学会という場所はこれまた意地汚いところであった。きちんと実地調査し、それを解析し、検討し、渾身の論文としてまとめたにも関わらず、その調査は"おふざけ"だと断じられ、学界から追い出されることになった。"おふざけ"とされた理由は只一つ。

 ――もう物理の研究なんて、誰もしたくなかったのだ。










雨流夢  ――雨、夢を流す――








一日目

「で、どうかしら?」
「魔力パターン分析までは上手く行ってるんだけどねぇ。その先がだめだぜ」
「どこから駄目なのよ」
「そのパターンが何から由来しているのか、全くわかりそうにない。そもそも、このパターンにしたってバラバラ過ぎて、どう見れば共通点が見出せるのだか」
 ちゆりの言葉に、夢美はふぅ、と溜息をついた。魔力の研究はまだ始まったばかり。そんなに上手く行くものだと思ってはいない。重力の正体を見破るまでに人間はどれほどの時間を掛けてきたかを考えれば、そんなことは容易に想像がつく。
「つまり、全くの個体差であって、種族や性別に共通点は見られない、ってことね」
「今のところは。となれば後は、個人で調べていくしかないんだぜ」
「そう」
 学会を追い出され、教授を"懲戒免職"になった夢美であるが、それでも学会復帰・教授復帰の夢を諦めてはいなかった。この幻想郷で魔力の理論を確立し、そのレポートを持って帰り、学会の老獪な教授共にぎゃふんと言わせるのが、目標だ。
 再現性の問題をクリアするのが課題かもしれないが、それも時間の問題だろうと思っている。幻想郷に暮らす夢美は、最近何となく魔力を感じられるようになってきていた。もう少ししたら、何か小さな魔法くらいなら使えるようになるのかもしれない、なんて思っている。とすれば、向こうで魔術を実践すればよいだけだ。
 それに、再現性がなくてもいい。例えば結界に関する理論にしても、物理学的には非常に困難・難解な式によって半ば無理矢理説明されている。しかし、これを魔力理論を使って解けば、単純明快に表すことができそうだ。"世界を表す式は簡単に違いない"という考え方からすれば、結界は魔力理論によって説明されるべきなのだ。それだけで、魔力理論の存在は明らかといえる。
「キリもいいし休憩にしようかしら」
「それがいい。なにせ、朝からぶっ続けだから、いい加減腹が減った」
 ちゆりが首を左右を動かす。肩が凝ったのだろう。言われてみれば、夢美もお腹が空いてきていた。
「じゃ、何か作ろうかしら」
 夢美は一度研究室を出て、台所へと向かおうとした。
 ふと、夢美が窓の外を眺めると、既に暗くなりつつあった。残念ながら夕焼けというわけではなく、空は次第に藍色へと染まりつつある。
 そういえば朝焼けが綺麗だったなぁ、と夢美は朝の空を思った。夕焼けは見れないけれども、その代わりとしての、あれだけ鮮やかな朝焼けが見れたのだから、それはそれで良いかも知れない。
 それに、夕焼けしなくたって空は綺麗だ。"向こう"とは桁違いに透き通った藍色の空。雲一つないその空は、高い高い天を思わせる。夜でもなく昼でもないこの時間帯が、たとえ夕焼けしててもしてなくても、昔から夢美は好きだ。

 ふと、夢美はその天の高さを、研究に重ね合わせた。
 果たして自分は、その天に届くのだろうか。魔力の解析を行い、誰もを唸らせる論文としてまとめ、学会に凱旋することができるのか。

 そこではた、とちゆりのことを思い起こす。ちゆりは、学会を追放された夢美を見捨てず、わざわざここまで付いてきてくれた。夢美は教授でもなくなったのだから、本来ならば付いてくる必要もないのだ。
 にもかかわらず、どうして付いてきてくれたのだろうか。本当の意味で別の世界へ来てしまった夢美に、どうして付いて来ようと思ったのだろうか。ちゆりはそれほど夢美のことを慕っていてくれたのだろうか。
 それとも……

 夢美は、恐ろしい事実に思い至った。



 ひょっとすると、ちゆりは夢美の研究結果を盗みに来たのではなかろうか。夢美に隠れて研究結果を論文で発表し、夢美の手柄を丸ごと奪うつもりなのではないだろうか。
 ひょっとすると、あの老獪な学会の教授共と裏で手を結び、夢美の研究を妨害しているのではないだろうか。

 ひょっとすると、夢美を殺して、代わって教授となり、学会に戻るつもりなのではないだろうか――。



 一度、そこに思いが至ると、もうそうとしか思えなくなってくる。研究室の中で、背伸びするちゆりの一挙手一投足が、全て怪しく見える。さっきのパターンの話にしても、実はもう、ちゆりは共通性を見つけているのではないだろうか。既に夢美に隠れて、その解析を進めているのではないだろうか。
 夢美を殺す隙を、今か今かと狙っているのではないだろうか。

 研究成果を狙い、命を狙っているちゆりから、自分の身を守らなくてはならない。そう夢美は思う。身を守る手段とはなんだろうか……。
 夢美は台所へ歩いてゆき、包丁を取りだす。両手に1本ずつ、二本の包丁。
 ちゆりを殺してしまえば、もう研究成果も命も狙われることは、ない。



「ちゆり」
「なんだ? って、それはなんのつもりだぜ?!」
「残念だけれど、私の研究成果を狙おうといっても、そうもいかないわよ」
「何の話か、全くわからない。とりあえず、落ち着かないか」
 ちゆりの顔が青ざめていく。きっと、自分の狙いが割れて焦っているのだろう。やはり、夢美の予想は正しかった。
「惚けないで。貴女、私を殺して研究成果を奪うつもりだったのでしょう」
「何を言ってるんだよ、そんなわけないだろ」
「じゃあなんでそんなに焦ってるのよ」
 夢美は思いっきり包丁を突き出す。心臓を狙ったが、それはちゆりの左腕を傷つけただけに終わる。ジワリ、とちゆりの白いセーラーに紅が滲む。
「そりゃ、命を狙われたら焦るんだぜ」
「そうかしら。私には、図星を言われて焦ってるようにしか見えないわよ」
 次こそ、と夢美は心臓目掛けて包丁を投げた。だがそれはちゆりのセーラーの脇を少し裂いただけに終わり、机に突き刺さる。
「ちょっと、冗談ならその程度で頼むぜ」
「冗談? 冗談なのはそちらでしょう。いままで信用していたのに、私を殺すつもりだったなんて」
「だから、誤解だって」
「問答無用」
 左手に持った包丁を右に持ちかえ、ちゆりの顔面目掛けて突き出した。だがそれもまた刺さらない。帽子を刺し貫いただけだ。
「うわっ!」
 だが、それでちゆりはバランスを崩したらしい。思いっきり機械に体をぶつけ、派手な音が鳴り響く。
「残念だったわね。もう少しで私を殺せたかもしれないのに」
「だから誤解だって」
 もうちゆりの後には機械しかない。左右も機械だ。逃げ道はない。これで終わりだろう。ちゆりは何かのスイッチを押そうとしているが、解析装置のスイッチを押したところでなにも起こるまい。
「それじゃ、さよなら」
 渾身の力を込めて、包丁を突き出そうとして。
「一か八かだ」
 凄まじい衝撃と共に、意識を失った。



「……あら?」
 ふと気が付くと、夢美は何故か研究室で倒れていた。茫としながらも、回りを見回す。正面には魔力干渉装置が厳然と鎮座し、夢美を見下ろしているようだ。
「私、何してたのかしら?」
 夢美は首を傾げる。どこにも外傷はないし、頭を殴られただとか、そんな記憶もない。先ほど、休憩を入れようとして研究室を出た記憶はあるのだけれども、研究室で倒れた記憶は全くなかった。
「ご主人」
 ちゆりが研究室の入り口あたりの椅子に座っている。何かを窺うような、そんな表情だ。
「あら、ちゆり。なんで私がこんな所に倒れていたのかしら?」
 どこか怯えたような目でちゆりは夢美を見ている。確かに気が短く、人遣いが荒いことは自分でも認めざるを得ないと思っている。けれども、怯えられるようなことをしたつもりはない。これまでもちゆりを自分なりに可愛がってきたつもりである。
「目は覚めたのか?」
「覚めたわよ。一体なんだったのか……」
 自分がちゆりに怯えられる理由はなんだったのだろうか、と考える夢美の目に、ちゆりの左腕が目に入った。細く色白な左腕には、血の滲む包帯が巻かれている。よく見れば、ちゆりのセーラーも所々が裂けている。
 それを視認した刹那、夢美は何が起きたかということを全て思いだした。

 自分はちゆりに研究を取られることを恐れて、ちゆりを殺そうとしたのだ。包丁2本で以て、ちゆりの体を引き裂こうとしたのだ。

「……ち、ちゆり」
 自分の所業に、夢美は震えた。一体どうしてそんな思考に陥ってしまったのか。これまでちゆりを可愛がってきた自分は嘘だったのか。それでは、ちゆりを大切に思う今の自分は、嘘なのだろうか――。
「思いだしたのか?」
 恐る恐る、と言った風にちゆりが尋ねる。その言葉に、夢美は軽く頷いた。
「そんなつもりじゃ、ないのよ。いや、ないとは言えないわ。一時は確かに、私が自発的に、貴女を殺そうとしたのだから。でも、今の私は、貴女を殺そうと……」
 何と言っていいのか、夢美にはわからなかった。そもそも、ちゆりを殺そうとした"夢美"の思考が、今の夢美には理解できない。そんな有様なのだから、自分の所業に対してどう謝ればいいのかなんてことも、まったくわからなかった。
「……よかった」
 けれどもちゆりは、安堵の息を吐いた。
「つまり、ご主人は本来、私を殺すつもりはなかったってことだな?」
「勿論よ。でも、ちゆりを殺そうとした私も私。私は、私を制御できていないってことね」
 果たして自分は二重人格なのか。それとも、鬱屈した深層心理があって、それがちゆりに向かって噴き出したのか。どちらにしろ、自分自身が理解できず制御できないとなれば、危険極まりない話である。
「それは違うんだぜ」
「?」
 もうちゆりは、不安を全く見せていない。思いつめてどんどん表情が暗くなる夢美とは対照的に、ちゆりの表情は明るいとさえいえた。
「ちょっとこれを見てくれ」
 ちゆりは一枚の紙を渡してくる。それを右手で受け取ると、夢美はそれを流し見する。この家のあちこちに置かれた魔力計測計の値を時間毎・場所毎にまとめた表だ。
「ほら、ちょうど休憩を始めた辺りから、魔力量の値が跳ね上がってるだろ」
「確かに跳ね上がってるわね」
 多数ある数値に孰れもが、休憩開始を境として一気に100倍以上の値を指している。幻想郷には時々魔力震と呼ばれる、魔力の変動があることは既に観測からわかっている。その原因は、どこかで強力な妖怪やら神やらが戦い始めるという人為的、ならぬ妖為的、乃至、神為的であることもあれば、ごく自然な現象であることもある。だが、100倍以上に跳ね上がるというのは、ちょっと異常である。
 よほど近くで妖怪や神が暴れぬ限り、ここまでの値にはならない。
「これから推測すると、意識に何らかの影響を及ぼす魔術が広範囲に使われて、ご主人もこれに影響されたのではないかと考えられる」
「そうかもしれないわ」
 この値からすれば、魔力に対して抵抗の全くない夢美の意識を操るなぞ、簡単な事だろう。
「私は魔力干渉機によって外の魔力を防いでる研究室の中にいたから大丈夫だったんだろうと思う」
「故に、研究室から出た私だけ掛かったってこと?」
「そうだと思うんだぜ」
「でも、値だけでは魔術とは言えないわよ」
 値はあくまで、辺りの魔力の大きさしか測れない。それがどういう作用を及ぼすかについては、また別の話。魔力パターンと魔術の作用との関係性がありそうだ、ということはわかっているけれども、まだ魔力パターンから魔術の内容を解析するには至っていない。
「そこはほら、勘でさ」
「勘?!」
 何を言い出すのだろうか、と夢美は驚いた。勘は論証にならない。
「何となく、ご主人が魔術に掛かってると、そう思ったから、魔力干渉機の前に逃げ込んだんだぜ」
「勘だけで魔力干渉機の前にわざわざ追い詰められたってこと?!」
「結果的には、魔術だったんだぜ。魔力干渉機の出力を150倍にしたら助かったから」
 何と乱暴な話だ、と今度夢美は唖然とした。確かに、魔力干渉機の作用によって夢美は魔力から解放され、その結果としてちゆりは助かった。とはいえ、あまりにも論理性に欠ける。
「もし私が本気だったらどうするのよ。魔力干渉機の前で死ぬってわけ?!」
「そりゃ仕方ないだろ。本当にご主人が私を殺したかった、っていうならそれまでだった、ってことで」
「あのねぇ」
「第一、ご主人はそう言う卑怯な手を使うのが嫌いだろ? だから、魔術にしか思えなかったんだぜ」
 ちゆりは、殺されかけた直後とは思えないほどの笑顔を浮かべる。信頼している、と言わんばかりの笑顔を前として、夢美はもうなにも言えなかった。
 こんなに良い弟子なのに、それを殺そうとした自分が情けなかった。


「ともあれ、慧音の所へ行くに限るわね」
 落ち着くために淹れた珈琲を飲みながら、夢美は外の窓を見た。既に真っ暗である。本来なら、人間が外に出るべき時刻ではない。だが、そうも言ってはいられない。
「うちだけ狙われたにせよ、そうでないにせよ、情報を入れるのは大切だからな」
 ミルクと砂糖たっぷりの珈琲を、顔をしかめながら飲み干すと、ちゆりも頷いた。無理して飲まなくてもいいのに、と夢美は思うのだが、夢美が珈琲を淹れるとなると、必ずちゆりも珈琲をせがむのだ。
「でも、知ってるかな?」
「知っているはずよ。対妖怪に於いては、人里の守護人を自認しているのだから」
 こっちに来てから、人里の守護者として懸命に働く慧音の姿を、夢美は何度か目撃している。その責任感の強さと言ったら、比類のないものである。所謂教師という職業にある人は、概して責任感の強い者が多いように思える。
 但し夢美は自分のことを教師だとは思っていない。教授というのは研究職であって研究が主の仕事であり、名前通り教え授けるのは二の次だと思っているからだ。尤も、今の夢美は教授ではないけれども。
「それじゃ、行くわよ。付いてきなさい」




「そうか、夢美たちも操られたのか」
 既に日没して暫く経ち、幻想郷の人里は既に夜の帳によって覆い尽くされている。人の時間は終わりを告げ、妖の時間の始まりであると言えた。けれども、科学によって妖怪と渡り合うだけの力を持った夢美たちである。隣の集落にある慧音の家へ行くことも、夢美たちにとってはそれほど危ない話ではない。
「やはり、あれは魔術だったのか?」
「間違いない。あれは妖怪の仕業だったからな」
 番茶を二人へ出しながら、慧音は溜息をつく。
「人里で妖怪が暴走したのかしら?」
「そうだ。丁度あの時間に夢美の家の近くで暴走した妖怪がいた」
「一体どんな妖怪なんだ?」
「覚りらしい」
「らしい?」
 夢美は慧音の語尾を捉えて、首を傾げた。妖怪の暴走ともあれば、慧音はすぐさま飛んで行って事件の対処を図っただろう。とするならば、伝聞の"らしい"が語尾に付属するのはおかしいのだ。
「実を言うとな、私は現場を見ていないんだ。丁度、私は所用で人里から離れていたものでな」
 その言葉に、慧音は拳を握り締めながら答える。その表情からは、無念さが伺える。人里の大事の時に人里を離れていた、ということが残念で仕方ないのだろう。
「そうなの」
 慧音が離れていた、ということは了解した。となれば、竹林に住む用心棒・藤原妹紅が妖怪のことを知っているのではないか?
「で、妹紅から話を聞かなかったのか?」
「妹紅は妹紅で、人里から離れていたから妹紅も現場にいなかったようだ」
「妹紅さんでもないの?」
 夢美はますます首を傾げる。
「それでは一体誰が?」
「永遠亭の薬師・八意永琳が抑えてくれたということだ」
「永琳さん?」
 夢美も名前なら聞いたことがある。最近人里に現れるようになったばかりであるが、相当な名医として人里でも知らぬ者はいない。薬師としての腕も一流で、彼女の薬を飲んで治らぬ病はないとさえ言われる。夢美もまた、様々な場面でその薬にお世話になった人間の一人だ。
「ああ。普段は弟子の鈴仙だけが薬を売りにくるのだが、今日は本当に偶々、往診の為に人里へ降りてきていたらしい」
 鈴仙なら夢美も会った事がある。どことなく精神的に不安定そうな雰囲気を持ってはいるけれども、人は良い。何度か実験・観測に手伝ってもらった事もある。彼女自身も相当な実力者であると夢美は思っているが、その彼女が「師匠は本当にお強いお方です。私等太刀打ちできません」と言っていた。そのことから考えるに、八意永琳という薬師は幻想郷でも有数の力を持っているのだろう。
「八意永琳から話を聞いたところによると、その覚りは人里のど真ん中で、人間たちが暴走するように無意識を操っていたそうだ。それに気付いた二人が、すぐさま止めに入って力づくで捩じ伏せたとか」
「なるほど。大体のあらすじはわかったわ」
「私もまだ情報収集なものでな、あまり教えられずに申し訳ないと思っている」
「それは気にしなくていいわ。ただ、大惨事にならずに済んでよかったわね」
「八意永琳と鈴仙には感謝しても、し足りないな」
 慧音は、言って番茶を飲み干す。その動作は慧音のいら立ちを表しているように、夢美には思える。
「人里にとっての恩人だな」
 けれどもそんな空気を、ちゆりの快活の言葉が打ち消していた。

 一通りの情報を手に入れた二人は、ひとまず自分の家へと戻ることとした。慧音は泊まるように言ってもくれたけれど、その慧音とて決して暇なわけではないし、家が広いわけでもない。迷惑になると考えた二人は、素直に戻ったのである。
 来る時には雲一つない星空であったはずなのに、帰る二人の頭上に広がるのは低い雲。月すら隠され夜は一層暗く、幻想郷は闇によって色濃く塗りつぶされていた。





二日目

 昨日の雲は雨雲だったようである。寝起きのまま夢美が窓の外を眺めると、外は雨にけぶっていた。ひたすら無機質で何の面白みもない外の世界と違い、雨に滲む幻想郷というのもまた一興である。一興ではあるけれども、もう秋も深まったこの時期。一雨降るごとに寒くなっていく。静かに降り続ける時雨が、秋の終わりを告げつつあった。
「雨ねぇ」
 寒さに身を震わせ、昨日の服装に加えて一枚羽織りながら、夢美は居間に出る。今日の朝食当番はちゆりであるから、夢美はのこのこ出て行っても文句は言われない。
「一気に寒くなったから、囲炉裏に火をいれといたぜ」
「ありがと。ああ、暖かい……」
 囲炉裏に置かれた炭火の、穏やかな赤が朝の峻烈な空気を幾分緩和してくれる。再び寝てもいいかな、とさえ思えた。
「寒いんだったら、代わりに料理をしてくれよ。こっちには竈もあるから、暖かいぜ」
 夢美は囲炉裏に手をかざしながら、顔だけを台所の方へ向ける。
「今日はちゆりが当番なんだから、責任持って最後まで作りなさいよ」
「だから、作ってるって」
 あんなことを言ってはいるけれども、朝食は着々と出来上がっているようだ。既にご飯の炊ける美味しい香りが流れてきている。
 最初来た頃はこうもいかなかったな、と夢美は思いを馳せた。ボタン一つで火が付けば、料理も出来るような生活をしていた二人が、いきなりガスも電気も水道もない場所へ放り出されたのである。まず燧石で火が付けられない、ご飯が炊けない。何一つとして自分たちでは生活できない、まあ酷いものだった。それが人里の人間や妖怪たちの助けを借りて、今ではこのようにすっかり慣れた。20秒もあれば燧石で火はつけられるし、料理だって一通りのものは作ることができる。
 人間の適応力とはすごいものだな、と夢美はなんとなく思った。
「お待たせ。できたぜ」
 台所からちゆりの声が響いてくる。
「はーい」
 夢美は、料理を取りに行くために立ち上がった。

「何度食べても美味しいご飯ね」
「なにせ新米だからな。美味しくないはずがないんだぜ」
「それもそうね。それに竈炊きだし」
 味噌汁とご飯とぬか漬け。至ってシンプルな食卓であるけれども、朝はこれくらいで充分だ。なによりご飯がたくさんあれば、力はつく。
「あ、お焦げみっけ」
「え、私はないわよ。私にも頂戴」
「生憎、ちゆり様はご飯を炊くのも上手いから、お焦げなんてそうそう入ってないんだぜ」
「どの口がそれを言うか」
 如何にも美味しそうにお焦げを頂くちゆりが、何とも腹立たしい。ご飯のお焦げが入っているかどうかで、ご飯の時の幸福感が違うと言うのに。
 夢美が、お焦げを一口で食べきったちゆりを睨んだ刹那。入り口の戸が叩かれた。
「失礼します」
「はい?」
 夢美はご飯茶碗を盆へと置くと、ひとまず立ち上がった。
「岡崎夢美どのへ、小兎姫から言付です」
 戸の方へ向かおうと思った夢美だが、その人名を聞いて思わず立ち止まった。小兎姫?
「……なんでしょうか?」
 夢美は戸から少し離れた位置から用件を問う。小兎姫という人名が、夢美をして戸から遠ざけしめていた。
「昨日の事について、小兎姫から夢美どのへ伝えたい件があるとのことですので、後ほど稗田邸までお越しください」
 小兎姫は、いわば幻想郷の警察である。人里の総まとめ役である稗田家の家人であり、特に人里内での秩序維持を担当している、らしい。少なくとも夢美から見れば、小兎姫という存在自体が、秩序破壊物である。
「私がわざわざ稗田邸に行かなきゃいけないの?」
「小兎姫は、今稗田邸を離れられません。できれば夢美どのにご足労いただきたいです」
「行かなかったら?」
 小兎姫の人物像を、既に夢美は脳裏に浮かべている。正直、あまり会いたくない人種の人間だ。そのことが、無意識にも戸からの距離を取る結果を齎しているようだ。
「それも已む無きことではありますが、来て損はない、と小兎姫は申しています」
「……」
 小兎姫の価値判断は、常人に理解することはできない。夢美も常人から少しズレているということは認めているけれども、小兎姫のそれは夢美からでさえ遥か彼方だ。
「それでは、お伝えしましたので」
 湿った砂を踏む音と共に、人の気配が遠ざかっていく。どうやら返事も聞かずに帰って言ったらしい。
「どうするんだ?」
 味噌汁のお椀片手に、ちゆりがこちらを見ている。
「どうしようもないわね」
 対して、夢美は腕を組む。
「アレに会うのは面倒だけれども、行くしかないでしょう」
「行くしかない?」
「だって、昨日のことが気にならないのかしら? 小兎姫はこの幻想郷の秩序維持が仕事なのだから、慧音よりも情報を持っているのは間違いないわ」
「……なるほど。それなら、行くべきだと思うぜ」
 そのちゆりの言葉に、夢美は溜息を一つ付いた。この鬱怏然とした雨の中をわざわざ小兎姫に会いに行くのは、たとえ会いに行った方がいいとわかっていても、科学魔法の御蔭で濡れることなく行けるとわかっていても、あまり気が進まなかったのだ。



 稗田邸の前に降り立ったとした夢美たちのすぐ横へ、汚い身なりをした男が一人、駆けてくる。夢美はそれに気付き、少し横にかわす。
「痛ッ!」
 だが、よそ見をしていたちゆりは全く気付かなかったらしい。ちゆりは彼と肩をぶつけ、尻もちをついた。
「すまぬ」
 肩を抑えたちゆりに、彼は振り向いて一礼する。人里の一般的な服装であるのだが、ただ眼窩が落ちくぼみ、非常に痩せているように見えた。
「いえ、こちらこそ」
 ちゆりの声が届くか届くまいか。彼は再びくるりと振り向いて走って行ってしまった。
「何か、妙な雰囲気だったわね」
 地べたに座ったままのちゆりに手を差しのべて、夢美はふと何かが落ちていることに気付く。
「何かしら、これ?」
「え?」
 夢美がそれを拾い上げる。どうやら巾着に付ける木札のようであった。筆で"弓削"という二文字が書かれている。
「弓削さんって言うのかしら、彼」
「さあな」
 改めてちゆりに手を差し出し、引きあげる。ちゆりは地に着いた尻を軽く払う。
「不思議なんだぜ」
 彼の異様さには、二人で首をかしげるしかなかった。


「わざわざこっちまで来させて悪かったわ。本当なら私がそちらに伺うべきだったのだけれど」
 それからまもなく、小兎姫は迎えに出てきた。相変わらず、"自称一般人"の小袖姿である。本人曰く変装だそうだが、この姿以外で立ち歩いているのを見たことはないから、要するに、彼女のセンスに基づいた服装なのだろう。
「全く、一体なんだっていうのよ」
 小兎姫と夢美たちとは、夢美が調査に来た時以来の付き合いである。最初は本当にこれが警察――則ち幻想郷の人里を司る治安維持を任されている人間であるということに驚きを隠せなかった。けれども今では、そんなことも全く気にならない。スペカ決闘という一つの儀式的決闘によって秩序維持が容易に行えているこの幻想郷においては、治安維持機構なんてものは必要ではないのだろう。
「勿論、用があったから呼んだのよ」
「これでもし、用事なかったのよね、なって言ったらタダじゃ済まさなかったところよ」
 言って、夢美は小兎姫を睨みつけた。彼女なら平気で、夢美たちがいると楽しそうだから呼んだ、なんて言いかねない。
「それで、用事っていうのはなんなんだぜ? わざわざこの雨の中を招いたんだから、重要な用事なんだろうな?」
 ちゆりも小兎姫の方を半眼で見つめている。ちゆりにしても夢美にしても、この小兎姫という変人の思い付きに振り回されること幾度。もうごめんなのだ。
「これで用事がなければ楽だったんだけど、ねぇ……」
 小兎姫は軽く溜息をつく。その姿に夢美もちゆりも、思わず目を見開いた。いつも楽天的で悩みなぞなさそうな小兎姫が、溜息をついたということが、俄に信じ難かったのである。
「まず最初に、昨日の覚り暴走の件は知ってるわね」
「ええ、知っているわ」
 ちらりと、ちゆりを殺そうとした時のことを思い出して、夢美は胸が痛む。なんとなしにちゆりの方へと視線を動かしたけれども、ちゆりの表情は殊更変化しない。下手をせずとも断交を宣言されて然るべき出来事であったろうに、何一つ文句を言わないちゆりの"強さ"が有難かった。
「それでは、それとほぼ同時刻に守矢神社の風祝が姿を消した、というのは?」
「守矢神社の風祝って、早苗?」
「ええ、そうです。東風谷早苗さん」
 懐から小冊子を取りだして、小兎姫は確認している。"捜査手帳"と記されたそれには、筆での書き込みが大量に為されていた。
「昨日の夜、神社から"ちょっと買い物に"と出たまま、戻っていないそうです」
「どっかに泊まっただけじゃないのか?」
 横からちゆりが口を出す。
「あの早苗さんが、諏訪の神様に無断で宿泊なんてする?」
 夢美は早苗の人間像を思い起こす。早苗とは、外来人であるという繋がりもあって、割合親しくさせてもらっていた。人里で一緒に食事をしたり、家に招いたり。逆に神社へ招かれ、ご馳走になったこともある。性格はかなり真面目で、でも要領のやたらいい人間だった、と思っている。幻想郷に定着せんと、ネジが15本くらい外れた他の人妖に合せて割とはっちゃけていたりもしていたけれども、それも弾幕ごっこの間だけ。生活に戻ると、やはり真面目真面目に生活している。
「……しないわね」
 故に、夢美は即答する。家に早苗を泊めたこともあるが、その時も必ず諏訪神へ言付していた。それを怠り、神を心配させるような性格ではない。
「それで、どうやら早苗さんは覚りに何かされたらしいってことがわかったのよ」
「覚り?」
 ちゆりと夢美と、思わず同時に声が出る。
「ええ、覚り」
「退治されたんじゃないのか?」
 慧音曰く、永遠亭の八意永琳が覚りは退治した、ということだったはず。夢美もそれは気になった。
「それが、よくわからないのよ」
 小兎姫も困ったような表情を浮かべる。が、このように本当の"警察"をしている小兎姫の方に、夢美もちゆりも困惑を隠せない。
「退治されたのかもしれませんが、暴走現場に早苗さんの下駄が落ちていまして」
「暴走現場に早苗がいた所までは間違いなく、その後の消息がわからないってことね」
「そういうこと。この状況証拠から考えたら、やはり早苗さんは覚りに誘拐された、もしくは、食べられた、としか思えない」
「なるほどねぇ」
 どうやら、昨日の事件はかなりややこしいことになっているらしい、と夢美は思った。そもそも夢美が幻想郷に来て以来、妖怪が人里で暴れたことはない(永夜異変の時に慧音が過剰反応して弾幕ごっこをしていたことはあるけれども、それも所詮は人里側の勘違いに過ぎなかった)。それゆえ人里で妖怪が暴れるということが、どの程度大きい出来事なのかを把握することはできないけれども、尋常ではない小兎姫の状況を見れば、それが大事であるということ自体は伺えた。
「それで、私たちに用事、ってのは何なんだぜ?」
「そう、それでね」
 小兎姫は冊子を閉じて懐に仕舞うと、笑顔になる。その笑顔があまりにも怪しいので、夢美は少し頭が痛くなる。
「貴女たちに、この事件の調査をしてほしいのよ」
「やっぱりね。断るわ」
 夢美は即答した。今は魔力調査で忙しい。魔力パターンの検出に成功したから、今から分析し論文を書かねばならないのだ。学会への復讐が幻想郷に住んでいる目的なのだ。
「言うと思った」
 だが小兎姫も、相変わらず怪しげな笑みで返してくる。
「貴女たち、この難事を解決して幻想郷の英雄になりたくない?」
「なら、自分が英雄になればいいじゃない。私はこの幻想郷で出世しようとか思わないし」
「そういうわけにはいかないのよ」
 言って、小兎姫はまた少し真剣な面持ちとなる。
「反妖怪結社の者たちが、この事件を機に動き出しかねないから、忙しいのよ」
「反妖怪結社ねぇ。でもそんなに警戒すべきなの?」
 何か揉めようものなら全て、弾幕ごっこで解決する幻想郷。例え反妖怪結社が決起しても、弾幕ごっこで始末をつけられるのだからそこまで警戒する必要もあるまい。
「武器も集めてるって情報もあるし、そもそも人里全体で妖怪に対して反発する動きが広がってるわ。あまり私が他の作業に手を取られるわけにはいかない」
 しかし、小兎姫の認識は夢美の認識と全く異なっているらしい。小兎姫がそこまで幻想郷の治安に心配している理由が、夢美には全く理解できなかった。
「それに、貴女たちにもメリットはあるわよ」
「何よ?」
 猶も喰い下がろうとする小兎姫へ、夢美はつっけんどんに答えた。ちゆりに至っては、もはや立ち上がる気満々である。ほとんど話は終わったと、そう思えた。
「捜査にかこつけて、魔力をいろんなところで調査することができるわよ。普段だったら、実験に応じない人々も、応じてくれるかも」
 だが、その言葉の威力は絶大である。ちゆりは再び座布団へ腰を落ち着け、夢美も思わず姿勢を正した。魔力の研究に役に立つものなら、何でも欲しい。
「多くの魔力のサンプルを取る機会もあるし、なんなら稗田家へパトロンになるように働きかけてもいいわ。どう、悪くない条件ではなくて?」
「……悪くないと思うわ」
 悪くない、どころの話ではない。二人にとって非常に魅力的であった。これまで外から持ち込んだ珍しい品々を、魔法の森近くにある怪しげな道具店で売り捌く(外の世界のガラクタも非常に高く売れるもんだから、最初は非常に驚いたものだ。これほど儲かる商売はない)ことで研究資金を調達していたのだが、いい加減売る物もなくなってきていて、資金調達に悩んでいたところである。可能性空間移動船を利用して外の世界の物を手に入れることも考えたが、移動の際のエネルギー源も馬鹿にならない。帰った後に再びこちらに来るだけのエネルギーを外で手に入れられるか、といわれるとそれも微妙だ。いかんせん、もう夢美は外では無職である。
 それに加えて、可能性空間移動船の利用は法で厳しく制限されている。これらを鑑みるに、再び帰ってくるのは難しいだろう。
「で、調査してくれる?」
「……」
 夢美はちゆりと顔を見合わせる。小兎姫の掌に乗せられているようで、とても癪ではあるのだが、それ以上に条件が魅力的である。学会へ復讐するのに資するならば、小兎姫の掌で踊るのも已むを得ないか……。
「いいわ。乗ろうじゃない。早苗にはいろいろお世話にもなってるし、やってあげるわ」
「それは有難いわ。勿論、協力できることならなんでも協力するし、必要な物は何でも揃えるから」
「その代わり、稗田家への働きかけを宜しくお願いするわね」
「わかってるわ。ちゃんと話は通しておくから」
 小兎姫が思いきり頭を下げる。小兎姫に頭を下げられるのは何だか複雑な気分で、夢美は思わず外を向いた。
「それじゃ、これが現場にあった早苗さんの下駄。よろしく頼むわ」
 もう満面の笑みで以て下駄を渡してくる小兎姫に、夢美は少し仕事を受けたことを後悔する。ひょっとしなくても、相当にややこしい話なのだ。
「わかったわ。引き受けたからには必ずきちんと調査してみせるわよ」
 けれども、一度引き受けたからには、それを投げ捨てるというのは夢美の矜持が許さない。こうなったら、小兎姫が黙す他なくなるような調査をして見せよう。
「よろしくね」
 どうにも嵌められた気がして釈然としない気持ちがあったが、夢美は懸命に抑え込んだ。



「本当に引き受けてよかったのか?」
 稗田の家を出て、ちゆりが怪訝そうな顔をして夢美に尋ねる。
「引き受けない、という選択肢も考えられたんだぜ?」
「それもそうだけれどね」
 夢美はちゆりの方を向く。
「パトロンになってくれる、というならば引き受けるしかないんじゃないかしら。このままでは、研究資金が底を尽くのは明白なのだし」
「資金なんて、他から調達する手段を考えればいいと思うが」
「他と言っても、そう出してくれるところはないでしょう。元々、外の人間である私たちにお金を出せというのは、ちょっと厳しい注文よ」
「それもそうか」
 どうやらちゆりも納得したようである。やはり内心、小兎姫に踊らされるのが不満だったらしい。
「それで、まずは何処に行くんだ?」
「まずは理香子の所へ行こうと思ってるわ」
「理香子って、科学者の?」
「そう。彼女、人里の名士の家の子でしょ。人里の動きに詳しいのじゃないかしら」
「なるほど」
 夢美とちゆりは、二人して理香子の住む朝倉邸の方へと足を向けた。



 幻想郷の人間のほとんどが住むこの人里であるが、大きく五つの集落に分けることができた。玄武の沢から流れ出す川に沿って、上流から下流に五つが並ぶ。このあたりは川の上流にあたり、人々はその険しい山と川との間に広がる小平地にそれぞれへばりつくように住んでいる。
 そして五つの集落は、集落の長である肝煎の家にちなんで、上流から順に伊治(これはる)・上(かみ)・稗田・小路(こじ)・霧雨と呼ばれる。
 夢美たちが住むのは霧雨集落であり、つまり、覚りが暴走したのは、霧雨集落である。




 稗田家のある稗田集落から、朝倉家のある小路集落まではそう時間もかからない。20分ほどで二人は朝倉家に着いた。晴れていれば日が高くなってきて暖かくなる時間なのだろうが、細かい雨が降りしきっていて寒いまま。科学魔法で濡れないとはいっても、飛ぶには厳しい気候だ。
 けれども飛んでくる途中で見た、雨に濡れて光る山々の紅葉が非常に綺麗だった。

「最近、研究は捗っているかしら?」
「ぼちぼちってところね」
 夢美の問いに答えながら、理香子は湯呑を二人に差しだした。夢美はそれをすぐ両手で掴む。香りからすると蕎麦茶のようだが、今は香りよりもその暖かさの方がうれしい。
「そう。もし困っているなら協力するわよ」
「貴女たちに協力を頼んだら、研究することが無くなってしまうんじゃない?」
「……それもそうね」
 おそらく誉め言葉だったのだろう。人差し指で眼鏡を上げながら、にこやかに理香子は言う。でもその言葉は、夢美にとって誉め言葉でも何でもない。夢美にとっては、研究することが無くなった、のではなく、元々無かったのだから。
「探求できるものがあるっていうことは幸せだものね。やっぱり、理香子に協力はしないわ」
「あなたに協力されなくたって、私だけで科学を解いてみせる」
「是非、頑張ってほしいものだぜ」
 ちゆりもニコニコしながら蕎麦茶の湯呑を抱えている。空を飛ぶと、手が冷えるのだ。もう少し、科学魔法も改善の余地があるらしい。
「それで、貴女たちから私を訪ねるなんて珍しいわね。何か用かしら?」
「ええ、勿論」
 手がだいぶ温まったので、ようやく理香子はその中身を啜る。今年秋の新蕎麦なのだろう。一口含むと、口の中に蕎麦の豊かで複雑な芳香が広がる。煎り方も丁度良いようで、香ばしさが煩くない。全てが人工物であった外の世界では決して飲めなかった代物だ。
「昨日、何があったかは知ってるかしら?」
「ええ、知ってるわ。何でも、霧雨集落で妖怪が暴走し、逃走する際に早苗を誘拐していったとか」
「情報速いな。当事者の私たちですら、さっき知ったところなんだぜ」
 ちゆりがちょっと驚いたような口調で言う。
「乙名(おとな)衆の集まり、乙名寄合があったから、その経由で聞いたわ」
「なるほど。そういうことね」
 理香子の説明に、夢美は頷いた。確かに今回の事は、乙名衆が寄合を開くに値するの出来事である。
「どういうことなんだぜ?」
 一方のちゆりは湯呑を置いて、何のことなのかと夢美の方に問う。
「あら、知らないの?」
「聞いたことないんだぜ」
「私について、あんたも稗田や霧雨の家に着いてきたでしょうが」
「でも知らないんだぜ」
 夢美は軽く肩を落とす。幻想郷の人里に、一時的とはいえ、住んでいるのだからその仕組みくらい理解しておいて欲しい。
「人里が五集落に分かれるのは知ってるわね」
「知ってる」
 夢美の様子を見てか、理香子が説明を始める。夢美にとっては非常に有難い。
「で、それぞれに集落の長として、肝煎(きもいり)がいるでしょう?」
「伊治集落が伊治(これはる)家、上集落が上(かみ)稗田家、稗田集落が稗田本家、小路集落が万里小路(までのこうじ)家、霧雨集落が下(しも)稗田家だぜ」
「そう。そして、伊治・上稗田・稗田・万里小路・下稗田の肝煎五家に加え、人里の有力者である霧雨家とこの朝倉家の二家を合せた七家。この七家を乙名(おとな)衆とか乙名七家と言うのよ」
「ふむふむ」
 ちゆりはなるほど、と呟きながら聞いている。とはいっても、夢美からしていれば今更の話だ。このちゆりのこと、どうせ一月もしたらまた奇麗さっぱり忘れているだろう。
「人里で何か大きな出来事とかもめ事が起きると、この乙名衆が寄合、つまり話し合いをして解決するのよ」
「それには理香子も行くのか?」
「朝倉家から出るのは、私でなくて私の父。家督を相続してないから」
「へー」
 なんだかとてもいいことを聞いた、とでも言わんばかりのちゆりの表情である。
「それで、乙名衆はどういうことを話し合ったの?」
「守矢の風祝が暴走した妖怪、覚りに誘拐または捕食されたのはまず間違いないということで一致したようよ」
「今のところ、状況証拠から考えてそれは間違いなさそうだものね」
 あの暴走と同時に早苗が姿を消し、しかも暴走現場に早苗の下駄が落ちていた、というのだから、状況証拠から推測すれば早苗が誘拐、もしくは捕食されたとしか考えられない。この幻想郷でそんなことが起きうるのか、というところが夢美には非常に疑問であるけれども。
「そのことを確認した上で、今後の対応が話し合われたのだけれど、これは大揉めしたみたい」
「揉めたっていうのは、議論が活発だったってことか?」
「活発だった、ってならいいんだけど、そうでもないみたいよ」
「活発でもないのに、揉めるっていうのはどういうことだ?」
 議論が活発にもならず、しかし揉める。ちゆりにとっては、思いもつかないらしい。しかし夢美は容易に想像できる。
「否定ばかり先行したってことね」
「そこは、あくまで父に聞いただけだから詳しくはわからないんだけれどね」
 理香子も紫の髪を弄りながら、困った表情を見せる。
「どうやら、乙名衆も真っ二つに割れてるみたいなのよ」
「二つ?」
 それは夢美も初耳である。とはいっても、七家もあるのだから、割れるのも当然と言えば当然かもしれない。
「この朝倉と万里小路、下稗田の三家は、合同して八雲紫への抗議と、妖怪の即刻処刑を提案したのよ」
「処刑って、殺すのか?」
 二人して目を見開く。それはあまりに過酷ではないか。
「スペルカードルールを無視して人里で暴れたからには、極刑が必要だという考えよ。人里で暴れると言うことは、人を侮っている証拠。侮られぬように、見せしめとして殺してしまえ、ってこと」
「それもそうだけれど」
 夢美は、どうにもこの幻想郷にそぐわぬ刑に思えてならない。スペカ対決をして、勝っても負けても最後は宴会やって円満に終わり、というのが幻想郷の紛争解決ではないのか。
「でも、この案に上稗田・霧雨・伊治の三家が反対したようで。この三家は八雲紫よりも永遠亭に協力を求めた方がいいんじゃないかと主張してるみたい。妖怪の処刑というのにも反対してるし」
「目的は一緒なのに手段で喧嘩してるのね」
「だから、議論は活発でもないのに揉めてるのよ」
 理香子は溜息をついた。
「最近、何かを決めようとするといつもこう、分裂して揉めるのよ」
「そうなの……」
 人里の長たちが割れている、というのが夢美にはイメージできない。だから夢美は、人里の長たちが幻想郷のことを全員が真剣に考えているから、考えに基づいて割れているのだろうと思った。何かを決める時に、半分ずつに分かれてしまうというのは、良くある話。考えていればこそ、甲乙つかぬ問題について、半分に分かれて決まらないことがある。この中できっと、懸命な議論が行われているに違いない。建設的ではないか。
「多数決で決めるっていうわけにもいかないし、大変なのよ」
「それは、大変でしょうね」
 両方が、人里を思って主張しているのだから、折れもしないだろう。それは、決まらないだろう。だが議論の先により良いものが見えている。テーゼとアンチテーゼがぶつかって始めて、止揚するのだ。
「私としては、八雲紫にどうにかしてもらいたいと思ってるところだけれどね。むかしから、妖怪と人間のトラブルを調停したのは八雲なんだし」
 軽い溜息と共に、理香子は言葉を吐き出す。
 きっとこれは人里全員の本音なのだろうな、と夢美は思った。この幻想郷は、人と妖怪とが平和に共存する世界。その平和が僅かに崩れた場合、それを立て直すのが紫の仕事なのだろうから。






 夢美が生まれてすぐのころ、物理学会に「宇佐見式」という式が発表された。中学生でもわかる、変数も少ない簡単な式だ。それが、この世の物質や力や、全てのことがらを説明する式であるという。この式は人間が最も求めていた式であり、そして物理学のピリオドとなる式である。
 「宇佐見式」は、それまで理論的に行き詰まっていた超ひも理論を、一挙に解き放った。至極簡単なたった一つの式は、超ひも理論の存在を証明し、その理論をゆるぎないものへと変えてしまった。

 それでも、しばらくは物理の命脈は続いた。たとい理論物理ですべきことが無くなったとしても、それを実験で実証するということが残っている。
 そう思われたのだが、それもほんの僅かな猶予であった。「宇佐見式」の発表からわずか3年後、実験によって「宇佐見式」の正しいことが証明されてしまった。時代の進歩とは急激で、膨大なエネルギーを要する実験も、恒星のエネルギーを利用して宇宙空間で行うことが可能になったのである。
 その華麗な実験の端緒として、「宇佐見式」の証明が行われ、晴れて正しいことが実証された。
 ここに、物理学は探求するものを失ったのである。

 少なくとも現在わかっている物理現象は、ありとあらゆるものが「宇佐見式」で説明できるとされてしまった。もはや、この世界に説明できない物はない。物の"真理"を掴んだ物理学は、探求する物を失ったのである。

 それ以来、物理とは「宇佐見式」に当てはまらぬ物を探そうとするごく一部の反骨精神のある人間と、大学で落ちこぼれて物理学科以外に行く場所を失った人間の為の学問となった。より上手く「宇佐見式」を物ごとに当てはめるだけの、もしくは、「宇佐見式」を現実世界へ如何に適用すればより上手く利用できるか、ということを捏ねくり回すだけの学問に成り下がったのだ。
 ノーベル物理学賞も、「宇佐見式」を発見し"物理学を終わらせた"宇佐見教授を最後の受賞者とし、打ち切られた。

 だから夢美が物理学を志そうとすると、周りの誰もがそれを止めたものだ。制度的に可能になったとはいえ、本当に一桁の年齢のうちに大学へ入学してしまった神童が、既に終わった落ちこぼれの学問である物理学を専攻するなど、ほとんどの人間にとって勿体ないという他なかったのである。
 けれども、夢美は物理学専攻の夢を貫いた。夢美は、世界がそんなに簡単に表せるなんて信じたくなかったのだ。物理学者は誰もかれも、「世界とは簡単な式で表せるに違いない」というけれども、本当にそうだろうか。この巨大な宇宙はむしろ、人間にはわからないような理論でできているのではないのだろうか。

 そんな夢美の指導教官に付いてくれたのは、世界一偉大な物理学者であった。「宇佐見式」を発見した宇佐見教授である。彼女は既に定年間近であったが、物理学会の会長を務める他、理学部長も務める多忙の人であった。にもかかわらず、夢美のことを聞くと研究室に迎え入れてくれたのである。
 宇佐見教授に最初に会った時のことを、夢美は鮮明に思い出すことができた。幼いながらに感じたあの、圧倒的な人間の器には、一目で魅せられてしまった。物理の教授とは、こんなにも人格の整った素晴らしい人間なのだ、という夢を持った。

 そしてそんな幻想は、宇佐見研の学生として始めて物理学会に出た際に、悉く破壊された。

 非常に瑣末なことで二派に分かれて対立する教授たち。だが、物理の本質などどうでも良いようでただ漫然と議論を続けるだけ。どの教授からも真剣味というものが全くといって感じられない。議論しなければならない、という義務感に狩られて議論をしている風が伺える。その議論は見掛け倒しであるというのが、まだ学士すら取っていない夢美にも一目でわかった。まるで何かの劇でも見ているのではないか、とさえ夢美には思えた。
 この議論にこうも中身がないのは、台本が既に決まっているからではなかろうか。
 一方で宇佐見教授は、会長として祭り上げられた椅子に座ったまま何も発言はしなかった。いや、できなかった。空虚な議論を続ける教授共は、しかし一丸となって宇佐見教授を牽制し続けていたのである。
 幼心に、いや、幼かったからこそかもしれない、夢美は直観してしまった。この人達は、物理に関する議論なんて本当にどうでもよいのだ。彼らが求めるのは、学会の中での自分の権威だけ。物理学そのものなんて、眼中にはない。

 そんな夢美の推測は、間もなく証明された。宇佐見教授の定年に伴う次期物理学会長選出の議題が出されるや、これまで見掛け倒しで気だるげに議論していた教授陣の人相が変わった。今まで台本通りの討論をしていた二派が、次期会長候補を巡って本気で議論を始めたのである。

 そういうことか、と夢美は納得した。要するに、次期会長候補を巡って二派が対立しているだけなのだ、と。その道具として一応物理の学説を使ってはいるけれども、あくまで道具としての意味しかない。自分たちが権威を握りさえできれば、物理の学説がどうなってもいいのだろう。
 そんな連中が、一つの学問を握っていると思うと、夢美は残念でならなかった。






 暫く様々な雑談を続け、昼食のお世話にまでなってから、夢美とちゆりは朝倉邸を後にした。相変わらず糸のように細かい雨は降り続けていて、寒い。
「で、次はどこに行くんだ? 人里の上層部の話はわかっても、事件の話は何にも手に入らなかったぜ」
「稗田の家人である小兎姫があれしか知らなかったのだから、理香子も事件そのものの情報は持っていないことくらい、わかるでしょう」
「それもそうだけどな」
 夢美の指摘に、ちゆりは若干頬を膨らませる。だがそんな程度で謝らされるほど、夢美とちゆりの付き合いは短くない。
「次は博麗神社に行くわよ。妖怪の暴走というなら、博麗の巫女がまず動くものだし、事件についても詳しいだろうから」



 博麗神社は人里からは少し遠い。飛んで行っても1時間ほどはかかる。その上、人里の外にあるのだから、まず一般人に参拝は不可能。挙句の果て、博麗神社に行くと吸血鬼だったり鬼だったりがうろうろしている。
 霊夢が参拝者の少なさを嘆いているのを見たことがあるけれども、参拝しろというのも無茶な話だ。
「あら夢美じゃない、珍しい。素敵なお賽銭箱はそこよ」
「私、最近諏訪の神様を信仰するようになったから、博麗神社にお賽銭入れてもしょうがないわ」
「諏訪の神様向けの素敵なお賽銭箱はあちらよ」
 言葉だけを聞くと、どうにもがめつい感じがするが、けっしてそういうことはない。霊夢の左手こそ、脇に置かれた守矢の分社の方を指差しているが、本人は新聞を読みながらお茶を啜っているのだ。どう見ても、賽銭なんてどうでもよい、という風体だ。
「諏訪の神様向けもできたのね」
「いろいろな神様に対応しているのよ」
 夢美の言葉にも、霊夢は適当に答える。新聞へ意識が行っていて、人の話なぞ半分も聞いていないのがバレバレである。
「雨でこんなに寒いのに、戸も開け放って新聞読んでて、寒くないのか?」
 この霊夢の異様な光景に、とうとうちゆりが突っ込む。そう、今は雨である。細かい雨が降りしきっている。部屋の中で火を焚いても良いくらいの温度なのだ。それなのに、霊夢は戸を開け放って一人茶を啜りながら新聞を読む。
「結界で雨風を遮断してるし、中でちゃんと火を熾してるから寒くなんてないわよ」
「結界、ねぇ」
 魔法の一つも使えない夢美からしてみたら、完全に魔法の無駄遣いである。否、おそらく人里のほとんどの人間がそう思うだろう。人里の人間たちには術を使えるものが多いが、それでも結界を張るにはある程度の儀式が必要だからだ。まるで呼吸するように結界を張って見せる霊夢からしたら、日常動作なのかもしれないが。
「私たちも上っていいかしら? そろそろ立ちっぱなしだと寒いのだけれど」
「どうぞ、勝手に」
 相変わらず新聞に目をやっていて、夢美たちには目を呉れない。それも仕方ないか、と夢美は神社に上がらせてもらう。確かに霊夢の辺りは風も雨も入ってこないし、暖かい。
「そんなに新聞面白いのか?」
 ちゆりは早速霊夢の読む新聞を覗きこんでいる。
「大して面白くもないわ。文もこんなこと書いて何が楽しいのだか」
 あらかた読み終わったのか、霊夢は新聞を閉じて立ち上がる。対して夢美は、机のそばに置かれた座布団に座った。
「それで、何の用かしら? また望みを叶えてくれたりするの?」
 最初に此処へ来た時、皆の望みを叶えると言って酷い目にあったのは懐かしい。霊夢にはメイドロボをプレゼントしたはずだが、次来た時に返された。同居する存在がいるというのが、霊夢にとって面倒だったのかもしれない。結局あのロボットは外の家に置いてきたけれども、今ではどうしているだろうか。
「それは勘弁願いたいわね。もうあんな目に遭うのはこりごりよ」
 こりごりではあるけれども、あの時の騒動は夢美の人生の中で――と言っても、約20年しかないが――最も楽しい記憶であった。ああやって馬鹿騒ぎして馬鹿馬鹿しく終結したああいう"遊び"なんて、外の世界では全く経験に無かった。
「じゃあ、何の用かしら?」
「人里で妖怪が暴走したのは知ってるのか?」
 夢美が次の言葉を言う前に、ちゆりが聞いた。
「知らないわ」
 急須からお茶を注ぎながら霊夢は答える。その声は非常にそっけない。まさにへぇ、と言ったような感じである。
「驚かないのね」
「なんとなく、そんな気がしたのよ」
「そんな気?」
「そう。昨日、何となくそんな気配を感じたのよ。だから人里に行こうかな、と思ったけど、やっぱりやめちゃった」
 ひょっとしたら、これが鋭いと有名の"巫女の勘"なのではないか、と夢美は直観的に思った。霊夢が異変の度に異変を"感知"し、それを解決するというのは、人里の誰もが知っている。そしてその"感知"する手段が、"勘"なのだという。今回の事件も、それで感じたのかもしれない。
「気配を感じたのに、行かなかったの?」
「やっぱり行かなくていいような気がしたから、行かなかったのよ」
 二人にお茶を出しながら、平然と霊夢は答える。霊夢からしてみれば本当にただの気持ちの変化なのかもしれないが、本当にそうと言えるかどうか、夢美にはわからない。
「それで、暴れてどうなったのかしら?」
 夢美の向かいに座りながら、霊夢は問う。その目線はお茶の方であり、夢美やちゆりにはない。
「永遠亭の薬師が追い払ったらしいわ。でも、それと同時に早苗が行方不明になっている」
「早苗が?」
 霊夢は始めてその漆黒の瞳を夢美の方へと向ける。
「ええ。人里では早苗が、暴れた妖怪に誘拐されたか捕食されたと考えてるみたいよ」
「ふーん」
 てっきり、興味津々に聞くのかと思いきや、霊夢は再び視線を下へと落とした。お茶を見るのが、そんなに面白いのだろうか、と夢美は少し思う。
「それで、私たちがこうやって調査することになったから、博麗神社に来たってわけよ」
「頑張ってね」
 あまりの霊夢の覇気の無さに、夢美はかなり拍子抜けしている。妖怪が人間を誘拐した、と聞けば一目散に飛び出してゆくとも思ったのだが。誘拐されたのが、同業の早苗であるのだし。
「……異変なのに、霊夢は動かないのか」
 こう言う時に、ちゆりは便利である。夢美が疑問に思った事を、いつも先に問うてくれる。
「異変、まあ異変なのかしら」
 ずず、とお茶を啜ってから答える。
「でも、今回はなんか行く気が起きないわ」
「行く気が起きない?」
「外は雨が降ってて寒いし、面倒くさいのよ」
 何と正直な、と夢美は感嘆さえした。妖怪が暴走して、人里でひと騒動起こっているのに、"面倒くさい"の一言で異変解決を一刀両断してしまう霊夢に、夢美は半ば尊敬の念すら持つ。"空飛ぶ巫女"の名は伊達ではない。
「面倒くさいって、早苗がどうなってもいいのか?」
「どうなりもしないと思うわよ。殺しても死なないでしょ、アレ」
 霊夢はにべもない。早苗が移住して来た時、いきなり神社廃業を迫られたというから、なにか悪感情でも持っているのだろうか。
「第一、もし殺されそうにでもなったら、守矢の神さんが許さないでしょうしね。早苗より先に幻想郷が吹き飛ぶわよ」
「それもそうね」
 考えても見れば、諏訪の神が動かないというのも、不自然と言えば不自然である。早苗が危ないからと、いきなり幻想郷を吹き飛ばすようなことはしないと思うが、助けることくらいは容易いだろう。
 だが、それと霊夢が動かない理由とは、別の理由であるように、夢美には思えた。なにせ、人里での妖怪の暴走をああも正確に感じて見せた霊夢である。きっと、霊夢が動くのを面倒くさいと感じるのも、何か理由あってのことなのだろう。
 これを実験すると非常に面白い結果を得られそうだ、と思ったが、同時に少し無理だろうとも思った。霊夢が研究や実験なんて、面倒な事に参加してくれそうにないからだ。
「とりあえず、私は今日どこかに行く予定はないわ。事件の解決、頑張ってね」
 最初と全く同じような、大して興味もなさそうな表情で、霊夢は気だるげに言った。



 全くやる気のない霊夢から話を聞き終えた夢美たちは、次に守矢神社に向かった。誘拐された早苗の動向を聞けば、もう少し事件の全容が見えて来るのかもしれない。それに、守矢神社の神様二柱が全く動かない理由というのも聞いてみたかった。
 だが、守矢神社もこれまた遠い。妖怪の山の山頂では流石に気候的にも地形的にも厳しすぎたようで、今、本社は妖怪の山中腹、人里からも登れる位置にある。なんでも天狗と交渉し、一部分を神領として献上させたらしい。それでも、博麗神社からだと結構な距離である。
「……寒い」
「楓が真っ赤なんだぜ。下だとまだ青いのに」
 降りてきたとはいっても、やっぱり山は山である。麓の人里から比べると、かなり気温が低い。雨に濡れる楓が、鮮やかな赤で境内を染めている。だが、それに見とれるには気温が低すぎた。
「さっさと訪ねるわよ」
「了解だぜ」
 大きな大きな注連縄が掛かっている社殿へと、夢美とちゆりは急いだ。

「これはこれはわざわざこんな所まで御苦労様」
 中には既に二柱が揃っている。広い部屋の中心で、せせこましく二柱して火鉢に当たっている様子は、とても神には見えない。けれども、決して悪い意味ではなく、むしろ神と人との近さを感じられた。
「寒いでしょ、二人もこっち来なよ。暖かいよ」
 蛙の帽子を被った少女が、手招きをする。神と一緒に火鉢に当たるというのは、恐れ多いことではあるけれども、それよりもまず寒さが勝った。夢見もちゆりも火鉢の近くへ寄る。
「あ、暖かい……」
「生き返るぜ……」
「下とはだいぶ気温が違うからねぇ」
 相変わらず火鉢に手を翳したまま、青い髪の女性が言う。こちらは、少女というよりは女性と言ったほうが適当なように、夢美には思える。実年齢はもちろん、外見も夢美より年上だ。
「で、そちらの二人さん、神さまに何の用かな?」
 手はそのままに、顔だけを夢美たちの方へと向ける。
「あ」
 この寒さから逃れたいというためだけに、何もかも素っ飛ばしてしまっていることに、夢美は始めて思い至る。始めて会ったというにも関わらず、火鉢の誘惑に誘われてズケズケ入り込んでしまった。
「申し遅れました。私は、人里に住んでいる岡崎夢美という者です。こっちが私の助手の、北白河ちゆり」
 一度火鉢から離れてきちんと頭を下げる。なにせ、相手は神だ。既に遅いが、やはり無礼は許されまい。ちゆりもきちんと付いてきて頭を下げた。その辺りの礼儀に関して、ちゆりは心配しなくてもいい。
「私、会ったことあるよね」
 けれども、神さまは礼儀にはあまりこだわらないらしい。蛙帽子の少女が、ぐい、と前に出て来る。片手で神奈子を追いやっているのが抜かりない。
 しかし、夢美は咄嗟に思いだせなかった。横目にちゆりを見るが、ちゆりもわからないようである。蛙帽子の少女なんて、知り合いにいたかしら?
「ほら」
 彼女はすっと帽子を外す。その姿を見て、ようやく夢美は思い出した。
「ああ、早苗と一緒に居た!」
「そ、洩矢諏訪子だよ」
 諏訪子と名乗った少女は、再び帽子をかぶる。帽子の印象が強烈で、そちらに気が取られてしまったらしい。存外、わからぬものだ。
「あんた、何処で会ったのよ」
「早苗にくっついて人里に下りた時に。一度だけだけど」
 屈託のない笑顔で、諏訪子は笑う。その姿に、青髪の女性は少し顔をしかめる。それから、諏訪子を端へと追いやって、夢美たちに相対した。
「いつも早苗から話は聞いてるわ。私がここの神の八坂神奈子。早苗がお世話になっているそうね、有難う」
「いえ、こちらこそいつも早苗にはお世話になってます」
 もう一度軽く頭を下げてから、夢美は再び火鉢に戻る。広い部屋の真ん中で、四人がせせこましく固まっているのは、かなり妙な光景であるのは間違いない。けれども、やはり火鉢がないと寒い。
「それで、今日はその早苗のことでこちらに来ました」
「やはりね」
 神奈子は、左手で奥を指し示しながら答えた。左手は、諏訪子への合図らしい。
「ちぇ、全く。自分で取りに行けよ」
 その仕草だけで、ブツブツ言いながらも諏訪子は立ち上がる。これぞ以心伝心と言ったところだろう、と夢美は感心した。二人でどつきあってこそいるが、要するに、仲がよいのだろう。
「早苗が一人で出かけること自体はよくあるが、連絡もなしに夕飯まで帰ってこない、ということはまずないからね。何かあったとしか思えないよ」
「やはりそうか」
「そうだね」
 ちゆりの言葉には、奥から出てきた諏訪子が答えた。先ほどの神奈子の仕草は"火鉢を取ってこい"だったようで、火鉢を抱えている。
「他の人間ならいざ知らず、早苗の性格から考えて、今日になっても帰ってきていないということは、やはり何かあったとしか思えないね」
 そうか、と改めて夢美も納得する。早苗が何か事件に巻き込まれたのは、間違いないらしい。
「でも、その割に平気そうだよな。もう死んでるかもしれない、ってのに」
 ちゆりが率直に問うた。諏訪子の持ってきた火鉢に二柱して当たっている、この神たちは妙に楽天的である。家族が死んでるかもしれない、って時にこうも明るくしていられるだろうか。
「何で早苗が死んでるかもしれないわけ?」
「妖怪に捕食された可能性もありますよ」
「ないよ」
 二柱、双方がほぼ同時に否定する。
「早苗が生きてるかどうかくらい、私たちにもわかるもの。神だし」
 その理由を、至極当然な理由で、二人は言ってのけた。
「……なるほど」
 神だし、という言葉以上に説得力のある言葉はあるまい。神階正一位・諏訪大明神ともあれば、巫女一人(正確には巫女ではないが)の生存確認なんて容易かろう。
「では、それで場所もわかるんじゃない?」
 もし生存しているかどうかがわかるならば、場所がわかっても良いだろうに、と夢美は思った。そこまで妙な考えでもないはずだ。そしてもしこの神たちが早苗の場所を知っているなら、事件は解決である。
「わかんないね」
 だが、その希望はあえなく潰える。
「早苗にも"ぷらいばしー"ってものがある。年頃の娘だし、いくら神だからって四六時中監視するわけにはいかないだろう」
 それもそうだ。早苗だって、神に監視され続ける生活は好むまい。もし自分が早苗だったら絶対にいやだろうな、と夢美も思う。
「どっちにしろ、誘拐されてるには違いなさそうだが、こんな調子でほっといてもいいのか?」
「今は人里が解決に動いていてくれるみたいだし、私たちが下手に動くのも良くないだろうからね」
 一つ目の火鉢の炭を、火箸でいじりながら神奈子は答える。
「必要以上に神が、人里の騒動に介入するのは避けたい。人里の騒動は、人が解決すべきだ」
 神奈子の言葉は至って平静であったが、夢美には極僅かに、感情のブレが感じられた。かくて、ああ、と夢美は覚る。彼女たちは動かないのではなく、動けないのだ。こうして楽天的にしているのも、きっと楽天的にしていなければやっていられないからだろう。
「早苗の身がどうしようもなく危険になったら、向こうから知らせて来るだろうからね。怪我しているなら、こちらでもわかるし」
 彼女たちにとっては、早苗の安全確認が取れているのが救いなのだろう。もしこれすら無かったら、本当に狂乱するしかなかっただろう。
「そういうことで、私たちの知っているのはその程度だ。申し訳ないが、早苗の事は宜しく頼む」
 ごく自然に、神奈子は頭を下げる。その動作に、夢美は激しく慌てた。神に頭を下げられるなんて、とても恐れ多い話だ。
「いえ、頭下げられても……」
 夢美は後ずさる。恐れ多くて、咄嗟に反応できなかった。
「協力できそうなことなら、なんでもしよう」
 顔を上げた神奈子の瞳は、真剣そのものである。そこには、神だとか人だとかといった種族を越えた感情というものを見出せるように、夢美には思えた。
「では、必ず、事件を解決してみます」
 改めて夢美は、この事件を引き受けた重みを感じていた。小兎姫に乗せられた形ではあるけれども、解決するために調査を始めた以上、やはりやり遂げるのは重要なのだ。
「頼むよ。強引な事したくないし」
 頭を下げる神奈子を、何となく見つめていた諏訪子も言った。神奈子と違って、その表情はどこか冷めている。
 だからこそ却って、夢美は解決の必要性をひしひしと感じた。解決しなかった時に、諏訪子が何をしでかすかなんてあまり考えたくない。



 二柱から早苗の神具を借りて、二人は守矢神社を後にした。ああやって平生を装ってこといるけれども、やはり心中不安なのだろう。無理もない話だが、度を失った神ほど怖いものはなさそうである。
 とはいっても、そこの幻想郷で、果たして誘拐事件なんて起こりえるのだろうか、という疑問が夢美の中には今だにあった。どんな紛争もスペカルールで解決しているのに、そんな中で誘拐だとか妖怪の暴走だとか、少し不自然ではなかろうか。なにせここは外の世界じゃない。人妖が平和に暮らす、幻想郷なのだ。

「それで、今日はこれで終わりなのか?」
「馬鹿ねぇ。終わりなわけないでしょう」
 二人は、一度霧雨集落にある家に戻ってきていた。山から一番離れた集落であるから、人里を縦断する形になっていた。今日だけでいったいどう動いているのだか。
「今から暴走現場に行くわよ。魔力測定装置持って」
「魔力測定装置、ってことはパターン調べてみるのか?」
「何のために神具借りてきたと思ってるのよ」
 言いながら、夢美はちゆりに神具を渡す。
「先に下駄と神具の魔力パターンが一致するかどうか確かめておいてくれるかしら。私、妖怪が暴走したときにパターンデータを拾い出しとくから」
「了解!」


 下駄と神具のパターンが一致したことを確認して、二人は家を出た。やはり下駄が早苗のものであると言うことは間違いないらしい。
 暴走現場は、集落内の川べりである。一番山側にある夢美の家からすると最も遠い場所に位置するが、集落自体が狭いから充分歩いていける距離である。暴走現場から遠い場所に住んでいた夢美ですら影響を受けたと言うことから推測するに、暴走した覚りは、かなりの実力者だったのだろう。
「……残留魔力量の値、凄まじいことになってるわ」
「1日経ってこれって、恐ろしいんだぜ」
 そしてそれは数値からも明らかになる。スペカ決闘中でもそうそう出る値ではない。それこそ吸血鬼だったり、強力な法力僧だったり、神だったりが出す数値だ。
「じゃ、パターン検出始めるぜ」
「よろしくね」
 後でちゆりが画面とにらめっこしているのを余所に、夢美は辺りを見回してみる。握りこぶし大の石でできた河原である。割合広い空間で、スペカ決闘には充分だろう。
 川の対岸に広がるのは水田だが、すでに刈り取りはすべて終えられ、切り株が枯色を空しく晒している。その向こうに立ちはだかる山々は、赤や黄色の鮮やかな斑模様に塗られている。川の上を冷たい風が吹き渡り、晩秋の風を表していた。
「……出ないぜ」
「出ない? 早苗のが?」
「全部」
「全部?」
 夢美は首を傾げた。早苗が、何らかの術を使う間もなく連れ去られたとするならば、早苗のパターンが出ないということがありえるかもしれない。でも、覚りが暴れたのは間違いないから、研究室で感知した覚りのパターンが出ないのは、おかしいのだ。
「そんなことないでしょう。感度間違えたんじゃないの?」
「んなわけないだろ。3回やって3回とも出ないんだぜ」
 抗議するちゆりを余所に、夢美は画面を覗き込んだ。非常に乱れた波長が、そこには描かれている。
「でもこれ、あまりにおかしくない?」
「私もおかしすぎると思うんだぜ。でも、何度やってもこれが出る」
「貸しなさい」
 画面の前に座るちゆりを追い出し、キーボードを奪い取る。ひょっとしたら、ちゆりが操作を間違えただけかもしれない。
 だが、そんな期待は空しく裏切られた。夢美がやっても、やはり理解不明な波長が感知されたにすぎなかった。
「……なんで?」
「ほら、やっぱり合ってるじゃないか」
 夢美は首を傾げながらも、ちゆりの言葉を認めるしかなかった。この結果が、正しい結果らしい。
「そうね。この膨大な魔力で干渉しちゃったのかしら」
「それくらいしか理由が思いつかないんだぜ」
 膨大な魔力ではあるが、感知限界は越えていなかったはずだ、と夢美は考える。この機械、魔力が大きくても誤差は少ないはず。幻想郷を吹き飛ばせるくらいの魔力量でも検出できるはずなのだ。
「要するに、現場からは収穫なし、と」
「少しでも手がかりをつかめると良かったのにな」
「全くね。これじゃ、何にもわからない」
 夢美は首をすくめた。けれどもどこかで、流石は幻想郷、とも思っていた。科学的手法が何も役に立たないからこそ、ここは幻想郷なのだ。



 結局二人は、何の収穫を得ることもなく現場を離れた。既に外は暗くなり始めている。秋も終わりとなれば、夜も長い。そして日没は、ほとんどの人間にとっての生活の終わりだ。電気もない幻想郷では、明かりは専ら燈明に頼る。これは電気に比べてはるかに暗いから、作業するには厳しいのである。
 ただ、この霧雨集落だけは少し話が別である。霧雨家を筆頭にして商家の多い霧雨集落では、妖怪向けに開かれた店もある。妖怪の活動時間は主に夜であるから、夜開く店も多い。つまり、霧雨集落は夜になっても店の締まらぬ不夜の町である。
「こんばんは~」
 閉じる店と開く店とが入れ替わる霧雨集落の中、二人は最も大きい店に入る。霧雨道具店だ。
「おう、こんばんは。夢美ちゃん、今日はどうしたんだい?」
 店に入るや、壮年の男性が話しかけて来る。この霧雨道具店を切り盛りする"霧雨の親父さん"だ。残念ながら、夢美は本名を知らない。皆から"霧雨の親父さん"と呼ばれているから、夢美もそう呼んでいるだけなのだ。
 幻想郷の人間にしては珍しく、栗色の髪を後ろに結んでいるが、その格好が若々しい。あの霧雨魔理沙の父親の年齢にはちょっと見えない。
「ごめんなさい。今日は買い物じゃないのよ。ちょっと親父さんに用事があるの」
「へぇ。そりゃ何だい?」
 霧雨道具店は昼の店。彼は外に出してた看板を中に仕舞う所であったようだ。
「昨日の事件についていろいろ話を聞きたいの。いいかしら?」
「もう店じまいだからやることもない。老人の話相手になってくれるなら歓迎だ」
「どこが老人よ」
「夢美ちゃんやちゆりちゃんに比べたら、私は老人だろう」
 "霧雨の親父さん"は豪快に笑って見せる。この快活さが、きっと彼の魅力の一なのだろう。霧雨魔理沙に遺伝していることは間違いなさそうだ。
「さぁ、外は寒い。中に入った入った。大したものはないが、茶くらいなら出せるぞ」


 霧雨集落は、少し事情が複雑である。集落の名前こそ、人里最大の商家である霧雨家から頂戴しているけれども、集落の長・肝煎は霧雨家ではない。肝煎は稗田家の分家にあたる下稗田家であり、霧雨家から少し離れた場所に屋敷を構えている。
 だが、集落の人々の人望を集めるのは霧雨家だ。商家であるということもあるし、当主の性格もあるだろう。だから霧雨集落のことを知るならば、下稗田家に行くより霧雨家に来た方がよくわかるのだ。


「それで、昨日の話を聞きたいのよ」
女中さんが出してくれた煎茶を啜りながら、夢美は問うた。その問いを聞くや、"霧雨の親父さん"の表情は一変する。これまでの朗らかな雰囲気は消え、厳しさすら感じさせる。
「妖怪暴走の話だな」
「そうよ。妖怪暴走の話。あの時に一体何が起きたのか、知っている人はいなかったかしら」
「おらんな」
 彼は即答した。その語気は強い。
「夢美ちゃんもちゆりちゃんもこの霧雨集落に居たならわかると思うが、あの妖怪は精神操作をする妖怪だった。この集落に居た者は一人残らず弄られてしまっているから、正しい認識を持った者はいなかった。犠牲者が出なかったのが、奇跡といってもいいだろう」
「そうですか」
 夢美は少し落胆した。ひょっとしたら、掛からないで済んだ人間がいて、その人が何らかの新しい証言をくれるのではないかと思ったのだが。
「もし誰かが見ており、暴れた妖怪の見当さえ付いていれば、どうにかすることもできようが」
 彼は、両手のこぶしを握り締め、強く歯を噛み締めている。怒りと悔しさとの綯い交ぜになったようなそぶりである。
「どうにか、って殺すのか?」
 ちゆりが普段より幾分小さい声で問う。彼の怒りの前に、気押されていたようだ。
「我々が妖怪を殺してどうする」
 だが怒る彼の姿からは、思いもつかないような言葉が出る。
「結界敷設前ならいざ知らず、今は妖怪と人とが共存してこの幻想郷の社会を築き上げている。儂は妖怪が人をを人里内で勝手に襲った事に怒っている。だが、逆に人が妖怪を無断で退治するのもまた、共存を妨げるだろうが」
 理香子とは全く違うことを言うな、と夢美は思った。
「共存ねぇ」
「妖怪が多いのだから仕方あるまい。もし我らが妖怪と戦う道を選んだら、全滅するしかないからな」
 この言葉が、彼の危機感を感じさせた。人里は人を喰って生活する妖怪に囲まれているのだ、と。
 けれども、夢美にはそれが現実感を伴わない。夢美が移住してきて以来、妖怪と人とが争いになっても全てスペカ決闘でどうにかしてきた。人が食べられた、という話もほとんど聞いたことがない。
 だから、人里が危険であると言う彼の認識が、どうしてもわからない。彼の言に従えば、"仕方なく共存している"という風に聞こえるが、そもそも幻想郷は双方が望んで人妖が共存しているのではなかろうか。
「このような状況にあるから、どうしても我らは後ろ盾を必要としている。これまでは、八雲紫に頼んできた」
 妖怪の賢者として、人里でも良く知られている八雲紫。彼女によって人と妖怪との均衡が保たれていたという認識は、間違いないだろう。
「ところが、今回、この人里を救ったのはどこか知っているか?」
「永遠亭の薬師だって聞いたわ」
「そう、八意永琳氏が偶然この集落に居たから、我々は助かったのだ。永琳氏には感謝してもしきれぬ」
「全くです」
 もし永琳が霧雨集落にいなければ、人里は大惨事を免れ得なかったに違いなかろう。その点で、永琳に大きな感謝を抱くのは当然である。
「一方の八雲紫はどうしていた?」
「……」
 八雲紫が出てきたという話は、全く聞いていない。もしかしたらもう動いているのかもしれないが、なにせ居所を掴むことさえ難しい妖怪である。
「少なくとも見える形では何もしていない。今回暴れた妖怪を捕まえることすらしないのだ」
 言われてみれば、不思議な事だ。暴れた妖怪を捕え、殺さぬまでも何らの懲罰を加えるくらい、やってもいいはずだ。ところが、今回八雲紫は不気味な沈黙を保っている。
「それで、儂は今回思ったのだ。いっそ、八雲紫に頼らず、より近い永遠亭を頼った方がよいのではないか、とな」
「紫とは関係を切る、と?」
 "霧雨の親父さん"が永遠亭に対して抱く期待は、かなり大きいようである。考えても見れば、妖怪の賢者として著名ではあっても、直接人里と関わりはない八雲紫より、薬という形で人里に多大な貢献を為している永遠亭の方が、親近感もあるだろう。
「関係は切らぬ。切らぬが、永遠亭との関係をもっと強めた方がよいだろうと思う」
「そこは、紫が動くことを望むんじゃないの?」
「もう望めまい。八雲紫に見切りをつけるところだろう」
「理香子は、まだ紫に期待していたわね」
 ふと、夢美は思いだしたことを口にした。何気ない一言だったが、その直後に乙名衆の対立の話を思い出した。理香子の朝倉家らと霧雨家らとで、大きく意見が異なっていたんだ、と。
「理香子というと、朝倉の所の娘だったな」
「ええ」
 殊更"霧雨の親父さん"の機嫌が悪くなった風はない。いきなり怒りださなくてよかった、と夢美は少し安堵する。横からのちゆりの目線が痛い。
「あの娘自身は良い子なのだが、あの朝倉の連中の考えは、この人里を壊しかねない」
 彼の言葉は、決して怒りや恨みなどに染まってはいない。ただただ、人里への危惧がその言の後から伺える。
 そしてその言葉が、朝倉と霧雨との間の溝を決定的に物語っていた。


 "霧雨の親父さん"との話の中で、夢美は人里の中で対立が起こっている、という事実にようやく実感を持ちつつあった。人間が集まれば、こうして意見を巡って対立するのは必然なのだろう。
 それでも、と夢美は思う。中身の無い、あの学会の如き対立とは違う。
 だからまだ、この対立には意味があるはずだ。
 夢美はそう思っていた。
 あの学会を再び見るのだけは、ごめんだったのだ。



 雨は降りやまない。月も星も厚い雲に覆われ、ただ闇だけが夜を支配する。冷たい冷たい雨が幻想郷に降り注いでいた。





三日目

 夢美は起きた途端に窓へと向かい、外を見た。朝ではあるが、雲のせいで暗い。雨脚も強まっていた。雨が屋根を叩く音も、昨日より大きくなっている。
 こうした陰鬱な天気が夢美には気に喰わない。気に喰わないからと、どうもできるわけではないが、こうも雨だと気が滅入るのだ。
 うーん、と夢美は大きく背伸びをした。気が滅入ったので一日寝ている、というわけにも行かない。やるべきことがあるのだから、


「突然来ちゃって申し訳ないわね」
 二人は、朝から早速永遠亭を訪れていた。昨日、霧雨の親父さんが、頻りに永遠亭と人里との関係を築くべきだと言っていたこともあり、また事件の関係者でもあるから話を聞くべきだと思ったのである。
「いえ、大丈夫ですよ。こちらこそ、少し待たせてしまって申し訳ありません」
 妹紅に道案内を頼み、永遠亭に着いた二人を出迎えたのは、鈴仙である。鈴仙には実験などにも手伝ってもらった事もあり、結構親しい関係にある。
「突然来訪して、待たされたなんて怒るほど無礼だったつもりはないわ」
「それもそうでしょうが」
 夢美が微笑すると、鈴仙も釣られて笑う。鈴仙の笑顔は無邪気で可愛い。普段は何となしに暗い表情ばかりしているから、もっと笑えばいいのに、と夢美は思う。
「では、師匠はこちらです」
 ある部屋の前で鈴仙は立ち止まり、障子を引く。床の間もある座敷だ。部屋の中心には、机と座布団も置かれている。
「ようこそ永遠亭へ。歓迎するわ」
 部屋から低めの穏やかな女性の声が響く。銀の髪に灰白色の瞳を持つ女性が、既に下座に座っていた。
「こちらこそ、突然の来訪を受けていただき、ありがとうございます」
 夢美は敷居を跨ぐと、そこに正座をして一礼する。座敷での接待なんて全く経験がないから、夢美には礼儀がわからない。わからないが、できるだけ失礼なことはしたくなかった。
「どうぞお座り下さい」
「夢美さん、そちらへどうぞ」
 銀髪の女性――八意永琳と鈴仙が、同時に座を進める。夢美は恐縮しながらも、座布団のある場所へ座った。ちゆりもそれに従う。そして二人が座ったのを確認してから、鈴仙が着座した。
「それでは初めまして。私は永遠亭主の代理・八意永琳と申します」
「初めまして。私は岡崎夢美、隣に居るのが北白河ちゆりです。本日は朝早く訪ねて申し訳ありません」
「こちらこそ、代理でごめんなさい」
 双方が丁寧にお辞儀をする。流石、風流をもてはやすと言われる永遠亭だけあって、礼儀も確かだ。夢美は少し恥ずかしい。
「さて、儀式はこのあたりにしましょう。もっとくつろいでいいわ」
 これまで少し硬い表情だった永琳が、微笑みながら言った。鈴仙は、安堵したように溜息をついて、足を崩す。
「それでは、遠慮なく」
 夢美も、思いきり延ばしていた背筋を少し丸める。もしこのまま話が始まったらどうしよう、と内心思っていたから有難かった。堅苦しい場は、嫌いなのだ。
「貴女が夢美さんで、貴女がちゆりさんね。鈴仙から話は聞いてるわ。なんでも、外の世界で科学を学んでたんだってね?」
「ええ。物理学を専攻しています」
 夢美にとっては現在形である。まだ、科学を学んでいるつもりだし、帰るつもりもある。まだ外の世界で科学を学んでいるつもりだ。
「そうなの。頑張ってね。何かあったら協力するわ」
 永琳は微笑む。母性に溢れた微笑みは、夢美の心を和ませる。彼女の協力があれば、何でもできるのではないかと、そんな思いさえ抱きそうだ。
「それではその時にお願いするかもしれません。あと、私たちのことは呼び捨てで構いませんよ」
「あら、そう。なら私も永琳でいいわ。口調もそう畏まらないでね」
 永琳の出すふんわりした雰囲気が、夢美には心地いい。何でも受け入れてくれそうな器の広さを、夢美は感じていた。
「ありがとうなんだぜ」
 ちゆりは軽く頭を下げる。遠慮なくさらりと言えてしまうのがちゆりのいい所だ。そのちゆりの適応の速さには、鈴仙も少々驚いている。
「では私も遠慮なく。本題に入らせてもいいかしら?」
「いいわよ。人里の事件についてでしょう?」
 先ほどまでのふんわりした空気が、少し変わる。表情はそう変わっていないけれども、少し緊張感が辺りに漂い始める。
 やはり並々ならぬ頭脳の持ち主なのあろうと、夢美は思った。見た所、そんなに賢そうには見えない。何を考えているかも、何となく推察は付きそうだ。だがおそらく、それが罠なのだろう。能ある鷹は爪を隠すともいう。事件を言い当てるのは、この流れからしてみれば簡単だったかもしれないが、すぐに場の色を変えてしまう方が流石である。
「流石」
「貴女たちが調べ始めた、って聞いたからね」
 永琳の表情はにこやかである。二人に対して全く悪意を抱いてなさそうだ。
「私たちが、暴れた覚りを追いやったのは事実よ」
「偶々、人里の霧雨集落に居たと聞いたわ」
「居たわよ」
 永琳は少し瞳を上へと向ける。何かを思い起こしている、という表情だ。思い起こすのにそれほど時間がかかるとも思えないけれども。
「あの時は、肝煎の下稗田家へ往診に行っていたのよ。急病人だったから」
「それで、帰りにこいしに遭遇したんでしたね」
 鈴仙がその後を続ける。鈴仙も、ええと、と左手の人差し指でこめかみを押さえている。
「そうそう。そうだったわ」
「こいしって、暴れた覚りの名前か?」
 ちゆりが早速口を出す。暴れた妖怪が覚りだということは知っていたが、その名前までは聞いていない。
「そうよ。古明地こいし。地霊殿の主・古明地さとりの妹らしいわ」
「地霊殿というと、近頃交流を始めた地底にあったわね?」
 諏訪神が移住してきて以来、幻想郷は急速に変化しているように、夢美には思える。地底とのやりとりもその一つだ。
「そうね。暴れた理由はわからないけれど、とりあえず暴れてたから抑えに行ったのよ」
「それで、どうなったんですか?」
 夢美は最も知りたいことを聞いた。もし彼女たちが"こいし"の居場所を把握しているのであれば、解決も容易だ。こいしをひっ捕まえてくればいいだけなのだから。
「わからないわ」
「わからない?」
 わからないとはどういうことだろうか、と夢美は首を傾げざるを得ない。いくらこいしが強力であったとしても、抑えるのには成功したのだから、行き先くらいわかるだろう。
「実は、追い払うので精いっぱいだったのよ。地霊殿の主の妹だけあって、かなりの実力者でね」
「それで、その先は追わなかったのか?」
「私が追ったんですけれど、途中で見失ってしまいました」
 見失った? と夢美はやはり不思議だった。魔力測定機の数値を考えても、覚りが大きな力を握っていたのはまず間違いなさそうだ。だからといって、鈴仙と永琳との二人がかりでどうにかできない相手とも思えないのだ。
「私たちは万全の態勢だったわけでもないしね。何分急のことだったし、人里での被害も考えると、あまり妖怪退治にばかりかまけてるわけにもいかなかったの」
 永琳が、残念そうに答える。だが人里を助けるためには仕方なかったのだ、と暗に言っている。それには夢美も頷くしかなかった。
「わかりました。つまり、古明地こいしは永琳と鈴仙から逃げた後、早苗を誘拐したと?」
「多分そうだと思うけれど」
 鈴仙が神妙に言う。どうやら、早苗のことを案じているらしい。双方とも人里では良く見かけるし、友人なのだろう。
「そうかしら?」
 ところが、その言葉を永琳は否定する。
「どういうことなんだぜ?」
「本当に古明地こいしが、東風谷早苗を誘拐したのか、ということよ。ほぼ同じ時刻に古明地こいしの暴走と東風谷早苗の誘拐が起きているから、一般的に考えればこの二つは関連するというようにしか思えない」
 永琳の灰白色の瞳が、夢美の瞳を捉える。その瞳は何か底知れぬものを思わせる。夢美は改めて、永琳の恐ろしさを垣間見た気がした。
「でも、そういう固定観念そのものが間違いじゃないかしら? 本当にこいしが早苗を誘拐したなんて証拠はどこにもないのだから」
「なるほど」
 鈴仙とちゆりが同時に呟く。永琳の指摘は的確そのものであり、夢美の違和感も喚起する。
 現場が荒らされ、パターンがわからなくなっていたのも、もしかすると誰かがわからなくしたのかもしれない。とすれば、ひょっとすると誰かがこいしによる早苗誘拐を偽装しようとしたのではないだろうか。
「そういえば……」
 さらになにか永琳は言葉を続けようとする。夢美は、一時思考を中断して永琳の方を見る。
「それこそ八雲紫なら、何か知っているんじゃないかしら? 今回も裏で動いているのかもしれないし」
「今のところ、動いていないと人里では見てるみたいですよ」
「紫のこと。ひょっとすると、人里にもわからないように何かしているのかもしれないわ。だって、彼女が幻想郷の騒動で動かないはずないもの」
 永琳はそう言って微笑んで見せる。その微笑みは、最初の時同様、朗らかさに満ちたものである。或いは、八雲紫に対する信用とでも言えるだろうか。
 隣の鈴仙の顔が、ほんの僅かだけれども、ひきつっているのが、夢美にはちょっと気になった。


 夢美は、誰が何と言おうと研究者である。その専門である比較物理学の話を始められてしまうと、止まらなくなる。
 きっかけは永琳が専攻の詳しい内容について聞いたことであった。永琳も物理学に詳しいということもあって、そこから怒涛の物理学談議が始まってしまったのである。ちゆりと鈴仙を放置して。
 永琳と夢美が、Newton物理学からのアプローチに基づいた魔力の存在を示す数式についてや、Schroedinger方程式を魔力について拡張した際の変数Εの解釈について議論しているあいだ、ちゆりと鈴仙は一顧だにされなかったのである。ちゆりと鈴仙にしても、何の話をしているのかまるでわからないのだから、どうしようもない。

 かくて朝早々に訪れたはずなのに、盛り上がる物理談議のせいで気付けば時間は昼ごろ。結局、半日居座った挙句に昼食をごちそうになって、ようやく永遠亭を後にした。




「悪かったわよ。ちゆり」
「どうせわたしにはわからないからな。てつがくてきかいしゃくのはなしはむかしからにがてなんだぜ」
「だから、悪かったって言ってるじゃない」
 食事の間も物理の話だったもんだから、食事が終わったころにはちゆりも鈴仙もすっかり疲弊しきっていた。気付いた時には遅かった、ということである。
「どーせわたしはまんねんじょしゅですよー」
 で、ちゆりはいじけていた。向こうではきっと、鈴仙がいじけているだろう。
「まったく、この程度でいじけるとは子供ねぇ」
「こどもでわるかったね」
 いじけるちゆりの説得は諦めて、夢美は次の目的地を目指すことにした。次は、永琳に言われたように、八雲紫に会うことである。ただ、八雲紫の住む八雲邸がどこにあるか、ということは誰も知らない。紫の式の式が、妖怪の山にあるマヨヒガに住んでいるという話を聞いたことがあるが、式の式ではどうしようもないだろう。
 それよりはむしろ、人里の代表・大肝煎を昔から務め、紫との交渉役も行っている稗田本家に行った方が、連絡が取れるはずだ。そう思った夢美は、人里の中心・稗田集落にある稗田本家へ向かっていた。
 ふと夢美が目を下ろすと、霧雨集落の全体が俯瞰できた。だが、酷い雨で白く染まっている。これだけ雨が酷く寒い日であると、外を出歩いている人もいない。動く物もなく、ただ雨にぬれるだけの、寂しい光景だ。


「こんにちは。今日は調子いいの?」
 出迎えてくれたのは稗田阿求である。御阿礼の子である彼女は、あまり体が強くない。だから夢美は、会った時には必ずまず体調を聞くことにしている。もし体調が悪そうなら、さっさと引き上げるのだ。
「大丈夫大丈夫。小兎姫の頼みを聞いてくれて、ありがと」
「なんだか小兎姫に乗せられてる気がして嫌なんだけどね。でも受けたからにはちゃんとやるわ」
 そう。小兎姫はこの稗田本家の家人である。稗田本家は人里の中心としての役割も果たす。だから治安維持などにも尽力しているのだ。稗田の家人である小兎姫が警察を名乗って人里を闊歩しているのは、その辺りに由来している。稗田のバックアップがあるのだ。
「ありがとう。今、小兎姫は忙しそうだから助かるわ」
「忙しそう?」
 何に忙しいのだろうか、と夢美は首をかしげる。今は一体何を集めているのだろうか。スペカルールの浸透で、弾幕の美を集めるのは楽になったろうに。
「あの事件のせいで、人里全体が騒がしいみたい。ちょっと大変そう」
「へぇ」
 人里が騒がしいと、小兎姫が忙しいという理由がいまいち掴めない。小兎姫自身も少し人里の治安が悪化していると言っていたけれども、幻想郷にある人里の、治安が悪化すると言う事態自身が起きるとは、夢見には思えなかった。
「それで、今日は何の用かしら? 父は忙しくてちょっと出られないけど」
 阿求は御阿礼の子であるが、稗田本家の当主ではない。当主は阿求の父である。本当は稗田の当主と会いたかったのだが、忙しいなら仕方ないかな、と夢美は思った。必ず当主でなければできない仕事、と言うわけでもない。
「ちょっと八雲紫に取り次いで欲しいんだけれど、できるかしら?」
「紫さんですか?」
「そう。ちょっと聞きたいことがあるのよ」
「了解です。ただ、今日中は無理だと思いますよ」
 紫と連絡を取るのに今日中は無理、というのも面倒な話だ。緊急時であったらどうするのだろうか。と夢美は思う。思ったが、途中ではたと気付く。緊急で紫を呼ばなければならないような事態の時は、すでに紫の方が先に動いているだろう、と。
「わかったわ。できるだけ早い方がいいけれど、宜しく頼むわ」
 夢美は阿求に軽く頭を下げる。物を頼む時の礼儀だ。
「それはそれとして、」
 顔を上げた夢美に、阿求は何だか興味ありげな視線を向けている。この少女、記録魔なだけあって、今回の事件についても興味津々らしい。
「これまで話を聞いてきた感じではどうでしたか?」
「そうねぇ。まず、人里でも対応策が分かれてて厄介なことになってるのはわかったわ」
「どういう風に?」
 稗田本家といえば、乙名衆の総まとめ。その稗田家の一員である阿求も、当然、乙名衆の寄合で対策が割れていることも知っていてよいはず。だが、知らないようだ。
「最初、理香子に話を聞いたけど、彼女はとにかく八雲紫に抗議して、八雲紫に動いて欲しいみたいよ。それに、妖怪を捕まえたら即刻処刑を主張してるし」
「理香子さんも物騒なこと言いますね」
「本当にびっくりだぜ。それに対して、霧雨の親父さんは、永遠亭による解決を期待してるみたいだった。捕まえた妖怪も、殺さない方がいいって言ってた」
 続きは、ちゆりに奪われる。もっとも、夢美が言わなければならないことでもなかったし、ちゆりが横から発言権を掻っ攫って行くのはいつものことだ。彼女的には、永遠亭での仕打ちの意趣返しのつもりだろうが。
 それよりも、夢美はこの割れ方への嫌悪感に苛まれていた。ここまで綺麗に分かれているのが、夢美にはどことなく嫌なのだ。
「また、いつも通り綺麗に割れましたね」
「いつも半分になるらしいわね」
「そうなんですよね。いつも上稗田・霧雨・伊治の三家と、下稗田・万里小路・朝倉の三家に割れる」
「え……?」
 それは初耳だった。半分に割れるという話は聞いたが、それが固定の家々であるなんて話は聞いていない。
「あれ、聞かなかったんですか?」
「半分になるって話は聞いたけれど、いつも同じ家々が三つ集まるなんて聞いていないわ」
 夢美はちゆりと顔を見合わせる。ちゆりもそんな話は聞いてない、という表情である。
「いつも同じですよ。上稗田以下三家と、下稗田以下三家がぶつかるんです」
「何故?」
 夢美は嫌な予感がした。否、予感ではない。ほとんど、確証であった。この先の話を聞きたくない、と思った。思ったけれども、同時に、聞いてしまうしかないこともわかっていた。
「稗田本家の家督争いですよ」
 さして表情を変えることもなく、阿求は言う。だがその言葉は、夢美の心へ確実に突き刺さった。
「私の父の後、稗田本家の家督を継ぐ人がいないんです。私は御阿礼の子だから、早く死ぬことが決まっている。だから御阿礼の子は稗田本家の家督を継がないんです」
 阿求の話を、夢美はもうほとんど聞いていない。大体流れがわかってしまった。
 学会の、あの宇佐見教授と行った学会の、様子が脳裏によぎる。
「だからといって、私は一人っ子だから他に立てる後継もいません。だから、稗田の分家から養子を取ることになります。で、分家である上稗田と下稗田、どっちから養子を取るかでもめてる、ってわけです」
 宇佐見教授の後釜を狙って争う学会。稗田の後釜を狙って争う人里。構図が全く同じなのだ。自分が見捨て、自分を見捨てた学会と、この幻想郷の人里と、全く同じ構図なのだ。
「上稗田の後には伊治家と霧雨家が付き、下稗田の後には万里小路家と朝倉家が付く。養子の候補となる子も同い年だし、どちらの親等も大体一緒。決め手がないから、かれこれ5年くらい揉めてます。歴史上では良くある話ですけれどね」
 そう言って、寂しく阿求は笑う。けれども夢美は、もうそんな表情を見る余裕はない。
「こないだの放火事件にしてもそうです。犯人一家の処遇を巡って、大きく揉めたんですよ。結局、犯人の一家は村八分ということで決着しましたけど……」

 阿求は何かを言っているが、もう夢美の耳には届いていない。夢美の脳裏には、あの醜い学会が思い浮かんでいた。自分の権力の為に、後継を巡って争いを続けるあの学会が。本来の目的とは離れて、下らぬ争いを続ける場が。
 人里の人間たちの議論が紛糾する理由も結局、自分たちの権力の為だったのだ。大肝煎・稗田本家の家督を次に誰が継ぎ、誰が人里の長として君臨するかを巡って、彼らは対立していただけなのだ。
 だから、ああも綺麗に言い分が分かれていたのだろう。あそこに妥協の隙がないのは、幻想郷のことをそれぞれが真剣に考えたからではない。元々、妥協するつもりがないのだ。なにせ、目的は相手の失脚である。
 相手が失脚さえすれば、自分が頂点に立てさえすれば、幻想郷はどうなっても良いに違いない。

 否、と夢美は首を振った。
 そんなはずがないのだ。幻想郷は、全てをスペカルールでクリアしてゆく場だ。だから、まさか人々が自分を守るためだけに対立するはずはない。もっと平和に暮らしているはずだ。
 夢美は、半ば無理矢理、そう信じた。そう信じていなければ、どうにかなってしまいそうだった。

「……あ、あの、夢美さんにちゆりさん?」
 阿求の不安そうな声で、始めて夢美は我に返る。ちゆりも同じ状況だったようだ。
「顔が真っ青ですけど、どうなされたんですか?」
「い、いや、なんでもないんだぜ」
 ちゆりも相当なショックを受けているようだ。だが、それをフォローする余裕なんて、夢美に残っていない。
「え、ええ。大丈夫よ」
「本当ですか? 体調が悪いなら、休んでいってもいいですけど」
「大丈夫。ちょっと寝不足だっただけよ」
 なんとか取りつくろって、夢美は立ち上がった。けれども、その姿はふらふらであるし、顔はひきつっている。どこからどう見ても、平常心には見えない。
 無理もなかった。
「本当に大丈夫ですか?」
 それでも、夢美は阿求の言葉に、大丈夫、と答えて見せ、稗田本邸を後にした。




 なんとか稗田本邸を辞去した二人であるが、その姿はもはや抜け殻と言ってよかった。ともすれば、そこに倒れてしまいそうなほど、二人は力なく歩いていた。雨はますます降りしきり、寒々しく辺りを包んでいる。晩秋にしては珍しい大粒の雨に、人里最大集落の稗田集落とて一人も外にはおらぬ。それでも、二人にとってはそれがありがたい。今人の顔を見て、正気でいられる自信はないのだ。
 もはや空を飛ぶだけの気力もない。二人は、行く場を失って彷徨う羊と全く同じだった。


 稗田集落の側に、近頃寺ができた。かの名僧・命蓮の姉だという尼僧の寺で、毘沙門天を本尊にするという。名は命蓮寺。その尼が妖怪と共に暮らしているということもあって、人々はまだ少し敬遠しているらしい。
 二人は何と為しにその寺の石段を上がっていた。その上に本堂と、成福院と呼ばれる宿坊が並んでいる。決して大きな寺ではないが、丁寧に掃除されている。雨に打たれる寺は、いっそうの寂しさを感じさせた。
「なんでしょうか?」
 夢美が門に足を踏み入れると、締め切られた本堂の蔀戸(しとみど)が僅かに開かれ、中から若い女性が顔を出す。
「……ちょっと」
 夢美にしてもちゆりにしても、この命蓮寺に用事があるわけではない。ただ惹かれたからふらりと寄ったからである。
「よければ、上がっていってはどうでしょうか? 外は寒いでしょうし、雨も降っていますから」
 夢美とちゆりとは顔を見合わせた。もう考えるだけの気力はない。人と会うのも嫌ではあったが、それにもまして、外は寒い。雨であちこち濡れてもいた。科学魔法を使えば少しとて濡れることもなかろうが、それさえもはや思い付かぬ。
「それでは、少しお邪魔させてもらいます」
 夢美は軽く頭を下げる。傘を差しているとはいえ、半ば雨に濡れながら頭を下げるその様は、惨めそのものと言えるのかもしれない。だが、夢美には外見を気にする余裕なんて、とてもなかったのだ。
「わかりました。こちらです」
 一度蔀戸が閉じ、姿が見えなくなる。それから間もなく、本堂の戸が開かれる。二人はそこから本堂へと上がった。

「座布団も畳もないのですが、どうぞ」
 本堂の中は全て板敷きであった。入ったところは外陣であり、世俗の人が祈る場所である。僧のみが入る内陣には護摩壇が鎮座しているが、護摩焚きはしていない。護摩壇の向こうは、仏像を安置しているらしい、須弥壇があり、厨子があるが厨子は閉まっている。仏様に供えられた蝋燭が、小さな明かりで本堂を照らさんと懸命のようだ。
「ありがとうございます」
 彼女が適当な場所に座るのに合わせて、二人も座った。いかんせん、広い本堂に蝋燭数本しかないこの場は、非常に暗い空間である。だが、それでも彼女の姿くらいは判断できる。少しこの寺には似合わないのでないか、と夢美は思う。最も、夢美の服装も寺に似合うものとは言い難いのだけれど。
「この命蓮寺で尼僧をしている白蓮と申します。初めまして」
 白蓮が頭を下げたのに合せて、夢美もちゆりも頭を下げる。
「初めまして。人里に住む岡崎夢美です。こちらが弟子の北白河ちゆり」
 顔を上げると、白蓮が少し不思議そうに二人を見つめている。あまり賢いようには見えない顔立ちであるけれども、だからこそ、その目線が何もかも見通しているように思える。ふと、夢美は寒気を覚えた。この白蓮は一体、裏で何を考えているのか。
「あ……」
 何かを二人に聞くのかと思いきや、白蓮は立ち上がる。何をするのかと思いきや、白蓮は仏様に一礼してから内陣に入り、行灯を一つ取ると、行灯の中にある火皿に蝋燭から火を移してからこちらに持ってきた。
「少し暗かったですね。ごめんなさい。本当は火鉢でもあれば暖かいんだけれど、ここにはないから」
 二人の横に行灯を置いて、白蓮も再び同じような所に座る。
「気にしないでくれてもよかったんですけど」
「いえ。やっぱり少しでも明るい方がいいでしょう」
 菜種油の燃える暖かい光が、三人を照らしている。この程度で気温の面の効果は全く期待できないけれども、それでも二人にとってはとても落ち着く光だった。
「ありがとうございます」
 夢美もちゆりも軽く頭を下げる。そしてそれっきり、会話が止まってしまった。

 三人を沈黙が包む。暗い本堂の中で、須弥壇のあたりと三人の周りだけ明るく、回りは闇に沈んでいる。外の雨音だけが中に打ち響いている。高い天井と冷たい空気、そして静寂。まさに寺の空気である。
 夢美にとって、そしておそらくちゆりにとっても、このような空気は有難い。今だ困惑によって渦巻く心の中を整理するのに、丁度良かったのだ。
 そんな二人を、白蓮は何も言わず、ただ包容力のある笑顔で見つめていた。


 夢美の中には困惑が渦巻いていた。人里では人々が醜い争いを繰り広げているという。しかし、とてもそんなことを夢美は信じることができない。この幻想郷は、そんな争いもなく平和に皆が暮らしている空間だと思っているからだ。
 自分でも、幻想郷に対する思いが全くわからなくなっていた。

「一体、人とはなんなのでしょうか」
 故に、夢美は白蓮に問いかけた。彼女がどういう人間なのか、夢美は知らないのだが、それでも寺の尼というからには、人間の本質というものを問い続けているに違いないと考えたからである。尼ならば、人間の存在への問いに対して答えてくれるはずだ。
「人が何か、ですか?」
「ええ。どうしてこうも人は争うのでしょうか。もっと平和に、仲良く暮らすことはできないのでしょうか」
 ふとちゆりを見遣ると、ちゆりも真剣なまなざしで、白蓮を捉えている。ちゆりも同じ問いを抱いたのだろう。
「残念ですが、人は争うのですよ。そういうものです」
 白蓮の顔から一遍に笑顔は吹き飛ぶ。そこにあったのは、怒りを含んでいるとさえ言えるような、厳しい表情であった。
「人は、死を何よりも恐れるのです。貴女方も、死ぬことが恐ろしいと思いませんか?」
「それは恐ろしいんだぜ」
 ちゆりがどこか沈んでいる声で言う。いつもちゆりは快活で饒舌であるから、これが本当にちゆりなのだろうか、とさえ夢美は思った。
「でしょう。だから、人は何よりも安全を欲します。より安全により安全に、と人は際限なく、安全を求めるのです」
 その言葉は、絶望を含んでいる。彼女が一体どういう目にあったのか、夢美もちゆりも知らないけれども、ただ一つだけ、白蓮も決して人に対して楽観を持っていない、ということだけはわかった。
「だから、人は争う。例え相手を蹴落としてでも、自分の安全を得ようとするのですから。安全を得るために、人は全てを欲っします」
 ああ、と夢美は思った。やはり人間とは、争わねばならぬのか、と。
 そう思うと、あの阿求の話を信じるしかないようであった。幻想郷の人里でも、学会と同じような、後継争いが存在するのだと。あのような醜い対立があるのだと。
 そして、ああいう醜い対立はしかし、人が生きるために行わなければならないことに違いない。外の世界でも幻想郷でも、それは変わることがないのだろう。
「生きるということは、欲し続けることです。欲し続けているからこそ、生きていると言えるのですよ」
 最後の白蓮の言葉は、夢美の心に深く深く染み渡っていく。
「わかりました。有難うございます」
 夢美は頭を下げる。夢美は知ってしまったのだ。人とは、常に争わなければならない存在でしかない、のだと。
 もはや、人が争わぬ世界などという、希望を持つ方が無駄であったのだ。幻想郷の人間も、外の世界と全く変わらぬ存在なのだ。人同士は争わねばならないのだろう。
 そうであるから、夢美にはちゆりが少し不服そうにしているのが、不思議で仕方がなかった。



 あまり白蓮の邪魔をしては悪い、と夢美はちゆりを連れて早々に命蓮寺を後にした。雨は酷いままで、むしろより酷くなっているよう。それでも夢美は外に出た。
「そこのお二人」
 二人で命蓮寺の門をくぐったところで、後から呼び止められる。白蓮の声ではない。
 寺に知り合いなんていただろうか、と夢美は考えながら振り向く。だがその声の持ち主を見ても、やはり知らない者であった。
「ちょっと話したいことがあるんだが、いいか?」
「何かしら?」
「君たちが調べている事件のことだよ」
 む、と夢美は彼女を見据える。頭からは丸い耳が生えており、紅い瞳が印象的だ。尻尾から見るに、おそらく鼠の妖怪なのだろうが、何を考えているのか推察するのは難しい。
「……いいわ」
「ありがたい。それでは、ちょっとこちらに来てくれるか」
 鼠の彼女は二人の横をすり抜けると、すたすたと雨の中を歩いていく。夢美とちゆりは、その後ろから付いて行った。
 雨脚は猶強まり、既に四半里先も見えない有様。挙句集落からも離れてゆくのだから、人も妖怪も全く見当たらなかった。
 彼女の歩みは存外速い。小柄な彼女は、決して動きが速いようには見えないのだが、どうやら無駄がないらしい。一歩一歩確実に踏み出しながら、この雨の中を酷く濡れることもなく進んでいく。

「さて、ここだ」
 ほんの2分程度で三人は小さな東屋に着いた。寺に付随する施設なのだろうか。皮付きの柱で屋根を支え、見上げると竹の垂木が細かく並んでおり、中には板敷きの長椅子が設けられる。檜皮葺の屋根の表面には、水の流れで波紋ができていた。
 彼女はまず二人を中に入れ、自分も中に入る。
「名乗るのが遅れて申し訳ない。私はナズーリン。この命蓮寺に住まわせてもらっている妖怪の一人だ」
 そして立ったまま、二人に向かって一礼した。
「貴女が岡崎夢美、そちらは北白河ちゆりでいいのかな?」
「ええ。そうですよ」
 夢美が名乗る前に、ナズーリンは二人の名を言って見せる。夢美とちゆりの名を知っていたナズーリンに驚きながら、夢美は頭を軽く下げるしかなかった。
「どうぞ、座って」
 ナズーリンが椅子を指し示す。それに従って、まず夢美が座り、その右にちゆりが座った。それを確認してから、ナズーリンも夢美の左隣りに座った。長椅子に横一列で座った形になる。
「それで、貴女は事件について何を知っているのかしら?」
「直接事件に関係することかどうかはともかく、君たちがこの問題を解決するにあたって決して損にならない情報を齎すことはできると思う」
「へぇ」
 夢美は左に居るナズーリンの顔を見る。横を向く形になるのだが、それでも彼女の言うことが本当なのか見極めたかったのである。
「私も、何も人里が揉めている間に手を拱いていたわけではない。情報収集くらいはする」
 どうやら信用できそうだ、と夢美は睨んだ。少なくともナズーリンが今ここで夢美たちを騙す理由はないはずだから。
「それで、その情報とは?」
 ナズーリンから向き直って、正面を向いたままナズーリンに問う。右隣のちゆりはナズーリンの方を見たままである。
「今回の事件以来、永遠亭が八雲紫に対して相当警戒しているらしい」
「紫に?」
 どうして警戒しなければならないのか、と夢美は疑問に思った。まったく理解できない。
「私は詳しく何があったのかは知らないが、永遠亭は八雲紫に対して異常なまでの警戒を示しているようだ。つい最近の傾向らしい」
「そもそもどうして、警戒する必要があるのかしら? スペカ決闘で相手が殺されることはないと思ったのだけれど?」
 夢美の純粋な疑問だった。否、願望だったと言えるかもしれない。
 幻想郷の人々が、外の人々同様の醜い争いを繰り広げているということはよくわかってしまった。しかし、それでも夢美は、せめて妖怪くらいそんな権力争いとは無縁のところに居て欲しかった。スペカ決闘制という素晴らしい仕組みがある以上、それによって平和に解決されていると、そう信じたかったのである。
「スペカ決闘か。アレの発想は非常に素晴らしいと思う。だが、万能ではない」
「万能ではない……」
 ちゆりが呟く。夢美は絶句した。ナズーリンは最も夢美が恐れている方向へと話を動かしていこうとするのだ。
「スペカルールというのは、異変を起こしやすくするために作られているのだ。だから、異変の中で主に扱われる」
「紅霧異変にしても春雪異変にしても、スペカルールに基づいて解決されたぜ」
 ちゆりの顔色も、若干悪いようだった。この顔色は、ただ寒い雨の中歩いてきたからのみではあるまい。
「でも、それは結局異変の中の話だ」
 ナズーリンは難しい顔をして言う。
 夢美にはもう彼女の言わんとすることがおおよそわかってきていた。わかっていたが、認めたくなかった。スペカルールへの幻想を捨てたくはなかった。この幻想郷が権力闘争の坩堝であるということを、信じたくなんてなかったのだ。
「異変とは、日常と"異なり変じる"から異変という。結局妖怪たちの祭なんだよ。妖怪たちが日常ばかりで飽きぬように考えられた、祭」
「スペカルールは祭の中で適用されるルールでしかないというのか?」
 強い口調でちゆりは聞き返す。夢美も、これの答えが予測通りでないことを信じた。醜い争いなんて、もう見たくないのだ。
「そういうことだ。スペカルールで腐れなく物事を解決するのは、祭の中だからだ。一度異変が終われば、再び日常が戻ってくる」
 だが、そんな願望は敢え無く押し潰されることになる。ナズーリンはことさら強調もせずに告げた。それは、夢美の思い浮かべていた、今まで信じていた幻想郷に対する死刑宣告である。
 この幻想郷は、あの学会と同じだったのである。全ての紛争をスペカ決闘で解決し、人々と妖怪と神々とが共存しながら、平和に暮らす楽園ではなかった。
 人も妖怪も、自らの安全の為に努力し、故に権力を欲し、対立する。下らぬ対立をあちらこちらで繰り広げる。

 これまで思っていた幻想郷像が、轟々と音を立てて崩れていくように、夢美は感じていた。

「今は日常だ。異変ではない。となれば、妖怪たちだって、自分たちの身を守るのが大切なんだ。安全を確保するために日々努力を欠かさない」
「人も妖怪も、牽制し合い権力を欲する、泥沼の日常ということね」
 夢美が最後に絞りだした一言は、異様に低い一言である。絶望の一言であった。




 宇佐見教授が退職し、次期会長争奪戦が決着した後も学会の無益な争いは続いていた。会長の側近にのし上がるのは誰か。さらにその次の会長は誰か。争うことなんて、見つけようと思えばいくらでも存在する。
 そんな争いは至極無駄なことだ、と研究職に就いた夢美は一顧だにしなかった。一人、何か「宇佐見式」に反する物はないのか、と探し続けた。
 だが、そんな態度にいた夢美は学会を追い出されてしまった。幻想郷で取った様々なデータを元として書き上げた論文がそれこそ突拍子もないものであったというのは事実かもしれない。それは、折角"終わった"物理をぶち壊しかねないものであったからだ。
 だが、彼らは論文の中身を読んですらいないことを、夢美は知っている。今でもあの論文を発表した時の学会のことを覚えている。彼らは論文の中身に何一つ触れること無く、ただ"「宇佐見式」に外れるものが存在するはずがない"の一点張りで夢美を蹴落としたのである。
 夢美を弾劾する時ばかりは、争う二派が結託していた。学会に所属するほとんどの教授が一様に夢美へ非難を加え、時に"出鱈目ばかり言ってどうする"と中傷さえした。自分たちの地位を守るためなら、彼らは何でもする。
 結局夢美は、その学会が嫌になった。だからこそ、この学会の連中を見返してやろうと、学会を正常化し連中ののさばること能わぬ学会にしようと、この幻想郷へ来て魔力の研究を進めることにしたのだ。
 だが、同時に憧れてもいた。全てをスペカルールで解決し、皆が平和に暮らす幻想郷に。
 ところが、そんなものこそ"幻想"だったのだ。幻想郷に住む人間も妖怪も、その実は自らの権力を確保するために対立し、睨みあっていたのである。人里では後継者を巡って争い、妖怪ですら日頃は睨みあいに終始しているという。
 幻想郷とは楽園ではなかったのか。外の世界のような醜いものを一切斬り捨てた、妖怪と人との楽園ではなかったのだろうか。
 もし幻想郷が楽園でないとしたならば、はたして楽園とは存在するのだろうか。桃源郷は何処にありや。

 夢美は改めて認識していた。学会に復讐するために幻想郷に居るつもりではあったけれども、その実この幻想郷が好きで滞在していたということが。その楽園性に惹かれていたということが。
 考えてもみれば、学会に復讐するために研究を続けていたけれども、その生活は外よりもずっと楽しいものであった。夢のような世界に包まれて、些か不便ではあるけれども、それ以上に輝く生活を送ってきたと思っている。外の世界に帰りたくない、とさえ思えていた。
 そしてその認識が、たった今、完全に崩壊した。あのような輝く生活の裏に、このような人妖の闇が渦巻いていると知ってしまうと、途端に幻想郷が輝きを失って見える。見かけだけ取り繕った状況なんて、外の世界と何の変わりもない。醜い部分を誤魔化し、何とか美しい生活を送っているように見せかけるなんて、当に外の世界で人々が行っていることではないか。

 幻想郷も外の世界も同じような場所に過ぎないという事実が、夢美の心を掻き乱す。所詮幻想郷も学会同様でしかないという絶望と、そうではないと信じようとする希望とが、夢美の心の中で渦巻き続けていた。






四日目

 命蓮寺から家へと直接戻った夢美であったが、そのショックの大きさから一睡すらすることはできなかった。自分が憧れていた幻想郷が、実際は学会と何の変わりもないような醜い世界であった、と言うのが何よりも衝撃であり、認めたくなかったのだ。
 認めなければならないと思う自分と、認めたくない自分。その二人が心の中で戦い続ける。決着はつかない。その状況にあって夢美は全く眠ること能わぬ。

 だが、どこにも行かないというわけにもいかなかった。小兎姫にこの事件の解決を明言してしまった以上は、動くしかないのである。
 夢美は重い頭を二・三度振った。何とかこの事件を解決しなければ。

 故に、二人は地下へと潜っていた。暴れた妖怪は地霊殿の主・古明地さとりの妹であるという。流石に、彼女が暴れた妹を匿い、早苗を監禁しているとは思っていないが、それでも話を聞く価値はあると思ったのだ。


「ちょいとお姉さん。どちらへ行くつもりかい?」
 旧地獄街道を抜けたところで、二人は話しかけられる。快活な声だ。
「地霊殿の主に用があるのよ」
 声のした方向へ目を向けると、猫の耳を頭から生やした少女が微笑んでいる。赤い髪を三つ編みにして垂らしているのが非常に似合っているなぁ、と夢美は何となく思う。
「お、さとり様に用があるのかい? それまたどうして」
「外での事件に関して、聞きたいことがあるのよ」
「外の事件って、こいし様が人里から人間を誘拐したって話?」
「そうよ。覚りが人里で暴走して人間を誘拐したって、上では大騒ぎよ」
 夢美がそう説明すると、彼女の顔色が変わる。先ほどまでのにこやかな表情はどこかへ消え、厳しい表情が浮かんでいた。得も言われぬ恐ろしさから、彼女から感じられる。
「ああ、そう」
「あんた、何か知っているんじゃないか?」
 反応が冷たくなるが、ちゆりは意に介さない。ズケズケ聞くのがちゆりの悪いところで、いいところである。
「上の人間に何がわかるって言うんだい?」
 だが今回は悪かった。ちゆりは彼女に酷く睨みつけられる。
「下に追いやられた妖怪のことが、お前たちにはわからないだろう」
 どうしてそこまで彼女が夢美たちを敵視しているのか、夢美にはまったくわからない。ただ、どうやら彼女は地上の者全てを敵視しているらしかった。
「わからないんだぜ。どうしてそんなに突然怒り始めるんだよ」
「そうやって地底の妖怪がやったって決めつけるからだよ」
 冷静そうに、しかし裏に幾分かの熱意を籠めて、彼女は答える。
「地底の妖怪は、そうして常に上の者たちに忌み嫌われる。上で何かがあった時、常に私たちを悪者扱いして誤魔化そうとするのよ」
「……そうなの?」
 夢美は素直に聞いた。地上と地底との関係について、夢美は詳しく知らなかった。なにせ幻想郷の中でもかなりの新参である。
「そうだ。上の連中は、何もしてない妖怪たちを、さとり様を、陰謀に掛けて地底に追いやったんだ。あんな連中、とても信用できない」
 彼女の声は先ほどまでと比べると、少し暗さを帯びている。それは怒りというよりも、哀しみだろうか。
 夢美はなんとなしに、自分にその姿を重ねていた。陰謀に掛けられ、学会の外に追い出されたのは夢美も同じである。けれども、彼女の話は夢美が学会に追い出された以上の何かを抱えているように思える。
「でもこないだの異変の時はちゃんと上の祭に乗ってやったんだ。そこのところ、上の連中はわかっているのかな」
 祭。彼女は祭と言った。それが何を意味するのか、夢美は瞬時に悟る。祭というのは、異変に違いない。地底もこの間の温泉異変に巻きこまれた結果として地上との交流を再開している。その温泉異変の時に、彼女もスペカ決闘に参加したのだろう。
「ところで――」
 と言ったところで、夢美はふと気付く。まだ彼女の名前を聞いても居ないし、自分が名乗ってもいない、と。
「名乗るの忘れていたわね。ごめんなさい。私は岡崎夢美よ。隣が北白河ちゆり」
「ホントだ。これは失敬。私はお燐。地霊殿のペットやってる」
 ペットとは職なのか、と夢美は少し疑問に思う。けれどもすぐ、とてもどうでもいいことだな、と思い返した。
「それで、本題に戻るけれど、貴女、古明地こいしと親しいの?」
「こいし様はあちこち流浪するから、必ずしも常に一緒に居ると言うわけではないけど、なにせ同じ場所に長く住んでるから、親しいよ」
 なるほど、と夢美は納得した。こいしが暴れた話について詳しそうであったのは、お燐がこいしをよく知っているからであったのだ。
「では聞くけど、貴女は古明地こいしが地上では何もしてない、って思ってるの?」
 夢美は彼女へ問う。彼女のこれまでの言からしてみると、こいし――暴れた覚りが全くの無罪であったように聞こえる。
「いんや。暴れたのは事実だと思うよ」
 だがお燐はさらりと言う。
「こいし様も私と同じ思いだった。上の人間が許せなかった。だから、上の人間どもに復讐しようとしたんだと思う」
「その推論に根拠はあるのか?」
「ないよ。そう思っただけ」
 ちゆりの問いにも躊躇いなく答えた。つまり、復讐云々はお燐という少女の想像に過ぎないということだ。とはいえ、その推論が必ずしも外れていないのではないかと、そういう風に夢美は思えた。どうしてか、とかそういう理由を言うことはできないけれども、そんな気がした。
「で、誘拐は?」
「こいし様が風祝のお姉さんを誘拐するなんて、有り得ないと思うよ」
「有り得ない?」
「有り得ないよ。こいし様、上に出ると風祝の姉さんに可愛がってもらってたみたいだし。風祝のお姉さんは、地底の妖怪にも上の妖怪と等しく接してくれるからね。お姉さんたちもこうして普通に話してくれるけど」
 地底の妖怪も上の妖怪にも等しく、というのはおそらく早苗が外来人だったからだろう。そんな区別、幻想郷出身でないものにわかろうはずがない。
 しかし、あれだけ状況証拠がそろっているのに、こいしが早苗を誘拐していない、ということがありえるだろうか。夢美にはそれが理解しかねた。そもそも、あの状況で早苗を誘拐できる者なんて、こいしくらいしかいないのだ。もしこいし以外が誘拐したとしても、あの不思議な魔術に捉われてしまうはず。
 そこのところが、夢美にはまだわからなかった。




 大体の話を聞き終えた所で、お燐に地霊殿への案内を頼むと、あっさり快諾してくれた。あれだけ地上の者を嫌っているのだから、てっきり断られるのかと思ったので、二人は幾分拍子抜けの思いである。
 ちゆりがそのことについてお燐に問うと、お燐はこれまたあっさりと答えた。
「お姉さんたちは地底の妖怪を嫌わないから」


「わざわざ地霊殿までご苦労さまです」
 案内された部屋の一番奥に紫の髪をし、不思議なコードを体に纏わせた少女が座っている。あれが件の、古明地さとりらしい、と夢美は一目でわかった。
「貴女の思うとおり、私は古明地さとり。一応この地霊殿の主をしています」
 心を読むというのはこういうことか、と夢美はさらに思う。ちゆりは半ば恐れるような表情を浮かべている。心を読まれるというのは怖いものだ、と正直に思った。自分の思いがすべて曝け出されると言うことなのだから。
「そうなのです。誰もが心の中に隠れたものを持っています。それを抉りだされるから、私は嫌われるのです」
「じゃ、見なきゃいいんだぜ」
「見たくて見てるのではないんですよ。見えるんです。見える者は仕方ない。ちゆりさんが私に心を読まれまいと懸命なことも、夢美さんが冷静に分析を加えているのも、全て見えてしまうのです」
 その表情は僅かながら憂いを含んでいる。見えてしまう、ということほど残酷なこともないだろうに、と夢美は感じた。目を閉じる、という選択肢がないことほど悲惨なことはない。
「貴女方は、こいしについて知りたいそうですね。でも、残念ながら私もこいしについては関知していません」
 関知していない? 夢美は首を傾げた。主というに、しかも心を読めると言うに、どうして関知していないのだろうか。
「私はこいしの心だけは読めないのです。それに、普段からこいしは辺りをふらついていて、この地霊殿に居ることは少ない。どこに居るかということもわからないのです」
 声に出さなくても全て答えが返ってくるというのも便利な物だ、と夢美は少し思った。ただ何一つとして隠しごとができないというのもやはり困りものかな、と思う。
「そもそもこいしが誘拐なんて面倒なことをするとは思えません。それにこいしが、早苗を誘拐してここに閉じ込めているならば、即座に紫に押し潰されているでしょう」
 おそらくちゆりが、地霊殿に攫ってきた早苗を監禁し、こいしを匿っているのだろう、とでも思ったに違いない。さとりの言葉から人の考えが類推できるというのは、中々面白い。
 しかし、ここで紫という単語が出て来るのには少し驚いた。さとりと紫とは既に会話したらしい。
「貴女の思う通り、既に地上の八雲紫との交渉は行いました。必要あらばこいしを処分することも承諾しています」
 全く感情を表に出さぬその声で、さとりは恐ろしいことを言った。妹の処分さえも認める、というのだ。どうしてそういうことを平気で言えるのか、と夢美は不思議だったし、少し怒りさえ覚えた。血の繋がった姉妹なのに、どうして大切にしない。
「この地霊殿を守るためです。こいしは人里で暴れたといいます。これはタブーを犯していますから、何をされても文句は言えません。下手に匿えば地上の大きな怒りを買います。この地霊殿ごと消されかねない。そんな危険は冒せません」
 その言葉に、今まで奥底にしまってあった絶望が、夢美の心を支配し始める。
 そう、幻想郷も生き残りをかけて対立と陰謀が渦巻く場でしかないのだ、という事実が。学会と同じような場所でしかない、という事実が。下手をすれば打ち滅ぼされてしまうという、そんな睨み合いの真っただ中に幻想郷が存在している、という事実が。
 それでも夢美はまだ、ほんの僅かな希望を捨てきれない。捨てきれないが故に、絶望に飲まれていた。幻想郷が学会のような醜い場所ではないと信じたいからこそ、目の前にある幻想郷の様相に苦しんでいた。
「あら、お二人ともこの幻想郷に大層な夢を持っていたようですね」
 ふと、さとりの表情が僅かに笑ったように見える。笑ったようにも見えるが、悲しんでいるようにも見えた。
「でもそれはやっぱり、夢でしかないのですよ。人と妖怪とが共存し、問題もなく穏やかに暮らすという理想は、素晴らしい。私も、そんなところに住んでみたい」
 ちらり、と彼女の言葉の端に感情が現れたと、夢美はそう思った。今までずっと一方的に感情を読まれるばかりで、さとりが何を考えているのか全くわからなかったけれども、今の語尾から少しわかりそうだな、と思った。
「裏もなく、陽気にみなが過ごす楽園。残念ながら、そんな場所はありません。貴女たちが持つ夢は、夢でしかない。この幻想郷はそんな夢の場所ではありません」
 どうしてこうも皆で、僅かな希望に縋っている者を叩き落とそうとするのか、と夢美は思った。そして同時に、さとりの言葉がつい先までとは打って変わって、感情の滲みでるものであることにも気付いていた。
 はたしてさとりは、誰に向かって言っているのか。夢美にはわからない。
「もしそういう楽園ができたのならば、私も普通に過ごせましょう。心を読まれることを誰も怖がらない世界。残念ながら、幻想郷はそんな場所ではないのです。皆心に隠して、裏を持ちながら生活しているのです」
 さとりの言葉は一言々々、何か感情の籠った言葉であった。先ほどまでと口調こそ変わらぬが、印象は大きく異なっている。
「だからこそ私は、妹すら斬り捨てる準備をしています。我らが地上から嫌われているのは明らか。地上を少しでも刺激してはまずいのですよ」
 夢美は黙り込んだ。ここまでさとりが嫌われているということが、何を表しているのだろうか。心を読まれることをどうしてそこまで怖がらなくてはならないのか。
 心を読まれてしまうのは、恐ろしいことは間違いあるまい。だが、地底に追いやるというのはその恐ろしさを動機にするにしては少し超越している気がしてならない。
 かくて、夢美は思いつく。さとりが怖がられる、最大の理由を。
「自らの安全を確保するために人妖が牽制し合う中にあって、心を読まれること、則ち、自分たちの謀(はかりごと)を、目的を知られてしまうのは最も恐ろしいということですね?」
 夢美が口に出した、初めての問いである。声に出さずには、居られなかったのだ。
「誰もが、生きている限り、自らの目的の為なら平気で嘘もつくし隠しごともする。だからこそ、私は此処にこうして座っているのですよ」
 ああ、とようやく納得できた。この地底に覚りという妖怪がいるという事実が、幻想郷が決して理想の場ではない、という事実を何よりも夢美に納得させた。もし夢美が思う通り、スペカ決闘で全てを決し、皆が共存する幻想郷であったとするならば、彼女もそんな中に混じって笑っていられるのだろう。それが地底に追いやられたっきり、今だに上から蔑まれるということは、夢美の思う幻想郷像が、事実と全くかけ離れているということを意味する。
「ありがとうございました」



 もう夢美は苦しまない。皆が共存しスペカ決闘で全てを決する幻想郷、という幻想郷像はあくまで異変の時だけのこと。異なり変じた幻想郷なのだ。それに対して、日常の幻想郷は、心を読まれては困るような、そんな醜い争いの入り乱れる場所なのだ。
 納得してしまえばなんということはない。幻想郷に何の期待も持たなければ、事実と理想に挟まれて苦しむこともない。幻想郷もまったく学会と同じであると思えば、殊更落胆することもない。
 元々、自分はあんな醜い学会にいたのだ。そもそも、そんな自分が理想の場に居られるはずないのである。

 人も妖怪も、全てが自らの影響力を拡大し、安全を確保するために動いている。そのためならば、どんな手段も用いる。誰も彼も、自らに利することしか言わない。
 そのことを前提とした途端、夢美はこの事件がどのような構造になっているか、ということが次第に見えて来るような気がしてきていた。哀しいかな、日常に起きたこの事件は、やはりあちこちの利害が絡み合っているのに違いない。

 これまで、人里の人間たちは一様に"早苗を誘拐したのは暴走した古明地こいしである"と断定していた。こいしが暴走したのと、早苗が誘拐されたのはほとんど同時刻であるのだから、至極当然な論理である。だからこそ夢美もそうだと思い込んでいたのだが、はたして本当にそうなのだろうか。
 考えてみれば、永遠亭の八意永琳や地霊殿の古明地さとり・お燐は、こいしが誘拐したのではない、と言う。
 ひょっとしたら、彼女たちの言う通り、こいしの暴走と早苗の誘拐とは、違う事件なのではないだろうか。夢美はだんだんそう思えてきた。
 まずはそれを証明する必要がある。




 さとりのところを辞去した二人は、さっさと地上に上がってきていた。相変わらず地上は大雨で、地底からの出口から人里はほとんど見えない。
「あれ、火事か? こんな雨なのに」
 ちゆりが人里の方を指差す。白くぼやけて家と家の識別すらできない有様なのに、その中でたった一点だけ、明らかに赤く光っている。
「この雨なのに、火事になんてなるものかしら?」
 これまで乾燥していたか、といったらそれも否であろう。この三日ずっと雨が降っているのだから、かなり湿気ているはずだ。
「でも、あれ燃えてるよな?」
「燃えてるわね。油でも蒔いたのかしら」
 晴れているならば、紅葉もあって極彩色に染まっているだろう幻想郷の風景。しかしそれは降りしきる大粒の雨に白く染められ、幻想郷は水墨画の如き淡さを見せている。そんな中で赤くちらつく一点が、そんな白い幻想郷の中でひときわ目立っていた。



「相変わらず、波形では無理かしら」
「無理だな。早苗とも覚りとも合致する波形はないんだぜ。混ざっててわけわかんないぜ」
 バケツをひっくり返したような酷い雨の中、二人は再び暴走現場へと来ていた。科学魔法の御蔭で全く濡れずに済むのが非常にありがたかった。
「それで、何をするつもりなんだ? パターン調べはとうにやったことだぜ」
「このあたり20か所くらいでそれをやって、解析するのよ」
「解析?」
 ちゆりが首をかしげる。無理もないだろう、と夢美は思う。まだ断片的な話しかしていない。
「ここでは複数人が術を使っていたことは間違いないわね。そしてその術を出す場所が微妙にずれていたことも間違いない。そこから考えると、場所によって個人ごとの魔力は強弱が付くわよね」
「??」
 言葉で説明するのは難しい。夢美は懐から手帳を取り出し、白紙のページを開く。
「例えば、甲・乙の二人がいたとする。甲が術を撃った地点では甲の残存魔力が乙の残存魔力より多くなる。逆に、乙が術を撃った地点では乙が甲より強い魔力を残していると考えられる。また甲乙双方から遠ければ魔力量が少ないし、甲乙双方に近ければ魔力量が多い」
 そう言って、さらさらと白紙に点を打った。
「だから、以・呂・波・仁の四点で測定したとする。この時、以と呂とで魔力量が等しく、魔力パターンが異なったとすれば、パターンを解析してどういうパターンが混ざったかを考える。また波と仁とでパターンが同じだったとすれば、魔力量を比較することで魔力発生源からの距離を割り出す」
「なるほど。それらを比較することで、パターンが何種類あって、それぞれがどれくらいの強さかというのがわかるんだな」
「そういうことよ」
「今回の場合は、20か所で取った魔力パターンを全部解析して、どこでどうなったか解析するんだな」
「人数くらいはわかるでしょう」
 そうして地味な作業が始まる。魔力量とパターンとを一つ一つ検出して、図にプロットしてゆくのである。もっとも、面倒なのは入力の手間だけで、解析はPCの仕事である。
 二人は入力をさらさらと終えると、その結果を家のコンピュータへと送る。ネットワークなんて存在しない幻想郷であるが、アンテナを立ててノートPCと家のコンピュータとを接続してある。
「それじゃ、いつものお店に寄りましょう。解析には30分くらいかかりそうな感じだしね」
「そりゃいい」

 二人は稗田邸近くの喫茶店に入り、端の席を陣取るとノートPCと睨めっこを始める。なにせ、専用回線である。逐次結果を送らせても、速度的には何ら問題ない。
「いつものね~」
 ノートPCを広げている人間なんて、幻想郷にいるはずもない。しかもこんな超悪天候の中の来客である。だが、それを奇異とも思わぬ喫茶店の主は、サイフォンコーヒーのフラスコを水で濯ぎながら、穏やかに二人を眺めている。珈琲党を自称する夢美は、すでにこの店の常連と化しているのだ。珈琲の馥郁たる香りが店全体を覆っていた。
「はい、エスプレッソとカプチーノ」
 最初こそ、幻想郷で珈琲専門の喫茶店があることに非常に驚いたものだ。文明的にはそれほど発達していないし、外との交流が全くない幻想郷である。蕎麦屋や茶屋ならまだわかる。だが、熱帯産の豆を必要とする珈琲店がなぜあるのか、と疑問だったのだ。だが、人里の店の中でもここがかなり浮いた存在であるようだ。夕方開いて夜遅くまでやっている妖怪向けの店でもあるし、妖怪との付き合いを通じて豆を手に入れているのだろう、と今では思っている。
 夢美はエスプレッソのカップを左手で取ると、一口含む。複雑で濃い味が口の中へ一気に広がり、それから苦みが舌に乗る。この感覚がたまらない。
「お、結果出たぜ」
 カプチーノに三つ目の角砂糖を入れながら、ちゆりが言う。目線は完全にPCの画面だ。
「あら、早いわね」
 夢美はソーサーにカップを置くと、幾つかキーボードを叩いて結果を開いた。そこには延々と解析結果が並んでいる。
「……」
 二人して珈琲を啜りながら小さな画面に喰らい付くその姿は、それこそ不思議な光景であろう。だがそんな外聞を気にする二人ではない。
「……パターンは三つに分けられる、ってなんかおかしくないか?」
 結果を読み終えたちゆりが呟く。
「八意永琳・鈴仙・こいし。これで三人ね」
「それじゃ、早苗は何処に行ったんだぜ?」
「早苗は元々その場に居なかったのよ」
 やはり、と夢美は画面を閉じながら思う。早苗は暴走現場には居なかったのだ。
「居なかったって、早苗はこいしに誘拐されたんじゃないのか?」
「そうじゃないってことよ。早苗の誘拐は、こいしの暴走とは違う事件だってこと」
 言いながら、夢美は立ち上がる。既にエスプレッソは空だ。濃いコーヒーが好きな夢美はいつもエスプレッソだが、もう少し量が欲しいな、と思う。エスプレッソ一杯はちょっと足りない。
「おじさん、ツケておいて。月末に払うわ」
「はい。いつもありがとね」
 夢美とちゆりと、二人で喫茶店の主に会釈をして、雨降る外へと出た。


 予想通り、早苗の事件とこいしの事件が別の事件であるということは、あっさりわかった。だがそれは状況証拠だけである。事件の概要は全くわからない。
 一体こいしは何処へ行ったのか。人里の方でも妖怪退治に長けた者たちが退治に動いているというし、紫らも黙ってはいないだろう。いくら、こいしが逃亡に長けていようとも、この状況で逃げおおせるとは思えない。誰かに匿われていると考えるのが妥当だ。とすれば、誰が匿っているのだろうか。こいしを匿って得するのは誰だ。
 そして、早苗を誘拐したのは誰なのか。彼女だって幻想郷の中では実力者だ。そう簡単に誘拐できるとは思えない。そもそも、誘拐したのは人間なのか、妖怪なのか。それすらもわからなかった。

 誰が嘘をついているのか、それをあぶり出せばよい。この事件で最も得をした者が、犯人に違いない。




 二人は、喫茶店すぐ近くの稗田本邸を訪れた。稗田本邸から、より詳しい人里の情報を得ようと思ったのである。早苗が誘拐された時、上稗田家と下稗田家とどちらの方がより得をするのか。妖怪と人間と、どちらがより得をするのか。地底の妖怪に偽装することで、誰が得をしたのか。
 利害で動いていると割り切ってしまえば、考えるのは簡単である。醜い争いほど御しやすいものはないのである。
 そういう話をするつもりであったから、稗田本邸での遭遇は、あまりに予想外であった。
「あら、初めまして」
 家人に通された先、阿求の部屋には既に先客が居たのだ。長い金髪を輝かせ、紫のドレスを纏う少女。見ためこそ少女であるが、醸し出す雰囲気は少女のそれではない。
「私は八雲紫よ。なんでも、昨日は私に会いたかったのだそうね。わざわざご足労頂いたとか」
「ええ。私は岡崎夢美よ。こんな所で会えるとは思わなかったけれど」
 夢美と紫の間に挟まれて、阿求が苦笑いする。二人とも顔こそにこやかだが、必ずしも平和な雰囲気ではない。むしろ、かなり剣呑だ。
「こちらも、事件の解決に尽力してくれる貴女たちに会えてうれしいわ」
 紫は裏で何を考えているのだろうか、と夢美は内心思っていた。誰もが裏を持つ幻想郷。彼女の動きもまた、彼女の保身に違いない。
「そう言って頂けると有難いわ」
「とりあえず、座ったらどうでしょう? こちら空いてますから」
 夢美と紫とに押し潰されそうだった阿求が言う。その顔こそ笑っているが、どこかひきつっている。
「それじゃ座らせてもらうんだぜ」
 ちゆりが先に阿求の向かいに座る。自然、紫の向かいに夢美は座ることになる。ちゆりが空気を読んだのか読んでいないのか、微妙な所である。
「有難う。私も座らせてもらうわ」
 ちゆりに続いて夢美も座る。向かいで紫が笑っている。何を考えているのか、全く伺うことはできなかった。
「率直に聞くけれども」
 夢美は紫の瞳を見据える。その奥深さはとても少女のものと言うことはできないが、だからといってそれに飲まれるというものではない。夢美とて、覚悟を決めている。
「貴女、古明地こいしを匿っているのじゃなくて?」
「どうしてそう思うの?」
「何故貴女が、この事件にこれまで全く介入していないのか、と考えてみたのよ。人里では、貴女に対する失望感が広がっている。幻想郷を采配する貴女からしてみれば、およそ好ましくない事態よ」
 夢美の言葉を、さして笑いもせずに紫は聞いている。夢美のことを値踏みするような表情である。だが、夢美にとってはどうでもよかった。値踏みされたところでそれほど痛いこともなし。
「にも関わらず、貴女はまだ表だって動かない。その気になればこの事件を解決するのも容易いだろうに。その理由として考えられるのは、既に犯人を確保している、ということくらいしか考えられないわ」
「それでは、何故早苗は帰ってこないの? 私が早苗を誘拐してメリットでもあるのかしら?」
「そもそも、早苗の事件と古明地こいしの事件は全く別のものよ。だから、殊更一緒に考える必要はない」
「別?」
 聞いていた阿求が口を出した。一体どういうことか説明してくれ、と夢美に目線を送っている。
「こいしが暴走した現場からは三人分の魔力しか検出されなかった。古明地こいし・鈴仙・八意永琳で三人だから、此処に早苗は居なかったってことがわかるわ」
「なるほど。でもそれでも、私がこいしを誘拐したという動機にならないのでない?」
 紫の口角が極僅かに上がる。なかなか鋭いわね、というような表情である。
「どうしてかしら?」
「違う事件だとして、かつ私がこいしを匿っているとする。それでも、私が介入しないという動機にはならない。なぜなら、事件はまだ解決してないのだから」
「……」
 紫の言う通りである。もし古明地こいしの事件の解決を知っているからといって、早苗の事件が解決していないわけではない。早苗の事件が解決しない以上、早苗の事件を解決しようと動くのではないだろうか。
 そこまで考えて、ふと思いつく。早苗を誘拐したのは同じ人里の人間なのではないだろうか、と。もし人里の人間であったとするのならば、早苗の事件は人里内の事件に収まる。妖怪と人間との争いということではない。
 となれば、紫が介入する余地はないだろう。人里内の事件は、人里によって解決すべきであり、その役割は紫ではなく乙名衆なのであるから。
「早苗を誘拐したのは人間だ、と知っているから貴女は介入できないのではないのかしら?」
「人里内で解決するから、私は全く介入しない、と?」
「そういうことよ。そして、妖怪と人間との争いである古明地こいしの事件については、解決しているからもう介入しない、と。それでどうかしら?」
 夢美の推測を聞き終えた紫は、扇子を開いて口元を隠す。目線だけで夢美を見つめる。何を言いたいのか、夢美にはよくわからない。
「面白い推理だわ。それに、論理的に通ってもいる」
「認めるのね」
「残念だけれど、私はこいしを匿っていないのよ」
 紫は目だけで微笑しながら、あっさりと夢美の推理は間違っている、と言って見せる。
「もし私が匿っているなら、さっさと稗田に伝えるわ。事件をわざわざ長引かせる必要もないもの」
「いま伝えに来たのではないの?」
「そうではありませんよ」
 それは阿求が明言する。阿求が言うならそうなのだろう、と夢美は納得するしかない。今ここで、阿求が嘘をつく利がない。
「私がこいしを匿っているという最大の理由に、貴女は私が動かないからという理由を挙げたけれど、それもおかしくないかしら?」
「何故? 貴女は幻想郷の管理者なのでしょう?」
「確かに私は幻想郷の管理者だし、スキマを使えば瞬時に何処へでも行けるわ。でも、だからと言って幻想郷全てを監視しているわけではないのよ。そんなこと、いくら私でもできない」
「そうなのか?」
 ちゆりは横から問うた。八雲紫といえば、万能者であるという印象が幻想郷の中に流布している。
「そうよ。私の目は生憎、二つしかないのよ」
 ヤレヤレ、と言った表情で扇子を横に振る。できるはずがない、という仕草だ。
「今回の事件だって、その場に居た永遠亭の方が動きが早かったわ。連中には感謝しないといけないわね」
「永遠亭ね……」
 夢美はちょっと引っ掛かった。
「ちょっと聞いてもいいかしら?」
「何?」
「八意永琳と鈴仙とがこいしを逃がす可能性って、どれくらいかしら?」
 彼女たちは逃げられた、と言っていた。それゆえその先は知らない、と。しかし本当だろうか。
 話を聞いた時こそ全く疑わなかったが、幻想郷の日常が学会と似たような状況にあると知った今、疑わずにはいられない。永遠亭も又、自分たちの有利なようにしか動かないだろうから。
「まずないわね。月兎やら輝夜姫ならともかく、"あの八意永琳"が幻想郷の妖怪如きに遅れを取るはずないもの。しかも、彼女の使う術はどれも相手の動きを封じる物――」
 紫は其処まで言ったっきり、黙り込む。右手で扇子を鳴らしながら、しばし動きを止めている。夢美もまた、一つのことに気付いていた。
「おそらく、古明地こいしは永遠亭に居るわ」
 夢美が、そのことを告げる。
「ありえるわね」
 紫もまた応じる。
「ちょっと待て、永遠亭がこいしを匿ってどうするんだ?」
 ちゆりは、ちょっとわからないという表情を浮かべた。阿求もまた考え込んだっきり動くことはない。やはりわからないようだ。
「人里で反八雲の機運を高めようとしたのじゃないかしら。紫さんが妖怪を退治しなければ、人々は紫さんを見放す。そうすれば、相対的に永遠亭へ人里の心が傾斜するわけだし」
「月の時の仕返しかしら。あれで連中をぎゃふんと言わせたから、逆に私をぎゃふんと言わせようとしているのじゃないかしら?」
 紫の予測と夢美の予測は若干食い違った。紫の予測の方が、ずっと幻想郷らしいな、と夢美は思う。皆それくらいの心持ちで居てくれるのかな、と思わないでもなかったが、既に裏を見てきた夢美は、とてもそう思えない。
「でも、もし古明地こいしが誘拐していないというのならば、一体だれが早苗さんを誘拐したのでしょう?」
 ふと、阿求が告げる。こいしが永遠亭に居るというのがわかっても、そこは全く解決していないのだ。
「永遠亭、ではないとおもうんだぜ」
「永遠亭が早苗を誘拐するのはありえないわ。それこそ、永遠亭にとって何の利点もない。彼女たちだって幻想郷で平和に暮らしたいのだろうし、下手に守矢神社を刺激しても仕方ないもの」
 ちゆりの言葉に続いて、夢美が補足する。
「早苗が誘拐されても諏訪神が動かない、というのは不自然と言えば不自然ね」
「二柱は、生存確認が取れているから問題ない、と。あと、個人的には、執行猶予的な印象を感じたわ」
 平和ボケしているのではないか、とさえ思える返答をしていたことを、夢美は思い返す。だがそう考えてみると、蛙神が最後に告げた一言が気になる。彼女は最後に言ったのだ。"強引な事したくないし"と。
「そちらも早く解決する必要があるわね」
「でも、誰がどうやって早苗を誘拐したのかしら?」
 紫も夢美も、阿求も、早苗が実力者であることは知っている。早苗より強い妖怪も当然いるが、誘拐しようとすれば早苗は抵抗するだろう。となれば、大魔術合戦になるのは明白。人里の中でそのようなことをすればあっという間に見つかる。
 だからといって、人間であったとすればますます厳しい。早苗を誘拐するほどの力を持つ者はそういない。それこそ、"博麗の巫女"か"朝倉の科学者もどき"か"竹林の不死人"くらい。しかもあまり過激にやろうものなら、神が気付いて空恐ろしいことが待っていそうである。
「やはり妖怪……?」
「でも妖怪に連れ去られたのなら、神が動きそうな気もする。それに、静かに風祝を連れ去る妖怪はいないでしょうし」
「人間じゃないのか?」
 考え込む三人の真ん中に、ちゆりが石を投げ込んだ。
「人間?」
 夢美の問い返しに、ちゆりは金髪を揺らす。
「こう、銃突き付ければ、何にもできないんだぜ。これなら騒ぎもなく誘拐できるし」
 ポケットから"小さくても最強の武器"を取りだして、ちゆりが言う。
「それよ!」
 夢美は叫んだ。紫も阿求も瞠目している。そのことにちゆりは却って驚いたようで、動きを止めた。
「銃を使って誘拐、まるで外の世界みたいねぇ」
 紫は呟く。彼女は外の世界を知っているのだろうか、と夢美は首を傾げた。だが、元々素性不明の妖怪である。外の世界を知っていても、それほど不思議でもないだろう。
「でもそれなら、何らかの刃物で良いような気もします」
 ちょっと考えた阿求が、静かに言う。言われてみれば、刃物でもいいはずだ。
「それはないわ」
 だが、紫はそれを否定した。
「あの早苗は、神奈子の加護を受けているわ。となれば、並の鉄の武器で害そうとしても武器が錆びるだけよ」
「でも銃も鉄よ?」
「早苗を直接害するのは、鉄ではなくて鉛の弾。神奈子も鉛を錆させることはできないでしょうね」
 紫の言葉に嘘はなさそうだ、と夢美は一瞬で判断する。諏訪の神話を知らぬ夢美でもない。
「ならば、やはり銃を持つ人間というのが容疑者ね。阿求さん、この人里で銃を持って居そうなのは?」
 夢美は阿求の方へと目線をやる。阿求も既に納得したような表情をしている。
「猟師なら持っているでしょう。逆に言うと、銃を持っているのなんて猟師くらいのはずです」
 猟師というのは数が多そうであるが、それでもこの幻想郷の人里ならば数は知れている。おそらく、銃を持っている人間を洗い出すくらいはできるだろう。
「洗いだせるかしら。早苗の誘拐犯が分かるかもしれない」
 思わず夢美は立ち上がっていた。このまま一挙に解決できるのではないか、と夢美には思えた。
「それでは、今から永遠亭に行ってくるわ」
 ふ、と紫も立ち上がる。その優雅な立ち振る舞いは流石、長く生きる妖怪なだけあるな、と夢美は思った。
「こいしの方は私にとりあえず任せて頂戴。人里のことは頼んだわよ」
「人里の方は人里で処理しますので、大丈夫だと思います」
 紫の言葉に阿求が答える。その言葉に紫は会釈する。
「それじゃ、夢美さん。いろいろ有難う。貴女の御蔭で今回のこともどうにかなりそうね」
「こちらこそ、紫さんの御蔭できっかけをつかめましたから」
 夢美は頭を下げる。紫も軽く頭を下げてから、開いた隙間にもぐりこんだ。
「それでは、父に猟師の洗い出しを父にお願いしてきます」
 阿求もさっと一礼して、奥へと下がって行く。
 どうやら解決の希望が見えてきたようだ、と夢美は思う。幻想郷への"幻想"さえ捨ててしまえば、大したことはない事件だったのだな、という感慨が心の中を埋め尽くしていた。


 雨樋から流れ落ちる水の量は非常に多い。雨は猶、止むことを知らぬようであった。稗田本邸の門を出たばかりなのに、建物は縦に霞んでいる。
「では、何故紫さんは動かないのかしらね」
 夢美は、結局答えの出なかったことについて考えていた。
「? 全知全能なわけじゃない、って言ってたじゃないか」
「ええ言ってたわ。そりゃ、彼女だって妖怪なんだから全知全能ではないでしょう」
 妖怪どころか、神だってこの世界では全知全能ではない。一神教的世界観ならともかく、幻想郷の多神教的世界観においては全知全能の存在なんていない。神だって妖怪だって、職能というものがある。
「なら、それでいいじゃないか」
「よくないわね。よく考えてみなさい」
 夢美は、教師らしい口調でちゆりを窘める。普段からほとんど対等な関係にある夢美とちゆりからすると、珍しい会話だ。
 その言葉にちゆりは少し考え込む。ちょっと難しい顔をしてから、ああ、と頷いた。
「そういえば、紫さんがこの事件の解決に動いた形跡が全くないんだぜ」
「その通りね」
 夢美は軽く頷く。
「彼女が全知全能でないことと、事件の解決に着手していないこととは、全く関連性のないこと。紫さんは永遠亭の方に上手く話を反らしたから、そこの説明はしなかったわ」
「それじゃ、紫さんもまた事件に関わっているというのか?」
「いや」
 夢美はそれには軽く首を振った。
「紫さんは関与していないでしょう。この事件で一番泥を被っているのは紛れも無く彼女。事件の犯人は、最も得をする者だという原則から考えれば全く当てはまらないわ」
「……利害的に考えて、か?」
「そう。皆利害で動くと考えれば、事件の解決に近づけるわよ」
 夢美へ平然と言い放つ。実際そのようにした結果として解決に近づいたのだから、間違いはあるまい。
「にしてもおかしいわね。紫さんが動かなかった理由がわからないわ」
 だがちゆりは、若干不満そうな顔を見せていた。




五日目

 まだ雨であった。快眠を貪り、爽快な朝を迎えた夢美であったが、外は白く染まったままである。秋の長雨にしては時期が遅いのだが、雨は降り止まない。相変わらず気温も上がらないので、起きぬけに火を熾さないと寒くていられなかった。
 けれども、昨日からするとずっと気分がいい。一昨日の晩が徹夜状態であったことを考えると、よく寝た昨日の晩は天国のようとさえ言える。殊に悩まなければならぬものも無くなり、その良さに夢美は浸っていた。


「それで、猟師たちはなんて?」
「こいしの暴走の時に霧雨集落に居た者は、皆無意識を操られていて実行不可能なようだし、他の場所に居た者も皆他の者が見ているようねぇ」
 朝一で、夢美は稗田本邸を訪れた。昨日頼んだ猟師たちの精査が終わったようである。ただ、出迎えたのは小兎姫である。阿求は体調不良ということだった。阿求は体が弱いから仕方ないといえばそれまでなのだが、今回ばかりは阿求の体の弱さを恨んだ。
「つまり、早苗を誘拐できる猟師はいないってわけ?」
「各集落の肝煎たちによると、猟師たちは皆ちゃんと応対に出てきたし、怪しい素振もなかったそうよ。この二つを考え併せると、猟師の誰かが誘拐したっていう線はなさそうね」
「それは信用できるのか?」
 ちゆりが、小兎姫に強い口調で問う。
「どこかの集落の肝煎が、自らの集落の猟師を庇って何かを隠しているという可能性も充分にあるぜ」
「この期に及んで、おそらくそれはないわね」
 だがその問いに答えたのは、夢美である。
「妖怪の暴走と風祝の誘拐が別事件であると割れた今、乙名衆が犯人を匿う理由は少ないわ。これまでは、妖怪への反発を作り出せたけれど、今となっては人里での疑心暗鬼を生むだけだもの。皆さっさと解決することを望むでしょうね」
「……」
 ちゆりは黙り込む。夢美の言葉を尤もだと思ったのだろう。
「でも、そうすると早苗を誘拐したのは誰になるのかしら?」
「妖怪という可能性をもう一度考えるのも必要じゃないかしらね」
 小兎姫も、ちょっと真剣そうな顔で考える。それが"とても"でない辺りが、小兎姫の小兎姫たる所以である。
「……妖怪ねぇ」
 他の妖怪が早苗を誘拐したのだろうか、と夢美は考えてみる。早苗を誘拐して、得する妖怪はいるだろうか、と。人里で反妖怪の空気が高まったことが利となる妖怪は、はたして存在するのか。
 ――反妖怪?

 そこで、ふと夢美は気付いた。むしろ、なぜこれまで気付かなかったのか。
 これまでてっきり、乙名衆同士の争いに反妖怪の空気を利用するために早苗が誘拐されたのだと思っていた。親永遠亭の上稗田が、紫の動きの鈍さを見せ、人里での紫に対する反感を齎すために。もしくは、親八雲の下稗田が、紫が妖怪の退治する所を見せ、人里での紫に対する共感を齎すために。
 そんな理由で早苗は誘拐されたのだと思っていた。だから、すでにその目的を果たすことができなくなった今、たとえどちらが犯人であったとしても、早苗の事件は素早く解決するものと思った。乙名衆の報告があると思っていたのだ。
 だが、それはなかった。つまり、乙名七家のどれが犯人なわけでもない、ということである。ならば、誰が犯人なのか。
 そこで、一番最初にこの仕事を小兎姫は何故夢美に任せてきたのだろうか、と夢美は思い至る。彼女はこう言った筈である。"反妖怪結社の動きが気になる"と。

 この人里には、乙名衆の対立以前に反妖怪結社というものが存在し、妖怪に対する抗戦を叫んでいる。数はそれほど多くないが、かといって少なくも無い。もう少し増えれば、人里で影響力を行使しうる勢力になるだろう。
 それはともあれ、今回の事件で最も得しているのは、反妖怪結社に違いない。人里に於いて反妖怪の機運を高めることで、彼ら彼女らは人里の中でもより大きい支持を得ることに成功しただろう。或いは、参加人数を増やすことすら成功したかもしれぬ。

「ところで小兎姫」
「何?」
 真剣な顔をして考え込んでいた小兎姫に、夢美はこれまた真剣な表情で聞く。
「反妖怪結社の連中が武器を集めているって言ってたわね?」
「ええ。この幻想郷で出回る武器はそう多くないけれども、奴らが集めていたのは間違いない」
 小兎姫は少し憂いた表情を見せる。親妖怪的な彼女からして、反妖怪の空気は肌に合わぬのだろう。
「銃は持ってるのか?」
 ちゆりも小兎姫に問う。どうやら、夢美が何を聞きたいかと言うことがちゆりにもわかったようである。
「没収したのは、火縄銃が2丁と、ゲベールが2丁、ミニエー1丁、スナイドルが4丁、あとはピストルが2丁だったかしらね」
 よく覚えているなあ、と夢美は感心した。そもそも、ゲベールだとかミニエーだとか、夢美にすれば聞いたことも無い単語だ。おそらく銃の種類なのだろうが。
「割と多くないか?」
 ちゆりが少し驚いている。多分ちゆりも詳しいことはわかっていないに違いない。けれども、11丁という数を聞けば、多いと思うだろう。
「あれだけ持っているのはびっくりしたわね。蜂起でもするのかと思ったわ」
「それだけ量を持っていたということは、早苗を誘拐するのに1丁使うくらいはわけなさそうねぇ」
 数字を聞いて、夢美は呟く。
「銃で誘拐したってこと?」
「そう。術に関しては実力者の早苗も、銃を使われたら身動きが取れないと思うわ。静かに早苗を誘拐するならば、銃が一番手っとり早いわ」
 夢美は小兎姫に諭すように言う。解決の糸口が見えた今、もたもたしている必要はないのだ。
「早苗を誘拐したのは反妖怪結社である可能性が非常に高いように思うわ。今すぐ、調査した方がいい」
「わかっているけれど、私たちでわかるのはこれで限界だわ」
 だが、小兎姫は渋る。
「どうして?」
「必要以上に反妖怪結社を刺激するのは不味いのよ。人里が大混乱になる」
 何をいまさら、と夢美は思った。陰謀をめぐらして権力の争奪戦をしているにもかかわらず、争いたくもないと言うのか、と。
 だが、同時にその思考はわからなくもない。裏でどんなことをしようとも、表だって力のぶつけ合いはしたくないのだろう。
「わかったわ」
 それゆえに、夢美は会釈をしながら言う。それは、やんわりとした拒絶でもある。稗田には、人里と乙名どもには頼らぬ、という。
「もう少し頑張ってみるわ。それじゃ、また」
「役に立てなくてごめんなさい。でも貴女たちの御蔭で、凄く助かっているわ」
 小兎姫のお礼は、いつにもまして念が入っている。いつもの変人振りからすると、少し想像できない類の物でさえあった。




 夢美とちゆりとは、一昨日に訪れた東屋に座っていた。相変わらずの雨である。だが、こういう数寄屋造の東屋から眺めると、周りの木立の濡れる様が美しい。当に幻想的、と言うべきか。
「その様子は、私に用があるという感じかな?」
 その雨の中、特に濡れもしていない少女が一人入って来た。ナズーリンである。
「流石ね。まだ私たち、此処に来て5分も経っていないというのに」
「命蓮寺一帯は私の子分たちの領域だからね。すぐにわかったよ」
 ナズーリンは、胸にぶら下げたペンデュラムを触りながら会釈をする。相変わらず、その紅の瞳に映る感情を読み取ることはできない。
「こないだ、別れ際に協力を惜しまないって、言ってくれたわね?」
「ああ言ったよ。情報の面で、協力は惜しまない」
「それは、何故か教えてくれるかしら? 私たちに何を求めるの?」
 わからないのならば、とばかりに、夢美は単刀直入に問う。
「ご主人、何言ってるんだぜ。それはあまりに失礼だろ」
 ちゆりが、怒りを含んだ口調で言い募る。右腕で強く、夢美の左手首を掴んでいた。
「いや、大丈夫だ」
 だがナズーリンは、穏やかな表情を崩さぬまま夢美を見る。
「どうなのかしら? 全くの無償奉仕というのなら、それでもいいわよ」
 夢美は、ちゆりの右腕を振り払う。その仕草に、一瞬ちゆりは呆気に取られ、それから、力なく座る。
「無償奉仕ね……。もしそうだったら、貴女たちはどうするんだ?」
「そんな偽善者信用できないわ」
 ちゆりが座ったことも意に介さず、夢美はナズーリンを睨みつけた。
「ふっ、そういう反応か」
 ペンデュラムを弄る手を止めて、初めてナズーリンは夢美の方を向く。
「確かに私は情報提供の見返りを求めているよ。夢美さんは夢から覚めた、というところか?」
「夢ね。夢から覚めたという表現は、正しいかも知れないわね」
 ふ、と笑いながら夢美は告げる。だがその笑いは、ただ善のみの詰まった笑いであったろうか。
 ちゆりは何も言わない。ただ、目線はしかと夢美を捉えていた。
「で、見返りって何なのよ?」
「君たちから直接見返りを貰うつもりはない。ただ、この問題を解決することで人里に我々が溶け込みたいと思っているだけだ」
「端的に言えば、人里に恩を売りたいってことね?」
「そうとも言える。なにせ、この閑古鳥のままでは寺の意味もないからね」
 ナズーリンはテキパキと答えるが、夢美は必ずしもすべてを信用しているわけではない。ナズーリンという妖怪は、おそらく信用できるが、信用できない人物だ。
「それで、それだけを聞きたくてわざわざここまで来たのではないのだろう?」
 一通り答え終わったところで、ナズーリンは窺うような表情を夢美へ向けた。
「ええ、そうよ」
 夢美は薄く笑う。
「実は、一つ教えて欲しいことがあるのよ」
「何だ? 大概のことならば、調べられると思うが」
「人里の反妖怪結社についてよ。最近、妙な動きはなかったかしら?」
 夢美の目は、ナズーリンを捉えたまま。一方のナズーリンは少し考えてから、答える。
「当然、事件直後は活発に動いていたが、稗田家人の介入を受けて、すぐさま沈静化したな」
 稗田家人とは、おそらく小兎姫のことだろう。稗田家人ということを背景に、彼女は人里の治安維持を行っている。
「だが、一つだけ。誰かへの支援だけは続けているらしい」
「支援?」
 夢美は首をかしげる。一体誰をどう支援しているのだろうか?
「詳しくはわからない。ただ伊治集落付近の山の中にいろいろな物資を持って行く人間がいる」
「その先は?」
「残念ながら、結界に阻まれて詳細は不明だ。自分で行けばいいのだろうが」
 とナズーリンは口を濁した。要するに、行くほどのことでもなかったのだろう、彼女にとっては。ナズーリンにとって、人里の揉め事の詳細までを確実に掴んでおく必要はなかった、ということだ。
「ただ、推測は付く」
「推測?」
「ああ。山に籠ってる人間だよ」
 ナズーリンは、少し得意げに鼻を鳴らして見せた。
「昨日、伊治集落のはずれで火災があったと言うのは知っているか?」
「何か燃えていたわね」
 夢美は地底から出てきた時のことを思い出す。全てが白く沈鬱としていた人里の中で、一点だけ、たった一点だけ、真っ赤に染まっていた。そのことだろう。
「その家の者たちが行方不明になっている。他に人里から消えた人間の噂も聞かぬし、おそらくその家の者に違いないだろう」
「燃えた家に住んでいた者を、反妖怪結社が匿っているということ?」
「おそらく」
 あくまで推測でしかない、と念押しした上で、ナズーリンは言った。推測でしかない、と口でこそ言え、その信憑性は相当なものと推測されるだろう。
「その理由は?」
「そもそも、その確証も取れていないんだ。理由もよくわからない」
 夢美の続けざまの問いに、ナズーリンはゆっくり首を振った。
「そもそも、燃えた家に住んでいた者が何者だったかも良く掴んでいないんだ。人里ではひょっとすると有名なのかもしれないが、いかんせん私たちは新参だ。まだ調べが付いていない」
「いえ、それだけの情報を集めるとは流石ね」
 それは素直な感心だった。ここに寺ができてから、まだそれほど歳月は経っていない。それにしては、人里の状況については良く精通している。
「2・3日あれば、調べるが」
「いえ、そこまでしなくても大丈夫よ」
 夢美は言った。あまりに借りを作り過ぎるのはどうかと思ったし、あまり時間をかけたくなかったからだ。諏訪の神さまが恐ろしい。
「それだけでも物事を推測するには十分すぎるわ。本当にありがとう」
 そうして夢美は立ち上がった。それは、もう話は終わりだ、という合図である。
「少しでもお役に立てると幸いだ。勿論我々の思惑もあるが、それ以前に、夢美さんの努力が実るように願っている」
「それは有難いわ。私も解決できるように頑張るわ」
 ナズーリンも立ち上がったのに合わせて、夢美は会釈する。
「それでは、また」
「ええ、さようなら」
 ナズーリンは、雨の中を寺の方へと飛んでゆく。術を使っているからか、全く濡れずに。
「ではちゆり、私たちも戻りましょう」
「あ、ああ」
 ちゆりの答えは、雨音に消されてしまうのではないかというほど、小さかった。




 ナズーリンの所を離れた二人は、そのまま慧音宅へと向かうことにした。今回の事件では動きを見せぬ慧音であるが、人里の情報には長じているはずであるからだ。それに、慧音ならば乙名衆の外にいるので、事件をより客観的にみることができる。
 そう思った二人だったが、道の途中で思わぬ人物を見つけることになる。
「あ、夢美さんにちゆりさん」
「薬の行商か?」
 永遠亭の月兎・鈴仙=優曇華院=イナバである。
「丁度いい所にいました。今から、貴女たちの所へ伺う所だったんですよ」
 ふっと笑って鈴仙は言う。頭から生えている、ちょっと不思議な兎の耳が揺れている。
「私たちの所へ伺う?」
 夢美は首を傾げた。
「ええ。師匠より届け物なんですけれど」
「永琳から?」
 鈴仙に手渡された手紙を受け取り、夢美はまず外見を見る。雨に濡れても大丈夫なように、油紙で包まれている。
「これ、何かしら?」
「私もよくわかりません。なにせ、師匠は中身について何も言わずに渡したもので」
「そう」
 となれば、開けてみるしかないだろう、と夢美は思った。科学魔法の御蔭で、屋外でも二人は濡れることがない。当然、手紙も濡れない。
「じゃ、開けてみるわね」
「どうぞ」
 油紙を開くと、中から料紙の巻紙が出てくる。宛名も送り主も不明。その巻紙も取ると、ようやく書簡が現れた。
「これは……」
 書簡を開く。流暢に筆で書かれた文字を、夢美は流し読みしてゆく。そうしてすぐに目を見張ることになった。鈴仙も中身に興味があるようで、覗きこんでいる。しかしそれに書かれていることには、夢美同様絶句するしかなかったようだ。
「……脅迫状?」
「……おそらくね」
 夢美はちゆりにもその中身を見せた。意気消沈気味にちゆりではあるが、書簡を受け取るや、その金がかった瞳を大きく見開いた。
 手紙には、早苗を誘拐したこと。もし無事に帰してほしいというのならば、自らの身の安全を――食糧の供与・祭礼への参加・農業の互助――を保証しろという要求。自分は潔白だという主張が記されていた。
 とはいえ、送り主がわからないのだから、三人にとってはほとんど意味不明も同然である。ただ、早苗を誘拐した犯人の正体を表すきっかけになりうるものではある。
「一体、これはどうしたのよ?」
「師匠からは、"つい先ほど送ってきたのよね。面倒だから、代わりに夢美が見て"と言伝でしたけど……」
 鈴仙が小難しい顔をしている。凡そ、鈴仙も永琳に振り回されてばかりなのだろう。
「つい先ほど、ねぇ」
 そもそもどこから送られてきたのか、だとか、本当に"先ほど"送られてきたのかどうかなんて、これからは決してわからない。この脅迫状が本物かどうかだってわからないのだ。
「他に、永琳はこれについて何か言ってた?」
「ええと、特には」
「あら、そう」
 役に立たない。残念だが、得られる情報は以上のようだ。
「とりあえず、これは預かるわ。わざわざ持ってきてくれて、本当にありがとうね」
「いえ、こちらこそ、いろいろとご迷惑をかけていますから」
 そう言って、鈴仙は深々と頭を下げた。厳しくしつけられたのか、鈴仙はこういう時においてはとても礼儀正しい姿勢だ。そればかりは見習わないとな、と夢美も思う。
 でも、と夢美は一つだけ引っ掛かった。迷惑をかけている?


 夢美は、慧音宅へと向かいながらその手紙を出した永遠亭の真意について考えていた。
 そもそもこの手紙をどうして永遠亭が持っていたのだろうか? 犯人は永遠亭を脅迫しようとしたのか?
 否。早苗の誘拐は、決して永遠亭の脅迫にはつながらないだろう。犯人が永遠亭に脅迫状を送る理由もない。となれば、送られてきた脅迫状を誰かが永遠亭に送っていたことになる。
 さしずめ、人里の乙名衆の誰かなのだろう。永遠亭への協力を呼び掛ける一つの手段として、脅迫状を利用したに違いないのだ。
 そして、それを夢美に渡してくれるということは、事件の解決に対して協力を惜しまない、という永遠亭の意思表示なのだろう。紫が永遠亭との交渉に成功し、永遠亭を事件解決へと動かしめたのだろう、と夢美は予測できた。




 その手紙は、夢美たちにとっても丁度良いタイミングであったということができるだろう。寺子屋を長く開き、人里の人間の多くを把握する慧音の元へ、その手紙を持って行くことができたからだ。
「この手紙は、犯人のもので間違いないのか?」
「間違いない、とまで言えるかどうかわからないけれど、わざわざ永琳が偽物を作っても仕方ないしねぇ」
「それもそうだな。八意永琳が、そのようなことをしてもなんのメリットもない」
 その手紙に目を通しながら、慧音は呟く。
「そうよ」
 その呟きに、夢美は応じた。
「それで、この手紙の送り主ってわかるかしら?」
「そうだな、およそ、ということしか言えないが――」
 慧音は、手紙を凝視し、それから顔を上げた。
「これは弓削の書簡だろう」
「弓削?」
 それにはちゆりが問いを発する。
「つい先ごろ、放火を行って村八分となった男だ。筆跡も彼のものであるし、内容もそぐわない」
「村八分?」
 再び出たちゆりの問いに、慧音はちょっと座りなおしてから、答える。
「大体の意味はわかるだろうが、この人里での村八分とは、火災及び葬式を除く互助関係を全て放棄することだ。村八分された家は、全てにおいて自由となる一方で、何一つとして助けてもらえなくなる」
「でも、それじゃその家は農業とかをどうするの?」
 今度は夢美が問う。夢美もちゆりも、この人里での農業が完全に集落単位の共同作業であることを知っている。そしてその作業が、決して一人ではできないということも。
「もちろん、無理だ。だから、実質的に村八分とは家族全てに死刑宣告することにも等しい」
 村八分とは、前近代の日本でも重罪であったが、この幻想郷ではそれを遥かに凌ぐ威力を持つ。前近代日本なら、他に逃げて生活する術もあったが、この幻想郷では逃げ場なぞない。則ち、本当に餓死以外の選択肢はないのだ。
「だから、おそらく彼らは人里の中では死んだも同然だ。もはや、誰も関知していなかっただろう」
 慧音は、少し渋い顔で言った。そこに憂いが含まれるのは、同情だろうか。
「放火で、そんな重罪に?」
 ただの放火にもかかわらず、それほどの重罪を帯びさせられてしまうというのが、夢美には少し驚きである。少なくとも、夢美の知る外の世界の刑法では、死刑なんて相当な重罪でも犯さない限り下されない刑であったし、"家族全て死刑"なんて刑はなかった。
「この人里では、放火は重罪だ。うっかりすれば、集落全焼なんてことにもなりかねないからな」
「集落全焼にもつながりかねないような犯罪だから、村八分のような重刑が適用されるのか?」
「そういうことだ。最も、本当に村八分するかどうかを決めるのは乙名衆だがな」
 慧音の表情は、明らかに機嫌が悪かった。人を愛し、故に人と暮らす慧音からしてみたら、人が死ぬのを黙って見過ごすと村八分という制度が許しがたいのだろう。だが、下手に村八分の者を援助すれば、その時点で慧音もまた人里を逐われてしまうだろう。
「奴の場合は非常に揉めた。三家・三家で意見が真っ二つに割れ、間に挟まった稗田本家はその仲裁で非常に苦労したと聞く」
 三家・三家というならば、上稗田・伊治・霧雨の三家と、下稗田・万里小路・朝倉の三家で分裂したのだろう。稗田の相続争いが本題であり、村八分なんてオマケの議題でしかなかったはずだ。
「どうしてそこまで割れなきゃいけなかったんだぜ?」
 だがそんなわかりきったことを、ちゆりは聞いた。
「奴が放火したのは、家の相続争いに端を発している。本来なら彼の継ぐべき土地を継がせて貰えず、家の田畑は叔父の家に全て持って行かれてしまった。それに怒った彼は、叔父の家に放火したのだ」
 なんという泥沼か、と夢美は思った。下らぬ争いが、何処かしこで頻発している。
「元々、筋が通っていないのは奴の叔父の方だ。だから、その状況も考慮した場合ということで揉めたんだ。結局は、村八分の厳刑派の意見が通ったが」
 そうして彼は、家族全滅の刑になった、というわけだ。本当に下らない。人というのは、こうもどこかで争わなければいけないらしい。
「挙句、一昨日に奴の家も燃えた」
「一昨日の火事って、その村八分された人の家だったの?」
 夢美は、一昨日地底から出てきた時の風景を思い出した。雨に沈んだ幻想郷の中で、たった一か所だけ真っ赤に光っていた家があった。それがおそらく、一昨日の火事なのだろう。
「そうだ。あの雨の中の火事を考えれば、放火なんだろうが」
 また慧音は眉を曇らせた。
「……なるほどね」
 その話を聞いて、夢美はようやくその犯人像というのを、明確に浮かび上がらせることができた。慧音の話の御蔭で、早苗の事件を解決することができそうだ。
「慧音、早苗の救出に協力してくれるかしら?」
「救出?」
 慧音は目に疑問符を浮かべている。
「弓削の住む場なんてわかっていないはずだが?」
「いえ。反妖怪結社が、伊治集落近傍の山で、誰かを匿っているということがわかっているわ」
 夢美の言葉に、慧音は僅かな驚きを浮かべて見せる。まさか、そういう動きに出ているとは思わなかったのだろう。
「そして、その"誰か"が弓削だ、というわけか?」
「ええ。この間燃えた家の一家以外に、行方不明になっている人里の人間はいないみたいだから」
 慧音は、拳を握りしめている。人里の人間が――それも以前、罪を犯した者が、再び罪を犯したという事実に、慧音は何を思うのだろう。
「わざわざ、人里ではなく、山の中で匿っている、というのも不自然。人里の中でも問題ない」
「村八分の人間を匿えば、当人も罰せられることになる。結社の連中はそれを恐れたのではないのか?」
「それを恐れるならば、匿う必要はないわ。わざわざ匿っているということは、何らのことに利用したと考えるのが自然」
「それが、誘拐ということか?」
「まだ、推論でしかないけれどね。でも、行ってみる価値は充分あるとおもうわ」
 正直な話、本当にその弓削とかいう放火犯が誘拐をしたという証拠は手紙しかない。それどころか、反妖怪結社が動いたという事実も確証がない。あの書簡が偽物である可能性とてある。だが反妖怪結社に支援された、弓削という人物が早苗の誘拐と言う難事を為し得る数少ない人間である。彼の場へ訪れる意味は充分にあると考えられるのだ。
「本当に彼が犯人であるかどうかは別として、行ってみる価値はあると思うの」
 だが、夢美とちゆりの二人で行くのは、少し危険だろうと思っている。ナズーリンの調査の目を逃れうる結界が張られているということは、何らかの術を使えると言うこと。となれば、魔力へ対抗する術の無い二人だけでは、何があるかわからない。とはいえ、人里の人間たちは、もう信用できない。乙名衆たちが関与している可能性もある現在、彼らに協力を得ることはできない。
「それで、慧音もついてこないかしら?」
「何もなければ幸いだが、下手をすれば格闘にもなりかねない、というのだな」
「犯人でなければそれで終わりだけど、犯人なら、ね」
「手伝えるというなら、喜んで手伝おう。これまで、人里の沈静化に手間を取られて、肝心の事件解決には全く参画できなかったからな」
 慧音は若干考えてから、強い口調で告げた。その慧音の表情からは、並々ならぬ熱意が感じられる。その瞳には、先ほどまでの苦渋ではなく、決意。人里を何より愛し、人里の為ならば命だって捨てられるという、慧音の心意気が滲み出ていた。
「それじゃ、宜しく頼むわ」
「ちょっと待っていてくれ。何があるかわからない、というなら妹紅も呼ぼうか」
 夢美もちゆりも、決して無力な存在ではない。慧音と三人ならば、大抵の相手ならどうにかなりそうなもの。だが、相手がどういう存在であり、どのような対応を取るかわからない、という以上、戦力は多いに越したことはない。
「それもそうね。妹紅がいれば、百人力よ」
「よし、では呼んでくるから待っていてくれ」
 慧音はそう言って立ち上がる。
「いや、私たちも行くわ」
 慧音が家を出ようとするところを、二人は慌てて追った。




「で、相手の出方がわからないってことでいいの?」
「そういうこと。もしその弓削とか言う男が本当に犯人なのだったら、きっと頑強に抵抗してくるに違いないし、何も後ろめたいことがないのなら普通に応対されるだけだろうから」
「なるほどね」
 四人で伊治集落へと向かいながら、妹紅へと説明を加える。妹紅もまた、人里がこうして混乱していることを憂いている様子であった。
「もし抵抗してきたとして、何か気を付けることはあるか?」
 慧音に聞く所によると、弓削と言う男は決して術に長けた人間ではないらしい。幻想郷の人間が普通嗜む程度しか術を使うことができず、その点で警戒すべき部分はない、と言う。
「警戒すべきは、銃だぜ。もし誘拐しているとすれば、銃を使って誘拐している可能性が高い。それを使ってくる可能性も考えられるからな」
 その言葉にはちゆりが答える。先ほどの慧音との会話では、珍しく、ほとんど口を出してこなくなったから心配したが、特に変わったところはなさそうだ。
「銃、か。それは少し、厄介かもしれないな」
 妹紅が呟く。基本的に物理的衝突の少ない幻想郷では、銃を見る機会なんて、そうそうないのだ。
「とにかく、犯人だとわかったら一気に片を付けるのがよさそうだ」
 慧音の提言に、四人で頷いた。



 伊治集落に辿りついた四人は、早速ナズーリンに渡された地図に従って、山に分け入った。山々は赤く黄色く染まり、今が秋であるということを眼前に訴えて来る。雨に濡れて艶を増した紅葉は、一段と美しい。
「……どういうことだ?」
「……何が起きてるの?」
 だが、そんな山の状況なぞ、四人には全く目に入らなかった。四人の目に入ったのは同じ赤でこそあるが、山の木々の赤ではない。
 家を焦がし、天をも突かんとする、火焔の赤であった。

 そこで何が起きたのかは、全くと言ってわからない。ただ一軒の小屋が、炎を吹き上げていたのである。これだけの雨の中、よほどのことでないと火は付くまい。火薬か油を利用した放火なのだろう。
 だが、それならば何故こうして燃えているのか。
 四人の誰ひとりとして、何が起きたかわからない。わかるはずもなかった。


 とにかく、四人は伊治邸へと向かう。伊治集落を差配する肝煎・伊治家ならば、情報を持っているはずだ、と考えたからだ。とにかく情報を得ないことには、何かもわからない。
「これは慧音先生を筆頭に、我が伊治に何の用でございましょうか?」
 そうして、伊治家当主自らの歓迎を受けていた。伊治家とは何の関連もない夢美とちゆりであったなら、果たしてこうも歓迎されたか疑わしい。
「山の方で小屋が燃えているのを見たのだが、あれの理由を教えて欲しい」
 両手を畳につき、頭を下げる伊治家の当主に、慧音は率直に問うた。この中では、最も慧音が感情を露わにしている。人里の安寧を破壊する者は許せない、と言いたげである。
「あの小屋は、風祝を誘拐した犯人の小屋でございました」
 その慧音の問いに、当主は厳しい表情で返した。それは、夢美の予測が正しかった、ということを表している。
「あの小屋は、先ほど村八分になった弓削の住む小屋だと聞いたが」
「先生のおっしゃる通り、弓削が住んでおりました」
 慧音の下問は、まるで尋問である。だが、それに動ずることも無く当主は答える。率直そうな人であり、あまり嘘を付けるタイプでなさそうだな、と夢美は思った。
「やはり、その弓削という男が犯人だったのね?」
 夢美が横から問う。
「間違いない。奴が犯人でしたな」
 夢美の問いにも、当主はあっさりと答えてくれる。殊更隠すこともないだろう、という口調だ。
「それで、犯人だとわかってどうしたんだ?」
「早速弓削との交渉に。だが、奴は交渉に乗らず、自らの小屋に放火して一家諸共心中したようです」
「心中?」
 慧音が思わず声を挙げる。夢美も耳を疑った。そもそも、一家全員が小屋にいたというのか?
「弓削は妻子と共に、小屋に居たようです。それは、我が家人が確認しております。ですが、放火した後も出てくることはなかったことから推察するに、心中したとしか思えません」
 四人とも、その当主の言葉に茫然とするしかなかった。呆気なさすぎる幕切れ。
 少々馬鹿らしいとさえ、夢美は思えた。こんな簡単なことの為に、自分は振り回されていたのか、と。あれだけ噴出していた権力闘争は、全てこの程度の出来事で煽られたのか、と。
 慧音も妹紅もちゆりも、言葉がないようだった。ただ伊治家の当主だけが、驚いた四人を穏やかに見ていた。
「……それで、早苗はどうなったんだぜ?」
 暫く固まった後、漸くちゆりが我に返ったように、当主へ問う。その言葉で、夢美は漸く我に返った。
「ご安心ください。人質になっていた風祝は、放火の前に解放され、我々の方で無事保護しました。既に、守矢社にはその旨を伝えてあります」
 その言葉で、四人は少し胸をなでおろす。早苗までも巻き添えで殺されてしまう、なんていう悲劇だけはごめんだった。
「お会いしますか?」
「ああ、させてもらおう」
 当主は、慧音の答えを四人へと確かめる。四人が頷いたのを確認して、彼は立ち上がる。
「それでは、こちらです」


 彼は、部屋の前まで四人を案内すると、こちらです、とだけ告げて戻っていった。おそらく、知己だけにしてくれるのだろう、と夢美は好意的に受け取った。
「早苗、いる?」
 偶々戸に近かった夢美が、声を掛ける。もし、早苗が変貌していたらどうしようか、と少し不安だった。
「あ、夢美さんですか?」
 だが、中からいつもの早苗の声が返ってくる。少し元気がないようにも思えるが、それは致し方ないだろう。
「そうよ。ちゆりと慧音と妹紅も居る」
「わざわざ来て下さったんですか、どうぞ入って下さい」
 嬉しそうな早苗の声を聞いて、幾らか安心しながら戸を開いた。

 戸を開くと、目の前に早苗は正座して座っていた。やはりすこし疲れたような表情であるが、異常があるようには思えない。ただ、だいぶ気落ちしていそうだった。
「わざわざ来て頂いて、ありがとうございます」
「誘拐された、と聞いて来ない者はいないよ」
 妹紅が、安堵しきった表情で告げる。
「本当に、ご迷惑を掛けました」
「謝らなくていいわ。一番大変だったのは、どう考えても早苗だもの」
 本当は、何かを隠しているのかもしれない、と内心では思いつつも、夢美は安堵を隠せなかった。やっぱり、彼女が無事であったというのはとても嬉しいことである。
「ちょっと、話を聞かせてもらってもいいかしら?」
 夢美は、ちょっとためらいながらも、聞いてみた。この事件の真相というものを、夢美は知りたかったのだ。ただ、少しでも嫌な顔を見せたなら、すぐにでも辞めよう、と思っている。それに、無理をしようとしたら、ちゆりや慧音や妹紅が、止めるはずだ。
「いいですよ」
 けれども、殊更嫌な顔を浮かべることはなかった。表情こそ、暗くなるが。
「本当に、無理はしなくていいんだぜ。嫌なら、このダメ教授を追い払ってもいいから」
「いえ、大丈夫ですよ。ちょっと悲しいだけで、嫌ではありません」
 ちゆりの軽口に少し笑いながら、でも言葉の通り、少し悲しそうに、早苗は答える。
「悲しい?」
 それには、慧音が問うた。酷い目にあったというのなら、悲しいというのとはちょっと違う反応が返ってくるはずに思える。
「私を誘拐した弓削さんは、死んでしまいましたから」
 早苗の瞳に涙が浮かぶ。どうして誘拐犯の死に悲しむのか、夢美にはよくわからなかった。けれども、早苗の涙が嘘ではない、ということだけはわかっていた。
「本当に、また今度でもいいんだぜ。無理に話さなくても」
「いえ、いっそ、話してしまった方がいい気がするんです。私の為にも、弓削さんの為にも」
 けれど、早苗は涙を拭う。随分と強いな、と夢美は思った。囚われの身から解放された直後だというのに、そのことについて話せる、というのは早苗の精神の強さ以外の何物でもなかろう。
「そうか、なら、無理をしないで、話してくれればいい」
 慧音が言う。その言葉に早苗は軽く頷いて、口を開いた。
「丁度、私が霧雨集落までちょっと買い物しに行った時でした……」


 早苗は、ゆっくりと、しかし整然と事件の経緯について語った。時には嗚咽を漏らしつつ、しかしはっきりと言葉を紡ぐ早苗には、夢美は驚きさえ抱く。彼女の気丈さは、やはり神だからだろうか、とさえ思えた。
 彼女の話には、誘拐に対する恨みなんてものは、全く感じられない。むしろ、犯人に対する同情さえ、感じられるものであったと言える。早苗にとっての誘拐犯は、恨むべき相手ではなかったのだ。

 結局、早苗の下駄というのは、誰か――おそらく、反妖妖怪結社――の偽装工作であったようだ。早苗が誘拐されたのは、こいしが暴れた河原ではなく、霧雨集落への入り口だったようである。銃を持った男に脅され、そのままあの小屋へ連れ去られたらしい。こいしの暴走の話は全く知らなかったから、それより前のことらしい。
 その男は、小屋に着くと弓削了(ゆげのとおる)と名乗ったそうだ。妻と息子との三人で、小屋に住んでいたという。
 最初こそ、いつ酷い目にあわされるのか、或いは、殺されるのではないか、と恐懼していたようだが、早苗に対する待遇はよいものだった。ほとんど弓削一家の一員としての扱いであり、決してぞんざいに扱われることはなかったという。了自身は、いつも小屋を留守にしており、監視役を兼ねていた了の妻と様々なことを話したそうだ。その中で、彼らが叔父に土地を騙し取られ、立ち行かなくなって放火し、その結果として村八分になったと聞いたらしい。

 彼らの誘拐は、決して本意ではなかった。村八分から解除してもらうために、仕方なく行ったものだ、ということだったのだ。弓削一家が幻想郷で生きてゆくためには、誘拐と言う非常手段に出るしかなかったのだ。

 人を害するのが本意でなかったからこそ、早苗の待遇は悪くなかったのだろう。現に、早苗は彼らに同情を隠さない。
 だが、この事件は結局、弓削一家の全滅によって幕を閉じた。伊治の家人に囲まれた際に、どうして素直に降伏しなかったのか、早苗にもそれはわからないらしい。彼らは早苗を解放して外に出すと、小屋に火を放ち、心中した。

 ただ弓削一家の気持ちを考えれば、わからなくないかな、と夢美は思えた。どうせ死ぬのなら、人知れず餓死するのではなく、自分に死を突き付けた乙名衆に見せつけたかったのだろう。



 結局、暗くなるまで早苗にいろいろな話を聞き、それから夢美とちゆりは伊治邸を退出した。
 伊治邸を退出する際には、諏訪神二柱とすれ違い、その言葉に驚かされることとなった。二柱は、夢美たちの直後に伊治邸へ来たが、早苗と夢美らとが話を居ていると聞いて、わざわざ待っていてくれたという。夢美は、その二柱の心遣いに感謝するほかなかった。

 慧音と妹紅は、もう少し伊治の当主と話し合いをしてゆく、という。おそらく乙名衆関連の話なのだろう。そんな醜い連中の話なんて、夢美はもう聞きたくない。


 ああ、と夢美は思っていた。既に暗くなってはいるが、まだ雨は降り続ける。眼下の川は、連日の雨に濁流を轟々とうならせている。
 結局、弓削一家の悲劇は、下らぬ争いをするからだ、と言うことはできまいか。少しでも物を欲する性質の為に、一家心中となったのではないか。
 土地の争いのために彼らは放火を為し、放火の為に村八分となり、村八分の為に誘拐し、誘拐の為に心中となったのである。もし、人が争わずに済んだなら、皆が全てを欲するのではなかったら、この悲劇は避けられたに違いない。
 因果律のすべてに、下らぬ争いが関与している。村八分とて、もし"稗田の後継争い"などという下らぬ争いがなければ、はたして村八分なる罰が本当に下されただろうか。

 夢美は、この早苗誘拐事件の顛末に、この世に生きる者の"業"を見ていた。
 結局、命蓮寺の白蓮の言う通りなのだろう。"生きるということは、欲し続けること"なのだ。

 故に、このような争い・悲劇を避けることは決してできない。だからこそ、学会でも幻想郷でも醜い争いが繰り広げられている。

 だから、この世に楽園など、存在しえないのだ。生きている以上、何かを欲して争わなければならないのだから、争いの無い楽園なんて、できようはずもあるまい。



 夢美は、もはや諦めていた。
 この世の何処に行っても、学会と同じような醜い争いしかないのだ。





「あれ、なんだ?」
 家路をふらふら飛んでいた夢美だったが、ちゆりの言葉に振り向く。
「どこ?」
「ほら、あっち。なんか浮かんでない?」
「そうねぇ」
 雨は小振りへと変わっていた。故に、人里のはずれで、何かが対峙していることだけは伺える。
 そして次の瞬間、対峙している辺りが、明るく輝いた。辺りは一挙に昼のように明るくなり、二人は一瞬目が眩む。
「一体何よ……」
「とりあえず、行くしかないんだぜ」
「そうね」
 ちゆりに引きずられて、そちらへと向かってゆく。
 目が慣れて猶、そこには太陽があるようにしか見えなかったのだ。



「あら、その程度で私に勝とうというのかしら? 甘いわねぇ」
「そんなこと言っていられるのも今のうちよ」
 近づいた二人は、人物を視認する。人里の側に浮いているのは、八雲紫である。余裕そうな笑みを浮かべて、迫りくる太陽を躱している。対して、紫の目の前に浮かんでいるのは二人。片方は地底で見た、お燐のようだった。
「こいし様を返せー!」
 もう片方が、背の鴉の翼をめい一杯広げて、巨大な熱球を次々と繰り出している。全方位に自分の10倍の大きさもある熱球を繰り出すさまは、壮観である。
 ふと気付けば、雨は相当弱まっていた。もう、ほとんど降っていないに近い。
「返して欲しければ、私に勝ってみなさい」
 不敵に紫が笑いながら、右手のカードを明示する。
「スペルカード発動!」
 紫の声と共に、紫の背から数多くのレーザーが放たれる。それは幾分か小さくなった熱球を貫いて破壊し、さらに鴉へも襲いかかる。
「うわっ」
「発動!」
 味方の危機を覚ったのか、お燐が叫ぶ。それと共に、数多くの亡霊があらわれ、レーザーを食いつぶしながら紫に迫りはじめた。紫は忽ち、亡霊によって全方位を囲まれる。
 だがそれでも、紫は不敵に笑う。不敵に笑って、動く。亡霊をさらり、と躱してゆく。
 その様は、まるで踊っているようであった。紫を取り囲み、迫ってゆく亡霊と、その隙間を抜けて動く紫。その様に夢美は、美しい、と呟いていた。


 気付けば、雨は止んでいる。空の雲も千切れ飛び、月が雲の合間から覗いていた。

 そして、この暗い中でのスペカ決闘は、この世のものかと思えるほどに美しい。
 お燐たち二人は、紫を撃墜したくてたまらないに違いない。だがそうして、半ば悪意を以て繰り出されたスペカは、夜空に光弾や札や亡霊で図形を描く。その図形は、様々な形に変化してゆく。
 弾一つ一つ、相手にダメージを与えるものであると信じられないほど、美しい。真っ暗闇に浮かびあがる光の弾は、温かみさえ感じられるのだ。そしてそれらが一つ一つ、幾何学的な模様を描いて、精密に闇を斬り裂いてゆく。

 外の世界の花火さえも、これほどには美しくなかった、と夢美は思う。あれほど温かみがあり、穏やかな光ではなかった。

 その、光の弾によって作られた美しい図形の中を、紫は避けてゆく。それは宙で舞っている、としか表現しようのないほど優雅な物だ。刻一刻と変形する図形の中を、それに合せて的確に動いてゆく。その動きは洗練されていて無駄がなく、優雅だ。
 闇の中で、紫の金髪がひときわ輝いている。


 これが小兎姫の集めていた、"弾幕の美"か、と夢美は嘆息を漏らしていた。ちゆりも、そのスペカ決闘に目を奪われている。これほど美しいものが、ここにあるのか、とさえ思った。


 先ほど、"こいし様"と言っていたし、おそらく地底からこいしを追ってやってきたのだろう。人里からしてもこいしは指名手配犯であり、彼女たちの"返せ"という要求は、少し的外れな気もしなくもないが。
 だが、こいし暴走事件に関連があることは間違いなさそうである。あれだけ泥沼になった、もう一つの事件が、これほど美しいことによって解決されるのだろうか、と夢美は思う。
 早苗の方が、あれだけ泥沼だったのである。それにこれまでの経過も恐ろしいほどに利害の絡み合う悲惨な物であった。
 そんな状況なのに、こんな美しいもので解決するはずがないように、夢美には思えたのだ。

 思えたけれども同時に、解決するのではないか、とも思えていた。これほどに美しいものは、醜いものさえも洗い流してしまうのではないか、と思えたのだ。



 やはり、経過は紫が圧倒的なようであった。お燐たちが合せてスペカを9枚も発動したのに、紫はまだ2枚しか発動していない。先にスペカが切れた方が負けなのだから、お燐たちはほとんど負けと言っていいだろう。
 だが、夢美にとって、そんなことはどうでもよかった。

 この暗闇の中で輝く弾幕に、ただただ見惚れていたから。結果なんてものは、二の次である。美しさに心さえ、奪われていた。



「終わったわね。お疲れ様ー」
 10枚のスペカを使いきって猶、紫を倒すことはならなかったお燐たちに、紫が言う。
 その言葉が、夢美には残念至極であった。まだまだ、このスペカ決闘を見ていたかったのである。
 すでに雨は完全に止んでいた。頭上に広がるのは、雲一つなき空。月と星とが見下ろしている。
「そんな……」
 鴉の少女が、打ち沈んでいる。
「こいし様の為に、頑張ったのに……」
「なんだ、地上の連中はこんなルールを適用して、こいし様を誘拐したまま返さないつもりなのか!」
 お燐は、紫に向かって叫んでいた。
「あら、ルールには従ってもらわないとね」
 そんな二人の前に、紫はそのまま浮かんでいる。負けた二人を見下しているという感じだろうか。
「流石、八雲紫ねぇ。スペカ決闘なら、誰にも負けないんじゃないかしら?」
 と、別の方向から声が響く。その声は永琳だ、と夢美は瞬時に理解する。
「霊夢には勝てないわよ」
 紫は、永琳の方を向いて不敵に笑う。しかしつい先ごろまで、互いに牽制し合っていた永琳と紫が、こうして場に現れるのは、少し不思議だ。紫は永遠亭に交渉へ行っていたが、どういう交渉を成立させたのだろうか。
「そうなの。八雲紫にも勝てぬ者あり、かしら」
 永琳もクスと笑ってから、お燐たちの方を向く。
「ところで貴女たち、お探しの妖怪はこちら?」
 永琳が言いながら右手を鳴らすと、下から黒い帽子を被った少女が上がってくる。浮いている第三の瞳が特徴的だ。
「こいし様!」
 と同時に、二人が叫んだ。
「お燐、お空! どうしてこんなところに?!」
「上にこいし様が誘拐されたのではないかと思って、助けに来たんです」
 お燐と、お空と呼ばれた鴉とは、こいしに飛びつく。こいしは、ちょっとびっくりしているようだ。
「さあ、これで解決でいいかしら? 大団円、ってことで」
 その様子を眺めながら、紫が告げる。
「私は良いわよ」
 永琳も答えた。穏やかな笑みを浮かべている。
「ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした」
 こいしが、二人を頭を撫でながら頭を下げる。
 それが、事件解決の印だった。
「それじゃ、私たちにも混乱の原因はあるから、永遠亭からのお詫びとして、宴会を開くわ」
 永琳が、告げる。
「是非、来て頂戴ね」
「楽しみにしてるわ」
 紫が笑みを浮かべる。この笑みは、これまでと違って裏の見えない、純粋な笑みであるように、夢美には思えた。




 かくて、事件は完全に終結を迎えた。早苗は神社に戻り、こいしは地底へ戻る。人里の混乱も収まり、幻想郷は平穏へと戻る。

 お詫び、と称して開催された永遠亭の宴会には、夢美たちも参加した。広く幻想郷の人妖が呼ばれた宴会は、それはそれは盛況であった。あちらでは、紅魔館の主たる吸血鬼と夢幻館の吸血鬼とが話に花を咲かせ、そちらでは、永遠亭の姫と白玉楼の姫とが、和歌の交換をしている。こちらでは、人形遣いと八雲の式とが盃を呷っており、向こうでは白狼天狗と紅魔館の主の妹が、真剣に将棋を指している。誰もが、何の気兼ねもなく、気ままにふるまっていた。
 そんな中、解決に尽力した夢美とちゆりは英雄扱いである。今回の最大の殊勲者だ、とばかりに祭り上げられ、次々と酒を飲まされた。元来、それほど強くないちゆりは忽ち打ち沈められ(そもそも、外の世界では酒を飲んでよい年齢ではない。酒を飲みなれぬ者にいきなり日本酒を飲ませれば、沈むにきまっている)、上戸を自負する夢美も、ふらふらになるまで飲まされた。

 そんな有様ではあったけれども、しかし、夢美はその宴会が楽しかった。誰もが気ままに飲み騒ぐ宴会なんて、外の世界では体験することなんて、できないのだ。


 スペカ決闘と宴会と、この二つは幻想郷の"ハレ"であるのだろう。そしてその"ハレ"とは、非常に美しいもの。普段はあれほど、醜いものの噴出する幻想郷ではあるけれども、それでも、こうして美しい"ハレ"が現れる。
 酒で思考の鈍る頭の中で、夢美はそんなことを思う。そして、そんなハレの幻想郷の姿を、少し感動さえ覚えた。

 結局、夢美はこの事件の全貌を知ることはならなかった。早苗誘拐事件は、かの弓削一家が行ったものであるのは間違いない。だがその裏で何がどのように動いていたか、ということは全くわからなかった。なにせ、彼の小屋は全焼してしまったのである。反妖怪結社が本当に裏にいたのかすらわからない。かくて、この誘拐事件の乙名衆による結論は、"村八分の解除を求めて誘拐し、露見したので心中した"というのみだった。本当に心中であったのかさえ、夢美にはわからない。彼らが"消された"可能性すらある。
 こいしの暴走事件についてはもっと謎である。どうしたか知らないが、八雲紫が上手くスペカ決闘――"異変"に持ち込んで解決したことだけがわかる。永遠亭とどのような交渉をしたのか、だとか、そもそも何故古明地こいしが人里で暴走することになったのか、だとか、そういうことは一切わからなったのである。わかるのはただ、永遠亭を通じて古明地こいしは人里に対して正式に謝罪し、和解したということ。そうして、大団円で解決したということのみ。やはり紫は頼りになるし、永遠亭もまた信任できる、という印象を人里へと与えて終わった。





十七日目

「草稿としてはこんなもので良いでしょう」
 夢美は、ホッチキスで閉じられた十数枚の紙を夢美へと渡した。A4サイズに、びっしりと横書きで活字が並んでいる。
「良かった」
 ちゆりは一枚一枚、朱が入っている場所を確認しながら、安堵で息を撫でおろした。
「あとは、これを論文にすればいいんだぜ」
「……そうね」
 ちゆりが纏めたそれは、この幻想郷で取った様々なデータから行った様々な研究の摘要である。ここには、これまで幻想郷で行ってきた研究の全てが詰まっているといってよい。幻想郷でのデータ採集と解析の成果だ。
 後はここに書かれた諸研究の論文を書いて学会へ提出すればよいのである。
「どうしたんだぜ?」
 だが、正直な所、夢美の反応は驚くほどに薄いものであった。何の感慨も無かったのである。
「これさえあれば、後は元の世界に戻って学会に提出するだけなんだぜ?」
「元の世界――ね」
 夢美は溜息をついた。
「……ご主人?」
 そんな夢美の態度に、ちゆりは一歩後ずさった。何を危惧したのか、夢美には何となくわかる。おそらく、今まさに夢美が考えていることを、ちゆりは恐れているのだろう。
「まさか、帰らない、なんて言わないよな?」
 そしてその予想は当たった。ちゆりは、夢美の思考を的確に言ってのけたのである。
「ちゆりにこの草稿、あげるわ。私は、学会に戻らないから」

「ご主人、ご主人は学会に仕返しするために幻想郷に来たんだろ? それなのに、今になって何を言うんだよ!」
 ちゆりの怒号が響く。ちゆりはパイプ椅子を蹴飛ばして立ち上がっていた。
「もう、嫌になったのよ。あんな学会見るのが」
「だから、醜い教授共を見返すために、物理学会に物理学を取り戻すために、こうして研究を続けてたんじゃないのか!」
「それじゃ、この草稿に掲げられたテーマを全て提出したとして、それで彼らが物理学に目覚めるとでも思っているのかしら?」
 詰め寄ったちゆりへ、夢美はあくまで冷静に対応する。
「連中の権力欲の道具にされて、蹴落とされるのが落ちじゃないかしら?」
「そんなことがあるはず……」
 威勢よく言い返そうとするちゆりだが、その言葉は詰まる。
「あの学会の連中が、まともな論文"ごとき"で、元に戻るわけないわ」
 そのちゆりへ、あくまで静かに、言葉を吐く。
「連中も生き物だから仕方ないわ」
「何、馬鹿なことを言ってるんだよ」
 ちゆりは、ほとんど胸倉を掴まんばかりだった。怒髪冠を突く、と言った体である。
「連中を見返そうって、強い決意で此処に来たのは、あんたじゃないか!」
「それもそうだったわね」
 夢美は言いながら、自嘲の笑みを浮かべる。
「そんなことを信じていた時もあったわ」
「何だよ、それ!」
「あの事件から、ずっと考えてたのよ、私」
 早苗が誘拐され、こいしが暴れた事件。それは人里や妖怪の思惑が錯綜し、酷く複雑な様相を呈した挙句、拍子抜けするほどあっけなく幕を閉じた。まさしく龍頭蛇尾である。
 この事件が、"龍頭"となってしまった理由とはなんだったのか。
 その答えは、白蓮の言う"生きるということは、欲し続けること"に由来するのだろう。それは、早苗誘拐事件の、あまりに悲劇的な結末で、知った。皆が何かを欲し、他を牽制するからこそ、これほどややこしいことになってしまったのではないだろうか。
「それで、思ったのよ。学会の争いは、絶対なくならない、って」
「なんだ、悟った、とでも言うのか!」
「ある意味、悟ったのかもしれないわ」
 夢美は言い放つ。少なくとも、知ってしまった、というべきかもしれない。
「この幻想郷ですら、こうして争うのよ。学会の連中が、争わないはずがない」
「どうしてそう言えるんだよ」
「争うのが性(さが)なのよ。仕方ないわ」
 人も妖怪も、生きていればこそ争わなくてはならない。だからこそ、幻想郷でも学会でも、醜い争いはなくならない。
「いや、それは違う!」
 ちゆりは、そんな夢美の諦観に向かって言葉をぶつける。
「幻想郷も、学会みたいな権謀術数が渦巻く権力闘争があることは否定しない。否定しないが、スペカ決闘という解決策もまた提示されてる。だから必ずしも、醜い争いが無くならない、とは言えない」
「スペカ決闘は、解決策とはなりえないわ」
 ちゆりの言葉に、夢美も言葉を返す。あくまで冷静だが、その中には、どろりとした感情が込められている。
「スペカ決闘は祭だもの。祭が終われば、そんなもの関係なくなる。普段は、醜い争いをしているだけ」
 スペカ決闘によって物事の解決を行う"異変"と日常とは、峻別される。そしてその日常では、ああした醜い争いが噴出する。それは、これまで見てきたではないか。
「祭が日常になる可能性というものだって充分に考えられるんだ。違うか?」
「考えられるかしら? 祭は何時までも祭でしかないし、日常は何時までも日常であり続けるのではないかしら?」
 スペカ決闘は、妖怪たちの日常の息抜きでしかない。その息抜きが、日常に侵食することなんて、有り得ない。
「私はあると思うんだぜ」
 だが、ちゆりの言葉はあくまで希望に満ちていた。
「生きれば則ち争う、なんて世界がそんな悲しいわけがないじゃないか」
「今回の事件を見てもそれが言えるかしら? 人里では肝煎たちが自らの生存の為に争い、妖怪たちが自らの生存の為に牽制している。その様を見ても、言えるのかしら?」
「……」
 ちゆりは、立ち尽くしていた。夢美の決意に驚きを隠せぬ、と言った風である。
「それじゃ、向こうもこちらも変わらないじゃないか」
 絞り出すような声が、聞こえる。
「向こうでも争ってて、こっちでも争ってるなら、どちらに居ても変わらない。そうじゃないのか?」
「変わるわ」
 だがその言葉にも、夢美はあっさりと返した。
「こちらには、"異変"があるもの」
「"異変"も所詮祭だ、といったのはあんただろ?」
「祭だけど、祭がないよりあったほうがマシよ」
 既に、夢美の心は決まっている。論理性に欠けるちゆりの反論に応じるのは、簡単なことだ。
「向こうの世界は、ひたすら日常だった。でも、この幻想郷には祭と言う"ハレ"があるわ。一時でも、醜さを忘れられる美しい"ハレ"が」
「雨ばかり降る向こうの世界より、雨の合間に晴れのあるこちらがいい、というのか?」
「雨?」
 夢美は思わず聞き返した。事件の頃、雨が多いのは事実であったが、それとこれとどう関係がある?
「祭を晴れに例えただろ? なら日常は雨じゃないのか?」
「ああ、そういうことね」
 夢美は苦笑いした。
「"ハレ"と"ケ"。民俗学用語よ。そんなことも知らないの?」
「知らないんだぜ。民俗学なんて興味ないからな」
 苦笑いをしたが、ふと夢美は思った。確かに、"晴れ"と"雨"というのも、形容にはあっているのではないか、と。冷たい雨が降りしきり、沈鬱とした状況は、日常をよく表す。その雲が切れて太陽が差し、高い天を望めるようになるのが、祭である、というのはまさにぴったりな表現とは言えないだろうか。
「ま、晴れと雨でもいいけれど。どちらにしろ、"ハレ"のある幻想郷の方がずっといいじゃない」
「あくまでも、元の世界には戻らないつもりなのか?」
 とうとう、ちゆりは論理的に攻めるのを放棄したようだった。先ほどまでの強気な態度とは一転、その声はか細いものだった。
「戻るつもりはないわ。ただ、貴女は貴女の好きにしていいわ。私が何かを強制する権利なんてないものね」
 夢美が語りかけると、ちゆりは黙り込んだ。何かを考えている様子だ。無理もない。つい先ほどまで、二人で帰るつもりだったに違いないのだから。
「一つだけ、最後に聞いていいか?」
「いいわよ。何でも聞きなさい」
「ご主人は、元の世界に未練はないのか?」
「……」
 未練がない、と言えば嘘になるかもしれない。友人もおり、恩師もいる。何より、自分が生まれ育った京都の町が、そして自分を育ててくれた両親が、二度と見れなくなるということは、苦しいことである。
 それでも、と夢美は思う。それでも、あのスペカ決闘の――祭の美しさを見てしまった以上、そんな祭の一つとてない、ただ醜い日常のうち続く、則ち、沈鬱な雨の降り続く元の世界に、戻ろうとは思えないのだ。それほどに、決意は固い。
 けれども、夢美は遂に言葉を発し得なかった。それが元の世界に対する未練の故なのかどうか、夢美にはわからない。ただ、どうしようもなく、言葉が出てこなかったのである。ない、とも、ある、とも言うことができなかった。
「……そうか」
 暫くしてから、呻くように、ちゆりは呟いた。
「やっぱり、私は向こうに戻る。ご主人がここに残ると決めても、私は帰るんだぜ」

 その言葉が、二人の決別であった。







 十九日目

 夢美は、これまでの研究結果からなにから、全てをちゆりに渡した。一日掛けて整理をし、丁寧に解説も添えて。ちゆりはまだ、学会に論文を提出すると言うし、少しでも役に立つだろうと考えたからだ。
 そして一緒に、宇佐見教授への紹介状も渡していた。物理学者らは徹底的に夢美たちを排斥したけれども、そんな中で恩師である宇佐見教授だけは理解を示してくれた。だから、ちゆりの面倒も見てくれると考えたのだ。もう定年で退職なされているから、却って圧力がかかることもないだろう。

「本当に、ご主人は来ないんだな?」
「私はここで暮らすわ」
 可能性空間移動船を前にして、ちゆりはまだ聞いた。彼女は、独りで帰ると決めてからも、度々夢美に、帰らないのか、と聞き続けていた。その度夢美は、ここで暮らす、と答える。二日ですっかり慣れたやり取りとなってしまった。
「……そうか」
「そうよ」
 そのやり取りが終わると、暫くちゆりは押し黙ってしまう。その気持ちは、なんとなく、夢美にもわかった。それでも、互いに決意は固い。だからいっそう、寂しかった。
 だが、今回の沈黙は長い。それも道理だろう、と夢美は思うし、夢美自身も発する言葉が見つからない。二日間、ひたすらに繰り返してきたこのやり取りも、これが最後になるということが、二人ともにわかっていたからだ。
「……それじゃ、いくぜ」
 名残惜しそうに、しかししっかりと、ちゆりは、可能性空間移動船への一歩を踏み出す。そのままちゆりは船へ入って、こちらを向いた。
「では、お別れね」
 夢美は会釈を返した。快活なちゆりに、涙の別れは似合うまい。似合うまい、と思うからこそ笑ったつもりであったけれども、本当に笑えたかどうかは自身がなかった。
「ご主人、これまで本当にお世話になったんだぜ。ありがとな」
 ちゆりも、満面の笑みを浮かべていた。満面の笑みを浮かべてこそいるけれども、その黄色い瞳からは涙があふれている。夢美の頬にも、何故か暖かいものが流れていた。
「こちらこそ、ちゆりには本当にお世話になったわ。ありがとう」
 それでも、あくまで笑っていたかった。それが、ここには似合っている。
「では、いつか」
「ええ、いつか」
 これが、今生の別れであろうことは容易に予測できた。ちゆりがもう一度、此処に戻ってくるということは、それほど可能性が高くない。それに、解析しきれないほどの量のデータを取った今、戻ってくる必然性もそれほどないのだ。
 最後に、ちゆりは思いっきり手を振って、そうして、船の扉が閉まる。夢美も思いっきり手を振り返した。もうそれはちぎれんばかりに。涙を滂沱と流し、大輪の笑顔で。

 すぐに船の起動音がし、僅かに浮き上がる。そうしてそのまま、忽然と消え去った。今までそこに何かがあった、という痕跡ひとつ残さず。

 船が消えてしまって、夢美はその場にへたり込む。自分で決めた結論とは言え、置いて行かれた寂しさが、冷たい冬の風となって、身を覆う。既に、ほとんど秋は終わりを告げていた。山の木々は、葉を散らして枯木の賑わいとなり、風はいつ雪を呼んでくるとも知れない。


 ええい、と夢美は立ち上がった。涙の別れも、こうした弱気も、ちゆりとの別れには似合わない。もっと清々しく、快活であるべきなのだ。此処で沈んでいては、ちゆりに何と弁解すればよい。
 夢美は、袖で涙を思いきり拭った。少し痛いくらいだが、却って気を立ち直らせるには丁度良かった。
 そうして、夢美は空を見上げる。澄んだ青い空が、頭上には広がっていた。その青い天蓋に、ひっ掻いたような一つの絹雲が貼り付いている。それが一層、天の高さを思わせた。
「よし」
 軽く呟いて、夢美は浮き上がった。科学魔法の賜物だ。
 青い青い空にも気にせず、真っ直ぐ夢美は飛んでゆく。




 赤いマントが、紺碧の蒼穹の中でひときわ輝いていた。







 日々は荒れても、ハレ有れば生を見出すことも容易し。
 ハレ無き世にて、何ぞ能く生きることあらん。








 ということで、8回コンペ作。なぜか、アップするのを忘れていました。
 他にも今だコメント返しをしていなかったり、すこし申し訳のない状態。うむ、致し方もないのだが。

 いつか完全版にしたい。いつか……
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