『訳注結界沙汰纂要抄』疏

はじめに

 この度は、拙作『訳注結界沙汰纂要抄』をお読み頂きまして、まことにありがとうございます。とにかく異色な作品でありまして、可読性の著しく低い作品でありますが、わざわざお読み頂いたこと、まことに光栄でございます。
 以下は、本作に対する言い訳のようなものでありますので、さらりと読み流していただければ幸いです。

 本合同に誘っていただいた皆様、とりわけ組版で多大な労を取って下さったリコーダーさん、ならびに、本当に素晴らしい挿絵・口絵を頂きましたスギさん、この場において、改めまして御礼を申し上げます。

 なお、主催のリコさんからのお許しが出たので、漢文の部分については、書き下し文を一緒に付記しておく。余力のある人は、白文と書き下し、現代語訳と書き下しをそれぞれ突き合わせて、全てがきちんとつながっていることを確認してもよいかもしれない。


作品の意図・全体について

 とりあえず、お誘いを受けた時に最初に考えたのは、「紙でしかできないことをしよう」ということ。以前、『Point Omega』に参加させて頂いた時に、皆様結構遊んでおられて、だから私も遊ぼう、と考えた。結果がこれである。
 しかし、紙でしかできないこと、と考えても結構これが難しい。というわけで、考えたのが「多言語利用」である。Web上で不利なものの一つが、多くの言語を同時に扱うこと。しかも、文字も多様であれば、なおさらしんどい。
 また紙は縦書になる。これは、Web上とは大きく異なる点の一つといえる。そこで、あえて漢文を持ち出すこととした。これは、『Point Omega』の時にも一部引用するかたちで漢文は用いているけれど。
 当初の予定では、漢文すべてに訓点を振る予定もあった。しかし、成稿が遅かった関係で、訓点を振る時間がかなり厳しくなったため、やむなく断念。ちょっともったいなかった、と思うところ。

 さて、作品全体についてであるけれども、これは時間軸が複数階層に渡っている作品である、ということができる。古い順に述べていくならば

(a)原史料が書かれた段階=結界擾乱の時間軸(明治)
(b)原史料が編纂された段階=『結界沙汰纂要抄』の成立した時間軸
(c)底本となった『結界沙汰纂要抄』が写本された時間軸
(d)訳注が付され『訳注(・・)結界沙汰纂要抄』が成立した時間軸

となる。作中に出てくる時間軸としては、この他に(e)幻想郷の現在(霊夢等の時間軸)というものがある。これらが錯綜する形で、作品は形成される。


 一応全体を通して、というところで語っておくこととして、引かれている原史料についてはそれなりに設定したものについて、登場人物とからめてちとここで述べておく。

 まずみなさんが気になったのが『晶竝門』であろうとおもわれる。書名の由来がわかった方はおられるだろうか? 何のことはない、「暗闇」の字を部品に分解し、組み立てなおした、というだけのシロモノだ。誰が著者か、ということはここからも推測できよう。ちなみに、読み方は私も知らない。
 内容もご覧のとおり、言いたい放題である。文字もバラバラ、中身も短文適当、時系列さえ崩壊している。しかし、注釈によれば書かれた時間軸は、他の史料と変わらないらしい。
 結局、全てに囚われないものなのである。周囲にも時間にも、なににも。
 少なくとも私は、何か彼女が、事件に関与したということは考えていない。ただ彼女はご飯を食べて、言いたいことを言って、寝た。ただそれだけなのである。
 騒動なんて、彼女にとっては所詮その程度のものでしかない。

 なお、ハイゼンベルクは対となっている。
 「対象の場所を知りたいならば、エネルギーの高いものを用いるべきだ。対象のエネルギーを知りたいならば、エネルギーの低いものを用いるべきだ。もしエネルギーの高いもので観測すれば、対象のエネルギーはわからない。エネルギーの低いもので観測すれば、対象の場所はわからない。意見のある人の愚かさ、意見のない人の無知とは、みなこのようなものである」
 に対して
「我々の語る現実というものは、決して現実そのものではなく、我々の創造した現実にすぎないのだ」
 というわけである。
 続いて『霖女抄』である。これの記主がみま(・・)であること、はわりと早い段階である。お気づきとも思われるが、これはあの魅魔である。
 前から、博麗を恨むとされる魅魔が、わざわざ人間である霧雨魔理沙を弟子にしていたのだろうか、ということがひとつ疑問だった。魅魔を霧雨家として設定しているのは、この疑問に対する答えという意味が大きい。そこで、博麗を恨む理由ともども、想像してみたというわけだ。
 ちなみに、みまの日記である『霖女抄』の残欠が残っているとしたのが、似舘村の馬別家である。私は幻想郷の場所を東北に設定している。だから、ここではできるだけ、東北っぽい独特の語感を持った地名を設定してみた。

 三つ目が『弥主記』である。オリジナルキャラである、下稗田弥右の日記である。
 下稗田家であるが、史料中では主に主書家として出した。実際、江戸時代までの間は人間の名前を実名で呼ぶことが少なく、官途名などの仮名(けみょう)で呼ぶことが多いので、それに習った形である。ちなみに、「外記」であるのは、この官職が文章を扱う役職であり、稗田の家の行うことに近いと考えたからだ。
 書名は「書」の「右」の「日」であることからとった。日記の書名というのは、こうやってつくものがそれなりにある。
 稗田の家に分家があると想定したのは、一つの家だと断絶が容易に想定できてしまうからである。ゆえに、三家に分割した。そうなれば自然分家同士の争いもあるだろう、というところに想像がいって、こういった対立構図を作る要因となった。
 なおその稗田の本家についてであるが、稗田の家については御阿礼の子がいない間も、当主がいるものと考えた。その名前は、「阿礼」の「礼」を通字とした、と設定している。ゆえに、この結界擾乱にあたった当主の名前が「礼音」である。
 通字といえば、本家が「礼」であるのに対し、分家の上稗田家が「以」であり、下稗田家が「右」である。御阿礼の子が全て「阿」がつくところから、分家の通字は思いついた。
 由来のヒントは、音読みするとどうなるか、である。大した話ではない。

 さて解説ということで、最初は逐一細かく注釈形式で述べていこうとも思ったが、それはあんまりにも無粋だと思って来たので、この時間軸それぞれについて、それなりに考えたことを述べていこうかと思う。


(a)結界擾乱の時間軸

 根本のストーリーになるのがこの時間軸である。まず作品の中で最初に構想したのもこの時間軸である。

 このストーリーについては、すでにお気づきの方もおられるかもしれないが、創想話に投稿した拙作「人妖の境に立ちて」と共通するものであり、その別側面である。ただし、その時から物語の捉え方や、登場人物に対する認識が少し変わっているため、厳密には全く同じプロットではなくなっている。具体的には、ルーミアの捉え方がだいぶ変わっている。
 今回事前からそういう側面をおおっぴらに述べなかったのは、そういったちょっとした理由がある。

 こうした話を思いついたきっかけは、博麗大結界による幻想郷の内外遮断を、日本の近代化の中で位置づけるとどうなるか、ということであった。
 日本の近代化といえば、誰もが明治維新を思い浮かべるだろう。明治維新によってそれまで旧態依然とした封建主義的な江戸時代が完全に破砕され、代わって素晴らしき近代が訪れた、という構図になりがちである。たとえば、現在でも「維新」が肯定的な意味で政党名などに用いられるのは、かくなるゆえであると思われる。
 しかしながら、実情はそれほど簡単な話ではない。というよりは、江戸時代の半ばくらいから実は日本の近代化の端緒があった、とも取れるのである。

 江戸時代の半ばくらいから、貨幣経済が本格的に浸透し、都市だけではなく広く日本の農村に至るまで、物流のうねりに飲み込まれるようになった。その結果、農村の階級分化をもたらして、商売によってますます利を得て土地を拡大する庄屋・豪農層と、その下で小作料を払って暮らす小作人層に分離していくようになる。こうした庄屋・豪農層は、様々な形で村を主導し、文化レベルの向上ももたらすことになる
 同時に、江戸時代半ばごろから様々な形で学問が発展してくる。蘭学・国学・儒学など、学ぶものは違うかもしれないが、こうした学問の共通して目指すところは、客観的・論理的な考察であり、迷信の排除を目指した、ともいうことができる。
 この二つの流れは、当然ながら相関している。学問の担い手が必ずしも武士・公家(=統治階級)に限られず、町人などを巻き込んだ形であったのは、学問をするだけの余裕が町人などにも生まれていたことを示す。それは、貨幣経済がすでにかなり浸透していたがゆえである。そして、こうした学問が農村にまで深く浸透し、農村にまで合理主義・客観性といったものをもたらすことで、より深い貨幣経済の理解、そして豪農の巨大化をもたらすことにもなるのである。
 こうした流れを一気に推し進めたのが、1853年の開国である。開国の結果、商品を持ち込む市場が一気に拡大し、これは貨幣経済の大発展をもたらすことになる。これは、庄屋・豪農層や町人層が一気に巨大化するという効果をもたらすことになる。例えば古い町並みなどに行った際、町家や農家の最も大きいものが、明治初期の建築であることが多いことは、こうした開国に伴う大変動を示しているといえる。

 つまるところ、明治維新によって資本主義・近代個人主義・合理主義といった西洋思想を一気に取り入れることができたのは、こうした江戸時代の流れがあってのことであるのは間違いない。もちろん、日本の近代化が成功した理由がこれだけであるわけはないのだが、こうした事情もひとつあることは間違いないのである。

 さてこうした前提の上で改めて、幻想郷の成立について考えてみた時に、やはり幻想郷の人里が外と切り離し得たのだろうか、という点が気になったところである。少なくとも「近代思想が面倒だから、入ってくるまえに外と断ち切ってしまおう」といったような、そんな簡単な話にはならないだろう、と考えた。ここは人毎に意見が違うだろうが、私は博麗大結界の成立までは外の世界と比較的つながりが深かっただろう、と考えている。
 外と内とを切り離す、と考えた時に最も激しく反発するのは、商業に深く手を突っ込んでいた豪農層のような立場の人間である、ということが考えられる。とすると、現在でも大道具屋であるという霧雨家は、まさにそのような立場であったのではないだろうか、と想定できる。そこから、反発する家を設定することになった。

 それに対抗するのが稗田家であるのだが、それではこの稗田家が時代の流れから超然として、「妖怪と共に歩むべし」という思想を固守していたのかというと、実はそれも違う。これはこの作品ではあまり描くことができなかったのであるが、明治初期の農村では、貨幣経済発展という流れの一方で「攘夷思想」の浸透ということもまた否定できない問題として存在していた。
 外国を徹底的に排斥しよう、という攘夷運動は、一般に幕末のところでクローズアップされながら、気がついたらどこかへ消え去ってしまっている。これが教科書での扱い方であるが、ご多分に漏れず実情はもっと複雑であったらしい。
 つまり攘夷思想は、政府への不満と絡み合いながら自由民権運動の思想へと流れ込み、さらに様相を変転させながら、ずっと日本の思想に伏流し続けた、ということである。たとえば、明治半ばには不平等条約の改正としてあらわれ、明治終わりには「打倒ロシア」としてあらわれ、大正にはシベリアへの出兵、さらに昭和に入って中国進出、そして鬼畜米英。結局1945.8.15まで、消え失せることはなかったわけである。
 稗田家の思想とは、こうした攘夷運動と絡む。つまり、近代化への抵抗や洋書に対する禁忌感というのは、こういった思想背景を受けているのである。


(b)『結界沙汰纂要抄』の成立した時間軸

 ここについては、ほとんど述べることがない。なぜならば、この中でほとんど出てこない時間軸であるからだ。
 どこに出てくるかということをしいて挙げるとするならば、一番最初の解説の部分でわずかに触れられている。則ち、この『結界沙汰纂要抄』を編纂した人物や意図が不明である、というその点である。
 これだけだ。こういうものは、実際に史料を読みながら推量していくものでもある。解説で、おそらく『幻想郷縁起』に反する目的で書かれたのではないか、と述べているのも、こうした予測に過ぎない。
 ついでながらに語っておくと、(a)の時間軸で展開する話というのは、「結界敷設の時にも人間は何も騒がなかった」とする『幻想郷縁起』の記述と大きく噛み合わない。ここは、『幻想郷縁起』が「正史」である、つまり権力側(この場合は八雲紫といっていいだろう)が、自らの正当性を担保するために制作した史書である、と私が考えていることに由来する。


(c)底本となった『結界沙汰纂要抄』が写本された時間軸

 ここについては、解説の部分で述べられるところである。解説には『結界沙汰纂要抄』の 奥書写本した際に、その写本の末尾に記す、その年月日や写本した人物など、諸情報の記録には、「上白沢本を以て稗田本と校合の上、写し候ひ(おわ)んぬ 藤紅娘」とある。つまり、「藤紅娘」という人物が、上白沢家の持っていた写本と稗田家の持っていた写本とを突き合わせて、本文を校訂しながら写したものである、ということだ。
 なお「藤紅娘」という表記は、光明皇后(藤原不比等の娘・聖武天皇の皇后)が、 『楽毅論』中国戦国時代の武将・楽毅について、三国時代の夏侯玄が論じた書物。さらにそれを王羲之が写したものがあり、光明皇后はこの王羲之筆『楽毅論』を臨写している。現在、正倉院に残る。 という王羲之東晋の能筆家。この王羲之以後、王羲之流の字を書くことが教養とされた。書道では、この「王羲之」の字を「公理」として、これを基準に美術的評価がなされる、とさえいえる。の書を書写した際に、その奥書へ「藤三娘」と記していることを参考にしてみた。彼女が誰のことであるかは、特に説明の必要はないだろう。「朱鵬文庫」など、ヒントは多めのつもりだ。

 ここからもうひとつわかるのが、(d)訳注の付された時間軸の人々が、(e)現在の幻想郷時間軸をどのように認識していたか、ということ。ここでは「上白沢・藤紅娘とも不明」とあるわけで、(d)時間軸には、(e)時間軸の詳細が伝わっていない。
 歴史とはそういうもので、残らないものは、いま有名であっても、跡形もなくなってしまうのだ。


(d)『訳注(・・)結界沙汰纂要抄』が成立した時間軸

 ここも結構いろんな情報を詰め込んでいる。冒頭部分には、この『訳注(・・)結界沙汰纂要抄』の訳注を行った人物や、底本となった『結界沙汰纂要抄』の所在が記されている。要するにこの時間軸では、すでに幻想郷の歴史書が外に出て、研究対象となっているということ。それは、凡例一つ書き三つ目の書名『幻想郷人名大辞典』などからも、相応に幻想郷研究が行われていることがわかるようになっている。
 他にも、色んな所で論文や論文雑誌の名前が書かれている。こうしたものも、この時代での幻想郷研究の経過を示すものである。たとえば、八雲紫については単著が出ていることや、八雲藍についても専論があることがわかる。また、研究者の名前もいくつか上がっている。見知った名前であるのは、たぶんそういうことなのだろう。
 ちなみに、盛岡にも帝国大学がある。
 元号として「龍徳二十年」と書かれているが、この元号は、森鴎外『元号考』『森鴎外全集』20巻に所収から引っ張ってきた元号である。この本は、改元のたびに、元号の候補とその出典とを記している本であり、これを参照するとそれっぽい元号を作るのにはちょうどよい。

 ここの時間軸について見ていくと、いろいろなことが「わからなくなっている」ということも見えてくる。たとえば、『霖女抄』の記主であるみまが誰か、というのはこの時間軸だとわからなくなっている。前述のように「上白沢」「藤紅娘」も誰かわからない。風見幽香についても、どういう存在かほとんど触れられない。
 情報というのは、消え行く者はとことん消えていくのである。これは、ごく一部からかいま見える(e)幻想郷の現在に対する認識を見ても、明らかな話だ。


書き下し

 さて、以下では書き下しをじゅんじゅんに載せていく。お暇な方は、漢文や現代語訳と見比べるとよいかもしれない。ちなみに、本原稿の執筆順としては、書き下しをまず書いてから、これを漢文や現代語訳へと変換している。


下稗田弥右書状案

 今度、結界を設くる事、八雲様方より聞き及び候。治定し給ひ候は、誠に以て重畳に候。此の郷に於いては人妖相共に住みて以て成り候へば、人妖共に安堵せしむるは干要に候。而るに御一新自り已来、西蕃の書、郷に入り候。之を検ずるに、ただ理に順ふ事を重んじ、怪を散らさんと欲し候へば、人妖の和を軽んじ候。蓋し此くの如き風の郷に広まり候はば、郷も傾き候事避く可からず候歟。彼の者共、自由々々を称し、人権なる者候ふを言ふ。応に自由の儀たるべく候。人の和、妖の和、人妖の和、尽く郷の要たる間、ただ人理を以て郷を治め候は、非道の極みに候。古之丘、鬼神に事ふるを問わるるに曰く「未だ人に事ふること能わず。焉んぞ能く鬼に事へん」と。又、其れ教化に益無く、言ふに忍び無き所なるを以ての故に、丘、「怪力乱神を語らず」と曰うも、「怪力乱神、世に在らず」を言はず。此言を見るに、丘、鬼神在るを知る可く候。之を認むるを以て無益と為すが故に、之在るを言はず候歟。丘すら尚述ぶること此くの如し、況や郷人をや。妖を蔑し候は甚だ非道たる可し。之を唆す蕃夷の書、只害有るのみ。然れば、彼の書等、五村に入るるを止めんが為、結界を以て郷と外とを別ち候て、人妖の和を保つ可く候。麟台仰せの儀、殊に然る可く候へば、下稗田悉く麟台に従ふ可く候て、事有らば助力を惜しまず、麟台に忠を尽くす可く候。八雲殿方へ御伝えられ候へば、喜悦に存じ候。恐々謹言。
慶應廿一年正月十七日弥右(印) 
麟台さま 

『霖女抄』明治十八年正月十九日条 『下稗田家文書』い函一一号

 天晴る。御亭、侍書に召さるる事有り。大事たるの由、之を仰す。仍って早朝、御亭、侍書亭に向かわしむ。妾、御亭の召し有ると雖も、弱輩女性に候へば、諸乙名悦ばざるの由、申し候て、辞し申す。昼中、御亭、帰らる。怒気、心中に発すの由、之を仰せられ、一瓶之を砕く。妾、白湯を出だすに、之を飲み、則ち鎮む。然る後、仰せて云く「博麗大結界なる者を設くるの旨、麟台仰せ出だされ候事、侍書様自り聞き及び候。此郷と山外とを別ち、内外の往返を止め、以て此郷を守り候者なりと云々。盍ぞ曲事たらざるや。此郷、餓し滅ぶも必定なり。麟台の凡愚、桀紂にも勝るか。抑、此郷、妖地に非ず。人妖相支えて成る者にて候。縦い妖、人を食らひ、人、妖を伐すと雖も、妖、人を敬し、人、妖を崇め、郷を守らんが為、相並びて郷に居り候。然者、此くの如き大事を定むるに、乙名に聞かしむる無きは、啻、人を軽んずるに非ず、郷を害すに等し。雖然、麟台、之を承く。何の理有らん。麟台、稗田の裔として、御阿礼子を生ましめば、此里を統ぶ。幻想郷縁起を作す事、人の能く妖を討つを助けんが為なり。則ち麟台、人を守るを以て其の任となす可し。而るに此くの如き振舞、任を軽んず可し。誠に以て然る可からずと云々。妾、尤も然る可しの由、之を申す。福澤氏所著曰く「人は万人同じ位にして生れながら上下の別なし。人の生まるるは天の然らしむるところにて人力に非ず、人々互いに天地の間の造物なればなり」と。妖、又天の然らしむるところ、人に同じ。即ち、人妖共、天地の造物なり。然れば其の権理通義、一厘一毛の軽重無し。福澤氏、之を称して「レシプロシチ」「エクウヲリチ」となし、最も干要なりと曰う。然る如くんば、大妖、郷を進止する事、理無く、人妖等しく申し談じ、以て郷の掟を定むる可き由、之を存ずる間、此郷に於いても特だ妖のみ政を行う可からず、万機公論に決す可し。然るの上は、急ぎ有徳の乙名衆と申し談じ、結界有る可からずの旨、相定めて八雲・麟台に訴え申す可し。
 伊治恒殿、同じく結界に同意せず、御亭、書を致して伊治と結ぶ可きの由を存ずれば、薄暮、御亭の命に依りて伊治亭に向う。恒殿、外内に之くの間、御亭の状を家人に渡し、軈て辞す。
 亭を出でて後、一童女に相逢う。宵闇之妖と云々(るうみやを号す)。髪金にして瞳紅なり。妖なれどもその力弱にして、大悪をなすに足らず。人を襲ふの体無ければ、暫し同行す。結界の如何を問うに、ただ興覚むるの由、之を答ふ。妾、徒に内外の流れを止むるは、世の理に反ずる旨を言へば、さにあらむと頷く。蓋し彼の女、また結界を厭ふ者なる歟。
 然る後、彼童女を家に入れ、夕餉を共にす。家人、一時驚くと雖も、彼の様を見て忽ちに鎮む。また我が里を談ず。興あり。
 亥刻、るうみや帰らる。然るが如き弱妖、尤も守る可きなり。彼の妖の遊ぶ郷、我らの為す可き郷に候なり。

『弥主記』慶應二十一年二月三日条

 晴れ。昼、麟台亭へ参り、麟台・朝倉・万里小路と申し談ず。結界の事なり。伊治・侍書・霧雨、結界を止めらる可きの旨訴え申すの由、之を聞き及ぶ。仍って麟台、書を彼の三人へ下し了んぬと云々。其の趣、今世、妖を排さんと欲す者、多く以て候ふて、将に人妖之和乱れんとす。是、外従り蕃書入り候て、理のみを重んじるが故なり。而るに郷、人妖相共に在りて以て楽園たれば、蕃書を斥く可く、仍って結界を儲くる可きなり、てへり。而るに三氏の体、孰れも同意有る無し。却って申す可きの由、之在るを称し、麟台に訴ふと云々。全く以て其の意を察す可からず。彼の輩、或いは基教の優を述べ、或いは妖怪の非を顕し、以て郷人の智、劣するを云ひ、其の蒙を啓く可きの旨を論ず。蓋し、郷人の西論に傾く事、世に弘むれば、また無為方と雖も、郷を導く可き乙名衆の之を論ずは、甚だ謂れ無き者歟。霧雨・侍書・伊治、郷を導くに非ず、将に郷を砕かんと欲す。言語道断なり。
 殊、霧雨に於いては、泉の養女(名、みまと号す)、頻りに西蕃の説を講じ、結界置く可からざる由、申すと云々。彼の女、才有りと申すと雖も、非説を奉ずは何の所以か。然れ共、女なるを以て郷を述ぶる勿れを申す者、之有り。然る可からず。抑も、郷を論ずるを止む可からず。結界の儀に於いては、論ずる暇有らざれば、此くの如く議せず(伝聞す。去る年、各所に於いて民挙有り、妖同意し闘ふも、悉く政府の軍鎮圧すと云々。政府、妖を許さざれば、不日郷の蹂躙せらる可き歟。)。而るに本自り郷、乙名の合議にて治め候へば、議を止むるは、郷に背く可し。此郷、独り人妖之和のみに非ず、人互いの和、之を要とす。
 麟台亭より帰り来るの間、宵闇之妖に逢う。我を喰らわんと擬すを怖るれば、撃たんと欲するに、彼の娘、ただ飢うるの旨、之を申す。害する事を見ざれば、童女餓す事を見るも忍び難し。妖、又郷の員たれば、助けざるに非ず。しかのみならず、我等分家に候共、稗田たれば、妖を識る事、重事なり。仍って亭に迎え、食を出だす。時に、郷の結界儲くるの由問うに、然らざる旨之を答ふと雖も、若し結界有らざれば、滅ぶ妖また寡なきに非ざると云々。此の妖、郷を能く知る者か。夜に入りて、宵闇之妖、亭を出づ。郷を守る可きの由、申し伝へられ畢んぬ。

「伊治恒麻呂宛みま書状」 『伊治家文書』四五三九号

 人里一事、我ら方へ与し候て、祝着に存じ候。成り候事、已に聞き及び候歟。我ら、侍書方と談じ候て、昨日、稗田・小路を抑へ申し候て、麟台・主書已下、結界沙汰有る可き由、之を仰すの輩、悉く、伊治へ籠め置き候。先づ再度の衆議有る可きの由、侍書様方と申し談じ候て、伊治様方の意を聞き度候。今度此儀、ただ人の為すに非ず、妖有りて以て成り候。先日触れらるる如く、大妖風見殿、結界沙汰有る可からざるの由、仰せ候へば、彼方とも談じ候て、助力を憑み候。妖の結界沙汰に反する者、寡きに非ず、多く以て風見方に集い候。風見方と盟し候へば、人妖相共に結界有る可からざる由、申すの旨、之を示す。郷、人妖両輪を以て動き候へば、人妖ともに結界許容有る可からざれば、抑々、郷に於いて結界有る可からず。而るに妖を容れず、之を斥け候は、理非ず。万物に人の貴賎無ければ、人妖もまた貴賎無し。然れば、結界沙汰に抗するの妖、又我らの敵に非ず、御方たり。風見殿、人妖の差有りと雖も、其の趣、我らと別無く候歟。彼者、八雲に等しきの力を持つと云々。八雲の儀、殊に恠しき儀を用い候へば、風見殿の如き者、我らの御方たるは、何ぞ結構たらざらんや。伊治様方に於いても、宜しく承知すべく候はば、重畳無極に候と云々。仍って状件の如し。
明治十八年二月九日みま(印) 
つねまろさまへ 

『主弥記』慶應廿一年二月十二日条

 晴れ。霧雨より使い立ち候て、申して云く、主書昨夕卒せしむと云々。我、周章絶句す。其の因、尋ぬるも定かならず。事有りと申すのみ。主書様、御悩有るを聞かず、今卒のみを聞く。甚だ不審。抑も、霧雨・侍書の輩、先日有徳の乙名を伊治へ押し籠め、其の権を簒す。件の輩の申状に云く、結界有る可からざる条、之を申すと雖も、議無し。然者、議さんが為、此くの如き儀、之有り。然りと雖も、乙名を軽んずるに非ず。ただ諌めを申す所なり。我等、郷を守らんと願ひ候へば、貴方も馳走願いたく候者なり、と。主書の卒、其の後出来す。
夕に入りて、下人一人入りて、之を報ず。其の旨、主書、生涯せらると云々。侍書家人、兼ねて主書遺恨候ふを称し、其の身を弑し申さる。下人また害せらると雖も、藍甕に入り候て、身を安んずと云々。不便々々。言語道断の条に候。彼の仁、郷の安寧のため、種々の労を払うに、此くの如き様、何の因有らんや。凡そ叛の族、主書の聞かざるを咎め候て、生涯する者か。彼の族等、もとより不義の悪党に候と雖も、又郷を守り候がため、此くの如きの儀を為さば、其の蛮挙も有る可し。而るに、乙名を生涯し奉るは、唯郷を乱すのみ。彼の者等、郷を守らんがため、結界然る可からざるの旨を申し候共、結句、自由乱妨の儀を為し、郷を荒蕪せしむ者なり。
同じく下人申す旨に曰く、霧雨の族ら、外より種子島の類を揃え候と云々。先の戊辰の戦に於いて、諸侯競いて洋銃を買得す。其の後、薩長日の本を統べ候に付き、其の銃、多く薩長之を取ると雖も、隠匿せらる所、少なきに非ず。霧雨、此くの如き銃、財を以て郷中に運ぶ歟。然れば、人に候へ共、能く妖に対す。之に依りて、郷の妖、悉く滅し候て、郷をして人の里になさんと欲す可き歟。不可説なり。 然る後、霧雨方より一行来らしむ。その状に云く、主書の事、手を尽くし候間、無念至極に存じ候。主書家疎略に致す可からずと云々。何をか言わんや。状、信ずること能はず。偽言を以て伝ふる事、主書生涯の証に他ならず。言語道断、何ぞ不義これに如く者有らんや。

『霖女抄』明治十八年二月十六日条

晴れ。未明風見方自り、注進有り。八雲亭攻め落とさる可き由、之を仰す。博麗神社、落とされ已に了んぬ。併せて郷の要、悉く掌中に収むるの由、誠に以て重畳。  里の儀、漸く分明なり。八雲方人里を凌轢せしめ、小路以下四村、荒蕪たり。主書・朝倉・小路、何れも逃去せしむ。定めて八雲方へ出づるか。然る可からず。銃に於いては、過半を失うと雖も、奇環砲を失わざるは、福を禍中に拾うか。仍って伊治に退けども、降る可からず。然れば、銃薬を運び入るること、干要に候。時に、伊治より樒沢を上り候て、ダキ口より国向に出ずる道、伊治殿仰せ候。峻険たると雖も、越えざる可からざれば、天、我等方を助くか。急度庄内口・北上口に申し候て、種々の具を送らしむ可し。  此くの如くんば、里、伊治に籠めらると雖も、八雲衰勢たるは必定にて、我らの勝ちも軈て定まり候。然らば、乙名互いに申し談じ、一揆し事に当たる可きなり。然るに、伊治・侍書等、妖を斥けんと欲し、妖悉く滅す可きの由、之を申す。妖の御方候て、結界に同意するの輩、同じく殺害せらる可きの由、申せらる。以って外の事なり。先日、既に伊治に於いて、前侍書、生涯せしめ候も、其の輩の為す所なり。然る可からざる由、伝えらると雖も、彼の者、乱妨に及ぶは、郷を衰滅せしむものなり。仍って、今日、厳密に尋ね沙汰致し候て、下手を追捕せられ、厳科に処せらる可き由、御亭に申す。

八雲藍宛下稗田弥右書状案」 『下稗田家文書』に函二四二号

 今度、人里落居せしむの儀、重畳に候。乙名、全く滅し候はんを擬すの処、八雲様以下妖の方々、抜群の戦功有るに依りて、漸く命を長らえ候へば、彼の恩忘れ難く候。乙名同心し、一層の馳走を致す可く存じ候。 賊徒みまの儀、籠居せしめ候由、伊治臣方より注進せらる。其の状に云く、みま、我等方に返忠致すを庶幾し候て、徒に妖と語らい、遂に泉已下の族を殺害せしめんと欲し、潜かにミニエ等洋銃を買得せられ候間、主書等、之に先んじて入るる所の具を収め候て、みまを玄武口の茅屋に籠め置き候処なりと云々。然るに、我ら方とみまと信を通ずる事無し。蓋し、賊徒已に内に争い、党派を分かち候歟。抑も、族、思慮せざれば妖を斥けんと望み、此くの如き悪事を行う。しかのみならず其の悪を里衆に勧め、武を以て郷を揺るがし、衆を安んずる所を破り候なり。何の故有りて安堵の志を得んや。此くの如き至愚に候ては、彼我を分かつこと能わず、猜疑を拭う可からず、敵を内に創りて相争う者にて候へば、其の衆、烏合に候。然る族、退治し候はずば、決して里の滅、郷の亡を招き候。
山方、八雲方に与同せしむ由、已に聞き及び候。目出度儀に存じ候。天狗の数、数百に及び候はば、心強く候。殊に天魔事、妖力を言うに及ばず、其の智に候ても、他を抽んずる由、聞き及び候ては、八雲様方の勢、益々弘通す可く候也。
此等の旨、急度披露せらる可く候はば、忠勤に励む可く候者なり。恐々謹言。
二月 日主書(花押) 
八雲藍殿 御宿所 

『霖女抄』明治十八年二月二十七日

 晩雨惨烈。暁天自り、霧雨に於いて妖怪共合戦有り。風見方、博麗社を出で、八雲方を急襲す。八雲方、之に備ふるの間、崩れ無く、相戦はば、烈戦数刻に及ぶ。我等、伊治に籠り候間、上に下れば則ち、稗田已下の族、応じ候て、合戦に及び候。我等方、寡勢に候共、洋銃砲等、敵に優り候に於いては、決して利無きに非ず。賊徒を誅し候事、\ruby{勝}{あ}げて計ふ可からず。然りと雖も、賊徒死を顧みざれば、遂に上を放つこと能わず。若しダキより届き候武具有らば、砕く事も得候か。無念に候なり。黄昏、天魔方、山を下りて風見方を責む。天狗、百に及び候者なれば、労有るの輩、支うること能わず、遂に以て敗績す。誠に口惜しかる可し。
此くの如き儀候に、泉・伊治・侍書等の輩、又妖を排せしむの由、仰せらる。「明六に曰く、『妖則ち人の蒙昧の姿を現す者に候はば、受ける可からず』。妖を滅し候て初めて以て開化に到るの間、結界の賛否を論ぜず、等しく妖を討ち、以て郷を安んず可し」と云々。彼の人等の愚、考え無きより悪し。まさに、小人閑居の至りに候也。何の利有らん。これを為す事は、賊徒の利を成す事に候て、我等方をして破れしむる事に候。しかのみならず、件の輩、妾を害せしむの旨、談じ候。妾、妖に与するは、賊徒、銭を送りて与同せしめ、内従り崩し候て以て結界沙汰せしめ候はんが故なりの旨、之を号し候間、御亭、之に頷き候て、斬刑に処す可き旨、仰すと云々。御亭すら此くの如き状、況や侍書・伊治の輩をや。
然るが如くんば、既に此の郷を済う事、内に依りては成り難く候間、外を以て呵成の開化を成す可し。則ち薩長の吏を招き候て、理に背くの賊を掃除せしめ、或いは尽く誅戮せしめ、理有る者を救い、皇国の一辺土として、然る可き沙汰を求め候事こそ、郷を護持せしむる法なり。然らば、人妖共に安堵を得、郷の寧謐有る可し。
戌刻、室外に影有り。刺客至るかの由、案ずると雖も、是人に非ず。金髪紅瞳の幼妖、るうみやなり。一食の恩有るの間、助く可きの由申せらる。仍って、一書を郡衙に出だす可きの旨、之を憑み申す。

「稗田礼音宛下稗田弥右書状」 『幻想郷縁起』求聞史紀別記所引

今度賊徒崩れ立ち候こと、重畳に候。此くの如き儀、諸神諸仏の致す処、其の意、我等方に与す可き由に候者なり。賊徒の行、神仏を畏れず、徒に郷を乱し、有徳の人妖を害し候へば、滅亡し候も必定に候。天網恢々、縦へ一朝事成り候様、現ると雖も、必ず応報有りて亡ぶ可きものに候。今事の賊徒、然るが如きものなり。
賊徒共、伊治に押し籠め候儀、承り候。二分し候と雖も、みま儀・乙名儀共未だ戮せざる事、聞き及び候間、族の永らえるは何の神慮有る可し。彼の族、郷の乙名に候て、下品に候はずと雖も、郷に叛すの重科、之に如くは無し。然る間、族共、斬罪に処し候て、以て郷を安寧せしむる事、結界沙汰においても肝要に候。彼の者共、結界沙汰に反せらるは、偏に自らの利を追うが故なり。霧雨泉とみまと謀りて、霧雨の村を収め、主書家を滅ぼさんと欲する間、前主書を討ち候。結界沙汰に肯ぜざるに於いては、郷外の領財に眩み、郷の興廃を論ぜざる間、彼等、郷の害に候て、一の益も無し。
先日、宵闇の幼妖に相逢ひ候の処、申して云く「此くの如き儀、成し候事、重畳なり。人妖相共に安堵せしむる郷を成す候は肝要に候。害除く可し」と云々。尤も然る可し。然る儀に於いては、勝手の儀を行う族を排せしむる事要なり。今に至りて、徒らに慈を言うは、郷を守るに非ず。神仏の意にも非ず候哉。重ねて、彼の者共、梟首せらる可く候状、申し上げ候。仍って状、件の如し。
如月丗日主書(花押) 
麟台さま 

『霖女抄』三月一日条所引「霧雨宛稗田礼音条々覚」

\ruby{陰}{くも}り。稗田より条々至り候。其の状に曰く、

 一、干戈収め候て、喧嘩闘諍の類、全く停止す可く候事。
 一、結界の儀、二論無く同意す可く候事。
 一、霧雨村の儀、主書家を以て肝煎と為す可く候事。
 一、主書家、決して霧雨家を疎略に致す可からず候事。
 一、伊治・侍書・霧雨、郷に入れ候銃等兵具、尽く打ち捨て候事。
 一、伊上霧三家儀、家督を安堵し候事。
 一、郷荒亡を復さんがため、三家、銭を出だす可く候事(算状別に有り)。
右件の状、乙名申し談じ候て定め候者なり。若し違背する輩有らば、必ず厳科に処す可く候。
 礼音(在判) 

 此の条、御亭受く可き由、仰せらると云々。烏滸なり。結界成り候ては、郷の安寧を得ること能わず。結界を成さざること尤も肝要なり。然れ共、我等方、既に破れ候て独り抗するに及ばず。然りと雖も、先日送り候状、既に東都に届き候か。遠からず使い参る可き間、結句結界の儀、沙汰参らせず候間、今に於いては永らえ候て、薩長の兵を待ち、悉く以て敵を討たしめ、以て郷を安寧ならしむること肝要に候歟。天地も照覧有る可し。妾、決して不明の乙名、全く平らげ、郷をして然る可き状になさんや。

「乙名衆宛八雲藍奉書写」 『八雲家文書』二五六七三号

 稗田村一事の儀、如何なされ候か。先日書札披見せしめ候処也。其の趣、侍書・伊治・霧雨、謀叛を企て候故、稗田村に於いて誅殺せしめ候。然れども家断絶も忍びなく候間、三家新たに家督を立つ可しと云々。事実に候や。三家、先々叛を企つと雖も、已に和を結び候処なり。また、紫様以下、妖怪も其の内を窺い候て、然る可からざる儀の有るや否やを知り候者なり。謀叛の儀、疑ひ候は何の所以か。我方に申されたく存じ候。また、紫様の聞き及び候所に曰く、三家の者、謀殺せらると云々。和議の宴をなすと申し候て、乙名一所に集め候処、三家より収める所の銃を用い候て、三家当主撃ち倒し候。其の上、未だ聞かざるの家、襲い候て、老若男女を問わず、悉く生涯せられ候。殊、霧雨家に於いては、奇環砲を用い候て、人型とて残るまじく候程、撃ち据え候由、聞き及び候。しかのみならず、逃去し候輩、刈平口に於いて戮せられ、剰え、屍に於いては弔い無く打ち捨て候(みま、亦逃れ候と雖も、刈平にて撃たれ候て、儚く成給い候間、金髪の幼妖、之を喰はんが為、分かち候処、里人聞かれ候と云々)由、伝聞せられ候。先日霧雨亭に参り候処、跡無く打崩れ候。此の儀、事実者甚だ然る可からず。乙名七家、互ひに合力し候て、成り候処なり。徒らに武威を以て家を滅ぼすは、郷の利有る可からず。況や、和を号し、三家を謀りて、安堵を得させ候上、慈悲の心無く、鏖殺し候事、何の理有らんや。
 此くの如き条に於いては、三家滅ぼす可からざる由、存知す可く候。然る可き人を家督に据え候て、決して疎略に致さず、元の如く扱い候事こそ、郷の永続の重事なり。此の儀、堅く守らるる可く候。猶子細、直書を以て申す可く候。仍って執達件の如し。
弥生五日八雲藍(花押) 
乙名衆 御中 

『万里小路連房日記』明治十八年七月七日条・八日条

 七日、終日雨降る。先月自り雨、一旬に及ぶ。この間、霖雨止まざるは、例無き事に候なり。既に暑気を迎ふる季と雖も、今年に於いては冷え候て、未だ火鉢を納むること能わず。稲実らざる由、村衆申し候て、公事減免を訴ふるの人あり。然る如くんば、今秋、凶作たるは必定なり。飢餓、里に及び候事、殆ど定まり候においては、今冬、衆、飢凍に計会する事、逃れ難し。外より米を買うこと能わず、八雲方に申して現米、扶持を憑む可く候。或る人曰く、此の凶作、先の三家討滅の祟りに候か。彼の人々、謀叛を企て候つるに、討たれ候共、今に祟るは、道理無きものか。因りて明日、乙名集いて申し談ずる事有り。

 八日、烈雨続く。申刻、朝倉亭に罷り向う。今日の儀、朝倉家、行事たるに依るなり。伊治殿、諸事有りて来らざる旨、先々報ぜらる。今に於いて、未だ一門を抑えず、村を離るること能わず候か。伊治、結界沙汰已前自り二分し候ては、家督定まり候共、輒く安んず可からず候。同じく、主書来らざると雖も、報無しと云々。怪しきことに存じ候間、使いを参らしむ。
黄昏比、使い還りて申して曰く、大事候、霧雨村に到る可しと云々。仍って、霧雨村主書亭に赴くの間、主書迎え無く候て、下人に問うの処、主書、床に着くの由、申し候。昼、土蔵に入り候処、則ち倒ると云々。主書、病む事無く候へば、怪しむ可き由、之を伝ふるの処、先づ土蔵に入る可き由、之を申す。然れば、朝倉と土蔵に入らんと欲すの間、下人開くを擬すも戸閉じて開くこと能わず。鍵無きと雖も、堅く閉ざすの間、不可思議に候ものなり。其の上、予、開かんが為、戸を触り候処、忽ちに開く。何事なるか。
予入るるに、突然として壁書現る。一行々々現るるは、常事に非ず。是、血を以て書され候ものなり。其の字、決して主書に非ず。女手に候事申し候に、朝倉、是みまの字に似るの旨、之を仰せらる。尤もに候。その状に曰く

 我、偏に郷の安寧を望み、挙に及ぶ。
 其の志、汝等の志に同じうす。
 然るに、謀殺するは何の謂ぞ。
 此くの如き郷、我が望みに非ず。
 願わくば、我魔道に堕ち、汝らを亡ぼさんと。
 人屍積む可し。妖怪滅す可し。
 汝等死す可し。郷荒涼たる可し……

此の後、暫時壁書増え候へ共、呪詛に候間、書き写すこと能わず。畏る可し畏る可し。言語をなす可からず。
予と朝倉と、身を震わせ出で候処、使い走り来たりて申す事有り。博麗の巫女、突如吐血し頓死すと云々。予、絶句す。是、郷開闢已来、前代未聞、曽て無き事なり。巫女、若年に候て、死に遠き事、何も如かずと覚え候へば、是の儀出来、驚き入るの外、之無し。
凡そ今度の儀、全てみま、怨霊となりて起こし候ものか。初め、彼女英邁を知られ、霧雨・郷を差配せらる可き由、風聞せらると雖も、今においては、怨霊たりて郷を滅ぼさんことを願い、夏を去らしめ、巫女を害し、血書を乙名に投ず。若し、結界沙汰無くば、有徳の乙名として名を残し候処、此の儀に相成り候は、彼の仁のなすに非ず。悲しむ可し悲しむ可し。説く可からず、説く可からず。

参考文献

 以下は参考文献である。主に言語関係を中心にいろいろあるのが、とりあえず挙げておく。
西田龍雄『西夏語の研究』
『晶竝門』10000条(西夏語)に利用。西夏語については、自分で作文したため、これに必須だった。本書は、西夏語を初めて解読した西田龍雄による論文集であり、西夏語の基本文法について書かれている。
西夏に関するページ
『晶竝門』10000条の西夏文字フォントはこちらからお借りしている。またここの文字辞典にはお世話になった。
Babelstone Tangut
ここのTangutの英西夏辞書もかなり役立った。
森鴎外「元号考」(『森鴎外全集』20巻)
元号を捏造するには、ちょうどいい本である。元号決定の際の候補が、出典とともに記されている。
台湾中央研究院 漢籍全文資料庫
十三経や二十四史が、注・疏・校勘記含めて全文検索可能なデータベース。論語やその注釈などはこれを頼った。タダでものすごい量の史料を見れるすごいところ。
福沢諭吉『学問のすゝめ』
一般向けに諭吉が書いた、勉強のすすめ。今回は岩波文庫を利用。
塚本晃久「ニアウフォッオウ語のテキスト I」(柴田紀男・塩谷亨編 『環南太平洋の言語』)
『晶竝門』11253条(ニアウフォッオウ語)に利用。対訳のため、ちょうどいい日本語を探して、それに対応する文を持ってくるだけである。ニアウフォッオウ語は、トンガのニアウフォッオウ島で用いられる言語。
風間伸次郎採録・訳注『ネギダール語テキストと文法概説』
『晶竝門』13329条(ネギダール語)に利用。ネギダール語は、アムール川沿岸に居住するネギダールの人々の言葉。ツングース諸語。2002年段階で話者147人という。対訳を利用。
ばべるばいぶる
『晶竝門』13854条・14423条に利用。日本語訳のみならず、多くの言語訳を対照しながら見ることができる。聖書は、節ごとに番号が振られているので、日本語と他言語とを対照させるのが非常に楽である。
Coptic Bible
『晶竝門』13854条(コプト語)で利用。エジプトに残存するキリスト教コプト派によって用いられるコプト語訳の聖書。コプト語は古代エジプト語の末裔であり、現在も数百名が利用している。
TeX Copticパッケージ
TeXでコプト文字を出力するためのパッケージ。Coptic Bibleで用いられるフォントと、ASCII字の対応が異なるためうまく置換することが必要。
『明六雑誌』
明治六年に森有礼らによって結成された、明六社の雑誌。近代思想についていろいろ書かれている。明確に本文を引かなかったが、岩波文庫をなんとなく参照。
Asna.ca: Alaskan Orthodox texts
『晶竝門』14423条(アレウト語)で利用。アレウト語訳の新約聖書がフリーのPDFで見ることができる。ただし、アレウト語はキリル文字で記されている。アレウト語は、アリューシャン列島などに居住するアレウト族によって話される言語。現在話者数150人ほど。
TeXでの古代教会スラヴ語の利用について
『晶竝門』14423条で利用。教会スラヴ文字をTeXで出力するパッケージ。教会スラヴ文字は、キリル文字のより古い時代に用いられたフォントである。
Wikiquote 孔子 アラビア語版
『晶竝門』15698条(アラビア語)で利用。これをGoogle翻訳で英訳すると、意味は取れるくらいに訳せるので、これを論語本文と対照して、日本語に訳した。
ArabTeX User's Guide日本語版
『晶竝門』15698条で利用。ArabTeXはアラビア文字をTeXで出力するためのパッケージ。アラビア語環境がなくても、ASCII文字での入力が可能。
田村すず子編『アイヌ語沙流方言の音声資料1』
『晶竝門』17736条(アイヌ語沙流方言)で利用。これも対訳であるために、日本語を探して適宜対応する文章を引いてくるだけである。
Wikiquote ハイゼンベルク 独語版
『晶竝門』19873条(ドイツ語)で利用。ここにある文章を、グーグル翻訳へ叩きこんで英語に変換するとだいたいの意味が取れるので、それを用いて利用した。
色川大吉『明治精神史 上・下』岩波現代文庫
明治時代の思想史について書いたもの。明治という時代に、どのような思想が流れていたのかということを知ることができる名著。
E・H・ノーマン『日本における近代国家の成立』岩波文庫
日本がどのようにして近代化していったかということを、社会的背景も含めて著述した本。明治を考える上で非常に面白い。


 ざっとこんなものである。半分、言語的なネタばらしの意味が強いので、並べてみただけだ。