い。紫はふっと笑う。
「で、人里に何しにきたのかしら? 幽香」
 緑髪を軽くかき上げ、幽香も少し笑った。
「最近、面白い本がこのあたりでも手に入るようになったから、ちょっと物色しに来たのよ」
「貴女も本を読むのねぇ」
「貴女よりは大量に読んでいる自信があるわよ」
 紫のからかいに、幽香は薄く笑ってみせる。それは半ば紫への挑発も入っていただろう。
「あなたほど、私は暇じゃないのよ」
「なら、どうしてこんなところで買い物してるのかしらね」
 右手に持った番傘をひとつくるりと回すのがまた様になっていて、紫には少し妬ましい。
「まあ、いいわ」
 いい加減、皮肉を飛ばしていても仕方のない話。紫は、扇子を広げながら一言告げる。
「それで幽香。ちょっと面白い話があるのよ」
「なにかしら? 紫を弄るより、楽しいことかしら?」
「場合によっては、そうじゃないかしら」
 幽香の茶化す目線を、紫は少し真面目な目で返す。
「で、それは買い物の話かしら?」
「話が早くて助かるわね。そうそう。私、一つ面白い香炉を買ったのよ」
「香炉? 貴女、そんな趣味あったかしら?」
「別に香炉を集める趣味はないわ。でも、その香炉は特別よ」
 じらすと、幽香はその紅い目をひそめる。少し機嫌が悪くなったのが伺える。やはり、短気だ。
「何なのよ、それは」
「鍋島焼だったのよ」
「鍋島焼? まさか」
「そのまさか、よ。あの霧雨の店主、鍋島焼を手に入れたみたいね」
 紫の言葉に、幽香の顔はふっと険しくなる。
「時代、変わったわねぇ」
「あの鍋島焼が、こんな辺境まで流れてきたとは、私も驚いたわ」
 鍋島焼とはその名の通り、佐賀鍋島藩が特別に作る有田焼のことである。藩での贈呈に用いられ、一般には決して流通しない。鍋島焼を所持するのは、大名だけ。
「本来なら、まず殿さましか持ってないようなものを、妖怪の貴女が手に入れた。面白いと言えば面白い話ね」
「面白いかしら」
 今度は紫が少し眉をひそめる番だった。
「時代がこうも動いている状況が、面白いですって?」
「皮肉的じゃない。一部の人間の独占品が、妖怪風情の手にも渡る世になった、って」
 対照的に幽香は少し尖った笑いを浮かべている。
「丁度私もね、面白いものを手に入れたのよ」
「面白いもの?」
「これよ」
 懐から幽香は一冊の本を取り出した。まだ綴じ目も新しそうな本である。買ったばかりであることはすぐに伺えた。
「それは、中江兆民?」
「流石にあなたも知ってたかしら。『民約訳解』よ。まさかもうこのあたりに入ってきているとは思わなかったけれどね」
「まだ出版されて数年しかたっていないけれど、もう幻想になったのかしら?」
「紫、貴女年取り過ぎてボケた?」
 幽香の紅い目が、半ば呆れている。ボケに反応してくれない幽香に、少し腹が立つ。
「妖怪は年を取った方が力を増すのよ。それもわからぬ貴女こそ、ボケたんじゃないかしら?」
 紫が幽香を軽く睨むと、幽香はふう、と溜息をつく。この話が面倒になったらしい。
「話を戻すわ。『民約訳解』の話だけど、どうやら、人里の連中がこう言った本に興味を示してきたらしいわよ」
「ふむ」
 紫は、少し考え込む。
「やはり、少しずつ物事が変わってきたといえるのかしら」
「少し前まで、こんな本は全くここに入ってくることなんてなかったじゃない」
「そうね。せいぜい娯楽の本が幾らか流入してくる程度だったわ」
「それが、こうして論説のものが入ってくるようになる。言っておくけれど、これだけじゃなかったわよ。霧雨家もいろんな本を取りそろえていたわ」
 幽香は相変わらず、薄い笑いを浮かべたまま言う。
「世界は、物凄い勢いで動いているわ。その鍋島焼で、貴女もわかったでしょう」
「ええ、良くわかってきたわ」
 紫は幽香の言葉に、頷かざるを得ない。紫は世の中が流れていると言うことを、知らなければならなかった。


 社会の流れは、もともと妖怪たちにとってあまり良い方向へは動いていない。徐々に徐々に、しかし確かに妖怪を否定する方向へと、人間たちは進んでいた。その原因こそが、全ての物事が"理"によって動いているという考え方である。合理主義とでも名付けられるだろう。そんな考え方は、ずっと前から少しずつ人々の心を支配するようになってきていた。
 そんな動きはここにきて一気に勢いを増している。人間は全ての物事が理によって動いていると理解するようになった。理がこそこの世を支配し、理によって説明できぬものなぞ何一つとしてないのだ、と人間は考えるようになった。嘉永のころから始まった動乱に伴って、西洋からその合理主義が一気に流入してきたようなのである。既に、元号が明治に変わってより十数年。ここにきて、この辺境にも浸透して来た。
 そうして理ばかりが優先される世の中は、妖怪にとって害毒という他はない。理によって説明できない妖怪は、排除されるべき最大の対象と言えた。人々は妖怪を恐れることはおろか、妖怪が存在することさえも信じなくなる。

 そんな中で、その危機を騒ぎ立てる妖怪たちもいた。そんな者たちは人間たちに戦いを挑んでいる。八年前に九州で、そして今年の夏には秩父で、人間の反乱に合わせて妖怪も一大蜂起したのだ。自らの楽園を作らんと奮闘したわけである。だが、結局敵わず妖怪は多数の屍を撒き散らすのみに終わってしまっていた。

 紫も、そういった危機には何処かで気付いていた。その一方で、どうにかなるという楽観論もあった。これまでも、そうして妖怪が否定されつつあった。しかし人間たちは、ついぞ妖怪を否定することができなかった。だから今回も否定できないだろう、とそう思えていた。
 だが、この幽香との会話で、紫はもはや抜き差しならぬ所に来ていることを思い知らされた。藩御用達の鍋島焼がこんな辺境まで持って来られること、そして合理主義の啓蒙書に大きな需要が生まれていると言うこと。
 ここまで流れが速いとは、紫さえ思っていなかったのだ。

 ここに、紫は明確に認識した。合理主義が、最早どうにもならぬ速度で広まっていると言うこと。そして、この弧状列島の中で、妖怪という存在が居る場所が一つ一つ減っているということを。
 そうなれば、一刻も早く何らかの対処をしなければならなかった。紫の縄張りであるこの幻想郷には妖怪が多い。本格的な合理主義流入以前から、恐れられず信じられず弧状列島での住処を失った妖怪たちが流れ込んできているからだ。

 そうして紫は一つの案に辿り着く。それは、結界によって幻想郷を外から切り離してしまうということであった。もし幻想郷と外の間の行き来を封鎖してしまえば、思想も道具も技術も流入してくることがない。向こうで幻想となったものを選択的に取り入れることができる。則ち妖怪に害するものを全て排除することができるということだ。
 さらに物事の流入を妖怪によって司るようにすれば、妖怪が主導となった世界を作ることができる。さすれば、妖怪の楽園がそこには現出するだろう。これならば、幻想郷を守ることができる――。




「……と考えたのだけれど、特に異論はないわね?」
 いくら幻想郷が紫の縄張りであったとしても、既に紫が何の了承も得ずに好き勝手するのは、もうできなくなっている。幻想郷の規模も大きくなったのだ。それゆえ、紫は自身の邸宅に有力者を集めていた。有力者たちに結界について説明しようと考えたのである。意見を求めているわけではない。説明のみだ。有力者たちは何が起こるか知る義務があるとは思っているけれど、だからと言って紫の縄張りに何か口出しする権利はない。そのように紫は思っていた。
「この幻想郷を外と切り離す、ということでよいのですか?」
 紫の通達を聞いた者たちは互いに顔を見合わせた。確かに幻想郷全体を大きな結界で覆ってしまうという計画は壮大なもので、戸惑わせるものであったかもしれない。けれども、もう紫は実行を決めている。そこに他人の意見の挟まる場所はない。
「そういうことよ。私からは以上だけれど、他に何か?」
 紫は、扇子を片手に、円座する有力者たちを見渡した。
「竹林に対する不干渉を守ってさえくれれば、私は文句ないよ」
 最初に口を開いたのは素兎であった。見目は幼く、とても大物には見えない。だがかなりの古参で出雲神とも親交を持つといわれている、日本一力のある兎だ。
「我々としても文句はありません。他の天狗の説得には力を尽くしましょう」
 そう言って胸を張ったのは、幻想郷土着の白狼天狗・犬走楓である。白い長髪に紅の烏帽子が映えている。脇に置かれた、白地に紅葉を描いた盾が、彼女をよく表している。彼女は夫と共に幻想郷の天狗の長となっていた。
「私たちとしても、特に反対することは有りません」
 ただ一人だけ、稗田の当主が人間として座っている。若い女ながら、居並ぶ妖怪に恐れも見せず、泰然自若と座っていた。その彼女もまた、賛成の意を表した。最も、人間の意見など、微塵の影響もないのだが。
 かくして、紫は全員の意見の一致をみる。



「で、貴女にも意見を伺いに来たのよ。もうほとんどの有力者たちが積極なり消極なり賛成してくれているわ」
 冬にも関わらず辺り一面、向日葵が喜々と咲き誇っている。雪景色の中の向日葵とは随分と不気味なものであったが、紫はさして気にも留めない。
「この幻想郷と外を隔離する、って話ね?」
 目の前にいる花の妖怪は、幻想郷の中の有力者に数え上げられはしない。確かにここに居る花の妖怪は夢幻館の主であり、吸血鬼すら従える。だが単純な戦力と政治力とは必ず一致しない。
「ええ。そうよ」
 紫は彼女の賛成を疑っていなかった。幻想郷に住む者賛成して当然だ。
 だが目の前で話を聞く幽香は、す、と目を細めた。
「それは本気?」
 幽香の真赤な瞳が紫の眼を射抜く。
「ええ。もはや妖怪の棲む余地などなくなった外からここを遮断するわ」
 だが紫もまた幽香の瞳を覗き込む。賛成しか疑っていない紫にとって、幽香の言いたいことが今一つ分からない。
「博麗神社を起点にこの幻想郷を覆うように大結界を設置して、外と内の行き来を遮断する。そうすれば外の影響を受けることなく妖怪と人間が平和に暮らし続ける"桃源郷"が現れるわ」
 だがそれを紫は顕さない。扇子で口元を隠して曖昧に笑ったまま幽香を観察した。
「もう一度言うわ」
 幽香は紫から目線を外した。そこで初めて紫は若干の疑念を覚える。どうして彼女はそんなことを聞くのか。
「貴女は、幻想郷を外と隔離するつもりね」
「ええ。博麗の巫女と。既に準備を始めているわ。あなたも賛成するでしょう?」
 故にほんの保険程度の気持ちで、紫は駄目押しをした。幽香がここまで話を引き延ばすからには、何かがあるのだろうと考えたからだ。念を押した方が良いと思ったのだ。
「馬鹿はその程度にしておいてほうがいいわよ」
 幽香の態度へ若干の疑念を抱いていたとはいえ、紫にとって結界設置は必然のことであり、反対する理由が見当たらない。故に紫には何の言葉か一瞬理解できなかった。
「その計画には賛成できないわ。それは、外も内も破壊する愚行よ」
「なんですって?」
 賛成できない、の言葉に紫は耳を疑った。ここにいる花の妖怪は維新後の改革の危険性について、全く理解しないらしい。
 これまで彼女を幻想郷の賢者と見做し、それ相応の妖怪として扱ってきた自分が馬鹿らしくなってくる。時代の流れも読めず、幽香はみすみす妖怪を全滅させようとしているのだ。
「愚行だ、と言っているのよ。そんな愚考は捨てたほうがいいわよ」
 だが幽香はそんな紫の思考も全く関知しない。自らの利益に反すると考えたのか、幽香は紫に対して明確に反対を表明している。このまま何もせずにいる方がよほど愚行であろう、と紫は幽香を睨みつけた。
「やる気?」
 ここでこの花の妖怪を処分することは如何、と紫は数瞬のうちに利害を弾き出した。最悪の場合ここで彼女を殺しても、大した影響はあるまい。それが結論である。
「いいえ。私は反対なだけ。でも、何もしないわ。私はここで一日平和に暮らすただの妖怪ですもの」
 しかし、幽香は如何なる動きも見せなかった。反対を表明しながら、何もしない幽香の考えが、わからない。
「それじゃ、何故反対と言ったのよ?」
「貴女が視野狭窄に陥り過ぎていることを知らせる妖怪が一人くらいいてもよいでしょう?」
 じゃあね、と幽香は紫に背を向けて白と黄色に彩られた丘を歩き始める。紫は柿渋色に光る幽香の日傘を、ずっと睨みつけていた。
 結界に反対する者は、須く反逆者たるべし。結界に反対する者など紫の中に存在しないし存在してはならないのだ。結界を敷くことは幻想郷を守るために必須であるのだから。
 だからといって、なんの動きをも示さぬ彼女を殺すほど、非情ではなかった。妖怪である紫は。

 それに、幽香一人が反対したとて、それが大きな影響を及ぼすとはとても思えなかったのである。幽香は、阿確かに紫と互角であるほど強い力を持つ妖怪ではある。そうではあっても、所詮は一匹の妖怪に過ぎないのだ。それ以上の力は持たない。



 マヨヒガの一室に、新聞が無造作に積まれている。紫は、その山にまた一つ新聞を加えた。
「こちらには『太陽の畑で反対派集会。決起か』とありますね。そちらは何だったのですか?」
 横では、小指の爪先ほどの小さな字で書かれた文章を、藍は難しげな表情で斜め読みしている。こういうものは藍の方が詠むのが速い。
「『反対派、風見幽香の下に結集。八雲の影響力低下』だって。本当に、天狗の奴等は暇よねぇ」
 紫は、目の前に積み上げられた有象無象の新聞を眺めた。妖怪の山で発行されている新聞全て、鞍馬諧報のような大手紙から読者数人の極小新聞に至るまですべての新聞を集めたのだ。天狗各派の御用新聞もあれば独立天狗による様々な思想信条に基づいた新聞もある。ありとあらゆる思想を持った新聞がここに集められていた。そしてその全てが、紫の結界案に対して風見幽香が反旗を翻したことを一面記事としている。もちろん幽香のことを"独裁者八雲紫に対して敢然と立ち向かう英雄"として書く記事もあれば"賢者八雲紫に対して反抗した愚者"と書く記事もある。この対立の背景として根も葉もない痴話を持ち出す記事もあれば、二人の幻想郷に対する立場の違いを冷静に分析した記事もあった。
 だが皆この幽香が大結界に対して反対したということを主題に置いていることは変わりないのだ。現に天狗各紙は幽香が反対したと聞くや、一斉にそれを一面で報じている。
 これは、紫にとって予想外であった。妖怪の中で影響力があるわけではない幽香が反対しようが、所詮一人の妖怪の戯言に過ぎぬ。そういう処理をなされるものと紫は予測していたのだ。
 そもそも幻想郷を采配するのは紫一人であり、流浪の一妖怪が何を騒ごうとも結果は全く変わらないはずなのだ。それに、そもそも天狗にも手をまわしていたのだから、こうして話が広められることも無かったはずなのだ。
 だが実際は違った。幽香が結界反対派であるということは大いに喧伝されることとなってしまったのだから。
「それで如何なさるのです?」
 藍もまた、手に持っていた新聞を紙の山の上に放り投げた。投げた新聞は山の側面に当たって音を立て、いくつかの新聞とともに下へ崩れ落ちた。
「どうしようかしらね」
「犬走の奴、協力すると口でこそ言ってましたが、この様子だと全く協力する様子がないのでしょうか」
 藍は別の新聞を拾い上げ、一瞥する。それにもまた、幽香についての記事が一面へと載っている。
「さて、それはどうかしら」
 紫は数多い新聞の一つから、ある新聞を拾い上げた。
「これなんかは、幽香については全く取り上げていないわ。むしろ、結界敷設の話を詳しく書いてあるわ」
「これは?」
 紫は藍の方へとその新聞を差し出す。多分に漏れず小さい文字がビッシリ並ぶその新聞は、手書きの丸文字であることも相まって、至極読みにくそうである。
「"文々。新聞"とあるわ。犬走楓の友人の新聞よ」
「ふむ……」
 藍はますます難しい顔になる。
「これは、却って厄介な事になっている気がします」
「この三十年の間に天狗の数は五十倍以上に膨れ上がっている」
 天狗といえば、日本にも知られる大妖怪である。しかし、時代の変化には如何ともしがたかったようであり、各地に住んでいた天狗集団は一挙幻想郷へと流れ込んできている。全国の天狗が流れ込んできたのだから、その数は一気に幻想郷の中での最大勢力となった。
「それだけ急に増えても、統制が取れないということでしょうか?」
 しかも、天狗は社会を築く。故に、他の妖怪以上に団体としての力を持つ。幻想郷の中での有力者として、幻想郷天狗の長・犬走が参加しているのも元々は、数以上に力を持つが故だ。
「そうね。誰が天狗の長であるのかすら分かりにくい状況だもの」
 紫にもこればかりはわからぬことである。これまで、幻想郷の天狗は犬走を中心に据えて緩やかに結合していた。だがこの激変の中で、いつまで経ってもその通り、というわけにもゆくまい。
「困ったものです」
 紫の言葉に、藍もまた目頭を押さえた。天狗の結合が強固でないならば、却って天狗を牽制するのが非常に難しいのだ。

「しかし、この状況をどう対処しましょうか」
 新聞に載り、広く幻想郷にばらまかれてしまった、という事実は決して軽く済む話ではないだろう。幽香は力のある妖怪だ。このことが喧伝されれば、必ず幽香を中心に反対派の妖怪たちが集まる結果を招くだろう。反対派がただ集うというならば、特に紫も気にはしない。どうでもいい話であるからだ。だが、幽香という存在、ただそれだけが紫をしてそれを無視させ得ぬものとしている。
 忌々しい新聞を眺めながら紫は思考に耽った。
 幽香は力ある妖怪だ。能力こそ、花を操る程度だとか自称しているが、そのことが却って彼女の力を示している。彼女の本当の力はその妖力の大きさにある。幻想郷随一の妖力を持つ彼女は、その妖力で以て敵を圧し潰す。相手が如何な能力を持っていようとも、妖力であって力づくに押し潰すことができるのだ。
 かつて吸血鬼が幻想郷に流れ込んできて騒動となったことがある。黒船の大騒動があるほんの少し前の話だから、最近のことだ。おそらく外国から逃れてきたのだろうが、入って来るやこの幻想郷で力を見せつけんと、その吸血鬼は手当たりしだいに妖怪を襲い始めたのである。ところがそれを知るや、幽香は忽ちの内に吸血鬼を打ち破って従えてしまったらしい。
 紫が知った時には全て騒動が終わった後であり、せいぜい吸血鬼の扱いについて条約を作るのが精一杯であった。幽香ならば、それが可能なだけの力を現に持っている。まぐれでも奇跡でもないだろう。
 それであるからこそ今回の事態は頭が痛い。このまま反対派が全面的に反抗することとなってしまえば、きっと幽香がそれを指揮することとなろう。さすれば結界計画は遅延する。
 そればかりは避けねばならぬ。紫は一刻も早く大結界を敷かねばならぬのだ。この幻想郷を守ることこそが至上命題だ。そのためならば如何なる物をも犠牲にしうる。友情も倫理もすべてを捨て去ることができる。そうあらねばならない、と紫は考えている。
「藍」
 紫は次の新聞に目を通している式を呼んだ。これまでとは異なって驚くほど低く冷たい声だった。
「はい」
「まず幽々子の所に行って私のところに来てくれるよう頼んでほしいわ。犬走の協力も頼みたいわね。それから、稗田には人里の統制をはかっておいてもらわないと困るかしら――」
 紫は藍に一つ一つ指示を下す。藍もまたしっかりと頷いていた。




 雪が、深々と積もっている。低く垂れこめた雲によって月も星も隠されている。幻想郷は真に暗く、紫の手にある提灯が白い雪を七色に輝かせていた。 音という音を、雪は吸いこんでいく。何も見ること能わず、何も聞くこと能わぬ世界が、そこには広がっている。
 そんな"幻想"の名にし負う光景の中から、紫は小さい灯りを見つける。降りしきる雪の中に紅一点輝いている。雪と闇とのせいで向日葵はわからぬが太陽の畑である。反対派が集まっているのだ。
「今日、幽香は夢幻館に帰っているからあそこにいないわ」
 紫は小さく述べた。雪の中に消え入りそうな声であったが、周囲に飛ぶ全員がそれを聞いた。
「それでは、我々が先陣を切りましょう」
 言ったのは、犬走燭である。百戦を潜りぬけてきたような剽悍な顔立ちで、全く動じているそぶりを見せない。交渉に現れていた妻・犬走楓の柔和さに対して、彼は剛毅のものである。二人で補完し合っているからこそ、犬走夫妻は幻想郷の天狗を統率しえているのだろう。
「私もこの狼と行くよ。あとよろしく」
 唯一外様、と言えるだろう素兎・てゐが紫に合図を送った。
「ええ。よろしく。一人たりとも逃さぬようにね」
 紫もまた、ほんの少しだけ提灯を掲げてこれに応えた。犬走夫妻が飛び立つや、てゐもそれのすぐ後ろにつき従って闇に消えていった。

 始まりは、燭の一閃である。眼にもとまらぬ剣の一振りは、これから起こることを露にも知らぬ一人の妖怪の頸を落とした。さらに返す刀で二人目の腹を裁ち割り、同時に左で振り抜かれた"やすで"の団扇は、風を以て三人目の腕を斬り落とした。
「何事だ!」
 だれかの声が響く。燈明は次々とてゐによってすべて消されてゆく。雪が降っていることすらわからぬほど、その場は暗い。
 だが犬走の動きは止まらぬ。応戦しようと身構えた妖怪の眉間に燭の幅広剣が押し込まれ、逃げようと背を向けた妖怪は風の刃でもて袈裟斬りとなる。燭の背を狙って攻撃を放てばその脇を楓の細身刀が斬り裂き、やみくもに攻撃する者は楓の盾によって殴りつけられる。天狗の力とはだてではない。動きはまさに鬼神の如し。未だに体勢立て直すことも叶わぬ妖怪を撫で斬りにしてゆく。
 てゐもまた容赦なく妖怪を刈ってゆく。兎らしい機敏で奇怪な動きに、その場の妖怪たちは付いてゆけぬ。思わぬところからの攻撃を受け雪の上に斃れてゆく。
「八雲の攻撃だ! 周囲を警戒しろ!」
 明朗な女声が唐突に響く。漸く状況把握に至った妖怪がいたらしい。だが時は既に遅し。幻想郷の主たる八雲紫から逃れらる妖怪などほとんどおらぬ。
 北から山の方へ逃げようとした彼ら・彼女らの前には、殷帝国の最盛期を築いた名君・紂さえも滅ぼした妖獣が立ちふさがる。道の暗がりより見えぬ針が飛び、次々と妖怪は屍と代わってゆく。それでも突き抜けんとした妖怪は、直接妖術を当てられて命を失った。
 南から無名の丘へ逃げようとした者の前には、死の権化が立ちはだかる。雪と暗闇に膨大な蝶が紛れている。妖怪たちはその蝶に捕らえられ、白玉楼中の者と化す。
 そして初撃の真反対方向、東方向から博麗神社に逃れんとした者の前には幻想郷最強の妖怪がいる。もはや彼らは攻撃されていることにすら気づかない。気づいた時には既に死んでいる。彼女の攻撃に耐えうる者はごくわずかしかおらぬ。ほとんどは、彼女の歯牙にもかからぬ存在であった。

 四方を塞がれた彼らは、結束して防衛に入るしかなかった。幽香が来れば、若干状況は変化するだろう。散らばって各個撃破されるよりはまとまって当たったほうがよい。
 然れども、まとまったところで如何様にならん。ただ数を減らしてゆくばかりであった。

 燭は、時折愛する妻が危ない目には遭っていないかと心配しながらも、妖怪狩りを続けていた。もっとも、妻・楓もまた白狼の中でも屈指の手練れである。そうそう不覚を取ることはない。となれば、反抗する妖怪の屍の山ができるのみである。
 そうして少し慢心していた部分があったのかもしれない、と燭はふと思い知らされてしまった。振り下ろした剣が、受け流されたのである。ただでさえ重い幅広の刀を凄まじい速度で振り下ろす彼の斬撃は、まともに避けるのも難しい代物だ。それをさらりと受け流されてしまったのは、燭の慢心とは言えなかったか。
 受け流したのは、紅の髪を持つ長身の女である。得物こそないが、その構えからは力あるものであることは一目瞭然だ。刀の一撃を気功で避けたのだと推測するのは想像に難くないことである。
「よく避けたな」
 燭は今度こそ、その力を込めて二撃目を振り下ろす。同時に左では風を動かして彼女の側面を襲わせる。だが彼女は華麗なる身のこなしでまず刀を交わし、続いて気で以て風を相殺して見せる。その上、視線は楓の方を牽制して彼女の動きを制していた。咄嗟にそれだけのことをして見せるのはとても只者ではない、と燭は思った。
「あんた、名は?」
 燭は力のあるものを尊敬するだけの余裕と度量を持ち合わせていた。たとえ自分に敵対する者であったとしても、それ相応の力を持つならばそれに合せた対応をせねばならない、と思っていたのである。社会での序列を重要視すること天狗の中で異端であることは、燭自身もわかっている。
「Hhong Meeling」
 先ほどの女声は、彼女の声であったのか、と燭は少し納得して楓をちらり、と見る。楓もまた普段の柔らかさを抑え込んで、厳しい表情を浮かべている。
「唐からわざわざ来られたのですか。ご苦労なことです」
 楓が呟きながら、盾を突きだす。同時に燭もその刀を、逃れて来る場をふさぐように振り下ろした。しかし美鈴と名乗ったその女は、気を上手く使って微妙に刃を逸らし、ついには自らを守り切ってしまう。これは戦いにくい相手だ、と燭は直感していた。そして楓も又そう思っている、ということに気づいていた。
 それからも、二人は美鈴を相手し続けた。他の妖怪の割り込みを排除しながらも、なんとか彼女の命を刈り取るべし、とばかり、何度も彼女へと刃を向けた。その意気は寸分の狂いとてなく、逃げ場一つないものであったはず。だが、終ぞ彼女が刃を受けることはなかった。美鈴の何気ない動きの一つ一つは、しかし着実に燭や楓の刀筋をほんの僅かに反らせていて、彼女の体から遠ざけていたのだ。
 しかし、燭と楓とが彼女を圧倒し続けているのもまた事実であった。美鈴は刀筋こそ逸らせど、攻撃に転ずる隙もまたなかったのだ。二人の意気はまさにぴったりと合っていて、少しでも美鈴が隙を見せようものなら忽ちそこを抉ってしまうようだったのだ。
 その攻防に決着がついたのは、美鈴の渾身の一撃であった。楓の一瞬の隙を見逃さなかった美鈴は、そこに向かって渾身の攻撃を向けたのである。咄嗟に飛び込んでその拳を刀で受けた燭に蹴りを一つ加え、楓の追撃を塞ぎつつそのまま一挙に離脱したのだった。
 その身のこなしには、燭も溜息を吐かざるを得ない。楓を守るためには飛びこむしかなかったし、楓の進路を防ぐための蹴りも完璧であった。そして燭と楓とが態勢を立て直した時、美鈴は既に追えぬほど遠くへと逃亡している。
 燭は、ホンメーリンという彼女の名前を心に刻むことしかできなかった。と同時に、二度目に会った時は必ず屠ってくれよう、という意志も新たにしていた。

 間もなく、包囲殲滅戦は追撃戦へと移行する。包囲された妖怪はあらかた討たれ、あとは逃れた妖怪を倒すばかり。紫たちは各々逃げる妖怪を狩った。大急ぎで飛ぶ者には針が打ち込まれ、森に逃げ込まんとする者には蝶が留まり、地に潜らんとする者には天狗の刀が唸る。
 空が白み始めるころには、とうとう抵抗する者も消え失せる。
 昇る朝日に、雪が紅く紅く輝いた。




「あら、こんにちは」
「わざわざこのように席まで設けてもらって、申し訳ない」
 珍しく小袖に打ち掛けまで羽織った幽香は、にこやかに笑って妖忌を迎え入れた。
 部屋は決して大きくないが、応接間として装飾をしっかり行っているのだろう。洋館らしく彫刻などが施されており、上品な部屋であることは妖忌にもすぐわかった。その机にしても椅子にしても一見何気ないものであるが、良く見れば細かいところまで仕事が行きとどいている高級品だ。
「そちらこそ、わざわざ幻想郷の辺境までご苦労だったでしょうに」
「いえ。そのようなことはございません」
 妖忌は腰に差した二刀を抜き、横へと置きながら一礼する。幽香もまた一礼してこれを迎えた。
「しかし、このような南蛮風の館でありながら、幽香どのは相変わらず小袖ですか?」
「そうねぇ。普段は洋服の方が身軽でいいけれども、客人が来た時はきちんと礼装しないと拙いでしょう?」
 淡く朱い打ち掛けに幽香の緑髪が映えている。薄い紅色の小袖も相まって、幽香の穏やかな雰囲気によく馴染んでいる。そういう機敏などよくわからない、と妖忌は自認しているが、それでもよく似合っているとだけは言えるだろうと思った。
「礼装ということでございましたか」
「そうね。紫は礼装は小袖じゃないの?」
「紫さまは、そのような時も西洋のドレスをよく着ておられます」
「あらそうなの。随分と適応が早いのねぇ」
 幽香は暢気に笑う。彼女のその朗らかな雰囲気は、まるで春の陽気のようであった。普段から厳しい空気を纏う妖忌であるが、その妖忌ですら解かれそうである。
「それはそうと、妖忌は紫から何か言付かって来たの?」
「お一つだけ、幽香どのにお言葉を預かって参りました」
「あら、そうなの。紫はなんて?」
 桃色の扇子を机に立てて、幽香は若干身を乗り出した。
「冬眠するから、一度くらい顔を出しなさい、と」
「あら」
 幽香の頬が少し膨らむ。その仕草はまるで小娘そのものであって、妖忌はちょっと意外であった。大妖怪であろう幽香がこのような表情を見せるとは思わなかったからだ。
「つまんないわね。紫ならもうちょっと気のきいたことを言ってくれると思ったのに」
「はあ」
「妖忌も、もうちょっと面白いことを持ってきて頂戴」
 そんなことを言われても困る、と妖忌は思う。紫からは確かにそういう言付けを預かってきただけなのだから、自分はそれ以上どうしろというのだ。
「と、申しますと?」
 故に、妖忌は聞き返してみることにした。幽香の言う"面白いこと"とは何か。
「そうねぇ、例えば」
 幽香はさらに身を乗り出し、妖忌のすぐ前に顔を出す。少し潤んだ紅い瞳、そして微妙に光る健康そうな唇、白磁を思わせるとろっと白い肌、肩に掛かる西陣染の絹糸のような柔らかい髪、すらりと立ち上がる項、ほんの僅かに緩んだ合せ。そして微妙な体の捻り具合が生み出す、妖艶な背中の曲線。女の魅力を全身に纏ったその姿には、男も女も魅入られることは違いあるまい。凡そ、殆どの人間は彼女に捉われるだろう。
「"偶には一緒に居ないと、足りないわ" とか?」
「はあ」
 だが、その"殆ど"に妖忌は含まれていない。200年前ならいざ知らず、既に老境に差しかかった身。それも質実剛健を地で行き、修行と自己鍛錬こそを自らの喜びとする妖忌にとって、幽香の態度はなんでもない。心に隙でもあれば、幽香の囁くような言葉はまるで魔力のように感じたかもしれないが、妖忌にとってはただ面倒なだけであった。
「そんな言葉を、紫さまから引き出せばよいのでしょうか?」
「え、ええ」
 さっと姿勢を戻し、合せに手をやりながらつまらなそうに幽香は答える。
「あなたつまらないわね」
「生まれた時からつまらぬ者でありまして」
 妖忌はためらいなく答えた。朴訥然とした表情はピクリとも動かない。
「紫のことだから、もうすこし話し甲斐のある相手を寄越すと思ったのだけれどねぇ」
「申し訳ありません」
「構わないわ」
 幽香はふっと笑顔へ戻った。
「それで、紫は"足りない"のかしら?」
「はて?」
 と妖忌は首をかしげる。殊更、何かが足りるだとか足りないだとか、そんな話を紫がしていた記憶はない。
「ほんと、真っ直ぐ過ぎていっそ面白いわ」
 やれやれ、と幽香は首をすくめる。なにもわかっちゃいないのね、とその表情が語っている。とはいえ、わからぬものはわからぬのだから、と妖忌は困るしかない。
「紫は、"血が足りない"のかしら?」
 ふっと、その深紅の瞳が凄味を帯びる。
「幻想郷のために、どれだけあなたは血を欲するのかしら、と。そう紫に伝えておいてね」
 しかしそれも一瞬。妖忌が再び幽香の顔を捉えた時には、既に穏和で妖艶な表情へと戻っている。
「それじゃ、いろいろお疲れさま」
「こちらこそ、幽香どのには夜分遅くに時間をとてもらって申し訳なかった」
 妖忌は深く頭を下げた。それにあわせて、幽香も会釈を浮かべる。その会釈は、どこかしら余裕を浮かべていた。



「報告は以上です」
「ありがとう、藍」
 紫は笑顔で藍をねぎらう。こういった少々面倒な作業を、藍は苦も無くこなしてくれる。
「いえ。それが仕事ですので。して、他には?」
「しばらくは無いわ。下がっていていいわよ」
「了解しました」
 藍は紫の笑顔に応えたのか、若干の笑みを浮かべながら下がっていく。
「さて」
 藍が部屋から退出すると紫はその横に目を向ける。若竹色の着物に身を包んだ素兎てゐがそこにいる。
「あなたも協力してくれて有難う」
「私があんたに逆らえないことを、あんたもわかってるくせに」
 てゐは苦笑して言った。
「あら、そんなことないわよ。私がそんなに薄情に見える?」
「さあね。ま、竹林への不干渉と兎の保護の代償だから。私としてはそれさえ守ってくれればいいよ」
「そこはちゃんとするわ。如何なる者にも竹林には手を出させないから、安心していいわ」
「ありがと、それじゃ私も失礼するわ」
 てゐもまた、最後紫に一礼してこの場を去っていった。そうして部屋の中には二人だけが残る。
「あら、二人だけになったわねぇ」
 すぐ隣で幽々子が幽雅にまんじゅうを一つ齧っている。普段の笑みを全く崩さずとらえどころが全くない。
「幽々子にもお礼しなきゃだめね。元来幻想郷の住人じゃないのに、ありがと」
「いいわよ。紫にはいろいろ恩もあるし、友人に協力するのは幽霊として当然だわ」
 やはり自分にとって幽々子は刎頸の友であることを、紫は改めて実感する。もっとも、頸を刎ねられたところで死ぬ程殊勝な二人ではないが。
「それにしても、奇麗に晴れたわねぇ。昨日は結構雪が降っていたのに」
 床の間に設けられた小さい障子が掛け軸程の幅開けられている。その向こうに、庭に積もる雪が朝の光を浴びていた。それは借景として掛け軸の代わりに部屋へ彩りを添えている。
「本当。おかげでこんなにすがすがしい朝を迎えられたもの」
 紫はわずかにほほ笑んだ。二人でのんびりするのは、よく考えれば久しぶりだ。

「それで完全に狩ることはできなかったけれど、紫に方策はあるの?」
 他愛もない話の中で、唐突に幽々子は紫に尋ねた。相変わらず意識の主はまんじゅうと番茶に向いているようではあるが。
「とりあえず幽香のところに行って頭を下げてこなきゃだめね。縄張りを荒らしてしまった形になるから」
 今回攻撃は幽香のいない所を見計らった。100に近い反対派の妖怪に加え、彼女まで敵に回すことは得策ではないと考えたからだ。幽香のいない所で反対派を壊滅させ、幽香自身とは平穏な関係を保っておきたかった。集団を采配するという点では、彼女は全く未知数。ただ、未知数ほど恐ろしいことはない。負ける可能性もまた低くはないのだ。
 だがこちらが頭を先に下げれば、いくら幽香でもそのまま平穏を保ってくれるだろう、と紫は踏んでいる。自らの縄張りが荒らされたことには怒るかもしれないが、幽香が妖怪の虐殺に対して何らかの感情を持つとは思えないのだ。幽香にとって勝手に集まっていた反対派の妖怪なぞどうでもいいものに違いあるまい。
「あら、残党狩りはなし?」
 至福の表情で二個目のまんじゅうを手に取りながら、幽々子は恐ろしいことを平気で言う。
「それもしたいのだけれどね」
 幽々子があまりに嬉しそうな表情でまんじゅうを食べているので、紫は自分のまんじゅうも差し出すことにした。本当に食べるのが好きらしい。
「でもあまりに苛烈な方法を取ると、山の反発を買いかねないわ」
「あれは苛烈と言わないのかしらね」
 相変わらず全く笑顔を崩さず、あくまで上品に茶を啜っている。本当のところで彼女が何を考えているのか、付き合いの長い紫でも未だにわからない。


「失礼します、お二人に報告が」
 それはもう美しい笑顔で三個目のまんじゅうを手に取った幽々子が、その声を聞いてすぐに振り向いた。紫もまたそちらを向く。
 部屋の入り口、桟の向こうに白髪初老の男が座っている。二本の刀を左腰に差し、紺の着物の上に白い羽織を羽織っている。そこは板敷廊下であり、体が心から冷える場所なのだが、意に介していない。
「あら、妖忌じゃない。外の様子は?」
 流石にまんじゅうから口を離して、幽々子は尋ねた。すると、妖忌が、頭を上げて二人を見る。まさに苦虫を噛み潰した、と言うに相応しいほどの渋面であった。紫は、その表情に不吉な予想を立てずにいられない。
「風見幽香が居残った反対派妖怪と共に人里へ入ったようです」
 紫は、茶を啜りかけてそのまま固まった。今、なんと言った?
「ええと、妖忌。それは、冗談かしら?」
 幽々子も、まんじゅうを取り落して妖忌の方を向いている。なによりも大事であろうまんじゅうを落としているあたり、やはり幽々子でも動揺することはあるのだろう。紫はそんなことを思った。
「冗談ならば笑ってすませましょう。だが、どうやら私が笑うことができるのは今ではないようです」
 妖忌の顔は強張っている。よく見れば、妖忌の着物のところどころに泥が跳ねていた。ごくわずかであるとはいえ、常に全身へ気を配る妖忌であるから、なかなか見られぬ光景だろう。
 そこまで考えて、やっと、紫は正常な思考を得ることができた。妖忌はおそらく、そのようなことに気づかぬほどに急いだのだろう。ならば、やはりこれは本当らしい。
「でも、反対派の妖怪は相当数を斃したのではなかったのかしら?」
「藍どのによると、70ほどは斃したものと思われます」
 残りは30。そんな計算は、里の子供でもできる。だが散り散りに逃げて行ったのだから、こんなにすぐまとめられるものではあるまい。
「あなたは、幽香の所にいたのよね。幽香はそこで何か動きを見せたりしなかったと言ってたわね」
「確かに、私のいる間、彼女はなにも動きを見せませんでした」
 妖忌は断言する。妖忌は誰もが認める剣術の達人である。其の彼に見抜けなかったという音は、真実幽香は動かなかったのだろう、とすぐに紫は断定する。
「なら、一体どうやって人里を?」
「わかりませぬ」
 いくら妖忌でも、そこまでは確認できなかったようだ。よく考えれば、人里を掌握されてしまったことに気づいただけでも功績かもしれない。先ほどまでのように兜の緒が緩んだままであれば、いつまでも気づかなかったかもしれぬのだ。
「そう。仕方ないわ、とにかく式を飛ばしましょう」
 虚空に扇を一旋するや、隙間の内より3羽の烏が飛び出してくる。忽ちそれらは障子の隙間から妖忌の頭の上を飛び越えて、人里の方へと消えていった。




 幻想郷の人里は五つの集落によって構成されている。川の下流から順番に、霧雨・小路(こじ)・稗田・(かみ)伊治(これはる)の五集落である。その集落それぞれを束ねるのが肝煎であり、それぞれ霧雨家・万里小路家・稗田家・上稗田家・伊治家がそれを務める。そして、これに小路集落の朝倉家と霧雨集落の下稗田家を合わせた全七家を乙名(おとな)衆、あるいは乙名七家と呼ぶ。
 この乙名衆の中で筆頭であり、つまり幻想郷の人里を纏めているのが稗田家。人里に関する様々なことは乙名衆の会合によって決められるが、最終的に決定を下すのは稗田の当主である。
 今回の博麗大結界敷設の件についても、稗田当主を通して乙名衆の会合が開かれ、その場で承諾を取った、ということだ。それは稗田当主が直々に人里は賛成である旨を八雲邸まで伝えに来ているのだから、間違いはない。
 ところが今、人里は結界に反対する妖怪たちを残らず受け入れている。

 要するに、人里で政変がおこったのだ。 

 稗田が人里の意見を取りまとめたと言っても、乙名衆全てが賛成に回ったわけではない。むしろ、僅差であったらしいのだ。稗田の賛成に続いて稗田の分家である下稗田が賛成し、さらに万里小路・朝倉も賛成した。ところが、霧雨・伊治・上稗田の三家は反対を表明したという。稗田の分家である上稗田が反対に回るというのは、稗田にとっても予想外であったらしい。
 これでも四対三。稗田の賛成意見が通り、人里として賛成を紫に伝えてきた。三家の不満を半ば押しつぶした、と言うことだ。そしてその不満を幽香が利用したらしいのだ。詳しくどうやって接触したのか。まして幽香が一歩も動いていない状況で何をしたのかはわからない。
 だが、突如として霧雨・伊治・上稗田の反対三家が妖怪を引きいれ、稗田をはじめとする賛成四家を攻撃、幽閉して人里を乗っ取ってしまった事は、事実である。

 その領袖が上稗田であったら、まだ楽であった。上稗田といえば、稗田家の分家である。稗田家の後継者がいない時、上稗田の当主がそのまま稗田家を継ぐのだ。そのような家であるからこそ、権威はある。だが、今回に関して言えば必ずしもその権威が役に立つわけではない。これが本家に対する反抗であり、支持を受けるわけではないからだ。交渉次第では、人里を賛成派に染め上げる可能性は十分に存在していたはず。
 しかし、今回の領袖は霧雨家である。それは紫にとって最も不利であるといえた。集落の長であり地主であると同時に、人里最大の商家でもある霧雨家は物資の移入を一手に引き受けていた。つまり霧雨集落以外の各集落にも大きな影響力を持っているのだ。反対派を九合している可能性が高い。

 紫は、頭を抱えるしかなかった。妖怪と人間との関係性を考えてみれば、下手に人里を襲撃して壊滅させるわけにはいかない。それにあまり刺激してしまうと、稗田ら賛成派の粛清という事態も起こりかねない。紫はそういう状況は避けたかった。稗田は、紫にとって大切な人里への窓口である。

 やはり自分は幽香を甘く見すぎていたのだろう。彼女が行動を起こす前に頭を下げれば、いくら彼女でもこちらに従ってくれるものと思っていた。賢い彼女のことだから、圧倒的多数派であるこちらに反撃するなどという勝ち目のないことはしないと思っていた。
 紫はそういうことを考えていた昨日の自分を責めたかった。その結果がこの状況だ。彼女自身の行動力によって、こちらの計画は完全に破壊されてしまった。こちらが先に動けば、などという前提が成り立っていなかったのだ。
 既に、いくらか譲歩しなければ収拾できぬ状態に陥っている。

 幻想郷を守ろうとする努力がそういう妖怪に全く受け入れられぬことが、紫には悲しかったし許せなかった。これほどまで幻想郷を愛していて、少しでも住み心地のよい幻想郷を作らんとしているのに、その努力がどうして幻想郷へ混乱を招くのか。
 何としても、幻想郷をこれ以上荒らしたくはなかった。
 それに、一刻も早く大結界を敷いて幻想郷を外と隔離しなければ、妖怪は滅んでしまう。幻想郷が、滅んでしまう。






「ふむ」
 沙弥姿に頭巾(ときん)を付け、黒い翼を持つ男が人里を眺めている。
「犬走の動きも徒労であったようだな」
「むしろ、しくじったというべきだ。さっさと風見の首を取っていれば、それで済んでいた話だ」
 隣で、黄色の袈裟を羽織った男が返す。やはり、背には翼だ。
「連中には、人里の様子がいまいち見えてなかったというところだろう。その点では、既に風見幽香が一枚上手だった」
 二人の後から、穏やかで威厳にある声が響く。金色の瞳に金色の羽、山伏姿に頭巾を被る姿は天狗そのもの。しかし細面で色白、細身の姿は天狗というには少し上品に過ぎる。ただ威厳だけではなく、その柔らかさは神性を含んでさえいる。
「それは違うだろう。風見は今回、積極的には動いていない」
「ほう」
 沙弥姿の男からの返答に、わずかに金の瞳を細めた。
「動いたのは人里と周囲の妖怪が中心だ。連中が風見を担ぎあげている。却ってややこしいぞ」
「おお、そういうことだったか」
 一つ息をついたところで、今度は黄袈裟の男が言う。
「しかし、介入するという手もあったと思うが? 我々は人里に、前々から風見幽香の手の者が入っていたことを掴んでおったし、充分阻止することは出来た」
「止めて我等に利益があるかな」
 金の瞳をその方へと向けて、彼は問う。
「少なくとも、八雲へ恩を売ることはできただろう?」
「八雲へ恩を売ったところで、どの程度の意味がある」
「つまり、これを静観することはこれ以上の利益を確保できる、と踏んでいるわけだ」
「もちろん」
 金の羽を少し縮込ませて呟く。
「とりあえずは、犬走の辺りから天狗全体の問題へと波及させてゆくのだろう? 我等天狗の問題にも波及してくれれば、我等が天狗を纏めあげる機会になる、と」
「我等としては混乱を望む、か。天狗のためとはいえ、難儀な話であるのう」
 にやりと薄く笑いながら、沙弥男は告げた。
「世とは、斯様なるものよ」
 金瞳の男もくすり、と笑った。
「さて、八雲の手並みを拝見と行こうか」
「然様ですな、天魔どの」

 幻想郷の天狗と一口に言っても、それを一つの集団として捉えることはできない。かねてより幻想郷には天狗が住み付いていて、彼らは一つの社会を作っていた。現在では犬走夫妻がその統括をしていて、紫とのつながりも深い。
 ところが明治改元以降、状況は大きく変化した。北は恐山より南は霧島まで、各地の天狗達が次々と外の世界へ見切りをつけて移住してきたのである。勿論これには、紫の斡旋があったことは言うまでも無いが。
 その結果、妖怪の山に住み着く天狗の数は激増した。それと同時に、出身地や種族ごとに多くの派閥を形成し、独自に組織を築き始めたのである。いまや天狗の長は一人ではない。各派閥はそれぞれ気ままに行動しており、誰かの統制下にはないのだ。
 そして天魔もまた、そんな天狗の一派閥の領袖でしかない。
 如何に有名な天狗であり、貴種であったとしても、大きな力を持っているわけではない。






 人里を反対派によって抑えられる、という屈辱的な事態となった翌日。紫は幽香に対して交渉を呼びかける書簡を書いた。交渉によって幽香を再び統制下に置くことができれば、幻想郷には平和が保たれる。紫にとって最も重要なのは幻想郷。幻想郷を守るためになら、少々の屈辱とて水に流してやる。
 幽香は紫の提案に対して諾意を返答した。かくて、魔法の森入り口のあたりの古びた東屋で二人は面を合わせることとなった。

「こんにちは。私の書簡に応えて下さってうれしいわ」
 紫が東屋の椅子に腰かけたところで、柿渋色の番傘を手に紺色の羽織を羽織った幽香が入ってくる。外は若干雲が多めであり、空全体が鈍く光っている。
「あら、親愛なる紫がくれた尺牘(せきとく)ですもの。返さないわけにはいかないわ」
 傘を手に、幽香は丁度紫の対面に座った。彼女は、如何にも機嫌のよさそうに笑っている。
「それで、私は今日、あなたに相談があって呼ぶことになったのだけれど」
 わざわざ他愛もない話をしておく必要はあるまい、と紫は思う。ここはウィーンであるまいし、会議が踊る必要などこれっぽっちもない。踊っている暇などない。
「奇遇ね。私も貴女に言いたいことがあるのよ」
 幽香と認識は一致したらしい。大結界に対して酷い誤認を持つ彼女ではあるが、頭の切れはやはり依然として衰えているわけではないようだ。
「そう。本当に気が合うわね。それで、あなた先に言うことある?」
 気が合うはずなどないのに、と紫は思った。外の大変化も読み取れず、愚昧に滅亡へ突き進もうとする彼女は、自分の敵だ。
「あら、貴女の方が先ではないの? 私は後でいいわ」
 幽香は、さらりと述べた。先に言った方が不利にでもなると考えたのか。だが、そんなことはあるまいに。
「なら言うわね」
 紫は先制することにした。目的は一刻も早くこの混乱を鎮めること。ここの交渉で彼女と戯れる余裕はない。ここで彼女が条件を呑んでくれれば、それであっさり終わる。彼女さえいなければ、反対派の妖怪を狩るなどたやすい。
「貴女、私と仲直りしない?」
「あら、私は紫とずっと親友のつもりだけど?」
 幽香は、向日葵のような笑顔をこちらに向けた。美しい笑顔であるが、それに釣られてはならない。
「いえ、今回の騒動のことよ。あなた今、人里にいるでしょう?」
「ええ。何故か私の住処が荒らされてしまったから。住処を失った妖怪と一緒に住まわせてもらっているの」
 本当は自分で集めたのだろうが、とは言えない。だが、言いたくて仕方がなかった。彼女がこういうことをしなければ、今頃結界作業に没頭していたはずなのだから。
「それは私たちの責任よ。土下座しても許してもらえないと思ってる。本当に申し訳ないことしたわ」
 紫は頭を下げた。屈辱的なことである。だが、余裕を見せなければならない。自分は幻想郷の主であって、幻想郷は、例え反逆者であっても、受け入れる。その態度を表わさねばならぬのだ。
「そう。確かに貴女達の責任なのね?」
「ええ。とても申し訳ないと思ってるわ。要求があるなら、呑む用意があるわ」
 こちらの余裕を見せる。焦っていることを悟られてはならぬ。
「そう」
 対する幽香は、若干笑顔を崩した。やはり彼女も、必ずしも機嫌が良いわけではないらしい。
「なら、大結界計画を中止してくれるかしら?」
 そして彼女は、とても呑めぬ要求を平然と提示した。
 だが、此が如きで怒りはしない。これは、吹っかけと呼んで違わぬだろう。狙いが何か、いまいちわからない。だが、外の世界に彼女は興味を持っていることは知っている。もしかすれば、これまでの騒動全てが、彼女の興味から出ているのかもしれない、そう紫は推測した。
「随分と直球で来たものねぇ」
「生憎、貴女と違って婉曲な表現は嫌いなのよ。それに貴女も、どうせいいところを見て本題に入るつもりだったのでしょ」
 相変わらず、婉曲で陰惨な駆け引きを彼女は好まないらしい。だからこそ、彼女は未だに政治的な影響力を持っていないのだろうが。
「あら、貴女と話していてもよかったのだけれど」
「そうもいかないでしょう。貴女だって、そんなに時間ないはずだわ」
「どうして? 幽香との話より大切なものなんて、どこにあるのかしら?」
 紫はくすり、と笑った。どうやらこの交渉の主導権を握ったらしい。
「とにかく」
 幽香は若干うんざりしたような声で紫を睨みつけた。
「私の要求は、大結界計画の中止よ」
 幽香の表情から先ほどの機嫌良さはすっかり消えている。仮面の維持を放棄したということだろう。
「しかし、大きく出るわね。いくら用意があるとはいえ、こちらがそんなものを呑めるとでも思うの?」
「用意があるんでしょう?」
 幽香の表情は再び笑顔に戻った。だがその表情から怒りが隠し切れていない。やはり短気は身を滅ぼす。
「そこまで譲歩することはできないのよ。ただ、代案があるわ」
 幽香は何も言わない。ただ紅い瞳でこちらに代案を出せと催促しているだけだ。ならばとことん焦らすのが得策だろう。紫は曖昧な笑いを浮かべたまま、紅い瞳を見返した。
 紫の態度に、幽香は瞳を若干細めた。彼女はきっと今、自らの怒りを必死に抑えているのだろう。
「そうねぇ、年に一回、幽香が外に出るのを許すってのはどうかしら?」
 頃合いを見て、先から考えていた代案を告げる。およそ、彼女の気持ちを逆撫でするような内容でしかないから、ますます幽香は冷静さを失うだろう。そうすれば、ますます紫はこの場の主導権を確実とする。
「へぇ」
 そして紫の予測通り、如何にも冷静そうに、幽香は返答した。
「それは、交渉するつもりがない、ということでよいのね?」
「そういうことではないけれど? 何か不服でもあるの?」
「ええ、あるわ」
 即答した。かなり、頭に血が回っているらしい。
「私は、あくまで結界計画の中止を求めているの」
 こちらの代案に対しても全く妥協を見せなかったことに、紫はかなりの不安を覚えざるをえない。彼女は、もしかするとこの場を収拾するつもりすらないのかもしれない。だが、幽香がこういう行動に出ている理由を再検討することもない。幽香とは、興味で簡単に動く妖怪だからだ。そうでもなければ、平然と人里でお茶をしていたりしないだろう。
「もちろん、貴女の住処である向日葵畑を荒らしたことに対してはとても申し訳なく思ってるわ。今すぐ土下座してもよいくらい」
 紫にしてみれば、幽香に土下座するというのは、ほとんど許しがたきことである。だが、その提案に対しても幽香は冷たく紅い目で紫を見つめるだけだ。
「そうね、それでは、月に一回、結界を破って外に出てもいいわよ」
 最悪、彼女の思う限り好きなだけ、でもいいかと思っている。彼女が外に出られても、外から大量の思想技術その他が流れ込まねば、妖怪を守ることはできる。
 だが、それを幽香が呑まなかった場合には、如何ともし難くなる。
「紫、随分と視野狭窄よ。私の言いたかったことが何一つとして伝わってない」
 そして、幽香は、失望したような表情でこちらを見る。紫は、腹を立てた。一体どこに失望したというのか。自分の言い分が通らなかったことに失望しているなら、彼女の評価を大幅に修正せねばなるまい。
「もし私が、好きなだけ外の世界に出る権利を貴女からもらえるとしても、私は貴女の結界計画に承諾しないわ」
 ここに、幽香は明確な反逆者となった。ただ頑迷なのみの、無知蒙昧な反逆者だ。
「つまり、交渉する気はないということね」
「結界を張ることの罪を考えなさい。紫、貴女は目先しか見えていない」
 目先しか見えていないのはどちらだというのか。彼女こそ、目先の利益に捉われて結界に反対するばかりで、幻想郷の未来については何も考えていないではないか。
「わかったわ。とりあえず今日は引き下がるけれど、明日からは明確に貴女を討つ。貴女は、幻想郷を壊す反逆者ですもの」
 扇子を閉じて、紫は立ちあがる。幽香に対する怒りと幻想郷に対する悲しみとが、心の中に渦を巻いていたが、とにかく平静を保たんと、顔に微笑を貼り付けた。
「貴女こそ、この日の本を壊す反逆者。そんな愚者によって散った68の妖怪の為にも、貴女を許さないわ」
 幽香もまた、立ちあがって和傘を広げる。いつの間にか、雪がちらついていた。
 紫は、幽香とは真反対の方向に踏み出した。もう彼女の方に向き直ることはない。

 二人の別れが、幻想郷を二分した。


 ここにきて、紫はとうとう認識せねばならなかった。これまで、ずっと避けようとしてきた事態に突入してしまったこと、そしてそれが自らの失策によって招かれたものであるということを。
 いくら、反対派を激減させたとはいえ、幽香の頭脳は恐ろしい。少なくとも紫には、幽香を圧倒することができるとは思っていない。いくらこちらには幽々子たちも付いていて、また有能な式がいたとしても、彼女一人を屠るのはそう簡単ではなさそうなのだ。
 また同時に、幽香と対立していることが心にもじんじんと響く。幽香は、紫にとって数少ない対等な友の一人だ。力ある者は力ある者としか友誼を結ぶことができない。幽香は友とするに値するだけの妖怪であると、紫は認めていた。それだけに、彼女に理解してもらえず、こう戦わなければならぬこととなってしまったのは、紫にとってあまりにも悲惨である。
 だが止むを得ない。紫は、決断をここに下した。
 こうなったら、幽香を討つしかあるまい。幽香と幽香に同調する者を討って、幻想郷を守る。
 これは聖戦なのだ。幻想郷の為の戦いだ。
 その為ならば、友情だろうがなんだろうが全て捨てられる。何をしてでも、幻想郷は守らねばならない。


 翌日、紫によって書かれた高札が、幻想郷各地に立てられた。内容は、もちろん檄文である。
 和様漢文で書かれた2000字余りのそれは、時に鋭く時に軟く、複雑なれど明快な文であった。その論理性は、まさに立板に水を流すが如し。紫の持つ抜群な論理性によって形作られた、見事なまでに緻密な構成は、読む者を納得させるものを少なからず持っていた。
 そのまた翌日。各地にばらまかれた紫による檄文の隣に、もう一本の高札が建った。幽香によって書かれた紫への弾劾文である。
 やはり漢文で書かれたそれは、3000字を超える。そして、その中には、和洋中様々な古典が引用され、一つ一つ確実な論拠を置いていた。だがそれでいて嫌味がなく、また真っ直ぐな文であり、読む人を飽きさせぬ。幽香の豊かな教養によって形作られた文は、読む者を魅了するだけのものを持っていた。

 二つの高札は瞬く間に幻想郷中の話題を奪い去った。漢文を読める者は感心して立ち尽くし、また読めぬものは読める者に音読してもらい、その流暢な文章に聞き惚れた。



「しかし、風見幽香も侮れないですねぇ。これは」
 藍が二つの文章を流し読みしながらつぶやいた。右手に持つのは、紫が書いた原稿である。訂正の為の塗り潰しやら重ね書きやらが為され、必ずしも整然としているわけではないが、繊細な線によって流れるように構成された草書のそれは、麗なる美しさを持っていた。一方で左手に、幽香が送りつけてきた弾劾文の清書がある。そちらは、整然とした細い楷書によって書かれているが、節々でしっかり筆が入っており、彼女の芯の強さを見せている。内容の点でも字の点でも、二人の違いがうかがえる。藍にはそれが面白い。
「悔しいけれど、そうとしか言いようがないわね。まあ、あいつならやるわ」
 二つを見比べる藍をにらみつつ、紫は、炬燵の天板に顎を乗せた。
「ところで」
 目の前では、幽々子が満面の笑みを浮かべて蜜柑の皮を剥いている。幾つ目だか、紫は知らない。全く考えが読めない幽々子は無視することにして、紫は藍へ問いを発した。
「貴女は、これからどのように行動すればよいと思う?」
「はあ、私ですか」
 藍は、間抜けな声でこれに応える。だが、既にその表情は真剣そのものへと移っている。それまで見比べていた二枚の書簡を膝に置き、黄色がかった茶の目を紫へと向けた。
 その向こうで、厚い雲に覆われて空が灰色に滲んでいる。
「ひとつお聞きします」
「なに?」
 幽々子は、再び曖昧に笑いながら目の前に座っている。混沌として何を考えているかを見出すことができない。
「和議の予定はないのですね?」
「ええ」
 紫は、すぐさま返答した。幽香はもはや、頑迷固陋で無知な妖怪に過ぎぬ。力があり無知である者は、有害だ。幻想郷を破壊せんとする彼女に、慈悲はいらぬ。そう、思い込む。
「ならば」
 と藍は切り出した。
「この空模様からするに、明日はおよそ吹雪となります。ならば、吹雪によって大量の積雪を抱えた人里を急襲し、動きの遅くなった人妖を一網打尽とするのは如何でしょう?」
 確かに、雪に埋もれた人里に空から突入した場合、下で迎え撃つ連中は雪に邪魔されるがゆえに、こちらは有利だろう。それに、相手には飛べない妖怪や人間もいる。
「む」
 今度、紫は外を眺める。確かに、今日は特別冷え込み、軒先には氷柱が乱立している。これならば、明日には吹雪くと考えて間違いない。
「甘いわねぇ。それでは、いつまで経っても呂望に勝てないわよ?」
 少しの間をおいて、紫は笑いかけた。
「はい?」
 ダメ出しを前に、藍は首をかしげている。一方の紫は、このままではあまりにけじめがない、と炬燵から出た。寒さが身に沁みるが、それくらいのほうが頭も回る。
「幽香は必ず吹雪を突破して攻撃しようと考えるに違いないわ」
 いくら彼女が視野狭窄に陥っているとは言っても、その頭の切れはやはり警戒せねばなるまい。ならば、こちらはそれの上を目指すだけだ。
「だから、それを迎え撃つわ。それに」
 紫は、立ちあがって、縁側へと降り立った。板から直に冷気が伝わってくる。だがそれが却って、彼女の決意を凝固させる。
「こちらに来てくれる妖怪もいるみたい。さ、こちらに入って」
 八雲邸の塀の向こうには、数多くの妖怪が浮かんでいる。檄文を読んで感銘した者たちが、その志を以て、八雲邸に集結していた。


 忽ち、八雲邸には賛成派の妖怪たちが参集した。その数は、優に200を超えており、改めて紫が幻想郷に於いて如何程の権力を誇っているかということを示していた。
「こんだけ妖怪が集まってたら、人里なんてあっという間に壊滅させられそうね」
 紫の前で、博麗の巫女が半ば呆れている。無論、200もの妖怪を八雲邸に収容するスペースなどないため、半分以上が白玉楼へと移動していた。冥界と幻想郷とをつなぐ境界をいじるのは、そう難しいことではない。
「安心しなさい。そんなことはさせないわ。できるだけ犠牲を少なく収めるつもりだから」
 腰に手を当てた博麗の巫女に、紫は笑いかけた。
「そんなことわかってるわ。その点だけはあんたを買ってるんだから」
 憮然とした表情のまま、博麗の巫女はさらりと告げた。さして、興味はないらしい。
「しかし、なんで私まで呼び出すのよ。確かに結界設置に協力するとは言ったけど、妖怪同士の争いにまで参加させられる筋合いはないわ」
 憮然としているのはそういうことだったのか、と紫は苦笑せざるを得なかった。どうやら、博麗の巫女は状況把握を怠っているらしい。
「あら、今回の争いは人里を完全に巻き込んでいることを知らないのかしら?」
「知ってるわよ。だから来たんじゃない。全く、妖怪のことは妖怪だけでやって欲しいわ」
 それは幽香に言え、としか言えなかった。向こうが巻き込んだのであって、こっちが望んだわけではない。むしろ、幽香が人里を巻き込まぬ程度に良識があったならば、どれほど楽であったか。
「本当に、幽香の奴、そういうところだけ頭が回るのだから」
 幽香は救いようがない奴だ、と紫は断じている。固陋な考えを持ちながらもまさしく天才としか言いようの無いほどの明晰さを持つ。厄介にも程があった。
 だが、向こうはもはやほとんど妖怪が残っておるまい。若干向こうに参加した妖怪がいるかもしれぬ。だが、こちらに集まった妖怪の数は遥かに圧倒的だ。最初の一撃による威嚇効果も、大きいだろう。ならば、あとは仕損じさえしなければ、幽香を下すことなど容易かろう。
 そう思っていることに気づいて、紫は心を引き締め直した。そういう隙に彼女は根を圧し込み、内から侵食して自らの花を咲かせる。彼女に隙を見せたなら、こちらの負けだ。



 藍の予測通り、夕方頃より雪は散らつきはじめ、外が闇に閉ざされたころには、完全に吹雪となった。
「降るわねぇ」
 博麗神社本殿、ご神体として安置されている鏡の前に、炬燵が広げられていた。
「で、なんであんたたちがここにいるの?」
 博麗の巫女は、今度こそ完全に呆れている。彼女の前には、紫に幽々子、藍に妖忌までが座っていた。
「幽香は、人里からこちらを目指して攻撃をかけてくるわ」
 紫は、溜息をつく博麗の巫女に、真面目な表情を向けた。
「いま、八雲邸の結界を解き放っているわ。ただ、妖怪が若干少なくなるように見える認識阻害結界を除いて。いくら彼女が敏くても、そこまでは気づけないわ」
 紫は、不敵に笑う。
「結界もなく妖怪もそれなりにしかいない八雲邸を、彼女は囮と見るに違いないわ。なら、様々な策を使うだろうけれど、最終的には、ここを狙うはずよ」
 幽香を紫は、ある意味で信用している。彼女は、若干の不自然さにこちらを狙うだろう。丁度、彼女が適度に不自然に思う程度の囮を作ったつもりだ。
「ちょっと待って、それじゃ、たったこれだけの人数でここを守りきるつもり?」
「そこまでアホじゃないわ。周りには20程妖怪を配置しているし、そもそも、幽香以下30ほどの妖怪をそう簡単に殲滅できるなんて思っていないわ」
 そう言って、紫は巫女の頭を扇子で小突く。巫女がむくれるのにも構わず、紫はその扇子を広げて口元を覆った。
「八雲邸の妖怪をこちらに向かわせればよいのよ。それで人里を奪い、さらに博麗神社で包囲するわ。そこで殲滅してしまえばいいのよ」
 残酷な瞳を、紫は巫女へ向ける。それは、純粋なる妖怪の瞳だ。
「幽香は逆賊よ」
 だが、博麗の巫女は類稀なる勘によって、紫の瞳の中からどこか哀しげな気持ちを気づいていた。紫自身がそれを知ることなど、とてもできぬことであったが。
 妖忌が、廊下で柱に寄りかかりながら、意味ありげな視線を幽々子へ送っているのが、紫に眼の端に入る。だが、紫にはそれが何か、全くわからない。そもそも白玉楼の者の考えることは判らない、と紫は思考から切り捨てた。


「……来たわね」
 炬燵を中心に和やかな雰囲気が醸成されていたのだが、それを紫は一言で断ち切った。紫が敷いた索敵結界に、数多くの妖怪が掛かったことへ対する紫の反応は、速い。
 紫は炬燵から立ち上がると、妖忌の横をすり抜けて廊下に立ち、片手で雨戸を吹き飛ばした。
 一気に部屋の中へ雪が吹き込み、視界が狭められる。外は漸く雪が見えるようになった程度に明るい。未だに詳しい外に様子を知るに能わぬ程度の、朝である。
 だが、紫はしっかりとその先に視認していた。
「丁度良いところにいるわね。ここに来るまでに何の妨害もないから、あなたがいないのかと思ったじゃない」
 こんな吹雪にも関わらず、平然と幽香は浮かんでいた。流石に、傘は差していないが、居住まいを正して紫に笑っている。
「あなたを待つのに、外で待つ必要はないでしょう。わざわざあなたの為に消耗したくないもの」
 紫は、縁側の縁を蹴った。吹雪にも構わず一気に飛びあがり、幽香に正面から相対した。
「さあ、博麗神社を明け渡してもらうわ。68の妖怪の恨みを、紫の体に刻みつけてやる」
「あなたはここで斃れるのよ。幻想郷を破壊せんとする罪を、幽香の身に返して見せる」
 二人の言葉は、そのまま合図となる。高札によって宣言された戦争は、ここに事象として具現するのである。
 言葉と同時に、幽香は手に持つ傘を紫に向けた。ほとんど視界が利かないが、その傘が淡く光っていることはわかる。傘の周りの雪が、光に当てられて輝いていた。だが、それに見とれるほど紫は暢気ではない。すぐさま目の前に全力を込めた結界を幾重にも張る。いきなりクライマックスを演出するとは、短気な幽香らしい。
 傘の先がわずかに光を増したことを感じた紫は、咄嗟に目を閉じた。もしこれを耐えきれたとしても、その時に極光に目を潰されてしまっては意味がない。
 つぶった直後に、結界が軋む音を紫はしかと聞いた。やはり、彼女お得意のレーザーを放ってきたらしい。彼女のレーザーの力を知らぬ紫ではない。破壊されぬよう結界へと右手から妖力を送っていく。だが、確実に圧されている。
 レーザーの威力に、紫は改めて舌を巻く。やはり幽香の妖力というのはあまりに規格外だ。ただ力の大きさだけで比べるならば、紫よりずっと上だろう。彼女は、力の大きさだけで何もかも吹き飛ばせる力を持つ。
 いよいよ、結界は軋んでいく。他に如何なる音も聞こえない。その熱量に吹き飛んだのか、雪すら感じられない。ありったけの力を注ぎこむ右手は、既に痺れ始めているし、そもそもこれだけの力を使ったのは、いつ以来だろうか。
 だが、結界という能力を持つ紫を力づくで打ち破るのは、いくら幽香とて厳しかったようだ。レーザーは終ぞ紫の結界を一枚たりとも破るに能わず、その出力を落とした。
「流石に、一撃、は、無理、ね」
 攻撃が収まったことを感知して目を開くと、だいぶ疲弊したように見える幽香が目の前に浮かんでいた。先の一撃に大半の妖力を使い果たしたのか、纏う妖力は相当に弱まっている。既に優位に立ったようだ、と紫は分析した。このまま押し切ることは可能であろう。
「一撃で落とされるほど、柔じゃないわよ」
 今度は紫の番である。一気に詰めて、直接蹴りでも入れてやる。
 だが、咄嗟に紫は横へとわずかに逸れた。肩から一寸ほどの所を、苦無が飛んでいく。他の妖怪たちが動き始めたらしい。
「一人残らず妖怪を(ころ)してしまって構わないわ」
 後ろに控える四人に、紫は振り返りすらせず告げた。忽ち、彼・彼女は動き出す。なにせ、最も信頼できる精鋭だ。後は心配する必要あるまい。
「68の妖怪がこいつらに(ころ)された。容赦はしなくていいわ。例え博麗の巫女だろうが八雲だろうが、残賊ならば放伐してしまっていいから」
 幽香も、紫同様に妖怪へ開戦を告げた。幽香の後ろに続く20余りの妖怪が、紫目がけて動き始めていた。
 妖忌の刀の煌めきが、乱戦への幕を、斬って落とした。

 最初に動いたのは博麗の巫女であった。自慢の符を懐より取り出すと、幽香目掛けて投げつけた。妖力を消耗したとはいえ、幽香とて一流の妖怪である。それを傘一本で振り落とし、大量の弾を投げ返した。
 同時に、突如として吹雪が猛烈に吹き荒れ始める。丁度幽香たちのいる場から紫の立つ場へ、台風襲来かとも思わせるほどの風が吹き、雪がまともに顔を襲う。
 紫は手前に結界を張り、風を遮断する。結界の内側は無風となり、雪すらも遮断されて視界が開けた。
「なかなかやるねぇ。でも、今は私の季節よ」
 結界の向こうで巨大な雪塊が浮かんでいる。間違いない。あれは冬の妖怪の仕業だ。
「儂が参ろう」
 あの塊に備えて妖力を溜めんとした紫のすぐ後ろから、銀の軌跡が動いた。それは結界もろとも雪塊までも斬り裂き、さらに二撃目を雪の妖怪へと見舞っていた。だが妖忌は、冬の妖怪が積雪のどこかに消えていくのを見もせず、次の妖怪を串刺しとしている。
 その下では、博麗の巫女が有象無象の妖怪を次々と打ち破っている。針鼠となって積雪を紅く染める者もあれば、札の前に蒸発する妖怪もいる。
 またその周りでは紫配下の妖怪たちが、幽香に率いられてきた妖怪と互角以上の勝負を繰り広げている。数の面では若干劣っているかもしれないが、こちらは最も力を持った妖怪たちを配置しているのだから、互角以上で当然である。
 さらに目の前では藍が幽香に斬り込んでいる。紫自慢の式である藍、得物を操って幽香に肉薄していた。藍はその素早さによって幽香を攪乱する。だが一方の幽香も消耗しているとはいえ、紫が一目置くだけはある。発する妖力によって反応速度の差を補い、藍を圧していた。
 紫は、手にある扇子で目の前に横一文字を引く。そこに現れた空間の断裂から、鉄棒が顔を出す。この時代の物ではない。二酸化チタンによって白色塗装され、赤地に白一文字が描かれた丸い鉄板が接合されている代物だ。それが空間の断裂より幽香に向かって数多く発射された。
 対する幽香は、藍を傘で吹き飛ばすと、すぐに後ろへと動く。間一髪、幽香の緑髪をいくらか奪ったのみで、その白い棒は再び隙間へと呑みこまれていった。
 だが、藍もこの隙を逃さない。幽香へ向けて針を一息に放った。いくら幽香とはいえ、体勢を崩したまま藍の針を躱すことはできなかったらしい。いくらかを、左腕で受け止めた。
「なかなかできる式じゃない」
 だが、その程度は幽香にとって傷の内には入らないようである。ニヤリ、と不気味な笑顔を紫へと向ける。
「古来より人間を震撼させた自慢の式だもの。侮ると痛い目に遭うわよ」
 このまま、一挙に幽香を打倒してしまいたい。幸い、彼女が引き連れてきた妖怪たちは、吹雪の中で俊敏に動く妖忌と博麗の巫女に振り回されているようだ。幽々子やそのほか参集した妖怪たちも、優位に事を進めている。
 藍が再び幽香の懐へと飛び込んでゆく。手には紫譲りの妖回針、その動きは視認できぬほど。だが、対する幽香も傘を以てあたりを一挙に薙ぎ払う。鋭い衝突音と共に莫大な妖気が噴き出し、あたりに吹きすさぶ雪を払った。幽香と藍が、鍔迫り合いとなる。
 それにすぐさま紫は反応して動く。狙うのは、幽香が持つ境界。生と死の境界を弄ればその場で彼女は消滅する。また妖怪と人間の境界でも弄ってしまえば、即ち藍によって血祭りに挙げられるだろう。
 だが、そう簡単に幽香の境界を弄ることはできない。幽香とて恐ろしき程の力を持つ妖怪である。それだけ、境界を弄ろうとする紫の介入に対する抵抗が強いということだ。
 そのまま妖力を扇子の先に込めかけて、紫は咄嗟に隙間へ潜り込んだ。
「あーらよっと!」
 紫が姿を隠したほんの直後、まさに紫の正中線を大剣が貫いた。
「私の後ろから狙うのは小賢しくなくて?」
 スキマから紫は、剣を振り下ろした彼女の後ろに抜け出た。金髪に黒いブラウスを着ていて、雪の中では殊更目立つ。それよりなにより、背丈近くもある漆黒の剣を右に握っているのが、紫の目に焼きつく。
「どうせ紫なら、すぐ避けられるでしょー」
 振り向きざまに再び振るわれた剣を、今度は錆止塗装を施された赤褐色の鉄骨で受けつつ、しかし紫は飛びのいた。その剣は鉄骨をまるで寒天のようにさっくりと分断し、さらに近くに開いた隙間さえ消し去ってしまう。
「ルーミア、どうしてあなたまでそちらにいるのよ」
「私は面白い方につくよ」
 にやり、と笑うその顔は、無邪気な子供そのものである。それが却って紫を苛立たせる。
「ならば、死んでも文句はないと言うことね」
「殺せるものなら殺してみたら? 闇というものを殺せるならね」
 ふふ、と笑ってルーミアは再び剣を振るう。紫はそれを躱すや、鉄骨の雨を彼女にお見舞いした。しかしルーミアは、その剣の重さを感じさせないほど軽々扱っている。その鉄骨の雨も一つ残らず切り捨てられた。
「ルーミア、いくらあなたでも紫を倒すのは無謀じゃないかしら」
「そうかもね。こいつの能力、いろいろ反則だし」
 そう語りながら、ルーミアはやはり笑う。笑って剣を振る。そうして、藍が投げた苦無を一つ残らず弾き飛ばした。一方、紫は幽香の振り下ろす傘を、やはり鉄パイプを使って受け止める。
「ならば、降伏したらどうかしら?」
「それはいやだね。面白くないもん」
 ルーミアは捉えどころがない。まるで、何もかも飲み込んでしまう闇のようであった。
 はあ、とひとつ溜息をつきながら、鉄骨数本を纏めて幽香の方に投げ飛ばす。藍の苦無によって、彼女が僅かながらバランスを崩したことを、紫は見逃さない。
 しかし、幽香はそれを素手で叩き落とし、紅い目で紫の瞳を見詰める。そこには、何か、悔しいという言葉には収まらぬ複雑な感情が渦巻いていた。そこに紫は、ほんの若干の、違和感を覚える。
「そろそろ、引き上げ時ね。残念ながら失敗よ」
「そーなのかー」
 紫がさらに攻撃を加えるより早く、幽香は向こうへと退避していく。見れば、吹雪の中で幽香に率いられてここを襲った妖怪たちも、大部分が死ぬか引き上げるかしたようである。
 引き上げる直前のルーミアが、何か薄く笑ったように、紫には思える。それが何とも、無気味であった。

 ともあれ、幽香たちは既に戦意を喪失して博麗神社から逃げ去っている。つまり、守りきることに成功したと言う他ないだろう。
 吹雪はますます勢いを増している。幽香たちを追撃し、さらなる損害を与えることは困難であった。
「私たちも神社へ戻りましょう。今夜は私たちの勝ちね」
 結局、八雲邸の妖怪をこちらに回すまでもなかった。紫は、予想以上の戦果に、思わず笑顔を滲ませた。






 普段なら決して入れないような広い屋敷に、リグルは面喰っていた。
 ここは、幻想郷の主たる八雲紫の屋敷である。八雲紫といえば、幻想郷の秩序を維持する賢者であり、幻想郷の中で最強の妖怪。そして誰よりも、幻想郷を想っている妖怪である。
 その屋敷といえば、一介の小妖怪に過ぎないリグルにとって雲の上の場所であるし、長い長い一生と雖も、入る機会なぞないものと思っていた。
 それだけに、ここにいることが信じられない。まして、他の数多くの妖怪と共にとはいえ、あの八雲紫にこの屋敷を守れと言われたのは光栄であるし、未だに夢心地に近いものがあった。
「ちょっと、そこのあんた」
 忘我のまま座っていたリグルに、声が掛かる。美しい女声である。
「寒いし雪が吹き込むから雨戸閉めてくんない?」
 我に返ったリグルが、片手で障子を閉めながら、声のした方を見やる。背から生えた一対の羽が特徴的な、鳥の妖怪である。自分の天敵に近い。
 思わず出かかった悲鳴を何とか呑み込み、リグルは兢々として聞いた。
「あなた、何て妖怪?」
「私、私は夜雀のミスティア=ローレライよ」
 特に何の感情を押し出すこともなく、彼女はさらりと答えた。それに、リグルはひとまず一息つく。どうやら彼女はリグルを餌としては認識していないらしい。
 幻想郷という場所は、人間は妖怪に食べられ、弱い妖怪は強い妖怪に食べられ、強い妖怪は人間に退治されるような、弱肉強食の地だ。殊に、最近は著しく妖怪が増えてきており、そのような対立が多発しているという。
 そもそも、つい最近外から来たばかりのリグルにとっては、以前の幻想郷と現在の幻想郷の差なぞわかるはずもないのだが。
「へぇ、私はリグル=ナイトバグ。これからよろしく」
 ともあれ、食べられる気配がないことを認識できたリグルは、胸をなでおろしながら彼女へ会釈をした。
 彼女も、自分同様、どちらかと言えば洋装であるといえそうだ。となれば、おそらくこの10年の間に来た妖怪に違いあるまい。
 リグルに対して、ミスティアも軽い笑顔を浮かべて、リグルに背を向けた。どうやら、同族の所へ戻るらしい。
 リグルは、それをぼんやりと眺めながら、幻想郷に知り合いが増えたことに喜びを感じていた。

 リグルが妙な違和感を覚えたのは、それからしばらく経ったときのことであった。何がどう、と率直に言葉としてあらわすことはできないのだが、伸びた二本の触角が変化を察知している。
 外は、依然として吹雪のまま。虫の妖怪であるリグルにとってはかなり厳しい気候。さらに、下手をすればリグルも戦わなければならないかもしれない。それが嫌といえば嫌である。それでも、リグルは紫に従ってここに居る意義というものを明確に見出していた。人間は、この世紀に入って以来、世の中の如何なる物をも操れると考えるようになった。人間の文明は進歩し続ける物と。その過程で、人間の便にならぬ物は徹底的に除外される。虫もその一つであった。
 綿織物に利用する化学染料を川に垂れ流す。石炭を燃した煙を空に放つ。農作物につく害虫を避けるために、人々は除虫菊の粉末を畑に撒く。
 虫は、このままでは滅ぶしかないのである。
 ならば、せめてこの幻想郷の中だけでも、外から分離して、古き良き世界を残したままでいたい。いなければならないのだ。妖怪の賢者・八雲紫によって外との通信を途絶して貰うことが、リグルにとっての唯一の生き残る道なのだ。
 さて、感じた違和感はますます大きくなる一方であり、そろそろリグルは放置しておけなくなってきた。虫の知らせ、という句もあるように、虫の"勘"とはなかなか侮れない。
 リグルは、障子を開けて部屋から出て、雨戸に少しだけ隙間を開けた。向こう側は暗闇の上に、雪が隙間から入り込んでくる。何かを視認することなどできるはずもないが、違和感の方向が外であることだけは間違いなさそうだった。
「一体何が?」
 そろそろ、部屋の妖怪たちに寒いと文句を言われそうであったので、雨戸を閉じることにする。不寝番として、ただ待機させられているので、妖怪たちもイライラしてきているようなのだ。
 リグルは雨戸を掴み、音が響かぬように閉じた。音が大きいと、廊下の向こうで寝ている妖怪たちに迷惑だ。

 それだけに、同時に鳴り響き始めた鳴子の音は、酷くリグルを驚かせた。
 屋敷全体で、割竹が打ち合わされたような音が鳴り響いている。突然のことに、何が起きたのか、リグルには全く理解できていない。
「敵襲か!」
 向こうからの誰かの叫びを聞いて、リグルは初めて状況を把握する。そもそも、ここは戦場であり、自分は戦時下に置かれていたのだ。ただ八雲邸お泊まり会をしていたわけではないのだ。
「正門前に妖怪が10ほど。門を破壊し、現在建物に向かってきています!」
 続いて、廊下を駆けてきた別の男が叫ぶ。直後、彼はリグルの目の前に斃れ伏した。全身血塗れである。リグルは改めて、危機を感じ取った。部屋の妖怪たちの動揺を、触角は敏感に感じ取っている。
 リグルが身構えた瞬間に、何かが廊下を吹き抜けた。一筋の風である。
 直後、リグルは身を震わせた。廊下の気温が、一挙に低下したのだ。虫であるリグルにとって、寒さは大敵である。あまりの気温の落差に、リグルは体を完全に硬直させた。
「邪魔する者には容赦しない!」
 低い女声と共に現れたのは、冬の妖怪であった。正面向こうに、薄灰色の眼が光っている。
 リグルが、それを見た刹那、今度は全身を雪が襲う。室内にもかかわらず吹雪が吹き荒れ、大粒の雪がリグルの目の前を覆い始める。再び冬の妖怪を視認することはできなくなり、ただリグルの目の前は、雪によって白々と塗り潰された。
「そんなとこに突っ立ってる場合じゃないよ!」
 硬直したまま、動けなくなっているリグルは、咄嗟に腕を引っ張られる。それに抵抗すること能わず、勢いよくリグルは部屋の端まで転がった。
「いて」
 畳で左肘を思い切り擦ってしまい、その痛みに、リグルは我に返った。
 あわてて、自らの立っていた場を見やる。目の前にあった血濡れの屍が、完全に凍っている。そして、廊下に近かったいくらかの妖怪もまた、凍りついて肖像と化している。
 また、凍傷に呻く妖怪たちもいる。一体何が起きたのか、この部屋の妖怪の誰もが、理解していない。
「あんた、大丈夫?」
 ふと上を向くと、ミスティアがリグルの顔を覗き込んでいた。彼女はどうやら、無傷で済んだらしい。
「ああ、なんとか」
 恐ろしい一瞬だった、とリグルは未だに震えが収まらぬ。何が起こったのかわからぬまま、災厄がこの部屋を通り抜け、妖怪の命を奪っていったのだ。
「抜かるな! 次が来るぞ!」
 ミスティアと顔を見合わせ、漸く安堵を感じることができたリグルには、すぐさま冷水が浴びせられる。侵入者はけして1人ではない。(ちぬ)れのまま氷漬けにされてしまった彼は確かに、"10人ほど"と告げたのである。
「次こそはこちらも目に物見せてくれる!」
 まだ無傷の妖怪たちが、はりきっている。妖怪とて、名誉心はある。先ほどのように、為すすべもなく通り抜けられてしまったのは、恥辱である。次こそは、雪いでくれん。
 血気に逸る妖怪たちは、氷像と化した妖怪を蹴倒して廊下に出た。そしてすぐに、廊下の向こうに敵を見ることになる。
 リグルは、敵を発見して攻撃態勢に入る妖怪たちを、漫然と見つめていた。先ほど、冬の妖怪の攻撃を正面から見てしまったリグルは、まだ腰が抜けて、立ち上がれない。それに、もう二度とあんなものの前に出るのはごめんだった。
「退け! 前に居らば去ね!」
 おそらく、冬の妖怪が来た方向からだろう。敵の怒声が聞こえる。低いが、少女に近い女の声だ。だが、その声にはただ怒り以外に、その妖怪の持つ力というものが象徴されている。
 若干後ずさった先頭の妖怪が、次の瞬間には、頭を失った。首の切断面から血を噴き上げ、天井を紅く染めてゆく。動きに気付く間もなく、隣の妖怪が上下に分断されていた。
 リグルは、そこで初めてその妖怪を視認する。返り血に染まる金髪の少女が独り、殺陣を繰り広げていた。その背には、彼女の背丈程もある蝙蝠の羽が生えている。正真正銘の吸血鬼。
 リグルが見入ってしまうほどに、彼女の動きは洗練されている。無駄な動作一つなく並み居る妖怪の攻撃を躱しながら、一人ずつを一撃で葬っていく。金の長髪を棚引かせ、そして、髪にすら指一本触れさせず、立ち向かう妖怪に素手で穴を開けてゆく。最強の妖怪とさえ言われる吸血鬼の面目躍如たる戦いぶり。少なくとも、たかが虫の妖怪に過ぎない自分には決して到達できない領域であるのだろうな、とリグルは漠然と感じていた。
 彼女は忽ち、そこにいた10余りの妖怪の血によって奇麗な金の長髪を染め、肉塊を廊下から部屋に散らす。先ほど勇敢にも廊下にふさがった妖怪たちは、一人残らず粉砕されてしまったのだ。だが、彼女はそれに見向きせず、そして、部屋の中にいるリグルやミスティアに目を呉れることもなく、廊下伝いに奥へと進んでいってしまった。
 部屋の端で、勇戦しようとした妖怪を見つめていた者たちは、一様に、固まって動けなかった。それは、リグルもミスティアも例外ではない。部屋の廊下側半分の惨状に、いくら妖怪とは言え、絶句して如何なる行動もおこすことができなかったのである。





「くっ、こやつ!」
 燭は広刃の太刀を横にして、その拳を受ける。しかしその衝撃はずっしりと腕まで伝わってくる。
「またお前かっ」
「あなたが憎いわけではない。だが、私はあなたと戦わなければならない」
 確かこいつの名前は、ホンメーリンとか言った、と燭は記憶している。先に出会った時には、僅かの差で逃げられた妖怪の一人である。
「ああそうか、ならば白狼天狗に逆らうことの恐ろしさを、身に刻みつけてやるまでよ」
 今度は燭が攻め込む番だ。拳を受け斬られたことで少し態勢を崩した彼女の急所めがけて、確実に燭は剣を振るう。天狗の太刀筋は伊達ではない。彼女を斬り裂くことは容易だ、と思っていた。
 しかし現実はそう上手くもいかない。彼女は拳を用い又得意の体術で以て、受け切る。
 やはりこの女を狩り切るには時間がかかりそうだ、と燭は少し嘆息する。
「さあ、さっさと死ぬがよい」
「そうやすやすとは死にませんよ」
 彼女の拳を躱しつつ、また太刀を彼女へと振るいつつ、燭は次第に焦りを隠せなかった。一つは、楓のこと。楓もおそらく、力ある妖怪に襲われているに違いない。妖忌と恐らく共に戦っているのだろうが、自分も出来れば合流したい。
 もう一つは、この八雲邸防衛の事である。さきから、襲撃してきた妖怪に対処しているのはごく僅かな妖怪たちのみである。もっと数多くの妖怪がこの八雲邸には詰めているはずなのに、である。殆どの妖怪は、戦意がないのか、或いは死んでしまったのか、戦闘に参加しないのである。自分たちの部下である天狗たちですら、参加してる数は決して多くはない。敵を恐れている天狗は存外に多いに違いあるまい。とまれ、この状況はあまりよろしい状況ではない。
 残念ながら、敵は強力である。冬の妖怪に目の前の謎の妖怪、そして夢幻館の門番たち。これを無傷で退けるためには、多くの妖怪の協力が不可欠と言うことができるだろう。
 しかし、悩んでいても仕方はない。
 まずは目の前の敵からだ、とばかり、燭はその戦闘に没頭する。






 炭となり果てた自らの部屋の前で、紫は茫然としていた。
 幸い、初期消火のおかげで八雲邸全焼は逃れている。だが、最奥部であるはずの、自分の部屋はもはや跡形もない。

 結局、防衛しきれなかったのである。妖忌・燭・楓の三人を中核として数多くの妖怪が詰めていた八雲邸ではあったが、強力な妖怪ばかりの精鋭で突入してきた敵を抑えることができず、結果として紫の部屋を焼き払われ、また家の大黒柱を叩き折られた。そしてその挙句、襲撃してきた妖怪たちは、八雲側の追撃をゆうゆう振りきって逃げていった。
 つまり、八雲邸最奥部までの侵入を許した上、襲撃部隊を壊滅させることもできなかったのだ。

 現に、紫の前では、妖忌と燭と楓とが、土下座をしている。守れなかった事に対する悔悟の念が、その背中に見える。妖忌なぞ、切腹さえするのではないかという勢いだ。
 しかし、紫はわかっている。決して彼らのせいで負けたわけではない、と言うことが。これは偏に、紫自身の策の読み間違いに他ならない。
 そもそも、裏を掻いたのではなかったか。幽香がこの八雲邸へ攻撃を掛けると考えたから、こちらにこれだけ妖怪を置き、念入りに配置しておいた。そしてその読み通り、向こうは総力を挙げて博麗神社に攻撃を仕掛けた。その上、紫たちはここの増援を得ることなしに幽香たちの攻撃を撃退した。
 いや、そこが間違いだ、と紫は思い至る。増援なしに撃退できたのは、幽香が総力を挙げていなかったからだ。紫は、策の読み合いに敗れたのだ。
 だが、ならば何故あの場に幽香がいた。精鋭をこの八雲邸に寄越すなら、なにより幽香がここに来ねばなるまい。そもそも、幽香に付いた強力な妖怪とは、一体誰だ? 幽香が安心してこの策を用いられる程に力のある妖怪が、向こうにはいるというのか。
 紫は、唇を噛んだ。八雲邸も博麗神社も守り切ったという点で、こちらは勝利だ。博麗神社では、幽香に属した妖怪を半減させた。これで、幽香の動きは著しく制限できた。たった今までは、そう思えていた。
 だが、この状況を見た今、紫にはそう断言するだけの根拠がない。勝利したといえば勝利かもしれないが、八雲邸の最奥部にまで敵が到達してしまったということは最大の屈辱である。
 これを聞いた時、妖怪はどう思うだろうか。これでも紫が勝ったと言えるだろうか。
 答えはおそらく否だろう。圧倒的な状況にも関わらず、自らの邸宅の一部を焼かれたということは、致命的な程に分が悪い。圧倒的な状況が優位な状況になったということは、負けたということに他ならない。幻想郷の中で、幽香らが紫に対抗しうる勢力であると、喧伝してしまったこととなる。
 しかし、それではまずいのだ。幻想郷を守るのは紫ただ一人でなければならない。即ち、紫は幻想郷の中でも何よりも強くあらねばならないのだ。
 そうでなくては、幻想郷を守れない。

 さて、と紫は思案する。
 こうなったならば、対処法は一つしかない。幽香を蹴落として、自らがただ一人の幻想郷守護者であることを見せつければよいのだ。
 そのためには、何としてでも反撃せずばなるまい。幽香を叩き潰し、この紫が幻想郷にただ一人いる支配者で有ることを見せつけねばならないのだ。
 おそらく、幽香にもそれはわかっている。というより、この状況を彼女は読んでいるのだろう。奴の頭の回転は、並ではない。並ではないほどの切れ者でなければ、巧みに紫の弱点を突いては来まい。ならば、次に紫が総攻撃を掛けることもわかっているはずだ。
 それでも、紫は総攻撃を掛けなければならないのだ。例え幽香に読まれていようとも、他に手がないのであれば、他の策などと言うものはあり得ないのだ。
 ならば、幽香の読みを力で持って粉砕するのみ。全ての行動を推測されていようと、そして対策されていようと、それを遥かに凌駕する力で持って圧殺してしまえばよいのだ。こちらにはまだ、それだけの力がある。




「今日の夜、人里へ攻撃を掛けるわよ」
 博麗の巫女、魂魄妖忌、犬走夫婦、そして西行寺幽々子を前に、紫は宣言した。もはや、一刻の猶予もない。時間が経てば経つ程に、幽香は有利になっていってしまう。一刻でも早くこちらの威信を示さなければならないのだ。
「紫、少し落ち着いた方がいいと思うわ」
 当然みな賛成してくれるものと思っていた紫にとって、その反応は予想外であった。
「私は落ち着いているわよ?」
「いいえ。落ち着いていないわ。先が見えていないわよ」
 幽々子の瞳は、珍しく真剣に紫を捉えていた。その視線の強さに、紫は少し気押される。
「もう少し座って考えてみたらどう? 今、人里を攻撃するのはどうしたって不利よ」
「そうもいかないわ。今待つわけには行かないもの」
 だが、紫とて負けてはいない。負けるわけにはいかなかった。幽々子の言うことは既にわかっているのだ。その上で、自分は攻撃すると決めたのだ。
「では、あっさり負けに行くわけ、紫は?」
「何言ってるのよ、負けに行くわけないでしょう。勝つために行くのよ」
 紫はしかと告げて、幽々子の瞳を見返した。まずここで幽々子に勝てなければ、とても幽香に勝つことなどできない、とばかりに。
「じゃあ、先が見えているというの? たかが、貴女の部屋が焼かれて、大黒柱が折られたくらいですぐ攻撃々々と騒いでいるあなたが?」
「たかが?」
 紫は、すこし頭にきた。どこが、たかが、だ。全く"たかが"ではない。本拠地の中心の大黒柱を叩き折られたことを小事と見る幽々子の考えが、紫には理解できなかった。
「そうよ。たかが大黒柱が折られた程度で、そこまで先走る必要はない。むしろここは、一度腰を落ち着けて策を練るべきよ」
「貴女、大黒柱を折られたことを"たかが"というのね。どこが"たかが"よ。全然"たかが"じゃないわ」
 紫は、幽々子に詰め寄った。幽々子は何もわかっていない。大黒柱を折られた意義が、幽香が態々大黒柱を折りに来た意義が、幽々子には見えていない。
「紫さま、すこし落ち着いて」
「幽々子さまも、少し言い過ぎですぞ」
 完全に頭に来ていた紫と幽々子の間に、二人の従者が割り込む。紫はそれ以上言葉を続けようもなくなり、その場へと座り込んだ。だが、瞳では幽々子を睨んでいる。一方の幽々子は、飄々とした態度を保ち、何を考えているのかさっぱり読み取れぬ顔で、座っていた。
「それで、紫。本当に今日の夜に人里へ攻撃を掛けるの?」
 この騒ぎを、後で見守っていた博麗の巫女が初めて声を上げる。
「ええ。掛けるわ。人里を解放する」
「ですが、正直な話、それはあまりに性急過ぎます。理由を説明していただけますか?」
 藍が、首をかしげていた。おそらく、幽々子と同じようなことを言いたいのだろう。
「確かに、幽香はおそらく私たちの攻撃を予測していると思う」
「貴女もやはりそう思っているのね」
 博麗の巫女は、真っ直ぐに紫を見据えている。
「ええ。でも、ここで攻撃に出なければジリ貧になってしまう。おそらく、大黒柱を折られたと聞いた妖怪は、八雲に従っていて大丈夫かどうか心配になっているはず。ここで動かなければ、力がないと見られて妖怪の支持を失ってしまう。だから、たとえ幽香に見切られていようとも動かざるを得ないのよ」
「あら、そこまで考えていたのね」
 くすり、と幽々子は笑った。ここで笑う意味が、紫には理解できなかったが。
「ならいいわ。紫が何も考えずに突撃していくのかと思ったわ。でも、考えていそうだから、いいんじゃないかしら?」
 余りにも早い身の翻しである。あまりにも早い転身に、紫にはちょっとついていけない。一体、何がしたかったのだろうか。
「それじゃ、今晩人里攻撃でいいのですか?」
 藍が問う。幽々子の変わり身に動揺していたとは言え、紫は、確と頷いて返した。
「ええ。(さかし)き幽香の小手先なぞ、押し潰してやるのよ」
 終始無言で見ていた兎だけが、深く沈思していた。






「……ということだ」
「それは痛快々々。風見幽香、なかなかやるのう。これは面白くなってきた」
 報告を聞くや、天魔は大笑した。ここまで鮮やかに状況が動くとは、さしもの天魔も考えていなかったからだ。
「ここまでやって見せるとは思わなんだな」
 天魔の隣で、黄色い袈裟の男も笑う。
「して、顕徳。八雲と風見と、それぞれこれからどのように動く?」
「八雲は、とにかく威信の復活を目指して人里強襲しか考えられない。そして実際にその動きも見えている」
 顕徳と呼ばれた、沙弥姿の天狗は思い起こしながら告げる。その姿は容姿端麗。細い優顔に髭は無く、見た目は天狗というより貴族という姿だ。背より生えた黒い翼も、上品な鋭い三角形である。
「そして風見の方は完全にそれを読みきった上で、回避策を考えている模様。残念ながら、その内容までは判然としなかったが」
「八雲にとっては完全に読みきられた勝負、というわけだ」
 そう天魔が言うと、黄袈裟天狗が返した。
「他に手がないからな、八雲は」
「しかし、策を読まれても猶それを押し潰すだけの力は、八雲にあるだろう。その点で、八雲はまだだいぶ有利だ」
 顕徳の言葉に、残りの二人も頷く。
「とまれ、我らとしては、もう少し長引いてもらった方が有難いわけだ」
「風見幽香ならば、もう少し状況を複雑にするだけの力は充分にある。そこに画期を見出し得るとは思わぬか」
 天魔が二人をふっと見やる。そうして三人して、にやり、と笑う。
「むしろ、ここを逃せば機会が来ないやもしれぬ。ここが仕掛け時だ」
「となれば、とりあえず風見の方に色々な情報を流すよう、烏天狗をそそのかしてみようか」
 黄袈裟の天狗は、言って立ち上がる。その様子は、非常に楽しそうである。
「それでは、私は八雲側に接触を図る。いろいろ見えてくるものがありそうだ。ただし、山からの人里攻撃は拒否だな」
 ふふ、と顕徳も薄く笑って告げた。
「犬走には少し悪いことではあるがな」
 天魔が軽い口調で言い掛けると
「ただ阿諛追従することは、天狗に反する」
 と顕徳が続けて、それから再び三人で声を上げて笑った。






 依然として、八雲に従う妖怪は多い。それは、何より博麗結界の重要性をみながわかっている証拠だ、と紫は思っている。博麗結界がなくなってしまえば、妖怪の多くはこの世界から消滅せざるえないのである。ここにきて、紫はやはり勝てるのではないか、と思い始めた。
 頑迷固陋な幽香に従うよりも、やはり自分に従う方がずっと義理があるのだ、と殆どの妖怪が考えているに違いないのだ。博麗結界の敷設は正しいのだ、と殆どの妖怪が考えているに違いないのだろう。
 そうであったなら、この幻想郷の妖怪の殆どの支持を受ける自分が、こんな所で負けるはずなんてないのである。一時的にはこうして苦杯をなめさせられているかもしれないが、最終的に破れるということにはならないだろう。


「来た!」
 藍が叫ぶとともに、妖怪たちは一点を注視した。そこには、空を飛ぶ一群がいて、確実にこちらへと向かってきている。
「数、凡そ二十!」
 犬走に属する白狼天狗が叫んだ。
「さあ、序盤戦だ。こちらの方が数は5倍以上。負けるわけにはゆかぬぞ!」
 藍は懐の得物を取り出し、それからありったけの声を張り上げた。
 接敵は、その直後である。

 敵には、あの中国妖怪や冬女などの強力な妖怪が参加しているよう。これは完全に崩しに来ている、と藍は判断した。だからこそ、その全力で以てそれと戦闘に挑む。
 しかし、それにしては呆気なかった。いくらか力のある者がいたといっても、数の差は覆いがたいと言うことであったのだろうか。藍が何かをするまでもなく、彼ら彼女らは忽ち袋叩きの憂き目となって、ほうほうの体で逃げ帰って行ったのだった。
「これは大勝利ですね! 幸先が良いです!」
 藍のすぐ横で偵察をしてくれている、白狼天狗が興奮気味に話しかけてくる。
「そうだな。こんなに上手くいくとは思わなかった」
 藍も、周りを見回しながら頷く。妖怪たちの顔には、生気が宿っている。ここまで難なく勝てたことに自信を得たのだろう。
「この調子で行けば、なんら問題はない」
 その言葉は、果たして誰に向けたものだったのだか。藍にもそれはわからない。もしかして、そうして願掛けでもしようとしたのだろうか? そんな苦戦になるはずがないのだ、と藍はその考えを打ち消す。
 それでも、藍は知ってしまっている。好調故の、落とし穴を。
 名君・帝辛の下絶頂にあった殷が、銅交易路である東を尽く征服した殷が、いったいどうなったか。周王・宮涅によって斜陽より抜けだそうとした周が、裏切り者の息子を誅せんがため諸侯への統制を強化した周が、いったいどうなったか。


 藍の不安は、目の前で半ば現実化しつつあった。
 そこにあるのは、平凡な人里の一集落――霧雨集落であるはず。そこに橋があり、簡単な木戸があって、そこを盛んに人が行きかう。それが霧雨集落である。最も南にある――人里の入り口に位置する霧雨集落は、中心集落である稗田集落よりも、人間の動きは活発と言えるだろう。
 ところが、そんな面影はもはや何処にもない。夜にも関わらず、集落は煌々と輝いている。集落のあちらこちらに掲げられた松明が、本来有る筈の闇を悉く打ち消していた。
 人間の姿は見えない。川に沿って木の壁が立ち、またその前には逆茂木(さかもぎ)が植えられ、徒歩での侵入を防いでいた。川を濠とし、土塁と壁で囲ったその様は、もはや城とすら言えるかもしれない。
 集落の入り口は、すっかり要塞化され、人の侵入を完全に拒んでいたのである。

 紫は、その様子に半ば驚き、半ば呆れた。要塞化するということは、紫たちとの対決姿勢を明示したことに他ならない。しかし、要塞化した程度で妖怪に勝てるとでも思っているのだろうか。たとえ、妖怪侵入禁止の結界を張ったとしても、境界を扱う紫にしてみれば、そんなものを弄るのは造作の無いことである。
 さらに言えば、下に作った細工の数々もあまり意味を為すことはない。妖怪は空を飛ぶのだ。わざわざ歩いて川を越えたりはしない。つまり、全く以て障害とはならないのである。

 霧雨集落から河を挟んでこちらがわは、既に百鬼夜行といえる。紫に従う妖怪たちが蠢き、人里の方向を睨みつけている。人間が、それを怖がらぬはずがない。いくら妖怪の楽園である幻想郷とはいえ、これほどの妖怪が集っているのは、一体いつ以来のことであろうか。あるいは、幻想郷史上初かもしれない。
 ところが、それでも人間たちはまるで集落から気配を発さない。怖がっている風はまるでないのだ。集落に居る連中は流石妖怪に慣れているとはいえ、紫にとって少し不気味である。いくら幻想郷に住んでいるからとはいえ、否、幻想郷に住んでいるからこそ、妖怪は怖くて怖くて仕方のない存在であってしかるべきだからだ。彼らは妖怪がどれほどの力の持ち主か知っているはずなのだ。彼らは、妖怪が人間の10人や20人をあっという間に片づけられることを知っているはずなのだ。
 いくら彼らに風見幽香らがついているとはいえ、その数は決して多くない。この数の妖怪に襲われてしまえば、人間なんてあっというまに死んでしまうのだ。それに、風見幽香が本当に人間を守るとでも信じているのだろうか。
「紫どの、そろそろ」
 隣で、要塞となった集落を苦々しく眺める燭が告げる。今回、とうとう犬走夫婦はその配下にある、幻想郷の天狗を残らず動員したという。つまり、二人個人として紫を支援するのみでなく、幻想郷の天狗すべてが紫に従うと表明してくれたのである。この状況の中てはとても有難いことであった。天狗の組織力は心強い。
「藍」
「はい、紫さま」
 揖した藍へと、紫は一言告げる。
「行くわよ。人里を取り返すわ」
 川の水面は、松明の灯りに照らされて赤い。空には月なく、星のみが瞬いている。昨日の吹雪の様子なぞ、もはや全くない。
 その中、藍の号令が響いて、百鬼夜行は始まる。
 森が鳴動し、赤き水面は黒に覆い尽くされ、空からは星さえも消える。

 それはまるで場全体が動いているかのようであった。飛び上がった妖怪たちは、一目散に突き進む。川が何のことやあらん。土塁が何のことやあらん。空より飛び越せば、なんの問題もない。

 そうして、その認識は見事に、完膚なきまでに、打ち破られた。
 乾いた破裂音の連続が、百鬼夜行を押しとどめたのである。音と共に飛来した鉛の玉は群になる妖怪たちを次々と貫いたのである。
 妖怪たちはばらばら、と川へと落ちる。その一瞬の出来事に、妖怪たちの進みが鈍る。血の香りと硝煙の香りとが、辺りに立ち込める。
「鳥銃かっ、汚い!」
 燭が叫んだ。音は続いている。前の妖怪が、横の妖怪が、弾によって血を流している。突然の出来事に、バランスを崩して落ちる妖怪もいる。
「鳥銃なんてものじゃないわ。あんなに連射できるわけないもの」
 紫の手の中で、扇子がひしゃげた。
 ざっと紫は妖怪を見渡す。負傷者が出る場所を見る限り、おそらく銃を撃ってくるのは一か所。連射速度は1分間に300発以上。里の猟師が使うような、火縄銃では不可能だ。いくら妖怪が銃弾の発射を見てから避けられるとはいえ、それだけの数が飛んでくるのでは話にならない。
「ひるむな! 敵は所詮人間だ! 人里の中に入ってしまえば問題ない! 一つの銃座を叩け!」
 藍が、前で号令する。突然の事態に妖怪たちは酷く混乱していた。
 まさかここまで連中が装備を整えているとは、思わなかった。霧雨の財力とコネを舐めていたといえるのかもしれない。おそらく、霧雨の商人としてのコネを通じて舶来の銃を買いあさったに違いない。
 幽香の奴は、どうやら科学に魂を売ったのだろう。
「で、紫さま。どうなさるつもりですかな?」
 襷を掛けて袖を上げ、鉢巻を巻いて完全な戦闘態勢にある妖忌が、手にある白楼剣の目釘を確かめながら、紫へと聞く。聞いたというよりは、決断を促すような口調であった。少なくとも、紫はそう受け取った。
「もちろん、意地でも人里を占領するわ。人間がどんなに抵抗したところで、妖怪には勝てないということを思い知らせるしかない。それに、幽香の奴をこれ以上図に乗らせておくわけにはいかないもの」
 紫は前に出た。左手に持つ扇子で、集落を指す。
「いくわよ。幻想郷は人間の楽園でなく、人妖の楽園であるということを思い知らせるのよ!」

 紫の号に、混乱した妖怪たちも徐々に気概を取り戻していく。避けることの出来ぬ不可視の弾幕を突き抜け、妖怪たちは人里の空を覆い尽くした。人里が妖怪の世界に染め上げられる。
 だが、空を覆った事は何の意味も齎しはしない。人里を妖怪の世界に染めた、というのも外見に過ぎなかった。空から見えるような所に人間は一人もおらず、人間よりはるかに優れた感覚を以てしても、人間の居場所を特定することはできなかったのだ。
 相も変わらずあちこちから宙の妖怪めがけて鉛のドングリが飛ぶ。正面の銃座は一つだったが、この集落全体のあちこちに、銃を持った人間どもが潜んでいるらしいということが、紫にもわかる。逆に、先まで物凄い連射を示していた正面防衛の銃座は、既に沈黙している。
 どうやら、向こうが使う弾は祈祷でもしてあるらしい。銃で撃たれる妖怪が撃たれた端から落ちていくのだ。、銃弾が普通であるならば、一発や二発は妖怪にとって痛くもかゆくもないはずだったのだ。
 実際のところ、人里は人間どもの独壇場であった。

 そもそも、相手が人間だということが、紫には却って扱いにくい。銃などの卑劣な武器をつかってくるということも無いわけではないが、それ以上に、手を抜かねばならぬ、ということが紫を苦しめていた。その気になれば、集落占拠なぞとても簡単なことである。それこそ、人間共の境界を弄ってしまえばそれで終わりである。だが、そこに残るのは人間の死滅した人里。それではまずいのだ、
 空から一気に人間に損害を与え、降伏へと導く事はならなかったようである。あわよくば、内にいるであろう妖怪共を退治できれば幸運であったのだが。そう紫は思うが、歎じたところで仕方はない。一挙に集落を制圧してやろう、と妖怪を従えて集落へ降り立っていく。
 あとはひたすら、抵抗する人間たちを探すしかない。できれば生きたまま捉えたいが、もし抵抗するなら殺すしかないだろう。
 正面では燭が木戸を蹴破っていた。
 
 犠牲を出しながらも、空より降り立った妖怪たちの前には、不気味な無人の集落が広がっている。煌々と焚かれる松明が、家々を映しだすが、路地のところどころが、影となっている。とはいえ、妖怪の感覚を嘗めてはならぬ。影に隠れた程度では、妖怪から逃れられようはずもない。はずもないのだが、紫には、人間は一人も見つけられそうもなかった。影に隠れてはいなそうである。降り立ったおかげか、どこからか銃声が聞こえてくることもなかった。
「とにかく、制圧を」
 藍が一言だけ告げて、妖怪たちが散開しようとした刹那である、そこに居た妖怪全員が、莫大な妖気をその身に受けた。妖怪たちの動きが一瞬止まる。
 紫も藍もまた、固まった。あまりにも莫大なこの妖力、持ち主は一人しかおるまい。

「あら、こんにちは。でも、今は貴女をお呼びで無いの。出口はそちらよ」
 松明が照らしだしたその姿は、番傘を差した一人の女の姿。顔は影となって全く見えぬが、その動きは優雅であり、まるで舞のようである。
「どうしてここに?!」
 紫が叫んだ時には既に遅い。番傘を閉じた彼女は、その先をこちらへと向けていた。
「じゃあね。またのご来場をお待ちしているわ」
 何を、と言う隙も無い。今から、奴の妖力放出に耐えられるだけの結界敷設は間に合わない。あたりの妖怪たちも、周りで立ちつくしている。あまりの出来ごとで、逃げることすらできないらしい。
 咄嗟に、藍が紫の前に立ちふさがった。視界が九つの尾に覆われた。
 一体何のつもり、と言う暇も無い。
 紫は藍に庇われたまま、極光の中に呑み込まれた。



 ふ、と視界が開ける。再び目が暗闇に慣れてきたようである。
「藍!」
 紫は叫んだ。正面には相変わらず藍自慢の九尾がある。
 しかし、藍は答えない。紫は少し青ざめて、もう一度叫ぶ。
「らん!」
「は、はい!」
 その声で初めて、藍は気が付いたようである。ふっと振りかえった。その姿は、なんともない。
「良かった、無事ね」
「ええ、無事だったようで」
 そこで初めて、紫は周りを眺める。周りの妖怪たちも残らず、無事であるようだ。ここに、紫はあれが、ただのハッタリであったことを知る。完全に嵌められたと言うことを。
「掛かりましたね、完全に」
 藍が、困り果てた表情で幽香の居たあたりを睨みつけていた。
「ええ。嵌められたわね」
 紫も、こればかりは虚空を見つめるしかない。だが、そうもしていられない、と気を改めた。
「それじゃ、行くわよ。人里を忌々しい幽香の手からさっさと解放してやらないと」
 す、と紫は一歩踏み出す。紫の後ろに立つ妖怪たちは、竦んでしまったのか、全く動こうとせぬ。故に、紫が積極的に動くしかなかったのだ。事実、紫の一歩に呼応するように、妖怪たちは雪を蹴散らし里の奥へと進んでいった。
 だが、妖怪の動きは一挙に鈍くなった。路地にも容赦なく配置された落とし穴に、妖怪は次々と落ちる。浮いた妖怪は、(とりもち)結界に掛かり、身動きとれなくなった所を何処からともなく来る銃弾に撃ち抜かれる。
 なにより、妖怪たちには、幽香の姿が頭に焼きついていた。賢者・紫の足を二度もすくった幽香の怖ろしさは、既に身に付いている。しかも、妖力を使っていないから、まだ万全の状態なのは容易に推察できる。万全な幽香が、其処彼処にある影から出てくるのではないか、と妖怪たちは疑心暗鬼に陥ってしまった。無き気配に様子を探り、無き動きに後ずさる。
 この様で、集落占領が捗ろうはずもない。いつ幽香が自分を殺しに来るかと怯える妖怪の鈍い動きは、飛び道具の格好の獲物だ。依然として飛び続ける弾やら矢やらに襲われて、妖怪は一人また一人と斃れてゆく。
 戦況に、紫は歯噛みすることしかできなかった。幽香がばら蒔く巨大な妖力のせいで、人間の場所の感覚が鈍らされているから、一軒一軒くまなく探りまわして、抵抗する者を見つけ出さなければならないのだ。






「おお、帥宮(そちのみや)
「流石は天魔どの、悠々見物か」
 帥宮、と呼ばれた天狗は天魔を軽く睨んでいた。雪の白に彼の着る黄色い袈裟が目立つ。
 よく見れば、彼こそ異様である。黄色い袈裟を纏い手には錫杖。しかし腰には二刀を差しており、被るのは頭巾ではなく立烏帽子。その顔には髭がびっしりと蓄えられ、野性味のある"天狗らしい"顔といえた。
 同じような立場にあり、しかも親戚であるにも関わらず、顕徳や自分とはこうも変わるものか、と天魔は時々不思議に思う。
「雑事はお前たちがやってくれるというからな」
「ふっ、いい御身分だ」
 妖怪の山の中腹、ここからは丁度霧雨集落の辺りが一望できる。
「俺がお前たちの長だからな」
「一応、だろう?」
 帥宮は黄色い袈裟を靡かせ、顎鬚を撫でながら笑う。
「で、様子はどんな感じだ?」
「かなり手こずってる様子だな。未だ下の方で妖怪が蠢いている」
「やはり、人里は要塞と化していたか」
「まあ、それは八雲もわかっていただろうがな」
 扇子をぱちり、と鳴らして天魔は視線を帥宮の方へと向ける。
「ところで、首尾はどうだったのだ?」
 天魔が問うと、帥宮は新聞を一冊取り出した。"鞍馬諧報"と書かれている。
「"なぜか"八雲紫のこれまでのやり方に非難を加える新聞が増えているらしい」
「そうか」
「なんでも、八雲紫は天狗の社会を乗っ取ろうとしている、という噂が広まっているらしくてな」
「ふっ」
 真面目な顔をして語る帥宮に、天魔は金の瞳を細めた。
「お前、悪い奴だな?」
「人のことを言えぬだろうが。大魔縁が」
 帥宮は、その黒い瞳で以て天魔を睨む。
「奇襲を嫌がる程度には、いいやつだが?」
「"生前"の話をされてもこまる」
 しらを切るような天魔の顔に、帥宮はちぇ、と呟いた。
「それはそうと、顕徳がどうなったか知らぬか?」
「ああ、奴か」
 天魔の問いに、彼は懐紙を取り出す。
「中間報告とか言っていたが。まあ、上手く行ったようだな」






 晴れ渡った夜は、放射冷却で寒い。寒いからこそ空気が引き締まって、今日は月の光がひときわ強いように思えた。
 遠くから火薬の破裂音が聞こえて来る。人里の方での争いは、だいぶもめているのだろう、と楓は思った。そもそも紫が後手後手であるのだから、仕方なかろうが。
「兎は、やっぱり月見て跳ねるの?」
「まあ、そうなんじゃない」
「兎なのに、推測なのかしら?」
「他の兎の考えてることなんて、わからないからね」
 縁側に、三人座って、月を眺めていた。境内では、他にもあちらこちらに妖怪が座って月を眺めている。
「こう眺めてみると強い妖怪ばっかりここに居るわねぇ、しかし」
「紫も、ここを守らないとどうしようもないからね」
 ずず、と茶を啜って、てゐは答えた。
「その為に、我等天狗を全てこちらに回していますからね」
 犬走の楓も又、博麗の巫女に言葉を返す。一人正座し、背筋を伸ばして遠くを眺めている。
「あんたたちは、ここに幽香が来ると思うわけ?」
「それを私に聞くのは門違いじゃない? あんたの勘の方がよほど当たるよ」
「全くですね」
「……それもそうね」
 それっきり、二人は黙りこくって月を眺めている。
 月が、不気味に笑っていた。

「西北の方向! 何か来ます」
 丁度、紫たちが人里へ行って一刻ほど後であった。敏感らしい蛍の妖怪が、声を上げた。一様に、妖怪たちが西北へと向くと、なにか点のようなものが、夜空に浮いていた。
「来たわね」
 博麗の巫女が立ち上がる。それと共に、妖怪たちも動き始めた。博麗の巫女が来たというのなら、あれは幽香たちにまちがいないだろう。
「迎撃するぞ!」
 楓の一言に、妖怪は、おう、と声を上げた。

 楓は次第に大きくなる点を見つめていた。敵の数は以前よりも増えている。やはり紫の推測は正しく、幽香が若干有利に傾いたと見た妖怪が少なからずいたようである。だが、それでもこちらの数は相手に勝っている。ならば地の利もあるこちらは十分に勝てる。いや、勝たねばおかしい。何のために天狗たちを動員したのだ。
 ふっと神社の上に浮かんだ妖怪たち。向こうからは、高速で妖怪の塊が接近してくる。幾許も無くそれが塊でなく、一人一人が認識できるようになった。
 その刹那、巫女が針を投擲した。確実に妖怪を狙って飛ぶ封魔針は、一匹の妖怪を地へと叩き落とす。

 そのやりとりが開戦の合図となった。

 博麗神社の全体で、妖怪の殺し合いが再び始まる。前回は吹雪、そしてこちらが圧倒的な数であった。だが、今回は晴れ、そして互角。接戦となる。
 そんな妖怪の中で博麗の巫女は輝きを見せていた。人間とは言っても、むしろ人間だからこそ、妖怪退治に長けていた。妖怪の重い攻撃を全て躱し、お返しに札を叩きこむ。その敏捷さは妖怪とてなかなか追いつけるもので無し。故に妖怪を次々と沈めていた。
 楓も、それに負けるわけにはいかない。次々に来る攻撃を、細身の刀と丸い盾で以て捌き、隙を見てお返しをする。引き連れる配下の天狗たちも、その組織力を生かして敵の妖怪と渡り合っている。天狗といえば妖怪の中でも力の強い部類に入るが、何と言ってもその組織力こそが力なのだ。

 だが敵を押し込むことは、なかなかできない。幽香の率いる妖怪共は、なかなかに強力な者が多いらしい。少し押される雰囲気があった。あちらでは蝙蝠の翼を持つ少女が一撃で複数の妖怪の血を撒き、こちらではつば広の帽子を被った門番が鎌を投げて血の雨を降らせる。
 これは打開せねばならない、と楓は思う。先に兎が言っていたとおり、この場で負けるわけにはゆかぬのである。何としてでも、勝たねばならない。
 楓は一匹の妖怪を見定めた。幾度も狩り損ねた、あの中華の妖怪――紅美鈴だ。
「覚悟っ!」
 叫ぶのが早いか、太刀筋が早いか。楓の細刀は美鈴の影を一刀両断した。直後、右から強烈な拳が放たれる。素早くそれを盾で受け止め、彼女の胴めがけて刀を突きだす。それは彼女の左拳でたたき落とされ、続いて来る美鈴の強烈な蹴りを上へ躱しつつ、盾をこめかみ目がけて打ち抜く。それも彼女は右腕で綺麗に躱して見せた。
 楓は再び美鈴の目を強く睨みつけた。その翡翠の如き瞳は、楓の視線を反射してより鮮やかに輝いている。
 だが、楓とてこの幻想郷を纏める白狼天狗の一員。たかが流浪の外来妖怪如きに負けるはずはないし、そんなことあってはならない。楓は右手の刀を握り締めると、再び攻撃に出んとした。

 その刹那である。場が揺れたように、楓には思えた。

 楓はその異様な様子に、攻撃の手を止める。美鈴もまた攻撃をしてこない辺り、予測はしていなかったらしい。もしこれが彼女にとって予測できていて、すぐさま攻撃に移られていたならきっと攻撃の一撃や二撃はよけられなかったに違いない。
「巫女どのっ!」
 配下の天狗の声が響く。博麗の巫女に何かがあったようだ。他の妖怪たちもざわついている。
 やむなし、と楓は一度美鈴から離れる。これ以上彼女との戦いにかまけている場合ではないのだ。美鈴もまた、同じように考えたようで楓から離れて行く。
 博麗の巫女に、一体何があったのか。対妖怪に関してはほぼ無敵を誇る彼女に何があったのか、楓は理解に苦しむ。なにはともあれ、楓もそちらを目指そうと翼を撃つ。
 急加速した楓であったが、すぐさま雪玉に妨害される。向こうは攻撃態勢を既に立て直しているらしかった。楓は舌打ちしながら刀を振る。今は一刻も早く状況を知りたいのに。
「甘い。それで当たるわけないよ」
 せせら笑うような声が、辺りに響く。その声は楓にも聞き覚えがあった。
「あんた、因幡の……」
 雪玉ごと雪女を盾で殴りつけ、やっとのことで楓は振り向く。楓の広い視野は、緋袴と白衣とを紅に染めた巫女の姿を捉えた。
 博麗の巫女は、脇腹を手で抑えながら声の源を睨みつけている。
「ああ、私は因幡の素兎・てゐだよ」
 てゐは、右手を紅く染めて、左手で御札をひらひらさせながら、巫女を眺めていた。楓は雪の塊を叩き斬りながらも、その意識は兎に持って行かれたままだ。
「元々、私は紫の部下でないからね。竹林を守れる方に、味方するのさ」
「卑怯者が! 幻想郷に置いて頂いた恩を忘れたと言うのか!」
 楓の叫びは、てゐに届いたや否や。できるならすべてを棄ててでも、奴の首を落としてやりたかった。しかし、依然喰いついてくる雪女がそれの邪魔をする。
「あんたは、少し妖怪を見くびっているよ。皆が八雲のように甘いわけじゃない」
 噴き出す冷気を風で押し返し、背面より迫る妖弾を盾で受け止めながら、眼は巫女を追う。
「自分が人間たることをきちんと知るべきだね」
 兎の言葉は、ひときわ大きく聞こえた。






 懸造の奥の院が、長い石段の向こうにある。縦横に組まれた木組みが、崖にしっかり取りついて、上の堂を支えている。古色を帯びた濃茶色の木組みは、立ち並ぶ赤茶の幹に溶け込んで、それ自身も森の一部を為しているかのよう。御堂それ自身も、森の一部としてしっかりと組み込まれている。そして、清水の舞台ほど優雅でも壮大でもないが、太く高い針葉樹に囲まれたそれは、幽玄の雰囲気を醸していた。
「紫さま」
 縁側に立つ紫へ、後ろから藍が話しかけた。余り表情は明るくない。
「何かしら、藍」
 木々の間から、遥か下の方に川が見える。少し目線を上げると、木々の間から斜面に沿った田畑も望めた。斜面を段々に区切った棚田・段々畑だ。
「あまり、このような場所でする話ではないかもしれませんが」
「あら、貴女がそんなことを気にするの?」
 くすり、と笑う。三国に仇為した彼女が仏を怖がる性質とも思えない。
「いえ。しかし、人々が大切にする場所でありますから」
 藍は苦笑する。
「なるほど」
 紫は、腰の高さまでしかない欄干を掴むと、ふ、と浮かび上がった。
「報告はもう少し後でいいわ。とりあえずこちらに来なさい」
 そのまま、石段の上を通って金堂の方へと下る。藍も慌てて、それに従う。
 石段から参道沿いに麓の方へと戻ると、最初に金堂が目に入る。既に建って1100年ほど経つこの建物もまた、古色蒼然としてなお活けるが如く、森と調和して森然たる雰囲気を身に纏う。その檜皮葺の屋根は、苔を載せて青み、古木の幹を思わせる。
「あなたの言う通り、こんなところで変な話はするものではないわね」
 金堂の縁に立ち、目線で藍に合図をした。藍も、紫に釣られて中を見やる。
 縁側から外陣を挟んだ向う側、内陣に仏像が並んでいた。蔀に遮られ、何体坐すのか数えることはできぬが、その仏像達が大切にされてきたものであることは簡単にわかる。
 中でも、中央に坐す釈迦如来坐像は、何かを訴えかけてくるような、そんな気すらしてくる像であった。その体は、なだらかな曲線によって形作られ、鷹揚さを表している。その上を衣が、流れるように波打つ。優美な顔は、妖である紫や藍にも感じ入らせるものを持つ。そしてその目は、透徹して二人を貫いていた。
「これは……」
 紫も、再びこれを見て、やはり見入る。生きていそうな躍動感と、悟りに居る静寂感が見事に調和したこの像は、生き物よりも完全なのかもしれない、と思えてくるのだ。
「ホント、この道を進んできてよかったのかしらね?」
 ふとした拍子に、紫は言葉を紡いでしまっていた。仏さまを眺めていると、どうにも抑えが緩んでいるよう。
「は」
 藍は、少し難しい顔をした。困惑さえしているようだ。しかし紫は構わず続ける。
「私は最善の道を取ってきたつもり。でも、結果はこの様。私、何か間違えたと思う?」
 ふう、と紫は一息つく。相手が気心知れる式とはいえど、うっかり漏れてしまったことが、少し恥ずかしかった。
「さて、私は紫さまの式でございますれば」
「私は、九尾の藍に問うわ」
 だが、言ってしまったことは戻せない。だからいっそ、藍の意見を聞くのもよいだろう。
「はあ」
 ふっと紫が振り向くと、藍は手を組んで少し考えている。やがて藍は顔を上げ、紫の瞳をしっかと見据えた。
「間違えたかどうかなど、私にはわかりません」
 藍の目線は、それから少し宙に浮く。
「でも、紫さまの行く路は妖怪を守る路であると信じております。今はわからぬ者もいるかもしれませんが、そのうち理解すると思っています」
「そうかしら」
「ええ。"九尾の"私は何処までも紫さまを信じております」
 それから互いに一言も話さず、本堂に座る。仏さまを眺めているだけで、視線も言葉も全く交わさない。それでも、なんだか暖かいように思えた。
 無言のまま心を伝える二人を、如来さまは少し厳しく見詰めていた。






「ふむ、博麗神社が落ちたか」
「然様。犬走が必死に抵抗したが、結局負けたらしい」
 糸綴じの写本に目をやったまま、帥宮が答える。なんでも漢籍に自分で注と訓点を付けているらしい。
「して、被害は?」
「連中の戦力は殆ど半減状況ですな。犬走の妻も深手を負ったとか」
 短冊を片手に、今度は顕徳が答えた。どうやら歌でも詠んでいるらしい。
「この状況というに、二人とも随分暢気であるな。天狗が多数死んだというに」
「天魔どのの思う通りだからな。顕徳の言うとおり、素兎も寝返った」
「それゆえ博麗神社が陥落。一方で、博麗神社の攻撃に参加した風見方主力も損害多数。人里攻略に動いた八雲も、伊治集落を攻略できず。かくて膠着」
「さらに、犬走派もだいぶ弱体化し、単独で天狗の長となるには厳しくなった、と」
 二人がにやり、と笑う。その不気味な笑いを、天魔は羽で一払いする。
「ならば、我らにはまだやることが残っているではないか」
「それは我"ら"ではなかろう?」
 帥宮は少し目を細める。
「俺は、情報をこれだけ与えておるではないか。犬走麾下とも交渉した」
「俺は天狗共の新聞を動かした」
 二人の目線が、天魔の金瞳を指している。
「俺は何もしていない、と言いたいわけか」
「よくわかったな」
 天魔は彼ら二人を一瞥し、それから手を組んだ。
「で、俺に何をしろと言うのだ?」
「判っていて言うか、お前は」
 顕徳が翼を振るわせる。飛んできた目線を天魔は撃ち返す。
「む、何の話だ?」
「わかっておらぬ奴が、どうしてそんなに楽しそうな顔しておるのだ?」
 帥宮の言葉に、一瞬天魔は固まる。自分が、そんなに楽しそうな顔をしていたとは思わなかったのだ。
「かく言うそなたらも、変わらんだろうが」
「ふ、違いない」
 三人とも言葉の通り、どこか楽しそうな顔をしている。天狗とは何と難儀な妖怪なのだ、と天魔は笑う。顕徳も帥宮も、そして天魔自身も、自らの野望の実現が近づいて笑いを隠せないらしい。
 風見と八雲と、戦線が膠着した。若干風見寄りという程度である。この時を待っていたのだ。この状況であれば、他の居並ぶ天狗共はおそらくみな動かない。幻想郷土着である犬走の連中は八雲に従っているが、他の天狗たちは今も様子を見ているし、天狗の長共は戦に慣れていない。幸いなことに、犬走の連中が他の天狗を動かすには至っていないのである。犬走は殊更強固に天狗を纏めてしまおうというつもりはないらしく、またそんな犬走に天狗たちも従おうとは考えていないらしいのである。
 だが、天狗の長共は気付いていないが、ここは絶好の機会であるのだ。今の幻想郷で勝利者を決めるのは、天狗。天狗の帰趨が決まった瞬間に、八雲と風見の膠着も終焉を迎えるのである。だから、機会だ。ここで上手く天狗を纏めどちらかに恩を売れば、その時点で全天狗の長として君臨することが可能となる。
 天狗はどちらについたって、ついた方が勝つのだから、これほど分の良い賭けはない。あとは唯一つ、誰がどのようにして天狗を先導する位置に立つか、ということだけだ。
 どうせ、当分状況は動かない。ゆったりと天狗側へ手を伸ばしていれば、よい。
「よし顕徳」
「了解した。天狗共を風見側に傾かせておこう」
 してやったり、という顕徳に天魔は苦笑いする。やはり自分の"一族"なだけあって、よくわかっている。
「帥宮?」
「おう。ちょっと新聞書きと話をつけてくる」
「天魔どのこそ、宜しく頼んだぞ」
「我々のみでは、少し苦しいからな」
 出番のなさに、天魔は頭巾の紐を弄るしかない。
「仕方ない、相模坊の所に参るか」
 しかし、彼ら二人が頼もしいからこそ、自分たちはこうして居られるのである。
 一人では不可能であった天下取りも、三人なら可能かもしれない。






「人里攻撃では四集落を陥落させましたが、その長として滞在していたと思われる風見幽香には逃げられました」
 紫は本堂から稗田邸へと戻りがてら、藍からの報告を受けていた。藍はあちこちを回り、聞きたくないであろう情報も手に入れてまとめておいてくれたのである。
「また、人里の乙名衆のうち、八雲側として拘束されていた朝倉の当主を救出することに成功しています。しかし稗田や万里小路の当主は依然として捉えられているようです。」
 淡々と藍は説明をしていく。殊更感情を入れない藍の話し方が、紫には有難い。
「人里の人間のうち、賛成側の人間たちは多数投降して参りましたが、武器は取り上げられていたのか持っていませんでした。また反対派の人間は、未だ最奥部・伊治集落を要塞化して立て籠っています。人里の男のうち7割ほどが籠っているようです」
「7割、結構多いのね」
「心情的には反対ながら、処々の事情で賛成に回らざるを得なかった者もいるようです。上手くゆけば、そこを突けるかもしれませんが」
「うーん」
 紫は少し考える。
「これだけ鮮やかな戦い方をしてきた連中のこと、少し難しいかもしれませんね」
「ですが」
「却って嵌められる可能性もあるわ」
「……なるほど」
 紫は言って一つ息を吐いた。それが幽香であればまだマシだが、そうでなかったとしたら、面倒事が二つできたと言うことに等しいのだ。
「さて、夢幻館に行っていた妖忌どのですが、こちらは悪魔どもに奇襲攻撃を受け、いくらか損害を出したようです」
「幻月・夢月の姉妹ね。厄介なことをしてくれるわ」
「あの二人の気まぐれなのでしょうね。差し詰め、風見幽香に唆されたのでしょう」
「でもそれで、妖忌たちを足止めされたのよね」
「しかし結果的には、彼女らを退けたそうで」
 藍はそこで、一呼吸置く。そこからが本番だ。
「それでは、博麗神社のことです」
 紫も、息を呑む。覚悟はできていた。
「博麗神社は陥落致しました。守備に当たっていた博麗の巫女も犬走楓も重傷を負い、現在も意識がないようです。防衛に参加していた妖怪の8割が死亡し、残りも傷を負わぬ者は殆どおりません」
 文字通りの、惨敗であった。
「原因は、因幡てゐの返忠による動揺と挟撃にあったようです。奴の裏切りを見て裏切った妖怪は20にのぼります。中には、少なからず天狗も含まれておりました。また話を聞くに、敵はこの博麗神社に主力の殆どを投入していました。最初から因幡てゐの裏切りを確信し、主力精鋭を投入していたようです」
 紫の読み違えもある。折角奪取した人里を、幽香が容易に手放すとは思っていなかった。幽香は紫が攻撃することを読んでいたはず。ならば、そのまま主力を交えてくるものと考えていたのだ。
 ところが、幽香は人間どものみに人里を任せていたのだ。主力はあくまで、博麗神社の奪取に全力を注いでいた。それが、紫には読めなかった。もはや過去の事なので、歯噛みする以外の術を持たないのだが。
「この三つ合わせて、戦死者は34名、負傷者は68名だったそうです。おおよそ、二割が死傷した計算になります」
「二割……」
 どこかでわかっていたとはいえ、紫にとって衝撃的な数字に変わりない。
 人里を落とすことさえできなかったのだ。妖怪たちが一所に会して襲いかかり、人里を喰らいつくすことができなかった。かつてその非力故、妖怪に怯えて過ごすほかなかった人里が、今や妖怪の大軍に大きな打撃を能く与えるまでになった。外の世界では既に各地で妖怪は人間に敗れたというが、人間が明治改元前後より飛躍的に力を伸ばしたということを、紫は身を以て実感することとなったのである。
 紫はふと、開始と同時に響いた轟音を思い返す。1分の間に300もの弾を撃ちだす謎の銃。あれを前にしては、並の妖怪は抵抗しようがない。人間はかくも力を握ったのだ、ということを如実に示していた。もはや妖怪は、人を脅かすこと能わぬのだ。
 だからこそ、紫は益々結界の必要性を感じる。若しこのまま人里を放置しておいたとしたのならば、必ずや人里は力を付けて妖怪は全滅してしまう結果となるだろう。


 人里の中心・稗田家の邸宅の一室に、紫は仲間を集めた。犬走燭、魂魄妖忌、西行寺幽々子、そして八雲藍。紫が最も信頼を寄せる者たちである。
「もう聞いたと思うけれど、博麗神社は陥落したわ」
 開口一番、紫は言い放つ。
「ここまで押されるとは思わなかったわ。完全に私の失敗ね」
「紫さま、それは紫さまの落ち度ではなく……」
「藍、少し静かにしていなさい。それに、私がしっかりしていればもう少し上手く行っていたことは事実よ」
 紫の言葉に、藍は黙らざるを得ない。哀しげな顔をして、粛々と正座している。
「正直な話、私はまだ話半分よ。状況が把握できていない、とさえ言えるかもしれない」
 博麗神社は、境界に建つ神社である。境界に建つと同時に、それ自身で境界の役割を為し、境界を成立させる役割も果たしていた。これまでに作られた幻想郷と外とを区切る結界はすべて博麗神社が中心となっていたし、今回作る博麗大結界も、博麗の名の通り、博麗神社を中心に張られる予定であった。当然、博麗神社には博麗大結界を張るための陣が既に描かれており、準備が為されている。準備自体は終わっており、後は紫が最終工程を終えるだけで博麗大結界は作動する状態であった。
 幽香がそれを見越していたのかは知らない。だが、準備が見つかるのは間違いない。そして、それが破壊されるのも。奴の目的は、博麗大結界の阻止ただ一つ。壊さずにおるはずがない。
 さらに、博麗神社は幻想郷の象徴でもある。これを失陥することがどれほどのことか、紫の頭脳を以てしてもとても計り知れたものではない。
 そんなところまで追い詰められているとは、理解できても信じられなかった。
「人里を棄ててでも博麗神社を選ぶなんて、幽香らしい策だわぁ」
 幽々子が妖しげな笑みを浮かべながら言う。幽々子も既に、幽香が人里を"放棄"したことに気付いたらしい。
「放棄、と言ったか? まだ伊治集落には人間どもが籠っているが。いくら補給線が切れているとはいえ、再び利用する可能性は充分に残されていると考えられるのではないか?」
 燭がはっきりした声で反論する。
「さて、それは考えにくいと思いますよ。いくらここで勝利を得たとしても、再び人里を取り返すのは少し厳しい。それに人間たちの手も既に割れている。風見幽香ほどの者であれば、次は勝てぬとわかっているでしょう」
「藍の言う通り。おそらく、幽香は人里を棄てて、博麗神社を確保したのね」
「となれば、長期戦を放棄したと言うことだな」
「博麗神社は長期戦に向かぬからのう。短期間で決着をつけねば、風見に勝ち目はあるまい」
 男二人の言葉に、三人は頷き返す。
 彼らの言う通り、長期戦を期すならば、人里の方が博麗神社より価値はある。食糧を生産し、また幻想郷安定の要にあたる人里を抑えていれば、紫たちは慎重に人里攻略を図らねばならない。つまり幽香たちは時間が経てば経つほど有利となる。その点、食料も水もなければ守りにくい博麗神社に籠ったところで、大きな益はない。
「つまり、昨今で勝負をつけにくるということか」
 されど、短期決戦を狙うならば話は変わってくる。結界作成の策源地であり、結界を張る準備も行われていた博麗神社を奪われることは、結界設置作業への大きな妨害となると同時に、紫の権威の失墜を象徴する出来事となる。博麗神社失陥は、紫を信用し信頼してきた妖怪たちに、紫への不信を持たせるに十分な出来事なのである。
「その可能性が高いと思うわ。いくら幽香でも、そんなことがわかっていないはずはないもの」
 紫は断言した。幽香の力量に関して言えば、紫は間違えるはずがないと思っている。
「それで、紫はどうするつもりなの? 相手が短期戦を企図しているということがわかっているのに、まさかこのまま動かぬというわけではないでしょう?」
 幽々子の表情は、相変わらず読めない。いささか真剣さを感じられぬでもないが、やはりそこの表情には余裕が見え隠れしているようにも思える。紫には、やはり幽々子のことがわからない。
「勿論よ。ここで手を拱いているほどの愚策は存在しないわ」
「それでは、再び攻撃に移るか? 我等の損害が多かったとはいえ、まだ数は多い。波状攻撃を続ければ風見が先に根を上げるのは明確であろう?」
「燭どの、それは我らに従う妖怪が"常に我々に従う"場合です。燭どのの配下の天狗ならばそれも通用しましょうが、烏合の衆である我々には無理かと。三回目辺りで、殆どの妖怪に見放されて崩壊します」
「だが、風見を切り崩すのもなかなか難しかろう?」
「不利な状況から敵を切り崩すことは、難しいと思われます」
 淡々とした藍の答えは、状況がそれほど簡単でないことをよく示している。その隣で、相変わらず幽々子が不思議な笑いを浮かべていた。
「まずは、幽香が一体どんな手を使ってくるか、これを考えるのが重要だわ」
「先ほど、短期戦と言っただろう? ならば策は二つに限られるのではないか?」
 燭の瞳が、ふっと開く。
「一つは、一気呵成に我々を亡ぼすという手ですね」
 藍がそれに続けると、燭は頷いた。
「しかし、それはおそらく不可能と思われます。いくら今回の敗北で妖怪が寝返ったとはいえ、今でも互角以上の状況です。短期で終わらせる程の力はないでしょう」
「それは、わからないわ」
 藍の言葉へ紫は冷や水を浴びせる。
「そうしてあいつの動きを軽視してきたのが、今回の敗因。幽香の奴なら、何をしでかすかわからない」
 紫の言葉は、果たして本当に藍へと向けられたものであったのか。
「では、もし幽香が私たちを滅ぼしに来ると過程すると、私たちはどう動けばよいわけ?」
 言葉と相反して幽々子は、全てをわかったような笑みを浮かべている。
「そこで使うのが、幽香が取るであろうもう一つの策の出番よ」
「もう一つとな?」
 妖忌が首をかしげる。その隣で燭が少し笑いを見せた。
「そう、"ここで交渉に出る"という手よ」
「こちらから先に和睦交渉に入る、ということですね」
「ですが、それで風見側が飲めるような条件を提示くるかどうかはわかりませぬぞ?」
「なに、それは問題ないわ。最大の目標は時間稼ぎ。長期戦の方が有利になることが分かりきっているのだから、あとはどうやって長期戦にすればよいか、と言う話だけ」
 紫は全員を見渡す。全員が得心の顔であることに、安堵の息をつく。
「まだまだ、これからよ」
 若干の希望を見て、ようやく、紫は扇子を開いた。常に余裕を持っていてこその、八雲紫だ。

 ここまでの戦況が明らかに紫不利であったのは、明白である。残念ながら、紫は最初の奇襲を除いて常に幽香の後塵を拝す形となってしまっている。それは紫や幽々子のような有力者でなくても理解できる話である。
 その象徴となってしまったのが、竹林の兎・てゐの離脱である。竹林の安定を条件に紫へ協力していた彼女は、紫より幽香が竹林の保護者として適任であったと見て、博麗神社を貢物にして幽香の元へと去ってしまった。力があり、また結界について中立的である彼女にとっては、竹林の保護をできるか否かが全ての判断基準である。故に、最も露骨に紫と幽香との状況を表し、それは他の妖怪たちにも大きな影響を与える。
 紫に従って結界を支持する妖怪は、めっきりと減っている。博麗神社の失陥によって脱走する者が激増し、半減したといってもよい状況であった。
 ここでどのように動くかが、紫の腕の見せ所であるように思えた。





「あら、これは亡霊さん。お久しぶりじゃない」
「こちらこそお久しぶりね、宵闇の妖怪さん」
 人里を仕切る乙名衆の一、朝倉家の邸宅にて、二人が相対していた。比較的に戦いのダメージが少なく、こうして話し合いを行うには丁度良い場であった。
「夢幻館の者は出てこなかったのね」
「みんな忙しいんだって。ついこのあいだまで、くるみちゃんとか暇そうにしてたのに、ここにきて突然忙しいとか言うから、驚いちゃった」
 そう言ってルーミアは少しつまらなそうな顔をする。代わって引きずりだされた事がどうにも気にくわないらしい。
「あら、それはご愁傷さまね」
「全くよ。私だって、もっとゆっくりしてたかったのに」
 ルーミアの膨れ面は、その幼い容姿と合わせて、子供たるを思わせる。
「そっちも幽霊の出番なのね」
「あら、私は下手な妖怪よりもずっと紫と親しいのよ。紫は、それだけ力を入れてるってこと」
「そーなのかー」
 さも興味の無さそうに、ルーミアは応じる。どうにもやりにくそうだ、と幽々子はおもった。全く話が通じそうにもないのである。わざわざ交渉にこんなのを持ってきた幽香の意図もわからない。本当に幽香は話を付けるつもりがあるのだろうか、と幽々子は疑わざるを得ない。
「それで、貴女は何をしにきたのかしら?」
「八雲と話を付けて、幻想郷に平和を戻しに行け、ってさ」
「その言い分だと、さも私たちが悪いとでも言いたげね」
「そうじゃない。最初に手出したのって、そっちだし」
「貴女たちが先に、結界の設置の妨害をしたところに問題があるとは思わないのかしら」
「どうかなぁ。勝手に結界設置始めたら、妨害されても文句は言えないのじゃない?」
 思ったより、まともとした答えが返ってくる。幽々子は認識を改めねばならないらしい。
「つまり、座して妖怪の滅びるのを見つめていればよい、ということかしら」
「滅びの淵になんていない、って可能性は考えないの?」
「一度病に陥りて初めて投薬したとて、それは既に遅いことよ」
「病ならず薬喫めば、体に害さぬこと無しよ」
 相変わらず、表情は幼いままなのだけれども、その言葉は存外にしっかりしている。
「つまり、私と貴女はそこが根本的にズレている、ということね」
「そうじゃなきゃ、きっと今頃紫と幽香とが、ここで暢気にお茶でもしてるんじゃない?」
「そのズレを何とか埋め合わせようとして、私は此処に来ているつもりよ。貴女には、そのつもりがあるの?」
「そちらがそのつもりなら、応じるくらいはするわよ。私だって、早くおうちに帰って寝たいし」
 ルーミアの真紅の瞳が何を映すのか。幽々子にはわからない。それは幽々子が、亡霊でしかないからだろうか。
「幽々子がそういうからには、つまり何か条件があるのでしょ?」
「あら、どうかしら」
「この期に及んで"無条件に降伏しろ"って言うほど、紫や幽々子が間抜けで盲らだとは思っていないよ」
「ただ貴女が、情勢を見誤っているだけだとは思わないの? 病人ってのは死ぬ前にひときわ元気になるものよ」
「殺される直前の人って、大概ものすごく虚勢張るよね。"お前は自分が強いと思っているらしいが、本当は自分の方が強い"って」
 ルーミアは、左手に小さい闇の玉を生み出す。それをただ手遊みで弄っている。
「"窮鼠猫を噛むという諺を知らぬのか"って言うの。でもさ、大体は噛む前に猫に止め刺されるし、噛んだところで直後には猫に食べられちゃうんだよね。そこに気付かない奴って、多いんだけど」
 その無邪気で楽しげな表情は、少々背筋をうすら寒くさせる。
「そういう油断が命取り、ということを貴女は知らないのね」
「知ってるよ。だからきちんと"全力を尽くして"狩るの。そっちの方が、後のご飯がおいしいしね」
「全力を尽くしても敵わない相手だったらどうするのかしら」
「闇ってのはね、何でも飲み込んじゃうんだよ。そりゃ当たり前だよね。世の中で一番速い光ですら、飲んじゃうのだから」
「それは自分が一番強いとでもいいたいのかしら?」
「うんにゃ。その間に逃げちゃえば、いいの」
 ルーミアは相変わらずの邪気無い笑顔。何も考えていないのではないか、と幽々子には思える。
「それでさ、話が長くなったけど、結局幽々子たちはどう考えてるわけ?」
「貴女の言葉には感心するしかないわね」
 幽々子は扇子を開いた。
「この状況に及んで、貴女たちに無条件で下れという程、私も紫も耄碌してはいないわ」
「それはよかったわ」
「でも、だからといって幽香の条件を無条件で飲むほど、力を失ってもいないはずよ」
「どうかな。今から紫が自らの勢力を立て直すのは、かなり難しいと思うのだけれど」
「つまりそれは、幽香がもう然したる手を下さなくても、勝てるということかしら?」
「いけるんじゃない?」
 幽々子はそれこそ、着物の袖で口元を隠し、目だけで笑った。
「それこそ、余りに見えていないのじゃない?」
「どうして? 物が転がり始めると、もう止まらない」
「源氏は義家公の全盛の後、為朝・義朝の時世に権威は地に落ちた。でもその後、最終的に幕府を築き上げたのは、頼朝だったのよ」
 幽々子は扇子を打ち鳴らす。
「貴女たちが平氏じゃないという保証は、あるのかしら?」
「よく知らないけど、そんな珍しい例を導いたところで、なんら意味はなさそうだよね」
「他にもあるわ。なんでもナポレオンとかいう人間は、一人で巨大な帝国を作り、でも最期は侘びしく孤島で死んだというわ」
「そーなのかー」
 ルーミアは興味のなさそうな顔をしている。ただそれに納得した、という風でもない。人間の話なぞ関係ない、とでもいうのだろうか。
「ああ、もうこんな会話面倒だから言っちゃうけど、私たちも無条件で紫たちを下せるとは思っていないよ」
 ルーミアは両手を横に広げる。降参といった姿である。すぐ横には相変わらず、先から弄って遊んでいる闇の玉が浮かんでいる。
「紫たちに要求するのは、結界の強度の話。結界の認識阻害機能の完全停止と、物資・人妖の制限付き流出入の認可」
 ルーミアが眠たそうにしている。しかしその話は紛れも無く本題。向こうから要求を出してくれたのは、幽々子にとって僥倖だ。
「物資・人妖の制限付き流出入認可とは、紫の認可を通さない自由物流ということかしら」
「ええ、そういうこと。現状でも、紫を通せば物資のやり取りすることは可能のようだけれど、私たちとしてはそういった"検閲"を通さない枠が欲しい」
「それは、或いは霧雨家による独占なども考慮しているの?」
「さあ、人里についての話はまるでわからないわ」
 幽々子のアテは少し外れたようだ。人里の中に幽香らを引きずりこんだ張本は霧雨家だと聞いていたし、その彼らが提示した条件であるように思えたからだ。
「認識阻害機能というのは、中から見た時に結界があることには気付かないような、そういう機能かしら?」
「それだけじゃないわ。外から見た時にも"そこに幻想郷がある"という認識を阻害するのも、撤廃して欲しい」
 やはり博麗神社を抑えただけあって、きちんと結界については調べがついているようである。魔法陣の解析には成功してしまったようだ。
「なるほどね。わかったわ」
「そちらは、どう考えてるの?」
「まず聞いた条件についてだけれど」
 幽々子は敢えて話をずらす。
「そのどちらも、受け入れられる条件ではないわ」
「あれ、全否定しちゃってもいいの?」
「でも、そればかりは受けいれらないわね。どうしようもないわ」
 その二つは、間違いなく結界の要点に違いない。つまり幽香はこの時点はほとんど結界の無力化を要求しているに等しい。受け入れられるはずがないのだ。
「あら、それじゃどういう条件なら飲んでくれるのよ?」
 ルーミアは首を傾げつつ問う。
「そうね、まず認識阻害の昨日だけれども、外から気付かれてしまうような結界では、結界としての意義を何も齎さない。外から打ち壊される可能性だって考えなければならないわ」
「紫の作る結界が、外の人間にそう簡単に破壊されると判断しているってこと? そんな脆弱な結界つくるの?」
「勿論、紫が作る結界ですもの。そう簡単に壊されるような結界が作られることなんてないわ。けれども、外に安部有世のような有力な陰陽師や僧が出てくれば、破壊される可能性も全くないとは言えないでしょう?」
「もし仮に、卓越した術師が外にいたとして、その人間がその紫の結界を破るような術を扱っている時点で、妖怪などの存在を認めているわけになるよね?」
 幽々子はとっさに返事が出ない。
「ならさ、わざわざ結界で囲う必要ないじゃん。逆にもし妖怪を完全否定して妖怪が外に存在できなくなるなら、そういう結界だって勝手に人間には見えなくなるよ。そうおもわない?」
 幼い声をして、なかなか鋭いところを突くルーミアである。
「それなら、そもそもそこに貴女たちがこだわる理由もわからないわ。もとより向こうからの認識阻害があっても、それではほとんど変わらないじゃない」
「それは幽香に言われるままだから、わたしはわからないわ」
 子供らしい満面の笑み。裏の全くない笑みに、幽々子はひるまざるを得ない。すでに死人の身なれば恐怖こそ覚えないが、やはりルーミアが何を考えているかは何も読めない。本当にただ言われた通り動いているのか、それとも彼女は何か裏でしっかり考えているのか。
「つまり、こちらはそれほど重要ではないということかしら?」
「そういうことじゃないのかなー」
 ふと闇の弾でお手玉をしてみたり、自由気ままなのがまた一層ルーミアの子供っぽさを印象付ける。それが時たま出る彼女の言葉とは、激しい違和感だ。
「だからさ、一番重要なのはやっぱりやり取りの話なんだよね」
「こちらこそ、私たちが譲れる点だと思っているのかしら?」
「もし紫や幽々子が本当に幻想郷のことを思っていて、かつ私たちとの講和を望んでいるというならば、それほど難しくなく飲んでもらえる条項だと思ってるよ」
 ルーミアはよそ見のまま言う。
「私にはこの条項こそ、貴女達が交渉をするつもりがない、という意思表示にしか思えないのだけれどね」
「それはどういうこと?」
「結界内外の自由流通・通行を認めてしまえば、それは結界の存在を完全に無意義化させるものじゃない。そんなものを、私たちが受け入れられるとでも思う?」
 内部と外部との遮断こそが、この結界の要点である。遮断することで、妖怪を信じぬ連中の思考を排除することが何よりも大切であるのだ。だからそこに穴をあけてしまっては、意味がない。
「そうかな。そもそも、いきなり結界で囲んでしまって外に出られなくするのって、結構無理があると思うのだけれど。鳥を鳥籠の中に閉じ込めてしまうのが、正しいと思うの?」
「馬や牛を飼うときは、狼や熊から守るために柵で囲うのが普通のこと。そうではなくて?」
「それは飼い主の都合じゃない。馬や牛がどう思うかなんてわからないよ?」
「その結果馬や牛が食われたとして、馬や牛はうれしいと思うのかしら? それよりは一時の苦渋こそあれ、命を全うしえた方がずっと良いのじゃないの?」
 私には生きている面白さがわからないけれど、と付け加えようと思ったが、幽々子はやめる。とりあえず生者であるはずのルーミアになら、だいたい通じるはずだろう。自分にはわからなくとも。
「つまり、紫はこの幻想郷で飼い主になる、ってこと?」
「いいえ。紫は別に妖怪たちの上に立とうとなんて思ってはいないわ。ただ、外に狼が多いから皆で柵を作りましょう、とそう言ってるだけよ」
「その柵から、私たちを出られなくする必要は、そこにあるの?」
 子供っぽい質問の仕方。しかし、問題の本質を常にえぐる問い。その辺りを突き詰めれば対立せざるを得ない部分を、あえて持ってきているのだろうか。それとも、ただの偶然か。
「狼が入ってきたら、困るじゃない」
「そもそも、外が本当に狼だらけかなんてこともわからないじゃない。外も馬や牛ばかりで、でもわたしたちが勘違いしているだけなんてことだって、ありえるよ?」
「それじゃ、勘違いだって断言して何もせず、そのまま気付いたら食われている。それでもいいのかしら?」
「そんなわずかな可能性のために、わざわざ皆をそこまで引きずり回す必要はないんじゃないかな、って問題だよ」
「その可能性を貴女達は過小評価している、ということよ。貴女達はそれを"僅か"と呼ぶかもしれないけれど、僅かという程ではないでしょう」
「そうかしら、わたしは僅か、乃至、殆ど無い、というくらいだと思うけれど」
 ルーミアは、少し幽々子を見下すような目線をした。この程度のことを怖がってどうする、とそう言いたげである。
「一体どこからそういう考え方が出てくるのかしら。明治の御一新以来、これまで、外で妖怪がどのような目にあったかは知っている?」
「バカな妖怪が、早とちりして人間に刃向って全滅したんじゃないの?」
「それで全滅するということが異常だと思わない?」
「そうかな。人間たちは何代にも渡って妖怪の退治法を考えてるけど、一方の妖怪ときたら安穏と同じ場所に居続ける。負けて当然じゃないかしら」
「なら、ここに人間が押し寄せてきた時点で妖怪が全滅するわ」
「それはないね」
 ルーミアは闇玉でお手玉をし、その玉に目線をそらしたままいう。
「だって、妖怪と人間は互いに共存しているのだもの。人間は最後まで妖怪を滅ぼすことはできない。妖怪が人間を滅ぼしえなかったように」
「それは本当に言えるのかしら? あまりに楽観的な予想にすぎるのではない?」
「少なくともね」
 ルーミアはにやりと笑う。
「闇を怖がらなくなることはないよ。人間が視覚無しにすべての情報を手に入れられるようにでもならない限りね」
 その言葉は、幽々子にもなんとなくわかる。すでに死んでいる幽々子なればこそ、死に対する恐怖こそない。しかし何があるかわからない闇の中というものは、なんとなしに忌避感を覚えさせるのだ。
「だけれども、それは貴女本人だけが大丈夫という証明じゃない。それは結界の無意味性を全く証明しないわ」
「別に、闇じゃなくたって人間が怖がらずにはいられないものなんて、たくさんあるんだけどねぇ」
 ルーミアはつぶやく。言いたいことはわからないでもない。しかしそれは現在の話であって、未来にどうなっているか、それはわからないのだ。

「結局、どうにもならなさそうね」
 議論は最後まで平行線を辿り続けた。もっとも、それも半ば予測できていたところである。いつまでもルーミアは、外との交流を絶たぬことを主張し続けていたからである。それを認めてしまえば結界が何の意味もなくなってしまうことが明らかであるのに、それでもなお彼女はそれを主張し続けたのである。結果、幽々子との話はまとまるはずがなかった、ということになる。
「ここまで認識が違うとどうしようもないかなぁ」
 ルーミアも、少々疲れたような表情をする。彼女が引いてくれればよかったのだが、そうもゆかなかったのだろうか。
「もう少し引く、ということを貴女は考えないのかしら?」
「それはこっちが言いたいかなぁ」
 やはり駄目であったらしい。もはや如何様ともなるまい。
「それなら、これで終わりでいいの?」
「あなたが呑まないなら、終わりだわ」
「そっか」
 ルーミアは、諦めたように首を振る。それから、これまで弄っていた弾を思い切り上へと投げ飛ばした。それは上空で破裂し、甲高い音とともに闇の破片を散らす。
「ところで、幽々子はどうして紫の元にいるの?」
 ルーミアは幽々子に問う。本当に無邪気な顔で、ただの興味であるようだった。
「そりゃ、紫が考えてることが正しいと思うからよ。それに、紫とは古くからの友人だし」
「とは言ったって、関係ないじゃない。貴女はお化けなわけで、こういう生きる者たちの愚な争いには参加したくない、とか思わなかったの?」
「そりゃ、この争いで死人が増えたら私は喜ぶわ。仲間増やしたいもの」
 ふふ、と幽々子は笑う。
「でも、親友が助けて、と言われれば助けにいくでしょう? 今回はそれが私の思惑に勝っただけよ」
「それだけ紫のことを大切に思ってるんだね。なんで?」
 ルーミアは不思議そうな顔をしている。そういう感覚がわからない、という顔だ。幽々子はそれを説明しようとする。
「……なんでかしらね。わからないわ」
 しかしついぞ答えは出ない。幽々子自身も不思議そうに首をかしげるだけであった。





「幽々子さま、少し手間取っているようですね」
「そうねぇ。幽々子ならば、それほど時間もかからないと思うのだけれども」
 紫は扇子を打ち鳴らす。少々苛立ちを隠せていないことを、紫自身は感じている。
「存外、向こうとの交渉が煮詰まっている可能性もあると思いますが」
 その横で、刀の目釘を確かめていた妖忌が話を出す。
「どうかしらね」
 何とも判断がつかない。必ずしもかの交渉が成立するものとは思っていない。幽香側と自分たちとの感覚が完全にズレていることは知っているし、もしここで纏まるというならばこのような状況へ陥る前にどうにかなっていたような気もするからだ。しかし一方で、幽香らの状況を考えまた自らの状況を考えると、現状で纏めなければ彼女たちはどんどん不利になっていくだろう。何せ幽香たちは、博麗神社にしか拠点を持っていないようなものだからだ。
「しかし、幽香自身は未だに博麗社から動く気配はありません。報告によれば、殊更変わった様子はないようす」
「幽香が気付いていないはずはないわ。おそらく、彼女は気付きながら平然としているように見せているのよ。あまり釣られないようにと連絡しないとね」
 幽香を侮ることがどのような結果を齎すか、紫は知っている。
「博麗神社にいる数はどうじゃ?」
「それ程多くない、と報告があります」
「結構な数が人里方面に出払っているのではないかしら? おそらく彼女は、人里の動きを陽動ととらえてるはず」
 人里の霧雨集落に、紫はいくらかの松明を掲げている。そうして、妖怪が霧雨集落に集結し、博麗神社への攻撃体制を整えていることを示したのだ。いかにも隠していながら隠しきれなかった、というように。それをきっと幽香は陽動とみるだろう。
「あとは幽々子の交渉次第なのだけれど」
「上手く纏めていただければ、よいのですが」
 藍が少し不安そうな声を上げる。しかし紫はそれを振り切るように言い返す。
「幽々子のことよ、悪い結果は持ち帰らないわ」
 それはまさに、言い返したその言葉が終わるか終らぬか、その一瞬の出来事である。

 八雲邸を取り巻く結界が軋み、爆ぜた。

 それまでくつろいでいた三人がすっと立ち上がる。外では、八雲邸の警備を担当していた妖怪たちが騒いでいる。一体何が起きたというのだろうか。
「紫さま、これは!」
「結界が外から破壊されてるわ」
 半ば混乱しながら、紫は叫ぶ。まだ理解が及ばない。
「およそ敵襲以外に想定できまい。我らが主力を人里に移していることを知り、一気にこちらを壊滅させんと来たのだろう」
 言うや、妖忌は空へと飛びあがった。既に空にはちらほらと妖怪同士の撃ちあいが見える。
「紫さま!」
 藍が、立ち尽くしたままの紫の肩を叩く。
「私も応戦してまいります」
 紫がうなずく暇もなく、藍も飛び上がる。
「私も行くわ」
 紫も続いた。何が起きているのかが、まだ把握できていなかったが。

 紫の見渡す限り、はるかに敵が多いことは一目瞭然であった。夢幻館の住人もいくらかそこにはいるあたり、幽香に従う妖怪の主力がこちらに来ていることがうかがえた。
「あら、ずいぶん乱暴な来客じゃないの」
 博麗神社か、もしくは人里の周辺にいるであろう主力がここにいる理由が、紫にはいまいちつかめない。しかし、ここにいることが事実である以上、飲み込まねばならないようであった。
「紫さん本人がここにいるんだね」
 甲高い少女の声。紫はその方に振り向きざま、結界を張る。バシリ、と結界のきしむ音がする。
「なにやってんのさ夢月。やるなら一撃で仕留めないと」
「ごめんなさいね姉さん。でも、そうやすやす勝てる相手ではなさそうよ」
 先まで紫の居た場所には、メイド姿の天使が浮かんでいる。その向こうには、金髪に赤いリボンを付けた洋装の天使が、やはり薄ら寒く笑っていた。
「貴女達、どうしてこんなところにいるのかしら」
「いやだって、ねぇ」
 幻月は悠然と腕を組んでいる。
「幽香さんに頼まれたからね。それに、これだけ暴れまわる機会なんてそうないじゃないの」
「それで、そっちに味方すると?」
「どっちでもよかったんだけどね。まあ幽香とは付き合いもそれなりにあるし」
 紫は彼女たちを睨み付ける。幻月・夢月の姉妹を説得することが不可能であるのは、紫もわかっている。彼女たちはただの遊びで参入しているわけであって、殊更利害もないからだ。となれば、普段よりの繋がりのある幽香側に身を投じて当然だ。
「じゃ、幽香に紫の首持ってってあげよう」
「食事のお礼をきちんとしておかないとね」
 直後、紫は傍らの藍に投げ飛ばされる。紫の影を幻月が突き抜けており、夢月の拳を両手で以て受け止めていた。
「紫さま! 一度お退き下さいませ!」
 紫が態勢を立て直すか否かで、幻月はすでに距離を詰めて紫の胸を打ち抜こうとする。咄嗟に隙間にもぐりながら、彼女の背より巨岩をぶつけた。
「藍こそ、貴女が一人で対処できる相手ではないでしょう。退きなさい」
 その岩が粉々に打ち砕かれ、さらに距離を詰めようと迫る。紫は一挙に結界を張り巡らし、また弾幕を張る。この悪魔と接近戦をするのは、あまりに不利だ。
「最初から退くことばかり考えてると、死んじゃうよ~」
 紫の張った結界をさっさと叩き割る幻月。流石に即席のものでは太刀打ちできない。
「そう簡単に死ぬはずがないでしょう!」
 しかしその隙に、空間を幻月ごと切り取ると、一気に握りつぶした。境界を操るからこその荒業である。
 紫はそれでも満足しない。ひしゃげた空間から這い出そうとする幻月に向かって大量の鉄骨を降らせる。この悪魔どものしぶとさを紫は知っている。
「やるわねぇ」
 しかしそれでも止めを刺すことはできていない。傷を負わずに抜け出すことも、また難しかったようだが。
「でも、あんたみたいな似而非妖怪が私を倒すなんて、まず無理だと思うわ」
「あら、そんな似而非に傷を負わされてるのは、どこのどなたかしら?」
 再び紫は結界を張り巡らす。その辺り一面に様々な結界が構成されていく。
「同じ手は食わないわよ」
 今度もまた幻月は、それを打ち砕きながら紫に向かって突進する。隙間に潜り込んで躱そうとした紫であったが、幻月はその紫の襟をつかんだ。
「ほら、見誤った」
 紫が何か次の手を繰り出す暇はない。そのままその怪力で以て建物の内に投げつけられる。紫は背から瓦屋根に墜落した。びしりと痛みが響く。
「ひとまずは、ここから引き揚げましょう」
 すぐ近くに藍が下りてくる。藍も体にいくらかの傷を負っているようだった。
「何を言うのかしら?!」
 紫は藍の背中にぶつけた。
「あら、流石に式一匹で二者同時に相手をするのは難しいのではなくて?」
 幻月の笑う声が聞こえるが、藍の九尾にさえぎられて向こう側は見えない。
「どうだ、式とはいってもそなたらよりは遥かに長く生きている自信があるがな」
「式の癖に私たちに勝てるとは、言うわね」
 紫が前に出ようとするのを、藍が留める。
「妖忌どのも力を尽くしてくれてはいますが、いかんせん数が足りません。ここは一度引き上げるのが得策だと私は考えます」
「現在人里に居る妖怪たちをこちらに呼び寄せれば挟撃になる。私たちが耐えればそれで勝ちだというのに?」
「残念ですが、それだけの時間維持するのも結構厳しいと考えます」
「そんなはずは」
 直後、地鳴りがする。離れが跡形なく吹き飛んでいた。残念ながら、すべてを受けきるのは難しいらしい。
 紫自身が有象無象の妖怪にやられてしまう可能性はまずないが、だからといってこの妖怪すべてを同時に対処するのもまた不可能であるのは間違いない。
「……仕方ないわね」
「お話は終わりかしら?」
 幻月が半ば苛立っている。今すぐにでも攻撃したい、と言いたそうである。
「誰もそなたに待っていろ、とは言っていないが?」
 若干低い藍の声がひときわ響く。あきらかに挑発していた。
「あら? せっかく待ってあげてたのに。それじゃ、遠慮なくいくわね」
「来るがいいさ。妖獣だからとなめていると、痛い目を見るぞ」
 悪魔二人が急加速する。その瞬間に紫は、大結界を発動させる。身動きを封じる鳥もち結界。ずしりと急停止した二人めがけて、藍が苦無を放つ。あっというまに、悪魔どもの目の前に弾幕が広がる。
「さあ!」
「退くわよ!」
 次の瞬間、紫は叫ぶ。すでに残り僅かとなった妖怪たちの離散を見ながら、紫も一気にその場を離れた。
 八雲邸が、燃えている。






「は?」
 天魔はその言葉に固まるほかない。
「帥宮、お前はいつからそんな下らぬ冗談を言うようになったのだ?」
「この状況で下らぬ冗談を言うほど、愚昧でも聡明でもないわ」
 帥宮は苦々しそうに、顎鬚を掻いている。
「だが、それはちょっと俄に信じられぬぞ」
 顕徳もまた、短冊に歌を書きつける途中のまま、止まっている。短冊に墨が滲みゆくのにも気付かぬらしい。
「出来れば儂も信じたくはなかったがな。だが、犬走の処に潜らせた間者と、新聞を作っておる鴉どもの話からすれば、間違いないようだ」
「しかし、あの状況からどうやって風見はやったというのだ?」
「八雲を交渉に引きずりだした上で人里に派手な陽動をかまし、混乱している隙をついて全戦力を以て八雲邸を陥落させた。犠牲は陽動に参加した人間と一部の妖怪どものみ。天狗のうちからもいくらか参加したというな」
 完全に天魔の予想外の方向へ情勢が流れていた。予想では、当分硬直状態が続いてゆく予定だったのだ。或いは和睦を迎えて停戦となる可能性も考慮にいれていた。だからこそ、時間がかかり且つ外からの乱入を嫌う天狗の内部工作に着手したというのに。
「我々の想定を、完全に越えたということだな」
 顕徳が呻く。
「このまま静観というわけにもゆかなくなった」
 帥宮も、拳を握りしめている。
「やってくれるわ……」
 天魔も頭を抱える他はない。ここまでの大勝を手にすれば、風見側に風が吹き込むのは明らか。完全に風見が八雲を逆転しているのだ。このままでは、八雲は坂から転がり落ちるように敗れてゆくだろう。
 しかし頭を抱えながら、三人ともが少し楽しそうな表情を見せている。
「天狗の長どもにも、この情報は次々広まっておることを考えれば、風見に属こうとする天狗も多かろう。さすれば、最早収拾がつかぬぞ」
「こうなっては、犬走には任せておれぬな。犬走を立てつつ我らが力を握るのには、時間が足りぬ」
 天魔の懸念を、帥宮が見事に言い当てて見せる。顕徳も頷いているあたり、同じ判断なのだろう。
 もしこの対立が長引けば、その間に天狗をおおよそ天魔の元に収斂し、その後犬走を立てて八雲側に飛び込む予定であったのだ。そうすれば、犬走を八雲配下として上手く切り離し、また反逆者は犬走の名の下で排除し、天魔らが天狗内での実権を掌握することが可能であった。これなら余計な陰謀を弄することもない。
 だが、これには時間がかかる。有象無象の天狗共を上手く自分たちの元に収斂するのは、そう簡単な話ではないのだ。犬走の"正当性"を用いることができるとはいえ、短期間ではなるまい。
「さて、我々には二つの道がある」
 天魔は二人の顔を交互に見やる。二人の雰囲気は全く違うが、しかしやはりどこか同じ"匂い"を感じさせた。
「一つは牛後の道。一つは牛頭の道だ」
 風見に従えば、"天狗の一人"というくらいの認識はしてもらえるだろう。そうすれば当面の生活には困らぬし、おおよそ牛後として生き残ることも可能だろう。
「牛後が良い、と言うとでも思ったか?」
「どうせ牛頭は修羅の道、とでも言うつもりだったのだろう」
 鶏口どころの話ではない。鶏ではなく天狗という牛の頭になってやろう、というのだ。その道は決して簡単ではない。現在形式的に上と考えられる犬走を押しのけ、しかも風見が優位であり天狗たちがそちらへ雪崩を打つと言うこの状況で、そこから上り詰めるには一つや二つの策では足りぬだろう。血も流れる。一つ手を間違えれば、三人合わせて"刎頚の友"であることを証明せねばならなくなる。
「然様。修羅も修羅、非道の道だが?」
「非道外道上等だろう。そこに天狗の道は広がっておるぞ」
 帥宮が不気味に顎鬚を触っている。
「この"まやかし"のような諍いを、真に修羅へ落とすとは面白そうだ」
 顕徳も影ある笑顔だ。
「血が足りぬ、か」
「足りぬ足りぬ。甘いわ。出来るだけ殺しを避ける戦なぞ、ぬるい」
 顕徳の言葉に、天魔は苦笑せざるを得ない。ああ、天狗こそ血を求める愚劣な妖怪だ。
「ふ、それでは天狗の戦を始めるといたそう。手段を選ばぬ非道の戦を」
「ああ、はじめよう」
 顕徳と帥宮の言葉が揃う。
「さて時に、何故、我らが天狗であるとおもう?」
 顕徳が二人へと問う。
「む?」
 首を傾げた天魔を余所に、帥宮がその髭面をほころばせる。
「まともな道の先には、天狗道が繋がっていたからだろう?」
「違いない」
 帥宮の言葉には、天魔も笑うしかなかった。






 結論すれば紫の思考はまたも甘かった、ということだ。幽々子に聞けば、交渉の決裂と八雲邸への主力突入時刻とがほとんど同時である。それを考察するに、何らかの手段で以て連絡を取り合っていたのだろう。交渉の完全な終了を待っていた紫は、それだけで後れを取っていた。
 今回、紫は、博麗神社への牽制を目的に人里へ妖怪を集結させていた。激戦地であった最も下流にある集落に至っては妖怪が詰めることを目的に、一時人間に立ち退いてもらっている。それが、今回も完全な裏目に出てしまったらしい。幽香は時折人里に進出してみたりと陽動を繰り返して人里を釘づけにしつつ、妖怪を八雲邸周辺へと移動させ一挙に攻撃を掛けたのだ。人里側では決戦間近であると考えていたようであるから、どうしようもないところ。
 ほんの僅かでも紫が動くのが早ければ、あるいは博麗神社にて幽香を捕捉できた可能性が高い。博麗神社にいる妖怪の数が少なく、人里に居る妖怪たちを突入させればいくら幽香と雖もかちえたと考えられるからだ。
 しかし現実はそうはいかなかった。ほんの一瞬の差で、負けた。
 その敗北は、紫の権威を完全に失墜させた。八雲邸の大黒柱を折られたのが、紫の凋落の始まりとするならば、八雲邸陥落は紫の墜落の極まりであるといえた。これまでとは話のわけが全く違う。これまで、幽香へ徐々に差を詰められていたとはいえ、紫はずっと優位を保ち続けていた。だが、ここに於いてもはや紫は有利であるとは言えぬ。少なくとも幻想郷に居る誰もが、紫は幽香へ完全に逆転された、と考えるのが当然だろう。

 稗田の座敷を借りて、紫は、幽々子や藍、犬走夫妻と座を囲っていた。座は、一様に暗い。八雲邸失陥から、既に半日が経ち、外はすっかり暗くなっている。だが、何一つとして、話し合いはなされていない。ここにいる全員が、話し合える精神状況にはなかったのだ。妖忌だけは、紫の下へと参集している妖怪たちの元へ赴き、離反せぬように説得しているようだが。
 本来ならば、素早く次の手を打って次の局面へと進まなければならないのかもしれぬ。が、それだけの力が、ここにいる誰にもない。紫に至っては、完全に精神的に参りかけている。その目は、虚空を眺めていて、何処も捉えていない。心は此処に在らず、どこぞかへと浮いていた。

 だが、そのままで居てはならぬ。このまま放っておいたとするならば、紫は敢え無く戦死するしかない。幻想郷諸共。故に、もはや折れそうな心を無視して、紫は考え始める。一体、どこが悪かったのだろうか。紫のこれまでの対応の悪さが、この悲惨な結果を呼んだ、と言えばそれまでなのかもしれないが、明確な理由が何かということが、必要であると思えた。漸く、といえば漸く、である。
 ふと、紫は既視感を覚える。このような状況を、紫は、どこかで体験したことがなかっただろうか? 少しの間思索に落ち込んで、やがて、紫はその記憶のありかに気付く。
 これは、あの西行妖の暴走の時の光景に、似ているのではないか、と。幽々子、藍、妖忌と共に座を囲んでいるということも、挙げられるが、そんなに根の浅い問題ではない。もっと深い部分から、自分は現在の状況とあの西行妖の暴走とを結びつけたのだろう。紫は、さらに考えを進めてゆく。
 今でも時折、紫はあの西行妖の時を夢を見る。いつも、ゆゆこが紫に対して楽しげに話しているところで始まり、妖桜の傍で紅に染まっているのを見つけるところで終わる。その夢を見る度に、紫は悲しみと無念さに胸を締め付けられて、涙を流す。今だに紫は、あの西行妖の暴走を止める手段が他にあった、と信じていた。あの時も最後になって、紫は動きを止めてしまったからだ。妖桜に裏を掻かれ、致命的な失敗を犯した、と思ってしまったところで紫は思考回路を停止させてしまい、それから何一つとしてすることができなくなってしまった。その結果が、幽々子の自刃という結果だった。
 だから、取りうる手段を全て取って、それでもなお妖桜を止められなかった、という感覚を紫は持っていない。まだできることがあったはずだと、紫はそう思い続けている。
 故に、紫は、幽々子に対して僅かながらも引いた部分を持っていた。自分のせいで散々に苦しめてしまった幽々子を、二度と苦しませたくない。その思いが、幽々子と話している時も常に付きまとうのだ。そして、同時に、二度とこのような思いなどしたくない、と思うのだ。
 そう、西行妖の過ちを二度も繰り返すことはならぬのである。あの時のように、裏を掻かれて致命的な失敗を犯したからとて、思考を停止させてしまっては、あの時と全く同じではないか。

「いいえ。私は、私は、ここで止まってはならないのよ」
 その決意は、紫の口からついて出た。その声は、これまでの状況からはとても信じられぬほどにはっきりと、力強いものであり、幽々子たちを驚かせるには十分であった。
「は?」
 目の下に酷い隈を作った藍が、細々とした声で聞き返す。
「ええ、まだ負けたわけではないわ。だから、きちりと次の策を練って戦わなければ」
 紫は、声に出して自らを奮い立たせる。この状況を打開するために、まずこの状況に陥った理由を探らねば。紫は、幽々子への感傷を振り切って、自らを客観的に見る作業へと入った。元来、科学の得意な紫である。客観視し分析するのは得意であった。
 紫がこれまで負けてきたのは、率直に言って幽香の動きを読みきれなかったこと、そして、相手を寡勢と見て動いたことではなかろうか。どこかで、相手より自らは優位に立っているが故に、手をそれほど尽くさずとも勝てる、と思っていたのではないだろうか。
 その気になったのなら、最初に幽香を攻め殺すことだって可能であっただろう。そういう策がなかったか、といえば嘘になる。だが、自分はそれをしていない。幽香は対等に会話のできる唯一の友であったから、攻め殺すには忍びなかった。だが、それは甘えに過ぎないのだ。自分が幽香に対して優位に立ち、少々の手加減をしてでも勝てるという、酷い誤解をしていたのだ。
 そして、紫は決意を新たにせねばならぬと思い至る。幽香に勝って幻想郷を守るためには、自らの全てを擲たねばならぬということを。幻想郷以外の全てを投げ出さねば、未来はない。
「ええ、もう、これ以上幽香にをのさばらせはしないわ」
 紫は、再びその決意を言葉に吐く。金の髪を揺らし、炯々然と紫の瞳を光らせる紫の姿は、まさに幻想郷の主であった。
「そうですが、何か策が?」
 その姿に少しは打たれたのか、藍が聞き返す。猶、声は非常に暗いが。
「……まだ万策が尽きたわけじゃないわ」
「それは、そうかもしれませんが」
 藍は首をかしげる。一体何を考え始めたのだ、という表情だった。
 しかし紫は全く気にしない。全てを捨てる覚悟をして、紫は一挙に気分が軽くなったようであった。自分の持つもの全てを発揮して、幽香に勝つ案を創出すればよい。その作業に、紫は没頭してゆく。
 そう紫にとって最も大切なのは幻想郷。他の何も、紫にはいらない。




 夜明けと同時に、紫は龍神の祠へと急いだ。人里のさらに下流、霧の湖のほとりにある龍神の祠は、人間や妖怪たちからは鄙びた祠としか認識されぬが、龍神と交信する唯一の場所である。そして、その紫の姿は白装束。全身に清き白には、腰程もある金髪が一層映える。
 紫は、到着するや滔々と言葉を述べ始める。これまでのいきさつと自らの失態、現在の状況、洗いざらいを告白する文章である。これは、紫のプライドを少なからず傷つけるものではあるのだが、それも紫には既に関係の無い話だ。
 ともあれ、半刻に渡って紫は延々と述べると、最後に、龍神に協力を要請した。既に、この騒擾は紫の手に負えぬものとなってしまっているので、龍神さまが御降臨なされることによって鎮めて欲しい、と。自らの能力の欠如を認めるくらい、今の紫には何のことはない。
 読み上げ終わると、紫は素足のまま砂利の敷かれた祠の前に座った。砂利は紫の白い足に食い込むが、紫はまるで表情を変えぬ。そして、懐刀を取り出して鞘を払うや、自らの長い金髪に手を掛けて、一思いに掻き切った。紫の手には金糸の束が残り、それを紫は祠へと捧げた。紫なりの、決意の証である。
 自慢であった筈の髪を失った紫だが、その瞳の力は僅かも失われぬ。砂利の痛みも気にせずに座ったままの紫は、さらに次の行動へ出る。
 紫は両手を眼前に付くや、砂利に額をこすりつけた。祠の前で叩頭したのである。龍神の降臨を願い、短くなった金髪を散らしながら、ただひたすらに紫は頭を下げ続けた。その姿は、回教徒のモスクにおける姿の如きであった。神に救いを求める、という点では、全く変わらぬのかもしれない。





「恐れながら、そなたが西行寺幽々子どのであられるか?」
「そうですが、あなたは?」
 山へと向かう途中の幽々子の前には、一人の天狗が浮いている。細面の高貴な姿の天狗。幽々子はどことなく懐かしさを覚えた。
「申し遅れました。我は顕徳と申します。少し西行寺どのにお話致したいことがあるのです。お付き合いいただけましょうか?」
「ですが、私も急いでおりますので」
「……逆撃のお手伝いを、と思いまして」
 顕徳の呟いた一言を、幽々子は聞き逃さなかった。彼は確かに、逆撃と言った。振り向いた幽々子に、顕徳は上品な笑いを向ける。
「少しこちらへ」

 幽々子は本来、河童を味方につける予定であった。河童もすっかり数が増えてきており、味方につければ頼もしい。それに天狗ほど混沌とした情勢にもなっていないようだから、即戦力になるのではないかと考えたのである。河童のいくらかは敵に見えたが、全体が敵にはなっていないはずだからだ。
 天狗は犬走夫妻の担当である。犬走夫妻が天狗を纏めて味方につける工作を始めているはずだ。

「それでは改めて、お初にお目にかかりますな。儂は顕徳と申す。天魔どのの名代として参った」
「こちらこそ初めまして。冥界の管理人・西行寺幽々子ですわ」
 少しでも紫に利するのであれば、どんな労力をも厭わぬ幽々子である。が、最近交渉事が多すぎるのではないか、思っている。幽々子は交渉を得意だとは思っていない。しかし、紫や藍が出払っている今、自分しかいないということもまた納得できる。
「御噂のみは聞いております。しかし、噂というものほどアテにならぬものもない」
「と申しますと?」
 顕徳はクスリ、と笑う。その姿がまた、どうしてか幽々子に昔を感じさせた。
「御噂よりもずっと貴女はずっと美しいでしょう。これほどのものとは、思いませんでしたな」
「なにせ死んでおりますからね。貴方も、一度死んでみたらどうです?」
 すかさず切り返した幽々子に、顕徳は今度声を上げて笑う。
「ふむ、儂も一度死んだはずであったのですがな。どうやら、儂は美しくなってこの様らしい」
 大笑する顕徳に、幽々子もまた、口元を扇で隠して笑った。
「さて、冗談はこのくらいに」
 顕徳は、羽を軽く折りたたみながら、笑いを収める。先ほどとは一変して、鋭い眼光が幽々子を射抜いている。
「我々、天魔一党は八雲どのに従いたいと考えております」
「それはそれは、ありがたいことです」
 幽々子は軽く一礼する。まだ顕徳と名乗るこの天狗の真意がうかがえない。どうしてわざわざ犬走でなく自分に交渉をもちかけるのか。この天狗の考えることが少し幽々子には気になっていた。
「八雲どのが常々、この幻想郷を守っておられるのはよく知っておりますでな。この山に暮らせているのも、その八雲さまのお蔭ですから」
 幽々子は表情を崩さない。そうでなければ、この男の言葉に飲まれそうであった。
「しかし、それではなぜ私のところへ?」
「わざわざ山に幽々子どのが参るのをお見かけしまして、すぐにでもお伝えしたいと思いまして」
「それならば直接八雲邸の方に来ていただければ、歓迎いたしましたよ」
「長の天魔を説得できたのが、つい最近のことだったのです」
 彼の言葉にウソは感じられない、と幽々子は思う。
「参陣が遅れたことを、誠に申し訳なく思っております」
「いえ。参加頂けるだけで幸いであります」
 それは半分以上事実である。現状を認識せぬ幽々子ではない。
「時に、参加が斯様にも遅れた償いを一つ受け持ちたいと考えておりまして」
「なんでございましょうか?」
「少しでもそちらの方々の負担を減らすべく、こちらの方で河童との交渉は受け持とうかと思いますがいかがでしょうか」
 やはり、と幽々子は気を引き締めた。当然、無条件であるはずはないことは幽々子にもなんとなしにわかっていた。
「いえいえ、それには及びません。天魔さまには直接ご参加いただければ、それで十分でございます」
「八雲どのをはじめとする方々は、山の状況にも詳しくありますまい。その点、我々ならばより労も少なく交渉が可能であろうと思いますが如何でしょうか?」
 これが罠であることくらい、幽々子にだってわかっている。河童との交渉権を渡してしまえば、天狗が河童を裁量することになる。あまり好ましい状況でないことは明らかだ。
「そのような気遣いには及びません。こちらには犬走どのも協力していただけていますから」
「犬走さまは、現在天狗との交渉で精いっぱいであり、お忙しいと存じます。そこまでお手数をかけるわけには参りません」
 顕徳が懸命に食いついてくる。見かけ、彼は平身低頭しているが、それがどの程度本意かどうかわからない。
「いえいえ、ですから」
「此くの如き遅参を取り戻す機会を、お与えいただけないでしょうか?」
 幽々子はたじろぐ。そういわれてしまうと、返す言葉に困る。
「こちらとすれば、もうご参加いただけるのみで幸いであります。遅参のことは咎めませんから」
「いえ、それは天狗としての名誉の問題であります。八雲どのがお許しになられたとて、我ら自身が許すことができません」
「しかし」
「天狗の名誉をどうかお考えいただきたい」
 幽々子は真剣に考えるしかない。ここで河童との交渉権を渡してでも天魔一党を味方につけるのが吉か、それとも彼らが敵に回ったとしても河童との交渉を直にやったほうがよいか。
「……この程度の遅参で天狗の名誉は少しも削られておりませんから、ご安心ください。重ねて申しますが、私たちにとってはこの状況で参陣下さることだけでも誠に有難きこと。その上に何かを申し付けるなぞ、とても畏れ多いことですので」
「然様ですか……」
 がっくりと顕徳が項垂れる。その姿に思わず幽々子は、彼の言い分を認めてやりたくさえなる。それを幽々子はふっと抑えた。
「しかれば、天魔には西行寺どのが歓迎していた、とお伝えしておきます」
「よろしくお願いいたします。こちらも犬走と紫とによろしく言っておきますので」
 なんとなしに、彼らが敵に回るのではないかというように幽々子は予測している。残念だが、しかし彼らとは交渉が続きそうにない。それに、天魔一党一つを味方にしても、それほど戦況が覆りはしないことを、幽々子はわかっている。
「では」
「また後ほど」
 最後に深く一礼をして、幽々子は再び飛び立つ。
 顕徳の残念そうな顔が、印象に残った。






「交渉は"順調"であった」
 天魔の塒に踏み込むや、顕徳は微笑を見せる。
「幽々子どのはなんと申していた?」
「河童との交渉は自らで行う、と」
「きちんと無視したか、我らを」
 天魔が返す。
「だな。およそ、我らが敵になるものと想定しているだろう」
「ひとまず、これで一歩前進か」
 顕徳とは反対側で、帥宮が自慢の顎鬚を撫でている。
「だが、本番はこれからだ。ここから、一歩でも踏み外せばそれで一気に奈落だぞ」
「奈落も歓迎だがな。それが天狗だ」
 帥宮の脅しに、顕徳が呵呵と笑う。
「して、帥宮。準備は?」
「すぐにでも。我らだけならな。援はどうなった?」
 帥宮は、天魔に少々胸を張る。。
「白峰の相模坊、金毘羅の金剛坊ともすでに準備は整えておるというぞ」
「讃岐者は頼りになるな」
 半ばからかうように帥宮が言った。
「ともあれ、ここが物事の肝心。滑るわけには参らぬな」
「然様。天狗を一つにまとめる機会は、今しかなかろう」
 帥宮と顕徳が、天魔を見る。
「さて、いよいよ戦の始まりよ。行くぞ」
 天魔は笑った。釣られて腹心の二人も笑う。笑いながら三者は立ち上がる。
 上品な笑いはしかし、非常に乾いていた。



 天魔の視線には既に、灯火が揺れている。良く見れば、一番奥の部分だけが焼けて崩れている。今や幽香ら結界反対派の手に落ちている八雲邸である。崩れているのは最初に焼かれた、紫の居室であろう。
「既に配置は終えております。後は、号令唯一つですな」
 天魔の隣で顕徳が建物の辺りを睨んでいる。動きは何一つないことからして、未だに天狗の存在には僅かにも気付いていないらしかった。
「久しき戦だのぅ。いつ以来か?」
「さて、天狗の小競合いこそあれ、もう長いこと血を見ておらぬな」
 目を八雲邸から離さず、しかし楽しそうに二人が会話をする。
「これほど大きな戦は、生前以来よ。負けたがな」
「勝っておればこのようなところにおらぬわ」
「然様然様」
 顕徳も盛り上がっていることが、天魔にもわかる。戦を前にして、舞い上がらぬ天狗もおらぬだろう。
「よし」
 天魔は確と闇に呑まれている八雲邸を目に捉えた。
「行くぞ。風見を蹴落とす」
 天魔の言葉で、突風が吹きすさぶ。天魔もまた扇子を懐へと仕舞い込んで、部下たちの入り込んでいった八雲邸の方を睨んでいた。

 相当に敵は混乱したらしい、と天魔は推測を付けている。夜襲というものが如何に恐ろしいかは、身を持って体験したこともある天魔である。ましてこのように集団戦を行うことのない妖怪の事、天狗の組織力の前には為す術もあるまい、と思っている。八雲邸の上空では帥宮が龍車を駆って空飛ぶ妖怪たちを次々に落とし、下では顕徳が長い翼を翻して建物から出てきた妖怪を引き裂いていた。建物の中には麾下の白狼天狗たちが突入して敵を次々と屠っているらしい。天魔が手を出すまでもなく、圧勝の様相を呈していた。
 その様子に、天魔は初めて動いた。金の羽を一撃ちすると十町以上離れた場所から一息で場所を詰め、白狼天狗の喉を掻き切ろうとしていた妖怪の首を刎ねた。
(みなごろ)しに致せ! 天狗の力を、幻想郷に見せてやるのよ!」
 舞い上がった首を空中で取ると、高々と掲げた。まだ血の滴る首に、天狗たちは大きな喚声を上げ、次々と敵に襲いかかり容赦なく命を刈り取っていく。その姿はまさしく(いぬ)そのものとさえいえた。
 喚声を聞くや、天魔はそれを下へと投げつける。それはまだ地にも付かぬのに天魔の足元辺りで爆発するように砕け散り、紅を一面に広げた。
「姑息な天狗め!」
 続いて加えられた攻撃を天魔は僅かに動いて躱す。躱しながら妖弾を敵へと叩き込んだ。だが、その妖弾は相手の妖弾にあたって掻き消された。
「吸血鬼か」
 金の髪を翻し、背丈ほどもある大きな蝙蝠の翼を羽ばたかせた彼女に、天魔は見覚えがない。だがその蝙蝠の羽と、幽香の元に吸血鬼がいるという情報を持つ天魔が、彼女の素性を見破るには難がなかった。
「突然攻撃を掛けて来るなんて、卑怯だ!」
「卑怯、か。卑怯でも、勝てばよい」
 力に任せた彼女の攻撃を、天魔は巧みに僅かな動きで躱してゆく。速さが取り柄の天魔からすれば、彼女の攻撃など止まって見える。
「いいや。戦うということは、正々堂々戦ってこそ意味がある!」
 感情の籠った攻撃は一撃一撃が非常に重い。一撃でももらってしまえば、重傷は免れ得ぬだろうと天魔は見切っている。だが、全てを躱せばよい。攻撃の場所を見極めた上で天魔は躱し、躱しながら反撃を少しずつ入れてゆく。それが天狗の戦である。
「吸血鬼とは、随分と馬鹿な種族よな」
 彼女の翼に鎌鼬を当てながら、天魔は嘲り笑った。
「天狗になんて言われたくない!」
 天魔に向かって彼女は思いっきり踏み込む。だがその攻撃を見据えたまま天魔は僅かにすら動きはせぬ。天魔はその金瞳に彼女をとらえたままだ。それを好機とばかり、彼女は右手にありったけの妖力を込め天魔の顔面目掛けて渾身の一撃を打ちこまんとした。
「ぐ……」
 しかし、その手は天魔の目の前で止まる。目先から三寸もない所で、紫電を纏った吸血鬼の右手が浮いている。代わりに、周囲に集った天狗達の弾が彼女の左足をもぎとり脇腹を抉っていた。彼女は全身に天狗の攻撃を受けて真紅に染まり、その衝撃で完全に動きを止める。それを見るや、天狗たちは吸血鬼に取り付いて縄を掛け始めた。
「兵は詭道なり、と古より言う」
 縛りあげられる彼女を天魔は金の双眸で強く睨みつけた。
「戦は手段。それに意味などない。故に、正々堂々戦うことが意味などということは、決してありえぬのだ」
 彼女も天魔を睨みつけてこそいたが、一言も発さなかった。およそそれだけの体力が残ってはいなかったのだろうと、天魔は見てとる。
「こやつも殺しますか?」
「これのみは捕えておけ。こいつを殺すと、風見を落とすのが面倒になる」
「"のみ"ということは――」
「残りは鼠一匹残すな。全て殺し焼き払え」
 部下の問いへの答えを、彼女に聞かせるように天魔は告げた。
 その言葉に天狗が皆、一層湧き上がった。






「天狗が来た?」
 紫は首をかしげる。天狗との交渉は犬走に一任してあり、そこが窓口となっている。
「確かに天狗が参っております。紫さまに直接お会いしたいと」
「名は?」
「顕徳と申しております」
 妖忌の告げた顕徳の名に、紫は聞き覚えがある。幽々子と直接接触を図ってきた天狗と、名は聞いている。
「なんと?」
「紫さまにお味方いたしたく参上した、と申しております」
「他には?」
「そちらが損をせぬ情報を持ってきたつもりだ、と」
 天狗のことはあくまで犬走。そこに紫が割り込んでしまった場合の不利益を紫はきちんとわかっている。しかも相手は、幽々子に直接接触を図ってきた、敵となる確率も高い天狗である。
 しかし、同時にここで顕徳と名乗る天狗を追い返す不利益もまた、紫は理解している。こちらに再度の接触を図ってくれる相手まで追い返してしまえば、八雲は冷徹だということになってしまうのだ。
「そう。お通しなさい」
 ゆえに即決。するり、と下がる妖忌に紫は、ほんの僅かながら笑った。

「これは八雲さま。このたびは尊顔を窺えて祝着にございます」
「こちらこそ、態々ここまで来てくれて有難いわ」
 深く頭を下げた顕徳に、紫は面を上げるようしぐさを取る。彼の表情が読みたい。
「いえいえ。八雲さまと申せば妖怪の賢者でございますから」
 しかし顕徳は顔を上げない。
「そういうわけでもないのだけれど」
「天狗という種族は、礼儀を重んじる種族でございますので」
「あら、そう」
 それ以上敢えて何かを言おうとは、紫も思わなかった。
「それで、何用かしら」
 紫が彼を睨むと、顕徳は初めて顔を上げる。真摯な目が紫の方を向く。
「この度、我々天魔一党も八雲さまにお味方いたしたく参上いたしました」
「それはありがたいことね。今は少しでも味方が欲しい頃合だから」
 紫は軽く頭を下げる。表面にこそ出さないが、それは紫にとって少々予想外のことである。幽々子の報告によれば、おそらく天魔らは敵となるだろうと、そういう報告であったからだ。
「こちらこそ、八雲さまへの伺候が遅れ、誠に申し訳なく思っております」
 顕徳は再び頭を下げ、平服の姿勢に戻る。
「つきましては、八雲さまにお伝えしたき儀がございます」
「なにかしら?」
 何を言うのだろうか、と紫は予測しようと思った。しかしそれには能わない。彼が頭を下げているからこそ、彼の表情を読みえない。
「この期に及んでただ八雲さまの元へ行くのも、あまりに恥知らずと思いまして」
 顕徳の頭が少し沈み込む。
「八雲邸を奪還いたしました。合わせて、防衛しておりました吸血鬼を捉え、残りの妖怪を血祭りに上げております」
 紫はその言葉に、顕徳を睨み付けた。何か言葉が出そうになったのを、懸命に飲み込む。
「現在、天魔さまは八雲邸におります。八雲さまが御動座なされれば、すぐにでも吸血鬼ともどもお引渡しいたす所存であります」
「あ、あら、それは」
 不味い、と紫は扇子を握りしめる。天魔という天狗、予想以上のやり手であることを後悔せざるをえない。この一事で、天狗に決定的な切り札を渡してしまった。しかし今更何をか言わんや。こうなってしまっては、紫にはなすすべがない。
「私たちのために態々そこまでしてくれたとは、有難いわ」
「少しでも我々もお役にたちたいと思いまして」
 あくまでこの顕徳は頭を上げようとしない。
「それで、あなた方はこれからどうなさるのかしら?」
「八雲さまのお許しさえ頂ければ、すぐにでも八雲さまの傘下として働きたく思っております」
「なるほど」
「我らは天狗や河童に関する情報も数多く持っておりますから、一つ指示さえあればすぐにでも天狗や河童をお纏めいたしましょう」
 これが本心だろう。天魔の狙いくらい、紫にもわかる。幽々子ともすでに話はしているのだ。
「河童の方はすでに幽々子に任せてあるし、天狗も犬走を中心に動いているわ。態々天魔どののお手を借りるまでもないこと」
「しかしながら、西行寺さまも犬走どのも、だいぶ苦戦しているご様子」
 紫は言葉に詰まるしかない。それは事実である。特に犬走燭からは、あまりいい話が返ってこない。
「その点に関してなれば、我々天魔一党も力になることができますれば、何卒お許しいただきたく」
 もしここで彼らの要求を完全に認めてしまえばどうなるか。紫にはなんとなく予想がつく。おそらく彼らはそのまま幽香の方へと走るだろう。幽香の部下を多数殺害したことを幽香は詰るだろうが、それより天狗を味方につけることの大きさを彼女は知っている。そして、同時にそれは紫の人望の無さを露呈する結果となる。それはあまりに危険である。
「……そこまで言って下さるのならば、犬走と幽々子に御助言をお願いします」
 顕徳は交渉しにきたのではないだろう。紫の隙を抉じ開け、立ち位置を通告しに来ただけだ。
「これは有難き幸せ。それでは早速、天魔さまの方にお伝え致します。きっと八雲さまに吉報をお知らせいたしましょう」
「犬走や幽々子によろしく」
 せめて釘を刺すのが、精いっぱいであった。


 紫に理由はわからぬが、交渉事を始めて3日が経過したにもかかわらず、幽香の側には動きが見えなかった。先の八雲邸急襲のような動きとは打って変わって、水を打ったような静けさを保っていた。天狗による八雲邸の奪取が行われ、紫側が人質を確保しても猶動きがない。それは、紫にとって有利であると同時に、非常に不安を抱かせるものであった。幽香がいつ動くかということは、相変わらず紫には読めなかったからである。
 戦々兢々としながら、しかし紫はもう止まらない。最後まで動き続けることを、紫は決めていた。




「それで、各々成果はどうかしら」
 紫はあらためて、八雲邸に一同を集めている。
「まずは藍から」
「人里の反対派の中でも、だいぶ厭戦気分が高まってきています。これ以上長引けば、農事へ響くからと思われます」
 藍がざらりと、紙を広げる。人名がいくらかあげられ、そこに細かい筆字が付されている。
「反対派を原則的に統帥していた霧雨家のみまですが、すでに彼女は上稗田・霧雨両当主からの支持を完全に失い、監禁状態にあります。また伊治当主はこれに対する反感から、両家と次第に距離を取っているようです」
 以下、藍はさらさらと人里内部の対立について語っていく。その幾らが藍自身が作り上げたものか、紫は知らない。しかし幾つもの王朝を倒し得る彼女にとって、所詮一勢力の瓦解なぞ、役不足同然だったろう。
「以上から、すでに人里陥落の条件は整っております。すぐにでも失地を取り返すことが可能です」
「わかったわ。藍、ご苦労」
 やはり人間とのやり取りに関して、藍の右に出る者はいないだろう、と紫は改めて認識した。藍のおかげで、こうして紫は力を得ることができているのだ。
「続いて幽々子、お願いできるかしら」
「ええわかったわ」
 幽々子の表情はなんとなしに堅い。
「河童の方だけれど、天魔一党の口添えもあって何とか私たちに従うことを容認してくれたわ」
「あら、それはご苦労様ね」
 天魔という言葉に幽々子は不満そうであるが、これ以上敵を増やすわけにはゆかないのだ。そう考えてみれば、もはや天魔にまではあまり構っていられない。
「天狗はより状況が悪い。天魔どの以下、その与党はいくらか紫どのに従うと申しておるが、風見と通じておる者も多い」
 続いて発言した犬走燭も、その顔色がよくない。おそらく、うまくいかぬことにいら立っているのだろう。しかし天狗の取りまとめほど難しいことがないことを、紫はわかっている。わかっていて、一番交渉の不得意そうな犬走に任せてあるのだから、紫は少し申し訳なかった。
「いかんせん天狗は細かい勢力に分かれており、中には利害の対立する者もおる。そこは如何ともしがたい」
「難しいと思うけれども、粘り強く交渉を続けてくれればありがたいわ。できるだけ、天魔から遠い連中をうまく惹きこめるようによろしく頼むわ」
「了解した」
 燭は難しそうな顔をしたままうなづく。紫だって、その言が半ば無謀であることをわかっている。
「さて、それでは藍の言うとおり、まずは人里を完全に落としてみせようかしら。八雲邸を失ったことでおそらく幽香は若干焦っているはずよ。そこから立て直らせるわけにはゆかないもの」
 紫は全員へ言い渡す。全員が頷き返した。
「それでは、細かい策を伝えるわ」
 紫は続いて懐紙を取り出す。そこにはやはり細かく様々なことが書きこまれていた。






「おお、帥宮。どうであったか?」
「河童は我らへの協力を確約した。玄武沢より上流の一帯を河童の領域として確保することが条件だ」
「ふむ、その様子だと西行寺より早く接触できたようだな」
「あたりまえだろうが。すでに交渉を始めていたわけだからな」
 帥宮は天魔を軽く見下す。
「それで、八雲との交渉はどうなったのだ」
「犬走は大層苦戦している。なにせ、この状況だ。いくら我らが邸宅一つ落としたとて、わざわざ敗勢に与する者なぞそうはいない」
「まして、今更犬走の下に甘んずる者なぞおらぬ、といったところか。犬走の配下も、この度はだいぶ大きな損害を出しているようだからな」
 帥宮が天魔の隣にどっかと座りこんだ。
「それにそもそも、犬走は交渉に向かぬ性格だ。まして、夫しかいない状況とあっては、殆ど赤子のようなものだ」
「随分と言うな」
「もし我々のように新たな天狗が入ってこなければ、それでよかったのだろうが。この状況にあっては、犬走ではやはり力が足らぬ。乱世慣れしておらぬ、といえるかな」
 帥宮が大きく伸びをする。全くこの男は、遠慮というものがない。
「天狗にしては性質が良すぎた、というところだな。我々がどこまで補えるか」
「因果だのう。それを支えねばならぬのが我々、というところがまた」
 天魔もつぶやく。彼の言いたいことが、だいたいわかるからだ。
「さて」
 そんな心持を吹き飛ばすように、天魔は立ち上がる。
「行くぞ。顕徳ばかり働かせておくわけにもゆかぬだろう」






 紫の出る幕はほとんどなく、人里最後の拠点はあっさり陥落した。藍が積極的に行っていた工作もあり、また物資の欠乏もあって、内側から門が開いたのである。そうなってしまえば、いくら強固に要塞化を施した人里とはいってもひとたまりもない。強硬な反対派は山の方へ逃れ、稗田当主をはじめとする多くの賛成派が解放された。ここに人里は完全に八雲側として復帰することになる。
 これは八雲邸奪還に続く勝利として、紫の反撃を幻想郷に示すものとなる。そのことは紫が一番よくわかっている。だからこそ、ここで下手なドジを踏まなかったことは、紫にとって何よりもありがたかった。
 まだ山間部に逃れた強硬派の抵抗はあるだろうが、それはすぐにでもおさめられるだろう。
「久方振りの勝利ね」
「全くです。ここまで、長い道のりでした」
 藍がようやく、少しほっとした表情を見せている。藍にしても、この一連の事件の中であまりうまく行ったことがなかっただけに、こうして成功が挙げられたことはとてもうれしいことなのだろう。
「この勝利は藍のおかげよ。本当に藍にはお世話になったわ」
「それほどのことはしておりません。もともと彼らの結束が弱かった、というだけのことですから」
 しかしその藍もうれしそうだ。
「ともあれ、これで一矢報いたわけだけれども、幽香はどう動くかしらね」
「反撃に出てくるとは思いますが。もともと、名だけで勝っていたわけですし、短期戦指向でしょうから」
「それはわかってるのよ。でも、どこに攻撃をかけてくるかしらね」
「それは、人里で間違いないと思うわよ」
 後ろから、少し高めの声が響く。
「幽々子もそう思うの?」
「だって、他にないわ。いまさら八雲邸を奪取しても仕方ないだろうし、長期戦になることも覚悟するでしょうからね」
「やはりそうでしたか。となれば、それに対する策が必要ですね」
「そのためには、こちらの戦力確保を急がなければならないわね」
 紫は扇子を閉じた。
「まずは天狗ね」
「今度ばかりは、天魔ばかりに任せるわけはいかないものね」
 幽々子も藍も、静かにうなずいた。






「この度は、天狗の皆さまに御集まりいただき、誠に光栄に存じております」
 燭の声が一帯へと響く。爽快な声。その一声で天狗の長たちのざわめきが止まったのはさすがだ、と天魔も思う。
「ここに御集まり頂いたは、偏に天狗の力を以てこの混乱の収拾を図る儀について忌憚なき意見を頂きたく思うたからにございます」
 ざっと数えて百近くいるだろうか、と天魔は概算する。大小様々な勢力の天狗が一堂に会している状況は壮観というに値するだろう。全くこれでは船頭が多すぎるではないか。
 対する燭も、やはり少し頼りなさそうな印象を覚えた。隣に妻である楓も立っているが、顔色がなんとも悪い。どうやら先の戦で負傷したというのは本当らしい。にもかかわらずこうして表に出てくるのが、誠実さを表しているというか、底の無さをあらわしているというか。
「昨今、この幻想郷が混乱の状況に置かれていることは、すでにお聞き及びのことと存じますが、ついに昨日、八雲紫どのが盟友・西行寺幽々子どのがこの山に参られ、天狗全体の参陣を要請なされました」
 とはいえ、天魔も未だその船頭の一人にすぎない。所詮は一山いくらのしがない天狗でしかないのだ。だからこそ、おそらく天狗の長どもは天魔のことまで考えを及ばしていないだろうが。
「ついては、改めて貴殿らの考えを問うてみたい。八雲に義があるとするのか、風見こそ我らが仰ぐべきとするのか、動いてはならぬと申すのか。その意見で以て、天狗統一の行動を取れれば幸いと思っております」
 燭の言葉に、周りがまた少しざわつき始める。様々な種族・出自の天狗が様々な言葉で会話するこの場は、少々不気味だと率直な感想を持つ。そしてこれをまとめるのは一苦労であろう、と。

「天魔、そちらの様子は如何じゃ」
「これは相模坊。先は協力有難かったぞ」
「なあに。そなたは儂からすれば出来の良い孫のようなものじゃからな。協力せぬ手なぞないぞ」
「それはそれは」
 相模坊は天魔の背中を思い切り叩く。この老天狗は、千にさえ満たぬ天魔の幾倍もの生を重ねている、という。天魔なぞ孫に見えるのだろう。
「時に、天魔はやはり八雲に従うのか?」
「そのつもりであります」
「その心は?」
 天魔はその問いに、黙ったまま相模坊を見つめた。その一瞬で、相模坊は理解したようであった。
「ははは。それは面白い。それでこそ天魔よ」
「有難きお褒めです」
「その心意気や善し。やはり我らもそちに従おうぞ」
 相模坊の言葉に、天魔は深く頭を下げる。相模坊の擁する天狗の数は天魔の比ではないのだ。

「この争いに天狗が介入することは控えた方が良いと考える。元々幻想郷に住む天狗はごくわずか、私や天魔どのを始めほとんどの天狗は幻想郷に移り住んだばかりで勝手もよくわかり申さん。情報も足らぬまま動くとなれば、八雲の良いようにされんとも限らぬだろう」
 気付けば、話がすでに始まっていた。今話している山伏天狗は、木曽御嶽山の天狗だったはずだろう、と天魔は記憶を掘り起こす。ゆったりとした信濃訛りで真面目に語るが、実際のところどう考えているのだか、と天魔は軽く鼻を鳴らす。おおよそ、自らの率いる木曽天狗のことしか考えておるまいに。
「俺も木曽どのに賛成致す。そも、現状を鑑みるに、八雲風見の両者に力の差があるとは思えぬ。八雲風見のどちらが負けても不思議ではござらん。となれば、もうすこし様子を見、勝つ者を見据えて後に動いても遅くはなかろう」
 ほとんど間髪いれずに続けた白狼天狗は、イとエの区別の付かぬ東北訛り。羽黒あたりの天狗であろうか。
「しかし、ここで天狗が動かねば、天狗に力無しと見られ、侮らるることにも繋がろう。また、現在八雲風見の均衡が続いているならば、天狗が状況を動かすことも叶う。幻想郷において確固たる地位を築くために動いた方がよいのではないだろうか」
 対して、まくし立てているのは讃岐訛りの山伏天狗。天魔の友人である金毘羅の金剛坊だ。彼の言う通り、風見幽香と八雲紫の勢力はたったいま、おおよそ互角で硬直している。天狗が立場を鮮明にすることによって戦況を動かすことができるだろう。則ち、現在天狗は勝者を決め得るのである。
「すでに犬走どのが個人的に八雲どのに与していることも大きい。今更、それを翻して天狗を取りまとめ、八雲を攻撃するわけには参らぬだろうて」
「そもそも、八雲とて風見とて得体の知れぬ妖怪です。我々天狗があれに下ることなぞとても容認できることではありません。わざわざそのような下賤共の戦に、我々が加担することはございますまい」
 入れ替わりに話しているのは、天魔の初めて見る天狗である。おそらくまだ若い天狗なのだろう、と天魔は判断した。その言葉は、まだ青い覇気がある。
「幻想郷の妖怪が二つに分かれて相争うは、天狗にとっての好機。いっそ、風見八雲の両者を斃し、代わって幻想郷の長となることが、天狗の由緒の上でも当然であろう」
 対して冷静に述べるのは、加賀白山の鼻高天狗。力の強い天狗であった筈だ。彼の言葉通り、天狗が幻想郷の長になることも無理ではなかろう、と天魔も見ている。ただし、それほど簡単ではないだろうが。
「何を申します! 幻想郷への移住を認めた八雲どのを斃すと申したか。そなたらは、恩を仇で返すと言うのか!」
 彼に声を荒げているのは、霧島山の天狗である。南国らしく気性も激しそうだ、と天魔は勝手に思った。
「恩ではない。由緒もなき妖怪が天狗に仕えるのは当然であろう」
「八雲はあれだけで種族を形成する非常に強力な妖怪でございます。由緒は十分であると考えます」
「馬鹿め。種族一人ということは、所詮ぽっと出の妖怪ということだ。どんなに力が強かろうと、天狗を下にできるような妖怪ではない」
 その二人の議論をきっかけに、一挙に騒がしくなり始める。ここでどちらに加勢するのか、両方を斃してしまうのか、静観するのか。八雲は天狗の盟友と成り得るか否か。天狗の長たちは、喧々囂々侃々諤々。

「まあ、こうなるのは当然ですかな」
 顕徳が呟く。その左手には書がある。その上右手に朱筆を持っているあたり、殆ど聞いていないようだ。
「お前は気楽だな」
「歌集の編纂より優先できるものなぞあるまい?」
 何を言い始めるのか、とも思うが、この顕徳は流刑先でも歌集編纂を行うような男である。今更どうなりもしないだろう。
「して、これはどうなると?」
「こうなってはもはや何者も止められぬ。所詮話し合いで天狗を取りまとめる方が無駄だった、ということがよくわかるだけだ」
「となれば、犬走どのは多数派工作に走る」
「間違いない。隣で細君がいろいろ手帳に書き込んでいるようであるしな」
 二人して少しにやけてから、視線を戻す。相変わらずそこらじゅうで天狗同士が大騒ぎであった。

「ひとまずお静まり頂きたい!」
 燭が何度か声を張り上げて、漸く天狗たちは静粛を取り戻した。本来情報のやり取りの好きな天狗である。一度議論を始めてしまえば、中々収まらない。
「このまま議論を行っていても、決して一に収まらぬは明白。なれば、いっそ長の方々によって決を採りたいと思うが、いかがか?」
 燭が提案すると、また少し座はざわめく。だが、今度はそれほど大きな議論にはなっていない。大勢が諾意を示している。
「しばしお待ちいただきたい」
 その刹那、天魔が立ち上がった。
「この期に及んで、八雲に従う以外の選択肢が残っていると申せますか。ここに招き入れてくれた恩人に敵することがないと思えばこそ、我らはすでに八雲方として八雲邸攻略にも参加いたしておる。そもそも、犬走どのは前より八雲どのに味方いたしておれば、他の天狗はそれに従う以外の選択肢がありましょうや。ましてその旗幟をここに来て覆すのは、卑怯というに他ならぬといえるのではなかろうか!」
 天魔の声もこれまた徹る。そして、他の天狗を圧しこむ威厳がある。暫く静まったあと、再び場は一気に沸騰をむかえた。
「静粛に!」
 これまた燭が何度か叫び、やっとのことで静まる。燭もいくらか疲れた様子である。
「それでは、明日また改めて話し合いを行うことにいたします。本日はこれまでっ!」
 それでもざわつきが収まらぬ様子に燭はあきらめたのか、その一言で天狗どもの会合は終わった。


「天魔、いつからお前は卑怯を負の意味で用いるようになったのだ」
 帥宮がとげとげしい視線で天魔を睨む。
「あまりに素晴らしい正論に、俺は笑い転げそうだったぞ」
「言ってて確かに反吐が出そうにはなったな」
「正論で反吐が出そうになるとは、少し重症だな」
 顕徳も返してくる。こういうときだけ、妙に連携がよい。
「天狗に正論は必要あるまい」
「まあ、正論正論と騒いでも仕様がないのは事実だな」
 飽きた、と言わんばかりの投げやりな帥宮の言葉。
「それで、次はどうする」
「明日を俟つ」
「ほう」
「そう。あとは期を俟つだけ、よ」






「紫どの、相変わらずうまくゆかず、誠に申し訳ない」
 人里・稗田邸の一室で犬走の夫妻は床に額を付けていた。
「気にすることはないわ。最後の最後、一番の機会に天狗が参戦してくれれば、それでよいのだから」
「しかし、仮にも天狗をまとめる身にありながら」
「犬走のお二人には、たびたびお世話になっているもの。こちらからは感謝をささげても余りあるわ。それ以上にまだ任せているのだから、むしろこちらがわびなければならないくらいよ」
 紫は二人の肩を持ち、顔を上げさせる。彼らの実直さが身にしみてくる。
「それで楓さん、傷の具合は?」
「まだ戦をするのは少し厳しいのですが、床につくほどではありません」
 言われてみれば、確かに少し顔色は白いかもしれない。しかしその言葉ははっきりしていて、とてもその傷を感じさせない。
「それで、これから紫どのは如何いたすのか?」
 燭が問いかえす。
「そのことなのだけれど、現状だとなぜか幽香は今だに動く様子を見せない。これについては藍と妖忌が詳しく調べてくれてるのだけれど、この隙を使わぬ手はないの」
「といいますと、紫さまが直接天狗どもと交渉するのですか?」
「そういうこと」
「ならば、ちょうど明日正午、天狗の長を集める会があります」
「ちょうどいいわね。そこに乗り込むのが一番かしら」
 天狗がそこに集まっているというならば、説得するのも薙ぎ倒すのもたやすい。つまりは、天狗を味方につけるのも割合簡単であるだろう。
「なんだか天魔という天狗の動きも気になるし、私が動けば少しは変わるでしょう」
「天魔、ですか」
 燭は首をかしげている。楓も同じ。
「ええそうよ。あれ、然も味方にみえるけれど、結構怪しいわよ」
「以後気を付けてみます」






「天魔さま」
「どうした?」
「尊雲どのより一報でございます。"事有り"と」
 その烏天狗の一言に、天魔は立ち上がった。
「よくやった。では帥宮に伝えよ。ただちに事を行え、と」
「了解いたしました」
 聞くか聞かざるかのうちに、その天狗は飛び退っていく。
「ついに来たか」
 その姿を、顕徳が追っている。
「ここからは、時間との闘いぞ」
「全くだ。帥宮がどれだけ動けるか」
「お前はどうなのだ、顕徳?」
 天魔が視線を彼に流すと、顕徳は軽く歪んだ笑いを見せた。
「ちょうど俺も行くところだ。帥宮の手伝いだ」
「おう。よろしく頼んだぞ」
 天魔は顕徳の飛び立つのを見送って、羽を広げる。
 生死半々。ここに、すべてが掛かっている。事は動き出せば留まるところを知らぬ。あとはいかにして押しつぶされぬか、そういう問題であった。






「このような朝から訪れるとは、天狗もだいぶ恥を知らないようね」
 紫は正面に座っている、沙弥姿の天狗を睨み付ける。
「こちらの失礼は重々承知であります。誠に申し訳ございませぬが、折り入ってお話しがございまして」
 いくら彼らが急用とは言っても、朝からくる必要はないのではないか、と紫は思う。今日の昼過ぎには、山を訪れる予定であったのだから。
「何用かしら? それほど重要なお話?」
「然様にございます。是非とも、八雲さま直々にお耳に入れたく、こちらへ罷り越した次第であります」
「それでは、早速教えて下さるかしら?」
 言うと、顕徳が懐から一つの書状を取り出す。
「この度は、天狗が八雲さまにお味方するに際して、お飲みいただきたい条件をお持ちいたしました」
「ちょっと待ちなさい!」
 思わず紫は立ち上がりそうになった。この顕徳という天狗は、いったい何を言い始めるのだろうか。
「貴方たち、私に協力したいと自分で言い出したのではないのかしら? それを唐突に、何を言うのかしら?」
「八雲さま、時にご質問いたしますが、いつ我々が無条件で、八雲さまにお味方いたすと申したでしょうか?」
「あら、あなたから先に来たというのに、そこで条件提示とは、卑怯じゃないかしら?」
 紫はその表情から怒りをひた隠して、告げる。
「とはいえ、天魔どのの意向がそうでありますれば、私にはどうにもならぬものでありまして」
 顕徳の表情も、少し困惑といった様子である。しかし、紫はもはやこれを信用しない。この男は、やり手の男だ。
「そもそも、犬走を通せと言わなかったかしら? まさか、天魔どのはそれも無視なされたか?」
 紫の譴責に、顕徳は黙り込む。その金の瞳が、ただ紫を睨む。
「紫どのは、まだご存じありませんか?」
「何のことかしら?」
 顕徳の言葉は不穏。
「なれば、これを」
 彼が差し出したのは、一冊の新聞である。『鞍馬諧報』と表題にはある。
「なによ」
 しぶしぶと紫がその新聞を開く。

 そして、そのまま完全に硬直した。
 "犬走夫妻、戦死!"と、大々的に書かれていた。

「いったい、これは?」
「このままの意味でございます。昨日深夜、犬走夫妻率いる天狗衆はあろうことか山麓にて敵襲を受け、衆寡敵せず全滅したと」
 紫は半ば頭が真っ白である。自分にずっとつき従ってくれていた、妖怪の長の死。それはもちろん、紫の計算外の出来事でもあったし、それ以上に長い付き合いの妖怪の死は、紫の心に深く突き刺さるものであった。
「つきましては、我らも直接八雲どのとやりとりをせざるを得ず、このような早朝からお訪ねしたわけであります」
「そう。それは失礼したわ。わざわざご苦労ね」
 しかし、それを表に出すわけには行かない。顕徳という男が何を考えているかわからない今、下手に動揺を見せれば付け込まれる隙ともなりかねないのだ。ゆえに紫は、押し殺してでも平生を装うしかない。
「いえ」
「それで、この情報はどの程度広まっているのかしら?」
「天狗は耳が速いようで、すでに各新聞ともその第一報は捉えて流しております」
 それは暗に、天狗内には情報が伝わってしまっている、ということを示すのだろう。
「その外は?」
「敵部隊は完全に取り逃がしたようですので、敵はおそらく知っているものと思われます。しかし、その他の妖怪にはまだ漏れていないかと」
「そう、わかったわ」
 つまりは、情報の遮断は不可能というわけだ。犬走の死をいまさらひた隠しにすることは不可能。
「それで、天狗への影響は?」
「勿論、かなり風見に傾く方向でしょう。また厭戦気分も高まっております。天狗以外の妖怪がいくら死んでも眉ひとつ動かしませぬが、同じ天狗が死ねば途端に怖気づく、それが天狗でございますれば」
 完全にこの男は足元を見ているようだ、ということは紫もわかる。これがどこまで本当か、紫はいまいちつかみかねている。
「さて、本題であります。まずはこれを」
 顕徳自身は、その新聞の記事に眉ひとつ動かさない。そして改めて、書状を紫へと手渡した。やむなく紫はそれを開く。

 一、八雲殿と天魔と主従無く、対等に約を結ぶ()く候。
 一、若し、八雲殿并び天魔に背く者有らば、縦ひ其れ互いの内に候へ共、必ず誅戮致す可く候。
 一、幻想郷にて物事を決め候はん時は、必ず天魔に申候て、合議し候て決める可く申候。
 一、妖怪の山は天狗の治むところに候へば、八雲殿之干渉、之を無かる可く候。
 一、約を結ぶに及び候へば、起請文を取り交わしたく候。

「ふむ、随分と強気じゃない」
「でしょうか? 我々としては、だいぶ譲歩した条件でありますが」
 紫はそれをたたむ。
「全然話にならないわ。そもそも、いつ貴方たちに天狗の統括を任せるといったかしら?」
「なるほど。つまりは、我々のことはどうでもよい、と?」
「いつそう言ったかしら。ただ、天魔どのが必ずしも天狗の長というわけではないでしょう? そもそも、犬走には娘がいたはずじゃない?」
「ええ。一人おります。しかし、流石に彼女が天狗の長だというのは、無理が大きいかと」
 顕徳の表情は読めない。端正な顔は、時として凡庸に映る。
「彼女を立てて、他の天狗を補佐にするということは考えなかったのかしら?」
「これは八雲どのの言葉とも思えませぬな。この混乱した状況に於いて、しかも諸天狗が虎視眈々としている現状に鑑みて猶、我らは幼主を抱えるべきと仰せでしょうか?」
「別に、貴女達に担いでもらおうとも思わないわ」
「なれば、我らはここにて失礼いたすしかございますまい。八雲どのが我々を受け入れてくれぬとあれば、我々はもはやここにいられぬでしょうから」
 顕徳との睨みあい。細面に似合わぬ強い眼光は、しかしどことなく曲がって思える。

「一先ず、天狗の采配は天魔どのにお願いいたしましょう。それで文句はないでしょう?」
 結局、折れるのは紫であった。もしここで天狗を完全に敵にすればどのようになるのか、紫にもわかっている。だからこそ向こうは足元を見ているのだ。
「文句がない、とはゆきますまい。我々の要求を無視していただいては困ります故」
「丸のみしない限り、どうしようもない、と?」
「天魔一党に限らず、天狗の総意として、それすべてを飲んでいただければ幸いでございます」
 この男の口調はすこしゆったりである。しかしそれを感じさせぬ緊張感がある。
「そこまで言うのね。いったい、どれだけ自分のことを過大評価すれば済むのかしら」
「現在、八雲殿と天狗とを取り持つのは唯一我々のみでございますが、それでも斯様なことを申しますか?」
「あら、私が本当に天魔どのしか天狗とのやり取りがないとでも思っているのかしら?」
「少なくとも、犬走どのが亡くなられた時点で、天狗とのやりとりの手段はかなり失われたと考えておりますが?」
「ならそう思っておけばいいわ」
 この顕徳という男が、いったいどのあたりに着地点を想定しているのか、紫にはいまいちつかめない。ただ、なるべく顕徳の考える着地点より向こう側に、つまりは、より譲歩させた形での終結が、目標である。となれば、まずは相手の着地点を想定しなければならない。
「それでは、八雲どのは我々天魔一党と交渉を持たずともよい、とお考えか?」
「そうは言っていないでしょう。ただ、天魔どのとだけ交渉しているわけではない、ということをお知らせしておこうとおもっただけ。なにせ、あなた方は勘違いを為されているようだから」
「それは失礼なことを致しました」
 顕徳が軽く頭を下げる。
「して、それでは八雲どのは、どのようにお考えか?」
「せいぜい受け入れられて、一条ね。五条目はともかくとして、一から四の内でひとつが限度と考えるわ」
「それはまたお厳しい言葉にございますな」
「一から四は、すべて天狗に有利な条件よ。それをすべて受け入れるほど落ちぶれてなんていないと思うけれども」
「ふむ。然様でございますか」
 顕徳は少し紫の顔を窺う。
「逆に聞くけれども、あなた方、私にそれをすべて飲ませなければ承知しないとか、そういう類かしら?」
「すべて飲んでいただくのが、我らとしての大前提でありますが」
「それでは、流石に交渉できるとは言えないわ。いくら天魔どのに天狗の統率を任せようと考えてはいても、そこまで法外な条件を出されては、如何ともしがたいわねえ」
 紫もまた、顕徳の顔を窺う。
「そこまで法外でございましょうか?」
「私はそれ以外にもすでに、天魔に天狗を一任することを認めているわ。その他にそれだけ認めろというのはあまりにも過大な要求だとおもうけれど。違う?」
「ふむ」
 今度は顕徳が黙る番である。
「そもそも、天狗の諸兄とて、この混乱をただ座視するわけには行かないのではなくて?」
「と申しますと?」
「何のために天狗の方々が、この幻想郷に逃げて来たかということです」
 紫の言葉に、顕徳は初めて少し顔を顰める。逃げた、という言葉が癇に障ったのだろう。
「それを避けるには、結界を敷設すること以外にないはず。それを、天魔どのや顕徳どのも当然おわかりではなくて?」
「結界を敷設せねば生き残れぬ、という程には至っておらぬとも考えられるのではないか?」
「なれば、何故天狗の皆さま方はこちらに逃れ来ったのでしょうか? もし結界がいらぬというなら、態々この幻想郷に訪れることもなかったと思いますが」
 その紫の言葉に、再び顕徳は黙り込んだ。
「つまり、八雲どのは、我らが八雲に従って当然とおっしゃるか?」
「違うというの?」
「我ら天狗が、由緒正しき天狗が、一介の妖怪に従え、と?」
 顕徳の表情はますます難しさを示す。鋭い眼光が紫を捉えている。
「それは私に対する侮辱かしら?」
 紫もまた、負けじと視線を返す。
「天狗は既に千年の長きに渡って妖怪の頂点に君臨し、時に神と崇められながら全国から恐れられていた存在なれば、この日の本で最も力ある妖怪ともいえる。そのことを、八雲どのはお考えか?」
「歴史的にどうであったか、ということはこの場には関係しないわ。この場で関係するのは、現在の状況だけ」
「つまりは、天狗に誇りを捨てろと?」
「ええ。その通り。それに、私は鬼とて従えたのよ。その意味をあなた方はわかっているかしら?」
「ふっ。あの力馬鹿を従えたことが、いったい何の威になると?」
 紫の言葉を、顕徳は鼻で笑ってみせた。
「鬼なぞ、従えてなんとなる。我々からすれば、笑止としか言えませぬな」
「つまりは、私には従えないと?」
「もし八雲どのが、天狗を完全な支配下に置こうとしているというならば、我らは従えませぬ」
「郷に入りては郷に従えという諺を覚えてられないと?」
「いくら天狗とて譲れぬものがあるということです」
 いったいどこまでそれを信じているのか、紫は量りかねている。ただ、顕徳が本当にプライドでもってそういっているのではない、ということは何となくわかっていた。おそらくそれさえも切り札として用いるつもりなのだ。どれだけを切り札として用いてくるのか、紫には読めない。
「それでは、対等以外では全く私と交渉するつもりはないってこと?」
「できればそうあれば、という程度です。先程からも申しています通り、我らにも譲歩の用意はあります」
「でも完全に譲歩するつもりはない、ということ?」
「いくらなんでも八雲どのの言いなりになることは不可能だ、と先ほども申したはずです」
 紫は軽くため息をつく。この男との交渉は、間違いなくかなり長引くはずだ。
「仕方ないわね。では改めて、私から条件を提示しましょう」
 そう、ここからが本番。これからの幻想郷を決める、大一番。
 紫は腹を括るしかなかった。




「妖忌どの、紫さまはおられるか?」
「紫さまは現在、午睡しておられます」
「午睡?」
 藍は首をかしげた。紫は確かにより睡眠時間を多く必要とする妖怪であって、他の妖怪に比べれば寝ている時間は長い。しかしこのような緊張時に、進んで午睡を取るほど大胆ではないことも知っている。
「本日早朝に、天魔一党の顕徳どのが訪れられ、長く会談しておられました。そしてそれが終わってより、午睡に」
「そうか。わかった」
 しかし態々昼寝しているのだから、何か理由があるのだろう。そういうところ、藍は紫を信用している。だから、起こすこともない。
「では妖忌どの、何か紫さまよりお伺いしていることはないか?」
「は。ここに書置きがございます。いくらか信じがたきこともありますが、驚かれませぬよう」
「む」
 妖忌に渡された封紙を、藍は開く。そこには確かに、紫の書く流麗な草書でいくつかの項目が書かれている。曰く、犬走夫妻は突然の戦死を遂げた、天魔一党との間で条々を取り交わした、おそらく天狗を味方にすることはできた、と。
「犬走どのが、亡くなられた?」
「然様と。いくらかの天狗から新聞を取り寄せましたが、孰れもそれを乗せておりましたので、間違いないかと思われます」
「なんということだ……」
 藍は頭を抱えた。天狗との重要な繋がりであったというのに。
「誠に、あまりに唐突なことで」
「唐突なはずがあるか」
 藍は思わず呻いた。
「ここで犬走どのは、死ぬ運命だったんだよ。そうだ、我々が気付かなかっただけで、奴らにとっては死ぬ運命であったんだ」
「はあ」
「嵌められたのさ、我々は」






「顕徳、やっと帰ったか。あまりの遅さに、先に始めようかと思ったぞ」
「時間稼ぎには十分だったかと」
「そりゃ十分だ。帥宮はもうとうに仕事を終えておるぞ」
「流石は帥宮。動きが速い」
 顕徳はふう、と腰を下ろした。流石に聊か疲れている素振りを見せる。
「して、交渉はどうだった?」
「最低限、最小限度だ」
「ふむ」
「二条、四条に加えて我々に天狗統括を任せること。それで限度であった」
「む」
 天魔はすぐに思い返す。確か二条は相互安全保障。四条は相互不干渉だったはずである。
「つまり、実質的に飲ませたのは二条だけ、か」
「そういうことだ」
 紫の考えは、天魔にだってわかる。おそらく山に何かあれば、二条を盾にして四条をなかったことにしてくるはずだ。
「顕徳にしては、苦戦したな」
「おそらく、我らが八雲と結ばざるを得ない、ということを見透かされていた」
「或いは、我々の動きも読んでいると?」
「可能性が無い、とはいえまい」
 顕徳の言葉に、天魔はにやりと笑う。
「聞いたか、帥宮?」
 天魔が振り向くと、少し向こうで帥宮がやはり朱筆片手に漢籍を読んでいる。
「おお、聞いていた」
 それから目を離さずに、答える。
「それくらいの技量がなければ、とてもではないが付き従う気にはならぬ。そういう意味では、朗報といえるのではないか」
「それもそうであろう」
 帥宮の言葉に、天魔も頷く。頷きつつ、立ち上がった。
「さて、顕徳はご苦労であった。さて、帥宮、行くぞ」
「おう」
 天魔のその言葉に、初めて帥宮は朱筆と漢籍を置く。そうして、立烏帽子をかぶる。どうにも天狗には見えない。
「さて、止めといこう」
 天魔も金の瞳を細める。にやり、という笑いは、さながら威嚇である。




 天魔という男は複雑な男である。前世では人間界で帝王を務めており、仏法にも深く信心する賢王なると称えられ、五部大乗経の写経を行った事もあった。しかし故あって天狗道へと墜ちた。未だ天狗となって千年に満たず、天狗の長の中では若い方に入る。しかし、その妖力は他の天狗を凌駕しており、それこそが天魔を長足らしめている所以であった。
 その天魔が、今まさに飛び立たんとしている。往時のような帝王となるべく、羽ばたいている。

「方々にお集まり頂いたは他でもない。今後についてお話いたしたいが故」
 辺り一帯には、天狗天狗天狗である。非常に多くの天狗が、そこには集まっている。天魔らの呼びかけによって、集まった天狗たち。長に限らず、老いも若きも男も女も、集まっていた。
「私の如き一介の天狗の参集に応じて頂き、有難く存じまする」
 元々、犬走燭が集めるつもりだった時間に合わせたのは、これが大きい。この様な状況でもあるし、犬走という名前を使えば、まだ天狗は集まる。死人に鞭を打つようで申し訳ないのだが。
「時に、かの犬走どのが亡くなったことは、すでにご存じ事と思われる」
 天魔の徹る声が、天狗たちを震わせる。響かせる。
「犬走どのは、燭どのも楓どのも実直なお方にして、まさに我が天狗の長を務めるにふさわしき方にござった」
 その天魔の言葉に、天狗たちが囂々と応える。
「にも関わらず、卑劣なる敵の手に掛かった。これほど悲しきことが、他にございますまい」
 天魔の言葉は、心に触れるもの。一部の者は既に涙を流している。
「天狗の方々よ、残された椛どののことを是非とも一度お考えいただきたい」
 天魔はざっと天狗を見渡した。一同が天魔に注目している。
「まだ幼子の身にして、すでに二親と別れねばならなかった椛どのが、私には不憫で仕方ありませぬ。憎き風見のために、彼女は幼き身にて孤たることを強制された。なんという悲劇か!」
 天狗たちが、天魔を食い入るように見つめる。もはや天魔がすべてを支配していた。
「このような卑劣な敵を、果たして我らは生かしておけましょうか!」
 おうおう、と天狗の叫び声が響いている。今や天狗たちは一様に、仇討を求めていた。
「そう。諸兄姉らの申す通り、とても生かしてはおけますまい!」
 天狗同士なれば闘争を致そうとも、ひとたび仲間を外の敵より傷付けられれば、結束して外の敵に立ち向かう。それが天狗である。そういう誇りの高さが、天狗にはある。
「そこで諸兄姉らにお尋ねしたい! 諸兄姉らは、この天魔とともに八雲どのに協力致し、かの犬走どのを弑した、憎き風見どもと、お戦いいただけるだろうか!」
 おお、と再びの声。もはや大勢は決まった。天狗の長どもが何を言おうが、諸天狗の思いは偏に、犬走の仇討にて結束している。
「さて、ところで」
 と言いながら、天魔は懐紙を取り出す。
「あろうことか、この天狗の中には、風見に協力し、犬走どのを弑するに力を貸したものがおります」
 その言葉に、天狗のざわめきが一層大きくなった。
「とても、許すことができるものではありますまい!」
 天魔がそう言い切ったところで、天魔どの! という叫び声が響いた。
 一瞬で、その叫んだ方に注目が集まる。
「高雄内供奉、犬走どのを弑した罪により、この肥後阿闍梨が御討ち果たした!」
 一人の大天狗が、思い切り何かを放り投げる。それは、天狗の、首。
「常陸筑波法印、同じき罪により、この尊雲が討ち果たした!」
 二つ目の首が飛ぶ。いずれも、知らぬ者はおらぬというほどの、力のある天狗の長。
「天狗の御方々よ! くれぐれも軽々しく殺してはならぬ! されど、風見に従う者は、容赦なく討つべし!」
 天魔の言葉が、一際大きく響く。

 この瞬間に、天魔に能く刃向う天狗の長は、一人とていなくなった。






 紫の正面には、金の翼を持ち金の瞳で辺りを睥睨する男が一人いる。天魔。気付いた時には、すべてを奪っていた男が、正面に座っている。天魔という男、一天狗の長にすぎぬという割に、建物の作りは良い。
「お久しぶりでございますな、八雲どの」
「あら、お会いしたことあったかしら」
「こちらに来る際に。ほんの僅かですが」
 そうだったか、と紫は思考をめぐらせる。
「しかし、前に会った時よりも、お美しくなっておられるようで」
 少し不思議そうな目線で、天魔は紫を見ている。特に言及もしてはいないが、どうやら紫の髪型についての事を言っているらしい、と紫も理解した。
「少し事情があってね。女性として、あまりやりたくなかったのだけれども」
「ふむ、私は以前よりもお美しくなられたのではないかと思うておりますが」
「なら幸いよ」
 本当に天魔がどう思っているかは全く見てとることができない。少なくとも紫が見る限りでは、天魔の言葉はただの美辞麗句ではないようにも思える。
「まあ、その話は良いわ」
 それ以上自らの容姿の話をしても仕方ないので、紫は話題の転換を図る。
「おお、済みませぬな」
 天魔もそれには従うようである。彼は紫に相対して一礼すると、口を開いた。
「結界の話は我々天狗にとっても非常に興味深いものであった。幻想郷の危機は我々も大きく感じておったし、もし役に立てることがあれば、なんでもお手伝いするつもりでござった」
 何処まで本当なのだか、と紫は睨みつけた。天魔という男は表情をほとんど変えないから、非常に感情が読みにくい。顕徳の上司ともなれば相当だろうと覚悟していた通り、交渉相手としては相当に曲者らしい。
「御心遣いは非常に有難いわ。それに天狗の手を煩わせてしまって申し訳ない」
「この幻想郷を守るためならば当然の行動でございましょう」
 天魔は相変わらず金の瞳で紫を捉えたまま笑って見せる。
「さて、この際正式に表明しておきましょう」
 天魔はその笑顔を崩さずに姿勢を正す。紫もまた、姿勢を直した。
「我々は、正式に八雲どのに協力し幻想郷の安寧に尽力することといたしましょう」
「誠に感謝するわ。我々としても皆さまを歓迎いたしましょう」
 紫は軽く会釈をする。
「時に、一つお聞きしてもよろしい?」
「はい。なんでございましょう?」
「現在の天狗の情勢を教えていただけるかしら? 一体どの程度が向こうに従ったの?」
 紫の手には現在、天狗の状況が入ってこない。犬走という切り札を失ったうえ、一般公開されるはずの新聞もほとんどが犬走の話ばかりで、それ以外の動きが捉えられないのだ。
「そうですな」
 天魔は少し考える。少しの間。
「九割九分の天狗、と申しましょうか」
 そしてその間を打ち破る、少し誇ったような一言。
「は?」
 紫は、扇子を閉じる手を止めた。
「ほとんどの天狗が、すでに八雲傘下たることを表明しております。紫どのの命一つござれば、忽ち動かして見せましょう」
 本当に、この男が悉くすべての物を奪いつくした、ということを紫はそこに知らねばならなかった。この男がこうして他の天狗に対して優越権を持った以上、二度と離すことはありえない。そのような愚鈍でも淡泊でもない。もはや、彼を通さねば天狗を動かすことは能うまい。
「それは、本当にありがたいわ。そこまで我々に尽くしてくださるとは」
「申しましたでしょう。我々は八雲どのの考えに同感しておる、と」
「改めて、心から感謝いたします」
 紫は天魔へと頭を下げた。この幻想郷を築きあげて以来、一度も他の妖怪に頭を下げることなぞなかった。自らより強い妖怪がいなかったからである。だが、ここにおいて紫は自然に頭を下げていた。下げなければいけないとも、思った。この男は、確かに天狗の裁量権を完全に奪い取った。だが、そうである今、だからこそ天狗すべてを動かし得るこの男が、救世主となりえることは事実なのである。
「時に、八雲どの」
「何かしら?」
「顕徳より条件は既に聞いておりましょう?」
「ええ」
 条件の確認か、と紫は警戒を強める。協力を惜しまぬといいながらも、条件を持ち出してくるあたりが、食えない。
 控えていた白狼天狗が、文机を持ってくると、紫と天魔の間に置く。天板が黒茶に輝いている。脚の彫り物なども流石だ。
「随分とよいものね、これは」
「黒柿を用いております。この間、幸い黒柿に憑く妖精を見つけましてな、その穴倉から譲ってもらった板を用いまして」
「それは幸運だったわね」
 柿の木は、時折タンニン分が沈着して木材が黒く染まることがある。その木材を黒柿という。滅多に起こらぬため、最高級の木材として珍重される。もっとも、切ってみねばわからぬという人間と違い、ここでは黒柿を作る妖精を探せばよいのだが。
「おかげで」
 続いて、天狗たちが文房具を持って、二人の前に置いていく。硯は山水を彫りつけた端渓硯、筆は熊野の羊毛筆、紙は宿紙と呼ばれる薄黒い紙。知らねばわからぬが、孰れも相当な高級品である。どうやら天魔は数寄者らしい。
「それでは」
 と彼は筆を執ると、さらさらと書き連ねていく。
「これでよろしいでしょうか?」
 紙には丁寧な草書でいくつかの取り決めが箇条書きされている。先に合意した条々と変わらない。未だ乾かぬ故に、少し字が光っている。
「ええ。そうね」
 なら、と天魔は文書の末尾を指差した。天魔という名の隣に、空白がある。
「これに改めて、署名を入れたいと思いまして。当然もう一通書き、互いに持つのがよいかと」
 天魔の考えなぞ、紫にはお見通しである。先の条項については、所詮口約束にすぎない。正しく言えば、紫と顕徳との間での約束でしかないのだ。つまり、天魔との間に条約を結んだつもりはないといえば、うまくやり様があったのかもしれない。しかしこの天魔はそれすらも否定しにかかる。ここで署名すれば紫もこの条項に賛成したこととなる。紫がこの条項から逃れる手段を失う、ということだ。
「署名しなければ……?」
「ここはおとなしく引き下がりましょう」
 天魔は手にある扇子を、パチリと鳴らした。
「そして、そのまま風見の方へ参ります」
「いまさら? それでどうにかなるのかしら?」
「天狗は皆で集まって暮らす種族なれば、約定はなによりも大切に致します。それをすぐさま反故するとなれば、他の天狗も自然と離れてゆきましょう」
 天魔は軽く笑っている。このような冗談のやり取りの中で、彼は着実に紫の選択を狭める。このような姑息な手段が通用する相手ではない。
「そう。わかったわ」
 故に、紫はふっと会釈して筆を執る。
「署名するわ」

 紫はここに幻想郷の唯一の調停者、という地位を失ったと言えた。天魔との条約とは、天狗が妖怪の山を支配することを認めること、妖怪の山への介入を行わないこと。則ち、紫は幻想郷の中に自分の手を全く出せないところを作った、ということである。
 これは、紫の誇りを著しく害していた。幻想郷は本来、紫の縄張りを龍神の名前で拡張したに過ぎない。だから紫が幻想郷を護ってきたし、自分一人で守ってきたことに誇りを抱いていたのだ。しかし、既に紫にとって誇りは既に捨てたもの。だからこそこのような条約も認めた。
 それでも、紫の心のどこかが悲鳴を上げていた。自分の誇りを傷つけられた、と泣いていた。




「早速だけれども」
「なんでございましょう」
「まもなく、幽香は動くわ。おそらく人里の再攻略に乗り出すでしょう」
「天狗はそういう情報を聞いておりませぬ。如何なる根拠がお有りなのですか?」
「一に、幽香は天狗の方々の奇襲によって既に求心力を失っているわ。その求心力を取り戻すために何らかの攻勢にでると推測される。二に、その為に焼き払われた八雲邸を攻撃するとは考えにくい。ならば必ず人里に攻撃を掛けてくるわ」
「随分と断定的ですな」
 淡々と理由を上げて見せた紫に対して、天魔も至って冷静に返してくる。まだ紫の技量を見定めようとしているらしい。
「敵がいつ来るか、どこにくるか。他にいくつもの候補が存するとおもいますが」
「それこそ、天下一速いという天狗はとうに知っていると思うけれど、最近幽香は動く気配を示していないわ。確かにそういうものを欺いて動くのが幽香だけれど、求心力を失った彼女が何の挙動もなく妖怪を引き連れて動くことは難しいと思うわ」
「求心力がなくなった、とは誠でございましょうか?」
「どうやら幽香の配下は分裂しつつあるらしい、ってことがすでに分かっているわ」
「なるほど。なれば信用いたしましょう」
 これに関しては、或いは想定外であったのか、と紫は冷静に天魔を見つめている。
「あとは、言わなくてもわかると思うけれども」
「その迎撃に我らも参加すればよろしいのであろう?」
「そういうことよ。お願いできるかしら」
 紫の言葉に、天魔はふっと会釈を浮かべた。
「当然。我らもお従いいたそう」
「ありがたい。頼もしいわ」






「で、死者は?」
「大天狗の死者は、最初の二人のみだな。しかし、中小の長の中にはいくらかの犠牲が出ているともいう。また、長ではない者にも抗争の中で死者が出ている。無実の天狗が殺される例も多かったとか」
「ふむ」
 紫との交渉を終えた天魔は、自室でのんきに書を開いていた。
「すでに止まったか?」
「あらかたはな。時折仇討を目指す風見系残党が動いているようだが、すでにあらかた鎮圧されている。いかんせん、天狗のほとんどがすでに八雲方だ」
 天魔以上にのんきな姿で本を開いているのは、黄色い袈裟姿に髭面の帥宮。
「なるほど。で、帥宮。お前はどれほど?」
「俺は残党に一回襲われかけたのを倒したくらいだな。俺でも狙われるくらいだから、お前も気を付けた方が良いと思うぞ」
「ふむ。流石に暗殺はいやだな」
「どうせなら闘死、か?」
「いや、畳の上で平和に死にたい」
 直後、帥宮はふっと立ち上がる。片手には錫杖。天魔も、すっと姿勢を正す。遠くが少し、ざわめいていた。
「お前が天魔かっ!」
 という甲高い叫びとともに、空気の塊が部屋を襲う。それを帥宮が錫杖一本で払う。
 直後に、襖を破って警備の天狗が部屋に転がり込む。帥宮が咄嗟に天魔の正面に立つ。何奴っ! という警備の叫び声。どけ、という闖入者らしき女の声。やはりか、と天魔は独り軽く笑っている。
 ふっと人影が飛び込んできた。帥宮は錫杖を突出し、彼女の眼前に止めた。
「名を名乗れ」
 帥宮はよく見ている、と半ば天魔は驚きを隠せない。彼女は既に満身創痍。右の腕も両翼も機能していない。全身を朱に染め、立つのもやっとであるようだった。その上、あまり天魔自身に何かをしようというようでもない。帥宮はそれを見越して、止めを刺さなかったのだろう。もし少しでも害意を感じれば、帥宮は躊躇しないはず。
「射命丸、文」
 短く、名だけ。息も苦しそうだった。
「何用か?」
「天魔どのにお伺いしたいことがあります」
 天魔は改めて彼女を見返す。どこかで、見たことがあるかもしれない。姿こそ若いが、おそらく自分よりも長い生を過ごしてきた天狗だろう。そうでもなければ、手負いのまま警備を蹴散らすことなどとても無理なはずだからだ。
「何故、犬走どのを殺しました?」
「なに?」
 帥宮が、目を細める。天魔もほう、と思わずつぶやいた。
「何故、犬走どのを殺した。そして、犬走の娘を狙う?」
「何のことだ?」
 天魔は帥宮を少し脇に手で押しやり、文と相対した。
「貴方は燭さんと楓を罠にはめて殺し、その上で椛をも殺そうとしている? 違いますか?」
「お前は、そのように考えているのか?」
「ええ。貴方以外に誰が殺す?」
 もはや体に無事なところが無いように見える彼女だが、その瞳だけは炯々と光っている。只者ではなさそうだ、と天魔は断ずる。こういう、面白い天狗がまだいたのか、とも思った。
「我が立場は知っているだろう? 我々は犬走どのに従って八雲紫と行動を共にしている。その我々が、どうやって犬走どのを殺すのだ? その上、その娘まで狙う必要がどこにある?」
「あなたは……」
 彼女は黙り込んだ。
「そもそも、犬走の娘がどうかしたのか?」
「いま、ここにいるわ」
 そういうと、彼女は背の翼の内より、幼子を一人降ろした。なるほど、背の翼が使えないのは、彼女を守るためであったということか、と天魔は納得した。尤も、彼女を下したとてあの傷では使い物にならないだろうが。
「ふむ、これは」
 まだ立てるようになってすぐというところだろうか。林檎飴のように紅い瞳が、真摯に天魔を見つめている。その表情は、幼いなりにしっかりと状況をわかっている、そんな顔だ。どこにも怪我一つないあたりが、この射命丸という天狗の力量を示しているといえる。
「つまり、襲われたところを救って逃げてきた、と?」
「そういうことよ」
 天魔はもう一度考える。考えつつ帥宮の方を見ると、彼も錫杖を持ちつつ難しそうな表情をしていた。
「もし仮に、我々が襲ったとして、ならなぜここに逃げてきた? それも態々警備を突破して」
「いくら貴方でも、ここで犬走の娘を殺すわけには行かないでしょう。もしそうすれば、貴方は支持を失う」
「なるほどな。もし殺そうとしていても、俺もそう思うだろう」
 だがまだ、天魔は犬走の娘を殺そうとは思っていない。まだ。
「で、要求は匿うことか?」
「いやそれだけではないわ。この椛の安全を保障してほしい。永劫」
 ごほ、と文は咳をする。ぱっと血が舞ったのを、天魔は見逃さない。
「永劫、とは強く出るな」
「一天狗としてでいいから、彼女が無事に生きられるようにしてほしい、ということよ」
 そろそろ限界が見えて来たか、と天魔は冷静に判断する。むしろここまで交渉を続けていること自体が、奇跡のようなものだ。これほどの根性を見せる天狗がまだいたことに、天魔は称賛さえする。
「よし、了解しよう。我々に背かぬ限りそこな犬走椛と射命丸文と、安全を保障する」
 ゆえに天魔は言った。少々、感情が入ったことは否定しない。しかし、ここまでの物を見せられれば、そう言わざるを得なかった。それに、椛もこれまで散々恐ろしい目にあってきたうえ、ここでも恐ろしいだろう男二人に睨まれながら、泣きだすどころか嫌な顔一つしない。その態度も、天魔は気に入った。帥宮もまたゆっくり頷いている。
「有難き幸せで、」
 と言い終わらぬうちに体が傾ぐ。その姿に初めて椛は大きく感情を動かす。帥宮がさっと前に出て、彼女を支える。すでに気を失っている。
「射命丸どのを介抱いたせ! それから、椛どのにも部屋を!」
 天魔が叫ぶと天狗たち数人が現れ、文を担いで出ていく。その後ろにちょこちょこと椛がついていく。
 その姿を天魔は、座って眺めた。

「して、天魔?」
「なんだ」
「正直なところ、どうなのだ?」
 帥宮が立ったまま天魔を見下ろしている。
「というと?」
「顕徳が何か命じたという話は聞いていない。俺も何もしていない。あとは天魔、お前だ」
「ここで犬走を弾くのと取り込むのと、どちらが得策だと?」
「なるほどわかった」
 言うと、帥宮は外に出ようとする。
「どこへ行く?」
「ちょっと尊雲のところへ。教育が必要なようだ」



「さて、それぞれ成果を報告してもらえるかしら?」
 天魔の下より戻ってすぐ紫は、藍・幽々子・妖忌を人里にある寺の金堂に呼んだ。山の斜面に建っているとはいえ、人里の中では屈指の広さを誇り、また大きな堂宇を複数持つ寺は、数多くの妖怪を収容するのに丁度良い施設だった。
「それで幽々子はどうだったの?」
「顕徳どのの仲介を受けて、素兎と無事に接触できたわ。先の返忠は謝る、と言っていたわよ」
「それで、今度はどうするって?」
「汚名を返上する機会を頂けたら幸い、って。あれはおそらく顕徳どのがある程度話を付けていたわね」
 幽々子が少々ひきつった笑いを浮かべている。何とも言えない、複雑な気持ちなのだろう。
「それで条件は?」
「竹林さえ守れればそれでいいって。要するに、そういうことなのよ」
「やはりね。少し状況が転べば再びこちらに来ると思っていたわ」
 あの兎はそういう兎であることなぞ、とうにわかっている。なにせ竹林の為ならば博麗の巫女を殺すことすら躊躇わぬ兎である。何故かはよく知らぬが妙に竹林に固執しているようだった。
 幽々子がそれで報告を終えると、続いて妖忌が口を出す。
「幽香らは今日も全く動きを見せなかったようです。理由はよくわかりませんが、やはりかつてほどの求心性を失っているように見受けました」
「それは天狗の奇襲によって、ということかしら?」
「いえ、天狗の奇襲より前からのようです。どちらかといえば、八雲邸奪取以降のようですね」
「はぁ」
 紫は幽香勢の停止理由が少し見当たらなかった。もしそれが策だとするのならば、何を狙った策であるのかを一刻も早く考える必要があった。そのため、わざわざ妖忌に偵察を頼んで幽香の動きを探らせたのである。だが、必ずしも止まっているのは策ではなさそうである。求心性を失っている、ということは幽香が妖怪の信用を無くしているということ。それが何故なのかは全くわからないが、かつてほどの脅威を失ったと言えるかもしれない。
「それじゃ、貴方の見立てで幽香はいつごろ動きそう?」
「明日頃と推測されますが、あやつは外してきますが故、警戒を怠らぬようにすべきでしょう」
「そうね。そうするわ」
 妖忌は如何なる時も冷静沈着、故にこの観察も十分に信用に足るだろう、と紫は思う。剣術の達人である妖忌が敵の隙を見落とすとは考えにくいのである。そういう判断をしつつ、紫は幽々子へと向く。幽々子は上品に笑って紫を眺めていた。その表情から思考は読めないが。
「幽々子と妖忌には人里にいてもらうわ。幽香が来るならばおそらく人里。その攻撃をひとまず受け止めてもらいたいの」
「ええいいわ。紫なら私を見捨てないもの」
 紫の心は幽々子の言葉に跳ねた。紫が見捨てたあの時の幽々子が一瞬脳裏をよぎる。紫は扇子で口元を隠した幽々子から思わず目を反らしていた。
「私は天魔の所に行くわ。だから、連絡が取れなくなったら天魔が寝返ったと考えて」
 天魔が本当に紫に従うことにしたという保証はない。天魔という男はどうやら天狗をまず第一に考える男のようである。ならば紫が天狗にとって不要な人物と見做されてしまえば容赦なく紫の殺害を行うだろう。だが紫は天魔の所へ行く必要がある。もし天魔が紫に追従して天狗の中で力を得ようと考えるのであれば、紫の存在は十分に牽制となりうるからだ。
「わかったわ」
 幽々子が珍しく真面目な顔をして答える。残りの二人も神妙な顔をして頷いていた。





「これは八雲どの。こうもすぐに来られるとは思いませなんだ」
「私の家は完全に焼かれちゃったから、ちょうどよい場所がなくて」
 いくらかの妖怪を引き連れた紫に対し、天魔は部下二人と三人だけで迎えに来ている。これは命を預けているという安心感なのか、あるいは舐められているのか。
「なるほど。ここではご不満もおありでしょうが、どうぞおくつろぎくださいませ」
 あまり戦時とは言えない文言。しかし、この男がその裏で動いているだろうということは、紫にも予測できる。

 山を訪れたのは藍と紫、そして自分に従ってくれている妖怪のうちのごく一部。基本的には人里の防衛に力を注いでもらうこととし、外側からの襲撃は天狗に任せることにしている。機敏な天狗の方が、動きの多い戦には強いだろうと見越してのことだ。
「なるほど。作戦は理解致しました。非常に単純ですが、だからこそ最大限の効果を示すかと」
「下手に動かぬ方がよいかと、考えました。なにせこちらの方が、数は圧倒しておりますから」
 藍の説明に、天魔はただ頷いている。残りの二人も、黙って聞いているところをみれば、おおよそ賛成のようだ。
「おっしゃる通り我々の方が数を圧倒している。それに天狗は戦にも慣れておれば、あとは八雲どのの手を煩わすこともありますまい」
 天魔の誇らしげの言葉が、少し紫には不安だった。

 翌未明であった。虫の妖怪が、人里に敵襲ありとの情報を持ちこんだ。すぐさま山が動いた。総勢はおそらく幽香らの五倍にも達するだろう。天狗たちが続々と集まるその様は、壮観という以外の感想を持ちえなかった。そしてそれは、紫を少し不安に陥れるものでもある。天狗が寝返れば、その時点でこちらは壊滅する他ないのであるから。

「報告。風見はすでに川を越えて霧雨集落を占領。現在風見は次の小路集落の攻撃に取りかかっております」
「帥宮はどこにおる?」
「帥宮さまは既に敵と接触したようでございます」
 紫と天魔は出陣するに際して部隊を二つに分けていた。分隊には戦闘経験が豊かである帥宮と参謀として優れる藍を指揮として、玄武沢から人里方面へ下山してへ敵正面側方を突くこととし、本隊は湖方面に下山し人里を迂回し、川の下流方面から幽香らの背後を突く。
「それじゃ、二つに部隊を分けるわ。私と天魔どのはこのまま道沿いに進み、幽香の背後を突く」
「顕徳、そちはここから山麓をたどって集落の横より風見の右側面を突け」
 天魔はおおよそ紫の策に従って動いてくれる。それが紫を信用した証拠なのか、それともただ天魔と紫の考えていた策が全く同じだったのか、それがどちらかはわからない。
「よし、行くぞ。我ら天狗の強みは機動。止まれば輒ち死と心得よ!」
 天魔の掛け声に天狗は一斉に応えた。天魔が先頭切って動き始めると天狗たちも一気に動き始める。その動きは天狗らしく極めて速いもので紫は追いつくのが精いっぱいであった。
 そうしてそのまま一里を駆け抜け、天狗の集団は人里二つ目の柵に取り付いていた幽香らの後方を穿った。

「我ら天狗の力を見せつけるのはまさにこの時! 八雲に後れを取るな!」
 向うの方からは天魔の声が響いてくる。どちらかと言えば文官のように見える彼なのだがなかなかどうして、戦いに長けている様子だ。
「皆の者! 紫さまと天狗が参ったぞ。今こそ反撃の時、敵を圧し潰せ!」
 妖忌の野太く通る声も響いてくる。紫も何かを指示した方が良いのかとも思ったが、敵味方入り乱れるこの喧騒では声も通らぬだろう、とやめた。
 それを片隅で考えながら、既に紫は三人を屠っている。すぐ向こうで白狼天狗に殴りかかろうとしていた妖怪がまた鉄骨に半身をもぎ取られた。すぐ横で紫目がけて鉄拳を打ち出そうとした妖怪は紫直々振るった傘に打ち砕かれ、向うから弾を打ち出そうとした妖怪はどこか奈落の底へと飲み込まれていった。
 混沌としながらも敵はなかなか崩れる気配を見せなかった。三方からの挟撃でありまた紫側の総攻撃であるのだが、向こうも全てを引き連れた総力でもって相対している。あちらでは鎌が宙を舞って紅を撒き、こちらでは吹雪が吹き荒れる。そちらでは燐光する蝶が舞い、むこうでは二本の刀が輝いている。幻想郷きっての妖怪たち全てがここに集ってそれぞれ敵味方に分かれて戦っているといえるこの状況は、まさに壮絶そのものと言える。敵も味方も中々崩れないのも当然と言えるかも知れなかった。
「紫見っけ!」
 唐突に紫を闇弾が貫かんとした。咄嗟に躱しながら紫は向き直り白い鉄棒を投げつける。だがそれは闇に覆われ、動きを止めて下へと落ちて行った。
「なかなかやるわ。でもここで死んでもらわなきゃ困るの」
 彼女は金髪を翻して紫に肉薄すると右に持った大剣を横に振るう。紫がスキマを開いて逃げた直後に凄まじい妖力が辺りを薙ぎ払った。
「私も死ぬわけにはいかないのよ」
 紫は彼女の後に出ると弾幕を展開した。逃げ場のないと言う他の無い密度の弾幕を張り、さらに結界で彼女を封じる。
 ――弾幕結界。紫十八番の業である。
「流石は幻想郷の主。随分とやりがいがあるわ」
 ひょっとしなくても最も面倒くさい妖怪と相対してしまったらしい、と紫は独りごちた。なにせ相手は闇の使い手である。もしかしなくてもおよそ外に居ることもできようはずなのに幻想郷におり、しかも従者を一人も連れずに放浪する妖怪であったはず。話を聞いた当初は随分と変わった妖怪だ、と思った記憶がある。
「んー。えい!」
 紫も先から懸命に結界へ妖力を入れていたが、結界内の妖力の膨れ方はそれではとても間に合わなかった。可愛げな掛け声と共に結界は砕け散り、紫は激しい妖力の衝撃を受ける。
「とう」
 結界を破壊されて一瞬膠着した紫目がけて、彼女は大剣を突きだした。とう、とかいう可愛い掛け声とは裏腹にその深紅の瞳は驚くほどに冷え渡り、獲物を狩らんという意思に満ちていた。
 紫はそれを鉄骨の束で受け止める。だが低い背、細い腕という容姿と掛け離れた膂力で彼女は、その束をまるで豆腐のように切り裂いてさらに紫の身を穿たんとした。それを幾重にも結界を張ることで何とか防ぎ止める。その勢いとばかりに紫は再び凄まじき弾幕を展開した。辺り一面が弾幕によって染められるほどの膨大な弾に襲われて、さしもの彼女も動きを止めた。しかし紫も攻撃の手を緩めない。彼女の動きを止めたとは言っても、彼女はかの大剣でもって弾を薙ぎ払って束縛を打ち破らんとしている。それを防ぐために紫は結界を張ろうと扇子を彼女へ向けた。

 刹那である。何か、この幻想郷全てが鳴動した。そんな気がする。
「紫、何かやったでしょ?」
「ちょっとね。大したことではないわ」
 天狗よりも素晴らしき味方を用意した。ただ、それだけである。言いながら、彼女を幾重もの結界につつみこむ。包む端から、切り裂かれる。

 びしりと、一筋の稲妻がその空に走る。空は俄に掻き曇り、大粒の雨が妖怪の血を流すように降り始めた。
「来たわね」
 紫は攻撃の手を止めて空を見上げた。彼女もその隙に弾幕を斬り裂いて紫の攻撃を避け、上を見上げる。
 その視線に在るのは真っ黒な雨雲。そしてその隙間に映るは鱗に覆われた長き体。幻想郷を司る神とされて信仰を集める、龍神である。この幻想郷を築きあげたと伝えられ、その絶大なる力で幻想郷を護っていると伝えられる龍神が、雲間を悠々と泳いでいるのだ。
 全ての妖怪がそちらへと気を取られた瞬間、暗雲垂れ込める空に一条の亀裂が走る。それは高い人里の建物を躱して人里へと侵入を試みる幽香に属く一人の妖怪を撃ち、轟音とともに彼を打ち砕いた。
 ざわり、と今度は妖怪らが蠢く。

「龍神があんたの味方をした、ってことか」
 その様子は幽香に従う妖怪たちへ大きな動揺を誘う。幻想郷の絶対的な支配者が紫を正当を認めたということが、如実に示されたからである。
「そうとってもらって、構わないわ」
「あらそう、面倒なのは嫌。それじゃあね」
 金髪の彼女は左手を一旋すると辺りを闇で覆い尽くし、そのまま消えていった。だが紫は彼女を追わぬ。彼女独りを討つにこだわる必要はない。むしろ、相手が動揺している隙をついて一人でも多く相手を狩ることが先決であろう、と判断したからである。


 ずしり、という二発目の稲妻が、一匹の妖怪を打ち砕く。藍のまさに正面であった。
「流石は八雲よ」
 そう言った帥宮の錫杖は、敵妖怪の喉元を打ち抜いている。
「これは、果たして我らの力が必要であったのだろうかな?」
「何を申されますか。天狗のご協力あってこそ、我らはこうして戦い得ているのですよ」
 そういいながら、藍はその苦無を真後ろの敵に当てて見せる。
「しかし、龍神を呼べば確実に勝てる。違うか?」
「どの程度の効果がありますか?」
「所詮は両方寄せ集めだ。仮にも、幻想郷の主として崇敬される筈の龍神がこうして実際に現れれば、一気に情勢が変わると考えて不思議ではあるまい」
「然様でしょうか?」
 一見のんきにさえ見える会話の間に、二人はそれぞれ二人ずつを落としている。その辺りの妖怪に遅れを取らぬという自負のある藍はともかくとしても、一見それほど力のあるように見えぬ帥宮が縦横無尽の活躍をしているのが、藍には少し意外であった。
「さて、そろそろ崩れるぞ」
 一時の隙に、彼がざっと戦場を見渡す。黄色い袈裟に、橙の斑が飛んでいる。少々彫の深い彼の顔に、朝日が濃く陰影を飾っている。立派に揃う口髭と顎鬚も相まって、彼の横顔は一際凛々しく見えた。ああこれが龍顔というのだろう、と藍は思わず見とれた。なんとなしに、二千年以上昔のことを、思い返さずにいられなかったのだ。全く、似てなぞいないのに。



 龍神の出現は、帥宮の言うとおり極めて大きな効果を戦況に齎した。挟撃されながらも健闘し、或いは人里を守っていた紫側を圧し潰さんとしていた幽香勢は、見立て通り忽ち崩壊を始めた。龍神を敵に回してしまったことは幽香の元にいた妖怪たちの士気を一挙に沮喪する結果となったのである。士気が落ちれば、本来的に優位な立場にあった紫側は圧倒的な優勢を確立することができる。幽香側の妖怪は次々と逃げ出し始め、既に人里一帯は紫側の妖怪による幽香側の妖怪の虐殺へと変化していた。
 そしてそのことは、人間たちの戦況も左右する。妖怪たちの空中戦の陰で、人里の結界反対派による人里再奪還が計画されていたが、それもついには敗れ去ったのである。
 かくて、人里は守り通された。
 この騒乱始まって以来の紫側の大勝利であった。ほんの僅かに龍神が姿を現したのみで、日の暮れるころまでには幽香側のあらかたの人妖は逃げるか討たれるかし、人里の辺りでは紫に従う人妖たちが勝利の雄叫びをあげていた。



「漸く勝ったわねぇ。ここまでが長かった」
 人里の寺で紫は感慨深く外を眺めていた。西の空が夕焼けで赤く輝いている。
「まだ油断はできないと思うわよ。窮鼠猫を噛むともいうし、幽香なら窮鼠よりもずっと強いもの」
「確かにそうねぇ」
 紫は軽く笑って見せる。笑う余裕がやっと出てきたのだ。
「して、この後はどのように?」
 天魔が、茶碗を片手に問う。温和な雰囲気は、あの交渉の時の威圧感からは想像だにできない。
「夢幻館に行くわ。この際、博麗神社を孤立させるのが一番ね」
「なるほど。そうして風見を降伏に持ち込むのですな」
「その通りよ」
「で、誰に?」
「今回は、天魔どのらにはここをお守りしていただこうと思います。私と藍で行ってきましょう」
 紫はそう言って、天魔の瞳を覗き込む。金の瞳は、柔らかい。
「了解した。では、帥宮と我が直属のみをお付けしましょう」
 言って、天魔は視線で帥宮の方を見る。帥宮は、藍と何か書を開いて話し込んでいる。
「ええ、それでは、早速行くわ」
「準備は既にできております」
 妖忌がすぐ答える。既に準備を終わらせているとは随分と仕事のできる従者だ。
「よし、今度こそ決着をつけてやるわ」
 強い口調で紫は言い放った。天魔もまた、頷く。




「どりゃぁ!」
 白い羽を生やした金眼金髪の悪魔が、とてもその小さい体から出たとは思えないような声を発し、同時に辺りの妖怪を4体ほどまとめて葬った。
「えい!」
 メイド服の悪魔も、かわいらしい声とは似ても似つかぬ一撃を放ち、数体の妖怪をまとめて吹き飛ばした。

 幽香たちはどうやら、自らの態勢を立て直すことで精いっぱいだったようである。紫たちが夢幻館に押し寄せた時にはまだ悪魔の双子が居るのみであった。おそらく、博麗神社の方に集結しているのだろう、と紫は推測した。
「とはいえ、そう見下すわけにもいかないかしら」
「あまり長期、人里を不在にするのはよろしくないでしょうし」
「いつ寝返るかわかりませぬからなぁ」
 藍の言葉に、帥宮が笑って返す。
「そのような意味ではないわよ」
 紫も笑って返す。それしかない。
「然様でしたか。ついそのような考えに至るとは、天狗の宿命ですなぁ」
 ははは、という帥宮の笑い声。どこまでが本気なのか、わからない。
「ともあれ、あれをどうにかせねばなりませんね」
 藍が、少し渋い顔をして二匹の活躍ぶりを見つめている。
「事ここに至っては力押しするしかなかろうかと。いくら力あるとて、この数は裁ききれぬでしょう」
 実際、夢幻館を占領するのはそう難しいことではないというのは誰の目にも明らかであった。であるから、誰かに任せてしまうということも充分に考えられた。だが紫がこうして出張ってきているにはわけがある。
 夢幻館に籠っているのがあの悪魔二匹であるということは、紫からすればわかっていた情報である。あれだけの戦闘の直後であるからあの二匹もまた満身創痍であるのは見れば明らか。とはいえ、やはり相当に強力であるに違いない。となればやはり紫か幽々子、天魔といった力のある者が来る必要がある。
 そして、紫としてみればここで自分が夢幻館を落としたと喧伝する必要があった。ただでさえ前半戦では度々失策を犯してしまった紫としてみれば、少しでも名誉を挽回せねばならない。だからこの夢幻館を落とす必要がある。
 しかし幽香とてまだ完全に力を失ったわけではない。だから人里を無防備にするわけにはゆかぬ。となれば、天魔を置くしかない。未だに天魔の心の内を掴みきっていない紫からすれば、それはあまり喜ばしいことではなかったが、だからといって天魔をも人里から引き抜くことはできない。それにこれ以上天魔に力を持たれるのは不味いから、やはり天魔は人里に縛り付けておかねばならなかった。
「もっとも、幽々子さまと妖忌どのなら、問題なかろうと思いますが?」
「そうだとは思います」
 藍は二匹の方を見遣った。普段ならば、妖怪の百匹や二百匹を殺すなど容易いことなのだろう。だが、今二匹は多くの妖怪の攻撃を払うので精いっぱいのようである。消耗が激しかったのだろう。
「天魔が侮れぬのは事実だがな」
 紫は黙って、彼と目を合わせぬように聞く。帥宮は果たして冗談を言っているのか、それとも。
「確かに、帝王の顔のようにはお見受けしましたが」
「長年の経験かしら?」
「ええ」
 帝王を見続けてきた藍が言うのであれば、まず間違いないのだろう。紫もまた、決して天魔という男には気を許していない。
「なるほど、帝王の顔とはいいな。確かにそうには違いあるまい」
 その言葉が、帥宮には笑えたようだ。紫は冷静に藍だけを見つめている。
「ともあれ、そろそろ終わりです」
「何もないまま、終われそうね」
「ですな」
 既に二匹は縄でぐるぐる巻きにされかかっていて、妖怪たちが勝ちの歓声を上げている。その様子を見ながら、紫と藍は二人して安堵の息を吐いた。もはや敵は敵ではない。むしろ味方こそが、最も警戒すべき相手なのだ。
 隣の帥宮が、二匹に対して冷酷な視線を示していた。




「随分とお早いお帰りですな」
 人里へすぐさま取って返した紫たちの前に居たのは、暢気に歌会を行っている幽々子と妖忌、天魔、そして顕徳であった。
「ええ、相手は所詮夢幻姉妹だけだもの。どうということはないわ」
「そうは思っておりましたよ」
 くく、と笑って天魔が最初に立ちあがった。
「だから暢気に歌会なんてしている暇は無いと言ったでしょう?」
「西行寺どのの言う通り。確かに、歌会している暇などありませんでしたな」
 幽々子もまた、にこやかな表情で奉紙を紫へと渡す。その奉紙にはつらつらと歌が記されているが、まだ4つほどしかない。柔らかな字の様子を見分するに、幽々子が4首目を詠み終えたところのようだ。
 尤も、歌の優劣は紫にはわからない。
「しかし、流石は西行の名を冠するだけはある。西行寺どのの歌の腕前はなかなかのものですね」
「顕徳どのに比べれば、大したことはありませんよ」
「いえ、この質実たりながら情感を表現するこの歌は、やはり西行の歌風をよく継いでおられます」
 にこにこしながら幽々子に顕徳が話しかけている。幽々子もまた歌の話は好きなようで、二人ですっかり歌の話に捉われて行ってしまっている。その様子に天魔は少し呆れた表情で紫に話しかけた。
「顕徳は歌が趣味なのでしてな。西行寺どのの歌の腕前に惚れ込んでしまったようで」
「まあ、幽々子も歌を趣味にしているから、悪くは思ってないんでしょうね」
 すっかり話し込んでしまった二人を、紫と天魔は少々苦笑して見遣った。
「そうであると、顕徳も救われましょうて」
 天魔がその苦笑もそこそこ、顕徳の肩を叩いた。顕徳からしてみればいつまでも歌談議に花を咲かせていたいのかもしれないが、今の状況は暢気に歌会を続けている状況ではないのだ。
「幽々子もいいかしら?」
 紫も幽々子へと呼びかける。幽々子は少し申し訳なさそうな顔をし、顕徳と顔を見合わせてから話を切り上げた。
 すぐ後ろでは妖忌がその様子を微笑ましそうに見つめていた。





 最早、紫たちにとって最後の一戦は消化試合と言ってよいものである。あわよくば紫を打倒したいという動機から幽香に従った妖怪はもちろんのこと、結界のことを快く思わないという程度で幽香の元に参じていた妖怪すらも幽香の元からは離れていた。龍神が紫側としての立場を鮮明にしたことが大きな影響として立ち現れていた。
 幽香の元に今でも残っているのは「結界が張られてはならない」と考えている者だけだ。紫とは決して相容れない妖怪だけが、博麗神社の幽香の元には残っているのである。

 一方、紫には既に幻想郷に住むほとんどの妖怪が従っている。天狗や龍神すらも紫に味方している今、幻想郷で紫に歯向かうことは即ち死を意味するに等しい。八雲邸が陥落した時とは、全くわけが異なるのである。

 紫は幻想郷中の妖怪を後ろに、既に博麗神社へと迫っていた。
 誰もが、すでにこの騒乱の終わりを見据えていた。



「それでもまだ頭を下げないなんて、幽香も随分と強情よね」
 紫は遠くに見える博麗神社を見つめる。博麗神社は結界敷設の要となる所であるから、最終決戦の場としては丁度良いのかもしれない、と紫は思う。しかし、残念ながら最終決戦というほどの展開にはならないようにも思った。
 なにせ紫側が圧倒的な数を擁しているのだ。もはや博麗神社の中に居る妖怪の数倍というどころではないだろう。十倍近く、あるいはそれ以上かもしれない。人里や妖怪の山から飛び立った妖怪たちで、幻想郷の空は黒く染まっている。
「全く、手こずらせる」
「もし敵に回した時にどうなるかは、事前からわかっていたことではありますけどね」
 隣から藍が口を出す。藍も少々博麗神社を睨んでいる。
「反省したいことは山ほどあるけれど、それは今すべきことではないわ。とにかく、幽香をどうにかすることね」
「しかし紫」
 すぐ後ろから幽々子も寄ってくる。妖忌も一緒だ。紫と藍がいつも一緒に居るように、妖忌と幽々子はいつも一緒に居るようである。
「あら、幽々子じゃない。もう博麗神社はすぐよ?」
「あなた、もし幽香を捕まえたらどうするつもり?」
「へ?」
 紫は一瞬固まる。そうして妖怪の集団に置いて行かれかけて、慌てて幽々子や藍へと追いついた。
「そこまで動揺しなくても良いじゃない。そこまで難しいことを言ってはいないわよ」
 瞳を細めて、幽々子は紫の顔を見る。
「ただ、この先のことを紫はどのように考えているのか、私としては知りたいのよ」
 確かに、と藍も頷いて紫の方を窺う。ここまで反し続けてきた幽香を幻想郷に迎え入れるのか否か。彼女たちにとってもはやこの事件の興味はそこにあった。
 しかし当人の紫は、何だか視線を曖昧にしたまま何も語らなかった。いや、語れなかった。

 幽香に対して何となく策が甘くなってしまって一敗地に塗れたのも、元はと言えば唯一の「心腹の友」たる幽香を殺したくなかったからである。目の前に居る幽々子は「刎頸の友」ではあっても、余りに価値観が違いすぎて、決して腹を割って対等に話せる「心腹の友」とはなりえない。それに、幽々子には大きな負い目を持っているから、紫の中にどこか気が引けた部分がある。それは紫も理解しているし、理解した所で如何ともできない部分ではないかと思っている。そのことは今回幽々子と話し合った時にもわかったことだ。
 一方で、幽香と話す時には紫は如何なる気遣いもしない。紫も幽香も非常に大きな力を持った妖怪であり、他に伯仲する者がいないという点で共通している。同じ立場にあるようなものなのだから、自然と価値観も近くなるし、何の気後れなく彼女とは話すことができる。いうなれば、間合いがわかっているとでもいうだろうか。
 紫にとってそういう友は幽香しかいない。だから、失いたくない。

「やはり考えていなかったのね」
 紫が固まった様子を見て、幽々子は軽く溜息をついた。
「その様子だと、紫は幽香に手に掛けたくないと思っているみたいだけれど、少し甘くはないかしら?」
「まだ、幽香を手に掛けないとは言っていないわよ」
「なら、紫は幽香を殺せるの?」
「……」
 紫は答えられなかった。甘さがこれまで負けを作ってきたことも、今度こそ負けなぞ許されないのだと、紫はわかっている。わかっていてもやはり、紫は幽香を殺せない。これ以上心を削り取られるのが、紫には耐えられなかった。
「もう終わりは目の前に来ているのよ。あの博麗神社を取り返せば、この騒乱は終わりを迎えるわ。なのにそれを牽引してきた紫の態度が決まっていないのは、少し問題でしょう」
 いつも通りの飄々とした仕草ではあるが、幽々子は珍しく紫を見据えたまま視線を動かさない。彼女が真剣な証拠である。
「ええ、そうね」
「では、どうするのかしら?」
 それでも紫は言葉を紡ぐことができない。この期に及んでも決断を下せない自分を酷く嫌悪しながらも、しかしやっぱり幽香を殺せとはとても言えなかった。
「まあいいわ」
 幽々子は紫から初めて目線を話した。紫はそっと胸をなでおろす。幽々子の真剣な目線は、少し異様な雰囲気がある。死を纏っているからだろうか、と紫は思っている。視線もまた死を纏うのではないか、と。
「紫がどう思っているかはわからないけれど、私は風見幽香を殺すつもりよ」
 幽々子が微笑しているからこそ、却ってそれは凄みを帯びていた。「死を操る程度の能力」なんてものを持っている幽霊が「殺す」と言うことほど恐ろしいこともないだろう。
「あ……」
 紫がそれに何かを答える前に、幽々子は妖忌を引き連れて去って行った。幽々子には博麗神社攻撃の別働隊を任せているために、紫から離れるのは当然と言えば当然である。
 しかし紫にとって言い訳の機会すら失われてしまった事は少々痛手であった。これで紫は、否が応にも幽香と相対せねばならなくなった。幽々子のみならず妖忌や天魔もまた、幽香を殺そうとするだろうから。
 ここまで来ても猶、紫は幽香を救おうとしていた。


 それから間もなく、紫を中心とした妖怪集団は幾つかにわかれた。一つは幽々子を中核として博麗神社の裏側へ、もう一つは天魔を中心として博麗神社の上空へ。三方からの同時包囲攻撃で殲滅するという原始的な、そして絶対的な策である。






「ここに来て、八雲どのも少々詰めが甘い、と思いはせぬか?」
 博麗神社の上空を目指しながら、帥宮が呟く。
「なぜ天狗に一隊を任せてしまったか、という話か?」
 顕徳がそれに応じた。
「然様。天狗を信用せぬ方が良い、と忠告しておいたのだがなぁ」
「お前、天狗に天狗は嘘吐きだ、と言われたらどう返せばよい?」
 天魔が帥宮の言葉に苦笑する。
「無論、嘘吐きが常に嘘をついているとは限らぬ。その天狗がもし嘘をついていると仮定した時に矛盾する以上、嘘をついていないという仮定が正しい。それだけではないか」
 帥宮の答えには、顕徳も苦笑いを隠せないようだ。
「まあ、それはいい。それで、態々そのようなことを言ってお前は何をしたい?」
 天魔はその笑いを振り払い、帥宮の表情を眺める。帥宮も、至極真面目な顔で顎鬚を撫でている。
「どうせしばらくは八雲どのがこの幻想郷を動かすことになる。ならば、惑わされずに動かしてもらいだろう?」
「ほう」
 天魔は少しと口角を上げる。
「天狗の分際で、安寧を望むか?」
「偶にはよかろう。そも、お前が一番夢見であることは、俺も顕徳も承知だぞ」
 天魔がふと顕徳を向くと、顕徳が口を押えている。
「要するに、三人とも同類ということだ」






 多くの味方の向うに小さな点を最初に見つけたのは一体誰であったか。それは妖怪たちが博麗神社へと近づくにつれて、次第に大きくなる。やがて誰かがそれを妖怪だと見抜いて、声を上げた。
「風見幽香だ!」
 風見幽香という名前は、紫側が圧倒的な戦況となっても力を失わない。相手の妖怪がいくら少ないとは言っても風見幽香の力は全く衰えていないし、やはり並の妖怪が束になっても敵わぬ相手であると、皆信じ込んでいる。今となっては従う妖怪も減ったとはいえ、紫に苦杯を嘗めさせたという記憶は妖怪たちの中にも鮮烈に刻まれている。
 だから、その声に妖怪たちは動きを鈍らせた。一目散に博麗神社へと向かっていた一団はその速度を落とした。
「うろたえるな! 敵は小勢だ、もう勝利はすぐそこにある!」
 その動きを見てすぐさま藍が叫んだ。
「行くぞ!」
 藍が戦闘に抜きんでる。その姿に、慌てて辺りの妖怪も速度を上げた。

 そしてそのまま、敵の一団と交錯する。


 紫の前には厚い妖怪の壁がある。その妖怪の壁が蠢いて、風見幽香らを落とそうと懸命になっていた。
 どうやら目の前の状況と声を鑑みるに、風見幽香は残った全ての妖怪を引き連れてこの陣へと突入してきたらしかった。
 残った妖怪というのもまた、随分と厄介な物であった。旗袍を着た支那の妖怪に冬の妖怪、闇を司る妖怪といった実力者だけが、幽香の元には残ったようだ。彼女たちが何を思って風見幽香の本に居るのかは知らないが、打倒すのはなかなか厄介であるということだけが確実である。
 現に、厚い妖怪の壁は徐々に攪乱されている。あるものは気功によって遥か吹き飛ばされ、或る者は凍りついて落下し、また闇に飲まれて消え去るものすら居る。やはり敵は強い。全体的に見れば、押されているといわざるを得ないだろう。
 しかし、紫はそれほどこの状況を危険には思っていない。こちらの方が数の点で遥かに圧倒していることは明らかである。今でこそ動きのいい敵であるが、先に疲れを見せてくるだろう。そうなれば後は押し包まれるしかない。それに押されているのは、先に再び寝返ったばかりの素兎どもが大半。もともと期待してもいない連中だ。
 しかもこちらには、まだ無傷の妖怪たちがいる。博麗神社の裏や上空に回った妖怪たちが此処に戻ってくれば、その時点で幽香たちは逃げ場を全く失い、圧殺されるしかなくなるからだ。そうしてその中で紫は幽香を確保すればいい。
 紫は勝利を疑っていなかった。最早後は、如何にして幽香を"助けるか"を考えるだけだと、そう思っていた。




「先遣の物見より報告だ。いくらかの妖怪が博麗神社より抜けた、と」
「やはりか」
 帥宮の言葉に、天魔は改めて博麗神社を見やる。残念ながら、千里眼はないので詳しくはわかりそうにない。
「いや続きがある。ほぼ同刻、もう一団、ごく少数が魔法の森方面へと逃走した」
「ふむ。して、大きいほうの状況は?」
「着実に穿ちつつあるということだ」
「勝てそうか?」
「おそらく」
 どちらが、とは言わない。そして帥宮もどちらが、とは返さない。
「おおよその予測通りか?」
「いや」
 聞いていた顕徳が、反対側から口をだす。
「帥宮、風見は?」
「それが問題だ。風見がいるかどうか、それは確認できなかった」
 その答えに、天魔は少し考え込んだ。
「微妙な情勢ですな」
「微妙だ。さて、どうしたものか」
 しばらく天魔は思考する。天狗の間に沈黙が広がる。皆が天魔の様子を窺っている。或いはこれからのことを不安に思い、或いは天魔の器量を見ようとする。
「動きは?」
 再び帥宮に問う。帥宮もそっけなく答える。
「頗る良好」
「わかった」
 天魔は軽く頷き、一人の白狼天狗を呼ぶ。
「さてそち、今から西行寺どののところへ行ってくれるか?」
「はい。して、なんと?」
「博麗神社裏より魔法の森方面、低空を妖怪が逃亡した故、追ってほしいと」
「は?」
 不思議な顔をした天狗へ、天魔は少しすごむ。
「二度は言わぬ。その通り伝えろ。余計なことは言わずに帰ってこい」
「は、了解しました」
 首をかしげたまま飛んでいく天狗を見やって、振り返る。
「さて顕徳」
「追えばいいのだろう?」
「そうだ。一部を割り与えるゆえ、頼んだ」
 顕徳は黙って笑うと太刀を担ぎ、天魔から離れていく。
「続いて帥宮」
「すでに博麗神社への突入態勢ならできておるが?」
 涼しげに帥宮が言ってのけた。しかしそのうちにある感情が誰よりも熱いことを、天魔はとうに知っている。
「流石は帥宮だのぅ」
「天魔の考えることなぞだいたいお見通しだ」
 思わず帥宮を殴ってやりたくなる。すまし顔が少し腹に立つ。
「しかし、行く先は博麗神社でよいのだな?」
「ああ」
 帥宮がわざとっぽく天魔へ問うた。帥宮はすべてを見透かしているようであるから、おそらく試されたのだろうと天魔は思う。
「もしと突出した中に風見が居らねば、我らは隙を突く形で風見打倒という大功を上げることができる。そして風見が居れば……」
「八雲どのが戦っているから充分」
 帥宮は敢えて棒読みし、ニヤリと笑った。天魔もそれに不気味な笑いを返す。天狗にとってはどちらに転んでも構わない。むしろ、幽香が居た方が事はうまく運ぶ。
「しかし、お前らのおかげでまたも俺のやることがなくなるではないか」
「もういっそ隠居したらどうだ?」
「言うわ」
 さらりと毒を吐いて見せる帥宮を軽く叩いてから、天魔は口を開いた。
「では行くぞ」
「目標は、博麗神社」
 帥宮が錫杖を一度、鳴らす。
「然様。博麗神社に一番乗りするぞ」
 天魔は帥宮に答えて見せてから、金の翼を背に広げる。
「敵は博麗神社に在り!」
 天魔の号に、天狗全体が鳴動した。もはや全ての天狗が天魔の傘下にある、ということを天魔は実感する。同時に、この状態を平時に於いても確立できるだけの力が必要であるとも。
「さあ、我に遅れを取るな! 敵はもう目の前ぞ!」
 帥宮が掛け声と共に先頭へと打って出る。同時に天魔が翼を一撃ちするや、天狗たちは一斉に動き始めた。目指すは、博麗神社の社殿。






「あんたらみたいな雑魚にそうそう落とされはしないよ!」
 気合の一言とともに、空気共々妖怪がまとめて凍りつく。運よく凍らずに済んだ妖怪が身を僅かに引いた刹那、凍った妖怪はそのまま砕け散った。
「ほら、相手はこっちだ!」
 冬の妖怪が片っ端から妖怪を落としてゆく。その様子は木々を枯らし幻想郷を喪の白に染め上げる、峻烈たる冬将軍そのものであった。
「ほら、歯応えがないよ」
 冬の妖怪と反対側を眺めてみれば、大剣を握る宵闇の少女が幼い声を上げている。
「えい!」
 しかしその手には体に不相応な大剣が握られている。しかしこれまた誰も想定し得ぬほどの速さで振るわれていて、妖怪たちは遠巻きにすることしかできない。彼女を討たんとして近づいたものは、悉く二つ乃至三つの物体と化している。
「たぁ」
 本来ならば、取り囲む妖怪たちだって並の妖怪であるのだから、相手がいくら強力な妖怪とはいえ束になって掛かればそれほど苦労しないはずだ。だが、ここにおいて紫に従う妖怪たちはただ敵に振り回されていた。それは、勝ち戦であるからこそだろう。もう紫の勝ち、すなわち自らの地位の保証はなされたのだから、今更自らの身を削ってまで戦い、命を危険にさらす必要なぞどこにもないのだ。
「とう」
 故に、幽香側の妖怪たちは容易に紫へと接近していくことが可能だった。紫側の妖怪たちは遠巻きに見ているばかりで、ちっとも攻撃を掛けてこない。
「やぁ」
 そしてうっかり近づいてしまったものだけが、各個撃破されていく。






「魔法の森方面……ねぇ」
「如何致しますか? 天狗の話を信用するならば、我らも至急そちらへ向かわねばならないでしょう」
 帰っていく白狼天狗の背を見ながら、幽々子は首を捻った。天狗によれば怪しい影が去って行ったという。それが風見幽香かどうかはわからない、とか。
「ただの逃亡妖怪な気もするのよね」
「では、予定通り博麗神社社殿を目指しますか?」
「そうやって聞いてばかりいるけれど、妖忌はどう思うのよ」
 集団戦闘なんて幽々子には経験がないから、こういう時にどうすべきかはいまいちわからない。最も、聞いた相手の妖忌だってそんなものをしたことはないのだろうけれど。
「さあ」
 案の定、妖忌は考え込んだ。妖忌も妖忌なりに考えているのだろうが、おそらく考えがまとまることはあるまい。
 そもそも博麗神社が影になってしまっていて、紫らの方が見通せないのが原因と言えば原因である。紫らの動きがわからぬから、余計に決断がしにくい。おまけに、出した斥候も一人残らず帰ってきていない。
「まあ、いいわ」
 だから妖忌の考えを中断させて、幽々子は言った。
「その影を追いましょう。もしそれが幽香ならば幸い、もし違っても紫や天狗がいれば幽香くらいは対処できるでしょうから」
「了解しました」
 妖忌は幽々子に一礼してから、大音声を上げた。
「風見幽香は魔法の森に居るぞ! さあ、進め!」







 耳を切り裂くような高音が響き、続いて藍の腕が痺れる。予想以上に打撃が大きい。投げられた逆刃の鎌の威力は伊達ではない。
「あんたは邪魔だからとっととどこか行きなさい!」
 続いて弾幕。ざっと藍はそれを打ち払う。その間に、鎌が主の元へと戻っていく。
「行くのはあんただ。ただし、地獄へ、だがね」
 再び飛来した鎌を打ち払いつつ、藍も攻撃をたたみかける。鎌にこそ苦戦はしているが、基本的な能力は所詮門番でしかないような妖怪もどきと九尾の狐たる藍とでは、余りにも差がある。
「くるみや幻月さんや夢月さんの仇を取るまで、何があっても私はどきません!」
 門番――エリーは例の如く鎌を投げると同時に、自らも藍の方へと突っ込んでくる。丸腰だ。
「投げた鎌は確かに怖い。だが」
 藍もその場から急加速してエリーの方へと向かう。
「丸腰のあんたを倒すのはそう難しいことではないぞ!」
「私もすぐにやられるほど」
 藍の目の前で彼女は飛んできた鎌を取る。とはいえ予測したことであるからさして驚くわけでもない。藍は動きを変えぬ。
「甘くはない」
「そう思うお前が甘いのさ!」
 エリーは鎌を振り、藍はそれを短剣で受け流す。
「ここはお前の死地だ!」
「そうやって気を抜くから、獣は妖怪になれないのよ!」
 鎌は、藍の短剣の上半分を刈り取りながら藍の頭上を流れて行く。その隙をついて、藍は彼女の腹にめがけて札を打ち込む。ぱっと鮮血が舞う。だがあてたのは右脇腹。致命傷には至らない。
「そういうからには、少しは楽しませてくれるのだろうな」
 エリーは一度退こうとするが、藍は退かせない。相手が長物ならば近接戦が圧倒的な有利。体を捻った彼女へ膝を食わせる。エリーは防御の姿勢を取ることもできない。
「ぐ」
 呻き声とともに、鎌が振り下ろされる。予備動作が大きすぎる。藍は難なく左へ躱し、掌底を空いた脇に撃ちこむ。続いて首を狙いかけ、しかし藍はエリーから離れた。直後に、尾の毛がいくらか鎌に刈り取られた。振り下ろした鎌を飛ばすのはなかなかの芸当。
「やってくれるわね」
 エリーのつぶやきをかき消すように、藍は懐へと飛び込む。投げられた鎌は別の妖怪が撃墜している。そう。すでに彼女は重囲の中。決して、藍一人を相手にすればよいわけではない。
「さあ地獄へご招待」
 藍にとってすればエリーの張る弾幕も大したものではない。簡単な結界でそれを打ち消し、その数倍の弾をお返しする。
「く」
 明らかに焦るエリーの表情が目の前に浮かぶ。これで終わりだ、と藍は苦無を投げかけて。
 咄嗟に避けた。その眼前を、妖怪の首が飛ぶ。
「ああ、ようやく歯ごたえのありそうなのを見つけたよ」
 笑うのは冬の妖怪だ。
「邪魔とはいただけないな」
「一人をたくさんでいたぶってたのは誰かしら」
 周りの味方も、皆が冬の妖怪を、そして門番を睨んでいる。間合いを、探っている。
「容赦するな! ゆくぞ」
 藍の掛け声が、合図である。それとともに、壮絶な弾幕の撃ちあいが始まった。白兵戦の、前哨戦である。






「顕徳どの、そちらの具合は?」
「いえ、残念ながら外へと逃げられてしまいました」
 幻想郷と外との境界を示す石柱を前にして、顕徳が呟く。その目線は、はるか向こうを見ている。
「そうですか。これは不覚でした」
 はあ、と妖忌が溜息をつく。
「仕方ないのじゃないかしら。相手の方が、必死だったもの」
 その二人に幽々子は笑いかけた。逃げてしまったならそれはそれ、仕方のないことなのだ。
「しかし、あの中華の妖怪、あれは曲者でした」
「あれに足止めされたようなものですからな。まさかあそこまで抵抗するとは思いませなんだ」
 顕徳も妖忌も、言って肩を落とす。結局その中華の妖怪にさえ、逃げられた。
「仲間を守りつつきちんと逃げおおせたのだから、上手いものよね。あれを殺してしまえば、私たちの方が悪役になりそうだもの」
 幽々子はさらり、と振り向く。幻想郷の内側へ。
「それでは、戻りましょう」
「了解仕った」
 顕徳はそれに従う。
「あれだけの技量の者、惜しいものだ」
 妖忌はもう一度外の風景を強く目に焼き付け、それからあわてて彼女らに従った。

 幽香はいない。






「帥宮か」
「我らの戦は、とりあえず終わったぞ」
 鳥居の下から眺める博麗神社は、いくらか荒廃の様相を示している。血の穢れも多いだろう。罪深いことだ、と柄にもなく天魔は思う。なにより神が血を欲するものなのに。
「敵味方の状況は?」
「まず味方からだが、何人かの損害は出ている。重軽傷者を含めると思ったより多かったぞ」
 二人して、土足のまま博麗神社の社殿に入り込む。その雰囲気からして、巫女はそれなりに快適に暮らすことができていそうだ。そこかしこが血糊でなければ。
「致し方あるまい。 きちんと名を調べておいてもらえるか?」
「天狗の長どもには"交名を注進すべし"と命じておいた。おそらく連中から直々に言ってくるだろう」
「よし、ではそれを待とう」
 一体どの程度の天狗の長が受け入れるか。その布石ともいえる。名簿を出せという程度なら、決して難しい問題ではない。注進してこなければ、こちらから勝手に把握するまでだ。
「敵は、全員降伏だ。深手の者も多い故、まずは介抱しておる」
「死者は?」
「おらぬ。天狗程度の手に掛かって死ぬような妖怪は、とうに裏切っておるわ」
「なるほど」
 帥宮の言うとおりなのだろう。天狗は、弱い。
「して、いかがなさる?」
「ここに来て、殺しても致し方あるまい。むしろ最後まで勇戦した者たちだ、然るべき待遇をすべきだろう」
「おや、天魔からそのような言葉が出るとはな」
 ははは、という乾いた笑い声とともに、帥宮が去っていく。

 風見幽香の話は、出ない。






 紫の前には厳然として風見幽香がいる。髪や服をいくらか朱に染め、しかし穏やかな笑いを浮かべた幽香が、そこにはいる。
「こんなに奥にいるから、逢うのに苦労してしまったわ」
「私としては、こんな形で会いたくなかったのだけれどね」
 やはり幽香だ、という以外の感想を紫は持ちえない。ただここまで辿り着くのが、それが幽香である。
「せっかく会いに来てあげたのに、残念ねぇ」
 幽香は傘を片手に笑っている。辺りの妖怪たちはその膨大な妖力を前に手を出さない。いや、出せない。あまりの力を前に皆の腰が引けていることを、紫はきちんと見て取ってしまう。
「どうせ顔を見るなら、貴女を縄で縛ってからがよかったわ」
「それは逆ではない?」
 幽香は挑発的な笑いを浮かべる。間違いなく彼女は紫とやり合う気だということを、紫は理解する。
「いいえ、逆なんかじゃないわ」
 だから、紫も挑発を返す。紫は腹を括るしかない。風見幽香に勝ってこの場を収めるのが最良の方法なのだ。
「縛られるべきは、貴女だもの。さっさと、諦めなさい!」
 幽香の周りには、紫に従う者ばかり。幽香とともに戦う者はもはや誰も残っていない。皆捉えられている。
「お断りするわ。態々ここまで来たのだもの」
 幽香が一気に迫ってくる。紫は結界をざっと張る。弾幕を張る。
「さあ、沈みなさい」
 傘の一閃。結界の打ち砕ける乾いた音。全方位から発射された鉄骨は、寒天のようにバッサリ斬られた。その隙に幽香の周りに張った弾幕結界も、力の籠った幽香の傘に耐えられず弾もろとも消滅する。スキマそのものさえ、無理やり消滅させられる程の妖力。やはり、桁違い。
「沈むのは貴女よ!」
 まだ距離はある。紫は再び大量の鉄骨を発射しつつ、彼女"自身"の境界を弄りにかかる。決まればそれで話が終わる。

 しかし紫は、終わらせてよいのか、と思った。思ってしまった。
 相手は、あの風見幽香である。自分にとってかけがえのない、友人。それを殺すのか、と。
 紫はこの一件で、多くのものを亡くしている。紫を信じて従ってくれた妖怪もそうだ。誇りだってかなぐり捨てた。その上に、友人まで失っていくのか。
 その決心が、どうにもついていない。つけられない。

「ほら、ちょっと頭がお留守になってるわよ」
 その一瞬のうろたえは、幽香をして鉄骨を裁き切らしめるに十分であった。ふっと幽香が正面に現れる。スキマにもぐりこむ暇もない。その傘の一閃を扇子で受け止める。紫電の音がうるさい。満身の力を込めても、押し込まれる。
「紫さま!」
 あ、と思う暇もない。藍の声、そして幽香の小さい舌打ち。扇子への圧力が失せる。
「邪魔立てとは無粋ね」
 ど、という気弾の音。それで藍は、投げた苦無もろとも遥か彼方へ飛んでゆく。ざわり、と妖怪たちの輪が広がる。その間に、紫は幽香との距離を取る。
「随分と、忠誠心の高い式ねぇ。まさか邪魔立てしに来るほど無粋とは予想外だわ」
「何貴女、一騎打ちで勝負を決めようとかそういう魂胆かしら?」
 幽香の考えを測りたい。今更勝負は決していてなお、なぜ戦うのか。
「いいや。最初に言ったじゃない」
 しかし幽香は柔らかく笑うばかり。その血色の瞳は冷酷で、読めない。
「"貴女が視野狭窄に陥り過ぎていることを知らせる"ってね」


 いったいどれくらいの時間戦っているのか、紫にはわからない。もう永劫かとも思われる程に長いようにも思えるし、ほんの一瞬であったようにも思える。間断無き幽香の攻撃を、紫は何とか凌いでいる。自分自身でも、心に決着を付けられていないからこの有様となっていることはわかっている。しかしそれでも、紫は決定的な一歩を踏み出すことができない。
 もう何枚目とも知れない結界が割られ、スキマが消滅する。その端から紫は結界と弾幕の山をお見舞いする。圧倒的な物量で幽香を足止めする。それが精いっぱいである。時折破られ、懐近く入り込まれての白兵戦になる。紫があちこちに負った生傷はその時のものだ。相変わらず遠巻きにした妖怪たちは恐ろしげに見つめるばかり。
「ほんと、貴女しぶといわね」
 紫は思わず声を漏らす。片手で隙間を操り、鉄骨を雨のように降らせながら。
「それは紫、あなたね」
 鉄骨をたやすく薙ぎ払いながら幽香は笑う。
「いつまでもそこでうじうじしたまま動きを見せないじゃない。全く、こちらが見ていて疲れるわ」
「何が言いたいのかしら?」
「さっさと私を殺せばいいのに、ってことよ」
 幽香の三白眼が、紫を突き刺した。
「もっとも、そう簡単に殺されはしないけれどね」
 幽香の笑い声が、低く低く響く。紫の心を、低く低く揺さぶる。
「何を……」
「ほら、うっかりすると死ぬのは貴女よ」
 鉄骨の破片を紫は躱す。

 紫は、決めなければならない。この先の行く末を。
 幽香の言うとおりだ。これ以上引き延ばしても仕方がない。自分は決めなければいけない。その立ち位置を。これからどうするか、を。
 もういちど、紫は幽香を睨む。幽香は、にこやかだ。傘を振るう姿も、まるで舞っているかのよう。
 やはり敵わない、と紫は諦める。自分が努力の果てに身に付けた"万能"の能力。それを力だけで以てすべて押し潰す。それが幽香だ。一生懸命上り詰めた山頂に、最初から立っている妖怪。
 でも、今自分は彼女を山頂から叩き落とそうとしている。落とすしかないのだ。
 紫は唇をかみしめる。全身の力を込める。
 やることは、一つ。

 スキマから出た紫が、幽香を見据える。ちょうど幽香の真後ろ。全周からの渾身の攻撃。幽香がそれを裁き切るには、少し時間がかかるはず。
「それでは幽香、貴女の言った通り」
 ずず、と一際大きなスキマが開く。一瞬の攻撃停止。幽香が、こちらを振り向く。笑っている。
「さようなら」
 その言葉が幽香に聞こえたか。紫にはわからない。幽香が、笑ってこちらに傘を向けている。スキマからは、流線型の巨体が頭を出している。間違いなく、自分しか知らない代物。時速三百キロで駆け抜ける、それ。
「さようなら!」
 もう一度、紫は叫んだ。轟々と空気が揺れる。前照灯が幽香を照らしている。幽香の周りを、黄色い光が回っている。
 きらりきらり。



 そしてすべてが、しろく、まっしろく。 











――Epilogue

「下ったな、あれは」
「だな」
「これで、戦も終わりか」
 鳥居の上には、影が四つ
「なかなか興味深い結果に終わったね」
 ルーミアがうーん、と伸びをする。一応腰に縄が結ばれているが、両手両足は基本自由だ。
「全くだ。ぬるい結末といえば、それまでだがな」
 その縄を抑えているのが帥宮である。緊張感はない。
「それが幻想郷だよ。それに、あんたたち天狗にとったってこういう結末がお望みでしょ?」
 言ってルーミアは、天魔の方を向いた。本当に無邪気で透明な、紅い瞳。
「それは、我々とて平和に暮らしたいからな。あまり血染めの結末はごめんだ」
 天魔はにこやかに返す。
「だから、自由をある程度認めているのだろう?」
「それは有難いけどね。暗いのは好きでも、狭いのはヤだから」
「我々とて、終わってまで無暗に敵意を持つのは好まぬ」
 天魔の心境を、顕徳が呟く。
「天狗も殺したけどね」
「殺し殺される。それが戦。終わってからも戦を持ちこむのは、頂けぬな」
 それには帥宮が答える。この男のそういう割り切った考え方は、天魔も感心するところ。理ではわかっていても、そうなかなか断言できるものではない。
「さて」
 その話題を打ち切るように天魔は宙に浮いた。
「顕徳、頼みがある。これを八雲のところへ持って行ってくれぬか」
 そういって、顕徳に一通の書状を渡した。表には八雲紫どの、と書かれている。
「風見の助命嘆願だ」
「なるほど。了解した」
 顕徳はそれを受け取ると、自らの懐からも一通の書状を出す。
「それではこの添状とともに、出して来よう」
「ちょっとまった」
 二通を仕舞おうとした顕徳に、今度は帥宮。
「これも添えといてくれ」
 都合三通。その様子にルーミアがくすくすと笑い声を転がしている。
「ふ」
 天魔も笑う。似た者同士。
「わかった。では三通まとめて、届けて来よう」
 四人とも笑っていた。

 まるで鵺のような笑い声。










 目の前には藍の顔。傷だらけの藍が、それまたひどい表情を浮かべている。
 はて、なぜそのような光景なのか、紫は記憶を掘り起こそうとした。一体何があったのか、いまいち理解できていない。
「紫さま!」
 しかしそれはすぐに打ち消される。藍が自分に縋って泣き始めたからだ。
「ご無事で、よかった!」
 ええと、と紫はとりあえず、藍の頭をゆっくり撫でてやる。なぜか全身が酷く重い。動かした腕が鈍い痛みを送り込んでくる。
「もう二度と、目を覚まさないのではないかと……」
 藍の声は半ば掠れて聞き取りにくい。何かよくわからないが、自分の身に何かあったらしい。
「紫はいい式を持ってるわね。ちょっと羨ましいくらいよ」
 ふと顔を動かすと、幽々子が端然と座っている。表情はいつもの如き茫洋とした笑顔。どことなく、安心させられる。
「それで、紫はきちんと現状を理解しているのかしら?」
「……?」
「やっぱり。あなた、負けたのよ」
 幽々子が紫の眉間に扇子を突き付ける。藍はようやく体を起こし、それから幽々子を睨み付けた。
「何を」
「ほら、そこの式黙りなさい」
 ちょっと動いた藍は、しかし幽々子の扇子に喉元を抑えられ、動きを止めた。
「……まけた? どういうこと?」
 紫も藍を片手で制しつつ、幽々子を見た。表情から何も読めないのが、こういう時にはもどかしい。
「貴女が競り負けた。それだけよ」
「どういうことよ!」
 思わず紫は声を荒げる。幽々子の言う話がまるで分からない。あの状況から負けることはありえない。幽々子が半ばあきれたような溜息をつく。それがますます、面倒。
「誰も私たちが負けた、とは言っていないでしょう。負けたのは、紫、貴女だけよ」
 幽々子の言う意味が、それでもわからない。紫は必死に思い返す。
 そう。自分は幽香を殺しにかかった。あの場にいる者が誰一人として知らない物体で以て、押し潰した。はずだ。幽香は避ける素振りすら見せなかった。
「……負けた、の?」
「ええ。貴女がね。一枚足りずに」
「どうやって?」
「幽香はね、空間転移で避けた。それだけよ」
 空間転移。そのようなことができるなどと、紫は知らない。知らないが、できても不思議ではない。それが風見幽香だと、紫は思っている。
「そしてアレごと、貴女は吹き飛ばされた。もし紫の結界が一瞬でも遅ければ、貴女は魂ごと蒸発していたでしょうね」
 紫には、信じられない。信じられないが、すべてそれで納得がいく。つまり、自分は彼女に届かなかった。
「そう、私、負けたのね」
 認める他なかった。自分は幽香には届かなかったのだ、と。
「ええ。負けたわ」
 ほんの僅か、ごくごく微小に、幽々子の表情が動いた、気がした。
「それで、幽香は?」
「紫を撃ち落としたところで諸手を上げたわ。今は幽閉してある」
「そう」
 そして、互いに生き残った。
「妖怪の中には殺せという声もあるわ。いきなり聞くのは酷かもしれないけど、どうするの?」
 幽々子が問う。
 紫は答えを、持たない。
「やはり殺す? 多くの妖怪に死を齎した、元凶だけれど」
 幽々子の声には、感情がない。いつものことだが、それが今回は一際心に刺さる。
「一応言っておくけど、天魔のところからは助命嘆願が来てるわよ。それもご丁寧に三通」
 紫は、幽々子から一度目を離す。
 自分は、確かに幽香を殺すつもりだった。少なくとも殺すつもりで、攻撃をした。
 だけれど、そう思ったのは気のせいだったのかもしれない、とも思う。

 幽香が生きている、という事実を知ったその瞬間。そこに安堵している自分がいた。殺さなくて済んだ、と。脳裡によぎったのは、犬走の夫妻のこと。あの二人を死なせてしまったことが、今更思い返される。もう知り合いを誰も失いたくない、とそう思う。
 思えばこそ、殺しきれなかった可能性すらある。幽香が"予想外"の動きに出ることは予測できたはず。それなのに、自分はその動きを想定しなかった。甘かった、ということだ。

 総じて、自分は甘い。そのことを紫は改めて思い知らされた。
 その甘さがこういう事件を招き、結果を招いた。それはある意味前からわかっていた。わかっていて、直そうとして、でも直らなかったこと。そして最後まで、来た。とうとう最後まで自分はそれを突き通して、しまった。
 そしてそんな自分が、紫はそんなに嫌いではない。確かに自分の甘さは、こうして悲惨な結果を様々招いたかもしれない。
 それでも。

「幽々子、幽香は――」















「え? ここも直すのですか?!」
「ええ」
「でも、危険度極高って」
 阿求は首をかしげる。風見幽香の危険度が高い?
「その上、友好度最悪ですか?」
 もうこれは紫に問うほかない。
「ええそうよ。そのまま書けばいいの」
「……幽香さんに、恨みでもあるのですか?」
 幽香とは阿求も親交がある。しばしば人里に姿を現しては、にこにこと話をしたり買い物をしているようだ。この家に訪れることもあるくらいだ。人里に友人も多いらしい。
 その彼女が、友好度最悪とはどういうことか。
「いいえ。そういうわけではないけれど」
 紫が少し遠くを眺めている。
「ならば」
「そうやって書くことが幽香のためにも、人間のためになる。これで、いいかしら?」
「それは、どういう?」
「先の訂正と、同じような物よ」
「はあ」
 先の結界闘争の訂正といい、今回の風見幽香の訂正といい、紫の言うことはしばしばよくわからない。
 一体本当に何があったのか、阿求は調べてみたくなる。風見幽香を人から遠ざける理由とはなにか。結界闘争の"本当の真実"とは何か。
 しかし紫がこういう以上、知らない方が良いこともあるのだろう。阿求はそう納得することにした。













 そして、物語は裏側へ
 書洩らし? 冗談ではない、書かれなかった事は、無かった事じゃ。芽の出ぬ種子は、結局初めから無かったのじゃわい。歴史とはな、この粘土板のことじゃ。
 ――中島敦『文字禍』








 というわけで、創想話初の長編。気付いたら量が増えてた、というたぐいのss。乾燥わかめですな。
 元々は、東方ssを書き始めてすぐのころに着想したplot。それでそのころ書き始めたわけだけれども、いまいち上手くいかず、オチで完全に行き詰ってしまった。この時、エピローグ以外だいたいしあがってて、180kbほどだった。
 その後、8回こんぺ開始とともに「黒き海に紅く」の執筆に取り掛かり、それに伴って自然とこの作品は放棄扱い。そのまましばらく"雑文"フォルダに放り込まれていた。
 けれども、やっぱり初めのころの着想で思い入れもあったので、らぐなろく後に復活の呪文を唱えることにし、プロットから完全に組み立てなおした。
 そうして書き直し、終わってみれば250kb。

 原因は当然のように、天魔・顕徳・帥宮の三人。まあ、動いてくれたというか暴走してくれたというか。
 モデルはいます。というか、もうわかってる人が多いのかな。
 中途半端に使ったせいで、不備もあったかもしれないけどその辺りは適宜補完してくださいな。そういうssです、これ。


 裏が裏が、と書かれているように別視点作品が構想のうちにはあります。
 が、これも例の如く一文字も書いてないし完成なんぞ全くの未定。今のところ、書く予定もあまりない。
 まあ出たらラッキーくらいに思っておいてください、というところで。
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