はじめに

○幻想郷の地理と歴史的範囲
 この本の扱う幻想郷史は、史料の残り具合の問題から、自然人間に関わる歴史が中心となってくる。妖怪とは、長命であるが故にあまり史料を残さないのである。結果、古いことはわからないのである。よって、人里の範囲をまずは捉えておく。現在では、幻想郷の範囲とはすなわち博麗大結界の範囲を指している。よって人里については玄武沢から霧の湖に流れる川に沿った、伊治(これはる)・上(かみ)・稗田・小路(こじ)・霧雨の五集落がその範囲となる。
 しかしながら、幻想郷史を考えるにあたっては、必ずしもこの五集落をさして幻想郷/人里と呼び習わすことはできない。一つには集落形成の時期の問題があり、これらの集落は漸次成立しており五集落となったのはたかが200年程度前の話となる。よってそれ以前について考える際には、集落の有無も考えねばならない。
 また幻想郷の範囲という問題もある。「幻想郷」とは、結果的に博麗大結界によって囲われた地域の総称である。しかしながら、地域集団の範囲は時代によって変化しており、現在の「幻想郷」地域がひとつの同じ地域集団と認められたのは、後代に下る。要するに、より広い範囲が「幻想郷」として同じ歴史を歩んだ時期もある、ということである。
 具体的には、上記五集落以外に、刈平(かりひら)・国荘(くにのしょう)・似舘(にだて)・外内(とない)・四田(よた)・城(じょう)・遠米(とおまい)などが挙げられる。これらの集落は、博麗神社南方の刈平峠((現在は廃道となっている。博麗大結界によって封鎖されている。))を越えた小盆地に存在する。博麗大結界成立までは、これらの集落と現幻想郷のご集落との間に人的・物的交流も多く、互いの影響が大きかった。そのため、中世の一時期には現幻想郷五集落と合わせて「妖境十二郷」と称されることもあり、政治的統合が模索されたこともある。
 現在ではこれらの集落は外の世界に組み込まれているが、殆どの集落が廃村となっており、わずかに似舘・城に人が残っている程度だという。
 これから幻想郷史を学んでいくにあたっては、幻想郷の範囲が五集落から十二集落の間で、時代ごとに変化していくということをきちんと理解しておきたい。


古代

○先史時代の幻想郷
 幻想郷における先史時代というのは、おおよそ『幻想郷縁起』による記録以前と言い換えることができる。つまり、ここで扱われるのは、日本史の時代区分で言えば奈良時代以前に当たる。
 しかし、先史時代の幻想郷については、わかることはきわめて少ない。現在の幻想郷域で人の恒久的な住居が設置されたのは、出土史料から奈良時代中期(8世紀半ば)と考えられ、それ以前の遺跡については、一時的滞在によるものと考えられている。
 現在の幻想郷域内での、最古の遺跡は今から約4000年前の縄文時代の竹林2遺跡である。やはりここからも、縄文土器や磨製石器が出土しているに過ぎず、住居の跡などは発見されていない。それでも数少ない出土土器は、幻想郷外の土器編年にあてはめることが可能であり、また石器材の黒耀石に、蝦夷島白滝産のものが含まれていることがわかっている。これらのことから、当時の幻想郷域もまた、縄文時代の活発な交易の大きな影響を受けていたことが知られる。一説に妖怪は、この遺跡成立以前より幻想郷一帯に存在したともいうが、それを示す史料は出土していない。
 縄文時代に続いて弥生時代となるのが本州中部の展開だが、幻想郷域では弥生土器は発見されず、稲作の痕跡も現れない。この時期の遺物は、縄文時代よりも少なくなるため、わからないことも多いが、少なくとも弥生文化の影響圏から外れていたといえる。代わって幻想郷に現れるのが、北方地域の強い影響を受けている続縄文土器と呼ばれる土器破片である。また、銅・鉄といった遺物も出土せず、一方で石器は出土量が多い。稲作北限を越えていたため稲作は根付かなかったと考えられる。これらも、幻想郷近接地域の動向に等しい。一般に北東北以北は、気候的に稲作不適地であったため、稲作を中心に据える弥生文化を受け入れず、縄文文化を独自に発展させた。これを続縄文文化という。幻想郷もこの続縄文文化圏に属していたといえるだろう。しかし、定住跡は存在せず、あくまで狩りなどの為の一時的な拠点しか発見されない。
 これ以後については、わかっていないことが多い。続縄文土器についても、前期に区分される物の出土量はあるが、後期に入る物は殆ど発見されず、事実上空白の時代といってよい。これについて幻想郷成立の伝説と絡める形で、妖怪がこの時期に住み着きはじめ、結果人間は幻想郷を禁忌の地として立ち入らなくなった、とする説もある。しかし、幻想郷内にそれ以前の定住遺跡も見つかっていないことや、続縄文文化の住居跡自体が殆ど見つかっていないこと((続縄文文化の住居は、出土例が少なく、遺構が残りにくいとされる。))も考え合わせれば、妖怪に関するというよりは、生活様式の為すところであろう。また、続縄文時代後期は全体的に遺構の減少する時期にあたっており、このことから気候などの原因で人口自体が大きく減少したのではないかという説もある。この説に従えば、幻想郷周辺でも人口が減少していた可能性はある。

○蝦夷と幻想郷
 8世紀半ばころになると、ようやく幻想郷にも集落の跡が発見されるようになってくる。伊治集落からすぐ上流にある玄武沢遺跡は、この時期の代表的な集落遺跡であり、そこから出土する土器の多くは擦文土器に分類される。擦文土器とは北海道から北東北にかけて出土する形式の土器であり、南関東以南を覆う奈良文化とは異なる擦文文化に属すものである。擦文文化の担い手は、『日本書紀』などに記された「えみし」と同一視されており、幻想郷域は蝦夷の地に属していたといえる。
 伊治集落西部にある日棚古墳群は、幻想郷域に存在する唯一の古墳群であるが、成立時期はおおよそこの8世紀後半にあたる。ここの古墳は、いずれも3間から4間程度の小規模な円墳であり、土盛りも小さい。これは外の世界の分類で末期古墳と呼ばれるものであり、北東北から北海道にかけて分布する「えみし」の文化、つまり擦文文化に属するものである。畿内~関東の古墳文化の影響を受けて成立したものと言われており、その地域の首長の墓であると考えられている。大きさから考えるに日棚古墳群の墓主も、この幻想郷地域を治める程度の首長だろうと想定できる。
 定住の跡が見つかったとはいえ、そこで発見された農業の痕跡は少ない。見つかった遺物には獣骨や木の実が多く、いまだ狩猟採集が生活の中心となっていたことが明らかとなっている。一方で、わずかながら農耕の跡地も見られ、次第に農耕生活へと移り変わっていたことも伺える。稲は作れず、稗や粟が中心だった。地域交流はこの時代になっても盛んであり、日棚古墳群の副葬品にはこの地域の土によって作られた擦文土器と共に、糸魚川の翡翠や久慈の琥珀、畿内で作られた銅鏡が出土している。
 この時代にはすでに妖怪も居住していたことが知られる。博麗神社社叢内の祭祀遺構のうち、最も古いものは8世紀後半まで遡る。博麗神社が、妖怪と人間との均衡を司ることから考えると、この遺構もまた妖怪に関わるものであるといえよう。博麗神社社叢より出土した土器破片には妖怪と思われる図柄が描かれており、9世紀頃に比定されている。
 幻想郷成立について述べた史料としては14世紀以降のものであるが、伊治集落の乙名・伊治氏の記録である『伊治家譜』がある。これによると伊治呰麻呂の三男である伊治止兎利(これはるのととり)が、山を断ち割って集落を築いたのがこの幻想郷の初めであるとする。伊治呰麻呂とは、宝亀十一年(780年)にヤマト朝廷に対して叛旗を翻した蝦夷の長である。先も述べたように、幻想郷最初の集落遺跡である玄武沢遺跡は、8世紀中頃と呰麻呂の乱とは時期の近いものである。この遺跡が現在の伊治集落に繋がることは遺跡の発掘から明らかになっている。ゆえに、呰麻呂の乱前後に呰麻呂の一族である止兎利が幻想郷に入り、集落を築いたものと考えられる。それと同時に、日棚古墳群の墓主もこの伊治一族であると考えられよう。蝦夷の一族である伊治氏が最初に幻想郷の集落を築いたとする説は、遺跡からの出土品の多くが擦文文化に属するという点とも合致しており、蓋然性が高い。

○稗田氏の移住と記録の始まり
 幻想郷の歴史を考える上でかかせぬ稗田氏がこの幻想郷へと訪れたのも、おおよそこの時期であると考えられている。11世紀頃に成立した史料である『幻想郷縁起』「爾聞拾遺」に記された神話によれば、この一帯((前述のとおり、現在の幻想郷とは範囲が異なる。))は、博麗の巫女が妖怪と協力して大人(だいじん)を駆逐し、稗田氏ら畿内地域から来た人々が住むようになったという。「大人」が何を指すかについては諸説あるが、おそらく記録上「蝦夷」に区分される集団を畿内出身者が区別してそのように呼んだと考えられている。すなわち、この説によれば稗田氏を始めとする畿内人が、住んでいた蝦夷を駆逐する形で定住したとするのである。
 しかしながら、考古学的な史料を見ると、古墳・奈良文化の史料が出土するようになるのは9世紀に入ったころ、擦文文化から古墳・奈良文化への移行は、この地域に於いては比較的ゆっくりとしたものである。そのことは古墳・奈良文化の担い手である畿内人が、擦文文化の担い手であった蝦夷を軍事的に制圧・征服したことを意味しない。また玄武沢遺跡が8世紀から10世紀頃まで継続し、現在の伊治集落へと繋がることも、蝦夷が征服されたという事実とは相反する。さらに、伊治氏が現在までの口伝・系譜を伝えており、その中で自らの先祖を蝦夷に置いていることも、蝦夷の征服とは矛盾する。
 このことは、稗田氏を始めとする畿内人が、蝦夷の地であった幻想郷へと移住し、共に暮らしていたということを示している。『伊治家譜』によれば、伊治家の祖である伊治止兎利(ととり)が、稗田家の移住に際して山を断ち割って新たな集落を作り、そこを明け渡したという。つまり、蝦夷に受け入れられる形での移住であったということができるだろう。
 さて『幻想郷縁起』であるが、このうち初代御阿礼の子である稗田阿一の編纂部分である「一集纂文」は、少なくとも8世紀末までに編纂されたことが明らかである。そしてこの時点では既に稗田氏は幻想郷に住まっていた。つまり、稗田氏の移住からそう遠くない時期に『幻想郷縁起』の編纂を始めたことがわかる。「一集纂文」の殆どが妖怪に関する記述であり、歴史書を銘打ちながら歴史自体には殆ど触れていない。このことは、稗田氏がいまだ幻想郷の歴史について情報を獲得していなかったこと、また妖怪についての情報を何よりも重要視していたことを反映しているのだろう。しかしそのような史料であるため、「一集纂文」の成立時期やこの時期の幻想郷動向については、残念ながらほとんどわかっていない。

○桓武朝の蝦夷征伐と幻想郷

  以降中世まで闕。



中世

○鎌倉時代の幻想郷と稗田家の拡大
 幻想郷の中世は、稗田家の盛衰と大きく関係する。院政期を通じて稗田家の力が次第に伸び、他を圧倒するようになったことは先述の通りである。さらに鎌倉時代の初め、稗田家の当主となった稗田礼頼(あきより)は、執権北条氏と緊密な関係を持つことに成功し、鎌倉幕府から現幻想郷三村の地頭職を得ることに成功する。この結果、稗田家は人里において他より一段上位の権威を手にした。これによって稗田家は幻想郷人里の中心としての地位を確立し、それが現在までも継承されている。院政期以来、稗田家人間たちを組織することによって、警察権を持った武力として成り立ってきた。しかし、この鎌倉幕府による公認は、それを一層推し進めることとなった。
 しかしながら、稗田家の拡大の原因は幕府との関係だけではない。稗田家はそもそも妖怪とも最も近い家柄であった。ゆえに、稗田家は幻想郷人里の統治に欠かせない妖怪との交渉を一手に引き受けることが可能であったのである。稗田家は、そのようにして地位を確立した。
 こうした稗田家の権力確立は、やがて外への肥大化という形も見せることになる。宝治二年、幻想郷の内外を分かつ刈平峠の境界紛争の中で、稗田家当主・礼平(あやひら)ははじめて刈平峠を越えて外へと進出し、麓の刈平村を領有した。これ以降、稗田家の進出は常態化し、四代御阿礼の子・阿余の死去する文永七年には、刈平(かりひら)・国荘(くにのしょう)・似舘(にだて)の村を領有した。
 一方で、稗田家の拡大は様々な矛盾を生む結果にもなっていたといってよい。一つには、人里内部の均衡崩壊による対立の惹起である。これまで対等な立場として人里を運営していた伊治家は、こうした稗田の権力拡大に反発し、建長四年には決定的な対立から稗田家との武力衝突へ至った。これは稗田家の勝利に終わり、伊治家は当主をすげ替えられた上で、しばしの逼塞を余儀なくされることになる。
 最大の問題は、こうした稗田家内部の矛盾であった。もともと稗田家は、組織的に未成熟な部分も多く、稗田家当主の力量のみによって維持されていた組織であった。そのため、稗田家の構成員が勢力拡大に応じて多くなると、稗田家内部の矛盾が対立となって噴出する結果となった。
 こうした問題の帰結が、後継者争いに端を発した稗田家の分立である。四代御阿礼の子・阿余は、もともと後継者として自らの異母弟である礼久(あきひさ)を養子にしていた。ところが文永六年、阿余のもとに実子師礼(もろあき)が生まれると、阿余は師礼を後継者にせんと図り、礼久と阿余との対立がはじまった。さらに翌文永七年に阿余が死去すると、それぞれの支持者が礼久・師礼の両者をそれぞれ稗田当主と宣言し、稗田家は本格的に分裂することとなった。この時の二人の自称した官途名から、礼久の家を麟台家、師礼の家を侍書家と呼ぶ。この時、侍書家は稗田本宅のあった上(かみ)村に拠点を置いたため、麟台家はより下流側に新しい館を作って対抗した。この場所が後に集落として発展し、現在の稗田村となっている。
 鎌倉時代の間は、この対立は麟台家優勢で推移した。これは、鎌倉幕府が麟台家を稗田家督と認めたことや、下流側に屋敷を持ったことで、幻想郷外の稗田所領も殆どを麟台家が抑えたことによる。また、妖怪たちも多く麟台家側を間接的ながらも支持していた。鎌倉時代の間は、麟台家こそが稗田家であるという認識が一般的であった。

○稗田家の分立と南北朝
 こうした状況は、元弘三年の鎌倉幕府滅亡によって大きく変動する。鎌倉幕府の滅亡は、麟台家が幻想郷外の所領を持つ正当性を失わせる結果となった。また麟台家は鎌倉幕府と深い関係にあったため、後醍醐天皇らの主導する朝廷からは疎外され、新たな権威を与えられることがなかった。それゆえ、幻想郷外の麟台所領は、他の勢力によって次々に侵食され、また幻想郷内においても麟台家の地位は凋落した。
 こうした状況の中で出現したのが、稗田礼理(あきただ)である。侍書家出身であった礼理は、元弘三年に父の急死によって家督を継ぐと、南朝方に属し、伊治家と結んで麟台家を討ち、これを下すことに成功した。さらに、麟台家の失った幻想郷外の所領を次々と獲得し、さらに勢力拡大を進めて稗田家の最盛期を現出した。この時の稗田領は、麟台家の所領でもあった刈平(かりひら)・国荘(くにのしょう)・似舘(にだて)の他、外内(とない)・四田(よた)・城(じょう)・遠米(とおまい)にも及び、現幻想郷の三倍の領域に拡大した。
 幻想郷の所在する東北地方では、北畠顕家の下向以来、南朝勢力は大きな勢力を持っていた。なかでも糠部郡に拠る南部師行は、顕家の腹心として各地を転戦するのみならず、東北地方各地の南朝勢力の中核としての地位も担った。この結果、全国的に見れば南朝勢力の衰勢著しい南北朝中後期にあっても、東北では比較的南朝勢力の勢いが大きかった。侍書家による稗田家の最盛期は、このような周囲情勢とも密接に関連している。
 礼理は正平十二年(延文二年)、出兵先の鼻和郡田郡(たこおり)にて戦死するが、後を継いだ嫡男・礼昌(あきまさ)も南朝方として奮戦し、その勢力を維持した。しかし、南北朝後期に入り南朝勢力がいよいよ衰退する中で、正平二十六年(応安三年)には北朝側へ帰順した。その結果、麟台家は南朝側へ帰順し、最初の状況とは真逆の状態となっている。
 侍書家の北朝帰順は、周辺の南朝勢力侵攻を呼ぶ結果となった。そして帰順翌年の正平二十七年(応安四年)、礼理は侵攻してきた七戸政光に敗れて戦死し、幻想郷外にある所領全てを喪失した。政光は刈平峠を越えることなく撤退したため、幻想郷内へ侵入することはなかった。しかし当主礼理と嫡子を失い、さらに所領のすべてを喪失した侍書家は、この合戦を境として一気に凋落し、伊治家とともに麟台家に対して臣従することとなった。こうした結果、幻想郷の領域が、現在の領域で確定することとなり、麟台家が稗田宗家となる現在の体制も成立した。

○室町時代の幻想郷と人里の一体化
 こうした外の勢力の介入による混乱は、幻想郷全体に外に対する不信感を芽生えさせることとなった。稗田宗家として人里を統治するようになった稗田家は、室町幕府や関東管領、奥州探題といった外部勢力との交渉を行わず、もっぱら幻想郷内部における勢力維持のみを行った。この頃の稗田家当主であった御阿礼の子・稗田阿悟は、稗田家の家訓として「外見る可からず。三村(人里三村のこと)見る可し」と書き残しており、その認識が稗田家内部で共有されていたと考えられる。このような施策が、幻想郷人里としての一つのまとまりを作り出していった。そのことは、この頃から「人里」として伊治(これはる)・上(かみ)・稗田の三村をひとまとめにする表現が現れてくることからも窺えるだろう。
 また、幻想郷人里をひとまとめにしようという機運は、稗田家内部からも現れた。阿悟は、自らの後継者として侍書家出身の以定(もちさだ)を選び、麟台家と侍書家との対立が解消されたことを示した。こうした流れも、幻想郷人里全体が一体として動くべきである、という認識の現れといえるだろう。なお、以定が稗田宗家の当主となることによって、侍書家は麟台家に跡継ぎがいなかったときの保険としての分家の地位を確立し、以降「上稗田家」と呼ばれることとなる。こうしてそれぞれの家の地位がきちっと確立し、人里が一体として運営されるようになると、人里の運営を村の長(肝煎)である稗田宗家(稗田村)・上稗田家(上村)・伊治家(伊治村)の三家によって行う体制も確立する。これら三家は乙名と呼ばれ、ここに人里は乙名による合議制がしかれることになる。
 こうした幻想郷人里の一体性が、寛正年間の第一次結界設置へとつながる。これは妖怪側の要請があってなされたものであるのは当然であるが、そもそも幻想郷人里が一つの地域社会として一体化していたからこそ、結界の範囲も支障なく敷設されたということができる。また、この結界設置を通して幻想郷が妖怪の楽園としての片鱗を見せ始めると、幻想郷人里はますます外と対比する形で一体性を強めた。
 これらの結果、幻想郷人里では増加した人口のはけ口を外に求めることができなくなり、稗田村のさらに下流への開拓が始まる。これを主導したのが、万里小路保房(までのこうじやすふさ)である。幻想郷に逃れ来たった南朝公家・万里小路宣房の子孫にあたる保房は、稗田村の住人であったが、他の人々を指揮して開拓にあたり、文明二十一年には村を開いた。これが小路(こじ)村である。この功績から、万里小路家も乙名へと参加することが許され、乙名は五家となった。

○豊臣・徳川と幻想郷
 こうして人里が外との交流が少なくなった結果、戦国期の争乱に幻想郷が巻き込まれることはなかった。幻想郷外では様々な争いが繰り広げられる中、幻想郷では村同士の小競り合いなどが時々あったようではあるが、基本的にそれらの問題は乙名合議によって解決され、幻想郷内部に大きな波乱が持ち込まれることはなかった。
 幻想郷が再び外の世界との関係で問題となるのは、天正十八年の豊臣秀吉による奥州仕置と、天正十九年の九戸の乱、そして豊臣政権への従属にともなう太閤検地である。豊臣秀吉は、日本全国を統一的な制度によって統治し、かつ土地の所有者・収入を把握することをめざした。この流れは幻想郷にも押し寄せ、一時的に幻想郷も大名の知行地として設定され、検地が行われようと企図されたこともあった。
 これらの危機を打開できたのは、一つには八雲紫の功績である。八雲紫は、様々な人脈を通じて豊臣政権へ働きかけ、幻想郷の除外を獲得することに成功したのである。もう一つが、幻想郷に亡命してきていた浪人・朝倉景言(かげとき)である。越前の生まれであるとされる景言は、同族の朝倉在重が豊臣政権での重鎮・徳川家康の家臣であることを利用して、家康に直談判を行い、幻想郷の保護を認めさせたのである。これら二つの要因から、幻想郷は中央政権から独立した位置を保つことに成功したのである。この功績から、朝倉家は肝煎ではないながらも、乙名の一人として幻想郷人里の運営に参画することが許された。
 ここで家康に幻想郷の存在を認めさせたことは非常に大きな意味を持った。慶長五年、徳川家康は関ケ原合戦で勝利を収め、慶長八年には征夷大将軍となって江戸幕府を開いた。この徳川政権が、この後長く統一政権として日本に君臨することとなる。ゆえに、家康の保護を受けることによって幻想郷の存在は長きにわたって維持され続けることができたのであった。



 以下闕。
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