東寺には百合文書、という文書群がある。
百の桐箱に整理されたこの文書群は、東寺の荘園に関する重要な史料を四万通も収めている。中世社会経済史にとっては何にも代えがたい宝だ、といえる。
しかし東寺はこれを、バラバラに売り出そうとした。
東寺は、金が足りなかった。こんな役に立たぬもの、要らなかったのである。
ひゃくごうの箱
百合、という病がある。古書に曰く、百脈一宗悉く其の病を致す、と。体に百千とある脈の全てが合せて病を発するが故に、百合という。
その病ではないか、と慧音は思い返していた。どうにも具合が優れないのである。食欲も無ければ寝ることも出来ない。時折妙に暑くなったり寒くなったりする。書に記された百合の症状と殆ど同じであると言えるだろう。
そして何より、頭痛が酷い。強弱こそあれ、近頃頭痛が治まった試しがない。つまり、常に頭痛へ悩まされ続けているのだ。
だが、だからといって慧音に倒れている暇はない。近頃、妹紅も人里の守護者としての役割を果たしてくれるようになった。とはいえ、慧音には自分こそが人里を守らなければならない、という義務感がある。そして人里の守護者たる自分は、病に倒れている暇なぞない、と思っているのだ。
なぜこんな病になってしまったのか、それにも心当たりはあった。
自分のやっていることが、わからなくなってしまっていたのだ。
自分はどうして、歴史を編纂しているのだろうか、と。
歴史を知る必要なんて、無いのではないか、と。
きっかけは些細なことだった。いつものように寺小屋で幻想郷縁起について講義している時に、一人の生徒が野次を飛ばした。先生、そんなこと知らなくたって生きていけます!
何を言うか、といつものように言い返した慧音であるが、二人目の言葉に詰まった。僕たちが生まれるずっと前のような、そんな関係ない話を聞いたって全然面白くないです。もっと自分たちに関係ある話が聞きたい。
それもそうだ、と慧音はその時思ってしまった。今の幻想郷は少し昔の幻想郷とはまるで異なる場所である。妖怪の中には、人との交流を楽しんでいる者も増えてきている。川に沿って並ぶ人里の五集落のうち、最下流にある霧雨集落などでは、妖怪向けの店があるほどだ。あの集落では妖怪たちもまた多数出入りしている。人里を出てしまえばそこは妖怪の地であり、危険に満ちているのは違いない。しかし昔に比べると人と親しくする妖怪も増えた、ということができる。
となれば、歴史を学ぶ意義というのは半減するのかもしれない、と思えてしまった。『幻想郷縁起』の一つの役割は、妖怪への対策を知るためであった。ところが現状では対策も必要ない様な者たちが増えており、そうとなれば『幻想郷縁起』によって歴史を学ぶ必要もない、というわけだ。
その時の授業は、何バカなことを言っているんだ、と誤魔化した。とはいえ、自分の心に宿った疑念を誤魔化すことはできない。これまでさして深く考えなかった――考えなくてもよかった"歴史を学ぶ意味"についてを考えなければならなくなってしまったのである。
そうして考えてみると、ますます歴史の不必要性に気付かされることになる。幻想郷の妖怪たちは孰れも非常に長生きである。故に人間からすれば歴史的事象である物々も、彼ら彼女らにしてみたら実体験であったりするのだ。妖怪に限らず、妹紅にとってもそうだ。例えば文武朝に関する話を知りたければ、史料を繙くよりも妹紅に聞いた方が正確な話を聞けるに違いない。
つまり、歴史書を読み歴史を知ることなんて、殆ど無意味に等しいのである。それくらいならば、妖怪から話を聞いた方がいい筈だ。
そしてそれから、悩みは消えることがなかった。昼も夜も、それが頭から離れることはない。そして考えれば考えるほど、歴史を編纂し教えることなぞ何ら意味がないと言われているような気がする。今だって、そうなのだ。
今ある様々な体の不調――百脈、合して病する要因は、間違いなくこれだろう。
妖怪の山は既に頂上の方が冠雪しはじめている。人里の楓も殆どその紅い葉を落とし、秋がそろそろ終わることを告げている。空が晴れ渡り、透き通った青を見せていることが、一層寒さを誇張しているように、慧音には思えた。尤も、体に感じる温度と実際の気温に著しいズレがある慧音にとってみれば、あまり関係がない。今も、もうこれ以上着こむことができない、というほどに着こんでいるにも関わらず寒さに震えが止まらない。
そんな状況で慧音は買い物を済ませていた。幾らかの食料品を買いこみ、慧音は帰路につこうとしていた。
「慧音さん慧音さん」
将に人里を離れんとした時に、後ろから声がかかる。慧音は振り向いて、軽く頭を下げる。
「美鈴か、どうしたんだ?」
「ちょっと咲夜さんから買い出しを頼まれましてね」
美鈴は、その紅の髪を棚引かせ、如何にも人懐こい笑みを浮かべている。彼女は長身だから、慧音からすると少し見上げる形になる。
「そうか。門番はいいのか?」
「少しの間、咲夜さんが立っていてくれるということらしいので」
ふと見ると、両手には相当な量の荷物がある。事も無げに美鈴が立っているものだから大した量ではない、と誤解しそうになるが、その半分の量も慧音は持てないだろう。
「慧音さんも買い物ですか?」
「そうだ。色々と食べ物を」
慧音が笑顔を浮かべて答えると、美鈴はその笑顔を少し崩す。
「大変じゃないですか?」
「いや、大丈夫だ」
頭痛はもういつものこと。眩暈も何もかも、いつも通りだから問題はない。
しかし、その答えに美鈴はますます表情が渋くなった。眉の間には少し皺さえ寄っている。
「どうした?」
慧音は、何か美鈴の機嫌を損ねるようなことでも言ったか、と考えた。もしそうならば、謝らなければならないだろう。美鈴は妖怪であるかもしれないが、こうして人と親しくしてくれるならば、排斥する理由はどこにもないだろう。
「いえ……」
美鈴は少し言葉に詰まったようである。翠色の瞳は慧音をきちんと捉え、何かを言いたげにしているようにも思えたが。
「?」
美鈴の視線を浴びているこの状況で、ここから離れるのも少し気が引ける。しかし何も言うこともない慧音は、困り果ててに立ちつくすしかなかった。
「ええい、やっぱり言います」
焦れたのか、美鈴は唐突に言った。何のことかさっぱりわからない。
「慧音さん、相当体調が悪いのではないですか?」
「なに?」
美鈴は何を言い出すのだ、と慧音は思った。
「全然大丈夫じゃないでしょう? 違いますか?」
美鈴は慧音に詰め寄った。その視線は力を帯びていて、慧音は思わず少し後ろに下がりそうになった。
「どうして、そう思う?」
慧音は聞き返す。美鈴が何故そう推察しえたのか、ということを知らねばならなかった。人里の守護者たるもの、自分が不調たることを漏らすことはならぬのだ。
「それは、慧音さんの気が非常に乱れてるからです」
しかしその慧音の問いは杞憂だったようである。美鈴はその能力によって慧音の不調を見抜いたに過ぎなかったのだ。態度や表情に、不調の様子が出ていたわけではないらしい。
「それは酷く乱れてますし、それでは酷く苦しいはずです。違いますか?」
「……恐れ入ったよ。確かに、かなりの不調だ。頭痛は治まらないし、食欲もあまりない」
「そうですか……」
やはり、という表情を美鈴は浮かべる。それから彼女は右手に持つ荷物も左手に持ち替え「ちょっと背を向けてもらっていいですか」と問うた。慧音としては拒否する理由なんてどこにもないから、素直に後ろを向く。
ふ、と慧音の背に美鈴の手が置かれた。その手はとても暖かく安心感がある。そして手が置かれるや、みるみるうちに頭痛が消えて行った。
「これでよし、と。もう良いですよ」
美鈴の声に従って、もう一度振り向く。美鈴は再び左手に持つ荷物の片方を右手に持ち替えるところであった。
「気を整えたので、幾分かは楽になったと思いますけど」
なるほど、と思った。彼女にとってみれば、気の流れを正すことは簡単なのかもしれない。それにしても、ほんの少しの間美鈴が背に手を置いていただけだが、それだけで随分と楽になるものだ、と慧音は思う。頭痛は消え去ったし、寒気も取れた。
「本当に楽になった。有難う」
「ならよかった」
美鈴は再び温かみのある笑顔に戻る。彼女の笑顔は本当に皆を安心させる笑顔だ、と慧音は思った。それこそが美鈴の人徳というものなのではないだろうか。
「ただ、応急処置ですからね。きちんと根本を治さなければ、またすぐ逆戻りしますからね」
「ああ、わかった」
根本を治す。それが一番の難題であるように、慧音には思える。殆ど無理難題の類ではないか、とさえ思えた。
「しかしそれほど気が乱れるとは、何かあったのですか?」
美鈴は心配そうな視線を慧音へと向けている。その問いにも答えたくなければ答えなくていい、と瞳が告げていた。しかし、このまま去ってしまうのは慧音も気が引けた。それに、中華出身の門番であると言う以外に何一つ素性の知れぬ彼女に話をすれば、もしかしたら答えのヒントが得られるのではないか、と思えたのだ。
故に、慧音は口を開く。
「美鈴は、歴史を学ぶ必要があると思うか?」
「歴史ですか?」
「そうだ」
美鈴は少し首を傾げる。それは問題について考えている、というよりはその問いを出した慧音にたいして問うているのではないかというように思えた。
「妖怪の中には、歴史編纂なぞ必要がない、と思っている者も少なくないが、美鈴はどう考えている?」
「確かに、妖怪の中には歴史不要を唱える者が多い気はしますね」
美鈴も頷く。
「非常に長く生きていれば、人が"歴史上の話"とするものの大半も自分の記憶の中にあるからだろう。それを歴史だ、と認識する必要はないのかもしれないな」
「まあ、自分の知っていることが絶対だ、と思うわけですし」
美鈴も少し難しそうな表情を浮かべて、言う。
「そもそも人間に興味を持っていない奴だっています。そういう奴らにとってみれば、人間が中心になった歴史なんて全く意味もないと思うでしょうし」
「そうねぇ。確かに人間に興味を持たない奴ってのも、たくさん居るわね」
慧音が頷く前に、別の声が割り込む。
「あ、こんにちは」
美鈴は頭を下げる。丁度慧音の真後ろのようだ。その声から持ち主を推測した慧音は、顔を顰めた。
「吸血鬼んとこの門番と、寺小屋の先生ね。こんにちは」
慧音が振り向くと案の定、そこにはチェック柄の服を着て日傘を持つ、緑髪の女性が立っていた。
「なぜ人里にいるんだ?」
「あら、随分と扱い悪いのね。そこの妖怪とは随分楽しそうに話していたのに」
「自他共に認める、幻想郷屈指の大妖怪が人里にいるのは、あまり良いこととは思えないからな」
慧音は非難の目線を向ける。とはいっても、彼女にはまるで効いていないが。美鈴はその姿に苦笑している。
「霧雨集落にある料亭で魅魔と食事していただけじゃない。何も悪いことはしていないわ」
より性質が悪いじゃないか、と慧音は思った。魅魔といえば、これまた幻想郷屈指の力を持った悪霊である。幽香と魅魔が二人して人里に居座っているなど、空恐ろしい話だ。
「紫の式に紹介された料亭だったんだけど、美味しい料理だったわ。元々宿をやっていたらしくて、接客もしっかりしてたし」
最近、霧雨集落にある店の中で、妖怪を受け入れる店が非常に増えてきている。これまで、妖怪の店は妖怪向け、人間の店は人間向け、ときちんと分けられていたのだが、その境界を取り外し双方を受け入れるようになってきているのだ。幽香の言う料亭も、そうした店の一つである。
「まあいい」
慧音は諦めた。風見幽香が人里へ降りてくるのは、そう珍しくもないこと。それに他の言うことを聞くような殊勝さなんてどこにも持っていないだろう。
「いいのね」
幽香はニコリ、と笑った。幽香らしい、少し人を見下したような笑いである。
「で、慧音は何を聞きたいのかしら?」
「お前、何処から聞いていたんだ?」
「歴史についてどう思っているんだ、って貴女が聞いたところからかしら?」
「なら話は早いな」
いっそ、幽香にも聞いてしまうと面白いのではないか、と思った。紫に匹敵、或いは凌駕するとさえいわれる大妖怪の風見幽香の答えともなれば、やはり学ぶところが多いのではないだろうか。
「そうね」
幽香もクスリ、と笑う。
「そんな面白そうな話をしてるから、思わず入り込んじゃったわ」
面白そう? と慧音は少し不思議に思った。風見幽香というと、武闘派という印象が強い。算学に関して大きな業績を挙げたという紫に比べて、あまり学問的な話を聞かないのだ。その彼女が、こうした歴史の話について"面白い"と表現したのはだいぶ意外であった。そんなの面倒ねぇ、という言葉を慧音は予測していたのだから。
「それで美鈴。貴女は、どのように考えるのかしら?」
「私ですか?」
ふ、と幽香の目線が美鈴の方を向く。何時の間にやら、幽香が完全にこの場を握ったようである。
「そう。妖怪の多くが歴史をいらない、と考えているのはわかったわ。でも、貴女自身はどう考えているのよ?」
幽香が日傘を美鈴へと向ける。その姿は、流石大妖怪とも言うべき颯爽とした立ち姿である。しかし美鈴も又それに動ずることなく、半ば暢気とも言えるような態度で考える。
「そうですね。私としてはやっぱり歴史を知るのは必要じゃないかな、と思いますよ」
美鈴の言葉は、どことなく彼女の思いを載せているのではないか、と思えた。
「何故だ?」
「私は思うんですよ。古の人々からは学ぶことが多いって」
「学ぶこと?」
「そうです。古の人の行動には、規範とすべきことは非常に多いと思うのですよ」
その思いが何か、慧音はいまいち判然としない。ただ、強いて言うならば、郷愁とでも言うべきかも知れなかった。
「勿論、行動に限りませんけれど。古の事を知り、考えることは重要であると思うのです」
しかし、そんなごく僅かな揺らぎこそあれ、美鈴の言葉はしっかりとしていた。真っ直ぐな彼女らしい、筋の通った言葉である。
「そうか。しかし、昔と今とでは違うことも多いが、それでも役に立つか?」
「それは役に立つと思いますよ。私だっていろいろと考えてみてますし、役に立っていることもありますよ」
美鈴は少し強い口調で言った。その言葉は殆ど、断言と言ってよかった。
「なるほどねぇ。役に立てる、ね」
幽香は慧音の隣で、これまた楽しそうな表情を浮かべた。
「私もそう思うわね」
「そうですか?」
美鈴の問いに幽香は軽く頷く。それを見た美鈴は、ふと顔をほころばせる。
「慧音、貴女は何故『幻想郷縁起』が編纂されているか知っているかしら?」
「もちろんだ。あれは妖怪の歴史を書き、そしてその妖怪への対策を知らしめるためではないのか」
「そう、その通りね」
慧音の答えに幽香は少し笑う。
「妖怪を倒すには、歴史を知ることが必要なのよ」
「鬼を倒すには豆やイワシの頭、ということですか?」
美鈴が横から問う。
「そう、その通り。他にも吸血鬼ならば流水、とかそういう伝えられている道具があるでしょう。そういう"由来"に妖怪は弱い」
幽香は真面目な表情で語る。風見幽香といえば、いつも少し高飛車に笑っている印象しかなかった慧音にしてみれば、彼女がこうして真面目に話しているのは少し不思議である。
「その由来ってのは、人間が少しずつ経験して知っていくもの。となれば、その経験をまとめておかないと困るじゃない」
しかし彼女の言葉には非常に説得力がある。それが彼女の大妖怪たる所以かもしれない。
「それは、別に妖怪退治に限らない、ってことでしょうか?」
「ああ、つまり、人は様々なことへの対処をまとめるために、歴史を編纂している、ということか?」
美鈴の後を受けて、慧音は口を開いた。つまり歴史は人々の対処記録、ということだろうか、と。
「その通り」
「ふむ」
美鈴は、なるほど、といった表情で頷いている。元々かなり近い考えを持っていたのだから宜なるかな、といったところである。とはいえ、慧音はいまいち納得がいかない。そこまで実利的に捉えてよいのだろうか、と思えるのだ。
「慧音は納得してなさそうね」
一体それを何処から読み取ったのか、幽香は笑いながら言ってのける。
「まあ、私としてはそれが"表向き"だと思うのだけれどね」
「表向き?」
「その通り。実際のところは、もっと適当なものだと思う」
にやり、と幽香は少し意地悪そうな表情を浮かべる。
「そうは思わない?」
幽香は傘を慧音の方に向けて、少し厳しい視線を投げる。しかし、慧音は答える言葉を持たなかった。先まで幽香が言った事は実利的に過ぎるかもしれないが、だからといって別に何かが見えているわけではないのだ。
見えていないからこそ、百脈が乱れたのだろう。
何も答えなかった慧音を見て、幽香は傘を下げると地を軽くたたく。その仕草一つがこれまた非常に決まっていて、慧音は少し感心さえした。
「私は、過去を繙くことで世の中を眺め直せる、と思ってるのよ」
つまり客観することだろうか、と慧音は考える。
「世の中が一体何なのか、どうなっているのか。そんなことを考えるのに、過去を知るのは丁度良い」
「つまり歴史を通して、世の中というものを知るというのか?」
「そういうこと。世の中がどんな風な動きをするのか、過去を見ればわかるじゃない」
「別に役に立たなくても構わない、ってことですか?」
美鈴の言葉に、幽香は軽く頷く。
「むしろ、役に立たないくらいの方がいいわ。それはあくまで私がそう思ってるだけだけど」
この風見幽香という妖怪は、普段その辺りをうろついているか強者と力比べをしている印象しかないのだが、なかなかどうして、きちんとした考えを持っているようだ。
慧音は大幅にイメージを修正せねばならないな、と思った。紫同様、彼女も妖怪の賢者である、ということを。
「だが、世の中を眺め直してどうするというのだ?」
ただ、それでは説明になっていない、ということも慧音はわかっていた。なぜならば、世の中を客観したところで何にもならないなら、やはり無駄という話だ。
「なににもならないわ」
「む?」
「暇潰しよ、暇潰し。世の中眺めてると、面白い」
幽香は言う。ああ、といった表情で美鈴も頷いた。
慧音は気付く。幽香にしても美鈴にしても、おそらく自分からは想像できないほど長い時を生きて来ているのだろう。或いは生きるのに飽いているのやも知れぬ。
「それでいいじゃない。暇潰しで」
ふむ、と慧音は思った。人より長いとはいえ、彼女たちからすればずっと短い。暇潰しをするほどの時間はないかもしれない。
「だが暇潰しもよいか」
それくらいの心意気でいればいいのか、と慧音は何となく感じていた。むしろこれまでが、深く考え込みすぎていたのかもしれない。
「暇潰しといいながら、この世界を眺め調べる。なかなか豪華なものかもしれない」
「わかってるじゃない、あなた」
幽香は軽く慧音の肩を叩く。美鈴もまたにっこりとほほ笑んでいた。
「だから妖怪ってのはいいのよ。これだけ時間があり余ってたら、世界を深く眺められるじゃない」
ね、と美鈴に幽香は顔を近づける。さしもの美鈴も少し驚いて後ろに下がったようだが、頭を縦に振っていた。
「でも、慧音には時間はそんなに余ってないでしょう」
今度は美鈴から離れて、慧音の前に立った。
「だから、さっさと頑張った方がいいと思うわよ。余り悩んでる暇なんてないわ」
そう言うと、傘を持たぬ右手で慧音の肩を叩いた。肩にはじんわりと痛みが広がっていく。
しかし慧音は何か清々しい気分であった。幽香の言葉を聞いていると、なんだか悩んでいる方が馬鹿らしいように思えてきたのだ。もっと気楽にやればいいのかもしれない。
世界を眺める道具として使う、それでいい。眺めたければやればいい。そうに違いないのだ。それくらい気楽にいよう。
「それじゃ、そういうことだから」
言いたいことを一通り言ってのけると、幽香は二人に背を向けた。
「幽香さんの話、面白かったですよ」
美鈴が頭を下げる。それに合せて慧音も頭を下げる。
「下らないことに悩んでないで頑張りなさいな」
そうして歩き始めようとした彼女だったが、ふと立ち止まり、再びこちらへと向き直る。
左手に傘を持っているのはいつも通りだが、気付いたら右手に百合の花を持っていた。
「百合? この冬に百合か?」
「花使いなのだから、これくらいは容易いことよ」
幽香の浮かべた笑みは、無邪気そのものであった。少女のような笑顔に幾らか癒されながら、百合を受け取る。
「しかし、何故百合なのですか?」
美鈴が首を傾げた。言われた通り、百合である必要は何もないだろう。
「"百脈一宗,悉く其病を致す"なのじゃないかしら、あなた?」
大層な咲き振りの百合を見ながら、何をいまさら、という表情を幽香は浮かべた。
「……『金匱要略』の百合病ですか」
幽香の言葉に、美鈴も答える。このような文言がすらすら出てくるとは、幽香にしても美鈴にしても中々底が見えない、と慧音は少し空恐ろしく感じた。普段の姿を見ると、とてもこんなことを知っているとは思えなかったからだ。
「そうそう。そうじゃないの?」
「正確にはわからないが、そんな気はする」
「百合病には、百合が一番効くのよ。だからそれ」
「百合とはいっても、根だろう?」
笑顔で百合の花を示した幽香へ、慧音は問い返す。
「実際の薬は、竹林の神もどきにでも出してもらいなさい」
そう言って再び彼女は背を向けた。
「じゃ、また」
向こうへ颯爽と歩いていく姿は、百合の花と言うには遠いかもしれないが、それは美しいものであった。
「それでは、私もそろそろ失礼しますね」
「ああ、ありがとう」
美鈴が頭を下げる。あわせて慧音もまた頭を下げる。
「それではまた」
「いろいろありがとうな。また」
慧音がお礼を言うともう一度彼女は頭を下げ、それから紅魔館の方へと飛び立って行った。
百合の病に効果があるので、"ゆり"のことを"百合"と書くのだと言う。
ふと慧音は手に持つ百合の花を見る。それは妙に主張の強い百合の花で、渡した当人らしい百合だな、と慧音は思う。
慧音はくすり、と笑った。
まずはこの百合を部屋に飾ろう。そして、また歴史の編纂を行わないとならない。
慧音の手にある百合が鮮やかな白を辺りへと振りまいていた。
了