幻想郷の前提

 人口についての前に、幻想郷の環境について軽く考えてみる。
 幻想郷という土地は、寒冷な山間部に位置しているというのは、わりと共通の理解であると思う。積雪が多いことを考えれば、少なくとも中部以北に存在すると考えて差し支えないだろう。おそらく冬は雪で閉ざされるような土地であるはず。
 また幻想郷が、外との交流を殆ど断っていることも周知の事実であるはず。ということは、殆どの物資を自給しなければならないということになるだろう((尤も、ここには議論の余地がいくらか存在する。紫が外から物資を移入しているのは殆ど間違いない(cf.珈琲)。となれば、紫が厖大な量の物資を運びこんで以て人里を成り立たしめている可能性は否定できない。しかしそれは完全に考察が不可能になるため、ここでは最低限穀物については自給していると考える。逆に嗜好品については移入と考える。))。
 そして幻想郷においては、人間はあちこちに分散して住んでいるのではなく、おおよそ一つの"人里"を形成して住んでいるということも重要である((必ずしも人里が一つではないといえるかもしれないが、現時点では"人里"は人間の住む一定の地域を指すと考えられるため、これに従う))。

 以上のことを前提としたうえで、人口について聊か考えてみる。

明治十八年の人口統計 ――博麗大結界成立時の日本

 最初に、博麗大結界成立時(明治十八年=1885年)と関連付けて人口を思考してみる。
 幸い、明治十九年末に取られた人口統計というものが残っている。これによると、この年の日本の総人口はおよそ3900万であるとされる。この時には同時に都市人口も残されている((Wikipediaに頼ったが、その出典は『明治五年以降我国の人口』であるという。こちらの本には当たっていない。))。その都市人口ではおおよそ、人口1万人のラインと全国100位のラインが同じであるということができる。
 全国100位というと一見大したことがないように思われるかもしれないが、現在の都市であてはめるのであれば、佐賀・八戸といった人口20万人クラスの市があてはまる。おおよそ県下第二の都市と似たような人口であると考えればいいだろう。
 このように考えた時、幻想郷の人里の人口がこの時点で1万人であったという想定は、あまりにも無理がありすぎると言える。県で二番目の人口を抱えている都市が、十九年もの間一度も中央政府から調査を受けることも無く、役人を送られることもなく忽然と姿を消してしまうというのは、あまりに無理がありすぎる想定であるといえよう((無論、"そういうことがあった世界"である、という解釈は可能である。しかしここでは、出来るだけ現実の歴史に沿って考えたい))。

 以上から、幻想郷人里の人口は、多く見積もってたかだか数千であると推算することが可能といえよう。

江戸中期以降の日本の状況

 これに対して、博麗大結界成立時から比べると大きく人口が増えている可能性もある、という指摘があるかもしれない。しかし私はそれに否定的である。というのも、江戸時代の耕作地状況并びに幻想郷の性質上から考えて、人口が爆発的に増えたとは考えにくいからである。

 まず時代背景の方であるが、江戸時代中期・享保期(=1700年代)を境として日本では人口増加が停止する。これは、日本国内での耕作可能地を殆ど耕作地に変えてしまい、これ以上の耕作発展が望めなくなったからである。ということは、それ以降日本の田畑面積は(北海道・北東北を除くと)殆ど増えていない、という事になる。これはおおよそ幻想郷でも同じような状況が考えられる。つまり耕作面積自体は、博麗大結界成立時からそれほど増えていないと思われるのである。

明治維新と幻想郷 ――幻想郷に維新を起こさないためには

 もう一つは、幻想郷の性質である。博麗大結界が設置された所以は、近代合理主義の流入による妖怪の衰退を防ぐためである。となれば、幻想郷で合理主義が発展するのはあまりよい傾向とは言えない。
 ここで、日本の近代化について軽く触れておく。日本の近代化が明治維新に淵源を持ち、これが主に西洋からの文化輸入によるものであることは、一般的に言われることである。そして、おおよその部分では間違っていない。しかし、それは"おおよその部分では間違っていない"ということであり"全く正しい"というわけでもないのである。つまり、近代的合理主義の淵源となるものは江戸時代中期以降、次第に広まりを見せていたのである((例えば享保期以降の蘭学の発展などがこれを示す。蘭学では江戸中期以降、自然科学の実証研究がかなりのレベルで行われていた。また、清朝考証学の影響などもあり、人文・社会科学では儒学や国学がやはり実証研究をかなりのレベルで深化させていた。これらの思想は、江戸時代に於いてすでに合理主義が一定のレベルで流布しつつあったことが示される。))。
 つまり、外からの文化移入を避けたとしても、幻想郷内で社会文化が発展していけば、同じように合理主義的な思考が広まってしまうことは想定できるのである。勿論、そうはいかない可能性もあるが、そうなってしまう可能性もある以上、妖怪を守らねばならぬ紫としては看過しえぬ可能性といえる。
 となれば、おそらく紫にとっては幻想郷の人口を、あまり社会が発達しない程度の人口に抑えておく必要があるといえる((どれくらいに抑えるかという問題はあるが、例えば『自然新営法』を執筆した安藤昌益は八戸において活動しており、その八戸の人口は5000人から1万人弱である。))。

ここまでの小結
 以上の二点から、幻想郷の人口おそらくそれほど明治十八年段階から増加していないと考えられる。増えるとしてもせいぜい二倍を超えることはないと考えられ、となればやはり数千程度が人口としては限界と考える。
 なお、とある本((高橋美由紀『在郷町の歴史人口学―近世における地域と地方都市の発展―』ミネルヴァ書房。ぱらぱらめくっただけである。真面目に考察するならば、読まねばならない本だろう。))を立ち読みしてみたところ、幕末の郡山(福島県)の人口がおおよそ5000人であるらしい。郡山は、周囲の農村集落をその生産基盤とし、また郡山自身も農業人口を抱える、地方在郷都市である。
 幻想郷もまた農業を基盤としていることを考えると、郡山以下の人口であることは推察できよう。


人里の立地について

 さて続いて、人里の立地などから、人口を考えてみようと思う。
 まず最初に、人里だけが幻想郷の中で集団的に人の住む空間であるということから考える。このことは、幻想郷の他地域に生産拠点としての集落が形成されてはいない、ということである。つまり人里は後背に農業生産を支えてくれる土地を持っていないのだ。
 このことを考えるならば、則ち人里は都市ではなく、農業生産を中心とする集落であることは明らかである。

 また人里が山間部に位置していることも、前回述べたように、明らかである。
 このような山間部集落であると、幕末期であってもおおよそ人口は1000人を超えることが無かったという。おそらく、耕地面積的な限界があったと思われる。つまり山間部の谷間や斜面を切り開いて田を作っているのだろう。
 いや、幻想郷にも平野が存在し、そこが耕地開拓されている可能性もある、と言う方もおられるかもしれない。しかしこれも聊か想像しにくい状況である。なぜならば、平野部とは耕地には向かない場所であるからだ。
 日本における平地とは、なべて河川による堆積平野である。つまりは、河川の洪水によって形成されるもの。雨が降れば、水に浸かるような場所なのである。例えば、新潟平野や関東平野東部といった地域は、戦後になって初めて優秀な耕地となったところである。それまでは地下水位が高すぎることもあり、また水によく浸かることもあり、耕作地となりえなかった場所だった。
 このような平地で耕作するには、まずよく治水されなければならない。水に浸からないようにするのは勿論、灌漑をして適度に水が入るようにし、また水が適度に抜けるようにしなければならないのだ。これは大事業である。江戸中期以降、藩や豪商といった大資本を背景に初めて行われるものであった。そしてその維持もまた、藩のような大規模公共組織を要している。
 翻って幻想郷を見ると、そこまでの政治的権力を想定することは、少し難しいのではないか。ここには私の主観的なものも入るが、人里にはそこまで組織だった公的権力は存在していないように思える。

 このように考えると、幻想郷の生産力は都市を維持するほどのものは持っていないといえる。
 つまりは、多くて数千程度の人口ではなかろうか。

社会学的視点から

 もう一つ、人里の社会構成を考えてみたとき、やはり人口数千程ではないかと想定できる材料がある。
 一先ずは、以下に引用しよう。


 人間は最大限約500人の人々と個人的な面識に基づき社会的に相互作用する肉体的能力をもっている。そしてその次に高次の社会集団――少数の要人によって情報が非公式に広められるような「地域集団」――の数的な許容範囲は2000ないし3000人である。((ファルケンハウゼン, ロータール・フォン. 吉本道雅訳(200)「西周後期における貴族の再編」『周代中国の社会考古学』注65より孫引き。この原文は、”Kosse,Krisztina. 1990. "Group Size and Societal Complexity: Thresholds in Long-term Memory." Journal of Anthoropological Archaeology 9.3”にあるようだが、確認していない。))


 これは、考古人類学((Anthropological Achaeology/上手い訳語が見つからなかった))の論文からの引用である。則ち、公的な統治組織を要さぬ社会集団としては、人口数千が限界であるということだ。
 先ほども述べたように、幻想郷人里に国家に類似したような公的組織を想定することは難しいだろう。とするならば、上記引用に上げられた「その次に高次の社会集団」に当てはまると言っていいだろう。
 逆に言えば、もし幻想郷の人口を五千以上と推定するならば、そこには公的な支配機構を想定しなければならない、もしくは二つ以上の社会集団によって分裂している、と考えるのが妥当ということになる。
 現状の幻想郷では、人里が一つであること、また役人のような存在が出てこないことから考え、その二点の可能性はいずれも低いと考えられるのである。

 よって、この点からも幻想郷の人口は、数千程度であろうことが言える。

問題点

 この発想の問題点についてもいくつか挙げておく。
 まずは、貨幣経済はこの人口では間違いなく成立しない、という点である。つまり、"大手の道具屋"なるものが存在しえない、ということだ。また、様々な商品作物(藍・楮・紅花・櫨など)の生産も不可能となる。
 とはいえ、もしここを基準に幻想郷の規模を想定するならば、数百万単位の人口を想定しなければならないだろう((奈良時代の日本が400万-500万の人口があり、しかし貨幣経済が浸透しなかった。貨幣経済が浸透したのは、鎌倉時代に600万-700万の人口を抱えてからであることを考慮したい。))。聊か現実的ではないように思われる。
 ここに関しては、紫らの干渉が働いているという想定が妥当ではなかろうか。

 二番目に、鉱業や林業といった非食糧生産に従事する人々をどのように考えるか、という問題がある。その分大規模な農業生産が必要であるといえる。
 これについても、いくらかの妖怪の介入があるということは言えそうであるため、それによって支えられていると考えてもよいのではないか((地霊殿では金が取れるという。則ち地霊殿は鉱業に参入しているということになる))。

結論

 以上のことから、やはり人里の人口は数千程度以下((余談ながら、江戸時代の農村集落はおおよそ千を出ない程度の人口であるといわれる。故に人里とは、おそらくいくらかの集落(字程度の大きさ)に小さく別れた、一地域を指すのではないかと考えてもいる。しかしこれについては、"人里は一つ"という設定に聊か反しているとも思われるため、論考からは除外しておく。さらに余談ながら、拙作で採用しているのはこの説である))であるといえるだろう。
 これは、山間部の人口としても、それほど無理のない数字であると考える。

 勿論、そうではないと考える方々もおられるだろうが、私の結論は以上である。
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